セックスは日常—35過ぎて私の思うこと。
セックスという行為を特別扱いしていた時期がある。ふたりのあいだに当たり前のようにあるべき行為であり、これくらいの頻度ですべきことであると。
だから、予定が変わってそれがなくなったときはがっかりしたし、あるときセックスレスという定義に当てはまる状態になったときは落ち込んで、「どうして」と相手を詰めたし、何度か「話そっか」とアプローチしたら、怯えられ、煙たがられた。悲しみをあらわにし怒りで震えていた20代の私はひどく哀れだった。
相手から「そういう対象に見えなくなってる。ごめん」と言われ、居間にひとり取り残された晩は泣き尽くした。告げられた理由を「あなたには性的魅力がない」と曲解し、惨めさを抱えたまま泣くほかなかった。
一夜明けて、パートナーとのセックスはもうできないと悟り、諦めてからは、それを「外」に求めることになる。「内」で拒否されてるなら仕方ないじゃない、セックスだって外注対象になる、と。
いろいろな人と寝ていると、性的魅力を認められていると錯覚し、えぐり取られた自尊心の傷跡がすこしずつ修復していった。決して褒められたことではないけれど、セラピーのような体験になっていた。
互いの利害が一致して関係を持つに至っただけのケースもあれば、結果的に長くつづくことになった「同志」のようなケースもあったけれど、あのときできた浅くはない傷を元通りにするには、すべてが必要な時間だったと思っている。そのあいだ、愛のかけらもないセックスはその場では刺激的でも振り返るとひどく虚しくなる場合があること、傷ついた者同士が身を寄せ合って互いを求めて癒すようなセックスがあることなんかを知ることもできた。
セックスはもう十分した——意識が変わったのは数を重ねて、そう実感したあとだと思う。当時できたパートナーとのセックスが、自分にとって特別な行為でもなんでもなくなっていた。やってみれば、それは甘い時間といえる感覚はあれど、ふたりが日常的にともにする行為のひとつに過ぎなかった。一緒に食事をとる、何かを観る、出かける。そういう、ふたりだからこそひとりのときの倍以上楽しめる、それでいてかろやかな楽しみの一種。
だから、あってもいいし、なくてもいい。この日、散歩に行ってもいいし、行かなくてもいい、というのと同じ感覚だった。「すべきこと」「週に1回は」といった奇妙な定義づけや思い込みは消えていた。
大好きな人とふたりで心地よさや刺激を味わい、それぞれを慈しみ、相手の温かさや重みを自分の心身を通して感じとる。ただ、それだけの日常的な行為——そうとらえるようになってからは、愛おしいひとりの相手との行為をくりかえし、互いを満たす幸せを実感するようになっていた。
この先も、「いつも」のなかに存在する、特別でもなんでもない、だけど愛ある人とのひとときを重ねていきたいと思っている。