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年齢はただ重ねてきた数字—35過ぎて私の思うこと。

 22歳のとき、36歳の彼と付き合っていた。大学卒業前の自分にとって、14歳年上の男の人はあらゆる点で余裕に満ちた大人に感じられて、恋愛相手は絶対に年上がいいと改めて強く思ったのを覚えている。

 ひとりで会社を経営していて、インターネットと電話が使えさえすれば、いつでもどこでも仕事モードに切り替えられる彼は、社会を知らない学生だった私には、自由を謳歌して生きているように見えて眩しかった。事実、彼は平日土日祝日問わず愛車のBMWで迎えに来ては、都内のデートスポットやお隣の韓国など、いろいろな場所へ私を伴って出かけた。時間やお金、住居、出先で女性を楽しませる立ち居振る舞い……全般的に余裕を持っているように見えた。

 あれから十二支が一巡し、確実に時は流れている。当時の彼の年齢に追いつこうとしている今、冷静に振り返ってみれば、36歳だった彼が余裕に満ちていたというのは「あなた、夢でも見てたの?」と、22歳の自分を嗜めたいくらい、おかしな話だといえる。物事を美化したり、都合のいいように解釈したりしていたから、そう見えていただけ。

 35歳の私は厳密に言うと、多少の余裕はあっても、決していろいろな観点で余裕に満ちているわけではない。時間の余裕がなくなって物事が予定通りにいかず焦ってキリキリすること、気持ちが塞いで心の余裕を失い人前で笑顔になれないこと、なんて残念ながら未だにある。36歳だった彼も同じだった。

 たとえば、生理中だというのに「大丈夫だから」と自らの欲望を満たすのを優先し、セックスに持ち込もうとする、断ると不機嫌になる——そんなのどう考えても「待てない」「その先を想像できない」余裕のなさの現れだというのに。「大丈夫」って言うのは一体、なぜ。こちらの肉体も、あなたの我慢できなさも、どちらも大丈夫じゃないけどね——これは私と彼との間にあった、苦々しいエピソード。

 年齢を重ねるなかで、はたから見れば成功していて、金銭的な余裕がほどよくあったとしても、精神的な余裕、相手を思いやる余裕を持たない人だっている。一方で、自分よりも若いのに、ずいぶん成熟したふうで、相手を包み込むような余裕、慮る余裕を持つ人はいる。

 年齢なんて、誰もが平等に一年一年、ただ重ねてきた回数にすぎない。その過程でどれだけ心から笑顔になれるときを過ごしてきたか、温かみのある関係性を築いてきたか、傷ついてきたか、どれだけ失敗してきたか、どれだけ考えてきたかなど、「中身」の濃さこそが重要。

 余裕に満ちた大人になんて、死ぬまでなれないんじゃないかと思うけれど、一年365日を毎年積み重ねるなかで、真剣に生きていくことなら、未熟な私にもできそう。そうすれば中身は自然と濃厚になっていくと信じて。

このコラムは最近読んで感銘を受けた『40過ぎてパリジェンヌの思うこと』の日本版を作りたいと思い立って書き始めたシリーズものです。


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