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幸せなんていらない

この3年くらい、気づいたことや上手くなった部分があるんですけど、書き留めておかないと10年後には忘れてそうなので残しておく。

反省

私はわりとトントン拍子に生きていた。
新卒で某外資系コンサルティング会社に入り、2年目で心がへし折れ、にっちもさっちもいかなくなって半年休職するまで。

そうなるまでには色々あった。
入社時の説明と仕事内容が違うとか上司がパワハラとか長時間労働がヤバいとか、あるあるで片づく説明もたくさんある……が、私にとってそれらは根本的な原因ではないと思う。
同じ環境でタフにやっている同期もいたし、何より自分が「なんか…よくわかんないけど、とにかくなんか違うんですけど!?」といつも思っていた。

あれから3年経ってだいぶ遠いところまで来られたと思うので、何に気づいて何を心がけてきたかを書きます。

昔の話

今でも自分の母親に会うと強く感じるんだけど、当時も今も、うちの母は「◯◯すべき」という考えに支配されている。
母親っていうのは365日ご飯を作るべきだから、ご飯を作る。(1日も休まず!)
社員っていうのは常に自分をアップデートし続けるべきだから、TOEICなどの資格勉強も怠らない。

先日父親がある重大な決断を下すタイミングがあり、やたら反対していたので
「そんなに心配なの? 何がイヤなの?」と聞いたところ、
「ううん全然。でも妻っていうのはそういう反対をすべきでしょ」という返事をされてワァ…となった。
感情や素直な気持ちよりも先に、「べき」で行動が分岐している。

そういう親なので、私が子どものころは「◯◯すべき、そうじゃないのは人間じゃない!(原文ママ)」と、とにかく言われた。
3歳までにあいうえおは全部読み書きできないといけない、そうじゃないなんてありえない。
お金なんて使うべきじゃない、極限まで使わない方法を考えないなんて信じられない。
友達とそんな理由で喧嘩なんてすべきじゃない、我慢して仲直りしなさい。

勉強からちょっとした普段のふるまいから心のあり様まで、とにかく「◯◯すべき」を詰め込まれたので、
私は漠然と、この世にはすべてのシチュエーション・人間関係ごとに、超えないといけない基準や満たすべきフォーマットが存在していて、
それらを毎回間違いなく達成することが人生なんだとずっと思っていた。

人間は必ず間違える。(特に私はうっかり屋なので非常にミスが多い)
なのでその場で設定されているクエスト(みたいなもの)がなんなのか誤らずに判断し、それを達成する、それに熟達することが人生の面白みなのかなあと思っていた。

幸せなんていらない

その結果、人生で起きることすべてがまったく面白くないし、人が嫌いになっていった
自分のなかの「べき」が何よりも先にくるので、それを守っていない人のことを許せない。
ほんの些細なこと、たとえば待ち合わせ時間に毎回2,3分遅刻するとか、授業中寝ているとか、そんなことでもうダメだった。
自分がおそろしく窮屈な人間という自覚もあったし、何よりそんなことで人を好きとか嫌いとか判断するのも苦しかった。

一方で家に帰れば、自分が「◯◯もしない/できない/守れないなんてダメ人間すぎw」と頻繁に言われる。(これは今でも割とそう)
どこかで発散しようにも、べき論ガードのため誰とも打ち解けられない。
ダメ人間だし→友達もいない→友達もいないなんてダメ人間… のループで、とにかく「すべてのべき論を完全にこなすこと」に一層のめり込んでいった。
そうなったとき今よりマシな人間になって、全部が好転していく気がした。

当時の私の愛読書は三島由紀夫で、三島の透き通った文章を読んでは「私が幸せになろうなんておこがましい」と本当に思っていた。
幸せになるより先に、済まさないといけない禊みたいなものがあると思っていた。

何かがおかしい

そんな感じでそれなりの大学に入り、それなりの会社に入った。

その間くらい、大学4年生のときに(現在の)夫と親しくなった。
私はそれまで前述のべき論のデバフで、人と本当に打ち解けるってことがまったくなかった。だけど、なぜか夫とは心から仲良くできた。
2人とも頑固だからかもしれない。

彼は私が「そんなことしていいの!?」と思うことを普通にする。プライバシーがあるので詳細は省く。
私も私で、彼が「そんなことするの!?」と思うこと、たとえば賞味期限を少々すぎた食べ物を普通に食べたり、をする。

つまりお互いがお互いのべき論をめちゃくちゃに破りながら生活している。彼は私の規律をギタギタにしてるし、それって裏を返せば私だって(彼の世界の)守れてない規律がある。
でも………そういうのってよくないけど………なんか、すげー幸せだし全然嫌いになんないね?

規律を破ったヤツはのたうち回って死ぬと思ってたけど、何も起こらない。
今までの価値観が多少揺らいで、幸せだけどとにかく不安だった。
この時期の私の口癖は「いつ不幸になるの?」だったと思う。

ヤバい会社

私は新卒で入った会社で、初手からカウンターパンチをくらった。
「コンサルとしてパワポ使うよ♪」と言われうかうかと会社に入ったら、なんの訓練も受けてないなか、なぜか急にJavaというプログラミング言語を書くことになった。

当然知らん。書けない。てかJavaってなに?
ついでに私が配属された環境にはインターネットがなく、ネット情報を拾って書くこともできなかった。

仕方ないので業務後に家で調べ、プログラミングコードをノートに書き写し、翌日それを実際にPCに打ち込むというバカみたいなことをしていた。

頭のなかにある『べき論集』をひっぱり出すと、「どんな環境でもプロフェッショナルとしてクライアントに価値提供すべき! 弱音吐かずに勉強だ!」と返ってくる。
でもさすがにさ…それってありえる? 度を超えてない?

