雑記15

人に興味を持つ瞬間というのが誰しもあると思う。それは「好きなタイプ」「苦手なタイプ」で分類できるような目前に展開された事実の話ではなく、一文飲み込んで少し舌を出してしまうほどに敏感な部分から成る心の方向性だ。私は、その判断材料にまず『作者の思想』というものがある。作品そのものではなく、作者自身がどういった前提を持った上で、何を信じているのか・どう解釈しているのかを知りたい。波長の合う合わないというよりは、それこそ、作品をみた瞬間の瞬くような小さな関心から始まる。様々なSNSや紙媒体から意欲を掻き立てる情報を集めているとき、私は常に、気になった人物の名前やアイコンの特徴をメモするようにしている。そのとき”気になった作品”を深堀しようとするのではなく、まず「好きだ」と思った作品の作者を追いかける。この時代、ネットに作品が載っているのに本人がSNSを一切触っていないというのは珍しい。(基本的なジャンルにも寄るだろうけど) ツイッターでもインスタでも、創作者は何かしらの情報を発信しているものだ。そして、それは常に。他者から見たときに無駄なものであればあるほど私は嬉しくなる。展覧会のPR、作品感想のRT、私が求めているのはそんな自我ではない。日々の追想(行った場所・見たもの・食べたもの・触れたもの・聴いたもの─)、段階的な成長の記録とそれに伴う葛藤や精神の変化、崇高とする存在への対峙に喘ぐ文字、それらの一般的には不必要とされる要素に、堅い重要性を見出している。作品を知るには作者を知る必要があると、一人の作家を追いかけ始めてからその気持ちは信憑性と確信を増すばかりで、余計にこんな記事を書いてみたくなる。「絵描きは自我を出すな!」なんて話題がネットに浮上する度、日常生活を映す絵描きの存在が減っていき、情報の有難みもまた増すばかりだ。具体的な要素として、まず全体の思考や、ひとまとまりの思想が見られる場合はその情報を自分なりに集め整理する。そこから特に強く影響されていると考えうるものを抽出し、自分の中にも反映させることで作者がどういった経緯でその発言をしているのかが少しずつだが頭に入るようになる。話し方の特徴を捉えることも重要だと、最近好きになった作家で知った。私が主に好きな作家は2人ほど居て、ひとりずつ大きな特徴がある。1人は言葉の意味を重んじ、常に自分の見えた景色に照らし合わすことのできる”適切”により近い単語を選ぼうとする働きかけが見られ、自分の心を探りつつ足掻いた記録を残すような、冷静でありながらも混沌としたテーマを築き上げる様を感じている。もう1人は明瞭な単語と知っているようで知らない横文字の組み合わせを駆使することで、見る側を撹乱させつつも伝えたいことを順路に沿って話すような不思議な印象を受けている。これは当然ながら私個人の主観に過ぎない話で、本人が目にすれば齟齬の生じるのは当たり前かもしれない。しかし、自分なりの解釈と秘匿した正当を保つことは大切なのだ。ただ、自分の中で。それを「理解」と呼ぶことは絶対にしないと、慣わしのような感覚で決めている。他人のこころの内まで理解出来る人間が居ないというのは大前提として、少し知った気になった人間が、その解釈を振るって本人を傷つける様を幾度となく目にしてきた。当人から得た物を使えてすらいない、不安定で変幻する解釈は近道のような暴言で、浅い所から切り取った要素が雑に散りばめられているからこそ、負う傷もきっと大きい。(こんなのも、感想と言われて終わりなのは知ってるけど。)少し脱線したので話を戻すと、まずは作者の普段の言動や気になった意見から思想の入り混じる風景を汲み取り、その時々で重点的に調べて自分なりに落とし込むことが第一ステップだと考えている…ということ。あらゆる手段で言葉を使い交流ができるというのは人間に許された特権で、人によって一つ一つの言葉に想う感情の大きさや知識の幅も違うのがとても面白い。だからこそ、まずは作品そのものではなく、その作品を創り上げた根源がどこからどう成っているのかを知る必要がきっとあって。そんなこんなで、全体像が2%ほど見えて来れば、あとは本当に楽しい。作者がどんなことを考えているのか想像しているうちに、また新たな意見が投下される。これは個人的な趣味だが、どんなに短い文でも最初は文章として捉え、あえて”なんとなく”把握する。大雑把でも、含まれる感情の種類を特定することがその後の詳細な解釈に繋がるからだ。