羅漢拳 前編
第一回
吉澤ひとみ・・・・謎の美少女
村上弘明・・・吉澤ひとみの兄
松村邦洋・・・吉澤ひとみのクラスメート
滝沢秀明・・・吉澤ひとみのクラスメート
第一章
古来より人間はもとよりこの世に生をうけた生き物は皆、この大自然に包まれて自然のなにものかを感じながら生きてきた。
太陽が頭上に上れば万物を照らしあたりを明るい昼の世界とし、天は人間にその慈悲深い恩恵をしろ示す。日が沈めば夜空に星が輝き月が青く地上を照らす。
一幅の絵画を人に見せようとしてか。春が来れば草木は芽をだし、生まれたばかりの小動物の子供たちが草木を駆けめぐり、そして夏が来て秋が来て冬が来てまた春がやって来る。その間に一世代が死んでもその子供はまた子供を生むだろう。
生と死が断絶しているように見えて連綿として続いていく、昼と夜のように。古代の人々はこの営みを動かしている何かを身体全体で感じていた。それを体系化しようとさらにあとの人たちは考えた。インドでは壮健法としてヨガとなり中国では陰陽二つの気がこの世界を支配していると考えられ独特の哲学が展開された。古代の哲学者たちはみなこの自然を支配するなにものかを感じとっていたし、それをうまく飼い慣らすすべさえ心得ていた。さらにはそれらの方法を自家薬籠中のものにした人物もいた。その方法を手に入れれば生命は永遠となり、無限にも近い物理的力を手に入れることもできた。何百年もの生命を持つことも可能になり、手も触れずに何トンもの岩石を投げ飛ばすことさえ可能にした。そういった陰陽の二気や宇宙のエネルギーを自由自在に操ることのできる人間や集団は途切れることなく歴史の表や裏に現れてきた。それらの中に拳法をよりどころとして活躍することになる集団が出現した。彼らはのちにある呼び名で呼ばれるようになった。
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人食い虎
第二章
ヒマラヤ山脈の麓に小国があり、その小国には一人の年若い王子がいた。この小国はまわりを強大な隣国たちにかこまれ、その将来には暗雲がたちこめていた。王子自身にも人生上の悩みがあった。ある日王子は突然として係累をたち、王国を捨て、解脱の道を会得する修行の旅にでた。やがて人喰い虎が徘徊するような人里離れた場所にたどり着いた。
そこには一本の菩提樹が宇宙のはて一千年光年を見据えているようにヒマラヤ山脈を背にして立っていた。王子は何かを感じここで修行することに決めた。それはまさしくこの宇宙に漂っているこの世界の運行を決めている何かを感じ取り、予定調和の筋書きに従ったからかもしれなかった。その一本の菩提樹のまわりにはひとけもなく、遠くでは野生動物の雄叫びが聞こえた。ここから一番近い人家のある村はずれで王子が先へ行く道を尋ねたとき村人は心配げに王子の姿を眺めた。王子がさらにさきに進むつもりで日が暮れればそこで野宿をするつもりだと言うと村人たちは彼を止めた。あそこは人喰い虎が出る、あそこに一人で行こうと言うのもましてやそこで野宿をしようと言うなんてもってのほかの命知らずの馬鹿者が言うことで命がいくつあってもたりゃしない、いくら高邁な理想を掲げた修行者といっても最後に会ったこのわしらに弔いの手間をかけさせるなんて面倒を押しつけないでくだらっしゃい。そう言ってとめたのだが王子はもしわたしが禽獣の餌になるなら禽獣の命を助けることになる、またもしそれに子供がいるならその子供も救うことになる、そう言ってさらに森の奥まで進んで行った。そして菩提樹の木陰まで辿り着いた。王子はその菩提樹のしたで瞑想をした。日が暮れる前まだ外は明るいというのに日陰になっている竹藪や森の奥のほうでは不気味に瞳を光らせた人喰い虎たちが徘徊していた。それでも二日目の夜までは何事もなかった。三日目の晩、いつものとおり野獣たちの恐ろしげな咆哮が続いたが闇のなかの光る眼がいつもよりらんらんと大きく輝いていた。それが右に行ったり左に行ったりまるで闇夜に浮かぶ蛍の光のようだった。彼は獲物を狙う野獣の殺気を感じた。彼にも虎が彼を食べに来たということは分かった。それが運命なのか、彼は半ば諦めの境地になった。
しかしなにも悟りを開かないうちに死んでしまうのは何とも悔しかった。そんな王子の心中にはおかまいなしにやはり虎はあたりの気配を伺いながら獲物にとびかかる機会を狙ってているらしかった。しかし王子の頭のなかは悔しさと同時に変な感情が同居していた。それは感情というには語弊がある身体的状況と言ったほうが良いかも知れない。彼は意外と冷静だった。正常な判断力を欠いていたのかも知れない。それというのもその時をさかのぼる六日の間食事らしい食事をとっていなかったので幻影を見始めていたからだ。すると頭の後ろの方で何かを語りかけるような声が聞こえた。
「年若い旅の者、腹をすかせたこの地の先客がお前を食べようとしているぞ。」
王子が振り返ると山羊のひげよりも白い白髪の老婆が杖をついて立っていた。その老婆の姿ははなはだ変わっていた。その杖もここいらでは見たこともないような妙に曲がりくねった杖で服もやはりここいらの住人の服装とはすっかり違っている。そのうえ人里離れた森のなかにいるのにその服はまっさらでまるで空気をかためて布地にしたてたようだった。夜の闇のなかでその白い服だけが浮かび上がって見えた。そして首には翡翠の首飾りをしている。そのうえ腰には金の鎖をつなげてへそのあたりには大きな太陽と月をかたどった金の飾りをつけていた。老婆は再び王子に話しかけてきた。
「お若いの、お前の命もここでおしまいじゃな。そんなにしてまで何故こんなところまで来たのじゃな。」
「人は何故生まれ、死んでいくのか、答えを見つけにここに来ました。」
わははは・・・・、すると老婆は高らかに笑った。
「生まれ、死んでいくじゃと。そもそもお前は生まれるということがどういうことか、死ぬということがどういうことか知っておるのか。生まれ死んでいく理を知りたいじゃとそうではあるまい。お前は生に執着して永遠の命を欲しておるのじゃろう。そんな欲深のお前には聞こえまい、今ここにも語りかけてくるものがおる。」
そのとき闇のなかに潜んでいた人喰い虎が突如葉音をたてて竹藪の中から飛びかかってきた。すると老婆は人差し指をたてて右手をさしだした。するとどうしたことだろう。空中を飛び上がった虎はまるで大きな岸壁にでもぶつかったように額のところがぱっくりと割れて悶絶死した。
「お主の悟りというのも・・・
老婆は王子に話しかけた。そして振り返ると白い巨大な鹿の姿となって森の中に消えて行った。
この王子の名はゴータマ・シッダルーダと言い釈迦として知られている。釈迦はこの老婆から何を伝えられたのか。それは誰も知らない。ゴータマは仏と呼ばれ仏教を開いた。仏教は四方の国に広がっていった。しかし釈迦の始めた仏教は釈迦の入滅後多くの後継者を生み、さまざまな教義が派生した。まず二つに分かれた。極楽浄土への道は自分自身の力によって得られるという小乗とすべての人は同じいかだに乗り合わせているのだからすべての人々が同時に救われるという大乗の法である。しかしそれらの教えは表の教義である。太古から連綿として続く教え、自然エネルギーを自由自在に扱う方法、仏陀はそれの体現者なのであった。彼らは仏陀の教えにより自分自身の肉体、精神を超人と化し、ひとたび国の危機が生じると立ち上がった。彼らの組織は世界中に広がっている。しかし普段は人の目に触れない山奥で暮らしていた。仏陀が現れてからの彼らの集団は羅漢拳と呼ばれていた。現代においても、紀伊、つまり現在の和歌山の山奥でも彼らは人知れず居を構えていた。彼らは長老と呼ばれる老人に統率されていて、なかには五メートルをゆうに超える巨人もいた。
彼らの流派は羅漢拳と呼ばれ肉体を超人と化し過去八百年以上にわたり日本の歴史上ことあるごとに正義と弱者の側に立って行動してきた。
そして近年においては遠くアメリカ大陸にまで彼らの仲間は渡った。しかし彼らは歴史の表舞台に現れることはなかった。彼らは一瞬のつむじ風のようにあるいは不意に出現する
目に見えないかまいたちのように人々に思われるだけだった。人々は彼らの実体を全く知らなかった。しかし現代においても日本のみならずアメリカにおいても彼らは行動しているのだ。彼らはアリゾナでまたロッキー山脈の山中深くそして日本では熊野の深山幽谷の秘境の中に住む。人の通らないような森林で囲まれた人跡未踏の山腹を
削り白い大理石を並べ彼らは石造りの家に住む。山の斜面を削った階段状の大谷石を敷き詰めた道場で南からの陽光を浴びながら座禅している。それは自然との完全な同化を実現していた。頭をすっかりとそり上げ、青々とした髪のそりあとをあらわにして座禅している男たちは十数人くらいいるだろうか。そして異常な巨大な身体をした女がいる。身の丈は四、五メートルはあるかもしれない。しかしそれが不自然さを感じさせないくらい身体の均整がとれている。
大谷石で組み上げられたまるでそこがギリシャか地中海の島であるかのような家の中にはその半球状の天蓋の下に自分の精神を解脱への境地に持っていった肉体と精神を完全に超人と化した女神のような女性が一人つくねんと座っていた。
第二回
新興住宅地
第三章
大阪郊外の新興住宅地の一角に最近できたばかりの近代設備を整えた精神病院があった。
その精神病院の本棟は白いコンクリートで作られいて患者を収容する病院の回りはやはり高い白いコンクリートの壁で覆われている。何から何まで白ずくめで無機質な感じをあたえられている。建築的にはコンクリートの上に白い塗料を吹きつけているからだろうか、そしてその建物は中世の要塞も連想させた。
その白い壁はどこまでも続いているように思われ青空と地上との境界線を形造っている。
そして空には抜け渡るような青空がどこまでも続き、その青空とこの建造物のおりなす造形美はあたかも地中海の小島に浮かぶギリシャの遺跡を思わせた。
その病室のドアが開けられると中にうつぶせになって倒れている男がいた。
男は病人のための白いパジャマを着せられその男の口からは毒々しい赤い血が流れている。目は異様にかっと見開かれその血は白いタイルの上にまき散らされていた。白いタイルは死者の赤い血で染められ病人の衣装もまたそうだった。
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この事件があってからまた少したってこの病院のある町でまた事件がひとつ発生した。
この町のはずれに一軒の古い寺がる。名前を照光寺。それなりにこの町には歴史があるのだろう。昔はこの古寺も町となる前は政治的行政的に何かの役割を担っていたのかも知れない。そんな昔ここらあたりは皆田んぼばかりだったのだがこの新興住宅地の開発がある不動産会社によって開始されると田んぼは次々と埋められそこかしこに家が建ち並び始めた。
しかしこの寺の回りだけは田んぼが多く残っていた。まだ舗装されていないあぜ道には松並木が並んでいる。夏の夕暮れ時には遠くからカエルの鳴き声があちらこちらから聞こえてくる。この古寺は長いこと住む人もなく荒れるにまかせていたのだが最近になって一人の若い僧が現れ、寺のなかを手をくわえて住めるようにした。そしてその若い僧はその中に住み始めた。しかしその事に気づいた人間はほとんどいなかった。それほどこの古寺はうち捨てられた存在だったからだ。またそのわけはその若い僧が誰にも知られないようにひっそりと暮らしていたということもある。もしかしたら通学途中の小学生ぐらいはその事を知っていたかも知れない。ある夜その古寺に変事が生じた。
今は真夜中である。その古寺の中で電灯を消したまま真っ暗な闇の中で二人の人影が見合ったまま全く動こうとしなかった。二人の間には殺気が漂っている。一人は若い僧であり。もうひとりは見知らぬ人影である。そのふたりのにらみ合いの緊張が解けた瞬間、見知らぬ人影は手を振りあげた。腕はすばやく動くことはなかったが重量があるのか、その内部に力を蓄えているようだった。その腕の振りをするりと若い僧はよけた。するとその一撃は空を切り柱に当たって柱はまるでわらきび細工のように鈍い奇妙な音を立ててへし折れた。こんどは僧が飛鳥のように中空に跳び上がりその見知らぬ人影に飛びげりを加えるとそのけりはその男の胸のあたりに当たり見知らぬ人影はつき飛ばされて古寺の壁を突き破って外へ転がり出た。見知らぬ人影は黒い覆面をしていた。やおらその人影は立ち上がると古寺の庭に置かれている重さ一トンくらいの岩を頭上高く持ち上げ若い僧めがけて投げつけた。大岩は空気をひきさくうなり声を立てながら若い僧目がけて飛んでいった。すると若い僧は一トンの岩石を正拳で受け粉々に砕いた。古寺の背後にある松林にまで二人はもつれ込んで乱闘を続けた。それはまるで千年の歳月を生きてきた大蛇とワニの死闘のようだった。見知らぬ人影や若い僧が空振りをして木にその攻撃があやまってくわえられると直径三十センチくらいの木はまるでわらきび細工のようにぼきぼきとへし折れた。松林から古寺に戻ると二人はまた闘いを続けた。古寺はついには廃材の山と化した。そして二人の姿はいつしか見えなくなった。翌日その廃材の山となった古寺見て人々は驚いた。精神病院での殺人この古寺の原因不明の消失は大阪の新聞の社会面の片隅に取り上げられた。
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第三回
第四章
H電鉄の**稲荷駅の京都から大阪に向かう路線側のホームに一人の女が降り立った。彼女はホームに降り立つとホームの側面に立て掛けられてある路線図の方へ走り寄った。
「やっぱり電車を間違えていたんだわ。」
あわてて路線図の横にある時刻表の方に目を移した。
「ええと、**京へ行くには***河駅まで行ってまた電車に乗り換えなければならないのね。」
そしてまた時刻表の方へ目を移し乗り換えの電車の時刻を確認した。どうやら彼女は電車を間違えたらしい。
***稲荷はH電鉄の駅であり、駅名の由来はその駅が***稲荷の参道の駅になっているからである。彼女が次ぎにくる電車を待っているとホームにいた老年に近い男が懐メロを歌い出した。プロ歌手のようにうまくはなかったが長年生きてきた人生の味わいのようなものがあって不快になるほどのものではなかった。その駅のホームには十四、五人の電車待ちの乗客がいたが誰もその男を止めないことにはそんな理由があったからかも知れない。その老人は誰に聞かせるでもなく完全に自分の世界に入ってその懐メロを歌っていた。自分の世界に入れるのも道理で彼の手にはウォークマンが握られ耳にはヘッドフォンがはめられていた。両手にウォークマンを握りしめメロディに合わせて首を左右に振っていた。カラオケの練習をしているようだった。ホームには子供連れの若い母親、通勤途中の若いOL、友達の家へ行くのか若者などがいたがその老人を誰もが苦にしていないようだった。いつも日常的に見られる光景なのかも知れない。だいたいが***稲荷駅はちょうど京都と大阪の真ん中あたりの位置にあってかなり庶民的な雰囲気なのだ。彼女は次の乗り換えの電車を待つ間何か幸福な気分になった。そのため電車を間違えたことも気にならない。
時刻表どおり十四、五分で次の乗り換え電車はやって来た。電車の中に乗り込むと通勤時間帯をすぎているからか車内は思いの他空いていて座ることができた。電車は駅のそばを走っているときは線路沿いに人家があるので窓より低いところに家の屋根が見える。家の屋根が途切れると田圃や何を作っているのかわからないがサイロのような形をした建造物が見える。そのうち馬のマークの入った看板が彼女の目に入った。
大きな競馬場に関した施設があるらしい。彼女の座った座席は対面型の形式になっていて彼女が腰をおろしたときは目の前には誰もいなかったのだが二つ目の駅で向かいに若い女性が座ってきた。彼女は同じ女性だったので相手の服装を細かく観察した。髪を長く伸ばして頭にはサングラスを髪のところにさしている。裾の狭まったスウェードのズボンをはき上には鶯色を薄くして墨汁を点々とたらしたような柄のシャツを着ている。どう見ても銀行の事務員には見えなかった。彼女は向かいに座っている女性がどういう人物だろうかと職業や家族構成、恋人のことどんな家に住んでいるだろうかとかもろもろのことを想像してみた。向かいに座っている女性は昨日よく眠っていないのか車窓の窓に肘をかけると居眠りを始めた。彼女はショルダーバッグの中から手帳をとりだした。それから旅行案内書のようなものも取り出した。
「***京、平城京と平安京の間に置かれた古代王朝の首都・・・・」
そこには彼女が間違えた電車を乗り換えてでも行きたいと思っていた場所の解説が載っていた。その旅行解説書はつい最近刊行されたもので定説と呼ばれる部分とつい最近の情報がからめられてのせられていた。彼女が興味を持った部分は渡辺為好の息子で渡辺政行の消息が不明だったものが死ぬ十年前までの行動が文書に残されていたという発見が***京にある寺院においてなされたということだった。それには副産物があり、渡辺綱が使っていたという古刀も発見されたという内容が書かれていた。渡辺氏というのは渡辺津のあたりにねじろを置いた武士の一族であり、渡辺津というのは今の大阪の淀川河口のあたりにある。渡辺氏の一族、渡辺為好は保元平治の乱のとき源頼政の旗下で武勲をたてた。渡辺為好の祖は渡辺綱である。渡辺綱は源頼光の四天王の一人だった。
四天王とは、坂田公時・渡辺綱・卜部季武・碓井貞光の四人である。歴史上有名な話はこの四天王と主の源頼光、それに藤原保昌を加えた六人が大江山に住み悪事をなすという酒呑童子を退治したと伝えられている事跡だ。もちろんこれは歴史ではない。彼らの武勇を賛美するための伝承にすぎない。しかし彼らの武勇を憶測することはできる。彼らの腕っ節が強いというのではなく源頼光が政治的にも重要な地位を占めていて富裕でもあったことが想像できる。そして特に四天王の中でも渡辺綱は独立した武勇伝があり、京都堀川の一条戻り橋の橋の上で美女に化けた鬼の腕を切り離した話しは有名である。もちろんこれも象徴化にほかならないだろうが。その渡辺綱が持っていた古刀が発見されたというのである。これがどんな意味を持っているのだろうか。発見されたのは渡辺政行の晩年の日記が発見されたという**京にある寺院だった。これだけの大発見だから新聞にも載ることが常識なのだが新聞は沈黙を守っている。新聞が沈黙を守っているくらいなのだから当然学会も沈黙を守っている。しかし彼女はこの女性週刊誌の付録のような旅行解説書に多いに興味を持たされた。そして***京へ行ってみようかと思ったのである。そこにずっと眼を落としていると微かに誰かが微笑んでいる気配を感じた。目を上げると向かい側に座っている女性が微笑んでいる。彼女の方も微笑みを返した。
「あんまり熱心にその本読んでいるからついつい見とれてしまったわ。堪忍してや。」
「いえ、いいんです。そんなに真剣な表情をしていましたか。」
「そうやね。じっと見てたわ。」
「あはははははは、」
彼女は声を立てて笑った。
「旅行に来はったの。」
「いいえ、大阪に住んでいるんです。二週間前からですけど。」
「二週間前はどこに住んではったの。」
「東京です。」
「じゃあ、まだ大阪には慣れていないのやね。」
「ええ、」
「これからどこへ行かはるの。」
「まだ関西に来て二週間しか経っていないから観光を兼ねて旅行スポットを歩こうかと思って。そういう意味では観光客なんです。」
向かいに座っていた女性が見ず知らずの彼女に話しかけてきたというのは彼女が無邪気に旅行案内書に心を奪われていたということからだけではなかった。同性でも見とれてしまうような彼女の容貌にあった。大変な美人で、それでいて男性、女性どちらにでも嫌みな感じを与えない大らかなところがあったからだ。電車に乗っている間中二人は話しがはずみ、お互いの連絡先まで教え合っていた。**京を訪ねる予定になっている彼女は自分の名前を言った。
「吉澤ひとみって言うんです。住所は・・・・・。」
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第四回
大阪の郊外に府立S高校という公立の男女共学の高校がある。同じ町には不可解な殺人事件のあった精神病院、暗闇の中の格闘のあった古寺を擁している。しかしこの高校ははなはだのんきである。この高校の中にはこれらの事件を知っている者は一人もいないのではなかろうか。環境としては周りを菜の花畑や雑木林などに囲まれた新設ののどかな高校だった。S高校の屋上に上って辺りを見回すとこの町の全容がすっかりとを見渡すことができる。あたりはだいぶ住宅も建ち並び始め赤や緑の屋根が緑のじゅうたんの中にまるでマッチ箱のように点在している。あの精神病院や古寺も風景の一要素としてとらえれば単なる小さなマッチ箱だ。そして所々に畑や農家のわらきび屋根も見える。ここら辺が町になる前はそれなりの伝説もあった江戸時代からの因習をひきずった村だったろうし、狸や狐にばかされた話しも、古沼に住む河童の話しも、そして藁葺き屋根の家の中でそれらの伝承を語り継ぐ老人の姿もあっただろうがそれらは新しく移入してくる住民や事物に押し隠されてしまった。そして新興住宅が次々と建てられていった。S高校から見える新興住宅は大体が一戸建ての家が多かった。それらのひとつひとつの住まいには住宅ローンに追われながらもまた通勤時間の長さに辟易しながらもやっと自分の城もてたことに満足している幸福な人々の生活があった。それらの一戸建ての住宅のほかにも大阪府の肝いりで計画建造された大きな雑木林の一角を区切って四階建ての集合住宅が十棟ほどたてられた。これは大都市の郊外の新興住宅地街ではよく見られる風景である。校舎の階段を上がっていくとS高校の屋上からは五月の薫風をほおに受けながらそんな景色を望見することができる。今、その白い長方形の箱の内部はだいぶ人で埋まっている。長期休みもあけてS高校も新学期になっていた。松村邦洋はこのS高校の二年生である。松村邦洋は連休中の宿題もなんとかやり終えて連休明けの提出期限に間に合わせることができた。連休も開け五月中旬ともなるとさすがに少しずつ夏の気配が感じられる。ときには真夏のような強い日差しの日もある。この暑い日差しが作物の生育に欠かせない。夏は成長の季節であり人が子供から大人に変わる季節でもある。高校二年生の松村邦洋はすっかり回りの皆が大人びてきたことを認めずにはいられなかった。しかしその一方でそう感じている松村邦洋は少しも成長しておらず回りの皆に取り残されていような印象を人に与えるほどあどけない容貌をしていた。そのあどけない容貌というのも彼の体型に起因しているといえないこともない。松村邦洋は極端に太っていた。そのユーモラスな外見がそういった印象を他人に与えるのかも知れなかった。現在活躍しているタレントで言えばものまねやお酒を飲むときコップを縦笛に見立てて指を演奏しているように動かすお笑いタレントに似ていた。松村邦洋が教室に入ると回りの生徒は連休中の思い手話しに花を咲かせていた。いつものように教室は活気づいてざわめいている。連休気分がまだ抜け切れないものもいる。やがて始業のベルが鳴り生徒たちは各自着席しホームルームの最近結婚したばかりの担任畑筒井が教室に入ってきた。ホームルームの担任は二人の生徒を後ろにしたがえていた。転入生らしかった。一人は男でもうひとりは女だった。畑筒井は婚期が遅れていてだいぶ年をとってから嫁さんを見つけたので三十の半ばを過ぎている。だからはなはだむさい。むさいホームルームの担任は教壇に上がると生徒たちの方を見回してあいさつをした。その間ふたりの生徒は教室に入って来て教室の前方にあるドアの前で借り物の猫のようにじっとして待っていた。ホームルームの担任が口を開いた。
「やあ、みんな連休は長かったが有意義に過ごしたか。」
するとどこからともなくちゃちゃを入れる声がした。
「先生、結婚したんですか。どんな人。僕たちの知っている人ですか。」
すると畑筒井はきまり悪そうに空咳をした。「おい、吉田、お前は連休をどんな風に過ごしたんだ。」
吉田と言われた生徒は小猿のような身振りで連休中に山に泊まりがけで旅行をしたことなどをてぎわよく話した。教室内の生徒たちはその話を聞いていたが二人の転入生に心を奪われているようだった。そんな教室の雰囲気にも畑筒井は無頓着だった。
「そうかみんな何らかのことに精出していたんだな。よろしい。よろしい。若いときは二度とない。みんな悔いのないように過ごすんだ。」
「人生チャンスは何度でもあります。畑先生でも結婚できたんだから。」
「うるさい、何を下らないことを言っているんだ。僕の良さを認めてくれる人が現れたってことだよ。うっしししし、ところで今日は新しい仲間がこのクラスに入ることになったので紹介しよう。二人とも今度新しくできた栗の木団地に引っ越してきた二人だ。」
ホームルームの担任畑筒井が言った栗の木団地というのはこの町にある大きな雑木林の一角を削って作った新しい団地のことだった。その団地が最近完成したためだいぶこの町の人口も増えたに違いない。そのためS高校にも編入者が随分と多く入ってきた。最も高校がというか行政側では栗の木団地の完成を見越して生徒数もだいぶ多く見積もって高校を新築したのだが。
「さあ、二人ともこっちへ来いや。」
ホームルームの担任がネクタイを直しながら教壇から二人の転入生を呼び寄せると二人が教室入り口のところから教壇の上に跳び上がった。そして照れ臭そうに教室内の生徒たちの方を見た。
「こっちが滝沢秀明くんだ。」
ホームルームの担任が男の方を指さして言った。その男子生徒は中肉中背で眉のあたりの濃い少しあごの出た容貌の男でどこが俳優のYに似ていた。またずいぶんと礼儀正しい男のように見えた。そして人を見るときの彼の目の奥にはどこか燃えている光があるようだった。演壇の上に立つとその特徴である顎を少し前に突き出して言った。
「滝沢秀明と言います。滝沢の滝は。山にある滝、居は住居の居です。お宮の滝沢と言ったほうがわかりやすいかな。よろしくお願いします。」
滝沢秀明はそう言うとまた照れ臭そうな表情をしてぺこりと頭を下げた。それはまるで宮沢賢治の童話どんぐりと山猫に出てくる山猫のようだった。滝沢が後ろに身を引くともう一人の転入生の女の子の方が一歩前に出てきた。そしてホームルームの担任はまるで今日の自分の恋人とのデートで上の空にでもなっているように彼女を見た。
「それからこっちの女性が吉澤ひとみさんだ。」
そう言うと今度は担任の方が山猫のようににやにやした。何とそれは**京を観光しようと電車に乗っていた、大江山の酒呑童子に出てくる渡辺綱に興味を持っていた女の子だつた。
「吉澤ひとみと言います。よろしくお願いします。」
吉澤ひとみと名乗った女子生徒はペコリと頭を下げた。笑うと目がクリクリとするなかなかの美人で表情はバラの花のように輝いていた。どこかいたずらっぽい感じのする女でそれでいてどこか純粋でけがれのない部分を持っていた。
「じゃあ席はどこにしようか。滝沢も吉澤も目を悪くないか。」
ホームルームの担任の畑筒井は間延びした表情で教室の中を見回した。
「いいえ。」
「いいえ。」
「じゃあ一番後ろの席が二つ空いているからそこに座って貰おうか。いいだろう。」
「はい。」
そう言って二人の転入生は自分の荷物を持つと教室の後方へ移動していった。クラス中の視線はその間中彼ら二人に注がれていた。もちろん松村邦洋の視線もこの二人の新しい転入生に注がれていた。その列には空いた座席が二つあったのだがそのうちの二つの座席が埋められた。まだ一つ席が空いているのだが担任の畑筒井はあご髭をさすりながら開いている席に目を移すと心の中ではまじめな気持ちで言っているのだろうが、やはりまだ間の抜けた調子で付け加えた。
「あとみんなに悲しい知らせがあるんだ。松田努はしばらく学校を休むことになったや。松田の世話をしている親戚がそう連絡してきた。いつまで学校に来られないかははっきりしない。早くまたみんなと一緒に勉強ができるようになればと思っているんやが。みんなも知ってるとおり松田のお兄さんが原因不明の精神病でK病院に入院してしまい、その精神病院の中で変死した。そのことは知ってるやろう。」
「ああ、俺、知ってる。」
クラスの中の一人の生徒が声を出した。するとまたその生徒のそばにいたもう一人の生徒が声を出した。
「松田の兄さんは自殺という事になっているけど噂では殺されたという話しやで。証拠がないからつかまえられないんやて。犯人はK病院のそばの逆さの木葬儀場の栗木百次郎だという噂やで。」
栗木百次郎と言われてもここに最近越して来た生徒にはわからなかった。昔からここに住んでいる生徒だけが栗木百次郎と言われてぴんと来るようだった。K病院のそばには逆さの木葬儀場という焼き場があるらしい。昔から住んでいる生徒の家ではその名前はかなり有名なのだろう。そしてその家の家族がそんな噂をしているのだろう。そう言った話を小耳に挟んだ生徒が半ばそう言った噂を信じてそう言った噂が出たのだろう。しかし軽率にそう言った生徒を担任の畑筒井はたしなめた。
「あんまり噂みたいな事を言うんやない。警察でもちゃんと自殺だったと結論を出しているんやから。まあ、とにかくその精神的負担からやないかと思うんや。それで努も随分とそのことを気に病んどったからな。みんなで少し力付けてやってくれや。以上。」
ホームルームの担任の畑筒井はそういうとネクタイを締め直しながら教室を出ていった。ホームルームの担任が出ていくとクラスの中でもに如才のない連中、二、三人が新しい転入生の滝沢秀明の前にやって来た。
「やあ、君、滝沢くん、君なんていう高校に行っていたの。前はどこに住んでいたの。」
好奇心の強い連中は山なりになってまるでひとつのエサに群がる猿のよう滝沢秀明の方へきた。
「前は東京の大田区に住んでいたんだけど。
通っていたのT高校だよ。」
「そう、東京と大阪ってどう違うと思う。第一印象でいいから聞かせくれや」
「そうだなぁ。どう違うか僕にもよく分からないよ。」
「じゃあ、東京の女の子と大阪の女の子だったらどちらがかわいいこが多いと思う。なあ聞かせてくれや。それによって、わてどこに住むか決めようと思ってんのやさかい。」
滝沢秀明は苦笑いをした。
「うーん、大阪の方が多いかもしれない。」
「あっ、そうだ。わての名前言うの忘れてたけど
三石言うんや。よろしくな。」
「それからわての方は勝岡言うんや。よろしくな。」
「松村邦洋の二、三人後ろの席からはそんな話し声が聞こえてくる。吉澤ひとみの方も二、三人の女の子に囲まれて話していた。
「吉澤さんどこから引っ越してきたのや。」
「うん東京の方よ。新宿からよ。」
「あら、うちの親戚も新宿にいるんや。この前もその親戚の家に遊びに行ったんや。」
「あら、新宿のどこ。」
「早稲田の裏の方や。」
「あら、私の親戚も早稲田に住んでいるのよ。あっちの方まだ市電が走っているでしょう。東京だったら都電って言うんやろうけど。」
「うん、走っている。走っている。」
「それに乗って大塚というところで降りたわ。」
「私もその都電には毎日乗っていたわ。それに乗って通学していたの。」
そんなことを話しているうちに次の授業のチャイムが鳴り皆は席についた。授業中二人の転入生はどんなことをするのだろうと他のクラスメートと同様松村邦洋もこの二人にほとんどすべての関心を向けていたが二人とも新しく貰った教科書に興味があるのかそれとも前の学校で使っていた教科書と違うのか授業中もそれらの教科書に目を通しているだけで何の変化もなかった。夕闇に囲まれたS高の校舎から出て吉澤ひとみは白い校舎の建物を見ると背後の夕闇が感傷をさそうようなだいだい色ではなく、不安や恐怖を暗示するような暗い色をして校舎を飲み込む悪魔のような姿に見えた。まだこの学校にやって来てそう日も経っていないのに何故そんな風にこの学校の姿が見えるのか吉澤ひとみ自身にもわからなかった。まだこの学校に来てから嫌な思い出が出来たというわけでもない。振り返った校舎の窓は大部分が閉まっている。少し大股で革のかばんを前後に振りながら女子高生がよく履いている白いハイソックスとリーガルの革靴で歩いていた。すると後ろから誰かに呼び止められた。吉澤ひとみが後ろを振り向くと彼女が転校して来て新しく入ったクラスメートの女の子が三人いた。彼女たちは吉澤ひとみに多いに興味を持っていた。吉澤ひとみがテレビに出ても良いような大変な美少女だという事と東京からやって来た人間だということが大きな原因だった。
「吉澤さん、これから真っ直ぐ家に帰るの。」
「ええ。」
「どこに住んでいるんや。」
「栗の木団地。」
「ああ、あそこ。」
「クラスの子で誰か栗の木団地に住んでいる人っているの。」
「うちのクラスにはいないけど、隣のクラスにはいるわ。」
吉澤ひとみには彼女の通っている高校の姿が不気味に見えた事の意識がまだどこかに残っていた。
「この栗の木市で何か変わった事件とか起こっていない。」
すると三人並んで歩いていた女子高生の一人が吉澤ひとみの方を振り向いた。歩きながらしゃべっていたが彼女たちは足を止めた。
「吉澤さんはまだここに来たばかりだから知らんかもしれないんやけど、犬が何匹も殺されているんや。どこで殺されたのかわからへんやけどその死骸が川の土手に捨てておかれたり、公園のごみ箱の中に投げ入れられたりしているんや。」
「前からそんな事があったの。」
「最近の事や。」
「犯人の心当たりは全くないの。」
「それが全くないんや。犬を飼っている家なんか、それやから戦々恐々や。どこかの家で犯人らしい人物を見たという噂の立った事もあったんやけど。」
「犯人は変質者なのかしら。」
「たぶん、そうやろ。」
「なんや。」
吉澤ひとみの横を歩いているもう一人の女子高生の方が校門の方を見て小さく声を上げた。二つ並んだ校門の柱は巨大な四角柱の形をしていて白い墓石のように見える。その墓石の向こうに顔の表情ははっきりとは見えないのだがくすんだあずき色の服を着た河童のような男が横目でこちらの方を見ている。
「いやだあ、栗木百次郎がこちらの方を見ているわよ。」
「あっ、本当だ。栗木百次郎だ。」
女子高生たちはおぞましいものを見るようにひそひそとささやき合った。そこには何となく怖さも入り交じっていた。遠くの方で背をかがめてこちらの方を横目で盗み見ているその河童のような人物の姿は吉澤ひとみにも薄気味悪かった。もしかしたらこの校門から出て行く女子高生を観察しているのかも知れない。この校門に立っている理由などないのだからそうとしか考えられない。
「ねぇ、ねぇ、ひとみちゃん気を付けなきゃあかんであいつ盗撮魔なんやで、うち噂を聞いた事があるんや。うちの生徒の一人がテレクラでおじさんを引っかけてホテルにしけ込んだのはいいんやけど隣の部屋にあの栗木百次郎が隠れていておじさんとのセックスから金を受け取るところからみんな、壁に穴をあけていてそこからその様子を隠し撮りしていたんやて、それをゆすりのねたにして自分とつき合えと脅迫してきたんやて。それだけではないや、やっぱりうちの生徒が万引きをやったときそれを隠し撮りしていてそれをねたにうちの生徒とつき合うように脅迫したって話や。」
「それでつき合ったの。」
「警察にその生徒たちが通報して栗木百次郎は警察に捕まったという話や、それが何で警察からすぐに出て来られたか不思議なんや。脅迫ってものすごく思い罪なんやろ。」
「そうね。」
気味が悪いと思いながら栗木百次郎の姿を見ていると急にそそくさと栗木百次郎は猫背の姿勢のままでその場から立ち去った。校門の前は大きな農家のけやきでできた生け垣になっていてその生け垣と生け垣の間に大きなくぬぎの木が立っている。そのくぬぎの木の陰で校庭の方を伺っていたのだがそそくさとそこを離れて行った。吉澤ひとみが校舎の方を見ると男の教師が二人こちらの方に小走りでやって来る。きっと校門のところに栗木百次郎がいるのを見てやって来たのだろう。そうすると栗木百次郎はかなりのお尋ね者ということになる。
「先生、栗木百次郎は逃げて行きましたよ。」
生徒の一人が言った。 ***************************************************
第五回
教室の窓の外には青々とした葉をつけた庭木が生徒たちの保護者のように立っている。校庭で球技をしている生徒たちの勝ち負けに一喜一憂するように高いところに吹く風に葉をさらさらさらと揺らしていた。そのたびに木漏れ日がその重なった葉のあいだから生じ、かつ消え、きらきらとまどろみの木陰に落ちてまるで黄金の色をした揚羽蝶が地面の低いところを飛んでいるようだった。
すべての授業が終わり下校時間となり松村邦洋は帰途についた。松村邦洋はクラブに入っていないために授業が終わると家に直行する事になっている。こういう生徒のことを帰宅部に入っているというそうだ。松村邦洋は最近やっとアスファルトで舗装された道を一人とぼとぼと歩いていくと後ろから急に声をかけられてびっくりした。振り返ると新しく転校してきた吉澤ひとみが微笑んで立っている。怪しげな微笑みである。