私はパソコンがめちゃくちゃ苦手で、パソコンに詳しい人の「CPUがナントカでメモリがなんとかだからコスパがいい」などの説明を聞くと、頭が真っ白になっていた。自分がこの世で苦手なものが「金の計算とパソコン周り」の2つである認識があったため、就職時にIT関連の会社は1つも受けなかった。

それが今やこの有様。

「いい大学に入るべき」→「いい大学に入ったんだから、いい会社に入るべき」→「会社に入ったんだから、頑張るべき」
とばかり思っていて、それを真剣に守れば幸せになれると信じてきた。
なんかおかしいかも? と思っても目をつぶってきた。

その場の「べき」を完全にこなせばみんなが私のことを見つけてくれて、幸せになれると思ってきた。
だからこそ地獄みたいだった中学受験もなんとか終えられたし、いいことほとんどない学校生活
も風邪以外は皆勤でやり過ごせた。
でももしそうじゃないなら、今までの人生で頑張ってきたこととか、あえて引き受けた苦しみとか、1ミリも意味なかったのかもしれない。

突きあたり

そう思うと今までの人生も現在の暮らしも、全部が地すべりして崩れていく感じがして、情緒がめちゃくちゃになった。
仕事も(好きでもないし辛かったというのもあるけど)踏ん張れなくなって、これ以上このままいても迷惑かけるだけだなと心から実感して休職した。

朝から晩まで布団にくるまってカーテンの光に怯えながら、それまでの24, 5年の人生の突きあたりに来ちゃったんだと思った。
今までの考え方の何かを変えなきゃこの先たぶん生きていくこともままならなくて、私は超頭でっかちなので、それが何か理解できないと身動きできないと思った。

半年くらい休職して、その間に神経を痛めつけられることが何回かあったり、反対にすごく優しくしてもらったりするなかで私が考えたことは、「とりあえず適度に休むことを覚えよう」だった。

私は「こんなことができない!」と思ったが最後その劣等感に取り憑かれてしまい、なんとかした感を得る(資格とったりする)までそのことで頭がいっぱいになる習性があった。(今もある)
ネットで調べるとそういう人がだいたいメンタルをやられがちで、休むことを覚えた方がいいとのことだったので、とりあえず適度に休もうと思った。

ヤバい会社2

前職は激務で名高い会社だったので、それを踏まえてもっとゆるそうな会社に入ろうと思い、そんな感じの会社に入った。
「あっ、自分頑張ろうとしてる!」と思ったときは、夫に「今日は……残業せずに趣味の◯◯をします!!」と宣言して義務休みをしたり、毎月1日は有給を取ろうと決めてみたり。
ものすごい違和感はあったし「こんなんでいいのか」という迷いもあったけど、とにかくこれで光明が見えると考えていた。

ただ謎の悪運に恵まれているのか、自分の上司はものすごく評判が悪いハイパージジイだった。
端的にいうと仕事をなんにもしないため、それについて部下である我々が他部署の部門長から叱られるというワケのわからない構造になっている。ジジイもジジイで、仕事を肩代わりしてあげている(とこっちは思っている)のに、何かしらのアラを見つけて「こんなこともできないの〜?」と人を煽り散らかしている。
当たり前だけど新任の人は片っ端から抜けており、その会社で2年経ったときには既存のメンバーもほとんど辞めていた。休職者もいた。

私はまたも心労で頭おかしくなりそうになりながら考えた。「おかしくね?」と。
なぜか知らないがこの仕事しない上司はその鈍感さによって世界のすべての攻撃から守られており、あまつさえ自分を棚に上げて人を攻撃している。
どんなカスにであっても、罵倒されると人はケチがついた気がしてイヤな気持ちになるので、代わりに繊細な若いモンたちが次々にやめていっている。

もっと許せないのは、「上司として◯◯すべき」「仕事はすべき」というすべてのビジネスべき論から外れた行いをしているのに、給料もそれなりにもらってるはずだし、鈍感だから幸せそうということだ。
ん……鈍感だから幸せそう!?

そういえば世界で一番安定した人格の持ち主こと私の夫も、「幸せになれないことは考えない」みたいなことを常日頃から言っている。
あげくに「幸せになる能力」とかいうわけわかんないもののことを説いている。
今までは意味わかんないし私のモノじゃないなと思ってきたけど、違うのかも。私が必要としてるのってそういうことかも。
(「絶対幸せなんだから幸せじゃないふりをやめる」という意見をTwitterでみて電撃が走ったのもある。)

私は決めた。自分の至らなさを指摘し続けるのはやめて、鈍感になろうと。そして何よりも幸せになろうと。
太宰治は「弱虫は幸福をさえおそれるもの」という金言を遺している。
ありがたくその言葉を反面教師として、恐怖に打ち克って幸せになろうじゃん。


幸福な方がいい

自分の幸福を追求するようになって本当によかったことの1つは、友達ができたこと。
ようやく最近、人付き合いが面白いと思えるようになった。
友達の何気ないひとことに「わかる!」って思えることが嬉しいし、そういう連帯がこのうえなく尊いと思う。(でも同時に、年取らないとこれほど率直に話し合うことってできなかったかも、とも思う)

あと誰かに八つ当たりされても、「まあ私は幸せだけどこの人はそうじゃないっぽいからしゃあなし」で気にならなくなってきた。

幸せって免疫みたいなもので、多少ウイルスみたいな刺激が入ってきてもはねかえせる。だから結論幸せな方がいい。

こういう感じで気づいたことがあと2つあるのでそれも残しておこうと思ってます。


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