そうしたら、細かい単語を確認していく。知らない単語、独特な使われ方、特殊性を噛んだ紆曲の見える思想、特徴的な重なり方をした表現。全てに意味を見出すのではなく、本当に興味のある情報以外は取捨選択を行うことでより関心を深められることもある。(本当に好きな作者だと、選ぶことを考える暇もないくらい夢中になって読んでしまうから、まだあまり知らない人の場合には加減を見るという意味でも選択は重要。)世間的に嫌われがちな病みツイやネガキャンも見逃さない。むしろ、そういった負の感情から生まれる言葉に、本人も普段は意識しないような思考が隠れていたりする。しかし、これはあまり自分でも好めない感覚だ。辛くて吐いた弱音を他人に消費されていると思ったら、気分がいい人間は多くないだろう。これらはあくまでもごく個人的な範囲で行うからこそ人を傷つけることなく続けられるものであり、本人に見られるような場所や人物の特定が可能な情報は、たとえ解釈や考察だとしても公開という手段を取らないことが少なくとものポリシーだ。これは余談だが、こんなに知りたい気持ちがあっても、未だに知るのが怖いと思う時がある。人間は理想論が好きだ。それが正しいと信じていたいし、現実との一致率は高ければ高いほどいい。思考放棄でも逃避でもなく、防衛本能だと私は思っている。傷つくのが怖い。これは情報源の少ない場所から間接的に人を知ろうとするときに起こりがちで、例えば絵描きなら、作風から予想される自分の持つ勝手なイメージと本人の性格との間で齟齬が大きかった時、それはそれは傷つく。(また、そういった経験をした人は一定数いると思う。「本当にその人の絵が好きならTwitterは見るな!」という層の意見も、自分が一度傷ついたからこそ生まれる感情なのだろう。)知ることでひとは囚われるし、息がしづらくなるかもしれない。また、深く知ってからもそれは延々と続いていく。数々の推察から「この人は恐らくこうだろう」と思い込んでいた意見が目の前で破綻する瞬間は、何度立ち会っても毎回心が壊れそうになる。180°ぐるっと変わるならいっそ清々しいが、そういった『破綻』は非常に狭い範囲で起こることがほとんどだ。それが偶然、作者を知る過程で必要だと信じ知識として取り込んだ後だと、よけいに傷が深い。じゃあ今までのあの発言はどうなってしまうんだろう?と思ったら最後、自分の中で滑稽な辻褄合わせが始まる。人の意見はいくらでも変わるし、不変の人こそ存在し得ない。だからこそ、そういった段階もあることを踏まえて知ろうとすることが大切なのだ。 話を戻すと、ここまで来てようやく作者の傾向が見えてきたら、いよいよ作品に目を向けてみる。あの瞬間に痺れた光景と再び対峙し、以前より多くの情報が流れ込んでくる。描画された当時の環境や肉体・精神状態で、絵に及ぼされる影響は大きく変化する。どれだけ感情を殺して描いても、少なからず投影されてしまうものだ。(そう考えると、無感情・無個性の造形に長けたAIという存在は面白い。写実主義の画家の多くが職を失ったカメラの登場時も、きっと同じだった。)これまでの作者の言動から推察される思考を巡らせ、解釈し、自分なりの正当を見つけ納得する。この一連の流れにたどり着くには、作者を知ろうとする試みが必要だと強く感じている。それはとても愉快な出来事で、ある時期には、憧憬の気持ちで追いかけ続けている絵描きの発言に囚われ、全てがその世界に染ったように生きてきた時間もあった。流石に過剰だったので、当人が発言をする前に同じようなことを思っていたりと、思考の類似まで見られるほどに深堀をしてしまった。(だからこそ『理解』とは何なのかを思慮して悩んだ時期もある)後悔とは言わないが、自分なりの思想をしっかりと持っている今の方が創作は楽しい。無論、その人のことは愛しているし、生きている限り尊敬を止めることは無いと確信を持って言える。無限に拡大し続ける絵画の分野の中で、私はその人の描く絵だけが、何よりも好きだ。淡く薄い空気の中に、量感の表現された美しく繊細な人物の描写。言葉で書くには曖昧で、確信的なのにもどかしいほど伝わらない。しかし、その伝わりきらない言語化不可能の状態こそが可憐で、見蕩れている。どうかあなたの一番好きな創作者が、これからも素晴らしい表現を展開し続けていきますように


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