「ちょっと待って。私もこの道を通るから一緒に帰ろうと思って。多分同じクラスの人でしょう。悪いんだけど名前を思いだせなくてごめんなさい。」
「松村邦洋って言うんや。」
松村邦洋は美しい訪問者に突然声をかけられてそのうれしさが隠しきれない表情をした。「私、吉澤ひとみって言うのよ。。今日転校してきたの。あなたも覚えているでしょう。それとも忘れてしまったかしら。もしそうなら今覚えてね。」
そう言って吉澤ひとみはまたいたずらっぽく笑った。
「ああ。俺、松村邦洋言うんや、よろしくね。」
松村邦洋はどきまぎして目をしばたいた。
「松村さん家はどちら。」
栗の木団地の一番端っこの棟があるやろう。それでもってあそこが崖になっているやろう。崖のちょっと手前に祠があってお稲荷さんがあるやろう。あの祠のある細道をまっすぐ行ったところや。」
「あら、じゃあ、うちの近くじゃないの。私の家、栗の木団地の九号館なの。よろしくね。」
そのお稲荷さんのある祠は栗の木団地の九号館のそばにある。そう言って吉澤ひとみは松村邦洋にウインクした。遠くから見ていたときはそれほど感じなかったが吉澤ひとみの横顔を見ながら松村邦洋は彼女を美しいと思った。吉澤ひとみは高校二年生にはどうしても見えなかった。ある部分ではすでに成熟した女性を感じさせた。薄暮れの中でほんのりと肌は淡いピンク色に輝き、唇には何もつけていないのにもかかわらず肉感的につやつやとしかしあくまでも品良くを輝いていた。きっと遡っていくと遠い北の方の国からやって来たに違いない。その目の光はどこか神秘的で何かただならぬものを感じさせる。まるで誰一人としてたどり着いたことのない深い海の底で妖しく光る真珠のようだった。それはまるで俗世間とは超越した存在で深い透明な水の底で透明な輝きを失うことはないだろう。世のざわめきをどこ吹く風とやり過ごし、まるで菩提樹の茂みの間を吹き抜けていくむ涼風のように爽やかだった。それでいて庶民的な趣もあった。」
「ねぇ、さっき、ホームルームの担任の畑筒井が松田さんっていういう人のこと言っていたけど松田さんてどんな人なの。」
「さあ、よく分からないよ。一学期になって初めて知った人物やし。彼も途中から転校してきたんや。それに付き合いもなかったからな。あまり目立つ生徒じゃなかったもん。」
「なにかお兄さんが精神病院で変死したって言っていたけどそれはどういうことなの。詳しく知りたいわ。」
「うん、俺も詳しいことはわかんないけどここから一キロぐらい離れたところにK病院っていう精神病院があるんだ。ごつう近代的な設備を取り入れた大きな病院や。そこに入院していたという噂を聞いたことかあるよ。休みの間にその精神病院で松田の兄さんが変死したということ聞いてびっくりしているんだ。ある大阪の新聞の社会面には出ていたけど東京の方の新聞の社会面には出ていなかったみたいやね。どうなの、東京の新聞の社会面には出ていなかった。」
「本当、ちっとも知らなかった。でも私あまり新聞の社会面までくわしく目を通しているわけではないから分からないわ。」
「そうかそうすると大阪の新聞だけのことかもしれない。」
吉澤ひとみは両手でカバンを持ち松村邦洋の顔をのぞき込んだ。彼女は松村邦洋の話にだいぶ興味を持っているらしく愛くるしい目をくるくると動かした。
「ねぇ、それで松田君の家って近くにあるの。」
なぜだか吉澤ひとみは話題をその弟の方に変えた。
「うん、ここから二キロぐらい離れたところかな。なんかクラスのみんなで見舞いに行く計画があったみたいやな。でも誰も行っていないみたいや。」
そんなことを話しているうちに二人は栗の木団地のお稲荷さんの社のあたりまで来ていたのでそこで二人は別れた。ここで別れなければそれぞれの家に着かないからだ。
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第六回
季節はもうすっかり初夏となっていた。吉澤ひとみの方もすっかりと学校にもなれ彼女は学校の中でアイドル的な存在になっていた。そういう表現より憧れの人マドンナになっていたといった方がよいだろうがそう言う表現をとれば吉澤ひとみに対する印象が誤ったものになる。それは周りの人間の吉澤ひとみに対する扱い方である。女王のように振る舞っているというわけではなかったがいつも吉澤ひとみの周りには華やかさが満ち溢れていた。それに引き換え同時に転校してきた滝沢秀明の方はすっかりとしょぼくれていた。吉澤ひとみの行動すべてに男子生徒がは気をもんでいった。吉澤ひとみの持ち前のかわいさときらめくような魅力ですっかりすべてのS高校の男子の心をとらえていた。吉澤ひとみの行動はいつも学校中で話題のタネとなり、男子たちは彼女の視線に気をもみ女子たちはため息をつきそして焼きもちを焼いた。吉澤ひとみはそんな男子たちのことも眼中にないかのように思うように気ままに行動していた。それは女性というより男性的な面がだいぶあるからかもしれなかった。いまや吉澤ひとみはS高校のクイーンであり、学校中の憧れの的だった。違う高校の生徒たちも通学途中に吉澤ひとみを見るとあれがS高校の吉澤ひとみだよと言って噂した。しかし彼女はまだ特定の恋人もいないようだった。それが男子生徒にとっても女子生徒にとっても悩みのたねだった。そして男子生徒など眼中にない雰囲気で学校中を闊歩していた。形の良い少し男性的な眉、笑うとバラ色に輝きを放つ愛くるしい目、高すぎず低すぎない鼻、少し肉感的な感じのするバラの花びらのような唇、あごから胸にかけてつやつやとしたした滑らかな肌、カモシカのようにすららりと伸びた足、これらは皆男子生徒のあこがれの的だったし女子生徒の悩みのタネだった。そんな吉澤ひとみにいつかと同じようにまた突然松村邦洋は声をかけられてびっくりした。
「今日の放課後少し用事があるんだけど一緒に帰らない。」
「ええ、まあいいけど何で急やな。」
松村邦洋は目をパチクリさせた。S高校のアイドル、吉澤ひとみに声をかけられてまんざらでもないようだった。
「吉澤ひとみさんが。そう言うならいいよ。」
校門のところで松村邦洋は吉澤ひとみがやってくることを不思議な気持ちで待っていると彼女は笑いながらやってきた。黒と赤レンガの色の交差する格子模様のウールのワンピースを着て吉澤ひとみは松村邦洋の前に立っていた。その服は肌にぴったりと纏わり付いていて少しなまめかしい。吉澤ひとみは何を見ているのよと言うようにに少し睨むまねをしていたずらっぽく笑った。
「歩きながら話しましょうよ。」
吉澤ひとみは松村邦洋に言った。松村は彼女の美しい横顔を無言で見つめた。
「あの何から話をしたらいいかしら。私、新聞部に入っているの。知ってる。」
「ええ、本当。初耳や。」
「そう、私、ここの高校の新聞部に入ったのよ。前の高校でも新聞部に入っていたの。それにある理由もあってね。」
「ある理由って何や。」
「それはいいの。それより今記事を探しているところなの。それでこの前変な事件があったというでしょう。古寺が一夜明けたらつぶれちゃっていたという話。松村君はは知っている。あれを取材してみたいの。でもそうは言ってもすこし気味が悪いから松村くんについて来ててほしいの。お願いしていいかしら。」
吉澤ひとみは松村邦洋の心の中にまで入り込むように彼の顔をのぞき込んだ。
「ああいいよ。ついて行くだけならね。そこへ連れて行ってあげるよ。場所は知っているんや。」
松村邦洋は照れ隠しのためか無愛想に吉澤ひとみに請け負った。吉澤ひとみはその松村邦洋の調子に合わせるように
「あの事件のことだけどね。私の知ってる限りでは東京の新聞には出ていなかったけど大阪の新聞にはで出ていたの。」
「出ていた。」
「そう出ていた。何社ぐらいに出ていたの。
」
「さあ、ちっともわからへんわ。うちで取ってる新聞には出とったけどな。」
吉澤ひとみは少し松村邦洋の前を歩いて行き、立ち止まると急に彼の方へ振り向いた。
「あの事件の真相はどうなっているのかしら。もう真相は明らかにされているの。一晩のうちに古寺が一軒つぶれてしまって周りの雑木林の木が次々と幹の途中からへし折られてしまっているなんて考えただけでもおかしな話よね。そもそもそこに住んでいた人はいったいどうしてしまったの。」
「住んでいる人はなかったんや。住む人もない古寺やったからな。」松村邦洋はそこに得体の知れない若い僧が最近住み着いていた事を知らないようだった。「松村君はそのことで家族の人と話したことがある。」
「いやない。」
「じゃあ、そんなに評判にならなかったのね。」
吉澤ひとみは指先を自分の唇にあてて少し不服そうな表情した。
「うん評判にはそれほどならなかったみたいやな。それにあの当時東京のほうで大きな事件があったやろう。その事件のことでもちきりで大阪の新聞もそれに力を入れていたみたいやからなぁ。」
「へぇ、それで真相は全く薮の中というわけなのね。」
「ああ、そうみたいやな。警察もその後何も捜査してへんのやないかなぁ。」
「じゃあ、そのへんに住んでいる人たちもその事件のことを忘れてしまっているということなの。」
「ああ、そうだと思うな。でも何でそんなこと聞くんや。」
すると吉澤ひとみは少しどきまぎした。
「だって記事を書くためにその事件の真相を知ろうと思ったらそこに住んでいる人たちに一人づつ一軒一軒何かの手掛かりつかむためにを取材をして歩かなければならないでしょう。その古寺が壊れたときに何かに気がついた人がいれば一番わかりやすじゃないの。」
「まあそういえばそうだけど。わてが思うにあの事件の真相言うたら大型ダンプかなんかが誤って突っ込んだじゃないと違うか。それしかあらへんで考えつくこと言うたら。」
二人の歩く道は片側はどこまでも続く大きな雑木林、その雑木林の道路に接している境にはその顔の表情も分からなくなった石仏がポツリポツリと立っている。そして道路のもう一方の方は田んぼが浮き草を浮かべた緑色の濁った水をたたえその背後には焼き芋をいくつも並べたような小山が取り囲んでいた。二人は話しながら歩いていくうちにいつしか廃材の山同然となった古寺の前までやってきていた。古寺の両側は大きな防風林が並びその背後は雑木林となっている。あの事件が起こってから少しも手が加えられていないようだった。廃材の山は何度かの風雨にさらされ石灯篭は倒れ、大木が何本も折り取られていた。もともと住む人もいない古寺だったのでつぶれても近所の住民にはあまり関係がないとも言える。古寺の建物の方と言えば壁は行く箇所もつき破られ、柱は折れ、屋根がすっかりと落ちている。古寺の庭に置かれていた庭石も粉々に砕け、墓石のいくつかは倒れ、あるいは砕け散っていた。石灯篭も同様である。まるで巨大なパワーショベルがこの古寺の中を縦横無尽に走り回ったようだった。吉澤ひとみはこの情景を見て
「ああ、すごいことになっているのね。」
とそれほどの感動もなくいった。そして吉澤ひとみはかばんの中からカメラらしい物を取り出すとパチパチとこの現場をいろいろな角度から写し始めた。吉澤ひとみの姿はまるで本当の新聞記者のようだった。松村邦洋はすることもなくあくびをかみ殺しながらその様子を見ていた。そして充分その現場撮影を終えると吉澤ひとみはちゃめっけをだして松村邦洋にせがんだ。
「ねぇ、私の姿も撮ってくれない。この現場と一緒に。」
そう言って吉澤ひとみはそのカメラを松村邦洋に渡したそのカメラを渡すとき吉澤ひとみの指先は松村邦洋の指先に触れ少し恥ずかしそうに吉澤ひとみははにかんだ。彼女は両手で鞄を自分の膝の間に持ち修学旅行生が華厳の滝の物見台で記念写真をとるようなポーズで松村邦洋の構えたカメラの中に収まった。
「今度は私の番よ。私もあなたのことを取ってあげる。」
吉澤ひとみはそう言って松村邦洋の姿もカメラの中に納めた。松村邦洋の顔は少しこわばっているようなった。
「ねぇ、近くの家の人にこの事件のあったときの様子を聞いてみましょうよ。」
吉澤ひとみは松村邦洋の腕をとるようなふりをして斜めからから彼のことを見た。それは森に放された二匹の子鹿がかくれんぼをしているようにも見えた。吉澤ひとみは学校にいるあいだはつんとして近寄りがたい雰囲気を漂わせている。それはまるで。人の入り込めない庭に咲く赤いバラのような気品と神々しさを備えていた。しかし二人なるといやになれなれしくなった。松村邦洋は彼女は他の男に対してもこうなのだろうか。吉澤ひとみが他の新聞部員と二人きりになっている姿を想像してみた。しかし他の男子生徒とこういう状態にいる姿を想像するまでにはいかなかった。
「この事件が起こったとき誰かが気づいていなかったか聞いてみない。」
この古寺の周辺にある家といってもそう多くの家があるわけではない。見渡すと道の向こうの方に二軒ぐらい建売り住宅らしい家がある。この古寺の周りは松林で囲まれている。たとえこの古寺をクレーンで壊したとしてもそれらの家の住民にその時の音が聞こえるかどうかは疑わしかった。しかしこの近くにある家と言えばその二軒の家しかない。その家に目星をつけてその怪事の起こった当夜のあらましを聞きただすしかなかった。一軒目の家へいくと若い主婦が玄関に出てきてその後ろでは幼児がを指をくわえて二人を見ていた。その若い主婦は子供の頭をなでながらその晩は夜中であり自分の家には幼い子供がいるので寝る時間が早くそのときの様子は分からないと言った。もう一件の家も似たようなものだった。吉澤ひとみはそれらの無駄な情報をノートに書き留めていた。
「何か気がついたことがあったら私のところに電話をして頂けますか。」
吉澤ひとみはそう言ってS高校の新聞部直通の電話番号を書いた紙を手渡した。二軒の家の住人はこんなに若くてきれいな女がなぜこんな刑事もどきのことをしているのか不審に思ったようだったが吉澤ひとみがS高校の新聞部の部員だと聞くと納得したようだった。
「なあ、これで記事、かけるやろうか。」
「うん、わからない。あまり目撃者はいないみたいね。」
「そうやな。じゃあ、ぼちぼち帰ろうか。送って行くよ。帰り道は一緒やろう。」
松村邦洋は吉澤ひとみといつまでもう一緒にいたい様子だった。何の関係もない第三者が二人の姿を見たら二人は恋人同士なのではないかと思ったに違いない。
「うん、でも少し用事があるから先に帰って。私、寄るところがあるから。」
「でもだいぶ暗くなっていることやし。」
「うん、心配してくれてありがとう。でも大丈夫よ。今日は手伝って貰えてとてもうれしかったわ。」
吉澤ひとみは松村邦洋の申し出をやんわりと断った。
「そうかそんなに言うんやったら。」
吉澤ひとみはサバサバした表情で松村邦洋を見つめてた。しかしその目には優しい光があふれていた。吉澤ひとみは松村邦洋とは反対方向に歩いていく。吉澤ひとみの姿がだいぶ小さな点になってから松村邦洋は彼女のことが心配になった。と同時に吉澤ひとみがどこに行くつもりなのかと興味がわいてきた。だれでもある好奇心その上に二人だけの今日の出来事が重なった。松村邦洋は気づかれないように吉澤ひとみのあとをついて行くことにした。吉澤ひとみは小走りで闇夜の小道を歩いていく。松村邦洋の姿には全く気がつかないようだった。しばらく歩いて行くと坂を下り飲食店街を横に見ながら私電の駅の前に出た。そこで吉澤ひとみは切符を買って駅のホームに出た。吉澤ひとみはさらに郊外の方へ向かう電車に乗り込んだ。吉澤ひとみの美し横顔を見ると松村邦洋は心臓にナイフを当てられたようにどきどきした。それは尾行という秘密の行動によってもたらされている甘美な夢の中の恋人のささやきのようだったからだ。松村邦洋もその電車の中乗り込んだ。松村邦洋は吉澤ひとみに見つからないようにそして彼女を見失わないようにたえず監視していた。吉澤ひとみは電車の中で席に座ると目をつぶり眠っているようだった。電車の窓ガラスには吉澤ひとみのつやつやとした黒髪と電車の天井についている照明が二重に映っていた。二つか三つの駅を過ぎ、上り電車と下り電車のホームが共通になっている駅に着くと吉澤ひとみはそのホームに降り立った。ドアの閉まるギリギリに吉澤ひとみは降り立ったので松村邦洋は彼女を見失うところだった。しかし松村邦洋もなんとかその駅のホームに降り立った。間一髪のところだった。あたりはもうすっかりと暗くなっていた。それがかえって幸いしたのかもしれない。昼間なら吉澤ひとみは松村邦洋の姿を認めたに違いなかった。吉澤ひとみは今度は上り列車のくるホームに立っていた。しばらくすると上がりの電車がやってきて吉澤ひとみはその電車に乗り込んだ。松村邦洋もあわててその電車に乗り込んだ。三十分くらい電車は二人を乗せて走っていたが大阪駅につき電車の中の乗客は一斉にホームに吐き出された。その人の波の中に松村邦洋も吉澤ひとみも入っていた。これらの多くの乗客の中で松村邦洋は吉澤ひとみの姿を見失いそうになりながらも吉澤ひとみの容貌が人混みの中に混じれば混じるほど輝きを放つため何とか見失わずにすんだ。それはまるで深海で光る発行体のようだった。吉澤ひとみは改札口で切符を手渡して大阪駅を出た。松村邦洋はなおも彼女の後を追いかけていった。吉澤ひとみは夜の大阪の街に出た。あたりはもうすっかりと暗くなり、赤や黄色、青色のネオンがチカチカと大阪の夜空に輝いていた。赤ちょうちんにも明かりが入っている。ネクタイを緩めたサラリーマン風の二人づれがそぞろ夜の街を歩いている。あたりはすっかりと暗くなり吉澤ひとみをを追いかけていくにはかえって都合がよかった。相変わらず吉澤ひとみは小走りで歩いていく。ショーウィンドーにも明かりが入り吉澤ひとみの姿がガラスに映ると何か幻想的な雰囲気になった。おもちゃ屋のショーウインドーの中ではモーターで動く熊のぬいぐるみがカチャカチャとタンバリンをたたいていた。吉澤ひとみは大きな看板のかかった建物の前で立ち止まった。どうやら映画館に入るようだった。彼女は映画館の中へ入っていった。映画館の入り口にはエッフェル塔を背景にして男女の俳優の顔が描かれている看板が立っている。吉澤ひとみは入場券を入り口のところで買うと映画館の中へ入っていった。松村邦洋も吉澤ひとみの後を追って映画化の中へ入ることにした。松村邦洋はポケットの中を探して財布を取り出すと入場券売り場で千五百円を払った。映画館の中は思いのほかがらんとしてる。映画館の中に入ると最初、暗やみの中でなかなか目が慣れなかったがしばらくすると目が慣れてきた。放射状に座席は並んでいた。その中に吉澤ひとみの姿を松村邦洋は探した。映画館の中は思いのほか空いていて松村邦洋は助かったと思った。あまり多くの人がいたらとても吉澤ひとみの姿を見つけることはできないだろうと思った。見慣れた髪型、なだからかな肩の線、吉澤ひとみは前の方の席に座っていた。彼女は画面の方に見入っていた。吉澤ひとみの姿を見つけて安心した松村邦洋は後ろの方の席に座った。スクリーンの中では外国の男女がパリの街並みを歩いていた。松村邦洋がなぜそれがパリの街並みであるか分かったかというと背景にパリの凱旋門が立っていたからだった。スクリーンの上では男女がなにやら語らいながら歩いている。男の方も女の思うベージュ色のコートきてる。男の方は黒髪で女の方は金髪だった。男と女は石畳にひかれた歩道の上を歩いている。朝方の時間らしい。画面にはなんとなく朝靄を降ったような雰囲気が漂っていた。古色そう然たる街路灯のところまで二人が歩いてくると急に二人は立ち止まった。そのとき凱旋門の前の広場でえさをついばんでいたハトが一斉に飛び立った。わけのわからないフランス語が松村邦洋の耳を抜けていった。吉澤ひとみはまだ画面の方に見入っていた。音楽は静かに流れ、映画館の後ろの方のドアが開いてレインコートを着た男が入ってきた。頭には帽子をかぶりサングラスをかけている。その男は吉澤ひとみの座っている座席の方へ近づいていき吉澤ひとみの隣の席に座った。その男はコートの内ポケットから何かを取り出すと吉澤ひとみに渡したようだった。松村邦洋はその取りだしたものを直接に見たわけではなかったが彼らの後ろから見るとそのように見えた。十分ぐらいの間その男は吉澤ひとみの隣に座っていたがそのうちすっくと立ち上がって映画館を出ていった。吉澤ひとみはなおもスクリーンに見入っていたがその男が出ていってからしばらくして彼女は席を離れて映画館の前の扉から出た。松村邦洋も吉澤ひとみを追って外に出た。吉澤ひとみはにぎやかな歓楽街を歩いて行ったがそのうち横路に入り路地裏を歩き始めた。松村邦洋もそのあとをつけて行った。クラブやバーのある裏通りを通り抜けた。そこにはポリバケツが裏口に置かれ、その中にはごみがたまっていた。そういう小道をいくつも通り抜け吉澤ひとみを追跡しているうちにいつしか松村邦洋は自分が港に来ていることを知った。かまぼこ型をした倉庫がいくつも黒い夜景を背景にして並んでいる。その倉庫街から大阪港が見える。海に面して建てられているいくつものかまぼほこの形した倉庫の前に吉澤ひとみは立っていた。それらの倉庫のうちのひとつに吉澤ひとみは立つとポケットの中から大きな倉庫の鍵のようなものを取り出した。松村邦洋は映画館で入って来た男が吉澤ひとみに渡したものは鍵だったのかもしれないと思った。吉澤ひとみは倉庫の入り口を細目に開けると周りを見渡した。吉澤ひとみは回りに誰もいないこと見定めるとその倉庫の中に煙が吸い込まれるようにすっと入って行った。そしてまた扉は閉められて鍵がかけられた。松村邦洋はその倉庫の前まで行くと鍵穴から中をのぞき込んだ。ぼんやりと明かりが見える。何か木の箱が見えた。その木の箱が邪魔で内部の方はよく見えない。松村邦洋はまどろっこしい気持ちになった。かすかな光をたよりにその倉庫の中をのぞき込んでいると不意に誰かに肩をたたかれた。振り返ると警官が立っていた。
「おいおい、君は何をしてるんだ。」
「はい、少しここ散歩していたんです。」
「見たところまだ高校生のようだがこんな時間にこんなところで一体なにをしてるんだ。ちょっと交番まで来て貰おうか。」
仕方なく松村邦洋は近くの交番まで引っ張っていかれた。松村邦洋は吉澤ひとみのことは何も話さなかった。住所氏名を名乗ってから学生証を見せるとも警官も放してくれたので松村邦洋は仕方なく家に戻ることにした。
第七回
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翌朝高校に出てくると吉澤ひとみはいつもと少しも変わりがなかった。いつもように心の奥底を隠していてそれでいて屈託がなかった。
「おはよう。」
吉澤ひとみが松村邦洋にいつもと変わりない調子であいさつをした。吉澤ひとみは松村邦洋が昨日彼女を尾行していたことに気づいていない様子だった。
「昨日はありがとう。お付き合いしてくれて。」
「いや、何、あれからどうした。」
松村邦洋はどきまぎして答えた。
「ううん、秘密。」
吉澤ひとみはいつものようにいたずらっぽく笑った。笑うと頬にえくぼができた。校内では吉澤ひとみはいつものように、本人はその気がないのだろうがマドンナとして振る舞っていた。だから男子は吉澤ひとみの前に来るとどきまぎしてしまうのだが吉澤ひとみを尾行していた松村邦洋にしてみれば余計どきまぎしてしまうのも当然だった。松村邦洋の吉澤ひとみに対する疑惑は深まるばかりだった。その後吉澤ひとみを追いかけていき、たどり着いた倉庫へも行ってみたがそこは何の変哲もなかった。他の倉庫と変わりなく何の異常もなかった。松村邦洋は吉澤ひとみの通っていたという高校を調べてみたいと思ったがそれは無理な相談だった。そんな事で松村邦洋の吉澤ひとみに対する疑惑は深まるばかりだった。それから少したったある放課後の午後体育の時間が終わり松村邦洋は鉄棒の前で途方に暮れていた。赤さび、黒くなっているこの鉄の棒がってひどくうらめしく見える。鉄棒の間に座ってグランドの方を見ていると生徒たちが駆け回っている。もうクラブ活動の時間らしい。鉄棒で前周りのできない生徒たちが何人か正規の時間が終わってからも練習していった。体育の授業でそれができない場合体育の成績の評価が一段階下がると体育の教師が言ったのだった。松村邦洋を含めて五、六にの生徒が鉄棒の前で練習していた。しかしその内そのメンバーもその課題に成功して一人抜け、二人抜けしていくうちに鉄棒の前回りのできない生徒は松村邦洋ともう一人の生徒だけとなった。そのもう一人の生徒というのは新しい転入生の滝沢秀明だった。二人の転入生のうち吉澤ひとみはバリバリとやっているのに滝沢秀明の方は完全にしょぼくれていた。松村邦洋広也は見るからに肥満体であまり運動の方は得意ではなさそうに見えるのは当然なのだがなにしろ自分の体重を支えるのが大変な感じで鉄棒にぶら下がってるのがやっとという感じだった。だから前回りができないというのは至極納得のいくことだが、滝沢秀明のように身体の均整のとれている見るからに運動神経の発達してそうな生徒がたかが鉄棒の前回りくらいができないというのは少し不思議な感じがする。大車輪をやれと言っているのではないのだから。何度か前回りに挑戦しているうちにしまいには練習しているのは二人だけという状態になってしまった。そして練習しているのは二人だけという気安さからかそれともお互いに弱点を共有しているという連帯感からか親密な感情が二人の間には生まれていた。松村邦洋が鉄棒に寄りかかりながら滝沢秀明に話しかけた。
「滝沢くんも鉄棒が苦手なのか。」
「まあね。こんなことできたあって世界の大勢に何の影響はないよ。」
「でも前回りができなかったら体育の評定をを一段階落とすというんやからたまらんわ。」
「君はあまり運動は得意ではないのかい。」
「まあな。この身体だろ体重がハンディになってぶら下がるのもしんどいよ。あと二十キロ体重を落としてみろよ。そしたらオリンピックだって夢じゃあらへん。」
「オリンピックなんて大きく出たねぇ。」
「君も吉澤さんと同じように東京から来たと言っていたやろう。」
「東京のP高校に通っていたんだ。」
「P高校て言ったらぁ、サッカー部で有名やないか。スポーツで名前を売るという方針で有名な高校やないか。そんな君が鉄棒の前回りりくらいができないなんて変やな。」
「そんなことはないさ。P高校といったっていろんな生徒がいるさ。」
「ああぁ、明日までに前回りができるようにならへんやろうか。」
「それは不可能というものだよ。」
鉄棒のを前回りのテストが明日にあるのだ。しかし今の様子では二人ともその目標に到達しそうにもない。したがって体育の成績も一段階落とされることになる。吉澤ひとみは今さっきまでハードルを跳んでいたのだがその姿も見えなくなっていた。
「今日も一緒に帰ろうやないか。二人とも鉄棒ができない中やからなぁ。」
「つまらないことで共通点ができたね。じゃあ校門のところで待っている。」
S高校を出て栗の木団地へ帰る途中には第二次世界大戦中作られた日本軍の軍事工場があった。そこで昔火薬が作られ貯蔵庫もある不気味な場所があった。昔はその旧軍需工場の周りは赤レンガで囲まれていて内部は所々に地下道が作られいざという時にはその地下道の中に工場の従業員は逃げ込むことができるようになっていたらしかった。内部の様子は今はどうなっているのかわからないが周囲の赤煉瓦の塀はほとんどが壊れかかっているがのこっている。そこはかなり広い場所であったので戦後医薬品メーカーがそこに工場を建てたがもともとの工場の敷地がかなり広い場所だったのでそこの場所をすべて使っているというわけではなかった。一部はやはり大阪市内だというのにやはり危険物を扱う工場が操業していた。しかし住宅が浸食してくるに従ってその工場も大阪府の指導に従って移転してしまった。そして今は残っているというのは少し離れたところにクリーニング工場が一つだけ立っているだけだった。しかし工場というにはおこがましいほどの大きさの建物でそれも昼間だけの営業でひとけがほとんどなかった。この近くに夜あるものといえば駐車場に四、六時中停められている何台かの営業用のワゴン車だけだった。だから薄気味悪い雑木林だけがここで重きをなしている。遠くのほうでカラスが泣き戦国時代の山路のような雰囲気を残している。昼間にはクヌギやならの林でそれなりに風情があるが夕暮れを過ぎてからはただ薄気味悪いだけだった。
「いつもこの道を通って帰ることにしてるんやがなんとなく気味が悪いな、違う道を選ぶんやった。」
「こんな時間に帰ることあまりないからなぁ君はどうなのこの時間にこの道を通ることあるの。」
「わてもほとんどないわ。」
そのとき雑木林の木陰ががさりと音を立ててその木立の中から金色の仮面をかぶった怪人が出てきた。体には体の線が分からないためなのか緑色のダブダブの服を着ていた。その怪人物は二人の前に立ちはだかった。二人は急に異様な風体した人間が目の前に現れたのであ然とした。
「おい滝沢、俺はお前に用がある。」
その男は金色の仮面を通してくぐもつた声で言った。
「おっ、おい。一体何の用だ。俺は滝沢秀明というが全然怪しいもんじゃあないぞ。」
滝沢秀明は去勢を張ってその金色のマスクした怪人物に答えたが最後の方は声が震えていた。
「ふふふふふ、その通りだよ。その滝沢秀明という男に用があるのだよ。私と一緒にい来てもらおうか。」
その金色の仮面をかぶった男はやはりくぐもった声で言った。その金色の仮面は不動明王をもっと近代的にした感じの仮面で仮面に固定された顔は無表情でそのためなおさら仮面は計り知れないような何かの力を表しているように威圧感があった。身体はいま言ったようにダブダブの緑の服で覆われ靴も緑、そしてその上に緑色の手袋をはめていた。そのくぐもった声からはその男が男なのかそれとも女のなのか若いのか年よりなのかも判断ができないがその金色の仮面は夜の闇の中で妖しく輝いていた。松村邦洋はその場を逃げだそうとしたがその怪人物に一喝された。
「ふふふふ、小僧、逃げようとしても無駄だ。お前はこの場面を見てしまった。お前も逃すわけにいかない。うくくくくく。」
怪人がくぐもった声でそう言って低い声で笑った。その怪人が二人に今にも襲いかかろうとしてるとき二人は背後に人影を感じた。金色の仮面の怪人物も驚いた表情をしているので二人が後ろを振り向くとそこには墨染めのころもをつけた修業僧のような人物がだらりと長い袂をブラブラさせながらすっくと立っていた。その修業僧は白髪のやせた老人だった。身体は小柄と言った方がよいだろう。顔に刻まれたしわは長い年月を感じさせる。目は羊のように柔和だった。それはまるで月の光の中にたたずむ菜の花のようだった。その修業僧は両の手のひらを会わせると静かに言った。
「御仏のお慈悲を。さぁ、二人ともお行きなさい。」
老人がそう言うと二人は老人の陰に回った。金色の仮面の怪人はその老人がただものでないと肌で感じ取っていたので身動きができなかった。老人は履いていた草履を静かに脱ぐと足を少し斜めに開いて空手の構えをした。老人は少しずつ息を吐きながら開いていた手をぎゅっとにぎりしめた。それはあたかも天下無双の弓の名手が常人では引けない強弓をきりりと引き絞ったかのようだった。金色の仮面の怪人は隠し持っていた直径七センチ位の八角形の円柱の長い棒をその老僧の上に振り下ろした。すると老僧はその鉄の棒をよけようともせず右手の人さし指と中指を出しその鉄の棒が頭に当たるかすか直前で受け止めた。動きを止められた怪人はまたその鉄の棒を振り上げ老僧のすねに打ち当てようとした。鉄の棒がうなりをあげながらしなった状態で飛んできた。老僧はそれをよけようともせずすねで受けた。すると鉄の棒はがつんと言う大きな音を立てて折れ曲がった。今度は老僧の攻撃する番だった。老人が両腕を交差させると左手でこぶしを作って黄金の仮面のみけんを打った。するとその金属部分はへこんで老人の拳のあとができ仮面にひびが入った。する怪人はうろたえてものすごい速度で夜の闇の中に走り去ってしまった。老人は再び手を合わせ、松村邦洋と滝沢秀明に礼をした。
「御仏のお慈悲を。」
老僧はそう言うと闇夜に吸い込まれるよう空中に跳び上がりムササビのように雑木林の木と木の間に飛び移るとやがて二人の視界から消えた。二人は全くあ然として声も出なかった。
「おい、今のはなんだよ。」
「いや、俺にもよくわからん。しかしこんなこと誰にも言わないでくれ頼むから。」
滝沢秀明はそう言って松村邦洋に頼み込んだ。
「うん、そう言うならだれにも言わないけど何か心当たりがあるのかい。」
「いや、ないこともないが。」
滝沢秀明は何かを考え込んでいるようだった。松村邦洋は心配気に
「もう、襲って来ないだろうか。」
「ん、わからない。」
「やっぱり警察に言った方がいいと違うか。」
「いやよしたほうがいいよ。警察が信じてくれるはずがないさ。ぼくら二人がきちがい扱いされるのがおちさ。」
滝沢秀明は松村邦洋をなだめるように言った。
「君はこれが初めてやろうけどわてはこれで変なことに出くわすのは二度目や。」
松村邦洋はつい口を滑らした。滝沢秀明はその事に興味を持ったようだった。
「二回目ってこんなことに二回も出会したのかい。」
松村邦洋はつい口を滑らせしまったのだ。
「いやにどうも襲われたことやあらへん。変なことが。もうひとつあるってことだよ。このことはだれにも言わんでくれや。君と一緒に転校してきた吉澤ひとみさんのことや。」
松村邦洋のその言葉に滝沢秀明は多いに興味を持ったようだった。
「その話を教えてくれないか。」
滝沢秀明にそう言われて松村邦洋はこの前の吉澤ひとみから新聞部の取材に誘われたことやその後で吉澤ひとみを尾行をしたことなどを話した。滝沢秀明は松村邦洋の話に大いに心を動かされているようだった。
「あの吉澤さんがね。」
「いや人間は見かけだけじゃわからん。ああいうきれいな顔して何を考えているのか。」
「ああ、僕も彼女については少し割り切れないものを感じているんだ。暇があると学校の図書館に行って本を借りて読んでいるみたいなんだけどそれがその傾向がすごく偏っているみたいなんだよ。この前たまたま図書委員がいなくて臨時で図書委員を一日だけでやらされることになって図書室にいたんだけどやっぱり彼女は変わっているよ。図書室に来て何冊か借りて行ったけどさ。それが嵐寺の由来とか。奈良時代豪族氏名図とかそんなような地誌に関する本だったよ。おかしいと思って彼女の図書カードを調べて過去に彼女がどんな本を借りているか調べてみるとやっぱりそんな本が多いんだ。なぜだろう。」
滝沢秀明は話ながら自分な話の内容に興奮しているのか身ぶり手ぶりをくわえて松村邦洋に能弁に語った。
「うん確かなのは。あの女は怪しいと言うことだ。ほなら二人であの女のことを少し調べてみないか。」
「調べる、どうやるんだ。」
「何や、簡単や。吉澤ひとみは新聞部に入っているやないか。わてらも新聞部に入ればいいんや。そうして吉澤ひとみといつも行動を一緒にしていれば彼女の持っている秘密も解き明かすことができるだろう。それしかあらへん。」
二人は吉澤ひとみの秘密を調べるために新聞部に入ることにした。
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第八回
松村邦洋が新聞部の入部手続きをするため新聞部の部室へいくと吉澤ひとみは喜んだ。
「松村くんうちの部に入るの。それから滝沢くんも。」
吉澤ひとみは振り返った。今まで書いていた原稿から目を離すと筆を持っていた手を止めた。そして今まで座っていたイスから上半身をくるりと二人の方に向けた。彼女は同級生というよりも教師のようだった。新聞部の部室の窓には金網が張られていてボールが当たっても窓ガラスが割れないようになっている。吉澤ひとみが吉澤稿を書いている机の上には散らばった吉澤稿と水栽培のグラジオラスの紫の花があった。新聞部の部室は校舎の一番端の位置にあった。もともと美術や家庭科の準備室として石膏像や家庭科で使うなべやかまなどが置かれていた物置だった。栗の木団地ができてから生徒が増えてきて手狭になったのでここを部室につくり直したのだった。部室には中ぐらいの大きさの黒板が描かれている。そのそばに机が三つあってそれは事務机だった。それから折り畳み式の椅子が五つある。部室の片隅にはロッカーが置かれていてそのロッカーにはガラスの引き戸がついている。そしてその引き戸には鍵がかかるようになっている。その中に新聞部の唯一の財産といってもよいカメラが数台入っている。コンパクトカメラが二台、それはだいぶ古い形のもので昭和四十年ぐらいに流行ったものだった。そのころフィルムを二倍使える方式でハーフサイズというものがあった。二十四枚撮りながら四十八枚撮れるようにフィルムを送るストロークを半分にするというつまりいう実画面を縦に半分の面積にするというアイデアだった。一台はリコーのものでもう一台はオリンパスのものだった。どちらもレンズの周辺には自動露出調整用の露出計がついている、それも古くなっているので正しい計測ができるかどうかわからない。もう一台は一眼レフカメラでそれはてミノルタ製のものだった。しかし巻き上げは旧式なもののために手動だった。このまえ吉澤ひとみが使っているカメラは吉澤ひとみの持ちものらしく新聞部のロッカーには入っていなかった。そして職員室から払い下げられた輪転機が置いてあり、その輪転機の下には一番安物のわらばん紙が積み重ねてある。新聞を一カ月に一回発行するのは決まりなのだが部員が新聞を発行するのが目的というより吉澤ひとみのそばにいたいという目的の部員が多かったためその理想もなかなか守らなかった。授業が終わると松村邦洋と滝沢秀明はこの部室によってから帰ることにしていた。そうすると必ずと言ってよいほど吉澤ひとみに会えるのだった。新聞部の部室に収まった吉澤ひとみはその部室を背景とした油絵のようだった。その油絵の中で吉澤ひとみは微笑んでいる。松村邦洋と滝沢秀明は土曜日の四時限目が終わると新聞部の部室へ急いだ。土曜日の四時間目が終わると帰ることができるのだ。しかしこれも学校の週休二日制が話題に上っている今日このごろはいつかは昔話となるかも知れない。しかし学生にとってこの土曜日ほどをうれしいものはなかった。いつもは授業で四時近くまで拘束されていてクラブのあるものはそれから六時、七時まで学校に居なければならない。それが土曜日の午後はいつもの日と違い、すっかりと暇になり大阪のキタやミナミへ出かけていって映画を見たりブティックをのぞいたり喫茶店でおしゃべりをしたりレコード屋へ行ったりと皆それぞれの予定が埋まっているというわけだった。そのため土曜の昼飯ほどおいしいと感じるものはなかった。二人は新聞部の部室で弁当を食べてから帰ることにした。部室に入ると吉澤ひとみがいた。
