損したくないから、疑う—35過ぎて私の思うこと。

 何かの本で「疑うことは知性である」といった文章を読んだことがある。私の疑う姿勢も知性と言っていいのかはわからないけれど、目の前の物事を疑う習慣は、年齢を重ねるにつれて身についていったものだと思う。

 ここでいう「疑う」は「なぜ?」と考え、問いを繰り返すことを指す。わかりやすい例を挙げてみたい。

 なぜ、この政治家は質問に答えないのか。なぜ、どこもかしこも“この情報ばかり”報道するのか。なぜ、どこもかしこも“この手の主張をする人たちばかり”有識者として起用するのか。なぜ、国は“今”緊急事態宣言を出すのか、“このタイミング”でまん延防止等重点措置を解除するのか。なぜ、ワクチン接種を推奨するのか。なぜ、ワクチンに関するこの情報は大々的に報じられないのか。なぜ、“公式”の見解とは異なる意見を発信する者のアカウントが削除されるのか。なぜ、成人年齢が引き下げられたのか。なぜ、極めて重要と考えられる情報をわかりにくい見せ方で表示するのか。なぜ、この商品・サービスに関する言及が、多くのインフルエンサーや一般人から同時期に発せられるのか。などなど、問題の大小や深刻度に関係なく、ランダムに並べてみたけれど、キリがない。

 「なぜ?」の背景には、必ず人がいる。しかも、有力者だ。その人物、その人物が属するチーム、組織がシナリオを書いて、世の中という舞台を監督している。手つかずの自然(nature)とは違って、世の中には不自然(unnatural)な物事が多く、それらには万事、人間が関わっている。人の手、中でも力を持つ者の手が入り込んでいる。

 進んで損をしたい人間など存在しないこと、得したい人間がほとんどであることを前提に、見え透いた嘘をついてまで保身に走る者がいること、富やパワーを手にする代わりにとるべき責任を早々に放棄し、下の者にその責務を押し付けると同時に、表舞台から素早く逃げ去る者が後を絶たないこと——現実世界を生きていると、人間の汚い面に数多く触れる。

 富やパワー、影響力を持たない一般人の自分ですらそうだ。少なくとも、損はしたくない。言い換えると、無意味なことに自分のコストをかけたくない。

 だから何か気になる商品・サービスが出てきたとき、その費用に必要以上の宣伝費が乗っていないかを調べるし、キャンペーンが大規模に展開されているのが確認できたら、それが意味のある内容なのか、単にバラマキ的施策なのかを吟味する。その結果、買うのをやめることも珍しくない。

 世の中には多くの商品・サービスが存在するから、過剰な中間コストがのったそれでなくても、他にも「候補」はたくさんある。

 “無料”の商品・サービスにも懐疑的な姿勢をとる。企画に研究、試作、製造、供給交渉、輸送……さまざまなプロセスにおいて、膨大なコストがかかっているにも関わらず、なぜそれは無料で提供されるのか。誰がそれらのコストを負担することになるのか。そんな事柄は提供を受ける側にとって関心のないことだから、むしろ、関心を持たれて追及されると提供主にとっては厄介だから、報道されることはない。

 そもそも、それがタダでなければ、仮に1回5,000円の費用がかかるならば、多くの人は積極的にそれの提供を求めていただろうか。私のように「タダより高いものはない」思考がベースにあり、「なぜタダなのか」をしつこく考えるタイプは少ないのかもしれないけれど。

 疑うことは、自分の人生を毀損しないあり方につながる。生活のなかで、大きな得を求めはしない代わりに、大小さまざまな損を排除したい私からの「疑うススメ」。

このコラムは最近読んで感銘を受けた『40過ぎてパリジェンヌの思うこと』の日本版を作りたいと思い立って書き始めたシリーズものです。



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