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父のことを書こうと思う。

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(ちょっと説明)
コルクラボ では、1ヶ月でメインテーマが変わる「お題」が毎週出される。例えば「誰かとのエピソード」がメインテーマで、週のお題が「血縁関係」との関係がテーマだった。この回に、僕は父親の事を書いた。ラボの中でも反響があったし、自分でも好きな文章なので公開しようと思う。

何か感じてくれたら、嬉しい。好きになってくれたら、とても嬉しい。
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父のことを書こうと思う。

彼は、もうすぐ死ぬ。昨年、すい臓癌が見つかって手術をしたけど、癌が残った。抗がん剤治療も効き目がなくて、チューブを入れて血管を傷つけるほどのより強い薬に頼るのは自然じゃないと断った。そう遠くない未来、彼は居なくなる。

そんな彼は、いま72歳になる。僕は30歳の時の子供で、一人しか子供はいない。彼が学生の頃に両親は亡くなり、姉夫婦の家に居候して大学を卒業、外資系石油会社に入って経理の仕事を勤め、すぐに母と結婚。ちょうど僕が社会人になる年には転職をしてオランダの商社へ、転じてこれがプーマの日本法人になった。そこで財務部長として定年まで勤めた後は、少しの間は会社の顧問みたいな仕事をしていたが、今は母と悠々と過ごして、好きなゴルフに通っている。

すい臓癌は、進行しても最期の近くまでは元気に過ごすことが多いんだよと、穏やかな眼差しで言う。比較的豊かだった白髪頭は、抗がん剤の影響で、すっかりと禿げ上がった。まるでドラマでもなぞるようだ。

昔から、穏やかで、ポジティブな人だ。外資系の石油会社に入ったのは、志望していた保険会社には保証人がいなくて入れなかったからだ。入った先でも営業志望だったけど、経理部に配属されて20年以上勤め上げる。でも、英文会計に詳しいおかげで50歳でもいい転職ができたと話す。
物心ついた時、彼が平日に家にいた記憶は無い。週末も、よく仕事をしていた。勤勉で真面目な印象。僕が中学受験で勉強をしていた時は、会社で使うからと英語の勉強に通っていた。大人になっても勉強するのがおかしかった。休日は、僕が昼頃に起きると、同じマンションのテニス仲間と夫婦で行って来たのに出会う。それから午後に家族で買い物に行って、人混みには不機嫌になる。そして、ダラダラする僕に怒る。でも、声を荒げることはなく、不機嫌そうに離れている。大人の嗜みとして、大声で感情を表すことに耐えているように。今の僕と一緒だ。

その慎み深さが、ずっと愛されていると感じてはいたけど、打ち解けていない壁を感じていた。

父のことを考える時、宇宙飛行士をテーマにした名作「プラテネス」の一節をよく思い出す。ヒロインのユーリが、幼い頃に拾われ温かく育ててもらった実家から帰る道で、愛を伝えられてないもどかしさを嘆くシーンだ。

僕が40歳を迎える前に自分を見つめ直した時期、哀しさを感じて彼に訴えたことがある。ある日、突然息子から「幼い頃に構ってもらえなくて、寂しかった」と告白される父親。電話の向こうは、いったいどんな顔だったんだろう?
彼は、冷静に今度飲みに行って話を聞こうと言った。いつも僕を否定することはなく、特に社会人になってからは、一人の人間として扱い、接してくれる。よく空回りするこちらの想いを、飄々と過ごして、温かく迎え入れる。

ただそこに安心できる存在で居てくれる。それにどれだけ救われているのか、愚かな僕は導かれた後にしか気づかない。気がつけば、彼の職種だった経理に親近感が湧いて、経理の人をお客にする仕事をすんなりとしていた。転職先に困った時、彼が転職する時の当時流行りだったソフトバンクの高給職を一顧だにせずに自分に合った仕事を選んだのに勇気づけられて、自分の性格に合う仕事を選んだ。休日に、息子を一人の人間として接する時のやりとりは、すっかり彼と同じだ。

僕にも息子ができて、一緒に遊びに行く。孫とのやりとりを、ことのほか喜ぶ。最近の経済の話題をひとしきり話す。そういえば、父が社会人になった息子と飲んだり仕事の会話をするのが夢だ、と聞いたのも母からで、本人から聞いたことは無い。
幸いにも、僕が告白した後に、彼が病気になる前に、その夢は何度か叶えた。

先日、相談があると言われたので一人で訪れた時、母も用事で出掛けていて、二人きりで話した。話したのは、死んだ後のお金のこと。つまるところ、しっかりと貯金があるから安心しろということ。事実だけが確かなものでしっかりと残せるもののように、隅々まで、曖昧なところなく、淡々と話す。冷たいわけじゃ無く、正確でありたいから感情的ではないだけ。これは、そう言うものなのだ。僕の中にある、心がうなずく。


読んでいて幸せになれたら、僕にも教えてください。きっと、僕も飛び上がるほど幸せです。 感謝の気持ちを、あなたの居るほうへ送ります💌