「あら、お二人さん、いらっしゃい。用件はわかってるわよ。お弁当食べてから帰るんでしょう」。
机の前で雑誌を読んでいた吉澤ひとみがいった。
「うん、弁当を食べてから帰ろうと思って部室に来たんだ。」
「ちょうどよかったわ。私もお弁当を持ってるから三人でお弁当だけでも食べてから帰りましょうか。ちょっと待っててね。」
吉澤ひとみはそういうと流しのところでやかんの中をゆすぎ、水を注ぎ、コンロの上にかけた。しばらくするとやかんの注ぎ口から白い蒸気が吹き始めた。三人は並んで弁当を食べ始めた。窓の外ではサッカー部の部員が柔軟運動を始めている。教室の中には甘やかな風が流れて滝沢秀明が吉澤ひとみが弁当をほおばっている横顔を見つめていた滝沢秀明を見て吉澤ひとみは彼をはしでつっくまねをした。
「恥ずかしいじゃないの。見てないでよ。」
吉澤ひとみははしを持ったままひじをつきながら何を思ったのかくすりと笑った。
「ねぇ二人はいくつぐらいになったら結婚したいと思うの。」
松村邦洋と滝沢秀明はいつもマドンナとして本当の感情を表さない吉澤ひとみの口から思ってもみたことないようなせりふが出てきたのでびっくりした。
{この女、何を考えてるのだ。いつもと様子が違うじゃないか。きっとこれは何かの策略に違いない。いつもこの女はそうなのだ。頭の中では何かを隠しているに違いない、きっとおれたちを利用しようとしているんだ。これがこの女のやり口なんだ。」
と松村邦洋は警戒した。滝沢秀明の方はぶ然としたような表情している。
「何びっくりしたような顔してるのよ。私だって女の子よ。結婚したいと思うこともあるわよ。ふふふふふ。」
松村邦洋は吉澤ひとみが熱病にかかっているのではないかと思った。
「なんや古臭いんやな。これからは男女平等や女も男の職場にどんどん進出するやろう。これから結婚しないバリバリのキャリアウーマンちゅうのがはやるやないの。」
「まあ意地悪な見方ね。松村君、私のことをそんな風に見ていたの。」
まるで吉澤ひとみを松村邦洋と滝沢秀明の二人がインタビューをしているような雰囲気だった。
「へぇ、吉澤さんは多くの男をかしづかせて一生結婚なんかしないと思ってた。だってわがS高校のマドンナじゃないか。」
「まあ私ってそんな女に見えるの。」
吉澤ひとみが困っているような顔をしているので松村邦洋も言い過ぎたことを反省した。
「待って吉澤さんだったらいつでも結婚させてもらわ。」
「まるで松村君は相手が誰だっていいみたいじゃないの。」
「いいことないよう。吉澤さんみたいにきれいな人なら誰だってそう思うよ。」
「私がちょっとかわいいからそう言ってるのでしょう。」
吉澤ひとみはもう少し何かを考えているようだった。しかしその表情にはあまり深刻な様子はなかった。
「こういうことは考えられないかしら大昔はどうやって赤ちゃんが生まれるかなんてその仕組みも何も分からなかったでしょう。人工授精なんて考えることのできた人が昔にいたかしら。」
「でも交配技術なんかはかなり昔からあったんやないか。おいしい牛肉を作るとか人間に役に立つ動物を作るとがそういうことは昔から考えられていたと思うよ。」
「松村君、なんかは動物の交配と結婚を同じようなレベルで見ているのね、問題だわよ。」
「そんなことないよ。」
松村邦洋はおどけて言ったが滝沢秀明は黙ったまま何も言わない。
「滝沢くん黙ってばかりいて何を考えているの。」
「いやあ、僕は何も考えていないよ。吉澤さんにそんな家庭的な面があるなんて意外だなあと思って。」
「何言ってるの。私だって夫婦がいて家庭があってこの世界に生まれてきたのよ。」
「それだから滝沢は古いんだよ。家庭なんてくそくらえだよ。これからはバリバリのキャリアウーマンの時代だって言っているじゃないか。」
「でもみんながそんな風に結婚しなくなってだ。少子化時代がやってくるじゃないか。」
「なんだ滝沢お前は子供至上主義になったんか。」
「あたりまえじゃないか。人間の命は短いんだ。子供作ってまたその子供が子供作る。それで人間の歴史は作られていくんです。」
「なんだ滝沢って種まく人みたいやね。でも俺も本心ではそういう意見には賛成しとるんやがな。だから女の人は子供がたくさん生めるかどうかが価値の基準になるんだ。」
それはまるで松村邦洋の吉澤ひとみに対する虚勢のようだった。それほど松村邦洋は吉澤ひとみの外見に劣等感を持っているのだろうか。吉澤ひとみはきょとんとした顔をして松村邦洋の話を聞いていた。
「へぇ、そんなもんなの。」
滝沢秀明は海苔でまいたおにぎりをほおばりながらコーヒー牛乳を吸っていた。口いっぱいに握り飯をほおばってものを言うのがしごく大変そうだった。窓の外ではサッカー部の連中が今度の対抗試合に備えてサッカーボールをさかんに蹴っている。S高校のサッカー部は出ると負けを続け今や対抗試合においては十八連敗をつづけていた。
「サッカー部の連中また練習やってるよ。出ると負けなのに。」
三人はそんなことを話しながら弁当を食べていたがやがて三人とほぼ同時に弁当食べ終わり三人で一緒に帰ることにした。帰る方向が同じだということや三人とも新聞部に属していて授業が終わると三人が三人とも新聞部の部室へ立ち寄ることで大の仲良しなっていた。それは彼ら自身はもちろん他の者たちもその事実を認めていたがその理由はわからなかった。まわりの生徒たちや教師はこの事実が不思議でならなかった。吉澤ひとみはこのS高校のみならずこの地域ではマドンナ的な存在でありその彼女がなぜこの男子二人、松村邦洋と滝沢秀明を自分の親衛隊に選んだかはこの高校の七不思議のうちの一つだった。
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第九回
それは月の美しい初夏の夜だった。中天に月がかかり大熊星は星々の中でひときわ明るく輝き、星々は長い年月のあいだ人間の営みを眺めていた。星達は瞬き、人が生まれ人が死ぬ。それとはかかわりなく宇宙はその創世の時から時を刻みはるか遠くからこの大阪近郊の新興住宅地での出来事も眺めていたのだった。
大阪郊外のこの土地に小川のせせらぎの聞こえるところがある。かつて周りには人家もなくアカシアの林に四方を囲まれ、わさび田でもあってもおかしくない土地がある。そこにわらぶき屋根の小さな小屋が建てられ、その庵の周りにはさまざまな草花が月光を浴びてその小屋の周りに植わっていた。その庵の中に古今を空しくする拳法の達人が住んでいた。その男は部屋の中で眠っていたが、窓からは月の光が差し込みその男の顔を照らした。男は月の光がまぶしく、目を覚ました。ふと寝床から起き上がるとあたり見ました。窓から差し込む月の光と花の香りが懐かしくなり男は散歩をしてみたくなった。ぞうりを履いて外に出た。男の従者は男がいないことに気づき男の後を追って外へ出た。外では露草がその紫の花びらをつぼめ明日の日の出を待っていた。
「お師匠さま、いかがなさいましたか。」
「ちょっと外の空気が吸いたくてね。」
その男は小川のほとりまで歩いていくと月の光が顔に反射してまぶしく感じた。
「ほら見てごらん。月の光が川面に反射してまぶしく感じるよ。」
「お師匠さま何をおっしゃいます。それは月の光ではございません。小川に浮かぶ浮き草が川の流れに身を任せてゆらゆらと揺れているのでござます。」
「なんだ。川面の浮き草が揺れておるのか。」
そう言うと老人はからからと笑った。男はふとその背後に人影を感じた。
「お師匠様お目覚めでございますか。」
「ああ、お前か。その後調査はどのくらい進んでいるのか。」
「いや、申し訳ありません。なかなか進展いたしません。」
「そうか、くれぐれも無理をせぬように。御仏のお慈悲を。」
老人は松村邦洋と滝沢秀明が黄金の仮面の怪人物に襲われたとき救った人物だった。従者の方は古寺で黒覆面の怪人と戦った若い僧だった。
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いつものように三人は放課後このまま家に帰ってしまうのも退屈だと思い新聞部の部室にいた。そこは前にも言ったようにもともとといえば美術と家庭科の準備室だった。松村邦洋はケント紙に新聞記事の割付をあれやこれやと試みていた。線を引いたり消したりしているのでテーブルの上はすっかり消しゴムのかすだらけになっている。滝沢秀明は新聞部の三つある卒業生在校生たちの写ったアルバムを引っ張り出してきて眺めていた。そこには滝沢秀明の姿がない。去年の夏合宿やもっと前のセミナーハウスの記念写真などが張りつけてあった。吉澤ひとみはファッション雑誌をめくっていた。自分の髪が気にかかるのか盛んに髪をかき上げてる。三人が三様各自思い思いに時を過ごしていると新聞部の部長で三年生になる太田が教室にやってきて
「やぁ、三人とも何やってるんでだよ。」
「ああ、部長。このまま家に帰るのもおもしろくないんでここで時間をつぶしているんだよ。」
「何だ。しけているな。仲良し三人組としちゃあ、もっとやることがないんか。」
「部長こそ、三年生なのに家に帰って受験勉強でもせんでもええのか。」
「おい、うるさいな。つまらんこと言うな。もう推薦で行けるところがあるんや、しこしこそんなことやらんでもいいのや。うししし。」
「ああ、聞いちゃった。聞いちゃった。誰かに言ってもええやろうか。」
「全くうるさいやっちゃなあ。おんどれらは甲子園のアルプススタンドで毎日、六甲おろしでも合唱してればええのや。それより君ら三人にこれを渡してくれって頼まれたんや。」
そう言って部長の太田は松村邦洋に今しがたまで持っていった三枚の入場券を手渡した。松村邦洋は渡された三枚の入場券をしげしげと眺め、他の二人もそれをのぞき込んだ。
「なんですか。これ。」
「見れば分かるだろうプロレスの入場券じゃないか。校門のところで変なおじさんが君ら三人に渡してくれって言って手渡されたや。」
松村邦洋と滝沢秀明は今までのことがあるものだから不審に思った。
「変なおじさんってどんな人でした。名前は言わなかったの。」
「ああ、名前も何も言わへんかった。君ら三人の名前を知っていたからきっと知り合いだろうと思ったんだ。そのおじさんの事だけど今さっき会ったのにどんな人やったかよく思いだせんわ。」
「何か、気味が悪いわ。」
吉澤ひとみが滝沢秀明の肩に手をかけながら言った。
「ええやないか。三人で行けば。三人で行けば何も怖いことあらへんがな。わてもその入場券は三人が貰ったものだときっぱりと証言するわ。何かあったら。」
何も知らない部長の太田は太平楽に宣言した。
「うん、じゃあ、行こうか。」
滝沢秀明は言った。
「これ、今度の日曜日だね。僕の方は何の予定もないから行けるけど松村君の方はどう。それから吉澤さんは。」
「それからなんて失礼ね。二人が行くならもちろん私も行くわよ。だってあなたたち二人に私がいなければ始まらないでしょう。うふふふ。」
吉澤ひとみはそう言ってまたいたずらぽく笑った。
そのプロレスの入場券は今度の日曜日大阪府立体育館で行われことになっていた。それはKRPという十年ほど前に設立したプレス団体が興行を行うことになっていてニューヨークのマジソンスクェアーガーデンから多くの外国人選手を招待している団体であり今回のニューヨークからまたヨーロッパから数人の選手を呼び寄せ試合を行うことになっていた。次の日曜日三人は最寄りの駅に集まりそこから大阪府立体育館まで行った。大阪府立体育館へ行く道の途中にはKRPのポスターが所々に貼られ体育館の前にはKRPのロゴマークの入った旗がはためいていた。三人がその体育館中央入場者口へいくとその前の広場には入場者が順序良く並んでいた。そこで少し変わったと言えば変わったことがあった。松村邦洋が見つけたのだが、松村邦洋は自分たちの場所から遠くを歩いている遠くの方を貧相な男が歩いていた。松村邦洋はその人物を指さした。
「ほら、見てみい。あそこを歩いている六十才くらいのおじさんをあれが逆さの木葬儀場の管理人の栗木百次郎だよ。」
松村邦洋にそう言われても二人にはぴんと来なかった。
「松田政男を殺したという噂が一時たった人物だよ。いつだったか、担任の畑筒井がそんな根も葉もない噂を立てるなって言ったやないか。」
松村邦洋は昔からここに住んでいるので栗木百次郎のことを知っていたのだろう。しかしすぐに栗木百次郎の姿は見えなくなった。体育館に入る入り口にはプロレスを見に来た観客たちがもうすでに並んでいた。三人もその列に加わった。その列の中には親に連れて来て貰ってうれしくて仕方ないという子供がはしゃいでいた。やがて開門となり三人は体育館の中へ入った。中央のマットを中心として放射状に折り畳み椅子が並べられている。マットの上には場内アナウンスのマイクやその電気コードや照明が設置されていた。三人はちょうど真ん中あたり席を三つとって三人で並んで座った。ここからだと選手の顔の表情がなんとか見えるかどうかという距離だった。通路をリングアナウンサーが歩いてきた。
「さあ、始まるよ。」
「吉澤さん、プロレス見たことある。」
「失礼ね。私、プロレスのことは詳しいのよ。」
やがてリングアナウンサーがリングの上に上がりマイクを片手に握ると上方に向かって叫ぶように試合をする選手の身長や体重のことをアナウンスした。リングアナウンサーの顔にはリングの上からつるされた照明がシャワーのように降りそそいでいる。まず前座試合が始まった。身体のまだあまりできてない若手レスラーがやはりまだあまりない技を使って主に体当たりとかドロップキックとかを多用して戦った。なかなか決め手がなかったが。最後に片方の選手が片方の選手を体固めで破った。勝ち負けというよりも片方の選手の体力切れという感じだった。それから中堅レスラーの試合となりこのあたりになるといろいろな技も出てきて試合も盛り上がりを見せていた。この試合は片方の選手のリングアウト勝ちで終わった。最後のメーンイベントとなった。この試合は一対三の変則試合だった。一人に対して三人が同時にかかっていくと言う試合だった。観客の歓声の中を片方の花道から身長三メートルぐらいの男がゆっくりとリングに向かってきた。身体の均整がとれているのだが身体全体には針金のような毛が生えていて頭には黒い無地の覆面をつけていった。その事がなおさら観客に威圧感を与えた。これがプロレス界では今まで一度もマットをなめたことのないつまりどんなレスラーもこの男のからだを倒してマットに横にさせたことがないといわれる今や伝説上の人物のような扱いを受けているザ・ゴーレムというリングネームを持つレスラーだった。その私生活のことは全く知られずゴーレムというのは何かの小説に出てくる名前らしいのだがその小説のことを知らない人々もこのレスラーの事は知っていた。リングが壊れるくらいみしりみしりという音をさせてゴーレムはリング上に上がった。リングアナウンサーは身長二メートル九十、体重三百十キロと叫んだ。リングアナウンサーはさらにアナウンスを続けた。まるで有史以前の恐竜が人間の姿を借りてて地上に現れたようだった。アナウンサーは何か試合前のアトラクションを行うということを場内のアナウンスで観客に告げた。五、六人の若手レスラーがドラム缶を転がしてきた。二つのドラム缶がこうして運ばれてきた。二人がかりで一つずつドラム缶がリング上にあげられた。しかしザ・ゴーレムはこれらの様子を無表情で見ていた。
「レディス、アンド、ジェントルマン今から現代の奇跡、ゴーレムがこの二つのドラム缶を使った彼の腕力をご覧にいれます。皆さまよくご覧ください。」
リングアナウンサーが終わりの言葉まで言い終わらないうちにゴーレムは彼の衿口を人さし指と親指でつかむとをリンクサイドに降ろした。ゴーレムはそれから二つのドラム缶を両手で抱えるとそれ腕の中に抱き込んだ。そして両手を組み力を入れるとドラム缶はあっという間もなくぺちゃんこにつぶれてしまった。怪物はそれをリングの外へ投げ捨てた。リングと観客席の間には鉄柵がありドラム缶は鉄柵に当たるとその鉄柵を曲げ鈍い音を立てて床の上に落ちた。また若手レスラーが五、六人出てきてそのドラム缶を撤去した。ゴーレムはその様子を無表情に見ていた。それからリングの隅のところによりかかり戦う相手の現れるのを待っていた。ゴーレムは戦わずして立っているだけで周囲に異様な雰囲気を漂わせ、まるで目に見えない不吉な天変地異の先ぶれでもあるかのように周囲を睥睨していた。観客はゴーレムの圧倒的な怪力にただ唖然として声も上げられなかった。
「完全に人間じゃないみたい。」
吉澤ひとみがリング内を注視しながら言った。
「本当やあれは人間の遺伝子でできたというわけやない、突然変異の産物やなあ。」
松村邦洋がポテトチップをほおばりながら口をもぐもぐさせていると三人の相手レスラーが片方の花道からやってきた。三人は三人とも一メートル九十センチくらいある大型レスラーだった。ひとりは金髪、もう一人は銀ラメのマスクをかぶったメキシコ系のレスラーでマスクには華麗な刺しゅうが施されている。そしてもうひとりはやはりマスクをかぶったアメリカ系のレスラーだった。三人のレスラーが花道歩いているとき観客は物珍しげにそのレスラーたちの身体をうれしそうにぺたぺたとさわると彼らうるそうににその手を払いのけ観客を突き飛ばした。三人が通路を通って行くときカメラのフラッシュがばちばちとたかれた。三人はリングの下まで行くと一人ずつリングの中に入った。ゴーレムはやはり無表情にその様子を見ていた。三人は三人ともコーナーポストにパンチを浴びせたりロープに寄りかかりそのロープの反動でロープの張り具合を見たりしていた。そうやって身体のウォーミングアップをしているとリングの下でリングアナウンサーがレスラーたちを紹介した。レフリーもリングに上がった。やがて試合開始のゴングが鳴りゴーレムはゆっくりとリングの中央に歩み出てきた。三人はゴーレムの様子をうかがっていたがゴーレムがリング中央に立ったまま石像のように身じろぎもしないため一斉にゴーレムに襲いかかった。一人はゴーレムの右足、もうひとりは左足を、そしてもうひとりはゴーレムの頭を背後から羽交い締めにした。ゴーレムを転倒させることはプロレス界の勲章であり、もしその事ができれば長い事そのことが語り継がれそれが興行面での待遇にもつながることだった。しかしゴーレムの体は盤石で、まるで地中深く杭が打ち込まれてでもいるように身じろぎひとつしなかった。ゴーレムが体をひと振りするとその反動で三人のレスラーが投げ飛ばされた。一人はリングの下へ飛ばされた。そのダメージで床の上に伸びたままだったが盛んに首を振り覚醒しようとしていた。観客の座ってる椅子を取り上げると再びリングの上に上がっていった。二人のレスラーはゴーレムの向こうずねをけり込んでいた。いすを持って上ってきたレスラーは椅子を水平に振り回しゴーレムの胸のあたりを打ったがゴーレムは少しも動かなかった。そしてゴーレムは一人のレスラーの頭を握るとまるで聖火でも持つように頭上高く持ち上げリングにたたきつけるとそのレスラーはすっかりダメージを受け大の字に伸びてしまった。残りの二人のレスラーも同じようにしてそのレスラーの上に投げ捨てられた。三人のレスラーは重ねられゴーレムはその上に足を乗せると三人とも動けなくなった。レフリーはあわててスリーカウントをとった。あっけなく勝負はつきゴーレムがリングの片隅に戻るとと若手レスラーが出てきて倒れている三人のレスラーに肩を貸して控室に戻って行った。三人のレスラーはさかんに捨てぜりふをゴーレムに投げかけていたがゴーレムは全く聞いていないようだった。ゴーレムは少しも汗をかいておらず何事もないようにリングの片隅にもたれかかっていた。そこへまたリングアナウンサーがやってきた。今度は前と違うリングアナウンサーだった。吉澤ひとみ、松村邦洋、滝沢秀明の三人は今度は何が起こるんだろうかと思った。やがてリングアナウンサーはリングの中央に進み出るとマイクを握ってまるで観客をあざ笑っているかのように叫んだ。
「皆様、今日はもうひとつアトラクションがあります。飛び入りでゴーレムと戦う男がやってきております。紹介致します。全日本空手道チャンピオン松井要蔵氏です。」
観客席の中から白い空手着を着た男がリングに上がってきた。身長は二メートル近くあるかもしれない。鋼のような細い体をしているが全身がこれ凶器という感じだった。あごが張っていて並々ならぬ闘志を内に秘めているようだった。その空手家はリングアナウンサーからマイクを奪い取ると話し始めた。
「観客のみなさん私は古式空手の増井洋三です。皆様プロレスなんてみんなインチキです。お芝居です。しかしそれだけならいざ知らずおとといの番ある場所で私の門下がこの男に侮辱を受けました。酒の上のことだけばかりではなく空手界に対する大いなる挑戦だと思います。ここで私がその結論を出しましょう。我が空手が日本古来のまた東洋が生み出した最強の護身術でありプロレスが芝居でありインチキだということをこの古式空手の私が証明して見せましょう。目の前にいるこの体だけ大きな偽物を私が倒して見せましょう。」
増井洋三がそう言うと観客席からは非難の声と歓声が五分五分に起こった。しかしこれで試合がひとつ余計に見られのでみんなは喜んだ。増井洋三の門下生とこのプロレスの興行団体のあいだでどんなことがあったのか三人にはよく分からなかった。
「一体どうなってるのや、これ。」
「おいおい、何を真剣になってるんだよ。きっとのこの男は自分を売り出すためにやってるんだぜ、きっと。」
吉澤ひとみ、松村邦洋、滝沢秀明の三人はかたずをのんでリング上に視線を注いでいた。レフェリーはリングの上に上がっていることは上がっているが予想外の出来事に困惑しているようだった。レフェリーは盛んにリング下にいるこのプロレス団体の職員と連絡を取り合っていた。ゴーレムはやはり無表情な目つきで空手家を見ていた。空手家の方もゴーレムを睨んでいたがその目には自信があるようだった。三人はこの男ならもしかしたらゴーレムを倒せるかも知れないという期待を抱いた。レフリーのところに人がやってきて何かを相談した。レフリーは二人のところへいき何かを説得していった。どうやらこの私闘を取りやめるように説得しているらしかった。しかし二人は少しもレフリーの言うこと聞いていなかった。ゴーレムはレフリーのズボンのバンドをつかむと場外へ投げ飛ばした。それを合図として二メートル近い身長のある空手家は片足を伸ばすとゴーレムのあごのところを全身の力を込めて打った。ゴーレムはよろけて倒れた。それを見た空手家は体でリズムを取り小刻みなジャンプを繰り返しながら次の攻撃のチャンスを待っているようだった。ゴーレムは立ち上がると両手を広げて空手家をつかもうと突進してきた。空手家は横跳びになり回しげりをフォーラムの腹に加えた。ゴーレムは腹を抱えてうずくまっていたがやがて立ち上がったゴーレムの目は憤怒で燃えていた。ゴーレムは空手家の攻撃を受けるのを承知で空手家の方へ突進していった。空手家は前げりと正拳をくり出したがゴーレムに捕まってしまった。ゴーレムは空手家を熊の抱き締めのように抱えこんで力を加えた。空手家はしばらくジタバタとしていたがやがて力が抜け腕はぶらりとしてしまった。ゴーレムは空手家を放すと空手家はマットの上に大の字に伸びてしまった。するとまたリングアナウンサーが上がってきた。
「皆様御貰になりましたか。この空手家のぶざま姿を。これが空手などというものの実力ですこんなものを日本の皆さまはありがたがってきたのでしょうか。日本にある空手などというものは何の実力もない畳水練みたいなものです。そのくせやたらありがたがって見せたがるまやかしの格闘技なのです。」
ゴーレムはにやりと笑ってあたりを見回した。このリングアナウンサーとゴーレムは東洋の武道を馬鹿にしてるようだった。東洋のすべての空手家を挑発しているようだった。吉澤ひとみと松村邦洋と滝沢秀明は何か三人が馬鹿にされているような気がして憤った。三人は三人ともこぶしを握っていた。日本全体いや東洋全体がバカにされているような雰囲気だった。空手家が登場したときは五分五分の歓声と非難だったが今はゴーレムに対する憎しみで会場は満ちていた。しかし、外見とは裏腹にゴーレムは大変頭の良い男だというプロレス記者の報告もある。いつでも割と冷静で金にならないような試合は決してしないと言われている。しかし今日はどうしたということだろう。一円にもならない、発端がはっきりしたことはわからないが私怨のようなことから発展したらしい試合をしている。この空手家にゴーレムが勝ったからと言って彼には一円にもならないし、夕食の時間も遅れるだけなのだ。作っておいたシチューは冷めてしまうだろうし、焼いた肉は堅くなってしまうだろう。ワインのコルク栓があけられていたならその匂いも飛んでしまうかも知れない。何よりもゴーレムの人間離れした体力なら相手を軽く突き飛ばして、相手にせず、控え室に戻ることも可能だっただろう。しかし、ゴーレムはこの日本人の空手家を相手にしてよけいなエネルギーを使い、そこにいた観客たちの憎しみも買っていた。観客はみな屈辱のようなものを感じていた。するといつの間にか気がつくとリングのコーナーの下に一人の小柄な男が立っていた。男は墨染めの衣を着て頭は剃っていた。それはいつかの若い僧だった。その僧の異様な風体にゴーレムは目を丸くしていた。その若い僧はそんなことににかかわりなくリングの片隅の下で静かに手を合わせた。
「御仏のお慈悲を。」
そう言うとひらりとジャンプをしてリングのコーナーポストの上に立った。それを見たゴーレムは新たな敵と直感してその僧の立っているコーナーポストの方へ突進してきた。若い僧はコーナーポストからひらりと飛ぶとゴーレムの頭の上を飛び越え後方へ飛びゴーレムの後頭部へけりを加えた。ゴーレムはその一撃で音を立てて崩れ落ちた。若い僧はリングの中央にすっくと立つと両手を合わせた。
「御仏のお慈悲を。」
そしてまた飛び上がると体育館の天井を支えている鉄骨に跳び上がり鉄骨の上を走り去りいつの間にか消えてしまった。観客は皆呆気にとられて声も立てることができなかった。それは吉澤ひとみ、松村邦洋、滝沢秀明の三人組もまた同じことだった。その沈黙を破るように松村邦洋が口を開いた。彼はこの前黄金仮面に襲われたことを思いだしていた。
「滝沢、この前もあんなような坊さんに出会ったじゃないか。」
「うん。」
滝沢秀明はその事にあまり触れたくないようだった。吉澤ひとみが二人の話につられて口を開いた。
「それ、どういうことなの。松村君たち前にもあんなお坊さんに出会ったの。」
「うん、実はそうなんだ。」
松村邦洋と滝沢秀明はこのまえ帰宅途中黄金の仮面をかぶった怪人物に襲われその時老僧に救われたことを吉澤ひとみに話した。吉澤ひとみは目を丸くしてを驚いた。
「じゃあ、そのお坊さんはあなたたちを助けてくれたのね。」
「うん、そうなんだ。」
「黄金の仮面をした怪人に滝沢くんは心当たりがないの。」
「うん全くない。」
「そう。」
そのとき、このプロレス団体の職員たちが何人か、試合会場の方に走ってやって来た。誰かを捜しているらしかった。小柄の頭のはげたポバイに出てくるハンバガー好きのスウィーピーのような外人がネクタイをしていない背広姿で吉澤ひとみたちの前を走り回った。しきりに何か叫んでいる。誰かを捜しているようだった。
「あれはゴーレムのマネージャーじゃないか。」
吉澤ひとみの後ろの方で事情通らしいプロレスファンが話しているのが聞こえた。そのうち店内放送が体育館の天井から流れてきた。観客のざわめきでよく聞き取れなかったが、どうやら選手の控え室にどろぼうが入ったらしい。わざわざ混乱も懼れず店内放送をかけるということは大部大きな被害をうけたのかも知れなかった。また事情通らしい、そう言った種類、つまり選手のキャッチフレーズやロゴの入っているシャツを着ているからそう判断するのだが、後ろの方の見えない客席から仲間同士でそのどろぼう事件について話しているのが聞こえた。
「どうも、ゴーレムの控え室に誰か、どろぼうが入ったらしいぜ。」
「控え室、控え室にそんな大事なものが置いてあるかよ。」
「ゴーレムは特殊だよ。いつも、一人だけの控え室を要求して、大切なものは全部持ち歩いているって噂じゃないか。」
ゴーレムの控え室にどろぼうが入って何かを盗んで行ったのか。それで彼のマネージャーがあわてふためいて客席の方を駆け回って行ったのかと真相がわかった。そのため、会場を出るときは足止めをくらって、荷物検査までされたのだった。三人はそのプロレスの試合を見終わって体育館の外へ出ると外もすっかりと暗く星が空にまたたいていた。三人は夜の大阪の街を歩いていった。それはいつかと同じように松村邦洋が吉澤ひとみを尾行していたときと同じような道だった。吉澤ひとみはいつもと同じように颯爽と歩いている。松村邦洋と滝沢秀明波いつもと同じようにしょぼくれて歩いていた。松村邦洋は自分が吉澤ひとみを尾行したときのことを話したかった。それは吉澤ひとみがいるためにできない相談だった。
「それにしても随分遅くなったわね。」
吉澤ひとみが言った。プロレスの興行が終わるともう外は暗く時計の針は七時を過ぎていた。
「うん、こりゃあ、家に着くのは八時半ごろになると違うやろうか。」
「ええ、そうね。そのくらいの時間になるんじゃないかしら。それにしても今日のお坊さんは強かったわね。」
「ああ、あんなに強い人間を見たのは初めてや。あれなら世界中のどこへ行っても格闘技のチャンピオンになれると違うやろうか。」
「うん、そうね。でもあれはほとんど超人的だったじゃない。あの人本当に人間なのかな。」
吉澤ひとみは首を傾けた。
「話によるとこれはSF雑誌の受け売りなんだけどね。人間は修業によって超人的な力を持てるという話を聞いたことがあるんや。何しろ人間ってみんなその能力の三十パーセントも十分使いこなしてあらへんのやって。」
「へぇ、松村君、いろんなことを知ってるのね。」
「だからこれは別の雑誌の受け売りだと言っておるや、おまへんか。」
「でもうそんなに強くなったって一体どんないいことがあるの。それで他人の幸せを増すことができるというのかしら。他人とまで言わなくても自分の幸せを増すことができればね。それにどんなに強いと言ったってミサイルや生物兵器に勝てるわけじゃないでしょう。」
「あんまり難しいことも言いないや。強よければ。楽しいじゃない。世の中強いことが一番だよ。人類や誕生してから人類は強さも求めてきたじゃないかい。だから強いものにみんなが憧れるというのは世の中の常識やで。みんな自分にないものを求めているんや。一種のスーパーマン願望やな。」
「松村君って意外と子供なのね。」
「子供でいいわ。子供が本当の建前でない真実を知ってるかもしれへんわ。」
「私そういうも嫌いだわ、私だって何かを求めているわ。」
するとずっと黙っていた滝沢秀明が口を開いた。
「永遠の恋人ですか。」
その言葉に吉澤ひとみは顔を赤らめた。
「うん、もういやだ。滝沢くんたら。」
「それにしてもあのお坊さんの登場は最初の予定にはなかったみたいね。だってレフェリーがあんなに慌てていたじゃないの。」
「まあ、いいじゃないの、それでわてらも面白い試合をひとつ余計に見ることができたんやから。」
「でも、なんであんなことが起こったのかしら。」
吉澤ひとみはまだ少しふに落ちないように滝沢秀明のほうをちらりと盗み見た。
「滝沢くん、何故黙っているの。」
「いや、僕は別に黙ってなんかいないよう。今日の出来事があまりにも突飛だったので少し驚いているんだ。」
「じゃあ、空手とプロレスではどちらが強いと思う。松村君はどちらが強いと思う。」
吉澤ひとみは松村邦洋の方を振り返って見ながら言った。
「うん、どちらが強いかって言われてもよく分からないんやけど、それより吉澤さん。あの試合をカメラにとっておけばよかったのにカメラ持ってきたん。」
「ああ、そうだ。本当。松村君の言うとおりだは。こんな時にこそカメラを持ってきて撮っておけばよかったわ。
そうすればわたしたちの新聞の記事が一つ増えるじゃない。」
「あっ、そうや。この前、吉澤さんに撮ってもらったのもう出来た。」
松村邦洋は吉澤ひとみにあの事件のあった古寺を取材をしてその折りに写真を撮ってもらったことを思い出して聞いた。滝沢秀明はその事に興味を持ったらしく吉澤ひとみに話しかけた。
「ああ、吉澤さんを、松村君に写真を撮ってあげたんだ。」
「ええ、そうよ。」
「そうや、滝沢、吉澤さんにそのうち写真を取ってもらえばいいんや。ねえ、いいでしょう。吉澤さん。」
「ええ、いいわよ。その内にね。」
松村邦洋は吉澤ひとみの持っていたコンパクトカメラを思いだしていた。向こうから酔っ払いが。歩いて来る。随分と夏が近づいているためビヤガーデンでビールの大ジョッキでもあけているのだろう。このこのまま酔いつぶれて道端で寝てしまっても、もう冬のように風邪をひいたり凍死するということはあるまいと思えた。せいぜい警官に注意されるだけの話しだ。三人が栗の木団地についたのは思っていた通り八時半を少し回った時刻だった。あたりはすっかりと暗くなり大きな間隔を開け立てられている水銀灯が夏の夜空にぼんやりと浮かび上がっている。その水銀灯の回りには蛾が地球の周りを周遊する多数の人工衛星のように飛んでいた。勤め帰りのサラリーマンとも出合わなかった。松村邦洋と滝沢秀明が黄金の仮面をかぶった暴漢に襲われた場所にやってくると吉澤ひとみは興味を持ったようだった。
「へぇ、こんなところにその黄金の仮面をかぶった怪人が隠れていたの。」
吉澤ひとみは雑木林の下にある茂みに目を移した。その上そのあたりの茂みの中まで調べようとした。松村邦洋と滝沢秀明がとんでもないという表情でおもしろがっている吉澤ひとみの方を見ていた。彼女は二人の視線にもほとんど無頓着なようだった。三人は栗の木団地の九号館の前に来ていた。九号館はお稲荷さんの滝沢のそばにありそこに吉澤ひとみと松村邦洋が住んでいた。そして彼らの団地の横路を真っすぐ抜けたところにある一戸建ての住宅に滝沢秀明は住んでいた。そこで三人はまた明日学校で会おうと約束して別れた。
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第十回
次の日はすっかりと朝から抜けるような青空が空いっぱいに広がりまるで空の底が見えるようだった。梅雨の季節も過ぎてもう夏は近づいている。S高校の生徒たちももうすぐやって来る夏休みのことで頭がいっぱいだった。世間一般では衣替えとなりS高校の生徒たちも皆が皆がすっかりと夏向きの服装をしているのですがすがしさが校舎の中に満ち溢れていた。S高校の服装は自由で生徒たちは私服を着ていたがその服の色も白系統のものが多くなり、その白い服が太陽の光を反射してまぶしかった。松村邦洋と滝沢秀明が教室の中に入っていくともう吉澤ひとみは教室の中にいた。彼ら二人がやって来るのを待っていた。教室の中では何人かの生徒たちが熱心に宿題を写していった。松村邦洋と滝沢秀明の二人はその様子を見て不安になった。松村邦洋は吉澤ひとみの席に後ろから近づいて声をかけた。吉澤ひとみは片ひじをついて自分の筆箱の中を整理していった。
「吉澤さん、宿題を写している奴がいるんだけどどういうこと。宿題なんか出とったか。」
松村邦洋はおそるおそる吉澤ひとみに聞いてみた。
「あら、おととい、宿題が出ていたじゃないの。あなた、忘れていたの。吉野先生の英語の宿題を忘れていたなんて大変じゃないの。あなたどうする気。」
吉澤ひとみは筆箱を整理する手を止め、なかば面白そうに目を丸くして松村邦洋の方を見た。
「どうするってどうなるんや。」
