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十数年かけて見つけたのがそれかい?

見た目とは裏腹にフライパンのように暑い砂浜。
色褪せたキャラクターサンダルを置いて、幼い素足を浜に二つのせてみる。これくらいの熱さなら大丈夫かな?と思い潮風に向かって歩いていく。とき、すでに遅し。
ガラス玉のように熱された砂粒が、一歩進むごとにじわじわと足裏に侵入してくる。気づいた時には浜のど真ん中、引き返すも進むも一緒だ。
ええい!ままよ!と波打ち際めがめて、その潔さとは似ても似つかないぴょこぴょこ歩きで私は逞しく惨めに突き進むのだ。


リモートワークの推奨もなくなり、満員電車は歓迎しない客のようにズケズケと私たちの生活に入り込んできた。
東京の夏はあまりにも狭い。東京を責めているわけではなく、そう感じるのだ。電車を降りて道を歩けば、大型トラックのゴムタイヤがゴウゴウとアスファルトと擦れ合う。どこかから聞こえてくる工事の騒音が、頭蓋骨を採掘するようにしつこくノックする。
驚いたのは夜だ。雲の淵をなぞるようなブラウンをベースにした虹色の光はこの街にはなく、雲全体を新宿という街が照らしている。
植物を育てる水のように、ビルの根本には湿度が立ち込め、見上げると私を閉じ込めるように放射状にビルが密集している。湿度のせいか狭さのせいか、はたまた刺し溶かす暑さのせいなのか、息を吸っても吸っても苦しい。世界堂のビニール袋のプラ素材の取っ手が、第二関節から指を切り落とさんとばかりに重い。しかしそれよりもこの不快な暑さだ。

絵描きになる。
たったひとつの夢だけ握りしめてこの街にきたはずだった。この街にくれば誰かが私を引き上げてくれると思った。
それはとても頼り甲斐のある確かなものとして、この手のひらの中にあったように思う。それは若さと呼ばれるものによる、補償のない核心だったのかもしれない。もちろん努力もしたし、恥もたくさんかいてきた。搾取も利用もされたと思う。
私が悔やむことがあるとするならば、そういうふうに利用されてしまったことではない。そうではなく、悔やむべきは、その全てにおいて私の力の入れ方と抜き方が全体的にどこかズレていたことだ。努力の方向性も、恥のかき方も、上手な搾取と利用のされ方も、出来ていなかった。

チャンスを掴む人というのは差し伸ばされた手を一瞬の判断で握ることができる人なのだと思う。
自意識がどこまでも高いくせに、いざ人前に立つと一切の自信がなくなってしまう私は、自分なんかが…と差し伸ばされた手をうまく掴むことが出来ていなかった。もちろんその中には掴むべきでない手もあっただろう。しかしそれは結果論であり、その時の私に瞬時の判断が出来ていたわけではない。そんな消極的なやり方では、一歩抜きん出るどころか、前にすら進めないのだ。
何かチャンスがあったときに、誰かに”そういえばああいう人がいたな”と気が付いてもらう為には…”あの人はどうかな”と思い出してもらえるようになるには…二番手三番手ではダメなのだ。一番最初に思い浮かべてもらわなければ、誰かが握らなかった手が、遅れて私に差し出されるにすぎないのだ。
必ずではないけれど、誰かが握らなかった手にはそれなりの曰くや事情があることが多い。もちろん結果うまく行くこともある。しかしその手が、棚からぼたもちかどうかに、人生やスタンスを賭けてはならない。ずいぶん抽象的な言い方になってしまったけれど。

目標はと聞かれたら、それなりにそれなりのことを言ってきたと思う。その全てにおいて、それなりに嘘はない。今、明確なった「身近な人に、絵描きとして一番に思い出してもらえる人になる」という、この脆くささやかで、見落とされがちな目標を、胸の中に忍ばせておこうと思う。
十数年活動してきて見つけたことがそれかい?と思ってしまう自分には、黙ってくれよと、そっと、その口を塞いで。


色褪せたサンダルを適当に引っ掛けて、私は玄関を飛び出す。
魚工場を分断するようにしてある2メートル幅の階段を降りると、魚のアンモニア臭を潮風が吹き飛ばしていく。
瑞々しい空、海の煌めき、絹の砂浜、その三色パターンが私の視界のどこまでも平行に伸び広がっている。

サンダルを置いて、素足を二つのせてみて、これくらいの熱さなら大丈夫かな?と思い、潮風に向かって歩いていく。
ガラス玉のように熱された砂粒が、一歩進むごとにじわじわと足裏に侵入してくる。
気づいた時には浜のど真ん中、引き返すも進むも一緒だ。
ええい!ままよ!と波打ち際めがめて、その潔い意気とは似ても似つかないぴょこぴょこ歩きで私は今、逞しく惨めに突き進むのだ。
あの頃と違って、足の裏の皮だって大分厚くなったんだぞ!




その胸オレに貸してくれ 第11回 十数年かけて見つけたのがそれかい?

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