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セミ

 昨年10月に、新潮社様より「ぎょらん」という小説を出させて頂いた。
 葬儀社に勤めていたときに、『遺すひと遺されるひと』、『生き死に』『生き方』などについて考えることが多々あって、いつかお話にしてみようとメモをとっていたのだが、それが形になった。しかし、わたしにはまだ早すぎるテーマだったと正直感じている。もっと力がついたころにまた触れてみたい。もしかしたら、一生をかけて追うものなのかもしれないなあと、最近は思う。


 さて、わたしの住んでいるところは、福岡県の片隅の田舎である。窓を開ければ一面田んぼだし、そこいらにクワガタとかカブトムシとかが普通にいる場所だ。いまの季節は、庭先の壁に毎日のようにセミの抜け殻を発見する。天気のよい朝に脱皮シーンを運よく目撃できるとちょっと嬉しい。地上に出て最初に目にするのがぴかぴかした太陽でよかったね! と思ってしまう。雨だとちょっと悲しい。おろしたての羽が濡れちゃうじゃないか。
 そういえばセミは地上に出ても一ヶ月ほど生きると発見した高校生がいたけれど、あの子のお蔭で、セミを見かけるたびに感じていた焦りが少しだけ減った。一ヶ月が長いかと言われたら首を傾げるけれど、七日間よりは時間に追われている感が少ない。わたしは焦ると視界が狭くなる人間なので、自身をセミに投影すると、焦るだけで死んでしまう一生しかないだろうと思っていたのだ。一ヶ月あれば、まあなんとか。なんとかってなに?
 毎日のように増えていく抜け殻を見るのは楽しみなのだが、先日の夕暮れ、胸がきゅうとなるものが壁の端にいた。
 脱皮の途中で力尽きたセミ。長く田舎に住んでいるけれど、こんな哀しい姿を見たのは初めてだ。体のどこかに異常があって、息絶えてしまったのだろうか。
 夕日を浴びる姿を眺めながら、この子は朝日をちゃんと見られたかなあと考えた。地上生活の始まりを告げる朝日を、死に瀕した目に映したのだろうか。それとも、見られなかった? なにも、こんなタイミングで死ななくったっていいのに。しかし、当たり前に生き抜ける命なんて、どこにもない。たくさんの奇跡と偶然、運が重なって道になっている。そこを歩むことも大変で、道は途中で穴が開いていたり途切れたりしている。どこで転げ落ちるとも知れないのだ。歩めているこの瞬間の奇跡たるや。なんてことを考えた。
 セミは、そのままにしている。庭先には、夕暮れになるとやわらかな風が通るのだ。せめて、その風にゆっくりと撫でられていて欲しい。

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