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「この人といるときの自分は本気で楽しそう」と思うことが増えたら幸福度上がるね

「この人といるときの私は楽しそう。会話が心地よくて、本気で笑ってるよ。今の私は魅力があるな」「この人といるときの私は寂しげで可哀想。見ていて惨めな気持ちになる」

私はよく、誰かといるときの自分を客観的・俯瞰的に眺める。自分という「本体(v1_園子)」から透明な「v2_園子」がしゅるしゅると飛び出して、天井あたりから自分と誰かがいる光景を観察している感覚。

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自分を「面白味のある人間」だとは思っていない。面白さが欲しいな、とは思っている。

でも、お互いに適当な割合で「聞く」「話す」を重ねて会話がふくらんだり。誘い合って「この後コーヒー飲みに行かない? もう30分くらい話したい」と言って、気づけば30分を遥かに超える時間が経過していたり。私の言葉に相手が大笑いしたり、逆に私が爆笑させられたり。

そうやって目の前の相手とつくり出す会話に集中して、大事なことからとりとめのないこと、自己処理すればいいようなくだらないことを嬉々として聞き、話し……という時間を過ごしていると、「ああ、私は目の前のこの人を、ちょっと楽しませている。この人といると、自分が“面白味に欠けた人間ではない”と思える」と、安心するし嬉しくもなる。

こんな気持ちになるのは「心を許せる友人」と一緒にいるときだけ。会う頻度は関係なく、私を雑に扱うことなく、目の前の相手及び会話に集中し、真摯に向き合おうとする、いく人かの友人。彼らといるとき、私は自尊心がふくらんでいくのを実感する。

彼らと共にいるときの自分を、客観的・俯瞰的に見ると、笑顔は心からのものだし、本気で楽しでいるように見える。そんな自分は好きだし、「魅力あるじゃない、園子」と思う。

「毎度ありがとう。あなたと過ごしたおかげで、自尊心が肥えてきたよ」。口には出さないけれど、ご飯を食べて駅で別れる瞬間、心の中でこっそりお礼を言う。

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中には男友達も多い。

性スペクトラムを引き合いに出すと、男◯◯、女◯◯と書くのは古いし、不要なんだろうけれど、まだ同概念が浸透しているわけではないため、ここではあえて男友達と表記する)

先日気づいたこと。私の自尊心をふくふくさせる男友達には、大抵、結びつきの強固なパートナーがいて、相手との関係構築にエネルギーを注いでいる。パートナーシップの話になると、熱量の高い話を聞くことができる。

私たちは友人で、それぞれ“恋愛対象”枠から外れている、つまり恋愛・性愛的にタイプではないからこそ、よほどのことがない限りは続く、良好な友人関係を維持できているわけで。

彼らは友人であるし、付き合いたいとは思わないけど、彼らのパートナーが羨ましいと思った。目の前の人間と会話にコミットする相手がすぐそばにいる、ということだから。

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逆に、自分を客観的・俯瞰的に見たときに「寂しげで可哀想な人」だと思えたり、自尊心が縮んでいくのを感じたりする機会もある。それはどんなときだろう? と自問自答してみたら、これだというものを導き出すことができた。

たとえ一緒にいても、私をほとんど視界に入れることなく、特定のモノに夢中になっている相手といるときだ。あるいは会話をしていても、特定のモノを取り出して、そちらの世界に没頭しようとする相手といるとき。

存在が軽視されているように思う。私という本体は景色に溶け込んでいるのね、と感じる。

ああ、本当にそれが好きなんだなあ。確かにそれの方が私よりコンテンツ力高いのは確かだしなあ。私はそれに負けてるのかあ。私はこの人にとっては、会話を続けたいと思わない相手、つまらない、面白味に欠けた相手、魅力がない相手なんだ。そんな風にぼんやりと捉えると、自尊心はギリギリと削られていく。

目の前の友人と向き合い、相手と会話に集中しているときには、そんな虚しい気持ちになんかならないのに。

距離が近いはずの相手に限って、目の前の人を見ずに、感じずに、別のモノに気持ちを傾けるのってなんだろう。

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3日くらい前、親しい女性からこんな話を聞いた。

「旦那がいつもスマホを見ている。私と会話をしていても、いきなりスマホを取り出して、インスタを見たりゲームを始めたりする。私に対してすごく失礼だと思う」
「そんなのひとりになってからすればいいことで、一緒にいる時間だから話をしたいのに」「スマホ見すぎと言っても、(スマホから顔も上げずに)『情報収集してるんだよ』と返されて困惑する」

そのとき、これだと思った。併せて『一緒にいてもスマホ』という本を買って、途中まで読んだだけになっていたことも思い出した(読破しよう)。

「私は面白味に欠けているんだ」と感じ、自尊心が削がれていくシーン。一方で、「私は面白味に欠けているわけではない」と自信を持ち、自尊心がふくふくしていくシーン。

私は人生において、後者のシーンを増やしたい。いつどうなるかもわからない、長いのか短いのかすらわからない人生で、他者から自尊心を削られ、自分を哀れに思うのって、何の意味もないし、とてつもなく無駄な時間だなあと気づいた。

よろしくない時間を過ごさないためにも、自尊心を守るためのアクションを起こそうと思う。

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