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なんの苦労もなく、すべての音が調和した

ニューオリンズは、ジャズ発祥の地と言われている。

娼婦やギャンブラー、キャバレー、ダンスホール、そして退廃的なフランスの過去。いかがわしいが、寛容な精神をもつこの街は、新しい音楽を生み出す理想的な土壌でもあった。

ミュージシャンの多くは赤線地帯(ストーリーヴィル)で生活し、働いた。そこではドラッグが生活の一部であった。娼婦たちは何十年も前からアヘンを使用していた。それは、心身ともに過酷な仕事に耐えるためと、避妊のためにも必要だった。

黒人のジャズミュージシャンたちは、アルコールは感覚を鈍らせ、アヘンは眠らせてしまうので避けていた。しかし、マリファナは注意力を持続させ、疲労を防いでくれた。音楽の創造性を高める効果もあった。こうしてジャズやブルースは、マリファナの力を借りて進化していった。

第一次世界大戦の最中、ニューオリンズの近くに陸軍と海軍の基地があったため、兵士の性病感染を怖れた政府は、1917年にストーリーヴィルを強制的に閉鎖した。

職を失ったミュージシャンたちは、仕事を求めてミシシッピ川を北上する黒人たちの大移動に加わった。ジャズとブルースも彼らと一緒に移動し、カンザスシティやシカゴがジャズの中心になった。マリファナも彼らとともに移動した。

シカゴで、ジャズとマリファナの新しい世界を体現した人物がいた。その名はメズ・メズロウ(Mezz Mezzrow)。1899年にシカゴのユダヤ系中流家庭に生まれたが、少年期のほとんどをストリートで過ごし、小さな犯罪に手を染めていた。車を盗んで逮捕され、シカゴ南西部の更生施設へ入れられた彼は、そこで初めてブルースを聴いた。低くうめくように歌うブルースを初めて聞いたとき、彼は雷に打たれたような衝撃を感じた。

中央がメズ・メズロウ

釈放されると、彼は白人社会を拒否してジャズ・ミュージシャンになった。自叙伝に彼はこう書いている。

  • 「自分は、これからはずっと黒人の近くで過ごすことになるだろうと思っていた。彼らは私の好みの人間だ。彼らの音楽を学び、それを懸命に演奏しようと思った。私は、黒人のミュージシャンになるつもりだった」

1940年、アメリカ陸軍の徴兵委員会が彼を黒人としてリストアップしたが、それをメズロウはとても喜んだ。そして、彼のクラリネットも評判になっていった。

メズロウがマリファナに出会うのは必然だった。彼は自伝で、このことについてかなりオープンに語っている。

1924年、インディアナのクラブで演奏していたとき、ニューオーリンズから来たばかりの仲間が、茶色の紙でタバコのように巻いたジョイントを差し出し吸い方を教えてくれた。

  • 「それを唇につかないように持って、ほら、周りの空気を吸い込むんだ。息をゆっくり吸って、すぐに吐き出さずにチャンスを待つのだ」

次のステージで薬が効いてきた。最初に気づいたのは、自分の音が頭の中にあるように聞こえてきたことだ。そして、リードの振動を唇ではっきりと感じ始めた。気がつくと、スラーリングがうまくなっていて、フレーズに正しい感覚を込められるようになっていた。すべての音に油が塗られ、楽器からすべるように流れた。自分がなすべきことは、ただ少し吹いて音を次から次へと送り出すことだけだった。アイデアが尽きることなく、いつまでも演奏し続けることができると感じた。なんの苦労もなく、すべての音が調和した。(了)

  • MARTIN BOOTH:CANNABIS(2003)より

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