松村邦洋はうろたえた。英語担当の吉野という教師は宿題に対して大変厳しく宿題を忘れたりすると確実に評定に加えられ中学生でもあるまいに廊下に立たされのだった。松村邦洋はうろたえて二人が何をしているのだろうと寄って来た滝沢秀明に振り返りながら声をかけた。
「おい、滝沢、お前、吉野の宿題をやってきたか。」
滝沢秀明も同じようにうろたえていた。
「えええ、宿題なんか出ていたの。知らなかった。と言うより忘れていたよ。昨日プロレスを見にいってから家に帰ってきて疲れてそのまま眠っちゃったもの。」
滝沢秀明は間延びした声で答えた。
「おい、お前はええよ。まだ吉野のことをよう知らんから。あいつ宿題を忘れた奴にはそのことを確実に評定に加えてそれから中学生でもあるまいに廊下に立たせるんや。お前、どうする。」
「そんなこと言われたって僕にもどうすればいいのかよくわからないさ。」
滝沢秀明もおろおろしていた。二人がおろおろしていると吉澤ひとみがノートを持ってやってきた。
「松村君も滝沢君も何おろおろしているのよ。このノートを写しなさいよ。」
地獄に仏とはまさにこのことで松村邦洋と滝沢秀明は吉澤ひとみに感謝した。
「本気にありがとう。吉澤さん。」
「えっ、僕も写していいの。」
「ええ、いいわよ。本当はこんなことをしても君たちのためにならないんだけど仕方ないわ。非常事態だから今からなら間に合うはずよ。」
そう言って吉澤ひとみはノートを広げて滝沢秀明の机の上に置いた。白いノートの上には読みやすい筆記体で英作文の答えが書かれていた。次のチャイムが鳴り始める前に二人はそのノートを必死で写し始めた。そしてどうやら全部の答えを写し終えると次の授業の始まりのチャイムが鳴った。そして教室の中には吉野というサッカー部の顧問をしている英語の教師が入って来た。クラスの連中は起立礼をした。吉野は机をとんとんとたたいて言った。
「おい、みんな、この前出した宿題をやって来ただろうな。」
松村邦洋と滝沢秀明は机をどんとたたかれたとき、跳び上がりそうな気持ちがした。吉野は教室の中をぐるりと見渡した。生徒の顔色の変化から宿題を忘れている生徒を見つけ出そうという魂胆だった。吉野はおどおどしている生徒を探していた。吉野の目は教室中をぐるりと見回して松村邦洋ところへ行ってピタリと止まった。吉野はチョークを差し出しながら松村邦洋を呼び寄せた。
「おい、松村、宿題をやってきただろうな。お前にやってもらうぞ。ちょっと前に出て来い。」
松村邦洋は吉澤ひとみのノートを写した結果を持って黒板の前へいった。そしてチョークをとると少しおどおどした調子でノートに書いてある解答を写し始めた。それを書き終えると松村邦洋は自分の席に戻った。その黒板に書かれた英文を見ながら吉野は大きくうなずいて解説を加えた。黒板に書かれた答えは正解だった。松村邦洋は吉澤ひとみに目配せをした。吉澤ひとみも軽く微笑んだ。それを見ていた生徒の中で日ごろから吉澤ひとみ、松村邦洋、滝沢秀明たちがいつも仲良くしているのが面白くないと思っている生徒が発言した。
「先生、それ松村君の答えやあらへん。吉澤さんの答えだ。この前の休み時間の間に松村君か吉澤さんもノートを写していたのを見ていました。滝沢くんも吉澤さんの答えを写していました。」
英語の教師の吉野が松村邦洋と滝沢秀明の方へ次の一瞥をくれた。
「それは本当か。」
松村と滝沢秀明はこくりとうなずいた。
「おい、松村、滝沢、前に出てこい。」
吉澤ひとみは二人の様子を心配そうに見ていた。
「吉澤、お前達わかってるなぁ。宿題を忘れたものは廊下に立ってろ。それからばっちりと減点しておくあらな。」
吉野は大声で廊下にいろとどなった。二人が廊下の方へ出て行こうとしたとき吉澤ひとみが急に立ち上がった。
「先生、すみません。宿題を見せようと言ったのは私の方からなんです。」
クラスのみんなはびっくりして吉澤ひとみの方を見た。松村邦洋も滝沢秀明もびっくりして振り返った。そんなことにおかまいなしに吉澤ひとみはひょこひょこと二人のあとを追って廊下へ出てしまった。廊下には三人並んで立っていた。
「吉澤さん、何やらはるのや。君ってばかやないか。」
「あら、そうかしら。私、優等生のイメージンが壊れちゃうかしら」
「イメージが壊れるも壊れないも二人の方から頼んだだから吉澤さんが廊下に出て来ることあらへん。」
「ええ、いいのよ。それよりお付き合いするかわりに私の頼みも聞いて頂戴よ。」
三人がひそひそ声で話しているのを聞きとがめて吉野は廊下に顔を出した。
「おい、廊下で何をごちゃごちゃ言うとるのや。静かにしてろ。廊下に出てまでしゃべっているなら校長室の前に立たせるぞ。」
吉野のが廊下に出てきてどなると三人は首をすくめた。教室の中ではまた笑い声がまき起こった。三人が叱られている様子を教室の後ろのドアから首を突き出してのぞき込んでいる生徒もいた。吉野がまた教室に戻ると三人はさらに低い声でささやき始めた。
「ねえ、お願いがあるの。」
「どんな事。」
「今日、買い物に行くんだけど一緒について来てよ。」
「ああ、そんな事。そんなことならいいよ。なあ、いいだろう。」
「ああ、もちろんだよ。」
松村邦洋と滝沢秀明は学校が終わってから吉澤ひとみの買い物について行くことになった。いつものように学校の正門のところで三人は落ち合った。吉澤ひとみはもう正門のところで二人がやって来るのを待っていた。木陰の中で人待ちをしている吉澤ひとみはまるで恋人を待っている乙女のようだった。しかしこの二人が本当に恋人と言えるだろうか。
「まあ、随分待たせたわね。」
吉澤ひとみは少し不機嫌な表情で二人を睨むまねをした。
「ごめん、ごめん、ちょっと大林に捕まっていたんや」
「そう・じゃあ、行きましょうか。」
「行こう、行こう。」
松村邦洋と滝沢秀明は吉澤ひとみに引っ張られるようにして歩き出した。陽光が緑の葉にきらきらと照り返し木漏れ日がいくつもの輪となってアスファルトの道の上でゆらゆらと揺れていた。二人が吉澤ひとみに連れられて行った場所はデパートの中にあるブティクだった。吉澤ひとみはここで顔なじみのように振る舞った。店員は吉澤ひとみの連れている二人の男を何と思ったのだろうか。松村邦洋にも滝沢秀明にも同じように会釈した。
「何だ。お付き合いって洋服を買いに行くのにつき合うことやったのか。」
「ええ、そうよ、何か不満。」
吉澤ひとみはいたずら小僧が自分のしたいたずらがばれて照れ隠しで笑うように微笑んだ。
「不満ちゅう事やないけど。」
松村邦洋はへどもどしながら答えた。
「不満というわけやないけど女の子が洋服買うのにつき合わされるとは思わなかったわ。」
松村邦洋はやはり少し不満げに吉澤ひとみに言った。
「なぁ、そうやろ。」
松村邦洋は同意を得ようとして滝沢秀明の方へ目配せをした。滝沢秀明の表情にはあまり変化がないようだった。
「まあ、それより。」
吉澤ひとみは店内にある服をとってみて身体にあててみた。
「これ似合うかしら。」
松村邦洋も滝沢秀明も目を見張った。だいたいが吉澤ひとみは何を着ても似合うのだが服装によってさらに引き立つ顔立ちをしていた。松村邦洋も滝沢秀明も何と言ってよいか分からずどきまぎした。
「うん、似合うよ。」
「そう。」
そう言って吉澤ひとみは自分の姿を鏡に映してみた。彼女はまだ少し不満なのかもしれなかった。吉澤ひとみがワンピースを体にあてながら鏡に自分の姿をいろいろな角度から映しているのを松村邦洋と滝沢秀明はまぶしそうに見ていた。松村邦洋と滝沢秀明の見ている鏡の中に映った吉澤ひとみの目は二人に会うと微笑んだ。吉澤ひとみはいろいろな服を手に取ってみて試着室に行き、着たり、脱いだりしていた。。吉澤ひとみは着替えるたびにその服の寸評を二人に求めた。松村に入ると、淑郎に求めた。そのたびに二人は似合っているとか何とか言っていたが実際すべての洋服が吉澤ひとみに似合っているように思えた。吉澤ひとみは結局五、六着試着してみて二番目に試着した服を買うことにした。吉澤ひとみが勘定をすましているあいだ松村邦洋と滝沢秀明の二人は店の出口のところで彼女を待っていた。三人はまた並んで歩いた。吉澤ひとみは今買った服を胸に抱いている。
「結局二番目に試着した服を買ったんだね。」
滝沢秀明が吉澤ひとみの横顔を見ながら言った。
「そう、あの白地の生地の上にいろいろな幾何模様がいろいろな色でプリントされている服ょ。」
「それにしても随分いろいろな服を試着してみたやないの。」
「それはそうよ。お小遣いだってそんなに持っていないんだから有効に使わなくちゃ。」
「うーん、そりゃそうや。」
「明日着て来るの。」
「あなたたちがそう望むなら着て来るわ。」
吉澤ひとみは二人の方を振り返りながら言った。
「へぇ、じゃあ吉澤さんがその服を着ているとこ見たいな。」
「うん、見せてあげる。」
「きっとやで。」
「もちろんよ。」
「それにしても今日はうれしかったな。」
「何が。」
「何がって吉澤さん一緒に廊下に立ってくれたやないか。でもあんなのは安ぽいヒロイズム言うんやで。」
「そうね。安っぽいヒロイズム。」
そう言って吉澤ひとみはほおにえくぼを作った。
「でも何故僕らを友達に選んだんだい。僕も松村もクラスの中ではほとんど目立たないし、全然女の子にももてないし、勉強もだめ。全く何の取り柄もないのに吉澤さんの気が知れないよ。」
事実それはS高校の七不思議の一つに違いなかった。吉澤ひとみは何故この二人に接近しているのだろうか。
「そうや。吉澤さん、君は学校のマドンナやしね。男子全部の憧れの的やないか。何で僕らなんかを友達に選んでくれたんや。それが不思議で仕方ないんや。」
吉澤ひとみは二人をちょっと睨むような目をして「何、言ってるの。私なんてそんなたいそうな者じゃないわよ。あなたたち、私の友達でしょう。これからもずっと私の友達でいて頂戴よ。」
「そりゃあ吉澤さんの友達だということだけででこれ程名誉な事はないけど。」
松村邦洋は少し戸惑っているようだった。それから三人は大阪の難波のあたりで遊んだ。道頓堀へ行くと人混みがすごかった。道頓堀の橋の上ではどこかのラジオ局がお笑いタレントを使って街頭インタビューをしていた。そこにもひとだかりができていた。三人はそばのたこ焼き屋で買ったたこ焼きを食べながらその様子を見ていた。それから名物と言われているカレー屋へ行きカレーライスを食べた。
外にはまだ太陽がだいぶ高いところに出ていて降り注ぐ太陽の光が雨に濡れた蜘蛛の糸のようにきらきらと輝いていた。三人が歩いて行くとそこには公園があった。長いベンチが所々に散らばっていて木陰になっていて涼をとるのに最適だった。あたりにはまだ誰も人がいなかった。公園の中はなだらかな小山のようになって木が所々に植えられその木の根元にはベンチが置かれていた。木陰には涼風が流れていた。三人はその公園のベンチで休むことにした。
「ねえあのベンチで休みましょうよ。」
吉澤ひとみが松村邦洋と滝沢秀明に言った。
「このまま家に帰ってもやることもないでしょ。ねっ、だからあのベンチで少し休んでから家に帰ることにしましょうよ。」
「うん、そうしようか。このまま家に帰っても何もすることもないし。なっ、松村、いいだろう。」
「ああ、いいよ。」
滝沢秀明にそう言われて松村邦洋は答えた。三人は木陰に置かれたベンチのところまで行った。松村邦洋は気を利かして吉澤ひとみが座ろうとするとベンチの上のほこりを息で吹き飛ばした。三人は木陰に置いてあるベンチの上に腰かけた。
「もうすぐ夏ね。」
吉澤ひとみが二人に言った。
「うん、もうすぐ夏だね、やっぱり少し暑くなってきたよ。」
「ちょっと待っててや。」
松村邦洋がそう言って席を立った。
「今ちょっと冷たい物を冷たいものを買って来てやるわ。なっ、いいから、いいから、二人は座って待っててな。今、アイスクリームでも買って来るわ。そうやっているところを見ているといいカップルや。ほら、お似合いや。今、来る道の途中に売店があったから、ちょっと行って来るわ。」
そう言って松村邦洋はベンチから立ち上がると座っている二人を制して近所の売店まで行った。その様子を見ていた吉澤ひとみは楽しそうだった。何かたくらんでいることがあるようだった。吉澤ひとみは含み笑いをしていた。彼女の頭の中には何かの考えが浮かんでそれを実行しようとしているらしかった。吉澤ひとみは滝沢秀明の方を向いて言った。
「ねぇ、滝沢くん、ちょっと待っていてよ。松村くんを脅かしてやろうと思うの。」
「驚かすって何をやるんだい。」
滝沢秀明は驚いて吉澤ひとみの方を見た。
「まあ、待っていて。」
吉澤ひとみはそう言って今、買って来た洋服の包みを持つと向こうの方へ歩いて行った。そしてしばらくすると吉澤ひとみは見違える姿になって滝沢秀明の前に戻って来た。彼女は今買った洋服を着て戻って来たのだった。吉澤ひとみに着ている服はワンピースで背中の方にファスナーがあった。そのファスナーが背中の途中で何かにひっかかってって動かなくなっているようだった。吉澤ひとみは滝沢秀明の方に恥ずかしそうに背中を向けた。
「ごめんなさい。滝沢くん、ファスナーが途中から動かなくなっちゃったの。全く困っちゃうわ。 きっと糸くずか何かがつまっちゃったからだと思うわ。滝沢くん、糸くずを取ってファスナーを上に上げてくれない。」
滝沢秀明はどきまぎしてしまった。吉澤ひとみの向けた背中には彼女の白い背中が見える。ファスナーは背中の途中で止まっていた。ファスナーの動く部分は首のところから二0センチくらいのところで止まっている。滝沢秀明は壊れ物にでも触るように吉澤ひとみの背中のファスナーに手を伸ばした。確かに白い糸くずのようなものがファスナーに引っ掛かっていた。滝沢秀明はファスナーを下げてその白い糸くずを取ろうとした。吉澤ひとみのにおいが鼻をつく。滝沢秀明は胸の高鳴りを感じた。吉澤ひとみは不自然に息を止めていた。滝沢秀明がファスナーをうまく上げることができず、とまどっていると背後に人影を感じた。
「おいねえちゃんとあんちゃん、うまいことやっとるやないけ。ねえちゃんのファスナーが下りないなら俺がおろしてやろうか。」
後ろを振り返るとサングラスをかけ見るからにチンピラらしい人物がにやにやして顔を近付けて来た。
「おい、ねえちゃん、俺が可愛がってやる。こっちへ来いや。」
そう言ってチンピラは手を伸ばした。吉澤ひとみはその手に噛みついた。チンピラは悲鳴を上げた。
「なんだ。このあま、可愛がってやろうとすれば噛み付きやがって。」
チンピラは吉澤ひとみの手を掴んで連れて行こうとした。滝沢秀明はチンピラの手を掴んだ。滝沢秀明は自分でも何でそのような勇気が出てくるのか分からなかった。
「おい、やめろ、このチンピラ。」
滝沢秀明はそう言ってチンピラの片腕のところにぶら下がると周りの人を呼び寄せようと思って大声を上げた。するとチンピラは滝沢秀明を殴ってから地面の上に投げ飛ばした。滝沢秀明は地面の上に投げ飛ばされて顔で地面をこすった。それでも滝沢秀明は大声でわめきながら両腕をぶんぶん振り回しながらチンピラに向かって行った。そのうち滝沢秀明の七面鳥が首を締め上げられているような叫び声を聞きつけて松村邦洋も駆けつけて来た。松村邦洋は今買って来たアイスクリームの袋を投げつけると滝沢秀明と同じように両腕をぐるぐると振り回しながらチンピラに向かって行った。松村邦洋も滝沢秀明と同じようにチンピラに投げ飛ばされて地面をはった。それでも二人は同じように再度チンピラに向かって行きチンピラの両足にしがみついた。すると吉澤ひとみがチンピラの急所を蹴り上げた。チンピラは急所を抑えてその場を転げ回った。三人はベンチのところへ行くと自分たちのかばんを持ってその公園を走り出した。
「さあ、今だ、逃げだそう。」
三人は夢中で駆けだした。しばらく走って川のほとりの木陰のところにやって来た。三人はそこで立ち止まって大きな石に腰をかけた。松村邦洋と滝沢秀明の顔には地面に投げ付けられたときの擦り傷ができていた。吉澤ひとみは背中のファスナーが完全に上がっていない状態で駆けて来た。三人は三人とも顔を見合わせて笑った。
「まあ、松村君も滝沢君も鼻の頭にこんなに大きな傷をつけちゃって。」
「そういう吉澤さんだってファスナーを完全に上げない状態でここまで来たのかい。」
三人は三人とも何かとても愉快な気分になっていた。吉澤ひとみはハンカチを出して三人の顔の傷の上に付いた砂を払ってあげた。
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第十一回
小川のせせらぎの聞こえる庵の前に一人の人影がいた。庵の上には青い空が広がり今日も降るように星が輝いていた。庵のそばには露草が生い茂り、明日の朝にはその青い葉の上にいくつもの水玉を乗せていることだろう。庵の中では老僧が寝床の上に腰をかけ従者の若い僧がその横に控えていた。二人の前には一人の人影があった。
「その後どんなことが分かったのか。わしに教えてくれ。」
老僧がおごそかに口を開いた。
「はい、その後もなかなか調査は進展いたしません。」
「そちには何か気の迷いが感じられる。修業は相変わらず続けておるのか。」
若い僧その人影に言った。
「はい、修業は続けております。」
「拳法の道は深く長い。達磨大師は何年も壁に面して座禅し、しまいには足が動かなくなった。少林寺においても境内の床は修業者の鍛錬のために石で出来ているというのにへこんでしまったと伝えられている。」
若い僧は続けて言った。
「はい、修業は続けております。しかし。」
「しかし、なんだ。」
「恋をしてしまいました。」
「何、恋をした。」
若い僧は驚いてその人影の方を見つめた。
「まあ、よいではないか。そうか、恋のとりこになってしもうたか。」
そう言って老僧はからからと笑った。
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第十二回
手術室
白い手術室のような部屋の中でひとりの男が手術台のようなものの上に寝かされていた。その男は黄金のマスクを被っていた。その男の周りには二人の手術着を着た男が立っていてその黄金の仮面の男の顔をのぞき込んでいた。黄金の仮面をかぶった男は栗の木団地のそばにある雑木林で松村邦洋と滝沢秀明を襲った男だった。その時老僧に顔を打たれたため黄金の仮面はへこんで老僧の拳の後がはっきりとついていた。二人の白衣を着た男はその黄金の仮面かぶった人物の首筋のあたりをいじくっているとその黄金の仮面は顔から少しうきあがった。その浮き上がった仮面と顔のすき間に指を入れると白衣を着た着た男はその仮面を外した。仮面をはずした男の顔には肉片はなかった。あるのは金属製の管や電線をつなぐためのコネクター、フレキシブルプリント基板、特殊な合成樹脂で固められたIC類だった。二人の男のうち一人の方が言った。
「どうやら内部に損傷はないようだな。早速データを解析してみよう。」
そう言ってその男はその仮面の中に隠された機械類をまさぐっていた。一つの四角い立方体の箱を取りだした。
「早速この記録装置の中にインプットされた情報を調べてみよう。」
そう言うと二人の男はその記録装置と呼ばれる立方体の箱を持って来てその手術室のような部屋を出ていった。そしてガラス張りの塵一つないような白い清潔な部屋へ行くとその四角い箱を端末装置につないだ。二人がコンソールボックスの前に座りキーボードを叩くとブラウン管の緑の画面には文字が走り始めた。その緑色のブラウン管に下から上に流れていく文字を見ながら二人はびっくりしたような表情をしていた。
「何と言うことだ。われわれの戦闘用アンドロイドの五倍以上の戦闘能力を持っているではないか。一体、あんな老人のどこにこれほどの力が蓄えられているというのだ。」
「全く信じられません。」
「あの古寺でわれわれの戦闘用アンドロイドと戦った若い方の二倍近い戦闘能力を持っているようだな。普通なら年をとるにつれてその能力は衰えていくことが自然の摂理だというのにどんな医学的な理由からか、あいつらはあれだけの力を持つことができたのだろうか。」
「まったくです。ほかにも彼らの仲間がいるのでしょうか。」
「そうだ。もう一人いる。こちらの方はまだ未完成で大部戦闘能力は落ちるようだが油断はできない。」
「あのS高校に通っている奴ですか。」
「そうだ。」
そう言って背の高い方の人物は椅子に腰かけた。もうすでにデータの解析はすっかり終わっていた。
「われわれの送ったRー7号は。向こうに気付かれていないでしょうか。」
「多分大丈夫だろう。まだ気付かれていないだろう。しかし用心に用心を重ねることは決して無駄ではない。」
「やはり彼らは羅漢拳と呼ばれる集団の一員なのでしょうか。」
「そうだ。われわれも彼らの存在をはじめは信じてはいなかったがやはり実在していたんだ。彼らはわれわれの最大の敵となるだろう。彼らの本拠を総攻撃しなければならない時が来るだろう。」
「一体彼らはどこに住んでいるのですか。」
「いや、それはわからない。しかし羅漢拳の歴史は正式に日本に仏教が伝来するよりもさらに以前のことなのだ。日本には大乗仏教のみが伝来したということになっているが中国から道教思想に基づく宇宙のエネルギーや時間をひっくるめた真理、それを道というのだが個人がそれと一体になることを究極の目標にするという考え方、それにより一個人が全宇宙を自分のコントロール下におくことができるという考え方があるのだ。その思想をもとにし、自らの肉体と精神を修業によって超人と化したものたちの集団なのだ。しかしそんな考え方でその力の一端さえ自分の手にした人間を一人でも探し出すこともできなかった。そんな人間は見たこともない。しかし実在していたのだ。あの老僧が指導者なのかもしれない。」
そう言ってその人物はカップの中についであったコーヒーを飲みほした。
「われわれのアンドロイドをもってしてもあの老僧も倒すことはできないのでしょうか。」
「多分無理だろう。今のままの形状、形では積み込むことできる人工筋肉にも限界がある。あれでサイズを十倍にすれば力で対抗できるがスピード、補修の点で問題が生ずる。今のサイズで分子間力の結合力を十倍にすることのできる化学物質を見つけることができればあの老僧を倒すことができるだろう。」
「伝達物質の濃度を十倍にして出力を十倍にすることはできないのですか。」
「だめだ。伝達物質の濃度を十倍にしてあのサイズだったら表面温度が千度近くなり立ったままが溶け出してしまうだろう。またそれ以前の問題として液体ヘリウムで冷却してその問題を解決してもジェネレーターは強大な磁気を発するので人工自我収納庫が破壊される。」
「そのために遮蔽板の超合金の開発を急いでいたのですか。」
「そうだ。そのために遮蔽板の開発が必要だったのだ。何らかの方法で人工筋肉の出力を十倍に出来れば問題はないが。」
その時部屋の扉が開いてもう一人の部下が入ってきた。
「総統、調査の結果がわかりました。手短に結果だけ述べますとあの若い僧が古寺にやってきたのはわれわれが松田政男を殺したすぐ後のことです。」
「そうか分かった。その調査はあとでゆっくり目を通すことにする。下がってよろしい。」
そう言うとその男はその部屋を退いた。
やはりそうか松田政男を殺したことと羅漢拳には何か関係があるに違いない。
「閣下、人工筋肉の増強のことは何も分からないですか。」
「ああ、研究成果を失ってしまってその化学変化の時のポテンシャルエネルギーが何型になるのか。型を選ぶときの要因が分からないのだ。しかしそれらの問題をクリアーすればジェネレーターの出力も人工筋肉の出力も十倍にあげるられる。そしてそれらが自己修復機能さえ持ち始めるかも知れない。」
「その型は完成していないのですか。」
「いや、それに近いものはどこかで完成しているはずなのだ。ただ、今の所、われわれがそれを見付けることができないと言うことなのだ。」
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第十三回
「おまちどおさま。」
自分のテーブルに運ばれてきた軽食Cセットを見て思わず吉澤ひとみの口元は緩んだ。この町に引っ越して来てからお気に入りの店を発見したがそれがこの喫茶店だった。新興のつい最近までは田園風景だったと言っても駅前の商店街はそれなりに繁盛している。駅の西口出口から大きな寺院へ抜ける道が商店街になつていてその商店街の道の両側にはまた何本も横に抜ける道がついていてそこを入っていくと住宅街になる。その商店街の中間あたりの位置についている横道のかどから二軒目に彼女のお気に入りの喫茶店があった。店の構えは落ち着いていて調度類もそこそこにこっていた。店のショーウインドーに軽食セットがAからCまで並べられていてCはピザトースト、抹茶アイスクリーム、それに好きなドリンク類が選ぶことができて値段が非常に安いのである。ためしに中に入って注文すると店の中は落ち着いているし、テーブル同士は充分に離れているし。二、三脚のテーブルごとにしきりがなされていて隣の客の話し声もそれほど気にならなかった。そして実際に運ばれてきた品物が量といい質といい充分に満足できるものだったからすっかりこの店が気に入ってしまった。それから彼女はよくこの店に来るのである。吉澤ひとみはお気に入りのファッション雑誌を拡げながら抹茶アイスクリームをスプーンですくって口に運んだ。ファション雑誌には今年流行りそうな服の事が載っていた。店主がここのオーナーではないということはここに食材を卸している出入り業者と店主との立ち話から知った。吉澤ひとみはまだここに五、六回ぐらいしか来ていなかったがその事を知った。それに店の中に置いてあるメニューからここのほかにも他店があることを知っていたからだ。常時三、四人のウェートレスがいた。店内は山小屋のような雰囲気でテーブルも椅子も木目のあらわな木肌を焼いてさらに木目を引き立たせるようにした材料を使用していた。そのテーブルの上にファション雑誌を拡げていると吉澤ひとみはどうしてもあの僧たちの活躍が信じられなかった。二十メートル以上の空中を飛び上がったり、時速二百キロ以上の速度で走り、十センチの鉄板を素手で穴をあける。そんな人間がこの世に存在するのだろうか。しかし確かに存在する自分のこの目で見たのだから。しかしこの事実は世間一般には知られていない。どのニュースを見てもそんな人間が居る事が喧伝されたことはない。今のところこの事を知っているのは松村邦洋と滝沢秀明と自分の三人だけだ。しかし現代に住む自分たちが彼らに遭遇したということは過去の時代にも彼らもしくは彼らのような存在に出会った人間が居たということなのだろうか。人間が歴史というものを意識してから大部時間が経っている。現在の時間の何倍もの時間が流れているのだ。今、彼らに出会ったという事は彼らが過去にも出現した可能性は極めて大きい。しかし何故彼らの存在が現代になっても知られることがないのだろうか。また医学的な見地から全く彼らのような人間、外見がそうだからそう思うのだが、存在しうるのだろうか。地上から二十メートルの距離を飛び上がることができるということは体重が六十キロあるとすれば大まかに計算しても二トンの脚力を必要とする。走る方で考えると三秒で二百キロのスピードに達するということは少なくとも脚力は五トンなければならない、それよりも信じられないことは十センチの鉄板に穴を開けるという事実である。それから腕力の簡単な値を出すことは可能だが鉄板と人間の骨では硬度が違いすぎる。たとえどんな力があったとしても鋼鉄にそんな力で直接にぶっかつていつたら骨はぐちゃぐちゃにくだける事だろう。そこで一つの仮説だが当たる瞬間に拳と鋼鉄の間に何らかの緩衝材が存在する、または拳と鋼鉄の間に何か爆発があって鋼鉄に穴が開くと考えられないだろうか。ここまで考えて吉澤ひとみは気というものに考えを進めた。道が宇宙の実在と真理そのものなら気は目に見えない宇宙のエネルギーそのものである。気は眠っている獅子である。その方向性を決めるのは道である。拳を握る本人が道となったら、気が拳に集中され、拳の力ではなく、気の力によって鉄板に穴を開けることも可能なのではないか。そこまで考えて吉澤ひとみは自分でも笑い出した。あまりにも荒唐無稽な考えだからだ。そんな事を考えながら抹茶アイスクリームを食べているとどこかで聞き慣れた声が聞こえて来た。声のする方を見るとボックスの中に一組の男女が向かい会って何か楽しげに語らっている。女の方はこちらを向いている。その顔は少しも思い出せない。聞き覚えのあるのは男の声の方でその話し方はある特徴がある。こちらに向けている背中から思い出した。思い出すというほど遠い世界の存在ではない。吉澤ひとみのホームルームの担任の畑筒井だった。と言うことは畑筒井と楽しげにテーブルを挟んで語らっているのは彼が三ヶ月後に結婚式を挙げる彼の婚約者神戸あずさに違いない。畑筒井は普段生徒から彼の婚約者の事を聞かれるのをひどく嫌がった。彼自身は今年中に結婚式を挙げることはおろか三十四才の彼に十一才年下の看護婦の彼女がその上その彼女の名前が神戸あずさと言うことがいつの間に彼が受け持っている生徒全部が知ることとなつてしまった。これにはもちろん密告者がいるわけだがそのいきさつは畑筒井の同僚が彼の親しくしている生徒の保護者に伝わりそこから生徒たちに伝わって行ったというのが真相だった。とにかく畑筒井は生徒にその話題を出されるのを嫌がった。十一才年下の婚約者が居ることを知られたら教師としての威厳を保てないと思ったのかも知れない。しかし今はその現場を見られたりしているのである。そして婚約者の方もどこかで見たことがあるような気がしてきた。一般客が自由に校内に入ることのできる文化祭のときに彼女の姿を見ることができて、かつ印象に残っていたことを思い出した。その日は校長と親しく話している女性がいて何者かが分からず校長の娘かも知れないなどと根拠のない想像をして妙に納得していたがあの時の女が今ここに居て畑の婚約者だったのかと、今、わかった。吉澤ひとみが二人の姿を見ていると婚約者の神戸あずさと目が会った。すると彼女は意外にも吉澤ひとみの方に向かって微笑みかけ、畑に何か話しかけ始めた。きっと彼女が畑の担任している生徒だということを畑から彼の持っているアルバムか何かを見せて貰い、彼女は知っているのだろう。それで彼の生徒が同じ店内に居ることを畑筒井に教えているようだった。畑筒井がどういう行動に出るか、彼は生徒に自分の婚約者の事を知られる事を極端に嫌がっていたので見ものだったが懐柔策を取る気らしい。畑筒井も吉澤ひとみの方を振り向くと彼らの間には五、六メートルの距離が隔たっているというのに大きな声を出して吉澤ひとみを呼んだ。
「吉澤くん、そんなところにいても、一人でつまらないだろう。こっちに来ないか。」
「でも、もう、注文したものも来てしまって食べ始めているんですけど。」
「お盆ごと持って来ればいいじゃないか。」
二人の座っているテーブルは四人がけだつたので吉澤ひとみは神戸あずさの隣に座った。神戸あずさは丸顔の目がへの字の形をした愛嬌のある女だった。
「吉澤くんはこの店によく来るのかい。」
「ええ、ときどき、一ヶ月に二、三度くらいです。」
「転校して来てから二ヶ月ぐらいだっけ。」
「ええ、そうです。」
「どう、新しい学校には慣れた。新聞部に入っているんだったよな。えーと、うちのクラスで新聞部と言うと誰が居るんだったけ。そうだ。松村邦洋と滝沢秀明だったな。あの二人と仲がいいみたいじゃないか。」
「ええ、帰りはよく一緒に帰っています。」
こっちの席に移るとき一緒に持って来たピザトーストを吉澤ひとみは頬張りながら答えた。ビザトーストはオーソドックスなもので世間一般でミックスビザトーストと呼ばれるものだった。本場のイタリアにビサザトーストがあるのかどうなのかわからないがトーストの上に塗ってある赤いトマトで作られたピザソースの色、黄色いチーズの色、説けたチーズの中に入っているピーマンの緑色、熱を加えられてしんなりとしたタマネギの透明な色、サラミソーセジの紫っぽい色、そしてそれらをのせているトーストのきつね色、それらのものがイタリアを何故だか感じさせた。
「アイスコーヒーをもう一つ。」
吉澤ひとみの飲みかけのアイスコーヒーがほとんど残り少なくなっているのを見て畑筒井がウェートレスを呼び止めて注文した。学園のアイドル吉澤ひとみも彼の前では十七才の高校生だった。
「最初、神戸あずささんを始めて見たとき、私、校長先生の親戚の人だと思っていたんです。」
カップに入ったガムシロップとミルクをアイスコーヒーの中に入れ、それをストローでかき混ぜながら吉澤ひとみは横に座っている神戸あずさを見ながら言った。こうしないとガムシロップが底に沈んでストローで飲んだとき最初のときだけ甘くなつてしまうからだ。コーヒーの紫がかった茶色の透明な液体のなかで白いミルクの縞模様が吉澤ひとみがストローをコップの中で回転させるとその縞模様も回転した。
「始めて見たって、私をどこで見たの。」
吉澤ひとみより六つ年上のへの字の形をした目の看護婦は吉澤ひとみに笑いながら話しかけた。美人ではないが愛嬌のある顔をしていた。ある意味では学園のマドンナの吉澤ひとみよりも今は美しいかも知れない。それは外見のことではない。彼女が間近に結婚を控えている喜びが身体全体からあふれ出ているからだ。吉澤ひとみが彼女を始めて見たのはS高校の文化祭のときだった。S高校の生物室が文化祭のときは喫茶店に変わった。生物室の大きな机の上に青いチェック柄のビニールのテーブルクロスが敷かれ、その机全てに花瓶に生けられた山盛りの花が飾られた。生物室は他の教室よりも窓が二倍に大きくとられ、窓の外は噴水のある池があった。その池と窓の間には大谷石で枠組みを取られた花壇があり、藤棚があり、緑のつるが空を望むことのできる大きな窓にたれ下がっていた。この空間の中の天井に蛍光灯は点いていたが採光が良かったのでまるで蛍光灯は点いていないようだった。その模擬の喫茶店の中のテーブルの一つに神戸あずさが校長と向かい合わせに座って親しげに話しているのを見て吉澤ひとみは彼女が校長の親戚か何かではないかと思ったのだ。吉澤ひとみはその文化祭の時の事を神戸あずさに話した。
「私もあなたの事を知っていたわ。」
そう言って神戸あずさが畑筒井の方を見て目配せすると畑筒井は目の前であぶが舞っているような表情をした。
「筒さんがアルバムを見せてくれたの。この女の子がうちの高校のマドンナなんだよって。」
するとまた畑筒井は目の前であぶが舞っているような表情をした。
「マドンナなんて言う表現を使ったか。」
「使ったじゃないの。憶えていないの。ふふふふ。」
神戸あずさはどこまでもおっとりしている。
「でも、私も吉澤さんの姿を見るのは始めてじゃないのよ。それより以前にあなたにお会いしたことがあります。」
「どこでですか。」
吉澤ひとみには見当もつかなかった。
「吉澤さん、**京へ行かなかった。」
「ええ、転校する前に旅行で訪ねたことがあります。」
「**京でちょっと変わった定食屋に入らなかった。そこで写真を撮られなかった。」
「ええ、お腹が空いていたので**京駅から出て少し歩いたところにある定食屋さんに入りましたけど。」
吉澤ひとみはちょつと変わった定食屋に入った事を思い出した。店の外見自体は普通の感じなのだが一つ店の中に入るとさざえやいろいろな貝殻、万年青の鉢などが店内に所狭しと置かれていて漁師が定置網で使う網やガラスの大きな球などが置かれていた。店の中はほとんど居酒屋ののりでもう一つ変わっているところは壁に数え切れないくらいサービス版の写真が貼ってある。それもいろろいなポーズをとっているものが多い。それも女の子の写真ばかりだった。吉澤ひとみが食事を終わって店を出ようとするとこの店の主人である七十くらいのおばあさんが出てきて話しを要約するとその老人は老後の趣味としてカメラをやり始めて今までもカメラ雑誌のコンテストに何度か応募して自分が撮った写真が掲載されたこともある。それでこの店に来るお客さんの中で気に入った人はお願いして写真を撮らせて貰っている。ここに貼ってある写真がそうなのだ。あなたの写真も撮らせて欲しい。と言うことだった。そう言ったのも七十を越えたおばあさんだし、別に変なことに利用される事もないだろうと思って写真を撮らせたのだった。それが**京の定食屋での記憶だった。
「私のおばあちゃん、定食屋さんを**京でやっているの。そのおばあさんって私のおばあちゃんなんです。」神戸あずさは両肘をテーブルにのせ、胸を突き出す感じで言った。
「おばあちゃん、に言われたんです。今日、とっても綺麗な女の子が店に来たから写真を撮らせてもらったんだよ、って。それで私もおばあちゃんに写真を見せて貰ったの。とっても綺麗な女の子が写っているな、と思って印象に残っていたんだけど、ある日筒さんに受け持ちの生徒のアルバムを見せて貰って、この子がうちの学校のマドンナだって言うでしょう。そこであなたに二度目に、写真の上のことだけど会ったということなんです。そして、吉澤さんの事を知ったのよ。」
神戸あずさは吉澤ひとみにほほえんだ。
「ひとみは**京へ行ったのか。あそこへ行くにはH電鉄を使うんだっけ。そうやろ。あまりあそこに行く人間はいないやろ。」
