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ランニングと膝と骨切り術8- 手術と入院の日々

唯一シリーズで書いているのに、また前回から4ヶ月以上も間があいてしまった。
自分でもどこまで書いたかすっかり忘れてその7を読み返す始末なので、読んで下さっている方にも何のことやらだと思う。もしご興味おありでしたら、マガジン「ランニング」にその1からまとめてあります。
今回でやっと最終回。手術までたどり着いた、と言っても今からもう3年前の話。
気持ち悪い写真も出てきます。ご了承下さい。

PRP治療もむなしく膝がどうにも回復不能に陥り、ペインクリニックの医師から手術を勧められたところまでが前回。

クリニックで都内の大学病院(以前行っていた大学病院とは別の所)の、膝の手術を沢山手掛けている医師に紹介状を書いてもらい、受診した。
結果、高位脛骨骨切り手術、通称骨切り手術を受けることに。

変形性膝関節症対応の手術としては人工関節置換術が一般的だが、私はギリギリ60歳前だったことと、今後も走りたいという希望があったので、人工関節ではなく骨切り手術となった。
その1でも書いたが、この手術は、脛の骨に切込みを入れて人工骨を挟んでボルトで固定し、膝の骨の当たりを調整するというもの。術後回復したら、普通にスポーツもできるということだった。

ただ、その名の通り骨を切るので入院は約1ヶ月かそれ以上と長い。術後は毎日リハビリもある。
当然受診した大学病院に入院するものと思っていたら、北関東の温泉病院で手術・入院した方がいいと言われた。
担当医師が、毎週そこで手術しているとのこと。なんだかちょっと医師の事情も絡んでいそうだけど。
正直言うと、大学病院は駅から遠く建物も古くどこもかしこもグレーがかっていて、常に混んでいて何より院内の空気がどよ〜んと澱んでいて、こんなとこに1ヶ月もいるのはイヤだなーと思っていた。
どうせ入院中は外に出ることもないのだから、温泉プールがあってリハビリが充実しているという、自然に囲まれたその北関東の温泉病院でもいいか、という気に。
家族や友人にお見舞いに来てもらうのはちょっと大変だけどなーとは思ったが、あれよあれよという間にコロナ感染が広まって病院も面会禁止になったので、結果的に温泉病院で何の問題もなかった。

病院エントランスのゆる〜い手描き看板。
温泉に猿はいなかった


「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」のトンネル手前にある病院。

冠雪した谷川岳が見えるロケーション


リハビリ、がんばる!ということで、自宅からウェーブリングと5kgのダンベル持ち込む。

手術前日に諸検査と、車椅子の乗り方指導を受ける。トイレの使い方や、ベッドサイドにバックで車庫入れなど。
手術は3時間。全身麻酔だったので気がついたらベッドに戻っていた。
鎮痛剤が効いているうちはなんともなかったが、2日目は痛みプラス麻酔の後遺症の吐き気と頭痛と過呼吸に苦しむ。

術後2日目。人生初車椅子

短パンにハイソックスで可愛ぶってるっぽいが、短パンは術後処置のため。ハイソックスは術後みんなが着用を義務付けられる、むくみ防止の着圧ストッキング。「女学生じゃあるまいし、やーねー」と入院患者たちからは不評。
手術した左脚はシーネ(ギプス)をつけているので曲げられない。

1週間後にシーネが外れて、車椅子は卒業。

脚かゆかった〜。
外れてスッキリ
車椅子の次は松葉杖

松葉杖も人生初。脇の真下のアームホールで支えてはいけないとは知らなかった。
洗顔歯磨きが一苦労。片手を離して何かしようとする度に杖を倒してしまう。
自分では拾うことができないので、いつも人頼み。

リハビリは理学療法士について毎日1時間ちょっと行うのだが、それ以外の自主トレも推奨されている。
私の担当は元気な若い女性。自主トレーニングメニューもはりきって作ってくれた。
入院中はやることないのでリハビリ室が娯楽室代わり。イヤホンで音楽やラジオ聴きながら、メニュー以外にも適当に色々やって遊んでいた。

術後数日はごくシンプルなものだったのが、回復に従ってどんどんメニューの書き込みが増えていく。

二本松葉杖の期間は長かった。一本になるまでには片足に体重の1/3、次の週に1/2と、かける負荷を徐々に増やしていくのだが、そんな器用なこと簡単にできるわけもなく、この頃が一番辛かった。ようやく杖が1本になったところで、やっと温泉プールに行く許可がおりた。
入院する前は、シーネがはずれたらすぐにプールでリハビリできるのだろうと楽しみにしていたのだが、プールサイドが滑りやすいので、接地部分が三又になっている1本杖を使えるようになるまでプールはダメと知り、落ち込んでいた。
泳ぎたくてウズウズしていたので、ヤッター!とゴーグル掴んでプールに向かったのだが…。

まさかの遊泳禁止だった。水中ウォークのみ。ガックリ。
プールはやたらと広く、古びたタイル張り。全面ガラス窓のすぐ外は利根川が流れていて、雪が横なぐりに降る午後など、しーんとしたプールで黙々と歩いているとロイ・アンダーソンの映画に入り込んだような気分。
誰もいなくなって一人きりになったら泳いでやれと、いつも頭にゴーグルつけていたのだが、残念ながらそのチャンスはなかった。

その他入院中の楽しみは、ご飯。
毎週廊下に貼り出される献立表を見て、テンション上がったり下がったりしていた。
地域の特産のこんにゃくとキャベツはしょっちゅうメニューに登場。
どちらも嫌いではないが、キャベツの芯が柔らかく茹でられた固まりはちょっと苦手。でも残すと管理栄養士に後で怒られるので、がまんして完食する。
学校給食の気分。

3月3日のお昼は、ひなまつりスペシャル。

ちらし寿司、はまぐりのおすまし、
桜餅に折り紙のお雛様のおまけ付き

4週間が過ぎたころ階段昇降テストをクリアして、病院の外を散歩する許可も出た。
まだ痛いので一歩一歩、ヨチヨチだけれどシャバの空気は格別。

外では梅がほころび
雪も溶けて春が来ていた

入院から5週間後、退院。
「卒業証書」に添付されていた写真。

こんなに太いボルトだったのか…

東京に戻ってしばらくは、まだ杖で支えないと歩けなかった。緊急事態宣言も出て人が多い場所には行けないので、毎日近くの墓地を4キロほどゆっくり歩いて自主リハビリ。

誰もいない墓地


桜も藤もきれいだけれど見に来る人もいない
マスクや消毒液も不足していた頃



普通にスタスタ歩けるようになるまで退院から2ヶ月ほどかかり、ランニングを再開したのはそれからさらに8ヶ月後。
もっと早く元の状態に戻る人もいるそうだけれど、転倒だけは避けたいのでランニングはかなり長い間自粛していた。

手術から3年半経った今も、膝はまったく問題ない。
取り出してもいいよと言われたボルトは入れたままなので、触るとかすかな違和感はあり手術痕も膝下から脛に残っているけれど、手術してよかったと思う。
何よりまた走れるようになったのが嬉しい。
以前のように大会に出て少しでも速く!という野望はもうない。無理せずに楽しみながら走っていけたらそれだけで幸せ。

というわけで、走りまくって膝壊してPRP治療受けて最後に骨切り手術受けて復帰した体験談は、これでおしまい。

長らくお付き合い頂きありがとうございました。

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