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ドロップアウトって、終わったやつ、みたいに使われるけど、ほんとは、幸せの始まり。

世の中に、なにか共通認識のようなものがあり、
その共通認識の枠の外に外れる人を強烈に揶揄する言葉、ドロップアウト。

私は
社会とまじれない、ドロップアウト。
人と仲良くすることができない、ドロップアウト。
社会的弱者と呼ばれて、ドロップアウト。
働きたくない、ドロップアウト。
精神を壊してしまって、働けなくなった、ドロップアウト。

大多数が共有してるようにみえる正解と考えられる通り道がそこにあって、その道から外れたものを揶揄するように使われる言葉。

一言で、強烈なパンチ力をもつこの言葉を
避ける為に必死に大勢が通る道にしがみつく。

僕自身ずっとそうだった。
周りから仲間外れにされないように、はぐれないように、蔑まれないように常にその道を必死に歩いてきた。

物心ついたころには、もうその道を歩いていた。
歩きたいというより、歩かなきゃいけない。
大きな恐怖によって、その道を歩かされていた。

そんな恐怖心によって歩かされているものだから、途中で足を挫いたり、怪我をしたりする。それなのに遅れをとりたくないから、休憩もせず、痛みを我慢して、また歩き続ける。そして、それを繰り返していくうちに、もう無理して歩けない足になる。強制ストップ。どう足掻いても、無理しても、歩けない。そんな状態が訪れることになる。

そんな状態になった時、
不安と恐怖と自己否定がフルコンボで襲ってくる。
歩けない、止まった状態でいる自分では、居ても立っても居られなくなる。早く戻らないと、早く追いつかないと、僕ははぐれてしまう、取り残されてしまう、ドロップアウトすることになる。また、同じ道に戻らないと大変なことになるってね。

そんな状態が長く続いて、無理に戻ろうとするけど、また戻ってもすぐにストップ。

もう僕は終わった。
もう元の道には、戻れない。もう戻ったとしても、とても追いつけない距離開いてしまっているし、そんなことより、足がもう前みたいな速度では、歩けない。

大勢の通る道への復帰の道は、完全に閉ざされてしまった。

完全にドロップアウト。
ドロップアウトの当事者に自分がなるなんて、考えてもいなかった。もう終わりだ、もう死んでしまいたい。

そんなふうに思い始め、いじけて、
止まったまま死んだように小さくうずくまる。

長いこと止まったまま、うずくまっていた。
気づいたら、相当時間がたっている。

ずーっとずーっとうずくまってると、
あるときうずくまってることに、心底飽きてくる。これ以上うずくまることをしたくなくなる日がやってくる。
そして、諦めがつくようなる。大勢の人が通っていた道に対する諦め。

気づいたら、足が治っている。
長い腐ってた時間が足を本当の意味で休ませていたのだ。

そうしてるうちに、
ふとただ歩きたくなることが起きてくる。なんか歩きたくなってくる。
前みたいに決められた道ではなくて、自分がそのとき自由に歩きたいように歩きはじめるがおきる。
全部自分のリズムで。疲れたときに止まって、歩きたいときに歩いて、ある方向に進んで、また戻って。そんなふうに歩きはじめる。
今までこんなふうに歩いてきたことは、全くなかった。はじめての感覚、感情。
歩くことがこんなに楽しかったのかと。

楽しく疲れ、また楽しく疲れ、自分のリズムで歩いていると、
あちこちを色んな足跡、いろんな轍で
自分独自の道ができていることに気づく。

他の人とは全く違う自分だけの道。
そんな道をみたときに、心の底から喜びが溢れはじめる。 ああ、これが本当の道だったのか。

あのまま、ドロップアウトしてなければ
僕は楽しく歩くことが死ぬまでわからなかった。

あの時ドロップアウトしたから、
色んな出来事や出会いに遭遇できた。

あんな風にドロップアウトしたから、
道からはぐれることが怖くなくなった。

ドロップアウトのお陰で、
人を比べ、上下にみることがなくなり、どんな人にも優しくできるようになった。

道から外れた時
そのようには全く思えなかったが、
ドロップアウトは、幸せの道だった。
あとから振り返るとそれは、幸福の道への始まりだった。

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