畑筒井は目の前に座っている神戸あずさと吉澤ひとみの二人を交互に見比べた。
「何かおもしろいものあった。そもそも何を見に行ったんや。あそこには何があったけ、あずささん。」
「五ヶ月ぐらい前に週刊誌にH大学の先生が**京にある喜撰院というお寺で渡辺綱の使っていたという古刀が発見されたという記事があったのを先生は知っていますか。」
「渡辺綱というと一条戻り橋の橋の上で美女に化けた鬼の片腕を切り落とした話しで有名なさむらいだろ。」
「ええ、その渡辺綱の持っていた刀が発見されたという記事を見たからなんです。」
「渡辺綱と言えば平安時代末期のさむらいだろう。そんな古い人間の遺品が見つかるのやろうか。」
「渡辺綱って、金太郎さんとは違うの。」
「あずささんは一条戻り橋ってご存知ですか。今は昔のものとは同じではないんですが京都御所から西へ行くと今はやはり水のない堀川という川があります。その川にかかっている橋です。今あるコンクリート製の橋もほぼ同じ位置にかけられています。正しくは土御門橋という名称だったそうです。戻り橋と何故呼ばれるようになったのかと言うと三好清行、みよしきよつらという学者がいました。その子供の浄蔵が大峰山で修業していたとき三好清行が死んで葬式をあげることになりましたが熊野の大峰山にいる浄蔵は間に合いませんでした。しかし葬列が土御門橋に来たとき浄蔵は父の棺に追いつきそれに縋り付くと死に目に会えなかったことを嘆き悲しみました。すると死者は一時的に生き返り別れの言葉をかわしました。それから土御門橋は一条戻り橋と呼ばれるようになったそうです。渡辺綱の古刀というのはそれに関わっている刀ではないかと言われているんです。渡辺綱という名前ですが源氏の流れを汲むさむらいで養母が摂津の渡辺に住んでいた関係で渡辺姓を名乗ったと言われています。渡辺綱は武勲で知られた渡辺頼光の四天王の一人でした。四天王の顔ぶれは碓井貞光、卜部季武、渡辺綱、坂田金時の四人です。足柄山の金太郎のモデルになつたのはあずささんの言った坂田金時です。その中の一人渡辺綱が持っていたと言われる源頼光から拝領されたと言われている蜘蛛切りの名刀が発見されたという記事を見付けたからなんです。」
「蜘蛛切りの名刀って。」
「文字通り蜘蛛を切ったという刀ですわ。蜘蛛と言っても大きさが八メートルもある蜘蛛ですけど。」
「まさか。」
「もちろん言い伝えですが。一条天皇が原因不明の病気で床に伏したことがありました。とくにお苦しみになるのは夕方から暗雲が立ちこめ月の見えない夜でした。天皇の外戚の藤原兼家は名の高かった陰陽博士の賀茂親義というものを宮中に呼びましたが彼が宮中に来たことを源頼光は不審に思いました。頼光は賀茂親義が足を折って宮中に参内できないことを知っていたからです。そこでは頼光賀茂親義の弟子の星かぶと童子を呼び出して式神をうたせると賀茂親義の顔に張り付きその回りには黒雲が生じました。渡辺綱が彼を斬りつけるとその姿は見えなくなりました。しかし血の痕が点々とついていて源頼光はその痕をつけることにしました。星かぶと童子は
賀茂親義のもとへ行き破邪の剣を受け取ると渡辺綱に渡しました。そして渡辺綱がその血の痕を辿っていくと糺の森の大岩の前に人骨が散らばっていて大岩もろとも破邪の剣で一刀両断にすると八メートルもある大きな毒蜘蛛が断末魔の叫び声を上げて左右二つに両断されて死んだのです。それからその刀の事を蜘蛛切りの太刀と呼ぶようになったのです。」
「おとぎ話みたいね。」
「まあ、そう言えばそうですが。だっておとぎ話ですもの。でも蜘蛛切りの太刀が実在したというのは本当らしいですね。」
吉澤ひとみはピザトーストをほおばった。それからストローをくわえると喉が乾いたのかアイスコーヒーを吸った。
「吉澤さんはその蜘蛛切りの太刀を見に行ったというわけなの。」
「いいえ、それよりも渡辺綱の子孫にあたる渡辺政行の日記が発見されたということの方が興味があったんです。」
「渡辺政行と言われてもぴんとこないんだけど、何でその人物に興味を持ったんたや。」
吉澤ひとみはちょっと黙りこんだが、畑筒井の方を向くと微笑んだ。
「渡辺政行の時に保元の乱が起こったのですが崇徳天皇の側についていたはずなのですが何ら罰せられることもなく安泰に天寿を全うしたのが何故なんだろうって。彼の日記が発見されればその秘密がわかるんではないかと思ったんです。」
「それでそれらが発見されたという寺の名前は何って言うんやったけ。」
「喜撰院です。」
「私、**京に住んでいるのに思いだせないわ。そんなお寺あったかしら。いつそれが発表されたの。私、ちっとも知らなかったわ。
喜撰院どころか、源頼光も渡辺綱のことも知らないわ。」
「僕が小学校の頃はそんな絵本もたくさんあったんやけどな。今どき楠正成やそんなところの絵本なんてちっとも見ないわ。時代やなぁ。」
「吉澤さん、渡辺綱や源頼光の話しもしてくださる。」
そう言われて吉澤ひとみは少し神戸あずさの方へ顔を向けた。
「源頼光は源満仲の長男で源経基の孫にあたります。源経基の父親は貞純親王で祖父は清和天皇です。武勲に優れいろいろな言い伝えに登場します。しかし現実の政治的立場は藤原氏に取り入ることで自分たちの地位を向上させたのです。彼には四天王と呼ばれる坂田金時、渡辺綱、卜部季武、碓井貞光の四人を勢力下に持っていました。ある日酒の席で彼らが酒を酌み交わしながら語るに誰が一番胆力があるかと言う話題になった。そこで碓井貞光が巷の噂話を披瀝した。その頃の平安京の都は大分荒廃していたらしいんですね。唐の都、長安を模したこの都は天然痘などの伝染病、政変、住宅政策などによって南の方は人も住まなくなって荒廃仕切っていたらしいですね。南の真ん中の位置に陰陽道の観点から羅城門と呼ばれるかっては威容を誇っていた門がありました。羅城というのは中国の都市の周囲を外敵から守っていた城壁のことです。そこは創建当時は朱塗りの威容を誇っていた南の怨霊退散のための守り門でしたが今言ったように源頼光の時代にはすっかりと荒れ果てて犬の死骸が投げ込まれる、人間の死体が投げ込まれる、などでただでさえ人の集まらなくなったこの場所にみんなは気味悪がって寄りつかなくなっていったそうです。そうするとさらに羅城門は荒廃していき、追い剥ぎや盗人の謀議のあじとになったり、一種の危険地帯になっていました。そのうちにそこに妖怪が住むという噂も立つようになったんです。そこで源頼光や四天王たちは肝試しに真夜中に妖怪の嫌がる陰陽道のお札を羅城門に誰かがおいてくるという話しになって渡辺綱に白羽の矢が立ちました。渡辺綱は蜘蛛切りの太刀を携えて羅城門に向かったのです。羅城門のあたりは廃墟のようになっていましたから歩いていく途中も草ぼうぼうで人っ子一人いません。このあたりの様子は芥川龍之介の羅生門を読むとその辺の感じがつかめるかも知れません。渡辺綱が柱のところまでやって来ると確かに人骨らしいものがところどころに散らばっている。とりあえず渡辺綱は阿部清明から預かった魔よけの札を柱に貼り、これだけでは本当に羅城門に行ったという証拠がないのでどうしようかと思っているとこの門の屋根を葺いていた瓦が何枚か割れたものが落ちていました。それでその瓦のかけらを持って帰ることにしました。瓦のかけらと言っても綱がここを訪れたという証拠になるからです。それが羅城門の瓦だと証明できるからです。その当時は瓦の文様を木型に押しつけてとる大量生産をする方法がとられていましたが羅城門の瓦は藤原京の内裏で使われていた瓦を再利用してそのまま使ったからです。藤原京の内裏で使われていた瓦はまだ手作りで瓦の模様はまだ手で彫っていてそれをやるのに簡単な方法、ひらがななどを彫ったりしていました。そして羅城門の瓦はある一つの文字で統一されていたからです。渡辺綱はそのひらがなの判読できる瓦の破片をふところに入れるとそこを離れました。四天王たちの待っている源頼光の屋敷へと向かいました。一条堀川の戻り橋まで来ました。そこで橋を渡ろうとすると橋のたもとに若い女が佇んで途方に暮れている様子、渡辺綱は馬から下りてその女に尋ねました。女は彼の帰る途中までつれて行って欲しいと頼みました。彼女を馬に乗せて帰途を急ぎました。彼女が最初に言った目的の場所にまで来ても彼女は馬から下りようとしません。そしてその女の言うことには私は本当は都の外に住んでいます、もっとさきまで送って欲しい、そう言うとたちまちその女は鬼に姿を変えて渡辺綱を掴むと虚空に飛び上がっていきました。そのとき渡辺綱は少しも騒がず蜘蛛切りの名刀を払うと鬼の片腕は切り離されて渡辺綱は神社の屋根に落ちました。源頼光の屋敷に戻った渡辺綱がその腕を頼光に見せると必ず鬼はその腕を取り戻しに来るからこの屋敷で見張っているのがいいだろうということになりました。何事もなく七日間が過ぎましたが七日目の晩、奇計を労した鬼は屋敷の中の従者を騙して鬼の片腕を納めている部屋に入って来ました。渡辺綱が駆けつけると鬼は天井を突き破り、虚空へ逃げ去りました。」
神戸あずさは吉澤ひとみの話を聞いていたが彼女の話が途切れず、何も口をはさめないのでその機会を待っているようなふしがあった。別に彼女に何か言いたいことがあるというのではなかったが、彼女だけが話していて何となく間がもたないような感じがあったからだ。
「でもその鬼はどうなっちゃったのかしら。腕を取り戻してまた付けたりして。鬼なんだから腕ぐらい自由に取り外しができるでしょう。」
「その話しの続きなら僕も知っているよ。」
婚約者の横に座っていた筒井畑が彼女の横顔を微笑みを伴って見ながら口を挟んだ。
{もう、いちゃいちゃしちゃって。}
その様子を正面から見ていた吉澤ひとみは心の中でつぶやいた。
「鬼は愛宕山に逃げるんだろ。」
「そうです。」
吉澤ひとみは静かに答えた。
「その鬼は茨木童子と名乗って愛宕山に隠れ住みます。」
ここで吉澤ひとみは静かに畑の方を見ると微笑んだ。畑筒井が自分でその話しをするかも知れないと思ったからである。畑もその話しを知っているようだったからだ。畑は吉澤ひとみに目でその話しをするように促した。畑筒井も吉澤ひとみの口から語られる滑らかな声音に酔っているのかも知れなかった。
「その片腕を切り取られた鬼は茨木童子と名を変えて愛宕山に住む酒呑童子の子分になるんです。私は知らないですが、昔は子供向けの絵本には必ず酒呑童子の話が載っていたんでしょう。ねぇ、畑先生。先生は知っていると思いますが酒呑童子の話もしますか。」
「聞きたい。」
神戸あずさが半分お世辞で言った。
「昔、醍醐天皇よりもあとの時代に奇怪な出来事が起こりました。丹波の国大江山に鬼神たちが住んでいて自分の国や周りの国の住人をさらっていっては自分たちの奴隷にして使っていました。そう言った田舎だけではなく京の都までやって来て美しい十七、八の女性までさらって行きました。」
「おとぎ話だから鬼や人さらいの話になるけどきっと、もっと政治的な話になるのね。」
「政治というより個人的な話が発端ですの。いけだ中納言くにたかと言う天皇に仕える富貴な公家がいました。くにたかには一人娘がいました。だいたいおとぎ話に出てくるそういう娘は美しいと相場が決まっているのですがこの場合もそうでした。どういうふうに形容されているかと言うと、まるですべての菩薩の美しい表情をとらえたようだった。弥勒菩薩や観世音菩薩やいいろいろな菩薩の容貌がありますがそれらのすべてのよいところを集めたようだったといいます。きっとその頃の美の基準は仏像にあり、理想となる容貌が仏の形となつて結実していたでしょうからそれが最高のほめ言葉だったのかもしれませんね。」
ここで吉澤ひとみはストローを口につけてコーヒーを一口、飲んだ。
「あんなのっぺりした顔が最高の美の基準だなんてなんだかおかしいわ。」
「そんなこと、ないよ。レオナルド=ダ=ヴィンチのジョコンダ婦人、モナリザの微笑みだって相通ずるものがあるだろう。もともとはギリシャの彫刻に出発点があるんだから。」
「とにかく、いけだ中納言くにたかの娘という人が生きた菩薩さまのように美しくて性格もまたそうでした。だから彼女を一目でも見たことのある男性で心を奪われない者は一人もいませんでした。そんな素晴らしい女性なのに彼女に関して奇怪な出来事が京の都で起こったのです。ある日の夕暮れ、彼女は忽然として姿を隠したのです。父親のくにたかをはじめとしてその妻、娘の母親が嘆き悲しんだのは言うまでもなく、めのとや召使いの女たちも悲しみ、くにたかの家のものたちは彼女の失踪で大騒ぎとなりました。くにたかは左近という官職にあるさむらいを呼び寄せると言いました。
このごろ評判の陰陽道の博士で安部晴明というものがいると聞いている。とにかくその男に姫の行方を占ってもらおう。本来なら礼式にのっとって安部晴明に会うのがもっともなことでしたがくにたかは恥も外聞もなくすぐにその陰陽道の博士に面会しました。」
「何故、恥も外聞もなくなの。自分の子供がいなくなったんだから陰陽道の博士にでもなんでも頼むほうが当たり前じゃないの。」
「昔はやたら儀礼、礼法にやかましかったんだ。今の人間から見ればそれが何の意味のないことでも宗教的な意味合いがあったから昔の人にとつては充分意味のあることだったんだろうけど。」
「私もそう思います。。昔に生きていたわけではないからなんとも言えないけど。とにかく中納言くにたかは陰陽道の博士、安部晴明に言いました。子供が何人もいる親でも一人の子供もおろそかにしないものだが私は一人の娘しかいないのに、その娘も外の風もあてないように乳母やおつきのものをかしずかせて大事に育ててきた。娘は今年で十三になる。昨日の夕暮れに行方不明になってしまった。もし妖怪や化け物の仕業なら何故自分も一緒につれていってくれなかったのだ。どうか姫の行方を占ってください。
そう言って大金を安部晴明の前に積みました。姫の行方がわかつたらさらに大金を差し上げましょう。陰陽道の博士はものものしく一つの巻物を取り出すと占いの道に精通した手腕を使ってこれまでの事情、経過を見通して一つの解答にたどり着いた。姫の失踪は丹波の国、大江山の鬼神のしわざです。お命に別状はございません。私が技をもって姫君の寿命安全をお守りしましょう。何も心配することはありません。この占いの形をみますにお姫様が生まれるように観音様に願をかけましたがその後、観音様にお参りに行っていないお咎めと出ています。観音様にお参りに行きましたら姫君はすぐ都にお戻りになられるでしょう。と予言して安部晴明は帰って行きました。中納言も奥方もその占いをお聞きになり、本当のことかすぐには信じられなかったが名人の陰陽博士の言うことなのでそれがもっともなことだと思うと嘆き悲しまずにはいられませんでした。そしてとても自分一人の力で解決できそうにもない問題だったので急いで宮中に参上しました。中納言が事の子細を説明すると天皇は早速、評議を開いた。公卿や大臣が集まって方策を見当したがなかなか名案がでなかった。藤原道長が進み出て言った。」
「藤原道長って有名な歌を歌った人でしょう。」
「この世をばーーって歌か。」
「あらそのつぎのところを言えるの。」
ここで畑筒井は言葉を詰まらせた。
「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思えば。ーーー。藤原道長が進み出て言うことには嵯峨天皇のときにも同じことがあったがその時は弘法大師が法力を持ってして鬼神を閉じこめ国土から追放して何の問題もなかった。今は弘法大師のように法力を持った方もいないが武芸と名刀でもって弘法大師のかわりになるものがいる。今ここに源頼光をお召しになってください。そして頼光とその家来たちに鬼神を討てと仰せ付けください。そうすれば頼光の家来の人々は鬼神をうち倒す力のある人々ばかりであり、彼らが乗り出せば鬼神も畏れをなしてさらわれた都の人々を解放することでしょう。と藤原道長は言いました。天皇は道長の意見をもっともな事だと思い源頼光を参内させた。源頼光は急ぎ参内した。天皇は詔を出した。「源頼光、丹波の国大江山には鬼神が住んでいてわが国にわざわいをなしている。わが国は神のご加護に守られている国である。なぜ鬼神がこの国に住むことができるだろうか。鬼神を討ち平らげろ。」しかし源頼光は天皇の詔を重い気持ちで受け取った。何故なら大江山の鬼神を退治することはそれほど大変な事だったからだ。彼は一人呟いた。「これは大変な勅命だ。鬼神は妖術、魔術を使う。その姿はいかようにも変化する。討伐に向かえば木の葉や芥に姿を変え、人間の目で見つけだすことはむずかしいだろう。一体どんな方策があるというのだ。しかし天皇の勅命に背くことがどうしてできようか。」源頼光は急ぎ屋敷に戻ると家来の四天王たちを集めた。そして協議した結論は、我々の力ではかなうまい。神仏に願をかけ、御仏の助力を得よう。
頼光と四天王たちは詣でることにした。頼光と藤原保昌は石清水八幡宮に、渡辺綱と坂田金時は住吉明神へ、碓井貞光と卜部季武は熊野権現に参詣して願をかけた。いずれも霊験あらたかで御利益があった。そしてみんなそれぞれの自分たちの屋敷に戻り、ひとところに集まって評議を重ねた。」
「昔の人って何でも神様仏様を出してくるのね。」
神戸あずさはマホガニー色に塗られたこの喫茶店の窓のさんのところにひじをかけながら言った。
「そりゃ、そうだよ。昔の人は神さま仏さまというのが生活のすべてだったんだから。」
「そうじゃないんじゃないの。こういった話を作っている人が坊さんあがりの人が多かったからだと思うわ。」
神戸あずさは彼女にしてはするどい意見をはさんだ。それは一種の歴史書批判のようだった。
「私もそう思う。」
吉澤ひとみも同意した。
「ここまでこのおとぎ話をよく覚えていたと思うでしょう。前にいた中学校で国語の自由研究の時間があって酒呑童子が課題になったことがあったんです。それでいくつかのグループに分かれて酒呑童子のすべてを暗記することになったんですけど私、その最初の部分を暗記する役になっていたからこんなことまでなんとか覚えていたんです。」
「それでこの話の最初のほうをよく覚えていたのね。」
神戸あずさが感心して言った。なぜ普通の高校生なら覚える必要もないこのおとぎ話を吉澤ひとみが覚えていたのか彼女にとっては不思議な感じがしたからだ。
「じゃあ、あとの話のほうも覚えているの。」
「割とこまかいところまで覚えているのはここまで。でもそのあとのあらすじはだいたいわかるわ。」
「さあ、覚えているかな。」
畑筒井が挑発的な口調で吉澤ひとみに聞いた。個人的な部分を少し離れて少しいやらしい教師根性があらわれていた。
「覚えてますよ。」
彼女は畑の軽い挑発的態度に少しむくれて答えた。
「源頼光、藤岡保昌、四天王たちは山伏に姿を変えて笈に伸縮自在の槍や手裏剣、刀などを入れて丹波の国、大江山に着きました。さてこれから鬼たちの巣窟に上がろうとするとある岩穴で三人の翁に出会った。三人は頼光たちに酒を勧めます。それは神変奇特酒という酒で頼光たちが飲めば薬になるが鬼たちが呑めば神通力を失うという酒でした。それに星かぶとももらい川まで案内してもらいました。実はその翁たちは頼光たちが参旨した三社の神々でした。その川に行くととらえられていた都の姫君の一人がいて彼女に教えてもらい鬼の根城にたどり着きました。そこでただの山伏だと酒呑童子をだましてやかたの中にまで上がり込みます。そこで酒呑童子の身の上話などを聞きだしすっかりと油断させ神変奇特酒を呑ませ神通力を失わせ、酒に酔って眠ったところで両手足を鎖で縛って動けなくしたところで酒呑童子の首をはねました。それから他の鬼たちも三社の神の加護と六人の武芸でうち平らげました。とらわれていたくにたかの姫君も救いだし、都に帰ると人々は大喜びで迎え、彼らの武勲をいつまでも語り継ぎました。おしまい。以上です。」
喫茶店の中にはシューマンのトロイメライが小さな音でながれている。畑筒井と婚約者の神戸あずさは小さく拍手をした。もちろんほとんど拍手の音は聞こえない。
「拍手をするほどのことでもないですよ。」
「そんなことないさ。やっぱりわが校のマドンナやな。」
彼女は照れくさそうにちょっぴり舌を出して笑った。
「浦島太郎でも、ほかのおとぎ話でもだいたいパターンが決まっているのね。最後は鬼の住みかに行って鬼が略奪してきた宝物を取り返して来るってパターンね。」
「そうかも知れない。」
吉澤ひとみは神戸あずさに同意した。
「でも最初の吉澤さんの話だけど、どこそか言うお寺に行ってきたんでしょう。渡辺綱の何とか言う刀があるという話を聞いて。」
「何て言うお寺、やったけ。」
「喜撰院です。」
「そうそう喜撰院やった。」
「でも、私、あんまり期待していなかったんです。渡辺綱の持っていた名刀だなんて、どう考えても眉唾ものでしょう。わたし、むしろそれと同時に見つかったという渡辺正幸の日記というのに興味があったから。」
「それでどうなったんや。喜撰院をおとずれた感想は。何かおもしろいことでも見つかったのかい。」
「何もかも期待はずれでしたわ。喜撰院というお寺はなくて喜撰堂という骨董屋があったんです。どこをどう間違えたのかわからないんですけど喜撰院というお寺だと思っていたのは骨董屋さんでした。骨董屋さんと言っても店を構えているというより、お金持ちの家へ行き骨董を売ってくるという商売の仕方をしている骨董屋さんでした。」
「じゃあ、渡辺綱の刀なんてなかったんだ。」畑筒井が物知り顔で言った。
「いえ、あることはあったんです。模造品なんですけどね。でも本物があるかないかわからないから模造品という言い方もおかしいのかしら。」
「どういうことなんやろ。」
神戸あずさがもっともらしい顔をしてうなずいた。土曜サスペンス劇場なんかにのめりこむタイプだ。
「その骨董屋さんは確かに渡辺綱が持っていただろうという刀の模造品を持っていました。それはもちろん商品としてです。先生も神戸さんも知りませんか。体験トンネル歴史館という大阪放送でやっているテレビ番組を。昔やっていたタイムトンネルという番組をもじってタイトルをつけているらしいんですけど。」
「うんうん、知ってるよ。タイムトンネルなら。」
「あら、私、知らない。」
「十年、年が離れているんだから、あずさが知るわけがないんだろ。」
いつしか下の方の名前を呼び捨てるようになっていた。
「うんうん。」
吉澤ひとみは軽く咳払いをした。
「その番組、大阪放送がやっているんですけど、そこで渡辺綱の使っていたであろうという刀を復元するという企画があがって、それが動きだしたんです。京都博物館の学芸員に中世の武器について詳しい人がいてその人の指導で刀鍛冶の人にたのんでその当時の武士が使っていたであろう刀を復元させたそうです。」
「でもそんなことをしたら大分金がかかるやろう。」
「私もそう思います。」「その制作費をどうしたんやろ。大阪放送って民間会社やろ。そんなに金を使えないやろ。」
「そこでテレビ局も一計を案じたのです。作ったあとでその喜撰堂の主人にその模造品の刀を誰かに売るという計画をたてたんですって。だいたいその模造品の刀を作るにあたって刀鍛冶を見つけてきたのがその喜撰堂だったからなんですつて。わたし、ついでだから喜撰堂の主人に会ってきたんですが、六十歳ぐらいの不動産やさんみたいな人でした。きっと寺と骨董屋を間違えるなんて、そう言えば三ヶ月ぐらい前に電話で渡辺綱の刀が見付かったのかというあるタウン誌の記者からの電話があったからその記者が早とちりをしたんじゃないのかとその男性は言っていましたがちょつと見たところとても一筋なわではいかないような印象でしたからその取材者が誤解を生むような表現をとっていたのかも知れない。だってとってもがめつそうな人だったんですもの。」
「じゃあ、ひとみちゃんがうちのおばあちゃんの店に来たときはそういう用事で来ていたのね。」
「そういうこと。」
「ひとみ、なんか、おまえは歴史学者みたいだな。」
「歴史学者というより、何かの検査官みたいね。その事実を何かに発表したの。きっとまた間違えてその骨董屋にありもしないものを見に誰かが行くかも知れないわよ。その人が金持ちだったらその主人のいい鴨かもしれないけどね。あははは。」**********************************************************************************************************************
第十四回
兄
「トースターにパンを入れておいてよ。お兄さん。」
そう言われて吉澤ひとみの兄、村上弘明はステンレス製で銀色に輝いているトースターに六枚切りの山切りパンの二枚を入れた。そのあいだ木ひとみは洗面台の鏡の前で髪をとかしている。
「いくらひとみの方が学校に行くのが早いからと言って朝食の用意ぐらいはしておけよな。」
「兄貴、紅茶はいれてあげたでしょう。」
村上弘明はひとみのいれた紅茶をすすった。
「そうだ。兄貴、きのう、岬さんから留守電が入っていたよ。」
その言葉を聞いて弘明の頬は一瞬、緩んだ。
「また、でれでれしちゃって。」
「うるさいぞ。早く学校へ行け。」
「もう、まだご飯を食べていないでしょう。」
髪をとかし終わったひとみはテーブルについた。
「ひとみ、大人をからかうもんじゃないよ。」
そう言った弘明の頬は少しまだゆるんでいた。
「この前の日曜日、岬さんに会ったの。」
「うん。」
兄貴の面目を保とうとしているのではなく、内面があらわれているのだが、弘明の表情は落ち込んだ。この前の日曜日に村上弘明は岬美加に会うことになっていたのだが会えなかったのだ。吉澤ひとみと村上弘明は実の兄弟でこの栗の木団地の九号棟の三階に住んでいる。弘明はこの前の日曜日に弘明が自分自身では婚約者だと思っている岬美加に会うはずだったのが会えなかったのでその事を多いに気にしている様子だ。ひとみもそのことに気づいた。でもなんと言っていいのか、わからないので黙っていた。
「今日もいい天気みたいね。ほら、あんなに青空がみえるわ。」
食卓の向こう、弘明の向こうに三階から見える青空を見てひとみが感想をもらした。
「世界銀行が画期的な債務処理の方法を考えた。なになに、これはコロンビア大学のスタインバーグ研究員のアイデアによる。本当かいな。」
弘明はまたぶつぶつと言った。
「ごちそうさま。」
吉澤ひとみは一気に紅茶を飲み干すと席を立った。紅茶が入れられてから少し時間がたっていてさめているからできた芸当だった。
「遅刻しちゃう。私、鍵を持っているから戸締まりはしっかりしてね。」
吉澤ひとみは鞄を持つと玄関へ急いだ。弘明は自分の妹がマドンナと呼ばれていて全校の生徒のあこがれの的になっていることを知っている。他人から見ると自分の妹だから異性を感じないと思われるかも知れない。それはある部分では当たっていた。確かに普段は家族としてひとみに女としての色香を感ずることはほとんどなかった。しかし最近は彼女に自分の妹でありながら色香を感ずることがあるのだ。それはこの前の花火大会に行ったときのことだった。弘明自身は乗り気ではなかったのだがひとみのほうから誘ってきた。ひとみとしては自分自身では婚約者だと思っている岬美加と弘明が離ればなれになっている思いやりかもしれなかった。近所の歩いて十分くらいのところに大川と呼ばれる少し大きな川がある。川幅は二、三十メートルぐらいだろうか。あまり清らかとはいえない水が悠然と昼間は流れている。川岸も川の両側にあり、やはり二、三十メートルぐらいある。普段はそこは野球とか子供の遊び場に使われているのだが夏の盛りになると一度だけ花火大会に利用されるのだ。市の主催でおこなわれていてそこそこ盛大に行われる。大玉が五百発くらいうちあげられるだろうか。今年の夏は弘明が岬美加にあえなかったのでひとみが気を遣って兄を誘ったのだ。こんな兄弟はほとんど居ないだろう。妹が花火大会に兄を誘うなんてあまりさまになる兄弟なんてそう居ないだろう。これもやはり吉澤ひとみだから不自然さがないのだ。土手の上に上ってうちわで自分の顔の方に風を送っている自分の妹を見て普段はそんなことを感じないのに彼女がいつの間にか大人になっていて大人の色香を回りにふりまいていることにおどろいてしまった。それが彼女に異性を感じた一つのできごとだった。もう一つはロシアの方からバィオリンの天才少年というのがこの市にやって来てここのコンサートホールでリサイタルをひらいたことがあった。そのときひとみが彼に花を渡す役目を言いつかっていて彼女はまだ高校生だが黒いサテンの服を市役所の方から支給されコンサートホールの大広間でその天才ヴィオリン少年に手渡した。弘明も仕事の関係でその場所に居合わせたので彼女の黒い服を着ていた姿を目にしたのだがまるで自分の妹ではないような印象と大人の色香を彼女に感じたのだった。これならS高のマドンナと呼ばれるのも不思議はないと思って自分の妹ながら鼻高々だった。しかしその一方で心配もある。変な虫がつかないかという悩みだ。しかしこの悩みも現在のところ新聞部の仲間である滝沢秀明と松村邦洋という二人の毒にも薬にもならないような男子生徒とつき合っているということを知っているからそれほど心配でもなかった。この二人にはあったこともある。近所に住んでいるのでアパートを降りて花壇にはさまれた細い道を歩いているとき二人にあったのだ。二人にあったのは別々の時間だったが会った場所は同じ、二度とも彼らの方から話しかけてきた。吉澤ひとみさんのお兄さんですか。高校でひとみさんと同じ部に入っている者です。家に帰ってからひとみに二人のことを聞いてみると同じ部に所属していて彼らとは一番仲がよいのだと言われた。この二人があまり格好よくもなく高校生らしかったので弘明は安心した。とにかくマドンナなどと呼ばれる妹を持つと何かと苦労が耐えないのである。弘明は大急ぎで出て行ったひとみを見送ってから二つトースターに入れたのにひとみが一枚しか食べなかった残りのパンを口に突っ込んだ。俺も急がなくちゃ遅刻しちゃうよ。弘明が仕事に行くのに使っているものはバスだった。ひとみの方は歩いて通えるところに高校はあったが弘明の方はバスを使わなければならなかった。バスの停留所は団地の細道を抜けて大通りに出たところにある。大きなプラタナスの木の横に案内板が立っている。生あくびをかみ殺しながらそこに立っているとまもなく市営のバスがやってきた。弘明がパスを運転手に見せて中に乗り込むとバスの中は六割ぐらいの混み方だった。弘明は八つに折った今朝の朝刊をつり革にぶら下がりながら見ているとバスの中では雑音でも会話でもないバスに乗ったことのある人間なら誰でも感じたことのある自分の家庭、学校、会社でのうわさ話が行き交っていた。聞こうという気がないのに耳に入って来る。それはやはり聞こうという気持ちがあるからだろうか。
「ねぇ、風間みきって歌手、知っている。」
村上弘明は聞き耳を立てた。その話手の方を振り向こうかと思ったが理性がそれを躊躇させた。二人の女性が話しているらしい。
「風間みきって写真週刊誌に数ヶ月前にのっていた歌手でしょう。」
「そうよ。」
「何だったか日芸テレビの社員とホテルから出て来るところを追っかけカメラマンにとられた歌手でしょう。」
「そうよ。その歌手のことじゃないわよ。日芸テレビの大阪支社がうちの会社と同じフロアーにあるじゃない。だからいるのよ。その日芸テレビの社員が。」
村上弘明は多少固まった。どこの誰から見られているかわからないと今更のように思った。どんなことをはなされているのか興味もあった。
「なんかそれが原因で大阪支社に飛ばされたそうよ。」
「でも何でその歌手と一緒にホテルなんかから出てきたのよ。」
「それは決まっているじゃないの。つき合っていたからよ。」
村上弘明はますますその会話の方にふり向くことができなくなった。他人のうわさ話ほどたちのよくないものはない。とくに利害関係のない人間によるおもしろおかしいうわさ話はする方が気楽でされる方が重大な影響を与えられるという点において悪質な伝染病のようだった。話す方はいつの間にか忘れていても話題の中心はいつまでたってもその病原菌から解放されることはない。それは自分自身の細胞から発生して毒素を出して死にいたらしめる癌のようだった。
「どんな人なの。そうね。わりといい男よ。でももうだめよ。大阪支社に飛ばされるようじゃ。もう東京にもどれないんじゃないの。仕事もろくにしないで歌手との恋愛にうつつを抜かしているようだから大阪に飛ばされるのよ。」
話の主は華やかな芸能界に弘明が関わっているというだけで許せないような感じだった。しかし、吉澤はその相手の主のところへ言って抗議しようかと思うほどは単純ではなかった。彼は体面のある一流企業の社員だったからだ。弘明と風間みきのあいだには何もなかった。そう思えば、そんなうわさ話に一瞬でも腹を立てたということが自分でも納得がいかなかった。しかし自分が一種の懲罰処分をうけて大阪支社に飛ばされたというのは事実である。そのため婚約者の岬美加とは離ればなれになっている。そこが納得がいかないのだ。そもそも村上弘明は愛想のいいほうで人当たりが柔らかい。テレビ局の中でも他の社員はほとんどプロデューサーやディレクターをのぞけばほとんど個人的なつき合いはないのに弘明の場合、芸能人に知り合いが多かった。風間みきとはどんな関係かと言えば風間みきがご主人様で村上弘明が召使いという対応だった。風間みきのほうが三つ年下だったが裏返せばこのいつも性的魅力を振りまいているかわいい顔をした風間みきに信頼されているという喜びや見栄のようなものがあつた。写真週刊誌に撮られたというのも風間みきのほうから心配事があるというので呼び出されたのだ。そこがホテルの一室だということに村上弘明の注意は確かに足らない部分はあった。弘明を呼びだした風間みきの心配事というのも今度ドラマに出ることになってそのせりふ覚えが悪いということから始まって最後は共演者たちの悪口に落ち着いた。とくにディレクターの何とかいう人物が気にいらなくて携帯電話の番号を聞かれてむかついたという話でお開きになった。風間みきを追いかけている週刊誌があるとは知らなかった。ホテルを二人で出てくるとき写真を撮られたのだ。この事件を知ったときの婚約者の岬美加の態度は意外と思えるほど冷静だった。********************************************************************************************
村上弘明は職場の自分のデスクの引き出しをあけると婚約者の岬美加の写真を眺めた。つい二、三日前にも彼女の留守電に伝言を入れておいたのだが今日も返事がなかった。
「吉澤さん、**町の服部さんという人が来ていますよ。今日の十時半に会う約束をしていたと言っていますが。」
「服部さん、ああ、していた。していた。」
「応接室にお通ししていますから。」
村上弘明が応接室へ行くと三十前後の女性がソファーにこしかけて待っていた。彼女は資料の入った書類袋を持っていた。
「今回、お世話になります。ここに資料ももってきました。写真も撮ってありますから。」
中学の女教師というタイプだ。
「とにかく、私たちの近所のゴミ捨て場に同じようにゴミを捨てられてもこまるんですよ。理事長らしい人に抗議しても一向にらちがあかないんですから。うちの近所にも小さな子供なんかがいるでしょう。注射器の針なんかに何がついているのかわからないし。本当に心配ですわ。」
「これがその病院ですか。」
吉澤は書類袋の中に入っている病院の全貌が写っている写真をながめた。白亜の御殿ならいいのだがまるで白亜の城塞だ。むかし、こんなような建物を見たことがあることを思い出していた。計画だけで終わった旅だったが中世イタリヤの古城を訪ねるとかいう旅行ガイドにむかしのイタリヤの貴族がたてた城塞にこんなものがあった。むかしの除雪車や明治時代の軍艦のような形をしている。
「あなたはもしかして吉澤ひとみさんのお兄さんではありませんか。」
服部良子は突然聞いてきた。
「目鼻立ちがひとみさんに似ているからひとみさんのお兄さまじゃないかと思いまして。甥っ子がS高に通っているんですが、ひとみさんって有名でしょう。」
弘明はひとみが有名と言われて言葉がなかった。
「あの病院はいろいろと変なことをやっているらしいんですよ。S高校に通っている生徒のお兄さんがあの病院で変死したことをご存知ですか。」
栗の木団地の自分の家に帰ってきた村上弘明は応接間で野球中継を見ながら台所のテーブルで辞書を片手に外国の歌手の作った歌の歌詞を翻訳している吉澤ひとみに話かけた。
「今日、テレビ局でひとみのことを知っている女性に会ったぞ。K病院のことで苦情にきたんだ。」
「報道番組にとりあげろって。」
「そのとおり。まず最初に話しだしたのはゴミ問題だよ。自分たち住民のごみ置き場のそばに病院のごみ捨て場を作るなという話からはじまったんだ。」
「なぜ作っちゃいけないの。」
