「自己の語り」を 取り戻す
先日「プリズン・サークル」というドキュメンタリー映画を見ました。
これは、罪を犯してしまった人々の社会復帰を促す刑務所「島根あさひ」を舞台に、約2年間の月日をかけて密着取材・撮影された作品です。
私自身のこの作品との出会いは、「他者の靴を履く」(著者:ブレイディみかこ, 2021) という、エンパシーとアナキズムについて書かれた本の中で、このプリズン・サークル(及びこの作品の舞台となっている、島根あさひでの取り組みについて)が絶賛されていて興味を持ち、先に書籍版を手に取りました。
それがまあ面白くって。
私自身はそんなに刑務所への関心とか、犯罪者の更生とかって特別関心がある分野では無かったし、もちろん全くご縁のない分野だったのでノーマークだったのですが、「対話」とか、「心理的安全性」とか、「自己探求」とか、あとはキャリア系の理論でいうところの「垂直的」成長(・発達)に興味のある方にも刺さる本・ドキュメンタリーだなと思いました。
日本の刑務所内での撮影・受刑者への接触に対する規制は大変厳しいらしく、取材許可までに約6年、刑務所内での撮影に約2年という月日がかかっていることからも分かりますが、取材と撮影は「かなり難航した」そう。
そんな撮影部隊の裏側を書籍で読んでいただけに、その苦労して撮影した実際の刑務所の臨場感あふれる映像も見てみたいと思い、今回は自主上映会を開催してくださっていたSocial Hive HONGOさんにて、作品を見てきました。(2022/11/18開催)
ここでは、日本で唯一 受刑者同士の「対話」に着目した更生プログラムが行われていて、映像では、嘘をつきつづけたり、”自分自身として”人と関わる事を諦めてしまった「人生の傍観者」とも言える受刑者たちが、ここでの様々なプログラム・対話を通じて、「主語を取り戻す」「自己の語りを取り戻す」姿が収録されています。
この記事では、この刑務所更生施設で実施されるTC(回復共同体)による取り組みを一部紹介しつつ、それを踏まえて社会における心理的安全性が保たれた対話の場 (・機会) の必要性について考えてみようと思います。
■更生アプローチの主軸を担うのは「対話」。
この作品の舞台となるのは、島根県浜田市にある「島根あさひ社会復帰促進センター」。刑務所という名前こそついていませんが、れっきとした男子刑務所で、受刑者に対する「処罰」ではなく、「更生」を目的とした官民混合運営型の更生施設です。
ここで実施されている更生プログラムには、自身の感情を正しく認知しコントロールするためのエモーショナル・リテラシー(感識)の獲得や、行動認知療法を用いた回復プロセスなど、様々な観点から更生プログラムが設計されているようですが、その最大の特徴は、それらがカウンセラーやセラピーなどの専門家によって一方的に行われるものだけではなく、受講者(=受刑者)たちによる、相互メンタリングによって回復を図るという点です。つまり支援対象同士の対話によって更生を図っています。※もちろん講師・ファシリテーター的に専門の職員がサポートには入る※
島根あさひは、受刑者同士の対話をベースに犯罪の原因を探り更生を促し、
コミュニティの力をつかって問題からの回復・人間的成長を促す、通称TC(Therapeutic Communityの略で、訳すと「回復共同体」)というプログラムを、日本で唯一導入している刑務所です。米国のアミティ (アリゾナ州にある回復施設) で行われているTCの手法をモデルとしています。
歪んでしまった認知・行動を、そして自分自身を見つめなおしていく為のアプローチ。その要になっている手法は、特別な技術を磨いた専門家からのアドバイスや、特別な知識を蓄えたり、訓練を受けることではなく、受刑者同士の「対話」なのです。
■過去と、自分自身と、対峙する。
プリズン・サークルの作品内では、TCの参加者4名に焦点をあてた構成になっていて、映像作品では、それぞれの受刑者の幼少期の思い出が、砂絵の再現アニメーションと共に紹介されるシーンがあります。それは、一般に「虐待」「ネグレクト」「差別」「いじめ」と呼ばれるような、悲惨な幼少期の話でした。そんな幼少期の環境の中で歪んでしまった認知が、犯罪を引き起こしてしまったり、他者を傷つけてしまう原因の核がそこに隠れていたりする。このように更生プログラムの中には、幼少期の体験や、強烈な印象を持つ人生の出来事等を振り返るワークが多々あります。
犯罪を犯してしまったという事実については、何事も言い訳には出来ないという大前提はもちろんあるものの、彼らにもまた辛い過去や厳しい境遇があり、当たり前だけれども、そこには凶悪な顔だけがある訳ではなく、「人は色んな顔を持っている」ということがよく分かるシーンです。
