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山手線の男たち

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山手線の各駅を舞台にした男と女の物語。創作とは言えないレヴェルですが書きます。全駅制覇は多分できない……と思います。 登場する飲食店はすべて実在しますが、他はフィクションです。
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記事一覧

上野の男

 男なんていくらでも代わりはいる——。そう考えていたのが嘘みたいに、自分が特定の男を欲しているのに気づいて呆然とする。不忍池向かいのカフェ「青鶴洞」で、残りの仕事を片づけながら男が来るのを待つ。  取引先へのメールを返信していると、背後から「お疲れ」と声がかかりびくんとなる。こんなところにカフェあったんだね、と男がわずかに微笑む。いわゆる「強面」な部類に入る男は、あまりたくさんは笑わない。笑顔の少ない男の笑みは貴重だから、その瞬間を見逃したくなくて、視界に鮮やかに焼き付ける。

品川の男

 「四十八手イラスト制作のお願い」という件名のメールが届いたのは、深夜2時を回った頃だった。この時間まで当たり前のように仕事をしている編集者の心身を勝手に心配してしまう。まあ、自分も普通に起きていて、メールなんて見ているから、同じようなものだけれど。  開封すると「体位48枚+アイキャッチ用1枚の計49枚制作してほしい。納期は1週間後」と依頼概要が書かれていて、気が遠くなる。今週から来週にかけて別の案件が詰まっているから、けっこうしんどい。  仕事部屋兼LDKから寝室にのろの

池袋の男

 いつ頃から「付き合ってください」という告白の言葉を聞かなくなっただろう。彼も前の男も「付き合って」という言葉はなく、悪く言うとなし崩し的に、付き合っている体になっている。  たとえ口頭であれ、契約というか、互いの認識をすり合わせる機会がないというのは怖い。片方は付き合っている気でも、片方はそうではないかもしれないし、あるいは両方付き合っているつもりはなく、ただのセフレという可能性もある。  池袋のタイ料理店「クンヤー」でドリンクメニューを見つめるUに向かって言う。 「私、カ

新橋の男

 差出人の名前を目にした瞬間、封筒を落とした。数秒間固まっていたと思う。しゃがみ込んで、封筒を拾い上げる。1年ほど前に会わなくなった男からの手紙。完全に切れたと思っていた男。携帯の番号を変えると同時に転居し、男の前から姿を消したつもりだった。  それでも郵便物の転送期間が切れる直前、男からの手紙は届いた。この偶然は何を意味するのだろう。開封するのが怖い。きっと私を非難し、罵倒する文章が書かれているはずだから。私はそれくらい彼に負い目がある。  でも、読まなくてはいけない。封筒

新大久保の男

 タクシーは大久保通りを北新宿方面へ静かに走る。甘じょっぱい香りがあちこちから漂う新大久保の街は何度訪れても、アジアの街を彷徨い歩いているような感覚にさせる。隣接する大久保駅の前を通りすぎたところで右折する。しばらくすると淀橋市場が闇に浮かび上がった。 「あれ、こんなところに市場!?」 「『孤独のグルメ』シーズン5に登場したんですよ、ここ。伊勢屋食堂っていう店で、僕食べに行きました。すごい美味しいんですよ」 「『孤独のグルメ』見るんですね。私も好きです」  運転手は柔らかな声

恵比寿の男

 どこにでもいるような3人家族が目白駅から乗り込んできた。少し長めな黒髪で色白、眼鏡をかけたパパ、肩につくくらいのふわっとした茶髪ボブで、華奢な体型のママ、ベビーカーには黒髪がまばらに生えている、切れ長一重の女の子。確実にあのパパの子だ。ママはくっきりした二重に見える。  平凡な家族だけど、幸せオーラがはんぱない家族。たぶん同世代か。かたや3人家族、かたや独り身の33歳女。  ママがパパに何か話しかける。パパはママを見つめて、ふっと微笑んだ。ゆるやかな空気感はふたりの間に平穏

原宿の男

「僕たち今日、結婚記念日なんですよ。ちょうど5周年で」 「クリスマスに入籍なんて素敵ですね。おめでとうございます」  コの字型のカウンター席。隣に座る男性がカウンター内のスタッフと談笑している。  彼らが結婚記念日なら、私たちは離婚記念日だ。夫と「最後の晩餐」をするため、クリスマス・イブの日、表参道のフレンチレストラン「L’AS」にいた。  左隣に座る夫は淡々としている。 「そっちの生活は快適?」  半年前にぎくしゃくし始めてから、夫は私の名前をほとんど呼ばなくなった。用件

渋谷の男

 「マスター、ちょっと行ってきます。連れが迷いそうなので」  渋谷・宇田川町の細い路地裏に佇むワインバー「bar bossa」の店主に告げて店外に出る。エアコンの効いた店内とは別世界の熱帯夜が広がる。不快なレヴェルの熱気が肌にまとわりつく。バー横の門を開けて小さな通りに出ると、浴衣姿の大男がこちらに歩いてくる。  190センチを超える長身、髷を結った姿は、一般社会では目立ちすぎる。渋谷という軟派な街で硬派な彼は浮いている。でも、夜の奥渋谷まで足を伸ばせば、暗闇にすっと溶け込ん

有楽町の男

 今夜は旨い串揚げを食べるのに全力を尽くす。そのために昼食はコンビニで調達した野菜サラダとサラダチキン、ゆで卵だけにし、炭水化物を抜いて備えた。 「糖質制限でも始めたの?」  席で地味な食事を摂っていると、隣席の先輩が不思議そうな顔で尋ねてくる。炭水化物大好きを公言し、実際に気にせず摂取している私が、炭水化物をカットしている姿は目立つのだろう。 「私がそんなの始めるわけないじゃないですかぁ。無理、無理。今日だけですよ。夜大食いする予定あるんで」  だよねぇ、みっちゃんほど炭水

鶯谷の男

 鶯谷駅南口を出て駅舎を振り返ると、「散策の街 鶯谷」と書かれた看板が飛び込んできた。「『欲望の街』でもあるよね?」と独りごちる。高架を渡ってすぐの階段を下ったところに、朝顔通りの入口を見つけた。  「鳥椿」は確かこのあたりにあるはずだけれど。あたりを見回していると、こちらに向かって歩いてくるMの姿が見えた。何かに衝撃を受けたかのような、見てはいけないものを見たかのような、奇妙な表情を浮かべたMに近づいて、二の腕をふわっと握る。 「今、迷ってた?」 「違うの。おっぱい丸出しの