「病院だから、いろいろなごみが出てくるだろ。使用済みの注射針だとか。確かにそのゴミ捨て場のそばには幼稚園があったりして、小さな子供が多いだろうから変なものを捨てておけないということは確かにあるよね。それからその病院の煙突から変な色をした煙が出ていて翌日、付近の住民の目がちかちかしただとか、いろいろな事を言ってきたよ。それからひとみの高校の生徒のにいさんがあの病院で変死したんだって。」
「えっ、何て人。」
「松田とか言っていたよ。」
ひとみは転校してきたとき担任の畑が松田兄弟のことを言っていたのを思い出した。自分でもそのことに興味を持って松村邦洋に松田努のことを聞いたことも思い出した。そのときは松村邦洋から松田兄弟のことについては何も詳しいことは聞けなかったのだ。
「あれは私が転校してきたとき聞いた話で実際に松田の兄のほうが死んだのは数ヶ月前だろうから、そうだ兄貴、新聞の縮刷分を持っていたじゃないの、あれを調べればすぐわかるじゃないの。」
Kという精神病院のゴミ問題から出発して弘明は松田政男の変死問題のほうに興味が移っていた。たしかに弘明は新聞の縮刷版を家に保管してある。日芸テレビの系列の新聞社がだしている新聞の縮刷版だ。弘明は東京にいたときは芸能分野の担当だったが大阪に来てからは報道分野に変わっていたので勉強と資料集めのためにただでそれを家に持ってきていたのだ。
「私も手伝うから、それで探せば。」
弘明は妹の協力も得ることができたのでその作業に取りかかることにした。四十分後にその成果は出たがその結果ははなはだ期待はずれのものだった。出ていたのは大阪版の新聞だったが取り扱いは二、三行ではなはだ要領を得ない。新聞には松田政男という昔、製薬会社の研究所に勤めていた二十八歳の男性が精神病でKという精神病院に入院していたが夜中に不審な侵入者が病院の中に不法侵入して殺害されたという記事が載っていた。そしてその続報として同じ新聞が訂正を出して実は自殺だつと結論づけている。変死事件を扱ったにしてはくるくるとよく変わる事件だ。松田政男の事件に関してはそれからあとの続報はどの新聞にも載っていなかった。
「これじゃ、何もわからないじゃないの。兄貴。結局、犯人は捕まったのかしら。」
「何も書いてないところを見ると捕まっていないんだろう。」
「じゃあ、兄貴の出番じゃないの。」
「よしてくれよ。」
そう言った弘明の口調にはまんざらではないものがあった。しかしそれではあまりにも最初の目的からは離れてしまう。
「あくまでもゴミ問題が主眼なんだぜ。その病院が不法にゴミを捨ててないか、衛生上ちゃんとしたことをやっていないか調べるのが目的なんだよ。」
「いいスクープができたら岬さんも東京で見ているかもね。」
弘明は最後の言葉には絶句した。彼自身なんと言っていいのかわからなかった。
「またまた、照れちゃって、照れるなよ。」
これがS高のマドンナと言われている女かよと弘明は思った。
「お風呂、わいているから、わたし、さきに入るから。そうだ。明日、学校へ行ったら松田兄弟のことを聞いてみるね。」
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第十五回
吉澤の勤めているテレビ局のそばにカウンター席しか用意されていないカレー屋があった。その席に腰掛けながら弘明はテーブルの上に置かれている福神漬けを食べ終わったカレー皿の横に盛り、コップの水を飲んだ。カレーが特別うまいということはなかったがテレビ局のそばにあり、待つことなく料理が食べられるということでよく利用していた。何気なくポケツトに手をやると携帯電話が鳴り始めた。
「もしもし、吉澤ですが。」
電話の主は弘明が訪ねていいかアポイントをとつておいた人物だつた。お互いにうまい具合に時間的な折り合いがついた。ザ・六甲という喫茶店で会おうということになった。そこはここから五十メートルと離れていない。
その人物の勤めている場所もここから五十メートルも離れていなかった。ザ・六甲に入ると弘明はカウンターのところにいる主人に会うことになっている人物のことを聞いた。主人はその人物の方を目で合図をした。
「あそこに、いらつしゃっていますよ。全日芸新聞の小北さんでしょう。」
丸太小屋のような喫茶店の壁を横にして小太りの三十半ばくらいの男が座っていた。手帳のようなものを出して何かをメモしているようだった。
「小北さんですか。日芸テレビの吉澤です。」
「はじめまして。全日芸新聞の小北です。お互い、すぐ近くに勤めているんですね。直接、社に来てもらってもええんやったんだけど。」
「いえ、ここの方が。よくここに来られるんですか。」
「ええ、昼飯を食いに来たり、ここで休んだりといろいろですわ。」小北は体格からくる印象からかゆったりとした性格のようだった。
吉澤は小北の向かいの席に座った。
「東京から来ているんですよね。」
小北は吉澤が東京の方で起こした事件のことは知っているようだったが、何も言わなかった。
「今度、扱おうと思っている問題がありまして。K病院ってご存知ですよね。」
小北が何か言おうとするのをその前に吉澤は一気に話した。
「あそこの近所の住民からゴミ問題で報道してくれという要請がありましてそのことで調べているんです。殺菌してあるか、ないのかわからないような医療用廃棄物とかそんなものを勝手に捨てているって苦情がありましてあの病院のことを調べているところなんです。以前、小北さんはあの病院のことを調べましたよね。松田政男という人の殺人事件で。」
「松田政男、覚えている。覚えている。K病院で殺された人物やったな。」
「あの病院のことや。松田政男氏のことを少し、教えてもらえますか。別に松田氏のことは今度の仕事の本筋ではないんですが、あの病院のことを知る何か手がかりになるかも知れませんので。」
「だいぶ前のことだから詳しくは覚えていないんやけど、記事としてはあまり詳しくは書けなかったんやけど、あの記事よりはもっと詳しく調べたんや。あんまり評判のいい病院やなかったな。松田政男が他殺だといことは衆人の目の一致するところやけど証拠がつかめなくてね。一体何の目的で松田政男が殺されたのかは全くわからずじまいや。最初、松田政男が殺されたと思われる時刻に栗木百次郎という逆さの木葬儀場と言う近所にある焼き場の管理人を見たという病院関係者がいて栗木百次郎が犯人ではないかという話やったんやけど結局松田政男の発作的な自殺だということになったんや。そもそもその犯人が松田政男を殺す目的で殺したのか。あるいはたまたま盗みに入った泥棒が見付かったのを口封じのために殺したのか、はっきりしないのやからな。その侵入者が栗木百次郎だとしてもだ。わてとしてはあまり大した事件だとも思わなかったからその後取材をする事もなかったんや。その後何も聞かないことを見ると犯人らしき人間はまだ捕まっていないのやろ。やはり自殺という事に落ち着くのかもしれん。しかし一応あの病院は設備はちゃんとしたものを整えていたみたいやけど夜中にわけのわからない奴が勝手に入って来られたりで前から評判が悪かったみたいや。」
「そういうことがたびたびあったんですか。」
「そうみたいやな。防犯上でもいろいろと問題があったみたいや。患者の持ち物がなくなったりといろいろと表面にはでない出来事があったらしいんやで。」
「どんな人が経営しているんですか。」
「経営者は福原豪というむかしからここら一帯の大地主で福原観光というバス会社を知っているやろ。あのオーナーでもある。むかしはあそこは日本軍の施設があったらしい。」
「何の施設ですか。」
「さあ、そこまでは聞かなかったんやけど、あそこに行けばすぐ教えてくれるやろ。」
「きっと、地形的に病院を建てるとかに向いていたんですね。水はけが良いとか何かうまい条件があるんでしょう。あくまでも私の素人考えですが。」
「殺された松田政男には確か弟がいたと思ったけど、肉親と言ったらその弟しかいなかつたみたいやな。弟の方は直接に取材はしていなかったんやけど、確か高校生だったと思うわ。」
村上弘明はその弟が自分の妹と同じ高校に通っているということは言わなかった。
「それから、言い忘れた事やけど松田政男って大変な化学のほうで秀才だったそうやな。何とか生理化学とかいうほうで特許も持っていたみたいやないか。」
小北の話はひととおりの事でしかなかったが、それなりに参考になった。松田政男が新薬の発見か何かはわからないが特許まで持っていたことだ。ザ・六甲を出た村上弘明はS高校に電話をかけた。
「もしもし、誰だかわかる。」
「何だ、兄貴か。」
電話に出たのは吉澤ひとみだった。今はちょうど学食で食事をしているらしい。電話口から二、三の男の生徒の声も聞こえる。弘明が近所で会ったことのある松村邦洋と滝沢秀明もそばにいるらしい。
「何か、ようですか。」
吉澤ひとみは語尾を変なアクセントで強調したおどけた調子で電話に答えた。
「今、K病院のことを調べているって知っているだろう。それでこれから病院内で変死した松田政男の弟の松田努に会いに行こうかと思っているんだ。」
「兄貴、松田努が何という病院に入院しているか、知っているの。」
「それでひとみに電話をかけたんだよ。松田努くんはクラスメートなんだろう。どこの病院に入院しているか、知っているよな。」
「全く世話のやける兄貴なんだから。」
学食で電話に出ている吉澤ひとみの姿を見ている他の生徒は何と思っているのだろうか。そんな事にもひとみはおかまいなかった。すぐそばにいる滝沢秀明や松村邦洋の方を振り向くと尋ねた。
「今の電話の話声、聞こえた。」
ひとみが携帯電話を耳に押しつけてしゃべっているのだから聞こえるはずがない。
「兄貴から電話なの。」
「テレビ局に勤めているお兄さんか。」
「写真週刊誌に盗撮されたお兄さんか。」
「そう。」
吉澤ひとみは電話をテーブルの上に置くとため息をついた。
「その兄貴が松田努くんの入院している病院の住所を知りたいんですって。テレビの取材か何かで行くらしいのよ。病院の名前、わかる。」
滝沢秀明の方はまるっきりわからないようだったが松村邦洋の方はひとみがこの学校に転校してくる前からここにいたので知っていた。
「**市立病院だよ。電話番号は****。」松村邦洋は電話番号まで知っていた。ひとみは兄にその住所や電話番号も教えた。
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第十六回
村上弘明はザ・六甲という喫茶店を出ると喫茶店の中は薄暗かったのだが外はすっかり夏の日差しだった。そのきらきらする太陽の光に目がなれないせいかくらくらとした。木陰に入ってこれから行く松田努のところに電話をかけようかと思った。駅に着いてから電話をかけてもよかったのだが電車に乗ってから向こうの何らかの都合で松田努との面会ができなかった場合、全くの無駄骨となってしまうため、前もって電話をいれておくことにした。そう思って携帯電話を取り出すと電池の残量はほとんどなかった。さっきのひとみとの電話が思ったより長くなってしまったのかも知れない。木陰に入ってあたりを見回すと道を隔てた向こうの方に雑貨屋がある。そしてそこに公衆電話がおいてある。すぐ道路の向こう側に渡った。電話機のダイヤルに電話番号を打ち込んだ。**市立病院の受付が出て特別な用事がない場合の患者への連絡は困ると言われたが松田努を何とか呼びだして貰えることになった。しばらくしてから電話に松田努が出てきた。
「もしもし、松田努ですが、あなたは誰ですか。どんな用でしょうか。」
「松田努さんですか。私は日芸テレビの報道番組の制作にかかわっているもので村上弘明と言います。今度、うちの番組でK病院のことをとりあげようということになり、あの病院の問題を取り上げることになったんです。それでK病院のことを調べていくうちにあの病院で起きた事件のことを知りましてあなたのお兄さんの松田政男さんがあの病院で不慮の事故でお亡くなりになったことを知ったのです。そのことについて詳しくあなたにお話をおうかがいしたいと思いまして、これからおうかがいしてよろしいでしょうか。」
電話口の向こうはただ無言なままだった。話を聞いているのかどうなのかわからなかった。
「もしもし、もしもし。」
電話はがちゃんと音をたてて突然に切られた。
「おいおい、なんだよ。何か気に障ることでも言ったかな。」
弘明は気を取り直して再び病院に電話をした。最初に出た病院の受付の中年らしい女性の声が聞こえた。
「松田さんに電話をしても無駄ですよ。お兄さんがお亡くなりになってから大変疑り深くなられてめったに知らない人からの電話には出なくなったんです。まして会うなんてことになったらもっと大変ですわ。お宅、テレビ局の方、でしたらなおさらですわ。テレビの取材なんて言ったらなおさら会わないでしょう。」
何が松田努をそんなに警戒ぶかい性格にしたのだろうか。松田政男の事件があってからいろいろといやなことが重なったのだろうか。
それもまたK病院のことを調査して事実をあきらかにする方法の一つになりうる。ただし村上弘明はとりあえず松田努に会うことは控えることにした。それから彼はもう一つ、かかえている番組の資料集めに一日中回ってテレビ局に戻ってきたのは夜の八時を越えていた。それから彼は栗の木団地の自宅に戻った。自宅のアパートのドアをあけても誰の返事もなかった。テーブルの上に上がっているおかきをぼりぼりとかじっているとバスタオルで髪の毛をふきながら吉澤ひとみがバスルームの方からやって来た。いつも思うのだがこんな姿をS高の他の男子生徒が見たらどう思うのだろうか。学園のマドンナと呼ばれている女の子を自分の妹にしている自分自身の不思議な立場を弘明はやはり不思議な感じがするのだった。
「どお、何かおもしろい事がわかった。」
吉澤ひとみがバスタオルで髪をふきながら弘明に話しかけきた。弘明は今日の調査でわかったことをひとみに話した。
「じゃあ、松田努くんには会えなかったわけなの。」
「そういうこと。電話をかけたらすぐ電話を切られちゃって。病院の受付の人の話だとすごく疑り深くなっちゃってほとんど誰とも会わないって話らしいんだ。」
「じゃあ、お兄さんの松田政男さんのことは何もわからずじまいなのね。」
「うん、そうなんだ。しかし、おもしろいこともわかったよ。全日芸新聞の小北という人物に会ったんだけど、彼は松田政男の殺人事件の記事を書いた人物なんだ。彼から聞いた話だったんだけど松田政男は化学の方で大変な秀才で何とか生理化学という分野をやっていて自分自身、何かの特許を持っていてそれで一生困らないぐらいの収入があったらしいね。」
「兄貴、何とか生理化学じゃわからないよ。でもわたしもそんな内容のことを聞いたりしたわ。」
「しかたないだろう。小北という人かそう言っていたんだから。きっと新薬か何かなんだよ。」
「じゃあ、松田兄弟もかなりの資産家というわけなのね。」
「資産家というほどじゃないだろうけれど、一生食べていく事自体には困らなかったみたいだな。」
「じゃあ、何かの利益が絡んでいるのかしら。松田政男の開発した新薬が関係しているかも知れないわね。」
そう言いながらひとみは冷蔵庫を開け、中から透明な炭酸水の瓶をとりだした。
「兄貴も飲む。」
風呂から上がった吉澤ひとみの肌はピンク色に輝いていた。今更ながら自分の妹がS高校のマドンナと呼ばれていることに納得がいくのであり、ひとみはそれほど美しかった。と同時にこの女が自分の妹であることが不思議だった。弘明は肉親というものはなんなのだろうと思う。それは他人と言い換えても変わらないのだが、お互いに心が通じ合うことは絶対にない。それは物理的に空間的に離れた存在だからあたりまえだ。しかし、肉親ならいつもそばにいる。弘明は学園のマドンナを自分の妹に持っていることに今更ながら不思議な感じがするのだった。
「その特許でもうけたお金を狙っている人はいないのかしら。」
「さぁね、それは今調べているところだよ。」
ひとみもテーブルの上にのっているおかきを口にした。
「松田努くんのことだけど、今日、松村くんなんかから教えてもらったんだけど、自分のお兄さんのことをずいぶんと誇りに思っていたみたいね。化学の方で大変な秀才なんだって。やっぱり松田政男の方もS高校の出身で研究を始めてから三、四年で一般の人には知られていないけど何かの研究成果を得てフランスの方の化学の学会から賞をもらったんですって。そしてアメリカの方に渡ったらしいわ。それでうちの高校でもそれを記念して講演に呼んで体育館で生徒を集めて話しをしてもらったそうなんだって。」
「本当かよ。」
村上弘明は耳を疑った。もっと地味な研究をやってている化学者でたまたま商品価値の高い薬品を発見したぐらいの人間だと思っていたのだがそんな華やかな経歴もあったのか。
「五、六年前のことだから、今の生徒でそのことを知っている人間はいないんだけど。そんなことがあったんだって。それに何よりも都合のいいことは。」
ここでひとみは自分の兄を挑発するような目つきをした。弘明はまたもや本当にこの女が自分の妹なのだろうかと思った。まるで高級なペルシャ猫のような気がした。
「そのときの講演がビデオに録画されているらしいの。化学を選んだ動機とか、好きな食べ物とか、好きな映画とか、安眠法とかいろいろしゃべっていったみたい。」
「そのビデオテープはどうしたんだ。誰が持っているの。」
「校長室のどこかに置いてあるみたいだわ。そういううわさ。」
「それを見る方法はないだうか。」
「校長先生にたのむしかないんじゃないの。」
K病院の環境問題から始まった話が結局は松田政男の殺人事件に落ち着いていた。いつのまにか調査の主眼がそちらの方にずれいた。しかし弘明はひとみから聞いたこの情報に満足した。はなはだ社会派としては不見識であるがゴミ問題より精神病院で起こった未だに迷宮入りの殺人事件の方が興味を誘った。とにかくまだ松田政男を殺害した犯人は逮捕されていないのだ。松田政男の死には不可解な部分が多かった。松田政男自身もそうだがK病院もまた不可解な部分が多かった。
「兄貴、そもそもK病院のゴミ問題をとりあげるのが主眼じなかったの。兄貴のところに調査して番組で取り上げてほしいという人が来たからでしょう。変なゴミを捨てているって。」
いつの間にか用意したこぶ茶を吉澤ひとみはすすりながら兄に聞いた。
「お前、まだ若いんだろ。いい年をしてこぶ茶なんか飲むなよ。」
「うるさいなぁ、兄貴、これは健康にいいんだよ。」
自分の家で彼女がこぶ茶をすすっているなどということを彼女に憧れている男子生徒は知っているだろうか。
「まずは病院の調査が何よりだよ。その病院の体質と言おうか、それを調べなければ、今度の問題の急所はつかめないからな。その病院の体質を決めるのはなんだと思う。」
「医者かな。」
「それが浅はかな考えと言うんだよ。医者は何人いると思う。それらはみんな性格とかみんな違っているんだぞ。いちいち違う性格でその病院に一つの統一したキャラクターができると思うのか。」
「むかっくー、じゃあ、教えて、教えてください。でも、あんまり、ちゃんとした答えじなかったら、ピザおごってよ。近所にピザの宅配便ができたんだから。」
「ピザぐらい、いつでもおごってやるよ。」
「わぁ、兄貴っていつでも気前がいいんだ。」
「気前がいいだけ、よけいだよ。K病院、ここは私立病院だ。と言っても半分は市が経営を肩代わりしているんだけどな。ここには医者を含めて数十名の職員が働いている。それらの性格の統合体として設備もふくめてその病院の性格が決まる。どんな設備を導入するかというのもそこの職員が決めるわけだからな。」
職場だったら誰からも耳を傾けてもらえそうにもない弘明の愚にもつかないような屁理屈だったが兄の特権を利用して自分の理屈を展開した。
「それらのすべてのものを選択するものは何かと言えばそこの病院の経営者だろ。経営者が面接をして選ぶんだからな。経営者、つまりそこの理事長だ。」
「そこの理事長がどうしたの。何か、わかったの。」
「経営者は福原豪という人物なんだ。ここら辺の古くからの大地主で福原観光いうバス会社も経営している。観光バスと言ってもここら辺がまだ住宅地にならない前に命名されたからそういう名称なだけで単なる路線バスになっているけどね。その福原豪という人物もなかなかいろいろな噂のある人物で、中央政界への進出を狙っていろいろと画策していると言われているんだ。大金持ちなんだからそんなえげつないことをする必要もないのに次ぎ次ぎと法律ぎりぎりのまたは発覚しないだけで法律を逸脱している金もうけをやっている。地元では有力な建設会社も経営しているんだ。水谷や大石のように全国規模の建設会社じゃないけどここら辺の事業には大いに食い込んでいるんだ。前から噂されていたことらしいんだけどあのK病院を建てるにあたっては大部うまいことをやったという噂なんだ。このことは調べようとして見つけたんじゃないよ。たまたま、定食やで横に座っていた建設関係にいるらしい人間がそのことを噂にして飯を食っていたのを横で盗み聞きしたんだ。」
弘明は缶ビールを一口飲んだ。弘明が講釈をたれ始めたのでひとみが気をきかせて冷蔵庫から出してきたのだ。弘明は缶ビールを半分くらい一気に飲むとその定食屋で盗み聞きした話を続けた。
「福原は自分でも建設会社を持っているんだ。その建設会社の名前を聞きたいだろう。」
「聞きたい、聞きたい。」
ひとみは仕方なく相づちを打った。弘明の前で肘をついて手のひらにあごをのせている彼女ははなはだ不謹慎だったが、そんな態度も弘明は気にならないのか、それともよほど自分のつかんできたねたを話したくて仕方ないのだろう。
「恵比寿建設というんだよ。なんで恵比寿建設というのか、ひとみも知りたいだろう。」
「知りたい、知りたい。」
ここで弘明はビールをまた一杯ぐびりとやつた。これでも大阪に飛ばされる前は芸能分野でぶいぶいといわせていた男なのにね、とひとみは思った。
「福原豪は今、六十五さいなんだけど恵比寿建設を作ったときは三十一才だった。福原は結婚してから四年たっていた。福原の父親は本当は福原にあとをつがせたくなかったんだ。福原豪には異母兄弟で浅川保という三才離れた弟がいたんだけど父親は浅川保の方を高く買っていたんだ。しかし二年前に父親が急死して遺言なんかがちゃんとしていなかったので世間の慣例にしたがって福原が父親の事業の一切合切をつぐことになった。しかし浅川派というものが彼の会社の内部に存在して自分が後継者として適任だと誇示する必要があった。その頃、豪は妻とともに先祖の位牌の飾られてある仏壇のある和室で寝ていた。そこで嘘か本当か伝説めいた話があるんだ。彼が夜中に寝ていると先祖という人間が枕元に現れてこの福原豪の故郷に多くの人のための家を建てろと言ったというんだ。そしてそのご先祖さまの背後には恵比寿様が立っていたというんだ。それが恵比寿建設の名前の由来なんだ。ということが恵比寿建設の会社のパンフレットに載っているんだよ。」
「ナンセンス。」
今では誰も使わないだろう古い言い回しでひとみは否定した。
「まあ、そんなことはどうでもいいんだけどね。恵比寿だろうが、福禄寿だろうが、どんな名前の建設会社でもいいよ。問題なのは自分の病院を建てるのに自分の建設会社を使って、その資金を市が出したということなんだ。そんなことをして誰も文句を言わないなんておかしいと思うだろう。それも巧妙に行われているらしい。K病院は福原が所有している私立病院なのだが巧妙に市側の援助が行われているらしいんだ。前の市長の選挙公約が病院を建てるということだったのでそれにうまく取り入ったといわれている。そのことに関連してもっと大物の政治家が関与しているという噂もあるんだ。これは査察が入ったわけじゃないから噂の域をでないんだけどな。」
「もっと大きな政治家って。」
吉澤ひとみもそのことに興味を持っているらしくテーブルの上にあるとうもろこしをほおばった。
「それがわかれば苦労はないよ。ひとみの男関係みたいにな。」
「まあ、何よ。兄貴、岬さんに会えないからつて。ひどいじゃないの。その言い方は。本当に、私、怒っちゃうからね。私の男友達と言ったら、滝沢秀明くんと松村邦洋くんの二人だけよ。明日、兄貴ひまなんでしょう。滝口神社で明日、盆踊り大会がひらかれるの。滝沢くんも松村くんも来るから兄貴も来てくれる。ねぇ、一緒に盆踊りを踊りましょうよ。兄貴、歌手の桜道代と親しいでしょう。彼女のキャンペーン用のテレホンカードをたくさん持っていたわよね。二人が彼女のファンなんですって。そのとき桜道代のテレフォンカードを持って来てくれる。二人が欲しいんですって。」
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第十七回
滝口神社は栗の木団地の裏の田圃道から西北へ二百メートルくらい丘の方へ上がったところにあった。そこはここら辺では少し小高い丘になっていて堀田義一という武将の城があった場所だった。城といってもまわりに城壁を組んだだけの山城だったが、そのあまり有名でない武将が滅んだあとは神社となって神社の中にちょっと趣のある水の流れる火山岩で作られた庭があってそれがこの神社の名前の由来になっていた。この神社は小高い丘の上に建てられていたから神社の本殿に上がっていくには十数段の階段になっている参道を上がっていかなければならなかった。栗の木団地の吉澤ひとみのアパートの窓からも大音量で流されている盆踊りの音楽が聞こえてきた。この参道がにぎわうのは正月の三が日で初詣の近所の住人が行き交うときぐらいしかなく、いつもは閑散としていたが、今日は参道を上がりきった本殿の前の大きな広場が盆踊りの会場になっていたのでそこへ行く近所の住民によってにぎわっていた。この神社の名前の由来になっている富士山の火山岩みたいな岩で作った水の流れている趣のある庭はこの広場の北側にあった。この広場は小学校の校庭ぐらいの大きさがあり、まわりを広葉樹で囲まれていた。中央に盆踊りの歌手のための櫓が組まれていてそこを中心にして提灯が数え切れないほど、まわりの木にはりめぐらされている電線にぶら下がっている。石灯籠の中には電球が入れられ、明かりが点っている。広場の周りには屋台が立ち並び、とうもろこしが焼かれたり、綿菓子が屋台のテントの上にぶら下がっている。炭坑節が神社の中につけられた拡声器から流れている。近所の住民がほとんど来ているのではないかと思えるほど盆踊り会場は混んでいた。みんなが皆、夏向きの服装をしている。浴衣の女性も多かった。もちろんそこにはカップルも多かった。村上弘明があじさいをあしらった浴衣を身にまとったひとみをつれて滝口神社にやつてくると神社の境内の中には多くの人がいた。彼らがその境内に足を踏み入れたときはこの町の商店街の会長が銀縁の眼鏡を光らせて何か挨拶をしていた。
「ここや、ここや。」
本殿の賽銭箱のそばに顔なじみの二人が立っていた。ひとみは兄の弘明の手を引くようにしてその二人のところまで駆け寄った。松村邦洋と滝沢秀明の二人も浴衣を着ていた。村上弘明も浴衣を着ていたから四人が四人とも浴衣を着ているということになる。
「桜道代のテレフォンカード、持って来たよ。」
「うわぁー、サンキュウ、わて、めちゃくちゃにあれがほしかったんだ。桜道代のファンやからな。」
「二枚づつでいいの。まだ、たくさん、持っているんだけど。」
「あっ、はじめまして。わては松村邦洋といいます。こっちが滝沢秀明くん、二人ともひとみさんのクラスメートにして同じ新聞部の部員です。」
「はじめまして、ひとみの兄の村上弘明です。」
多少ぎこちない挨拶が続いた。
「確か、お兄さんは日芸テレビの芸能関係のキャスターをやらはっていませんでしたか。お笑いタレントの轟きゴーゴーと一緒に番組をやっていましたよね。」
松村邦洋がそういうのを村上弘明はにがにがしい思いで聞いていた。自分が東京のテレビ局であの番組に参加していることを知っているということは当然あのスキャンダルで自分が東京に飛ばされたということも知っているのだろうか。弘明に会う人間の多くは裏で何を言っているのかはわからないが少なくとも会っているときにそのスキャンダルのことを持ち出す人間はいない。自分としては公明正大に身の潔白を他人に主張したい気持ちのあるものの何となく面倒な気持ちもあるのだ。この目の前にいる高校生がそのことを聞いてくるだろうかといぶかった。それよりも何よりも彼らが世間からマドンナともてはやされている自分の妹が自分の知らない学園生活でこの純朴そうな二人の高校生とどんな会話をしているのか、まるっきりわからないということが不思議な気持ちがした。しかし彼らが弘明が大阪の放送局に飛ばされたということを知っているなら当然、スキャンダルのことも知っているに違いないからそのことを聞いてくるかも知れないと思い、どう説明しようかと頭の中でその事情を組み立てていると敵は全く違う方面にやつてきた。
「少し、ひとみをびっくりさせることがあるんやで、きっとお兄さんもびっくりしますよ。」
松村邦洋は太った体を二人の方にむけてにやりとした。そこへどこかのビール会社の人間がうちわをたくさん持ってやつてきた。少し離れたところで新しく発売されるビールの試供品を大きな氷水の中に入っているのを取り出して配っていた。実際に売るものと同じ大きさの四百ミリリットルぐらいの大きさの缶ビールだ。ここに人がたくさん来ることで宣伝効果も上がると思って配っているのだろうか。その仲間みたいのが近寄って来てうちわを配っていた。四人もそのうちわを受け取った。弘明はへこおびの背にそのうちわをさした。境内のあちこちについている拡声器から放送が流れた。
「これから盆踊りをはじめます。けっしてむずかしくはありませんのでみなさん、どうぞ、お気軽に踊りに加わってください。」
同じ内容を二度繰り返した。
「ねぇ、行きましょうよ。」
ひとみは三人を誘った。一番太っていて踊りなどには縁がないような松村邦洋が一番乗り気だった。
「さぁ、行こうぜ。」
滝沢秀明と村上弘明はいやいや従った。吉澤ひとみは立っているだけで絵になるから踊っている姿も様になった。
ひとみはうちわを持っていたので彼女の手の動きにしたがってうちわも優雅な曲線を描いた。まだうだるような暑さの夏の宵に倦怠を感じさせるような盆踊りの音楽の中をまだうら若い女性が盆踊りを踊っている姿は周りの人間にはどう映ったのだろうか。それが自分の妹だったから弘明にとってはその疑問はなおさらだった。踊りの輪の中に途中から飛び入りの人間が入ってくるので弘明から離れたところでひとみや松村邦洋、滝沢秀明の三人は踊ることになった。最初の盆踊りの曲が終わってから盆踊りの輪の中心に置かれた櫓の上で太鼓の乱れうちみたいなものが始まっていた。吉澤ひとみは松村邦洋と滝沢秀明の二人をつれて出店を見に行った。村上弘明は手持ちぶさたなので水の流れている庭園の方をぶらぶらした。
「吉澤さんじゃありませんか。」
急に声をかけられてびっくりした。見るとアロハシャツを着た不思議の国のアリスに出てくるハンプティダンブティみたいな男が立っている。
「やっぱり、吉澤さんでしたよね。」
男は哀愁のこもった苦笑いをしながら弘明の方を見て言った。弘明は一瞬この男がどこの誰かよくわからなかったが数秒でこの男に関する情報を引き出すことができた。
「オリエント シティの笹沼さんじゃ、ありませんか。」
「東京にいたときはお世話になりました。」
「オリエント シティにはまだいらっしゃるんですか。」
笹間と呼ばれた男は少しとまどった。
「オリエント シティには堀川みさおくんが出ましたよね。今は大部売れているみたいじゃ、ないですか。」
ここで笹間の顔はまた少し曇った。
「実はオリエント シティはやめたんです。」
「また何でですか。」
「私の方針とオリエントが合わない部分があったからです。」
「合わない部分があったというと。」
オリエント シティは俳優専門のプロダクションだ。そこの方針に合わないとは一体どういうことだろうか。そもそも何故ここに笹間がいるのだろうか。その理由を笹間は語りたくないようだった。そう言った思いは表情にも見てとれた。
「吉澤さんもこの前は大変でしたね。」
「まぁ、いろいろとありましてね。」
笹間は芸能界の中の人間だから当然吉澤のスキャンダルは知っていた。話題を変えたというのは話したくないことがあるのかも知れない。しかしなぜ笹間はこんなところにいるのだろうか、それが疑問だった。やはり芸能関係の仕事をしているのだろうか。笹間は隠れるようにして立ち去った。何となく落ちぶれているように見える。それは吉澤自身も同じことなのだが。これでも東京にいたときは夜の六本木の街を遊びまわり、芸能界の中でぶいぶいと言わせた存在だったのだ。これがもし東京にいて赤坂の街を歩いていれば有力な芸能プロダクションの知り合いが必ず声をかけてきて酒を飲みにさそわれたりするのが当たり前なのだ。それが今はすっかりと落ちぶれてしまってこんな田舎の盆踊り大会で妹をつれて盆踊りにやって来るという有様なのだ。そう思って盆踊りの輪を見ると何かしらわびしい気がする。すると向こうから二人の恋人をつれた吉澤ひとみがやって来た。
「兄貴、こんなところにいたの。」
「ちょっと知り合いにあってね。」
「知り合いって、私の知っている人。」
「いいや、知らない人だよ。」
今まで気が付かなかったのだが踊りの輪の外側の方にステージが作られてあった。
「あれ、もう七時半やないか。急がないと。」
松村邦洋が腕時計を見ながら言った。滝沢秀明も自分の腕時計を見た。
「何よ。何か急いでいることがあるの。」
吉澤ひとみが尋ねた。
「お兄さんをびっくりさせることがあると言ってありますよね。僕と松村の二人でカラオケ大会の申し込みをしておいたんです。
「カラオケ。」
ひとみがびっくりした顔をして尋ねた。盆踊り大会の余興としてカラオケ大会も開かれていたのだ。事前に参加を申し込めばその催しに参加することもできる。
「もちろん、ひとみさんも参加できるように申し込んでおいたよ。三人で参加するんです。
お兄さんも見ていてください。」
「何よ、私も加わるの。」
そう言ったひとみはまんざらでもないようだった。
「じゃあ、僕は舞台の袖にでも行って拍手でもするかな。」
弘明はそう言ったが何か複雑な気持ちになった。ひとみの学園生活を知らない自分だったが確実に自分の知らない世界を自分の妹は持っているのだ。四人がステージに行くと受付の人間が手続きをした。そこでひとみたち三人は舞台の裏に、村上弘明は客席の方に陣どった。やがてカラオケ大会が始まって老若男女がステージに立って歌いはじめた。芸能畑出身の村上弘明だったが全ての曲を知っているわけではなかった。六組目に弘明の知り合いが出てきた。ひとみ、松村邦洋、滝沢秀明たちである。グループでカラオケに参加する観客も多少いたが男なら男だけ、女なら女だけというかたちが多かったから男二人に女一人という組み合わせは珍しかった。
「これから、***の***を歌います。」
松村邦洋が曲の題名を言った。三十年くらい前のアングラソングという分野が流行っていたときのその流れを汲む歌手の歌だ。もちろんその歌手が三十年も前のことなど知るはずがないが村上弘明は自分で勝手にそう解釈していた。三人はマイクが一つしかないので身を寄せ合った。この三人が特別親しい関係で結ばれているということは観客の誰にも感じられた。村上弘明は嫉妬を覚えた。何か自分だけ取り残されている気がした。やがて歌が始まると、松村邦洋は話しているときの感じから美声であることは感じられたが歌い始めるとそれが事実であることが実証された。三人の歌はうまいというのではなかつたが三人の好ましい関係がその歌声にあふれていた。
歌のうまさではなくその至福の関係に観客は喜びを感じた。村上弘明だけが例外だった。自分一人だけが砂漠に取り残されているような寂寥感があった。三人の歌が終わってステージから降りるとまた次の出演者が現れた。歌を歌い終わった三人は村上弘明のいる客席の方に戻ってきた。参加賞の冷えたジュースを何本も抱えていた。優勝や順位はなく参加賞だけが全員に与えられるのだった。
「良かったよ。」
そう言った弘明だったが何となくものたりないものがあった。それは自分だけが取り残されてしまつたような寂寥感だった。
「お兄さん、良かったですか。これ、参加賞のジュースです。」
「何て歌を歌ったの。あまり知らない歌だつたのでわからないよ。」
「あれ、今、流行っているんですよ。****の***という曲、」
「ふーん。」
村上弘明は鼻で返事をした。
「何だ、兄貴、知らないの。芸能ニュースを担当しているんでしょう。」
「今は担当していないよ。とにかくジュースでも飲むか。」