(よくニュースで、加害者についての普段の印象を聞かれたご近所さんたちが、「そんなことをする子には見えなかった」と話しているのをよく目にするな、というのをふと思い出しました)
虐待やいじめの連鎖の話もよく耳にするけれど、
加害と被害のつながりはかなり根深いものだと考えさせられます。
幼少期の人間関係や育ってきた環境が、その人のその後の人生に及ぼす影響は多大なもので、人は自分自身の心や体を守るための防衛本能として、認知や行動を歪めてしまうことがある。そうすることでしか、生き延びてこれなかった人たちがいる。社会に出た時に、その歪んだ認知のまま人を傷つけてしまったり、犯罪を犯してしまった人達がいる。
人々はそういった過去と、そして自分自身と、対峙する必要性がある。
自分が何を経験してきた人間で、どんな考え方をする人間なのか。人との関わりの中で、他者と自分自身のことをよく知り、世の中で起きる様々な社会の出来事、人間関係などの今度直面するであろう目の前の課題との向き合い方を身に付けていく。島根あさひのTCで実践していることとは、そういうことなのだろうと思います。
上記を書いていて、私たちがこの取り組みから得られそうな学びは、だいたい3つくらいに分けられそうだなあと思ったので、箇条書き的にまとめてみます。
認知が歪んでしまった原因の核を探さなければ、根本的解決には至らないということ。(=表面的反省の無意味さ)
人は他者との関わりの中で自己を形成する。育ってきた環境や周りの人間関係が、その人自身の行動・考え方に与える影響の大きさ。
人は自己と対峙することで、成長していく生き物。
今回は、道を誤ってしまった人たちの更生を目的としたTCのお話。
だけれども、「本音で話せない」「自分の考えや気持ちが分からない」「居場所がない」「素の自分でいられない」「本当の自分を誰も知らない」…
そんな声をどこからか耳にする現代社会を見ていると、多くの人達にとって必要なプロセスではないだろうかと感じざるをえません。
■「心理的安全性が確保された対話」 の重要性を考えてみる。
受刑者たちは様々なプログラムを通して、自分自身と対峙します。
始めはおちゃらけた様子で、本音を避けて調子よく話していた人も、鉄仮面のように感情も言葉も全く表に出なかった人も、徐々に自分のことを隠すことなく話すようになっていく様子がカメラに映されています。
とあるシーンで、自分が犯してしまった罪について話すワークの様子が、
カメラに収められていました。
1人のTC参加生が、「正直、まだ罪の実感がわいていない」
「まだどこかで自分は (社会の) 被害者だと思っているところがある」と、
少し気まずそうに、でもしっかりと、話し始めたシーンがありました。
それに対して、同じグループの参加者(もちろん彼らもまた受刑者たち)たちは、「それってどんな感覚」「どうしてそう思う」と深堀りして聞いていく。サポーターのスタッフ達も、それを静かに見守る。
通常の刑務所でそんなことを発言でもすれば、おそらくとんでもない重罪になるのでしょう。けれど、まずはそこに真正面から向き合わなければ、問題の核は見えてこないどころか、更に深く閉ざされていく。一時的に蓋をして閉じ込めても、同じような局面に接したときにまた蓋があけられる。
それは根本的解決にはなっていない。
そういう意味でも、最近よく耳にするようになった
「心理的安全性」が保たれた対話の重要性を益々感じます。
心理的安全性の話をすると、まれに、優しさ的な意味合いでの"包み込み"や"同情"などを目的として必要なものだと主張しているんだろうと捉えられることがあるのですが、それは随分と短絡的な考えで、そんなに単純で簡単な話ではないのだと思います。
そして、これは刑務所の話だったけれど、
「間違った行動をとってしまった時」とかいう以前の話で、もっと日常的に、本音で話せる対話の場や、そういった深い人との繋がりが必要なのではと思わされる作品でした。
現代の社会において、安心安全に対話が出来る機会と場は、どれほどあるでしょう。罪を犯してしまう前に、人を傷つけてしまう前に、彼らにこんな場があったら、何かが違っていたのかもしれないと、どうしても思ってしまいます。
自分の言葉で素直に話せる人が沢山いる社会。
色んな考えの人達が、お互いに刺激を与えあって、共に成長していく。
それはそれはとても自由で面白い世界だなあと思うのです。
世の中を変えるような大きいことは出来ないかもしれないけれど、
それでも、半径何メートルか分からないけど、自分の目の前の人達にとって、そういう機会や環境を作れる人間になれたら、と思いました。
まずは小さくでも、丁寧に。
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