村上弘明がまだ観客が歌っているステージを見るとステージのそでの方で見慣れた顔があった。さっき庭園の方で見かけた笹間だ。何だ、笹間はこのカラオケ大会に仕事で来ていたのか。村上弘明は納得した。しかしカラオケ大会などでこんなところに来るか。オリエント シティという日本でも有数の俳優を擁している芸能プロダクションのマネージャーだった男だ。カラオケと俳優、あまり結びつかない感じがする。そう思ってステージの背に張られているプログラムを見るとプログラムの最後の方には光川さゆりという名前が載っている。新進の演歌歌手だ。それで村上弘明には全てが納得がいった。笹間は光川のマネージャーとしてやって来ているのだ。笹間と話したことがあるが笹間自身、俳優しか認めないし、オリエント シティも俳優専門のプロダクションとしてやっていくべきだとか話していたことがある。村上弘明が大阪に来る少し前にオリエント シティは歌手部門を作るとかいう話を聞いたことがある。それが原因で笹間はそこをやめたのかも知れない。それで演歌歌手の光川さゆりのマネージャをやっているのだろう。光川さゆりにも面識がある。面識があるというどころの話ではないのだ。いわゆる村上弘明が東京にいてぶいぶいいわせていたときは三、四回、番組の制作費を使って彼女を飲みにつれて行ったこともあったのだ。村上弘明は光川さゆりの姿を探した。しかしステージの奥の方にいるのか出て来なかった。一般人のカラオケが終わると司会者がステージの前に出てきた。
「ここで、お待たせしました。これがお目当てで来ていらっしゃるお客さまも多いと思います。海から生まれた人魚姫、演歌の新星、光川さゆりさんです。さゆりちゃんどうぞ。」
司会者がそう言うとステージの奥から光川さゆりが出てきた。光川さゆりは客席を見渡した。光川さゆりの視線が客席の中をひととおりなめ回すと、吉井弘明と目があった。光川ゆかりは一瞬、びっくりしたような顔をした。
「さゆりちゃん、客席を見てびっくりしたような顔をしていたけどどうかしたの。」
「いえ、別に。」
そう言っても光川さゆりが客席の中にいる吉井弘明を認めたのは明らかだった。
「あの人、知っている。兄貴、東京にいたとき、ときどきうちに遊びに来たじゃないの。」
「何だ、そんな知り合いがいるんだ。すごいことやないか。」
「だって兄貴は東京にいたときは芸能分野のテレビを担当していたんだから。」
ステージの上ではカラオケ教室を開こうという話になって、要するに光川さゆりとデュエットしようということだった。
「そこの浴衣姿の男の人、ステージの上に上がって来てもらえますか。そう、そこの人。そこの高校生のグループと一緒になっている人。」
ステージの上から光川さゆりが村上弘明を指名した。弘明は頭をかきかきステージに上がった。光川さゆりは思わせぶりな目をしてステージに上がった村上弘明を見つめた。
「じゃあ、光川さんに歌の指導をしてもらいましょうか。曲はデビュー曲の***でいいですね。」
司会者は光川さゆりの方にマイクを渡した。
「今日は盆踊りにいらっしゃって盆踊りの方は楽しく踊れましたか。綺麗な女子高生のいる三人組がさっき歌を歌いましたがあの人たちとはどういう関係になっているんですか。ええ、あの女子高生のお兄さん。」
光川さゆりは分かり切ったことを聞いた。弘明はすっかりと上がってしまっていたがさっきまでの取り残されたような寂寥感が自分の中からすっかりと消え去っていることに驚いてしまった。
「****知っていますよね。」
それは光川さゆりのデビュー曲だった。クラブでさゆりと何度もデュェットしたこともあった。村上弘明は素人らしくステージに立ったものの常としてすっかりと上がってしまい夢心地だったがほとんど光川さゆりのリードで歌を歌い終わった。光川さゆりはあくまでも村上弘明のことをステージ上では知らないふりをして一曲を歌い終わった。客席からはぱらぱらと拍手が起こった。司会者が前の方に出て何かをしゃべっている間にステージの後ろの方で光川さゆりは何かをメモして村上弘明に他の人間に分からないように渡した。
「兄貴、良かったよ。まるで本当の歌手みたいだったよ。あの人、光川さゆりさんって東京に居たときよくうちに遊びに来たことがあったじゃない。」
客席に戻って来るとひとみがラムネを飲みながら兄の弘明に向かって言った。
「こんなものを貰ったよ。」
弘明はステージ上で誰にも分からないように光川さゆりから手渡されたメモ用紙をポケットの中から取りだした。光川さゆりという名前が出てきたので客席の中にいた何人もの人間がひとみたちの方を振り向いたようだった。その当人の光川さゆりはまだステージ上で自分の持ち歌を歌っている。プログラムによると五曲くらい歌って三十分ぐらいかかるようだ。
「どこで貰ったんですか。」
「ステージ上だよ。」
「だから言ったでしょう。光川さゆりさんって何度もうちに遊びに来たことがあるんだから。」
「ステージの後ろの方で貰ったんですか。全然、気が付かなかったな。」
「とにかく、何て書いてあるのか、見てみようやないか。」
村上弘明はポケットから出した四つ折りの紙切れを広げてみた。光川さゆりという名前が出てきたのでそれを小耳に挟んだ客席にいるまわりの人間もあからさまではないがこちらの方を覗き込んでいる。東京だったら考えられない話だ。
「えーと、何だって。本殿の横の庭で待っていてください。私は歌を歌い終わったらそちらの方に行きますから。」
本殿の横のこの神社の名前の由来になっている庭園に四人は行って、光川さゆりを待った。松村邦洋は髪をなでつけている。滝沢秀明はポケットに手を突っ込んで地べたに落ちている。石ころを蹴ったりしていた。村上弘明も何とはなしに落ち着かなかった。うれしい反面、スキャンダルを起こして大阪に飛ばされたことが恥ずかしくもあった。ただ落ち着いているのはひとみだけだった。容貌に関して言えば吉澤ひとみの方がそこら辺にいる女優やタレントよりもずっと美しかった。それでも光川さゆりに会えるということがそんなにうれしいのだろうか。四人が手持ちぶさたで光川さゆりが来るのを待っていると本殿の背後の方から体の毛が雨ざらしにあって逆立ち、傷んでいる野良犬がふらふらとやって来る。
その姿があまりにも異様だったので四人は闇夜の中からやって来るその野良犬の方に目が釘付けになった。その犬は通りすぎるのではない。四人の方にやって来るのだ。村上弘明は一瞬その犬が狂犬病の病気を有しているのではないかと思った。
それほどその犬の目は狂ったように濁っていたからだ。その犬は四人の方を通りすぎず、まっすぐ彼らの方に向かって来る。口には何かをくわえている。やがて村上弘明の方まで近寄って来ると顎を突き出して口にくわえているものを村上弘明の方に突きだした。弘明はそれを受け取った。犬はそのまますたすたと夜の闇の中に消えて行った。四人のうちの誰しもその犬を制止する気にはならなかった。犬をつかまえて調べてみても何もわかることはなかっただろうが。犬がくわえているものは紙片だった。それは犬の唾液でよごれないように袋に入っていた。弘明はその袋を破って紙片を取りだした。
「K病院のことを調べているようだが、それは君の死を意味する。ただちに調査を中止するように君に忠告する。」
どこにでもあるコピー用紙に無味乾燥な印字がなされていた。誰がこの手紙を犬にくわえさせて弘明の手に渡したのだろうか。K病院の関係者だろうか。そうするとあの病院の経営者の福原豪ということになる。調べられ公にされると困ることがあるということなのだろうか。村上弘明の持っているその紙片をひとみたちは覗き込んでいた。客席で彼らが光川さゆりを待っていることを知っているのはあの手紙を覗き込んでいた多くの観客がいたからその可能性のある人間は多い。
「吉澤さん、お久し振り。」
向こうの方から何も知らない光川さゆりが舞台衣装を着替えた普段着の姿で駆けてきた。
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第十八回
怪病院
竹林の間を走っている細道を抜け、大きな川を渡る鉄橋を渡った。村上弘明は東京にいるときはばりばりの、大阪に飛ばされてからはそれなりの、業界人だったから車は外車、ルノーに乗っている。前の座席には松村邦洋が道案内を兼ねて乗っている。後ろの座席にはひとみと滝沢秀明が乗っていた。
「ひとみの頼みだからって兄は君たちみたいな高校生を取材に連れて行くのは反対なんだからな。そのことは一応、釘をさしておくよ。」
「兄貴、私たちがいたほうが何かと便利でしょう。松村くんはここいらの地理に詳しいし、松村くんがいなかったら兄貴は地図を身ながら行かなければならないんだから。それにただで働いてあげるんだから。」
「分かったよ。ひとみ。その代わり兄の言うことはみんな何でも聞くんだぞ。」
「お兄さん、そこを曲がってください。」
松村邦洋が早速、道案内の役目を果たした。橋を渡りきると乾いて耕さなくなった田圃の一角に廃屋となつた農家があった。その道のさらに先の方に小高い丘があって丘の半分は削り取られている。丘の登り口のあたりに分譲住宅が何軒も建っている。丘の登り口を上がって行く道があってその上の方にK病院があった。丘の頂上に立つK病院は曇り空を背景にして建っていて妖気をただ酔わせていた。
「あそこがK病院です。」
助手席に座っている松村邦洋が指をさして言った。
「K病院ってとにかく変な病院ですよ。病院の活動自体のことはよくわからないのやけどまず建物の形が変なのや。まるで中世の要塞みたいな形をしているのや。長四角の箱みたいの建物の両端に丸い筒を半分に切ったような建物がくっついていて、半分に切った丸い筒がくっついている片一方の方に隔離病棟だと思うやけど小さな建物がくっついているのや。回りは雑木林で何もないし、近くにあるものと言えば逆さの木葬儀場という焼き場だけなんや。そしてK病院の中は真ん中が中庭のようになっていて病院の中に入っていける経路というのがまた変わっているのや。病院の入り口は半円の筒のさきっぽのところにあるんやけどそこから入っていくと階段で下りて行って病院の中庭に立っている変な建物に出るのや。そこから病院の病棟の方に中庭から入っていくのや。そんな変な事を何故したと思う、あの病院の主な目的が精神病院なんやからなんや。夜中に病人が徘徊して病院を抜け出さないようにという目的でそんな変な建物を建てたって話やで。そのくせ結構あの病院の中は出入りが出来て泥棒騒ぎとかがよく起こるという話や。」
松村邦洋はこの栗の木市に住んでいるためK病院の噂話はよく知っていた。しかしそれはうわさ話であり、どこまで本当かははっきりとしない。丘の登り口のところまで行って村上弘明はルノーをとめた。この取材を始めたときそのきっかけとなったゴミの集積場が丘の登り口のところにあったからだ。村上弘明は車から降りるとそのゴミの集積場の写真を撮った。今は弘明の興味は完全にゴミ問題から松田政男の殺人事件に移っているが。ゴミの集積場の中を見回してもK病院の中のごみはないようだった。他の三人は弘明がゴミの集積場の写真を撮っているのを車から顔を乗り出して見ていた。車の中にいる三人はゴミの集積場の前に立っている村上弘明の方を誰かが見ているのを見つけた。
「誰かが、あそこで君の兄さんが写真を撮っているのを見ているやないか。」
「どこどこ、あれ、あれ、」
松村邦洋が指さす方を見ると彼女の兄の向こうの方に若い男が立っている。村上弘明がゴミ捨て場の写真を撮っているのを見て興味を持って近寄って来ているのか。さもなければその男自身もこのゴミ問題に興味を持っていて自分の仲間だと判断して近寄ってきたのか。ひとみたちが見ているとその若い男は村上弘明の方に近寄って行った。そして彼と何か話している。くぬぎの雑木林を背景にして立っているその男の姿は妖術を身につけた狐の生まれ変わりのようだった。木の葉を見せてお札だと言うのかも知れない。しばらく村上弘明と立ち話をしているようだったがそこを立ち去った。村上弘明はカメラを片手に抱えて戻って来た。
「兄貴、あそこで誰か若い人と立ち話をしていたじゃないの。知り合い。」
車の後部座席からハンドルを握っている弘明にひとみは話しかけた。「いや、知り合いじゃないよ。この近所に住んでいる若者らしい。僕がカメラを持ってゴミ捨て場の写真を撮っているから興味を持って話しかけてきたんだよ。何か青白い感じで白蛇みたいな感じの若者だったよ。」
「いくつぐらいの人。」
「そうだなあ、二十一、二というくらいだったかな。」
村上弘明はシートベルトをかけ終わった。
「よし、行こうか。」
弘明のルノーは病院のある丘の頂上へと向かった。K病院は小学校の体育館ぐらいの大きさがある。建物自体はイタリヤの中世の都市で建てられたようなあるいは明治時代の日本の軍艦のような形をしていた。それが灰色コンクリートで建てられ、建物の周りも白い高い壁で覆われている。ちょうど入り口の門は開いていたので弘明はそのままルノーをその中に入れ駐車場の屋根の下に留めた。四人がそのまま車から降りようとすると白衣を着た人物が立っていた。
「私は日芸テレビの吉澤といいます。電話を差し上げましたが、この病院で不審な死に方をした松田政男さんのことで番組を作ろうと思いまして。ここにいるのは私の助手です。」
白衣を着た人物はうさんくさそうな目をしてひとみたちをみつめた。
男は六十才ぐらい、やせ形で頭が大きく、少しはげている。外見と違って声は可愛らしかった。
「電話は何と言う人間がとりましたか。」
「城草さんという人でした。その人に頼んでおいたんですが、今日、取材させてくださいと。日芸テレビのものです。吉澤といいます。」
「ああ、吉澤さん、吉澤さん、聞いています。聞いています。日芸テレビの人ね。」
白衣を着た火星人は何物をも了解したようだった。村上弘明はほっと胸をなでおろした。とにかく病院の中に入らなければ何もできないのだ。何の取材材料も得ることができない。そうでなければ元患者とか出入り業者から話しを聞くことしかできない。
「とにかく病院の中に入らせて貰えますか。」
「ええ、いいでしょう。そのかわり、私が案内するということで。」
ひとみたちもお互いに顔を見合わせて安心した。ひとみや滝沢秀明は村上弘明から持たされたテープレコーダーやデジィタルカメラを持っている。S高校の新聞部の取材ではとてもこんな機材は使うことがないだろう。もっともらしい機材を持っているので火星人も信用しているようだった。
「私はここで事務関係の責任者をしている小沼といいます。」
事務、つまり経理関係の責任者と聞いただけで村上弘明は福原豪の市当局とからんだ不正融資のことが連想された。彼自身が持っている建設会社、恵比寿建設が市の税金を使って自分の病院を建てるというからくりから大部、私財をこやしたという話は聞いたことがある。そして現在もそのことを調べているのだが少し証拠を得る端緒もつかんでいる。そして現在、この病院でやられていること、つまり病院に対する助成金をうまいことをやって自分のふところに福原豪が入れているのではないかと疑っているのだが、まだ、そちらの方は調査中だ。病院建設のときのからくりをこの経理長は知らないかも知れない。しかし現在やられていることならわかるだろう。そう思うとこの頭ばかり大きながりがりの火星人が今度作る報道番組のシナリオのようにも思えてくるのだった。
「ここから、入ってください。」
小沼は重そうな灰色の鉄製のドアをあけた。
「なんか、気味わるいわ。」
「そうね。」
松村邦洋が小声でそう言うと吉澤ひとみも相づちを打った。二人の話し声は村上弘明にも小沼にも聞こえないようだった。村上弘明は時代遅れの感じのする精神病院だと思った。
「本当は。」
先頭を歩いている小沼がぽつりと言った。
「えっ。」
村上弘明が聞き直した。
「何と、おっしゃいましたっけ、そう、吉澤さんでしたね。さっき、この市内では唯一の精神病院だからここの施設の紹介をテレビですると吉澤さんはおっしゃいましたが、本当はこの病院がゴミ捨て場に勝手に病院のゴミを捨てているので付近の住民から苦情が来てそのことで番組を作りに来たんでしょう。」
村上弘明は耳を疑った。滝沢秀明も振り返った小沼の顔を見ると気味が悪かった。小沼が後ろを振り返ったとき薄気味悪くにやりとほほえんだからである。頭の川がはがれて血まみれになった頭蓋骨が飛び出してくるかもしれない。
「確かに近所の住民からそういう苦情は上がっているようですが、病院関係者である小沼さんのところにもそういう声は届いているのですか。」
今度は小沼は前を向いたままだった。
「でも、本当はあなた方がここにやって来た目的はまた違う。半年ぐらい前にここに入院していた患者が一人不審な死を遂げた。その調査でやってきたのでしょう。と言うより、そういう事件があったことをこの病院を調べていくうちに知った。それでそちらの方に興味が移って来た。そしてこの病院の経営者、福原豪のことを調べていくうちにこいつが悪徳地方名士の全ての要素を持っている、それでさらに犯罪のにおいを感じた。これは放送で取り上げるほかない。そう思われたのでしょう。実際、この病院はひどいものですよ。いつでもどんな人間もこの病院の中を出入りできる。そしてこの病院の中で好きなことをして出ていける。そんなお粗末な管理体制の中で運営されているんです。もっとも福原豪の悪事を解明できるような重要に書類は厳重に保管されていますけどね。」
意外な人物から意外な言葉がするすると出て来るので四人は驚いた。相変わらず小沼は無言で歩いている。
「あっ、あの、」
村上弘明は思わずどもった。
「あの、小沼さんは自分の勤めている病院なのに何故そんなことを言うのですか。少なくとも小沼さんは雇われている身でしょう。そんなことが経営者の福原豪氏に知られたら困るのではありませんか。」
「いいんですよ。もうすぐ、私はこの病院をやめる身ですから。何を言ってもいいんです。それに退職金もくれないって言うし。」
小沼は相変わらず前を向いたまますたすたと歩いて行く。
「死んだ松田政男さんの捜査で警察がやって来たときもっと警察にいろんなことをぶちたまけておけばよかったと今になって思いますよ。松田政男が殺されたのも不思議じゃありませんよ。だってここに入ろうと思えば昼だって夜だって誰でも入れるんですからね。」
「松田政男さんと言いましたよね。」
吉澤ひとみが前を歩いている火星人に話しかけた。
「松田政男さんをよく知っているんですか。」
「もちろんですよ。ここで殺されたんですから。一部の人間はあれが自殺だなどと言っていますがあれは殺されたに違いありません。
自殺などするもんですか。」
「松田政男さんの弟で松田努くんという高校生がいるんですが、私たちの同級生なんです。彼は今、病気で入院しているんです。彼のためにも松田政男さんの不慮の死の原因を究明したいんです。」
吉澤ひとみは小沼に声が届いているかどうかわからないがとにかく言ってみた。
「そうでしょう。だから、あなたたちを松田政男氏が入れられていた病室に案内しようと思っているんです。」
小沼は幽霊のような声で答えた。
「松田政男氏は特別病室というところに入っていたんです。ここの建物を非常廊下でつながっている部屋です。」
小沼はこの建物のはじまで来ていた。建物のはじにはやはり灰色の鉄製の扉がついていてその上には停電のときに点灯する照明がスイッチの具合が悪いのか、つきっぱなしになっている。小沼はその灰色の鉄製の扉をあけた。動物園の裏などに動物を移送するとき通り抜けるようにしている通路があるが、ちょうどそんな感じだった。ただ救いは通路の両側には鉄格子がはまっているが窓がついていることだった。窓も開いているので窓からは針金細工のような雑木林の木の枝が見える。小沼は通路を通り越してさらに奥の部屋の突き当たりまでやって来た。
「ここが松田政男氏が入院していた部屋です。そして松田氏が殺された部屋でもあります。」
そう言って小沼はドアのノブに手をかけた。扉があけられると真四角な空間がそこにあった。
「写真を撮ってもいいですか。」
「どうぞ。」
滝沢秀明はシャッターを何度も押した。部屋の中は色彩のないビジネスホテルのようだった。ただし、掃除のされていない。部屋の中にはキャビネットとそれに付属している椅子、鉄パイプ製のベット、しかしそのベットには布団はなく、シマウマ模様のマットレスが無造作におかれ、そのマットレスの隅はすり切れている。ここに血痕はなく事件が起こってからすぐに掃除されたのだろう。しかしその後に掃除をされた形跡はなくほこりがずいぶんと積もっている。滝沢秀明はまたカメラのシャッターを何度も切った。
「ここで松田政男氏は殺されていたんですか。」
村上弘明はごくりとつばを飲みながら言った。
「警察は犯人が見つからないもんだからこのキャビネットの上に乗って自分から飛び降りたんだろうなどと言っていましたが、そんな自殺の仕方がありますか。たとえ事故だとしてもそんなことで命を落とすなんてことはありませんよ。」
「松田氏はここで死んでいたんですか。」
「ええ、ここのコンクリートの床の上に頭を打ち付けて血だらけになって死んでいました。」
何故かこの部屋の床はコンクリートの地肌が剥きだしのままになっていたが冬だったら寒いと思われる、しかし空調が入っているので寒くないのかも知れない。また夏は夏で空調のために涼しくすごせるのかもない。
「何故、警察は自殺かも知れないと判断したのですか。」
「この部屋を見ればわかるでしょう。入り口から見て左右に窓がついています。今、窓が開いている状態なので分かると思いますが窓の外には鉄格子がはめこまれていて窓をとおして外側から部屋の中に入ることはできないんですよ。もちろん中の人間が外に出ることもできませんし、それに松田氏の死体を最初に発見したのは看護婦なんですがその看護婦がいうことにはドアの鍵は確かにかかっていたという話だからですよ。」
松田政男が倒れていた場所の血痕はもう少しも残っていない。ひとみたちも固唾を飲んで小沼の話を聞いていた。
「でもですね。」
小沼は三人の方を振り向くとにやりと笑った。
「たとえ、松田政男氏が部屋の中に入っていて外側から誰かが部屋がしまっている状態でやってきて自分の持っている鍵であけて中で殺人を犯してまた鍵を閉めた状態にしておく、もしくは最初から鍵は開いた状態だったが松田政男氏を殺してまた鍵をしめておく。そうなら松田政男氏を殺した人物はすぐに特定できるわけですね。常識で考えればその部屋の鍵を持っている人間が何らかの形でこの事件に拘わっていると。」
「そういうことですね。あなたはその鍵を持っている人間のことを知っているのでしょうか。」
立ち止まってこちらを向いている小沼に向かって村上弘明は内心気味が悪いと思いながらも聞いた。そんな吉澤の感情が他の三人にも伝わっているのか、いつもならもっとおしゃべりな松村邦洋も黙っていた。すると小沼は急にポケットの中から鍵を取りだした。
「これが何の鍵かわかりますか。」
小沼は薄気味悪くにやりと笑った。
「この別棟に来る途中の横についている鉄扉があったでしょう。その鉄扉の扉の鍵なんです。その鉄扉をあけて下へ降りていくと死体の冷暗所があります。死体がくさらないように冷凍保存しておく部屋です。この市の中ではこんな立派な死体の保存所があるのはこの病院だけじゃないでしょうか。気味悪がらないでください。そんな部屋があったって、そこに死体があるというわけじゃないんですから。一体何があると思いますか。驚かないでください。ワインなんですよ。死体安置所の温度や湿度がワインを貯蔵するのにちょうどいいんですよ。そして私はその部屋の鍵を持っている。別にこの病院の施設の管理を任されているわけでもない私がですよ。単なる経理課長の私がですよ。ここの鍵の管理なんてこんなものなんですよ。誰だって松田政男氏の入っていた部屋の鍵なんてどうにもなるんですよ。」
「じゃあ、なんですか。松田政男氏を殺害する可能性のある人間はこの病院の中にはいくらでもいるということですか。」
「そうですよ。この問題点をあなたの番組でとりあげて頂けるように切にお願いしますよ。本当に理事長以下この病院の連中は最低の連中なんですから。」
小沼のK病院に関する批判はとどまるところを知らなかった。
「でも、なんでそんな病院に松田政男さんは入れられたんですか。」
今まで黙っていた吉澤ひとみが小沼に尋ねた。
「みんな理事長の福原豪の差し金ですよ。」
ちょっと言い過ぎたと思ったのか小沼は黙った。
「理事長の差し金と言うと。」
「よくあるじゃないですか。金を持っている親戚をその親戚たちが共謀してきちがいに仕立て上げて精神病院に入れてその人間の財産を自由にするというような。」
確かにそういう話は週刊誌などで出ることもある。しかし一昔前の話のような気もするが。
「じゃあ、松田政男さんが精神病の人に仕立て上げられてその持っている財産を誰かに奪われたということなんですか。」
吉澤ひとみが目をくりくりさせて小沼に尋ねた。滝沢秀明は半信半疑のような顔をしていた。小沼はその表情に少し不満げだった。
確かに松田政男氏は化学上の発見で特許を取って大金を持っていたということを全日芸新聞の人から聞いた。その特許を大金である製薬会社に売りつけたというようなことを言っていた。
「それですよ。」
小沼は相づちをうつだけでなく村上弘明の方を指で指し示した。この離れに抜ける方の廊下から何人もの人間が早足で歩いて来る音が聞こえる。
「その人を捕まえてください。逃がさないように。」
その言葉は小沼から発せられたのではなかった。小沼は明らかに狼狽していた。男二人に女が二人やって来た。この四人は白い白衣を着ている。明らかにこちらの方が小沼より医者のように見える。
「沼田さん、こんなところで何をしているんですか。あなた達は誰ですか。うちの患者さんをあまり刺激させないでください。」
男二人は医者のようだった。他の二人は看護婦のようだった。
「ベット患者は沼田さんしかいないようだし、あなた方はどの患者さんのご家族ですか。」
すでに二人の医師は沼田と呼ばれている小沼を捕まえている。
「あの、ちょっと待ってください。この人は沼田さんと言ってこの病院の経理を担当している人じゃないんですか。」
「あはははは、またこの人がそんなことを言いましたか。まあ、いいでしょう。くだらない。とにかく沼田さんを刺激してもなんだから、浅川くん、春日さんたちと一緒に沼田さんをつれて行ってくれる。」
もう一人の若い医師と二人の看護婦は沼田と呼ばれている小沼をつれて行こうとした。小沼は吉澤たちの方を向いてあかんべーをした。この新しい登場者の方が本当のことを言っているらしい。沼田は三人に抱きかかえられるようにして離れの廊下を今来た道の方を戻っていった。
「ここの事務長だと言っていませんでしたか。知らない人が来るといつもそうなんです。少し麻薬中毒が進行してああなってしまったんです。」
「ところで、あなた方は。失礼しました。ここで主任医師を務めている山本と言います。」
「あの人の案内でここまで来てしまったんですが、私は日芸テレビの村上弘明と言います。この三人は取材の助手です。」
三人は山本に向かって軽く会釈した。
「その日芸テレビさんが何故ここに。私はあなた方が来られるということは聞いていませんでしたが。」
「事前に連絡はしなかったんですが数ヶ月前にこの病院で殺人事件がありましたね。松田政男というここの患者が不審な死を遂げたという、その事件のことを調べるために訪問させてもらったんですが。」
村上弘明は本来のこの病院のゴミの不当投棄問題でなく違う問題が口から出たことが自分でも意外だった。建前としてはこの市の唯一の精神病院である病院の取材に来たと言おうと思っていたのだが。
最初からその問題のことを取り上げると、ことがスムーズにいかないと自分でも判断したのか黙っていることにした。しかしその方に何故自分の興味が強く行っているのか自分でも判断できなかった。それはここの主任医師の山本の方も同じようだった。
「松田さんの事件、あれはもう終わっているんでしょう。警察からもその後なんとも言ってきませんよ。」
山本は明らかに迷惑そうな顔をした。
「とにかく少し待ってください。」
山本は携帯電話を取り出すと片手で電話をかけた。
「もしもし、理事長ですか。今、日芸テレビの方が取材に来ているんですが、ここで亡くなった松田政男さんのことで取材に来ているそうです。あの、なんですか。ええ、ああ、そうです。ええ、ええ、ああ、わかりました。」山本はさかんに相づちを打っていた。電話を耳から離すとまたポケットの中に入れた。
「電話の様子でたぶん察しがついたと思いますが取材は勘弁してくれという話です。」
「今のは誰ですか。」
「理事長です。うちの病院の責任者である理事長がそう申しておりますのでとにかくお帰り願いますか。」
そう言われれば帰るしかなかった。警察のように捜査令状を持っているというわけではない。
********************************************************************************松田政男という人物は相変わらず正体不明だった。今は化学の方の秀才でその得意の化学の分野で大きな儲けになるような発見をして製薬会社にその特許を売って大儲けをした人物だという程度のことしかわからなかった。しかし彼がK病院で死んだことは事実だし、K病院に入院していたことも事実だった。しかし何故そんな化学の秀才がK病院に患者として入院していたのだろう。この疑問を解決するために松田努のところへ村上弘明は再び電話をかけた。しかし結果は前のときと同じだった。またがちゃんと突然に電話は切られたのだ。松田努にとってはそれは無理なことではないかも知れない。兄が突然に誰かに殺され、その犯人も分からず警察も手を引いたとなれば松田努はただベットの中で病気を抱え込んで寝ているしか方法はないのかもしれなかった。村上弘明が日芸テレビのビルから出ると予定がなかったのに妹の吉澤ひとみと出会った。村上弘明は普段の日と変わらないような気がしていたが世間一般の人間から見れば今日は日曜日だったのだ。
第十九回
「何で、こんなところを歩いているんだ。」
「今日は日曜日じゃないの。学校は休みよ。」
「じゃあ、ちょうどうまい具合だな。ひとみもついてくるか。福原豪の家に行くことになったんだ。市役所の人も一緒だよ。市長の許可も得ている。」
吉澤兄弟は市役所の福祉課の門を叩いた。福祉課にK病院の、それも福原豪を名指しで告発文書が何通も届いているという。市の係員が福原豪の家へ行き調査をするそうだ。市の職員の運転する軽自動車の後部座席に二人は乗り込んだ。
「どんな告発文書が市役所に届いているというの。」
「病気でもないのに、強制的に入院させられた、その目的も自分の財産を自由にしようという親戚の差し金だ、福原豪が手数料を取ってそんなことをやっているという内容なんだ。」
「病院の方に何故行かないの。」
「病院の方には詳しい資料が置いていないとK病院の事務局の方から言って来た。患者の細かいプロフィールはみんな福原の自宅にあるそうだ。」
「変な病院ね。」
福原豪の屋敷は市のはずれの二つの小山に挟まれた道を登って行くとあった。この二つの小山も福原豪の所有である。軽乗用車が笹に挟まれた小道をとろとろと登って行くと昔の大きな武家屋敷のような門構えが視界の中に入ってきた。太い枯れた杉の木で作られたまるで古い寺院のような門構えだった。裏口の方に回ると自動車で母屋に横付けできる駐車場があるのかも知れなかったが、市の職員も吉澤たちもその場所を知らなかったので正門の前で車をとめて歩きで屋敷の中に入ることにした。屋敷の庭の中で三、四才の子供が水鉄砲で遊んでいる。福原豪の孫かも知れない。門のところから母屋の玄関まではかなりの距離がある。市職員はずんずん歩いて行くので村上弘明とひとみの二人もそのあとをついて行く。母屋に着くと意外や意外中からは福原豪本人が出てきた。
「市からやって来ました。」
福原豪は予想した通りというか、地方の名士と言えばもっと鷹揚な貴族的な人物を想像するのが普通なのだが、福原豪の場合は全く違っていた。ぎたぎたと欲望に充満している脂ぎった感じがあった。
「うちの病院のことで何か用があるそうだが、重要な書類は病院ではなく、この屋敷の方に運びこんでいるからな。前に病院に泥棒が入って事務所をひっかきまわされたことがあったんだ。それで用心のためにそうしているわけよ。」
福原豪はぎょろりとした目で村上弘明の方を見て睨んだ。電話で用件はすでに伝えてあったのか旅館のような玄関にはバインダーに挟まれている書類が五、六冊置かれ、持っていって良い状態だった。
「電話で話したとおり、これが今までの入院患者の全記録だ。」
村上弘明はここに来る間中ずっと松田政男のことや、どういう目的かはわからないが不当に正常な人間を病人に仕立て上げてK精神病院に入院させると言った小沼の言葉が耳から離れなかったから思わずそのことが口に出た。
「福原さん、松田政男さんという人をご存知ですよね。病院で不慮の死を遂げた人物です。松田さんはどういう経緯でK病院に入院することになったのですか。」
松田政男の名を聞いたとき福原豪の顔は一瞬こわばった。
「松田政男、わしは細かい経緯は知らない、医者じゃないからな。そこにある記録に細かい経緯はみんな書いてあるだろう。わしは忙しいんだ。これで失敬する。」
そう言って福原豪は屋敷の奥の方にすたすたと歩いて行った。村上弘明ははぐらされた気持ちを抱きながら福原豪の後ろ姿を見送った。
「兄貴、あいつ、きっと何か隠しているわよ。」
「うん。」
村上弘明は吉澤ひとみの方を見て目で合図を送った。市の職員はけげんな顔をしていた。その間中福原豪の秘書らしい人物が二人市役所の調査員の応対をしていた。
「とにかく、この資料を市役所に運びましょう。」
後部座席に乗った村上弘明たちは早速、今押収したばかりの資料に目を通すことにした。前々からK病院や福原豪に関する悪い噂が充満していてその調査を遂行するために協力するという重要な国会議員の力添えがなければこんなことはできなかっただろう。そのための許可証もとってある。村上弘明と吉澤ひとみは数冊あるバインダーの半分づつを見ることにした。もちろん松田政男の入院記録を見るためである。しかしそこには松田政男の入院記録はなかった。二人で二度繰り返して見ても見つからなかった。再び福原豪に電話をかけてもそれが入院記録者の全ての記録だ、自分は全くその資料に手をつけていない。詳しいことは事務局長に聞けの一点張りだった。市役所に戻って来るとK病院から来た不当に入院させられているという訴えを調べに行っていた職員が市役所に戻って来ていた。
「入院患者の訴えを聞いて来ました。これがその写真です。」
村上弘明がその写真を覗き込むとK病院で吉澤たちを案内した火星人が写っていた。名前は大沼と書かれている。その日、村上弘明はひとみを食事に誘った。二人は日芸テレビのそばにある弘明の行きつけのステーキ屋に入った。城の石垣のような壁の一カ所が入り口になっていた。石の壁の殺風景さを中和させるために壁のところどころにはピンク色や黄色の花の鉢植えがつり下げられている。入り口の戸はスイスの山小屋を思わせた。店の中に入ると中にはランプがいくつもつり下げられていてスイスの山小屋のようだった。店の中にはちらほらとしか客はいない。ランプの明かりが妖しくそれらの客たちを照らしている。村上弘明と吉澤ひとみは奥の方に席をとった。
「兄貴とこんなところで食事をするなんて久し振りじゃない。」
「たまにはS高のマドンナである君にも敬意を表して食事に誘うよ。」
「何よ、岬美加さんに会えないからその埋め合わせで私を食事に誘ったんでしょう。」
「妹だからって、頭に来ることを言うな。今晩は浮き世の憂さは忘れて食事をしようね。ひとみちゃん。」
「ふん、兄貴って意外に弱気なんだ。まあ、個人的な話は横に置いておいて、福原豪って思ったとおりの奴だったわね。やっぱり松田政男の資料は渡さなかったし。病院の事務局がどうにかしたんだろう。自分は全く拘わっていないというようなことを言っていたけど、どう見てもあいつは嘘をついているわよ。」
吉澤ひとみは目の前に置いてある水を一口飲んだ。もうすでに料理は注文していた。さらにひとみは言葉を続けた。
「松田政男は病人でもないのに無理矢理入院させられたのよ。それを隠すために松田政男の入院履歴の資料は福原豪が消却してしまったんだわ。きっと彼を無理矢理精神病院に入れて禁治産者にすることはいろいろと利益があるのよ」
「福原豪は大金持ちなんだよ。そんなことをして福原豪に何のうまみがあるというんだい、たとえ、松田政男のことを少し調べた知識から彼が医薬品の特許をとってある医薬品会社に売りつけて大金を手にしているという情報は確からしいことだけどその大金と言っても僕やひとみにとっては大金かも知れないけど福原豪にしてみればはした金にすぎないんじゃないかな。」
「でも、こういうことは、福原豪はこの地方での闇の悪の元締めのようなことをやっているの。それで法を違反して自分たちの目的を果たすために福原豪の力を借りるのよ。その一例として禁治産者にして財産などを自由にしたいと思う相手を病院に強制的に入院させるように頼みに来る悪人がいるとするじゃない、その人間の要求を果たす代わりに福原豪はその人間に恩を売って自分のために利用するのよ。」
「ぐふふふふ。」
村上弘明は思わず笑い出してしまった。
「福原豪はこれから地方の名士から中央政界にうって出ようかという人物だよ。そんなあぶないことをやるはずがないよ」
「この日本だけで二億人の人間がいるのよ。どんな人がいるか、わからないじゃないの。とにかく松田政男は何らかの悪人の奸計によって不当にK精神病院に無理矢理、入院させられたのよ。その辺の事情は弟の松田努のことを調べればわかるんじゃないの」
「それが松田努の方は会ってくれないんだよ。二度ほど電話をかけたんだけどがちゃりと切られてしまって。何しろ警察や裁判所じゃないんだから、何の強制権もないわけだからね。それに松田努に無理強いをして彼が兄のように本当に精神に異常をきたしたら大変だからね。」
二人のテーブルにステーキが運ばれて来た。
「食べよう、食べよう。」
吉澤ひとみが目の前に置かれた湯気をたてじゅうじゅうといっているステーキを見てはしゃいだ。
「おっ、あれは。鈴木薫平じゃないか。」
村上弘明は小声でつぶやいた。
「何でこんなところにいるんだ。」
「兄貴、何見ているのよ。」
鈴木薫平、異色の映画監督として知られている人物だ。東京電気通信養成学校、今はなくなっているがそこを出てしばらく私鉄につとめたあとフランスに渡り、ネオリアリズモの先駆者のルノアールに師事して日本のヌーベルバーグの旗手とよばれた人物だ。娘が労音で働いている。テレビ局にいたとき、今日のトークショーの台本をちらりと見たとき彼の名前が載っていたのを思い出した。それでテレビ局のそばにあるこのステーキ屋に飯を食いに来ているのかと納得した。
「労音って。」
「全国勤労者音楽協議会連絡会議の略。」
村上弘明がひとみに業界の毒にも薬にもならない用語を披瀝したときウェーターが二人のテーブルの方にやって来た。
「村上弘明さんでございますか。」
ウェーターは紙切れのようなものを持っていた。村上弘明はその紙切れを受け取った。ひとみもその紙切れをのぞきこんだ。
{つまらない事に首を突っ込むのはやめろ。この店の天井に釣ってある照明を見ろ、銅製のランプシェードの照明なはずだ。入り口の一番そばにあるそれを見ていろ。}
二人は入り口のそばにある銅製のランプシェードを見た。すると突然、ランプシェードの電気コードが切れて音を立てて床の上に落ちた。そこにいた人間はみな突然のことに立ちつくしてしまった。二人も声をあげる元気もなかった。普通より大きな電球が使われていたが地面に落ちて粉々にくだけた。コードの付け根あたりからコードが切れていてそこに何か電気の機械のようなものがついているのが見えた。村上弘明はこの店に入ってからのことを考えてみた。確かに食事中、電気工事の格好をした作業員が入り口のところで脚立をたてて照明の電気工事をしていた。あの作業員が誰かの回し者というわけか。それが誰かと言えば現在調べている福原豪しかいないだろう。と言うことは福原豪にとって致命的なことを調べているということだろうか。そう思うとこんな妨害は何の問題ではなくかえって松田政男の死に関しては不明朗な部分が多いのだ。これは調査を中断するべきではないと村上弘明は思った。
******************************************************************************
第二十回
松村邦洋は今朝、新聞を読まずに学校に来たので失敗したと思った。少し離れた席に座っている真山誠司に今日の新聞を読んできたかと聞かれたからだ。別に読んでこなかったからといってたいした不都合があるわけではない。質問されたときにほんの少し肩身の狭い思いをするだけなのだが。教室の中ではみんながそれぞれ思い思いのことをやっている。鏡を見ながら髪の毛をとかしている女子生徒、ウォークマンを耳にあてて音楽を聴いている男子生徒、友達同士おしゃべりをしている生徒、もちろん、今日の授業の下読みをしている生徒もいる。滝沢秀明は何をしているかと思い、彼の方を見ると、電卓を出して盛んに何か計算していた。滝沢秀明の机の上には小銭入れが開かれ、小銭が机の上に広げられていた。吉澤ひとみの方を見ると彼女自身が作っている取材のためのメモ帳を開いて何か書き込みをしている。この前のK病院に行ったときの取材を整理しているのだろうかと松村邦洋は思った。何故、今朝の新聞を読んできたほうがよいかと思ったかと言えば一時限目に日本史の児玉京太郎の授業があるからだ。児玉京太郎は五十二才の日本史の教師で、教師をやっているかたわらに郷土史家のようなこともやっている。何度か彼の研究が「関西歴史探訪」という雑誌に掲載されたこともあった。最新の歴史の研究事情などに対しては非常にうるさくて新聞などで新しいおもに古代史などの発見があると必ず授業中聞いてくるのだ。別に答えられないからといってどういうこともないのだが。真山誠司は児玉京太郎が必ず今日一番の授業で古代史の新しい発見についてひとくさり何か言うに違いないと期待した。細身の児玉京太郎が入って来た。細身だが背はあまり高くない。物腰は女性的で声も女性的だ。
「今日の新聞を読んできましたか。たぶん全ての新聞に載っていたと思いますが、三脚銅製円筒の正しい解釈が確立されましたね。」
真山誠司は自分の思ったような展開にやっぱりなったなと思った。児玉京太郎はなおもとくとくとしゃべり続けた。
「三脚銅製円筒の記事を読みましたか。」
真山誠司は今朝読んできたその記事を思い出していた。要するに今までの日本の古代史学会ではそれが製鉄に関する道具なのだろうというのが学会の多数を占める見方だったのだが韓国で全く同じものが見つかってさらにそれの使用法まで書かれた記録までが見つかったのだ。それで今までの定説は全く崩れてしまう。相変わらず児玉京太郎は得々と覆った定説について話している。真山誠司はある計画を持っていた。児玉京太郎の授業が終わると図書館に走っていった。図書館の中に入るとある本を探し始めた。前に見たことのある本だった。図書室の入り口から入って右側にその本はあった。
「あった。あった。」
真山誠司はほくそ笑んだ。
「古代における製造技術。これだ。これだ。」真山誠司はその本を取りだした。真山誠司はある計画を持っていた。その本の中には三脚銅製円筒の古い解釈がのっている。今朝の新聞に載っている研究以前に書かれた本だから当然と言えば当然なのだが。その間違った記述を訂正しようという計画があった。早速、「古代における製造技術」という本を取りだしてその記述を書き直そうとする。その本を取りだして床の上に広げた。するとどういう事だろう。三脚銅製円筒に関する記述は最新の学説に変わっているではないか。そこには以前はこの器具が製鉄の道具だと考えられていたことがあったが、今は韓国から同様なものが発見され、これが祭祀の道具として使われていたことがわかった。と最新の学説が書かれている。おかしな事にその記述はちゃんとした製本印刷によってなされている。つまり誰かがいたずら心で手書きでそれを書いたということではないのだ。本の出版日を見ると第六冊改訂版、そして今日の日付が書かれている。これは一体どうしたことだろうか。こういう事はこれがはじめてではなかった。つい最近だが似たようなことがあった。真山誠司はわけがわからなくなった。ふと、図書館の入り口のあたりに誰かの視線を感じて振り返ると、そこには吉澤ひとみが立っている。真山誠司はあわててその本を棚の中にしまった。
「吉澤さん、なんか、ようか。」
真山誠司は調子の狂った大阪弁で言った。
「あなたにちょつと聞きたいことがあって、こっちで話をしましょうよ。」
吉澤ひとみは外の景色が見える窓側の机の方に真山誠司を誘った。窓の外からは蘇鉄の青い葉が見える。吉澤ひとみから声をかけられるのは初めてである。真山誠司は少し緊張した。図書室は二階にあるので蘇鉄の青い葉の向こうには青空が見える。真山誠司はある期待を持って待っていたがそれがすぐにひとりよがりの空想だということがわかった。
「松田努くんのお兄さんのことは知っているわよね。松田政男さん、松田政男さんもうちの高校の出身なんですってね。」
「ああ、そうや、松田の兄さんの松田政男さんはうちの高校では成功者ってことになっていたんや。何や、知らんけど新しい薬を発明して大きな製薬会社に特許として売ったそうや。画期的な薬だって話やったな。週刊誌にもちろっとその事が載ったみたいやな。」
「それで松村くんから聞いたんだけど化学の時間に松田政男さんの話を聞くために一席開いたんだって。わざわざ化学の授業をつぶして教室で彼の講演会みたいな事をやったそうね。そのときどんなことを話したの。」
「どうやってその発見がなされたのか。どんなところでその研究をしていたか。誰とそれをしていたかなんて事だったと思うけど。詳しい話はみんな忘れてしまったけど。」
「松村くんの話によるとそのときの様子をビデオに撮っていたという話だけど、誰がビデオで撮っていたの。」
「それは俺や、教室の後ろの方でビデオを撮っていたんや。」
「わかったわ。じゃあ、そのビデオを見せてもらえないかしら。」
「あんときの化学の担当の松下先生から頼まれてビデオを撮っていたのやけど。残念やな。あのビデオは俺は今は持っていないわ。確か、校長のところにあったと思ったんやけど。」
真山誠司は自分で撮ったビデオの内容についてはあまり語ろうとしなかった。しかし、そのビデオカセットテープの行き先についてははっきりと覚えているらしく、それは校長のところにあると明言した。これは大きな収穫だ。吉澤ひとみは栗の木団地の自分の家で兄の村上弘明を待っていた。この話を聞いたら兄の弘明はどんな顔をするだろうかと思った。缶ビールも冷やして待っていた。もちろん、松田政男についての重要な情報を手に入れたからである。玄関の靴入れががさごそという音がして兄の村上弘明が帰って来た。
「兄貴、何か、新しい情報をつかんだ。」
ひとみはわざと勿体ぶってたずねた。兄の弘明は成果は上がらないが有意義に調査は進んでいるというような顔をした。実際にはそれは空威張りにすぎないのだろうが。
「主に福原豪がらみで調べているよ。全く煮ても焼いても食えない奴だぜ。今日もあいつのいろいろな噂を聞いて来た。福原豪のことを専門に調べているフリーライターがいるらしいんだが、その人物にそのうち会おうかとも思っている。ひとみがいつか言っていたじゃないか。福原豪は悪の元締めでいろいろ表沙汰にできないような悪いことを肩代わりをしてやっているって。」
「兄貴、あんなことを本当に信じているの。あんなこと、本当に冗談よ。口から出任せ。テレビの時代劇じゃあるまいし、そんなわけがないでしょう。」
「でも、ステーキ屋で見えない相手から脅迫をうけたじゃないか。そこいらの安アパートで潜伏している犯罪者じゃ、あんなことはできないぜ。松田政男はやっぱりあの病院に無理矢理、不当に入院させられたんだよ。何かの理由で強制的に松田政男は不当にK病院に監禁されたんだよ。」
村上弘明は缶ビールを飲んで唇についた泡を手でふきながら言った。
「でも、何で松田政男を監禁するの。別に何の利益もないじゃないの。」
弘明の前に座ったひとみは兄の顔を見ながら言った。
「それが謎なんだよ。それがわかれば全てが解決するさ。でも、松田政男は化学の大変な秀才なんだぜ。若くして製薬会社に自分の発明した新薬の特許を売るほどの男なんだ。きっとそこに鍵があるに違いないよ。」
「兄貴はそこに全てを持っていくのね。」
吉澤ひとみはテープルの上に置いてある福神漬けをひとつまみ口の中に放り込むとぼりぼりとかじった。今晩はカレーライスが夕飯なのだ。カレーと言ってもレトルト食品だが。福神漬けをぼりぼりとかじる姿をS高の吉澤ひとみをマドンナと仰ぐ男子生徒が見たらどう思うだろうか。
「福原豪の噂を聞きたい。」
村上弘明もビールのつまみに福神漬けをぼりぼりとかじった。
「聞きたい、聞きたい。」
「福原豪はやはり中央政界入りを狙っているらしいんだよ。前の政友党の幹事長の宮升宗治に近づいているといううわさなんだ。」
「宮升宗治って。」
そう言われても吉澤ひとみにはさっぱりとわからなかった。そういう名前は聞いたことがあることにはあるのだが。
「今の政権を執っているのが政友党、幹事長というのはそこの大番頭みたいな人のことだよ。この前、選挙をやったじゃない。隣の県に宮升の一の子分が出馬したんだけど、大部、資金面で福原が応援していたみたいなんだな、何でそんな大金が融通できたのか。大阪の七不思議の一つなんだ。」
「別に、そんなこと不思議でもなんでもないじゃない。福原豪は大金持ちなんでしょう。」
「確かに福原豪は大金持ちだよ。資産としてはね。資産というのは札束や金じゃないわけだよ。すぐに換金はできない。山や畑や土地だもん。もちろん、書画や骨董もあるだろうけど、すぐにはお金にかえられないわけだよ。その金をどうやって融通したのかというのが謎なんだよ。さっきいった福原豪を調べているフリーのライターがいるって言ったじゃないか。そいつもきっとそのことを調べていると思うんだ。その一端だけでも教えてもらうよ。」
「福原豪はそんなに中央政界に進出しようとやっきになっているんだ。でも、兄貴、七不思議ってあとは何よ。」
「ひとみが何でマドンナって言われているかってことだよ。」
「何よ。うるさいわねぇ。兄貴だからって、私をからかうと承知しないわよ。わかったわ。兄貴、岬さんに会えないから欲求不満なんでしょう。」
「うるさいなあ。」
今度は村上弘明の方が閉口した。東京に残して来たかつての恋人、岬の名前を出されるのが村上弘明には何よりもつらいのだ。吉澤ひとみも少し言い過ぎたかも知れないと反省した。そこで少し声音を変えて、まるで弘明の恋人のように話しかけた。
「今日、学校でいい情報を得て来たのよ。前に松村くんが松田のお兄さんがうちの高校に来て講演のようなことをやって行ったと言っていたじゃない。そのことは本当だったのよ。私は知らなかったんだけど松田政男はわが母校ではけっこう、成功者として知られていて、それでうちの高校で化学の時間に講演みたいなことをしていったんですって。同じクラスに真山誠司という生徒がいるんだけど、その生徒のお兄さんが化学の担当の先生にたのまれて、そのときの講演をビデオテープに撮っていたんですって。」
村上弘明は目を丸くした。
「本当。」
「本当です。」
「そのテープを真山のお兄さんが持っているのかい。」
「残念でした。そのテープは校長先生が押収して校長室の戸棚の中に入っているそうよ。」
「じゃあ、ひとみの高校の校長先生に頼んで、そのビデオテープを見せて貰えば、松田政男のぼやけていた部分はだいぶはっきりとするんだ。校長先生の自宅の電話番号は。」
吉澤ひとみは自分の部屋へ行くと学校関係者の住所録を村上弘明のいるダイニングの方へ持って行った。ダイニングのテーブルの上でその本を開くと、職員名簿録の後ろの方にS高の校長の住所氏名電話番号が載っていた。
「ここよ、ここ。これが校長の電話番号よ。」
吉澤ひとみは校長の家の電話番号を指で指し示した。
「真山くんの話によるとそのビデオテープが校長のいる応接室にあるのは確実だと言っているから。そのビデオテープさえあれば松田政男の実像ははっきりするに違いないわ。つい最近も真山くんは校長室に掃除に入ったとき、そのビデオテープが応接室の戸棚に入っていたのを見たんですって。」
「そうか、わが優秀な助手くんの、お手柄だな。今日から君を小林少年と呼ぶか。」
「兄貴、ぶっているわね。それじゃあ、まるで兄貴が明智小五郎みたいじゃないの。」
「明智小五郎みたいな名推理とはいかないけど、相手は怪人二十面相みたいな、すごい奴かも知れないよ。あははは。」
「何よ、二十世紀も終わろうとしているこの時期に芝居がかりみたいなことを言っているの。電話よ。電話。」
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S高の校長、大木章は風呂から上がって自慢の家の廊下を夕涼みしながら歩いていた。大木章は親が地主をしていたので住んでいる家も風格があって大きかった。昭和三十年頃に建てられた和風の数寄屋造りのような豪邸だった。昔に建てられた家だったが、未だに雨漏り一つしないぐらいの立派な作りで杉がところどころにつかわれている、現代の部品を工場で作っているような家とはわけが違っていた。風呂から上がって晩酌をするのが日課になっていた。廊下を歩くと庭の木が大木章の目を楽しませた。銭湯の内庭のような風情もある。大木章は廊下を歩きながら詩吟を唸った。今週の日曜日には詩吟の会で飛騨の高山に旅行に行くことを楽しみにしている。校長と言っても十人十色で、みな違った愉しみを持っている。中にはキャバレーが何よりも好きな人間もいる。極端に柔らかい方に走る人間もいるのだ。そしてその一方では、堅い方では茶道を趣味にしているものもいる。大木章はその中間ではないかと自分のことを思っている。そして何よりもこの古風な数寄屋造りのような家の主には詩吟のような趣味があっているのではないかと思っている。そして今週の日曜には詩吟の会で飛騨の高山に旅行に行くことになつている。そこで彼の属している詩吟の組織の大会があるのだ。その大会のことよりも飛騨の高山を旅行できるということが楽しみだった。江戸時代から続く町並み、からくり人形、それを乗せた山車、緑に囲まれた町、きれいな川の流れ、その川にかかる木製の橋、そこへ行く電車の旅行も楽しみだった。ずっと以前に一度、行ったことがあるのだが山間の線路を抜けていく電車の姿が目に浮かんだ。これほど今度の飛騨の高山行きを楽しみにしているのはそれなりの理由があった。つい二週間前にひと騒動が持ち上がっていた。それがやっと解決したのだ。大木章が雪見障子のある座敷に行くと妻が晩酌の用意をしておいたので座卓の上にはビールと枝豆、冷や奴、餃子がのっていた。餃子は少し異彩を放っていたが雪見障子のある家などそうないだろう。障子を開け放して庭を見ながら冷や奴の固まりをくずしていると妻が入って来た。
「高山へ行くとき持って行くボストンバックは紺色のでいいかしら。」
「うす茶色の東京での研修に持って行ったのがあっただろう。あれの方がいいだろう。」
「だめですよ。あれは薫が赤ちゃんのものを入れるのに丁度よいと言ってもって行ってしまいましたからね。」
「お前、何でもあげるんだなあ。自分の家の稼ぎで買わせろよ。」
「赤ちゃんが産まれて何かと物いりなんでしょう。そんなことを言うなら上沼くんに使ったお金のことを私も言いますよ。」
「ばか、あんな事を本当に信じているのか。あんなのはあいつらが勝手にに考え出して言っていることだ。」
大木章はたちまち不愉快になった。
「もう、全く、何を言っているのだ。」
大木章は枝豆のへたを強く前歯で咬んだ。大木章は少しだけ自分の地位を危なくさせることをやってしまったのだ。上沼幸平という十五才の少年がいた。彼は中学三年生だったがほかの中学三年生と違うところは卓球がずば抜けてうまいことだった。同じ年の少年ではほとんど勝負にならなかった。彼の通っている中学の彼の担任と大木章は知り合いだった。大木章はその天才卓球少年を自分の高校に入れたいと思った。担任と知り合いでなければほとんどそんな考えも生じなかっただろう。ある日、卓球少年、その担任、大木章とで会食を持った。その席でS高の校長、大木章は上沼幸平を自分の高校に入れたいこと、そして入れるための便宜をはかるようなことを言った。仮にもS高校は公立高校である。校長の一存でそんなことが実現するわけがなかった。それがどういうわけか、外部にもれたのである。会食をした店でS高の父母が働いていたとも、大木章が酔った勢いでどこかでそれをもらしたともいろいろなことが言われていた。しかし、それが外部にもれたのは事実である。それを日芸テレビがかぎつけ、何しろ、上沼幸平は将来のオリンピック候補だとか、中国に卓球留学させろだとか、いろいろと言われていたので格好のニュースねたになった。日芸テレビが特集を組んでこのことを取り上げたのだった。大木章のところにも取材が来た。適当に口を濁して口裏合わせと言い逃れを用意しておけばよかったのだ。しかし、文部省からの調査が来たときには大木章も青くなった。大木章は興奮のあまり、日芸テレビの記者に自分の持っているかばんを投げつけたほどである。それがどういうわけか、騒ぎが自然に収まってしまった。しかし、そんな事があったから大木章は飛騨高山への旅行が楽しみなのだった。
「電話ですよ。」
玄関から妻の呼ぶ声が聞こえる。
「子機を持って行きましょうか。」
妻は大木章のところに子機を持ってきた。
「もしもし、大木ですが。」
「夜分、すいません。日芸テレビに勤めている村上弘明といいます。」
大木章は日芸テレビと聞いただけであきらかに機嫌が悪くなった。
「日芸テレビさんがどんな用かね。」
村上弘明は機嫌が悪いのを押さえた、かつ警戒心が表れている大木章の声の調子を聞いて、おやっと思ったがかまわず続けた。
「松田政男さんという方をご存知でしょうか。S高校の出身者なんですが、今年の五月二十三日にK精神病院で不審な死を遂げた人物です。警察は自殺という線で捜査をうち切りましたが警察内部でもその判断に疑問を持っている人々が多くいます。私もそれに疑問を持っています。つまり他殺ではないかと疑っています。それで私たち日芸テレビでは松田政男氏のこの事件で番組を作ろうと計画しています。さっきも言いましたように松田政男氏はS高校出身です。それで耳よりな情報を手に入れたんです。松田政男氏が化学の分野で成功を収め、S高校の誇れる卒業生として数年前にS高校の化学の時間に講演を開き、それをビデオカメラに撮っていたということを聞きました。用件というのはそのビデオテープを見せて欲しいということなんです。」
村上弘明は相手が電話口の向こうで黙っているので一気にしゃべった。大木章はなおも沈黙していた。
「校長先生の指示でその講演の様子をビデオテープに撮っていたのではありませんか。」
「今、何時だと思っているんだ。日芸テレビさん。私は教育者です。学校の内部のことを興味本位で嗅ぎ回っているあなた方に教える必要なんてないじゃありませんか。」
村上弘明はつい最近の卓球少年に関してのS高の校長と日芸テレビとの軋轢を全く知らなかった。何故、急に大木章が怒り出したのか、わからない村上弘明は報道関係の仕事をするものとしては不用心のそしりを免れ得ないだろう。しかし、村上弘明はやはり何故、大木章が怒っているのかわからなかつた。ただ、単に報道機関に対する警戒心から、つっけんどうな態度をとつているのか、それとも急に電話をかけたことに対して起こっているのか、どちらかだろうと思った。しかし、実際は、卓球少年の件に関して、職務上の責任をとらされる直前まで行ったのだ。大木章は日芸テレビに対して怒り心頭に発していたのだ。電話口の向こうは全くの沈黙の状態だった。彼のそばにいれば彼のうなり声が聞こえたかも知れない。
「もしもし、聞こえていますか。こんな夜中に電話をかけたのは申し訳ありませんが、改めて、明日、S高校にお伺いしていいでしょうね。もしもし、聞こえませんか。あの、実は、私の妹がS高校に通っているんですが。」
そこで初めて大木章は返事をした。
「君の妹がうちの高校に通っていようがどうしようが関係ないじゃないか。君にはもっと言いたいことがあるが、電話じゃ、しようがないから、とにかく切らせてもらうよ。」
電話口の向こうでがちゃりと電話の切れる音が聞こえた。
「`````」
「畜生、何て奴だ。あれでも教育者か。」
そのとき玄関の呼び鈴の鳴る音がした。
「ひとみ、誰か、来たぞ。」
村上弘明は食堂の方にいる妹を呼んだ。大木章の怒りが弘明に伝染していた。
「兄貴、何を怒っているのよ。うちの校長に電話をかけたの。ちょっと待っていてね。玄関に誰か、来ているの。」
苦虫を噛みつぶしたような顔をして電話の前に座っている村上弘明を後目にひとみは玄関に出て行った。
「こんばんわ。」
「こんばんわ。」
玄関には同時に二人の声が聞こえた。そこには松村邦洋と滝沢秀明の二人が立っていた。
二人は二人とも手提げかばんのようなものを持っている。手提げかばんの口からは大きなはさみやのりのようなものが見えている。
「二人ともどうしたのよ。」
「何や、うちに来てくれって言っていたのは吉澤さんやないか。学校新聞のレイアウトを一緒に考えようと言ったやないか。」
奥の方から缶ビールを片手にのれん越しに村上弘明がのっそりと顔を出した。
「おじゃましています。」
松村邦洋も滝沢秀明もひとみの兄が朝のテレビでときおり顔を出していることを知っている。その声の調子には多少の尊敬がこもっていた。
「なーに、今日は新聞のレイアウトをやるんだって、わからないことがあったら何で聞いて。こう見えても社会学を専攻して卒論に新聞を取り上げたこともあるんだから。」
村上弘明は妹の友達にあきらかに興味を持っていた。というより、妹と彼らの間の関係に興味を持っていた。まさか、彼らとの間でキスなんかはやっていないだろうが、そんな兄をひとみはうとましく思っている様子もなくはなかった。
「さっき、うちの校長に兄貴、電話をかけたのよ。」
「何故ですか。」
滝沢秀明が杓子定規にたずねた。
「松田政男のことよ。松村くんが松田政男さんがうちの高校で講演会のようなことを開いたと言っていたじゃない。それでその様子をビデオカメラで撮っていたという真山誠司くんに聞いたのよ。そうしたら、確かに、その講演の内容をビデオに撮ったって。でも、それは校長先生が引き取って校長室の応接間の戸棚の中にしまわれているって教えてくれたのよ。真山くんもそのテープが確かにそこにあることを確認しているって。それで兄貴はそのテープを借りるために大木校長のところに電話をかけたのよ。」
「ええっ。」
松村邦洋は素っ頓狂な声をあげた。
「それはまずいがな。」「何がまずいのよ。」
吉澤ひとみが松村邦洋に問いただした。
「大木校長はがちゃんと電話を切ったよ。」
「そうでしょう。」
松村邦洋の口調は新しく修行に入ってきた小坊主に住職の話をしている古株の小坊主のようだった。
「上沼幸平っていう中学生を知っていますか。大阪では名前の知られた中学生なんですが。」
松村邦洋は事情通らしい口振りで話した。
「そいつは卓球の天才で将来のオリンピック候補なんです。どういうわけか、その天才卓球少年とうちの校長が接点があって、そいつをうちの高校に引っ張ろうとしていたのや。しかし、うちの高校は公立やろ。校長がいくら頑張ってもそいつをうちの高校に入れるような権限はないわけや。でも飲み屋で酔った勢いか何かで、上沼幸平をうちの高校に入れるとか、何とか、体言壮語していたら、うちのPTAか何かに聞かれたんやな。それがテレビ局に伝わって、テレビ局の方では上沼幸平がらみで特別番組を組むわ、校長を追い回すわ、そのうち文部省の役人の耳に入って、うちの校長は事情聴取をうけるわ、で何もかも、てんやわんやになってしまったんや。それもみんな日芸テレビのおかげということで、うちの校長は日芸テレビが親のかたきというわけやな。だから、日芸テレビの人間がうちの校長に接するなんてもってのほかなんや。」
「そういうことだったのか。」
村上弘明はようやく事情が飲み込めた。それで、校長の大木は何も言わずに電話をがちゃりと切ってしまったのか。しかし、そうすると、これほど便利な講演テープが手に入らないということなのか。そうなると手間のかかることをやって松田政男の周囲を調べていくほかない。
「テープは手に入りますよ。」
突然今まで黙っていた滝沢秀明が太平楽に言って松村邦洋の顔を見てうなずいた。
「なあ。」
「夜中に忍び込んで、持って来ちゃえばいいんですよ。」
「松村くん、それってどろぼうじゃないの。」
「校長が見せてくれないのなら仕方ないやないか。」
「でも、どうやって忍び込んじゃうの。」
村上弘明はかなり乗り気だった。
「うちは夜中に警備員を雇っているわけじゃないんです。どこかの警備会社が自動車でパトロールに来て外側をちよっと見て回るだけなんです。学校の中の警備は主に機械でやっているんですが、今度の土曜日の夜にその機械の交換をやることになっていて日曜日は一日中、警備の機械は役に立たなくなっているんです。だから、今度の日曜日の夜に忍び込めば校内には誰もいないし、防犯の機械が作動するおそれもないんです。校長室の戸棚の扉には全く鍵がかかっていないというし。」
「よし、決めた。忍び込んでそのテープの内容を調べよう。」
「兄貴、そんなにすぐにそんなことをするのを決めてもいいの。」
「人が一人死んでいる殺人事件の調査だよ。それくらいの事をやってもいいさ。」
しかし、さすがにビデオテープそのものを持って来れば夜中に校長室に賊が忍び込んだことがわかってしまう。
そこでビデオカメラを持って行ってそのテープを録画してくることに決めた。
土曜日の夜にS高校のそばにある神社に四人は集まった。四人は四人とも目立たない格好をしている。夜中に金庫破りで忍び込むどろぼうのようなカーキ色のような格好をしている。村上弘明は背中にリュクサックを背負ってその中にはデジィタルビデオカメラが入っている。昨日はそのカメラの電池の充電をやった。本番でカメラが回らなかったら目も当てられない。神社の境内には誰もいなかつた。この神社はS高校の校舎の南側に塀を一枚隔てて建っている。そしてS高校の校舎は敷地の南側に建っている。つまり神社の境内から塀をよじ登って高校側に出れば校舎の裏側に出る。さらに都合のいいことには神社の高校に接している方は雑木がたくさん立っていて、木の根元には下草がたくさん生えているのでヤブ蚊が多くてよほどの暇人でなければこんなところには来なかった。まして真夜中である。警官でさえこんなところは通らなかった。
「いい具合やな。」
モスグリーンのTシャツを着た松村邦洋がGパンを履いている吉澤ひとみの方を振り返って言った。まわりには人っ子一人いなかった。
「早く忍び込みましょうよ。ヤブ蚊に食われちゃうわ。」
吉澤ひとみは二の腕のあたりを蚊に食われたのか、腕にピンク色に点がついていてそこを掻いている。
「滝沢、校長室の物置の裏の窓ガラスの鍵を開けておいたんやな。」
「もちろん、ばっちりだよ。」
校長室の一郭に囲いがしてあってそこに普段使われないような大型の業務用掃除機や電気式の床洗い機がしまわれていた。特別に汚れた床を洗うという口実で昼間、滝沢秀明は校長室に入り、その物置から床洗い機を取りだした。そしてそれを返すとき囲いの中の窓の鍵をはずしておいたのだ。まず、再び近日中に誰かによってその窓ガラスが閉められるということはないだろう。塀と言っても大人の胸の高さぐらいしかない。その上金網だったので四人とも金網に足をかけて塀を乗り越えた。四人は校舎の裏側に立った。校舎の裏側のちょうど校長室の前だった。校長室の中は当然、真っ暗だった。今頃、校長の大木章は何をしているのだろうか。たぶんもう眠っているだろう。もちろん、この四人が校長室に忍び込んでいることも知らずに。
「開いてる。開いてる。」
滝沢秀明が昼間あけておいた窓ガラスを細めにあけて鍵がかかっていないことを確認した。四人はその窓から校長室に侵入した。校長室に入って電気のスイッチを吉澤ひとみが入れようとするのを滝沢秀明が制した。
「待って、部屋の中が明るくなると外の誰かにわかってしまうから。」
滝沢秀明は校長室のカーテンをしめた。
「滝沢くん、こんな薄いカーテンではこの部屋の明かりをつけたら外に光りが漏れてしまって、ここに僕たちがいることがわかってしまうだろう。」
松村邦洋が自分のリュックサックのふたをごそごそといじって何かを取り出した。
「こうなるだろうと思って用意してきたものがあるんや。」
松村邦洋はリュックの中から乾電池式のランタンを取りだしてスイッチを入れた。部屋の中はぼんやりと明るくなり、薄いカーテンだったが光が外に漏れる心配はなかった。
「私たちだって懐中電灯ぐらいは持って来ているのよ。」
「それより、早くビデオを見よう。」
村上弘明はこの部屋は初めてだったが、他の三人はある程度、この部屋の間取りや置いてあるものを知っていた。
「こっちや。」
松村邦洋が大きな柱時計の横に置いてある戸棚のところへ行った。
戸棚のところには確かにビデオカセットが何本も置かれている。主に学校行事を記録したものが多かったがその間に松田政男氏講演記録とタイトルがつけられたビデオカセットがそれらの間に倒れて置かれている。
「これや、これや。」
松村邦洋は戸棚の中からビテオカセットを取りだした。懐中電灯の明かりに照らされて、松田政男講演記録の文字があやしく光っている。
「早速、見よう。」
「テレビは、あっ、あそこやったな。」
隣の部屋が応接室になっていて、そこにテレビとビデオデッキも置いてあった。村上弘明はリュックの中からビデオカメラを取りだした。今日のために使用説明書を読んだり、バッテリーを充電したりしておいたのだ。ビデオデッキに接続するコードも説明書を読んで用意しておいた。
「つなごう、つなごう。」
松村邦洋と滝沢秀明の協力を得て、何とかビデオカメラとビデオデッキを接続し終えた。
「じゃあ、ダビングを始めます。ダビングと同時にテレビの方も見えるはず。」
松村邦洋がカセットをビデオデッキに挿入した。横に置いてあるビデオカメラの録画中を示す赤い表示ランプが点灯した。テレビの方ににラスターが流れていたが、やがて映像と音声が流れ始めた。村上弘明も写真で見たことのある松田政男がテレビの中に出て来た。写真で見ただけではあまりよくわからなかつたのだが思ったより背が低くて猫背だった。
「今度、蓮海先生に言われて、ここで自分の高校時代のこととか、自分の開発した化学薬品のことを話すことになった松田政男です。」
松田政男の話しぶりはよどみなくというわけにはいかなかった。あまり人前で話すのは慣れていないようだった。
「あっ、あっ、もちろん、僕はこの高校の出身です。高校のときから化学が好きでした。」
四人は無言でテレビを見ていた。ブラウン管の光が四人の顔を照らした。それから松田政男の話は自分が発明して製薬会社に売りつけた薬の話になったが、専門的な話なので詳しくは話さなかったがどうも筋肉と老化に関する薬の話らしかった。それに自分の開発した高性能な油の話もした。そしてその後も松田政男はそういう研究をやっているらしかった。その話のあとで松田政男の話を聞いていた生徒の一人が質問した。
「僕もどちらかと言うと化学が好きなんですが、松田さんは最初、どんな会社か研究所に勤めたのですか。」
その質問には松田政男はあやふやにしか答えなかった。話を違う方向に持って行った。
「ちょうど、同じぐらいの年の、同じ目的や、同じ傾向の友達を持つことは大切なことだと思います。」
松田政男の答えは質問の答えには全くなっていなかった。
「僕にもそんな人間がいます。僕と同い年の人間なんですが、名前を矢崎泉と言います。」
その言葉で彼の講演は終わっていた。時間にして四十分、具体的なことはあまり出てこなかったので収穫がないようだが、重要なことがいくつか出てきた。
「松田政男の開発した新薬って人間の老化と筋肉に関することだつたんだ。」
「それに具体的な名前が出てきたじゃないか。矢崎泉って。」
「女の子の名前みたいね。女の子なのかしら。」
「いいや、男の子だろう。」
「男の子という言い方もおかしいんじゃないの。男の人よ。きっと。」
「それより、何故、松田政男は最初に入った会社、それはたぶん化学に関した会社だろうが、そこのことを言わなかったんだろう。」
「きっと、そこで何かがあったのよ。たとえば自分が売って儲けた新薬にしてもその会社に雛形があって、それをちょっと変えただけで自分で発明してどこかの製薬会社に売りつけたものだから、都合が悪くて何も言えないのよ。」
「とにかく、具体的に名前が出ただけでも大収穫だ。矢崎泉、覚えておこう。」
しかし、実際は覚えておくだけではない。矢崎泉から調査を始めなければならなかった。四人はこのカセットテープの戦利品を手にして誰もいない深夜の校長室を後にした。もちろん、校長の大木章が翌朝やって来ても昨日の夜にこの四人が校長室に忍び込んで松田政男の講演のテープをダビングしたなどということは知るはずがないだろう。次の日、吉澤ひとみたちは学校があるのでこのテープから得た情報から松田政男の事件を調べることはできなかったが、村上弘明の方はK病院のごみ問題を隠れ蓑にして調査を続けることができるのだった。矢崎泉、この名前が手がかりだった。しかし、意外と早くこのてがかりは解明された。電話帳を調べると矢崎泉の名前がのっていたのだ。すぐに電話をかけた。
「もしもし、矢崎さんのお宅ですか。」
「申し訳ありません。矢崎は今、アメリカに行っています。」
「この電話番号でよろしいんですね。」
「ええ、ちょっと、待ってください。」
最初に電話に出たのは男の声だった。すぐに女の声に電話が変わった。
「もしもし、矢崎の家の留守を預かっているものなんですが、矢崎がアメリカに行っていたのは事実なんですが、つい二日前に日本に戻って来ていまして、明日、うちにも、戻ってくると思います。何なら、携帯電話の番号を教えましょうか。」
村上弘明はその女から矢崎泉の携帯の電話番号を教わった。矢崎泉はアメリカに行っていたのだ。きっと彼も化学の仕事をいかしてアメリカに行ったのかも知れない。講演の中で松田が矢崎を同じような仕事をしている仲間と位置づけているからだ。そうなると矢崎泉は松田政男に関してもっといろいろなことを終えてくれるかも知れない。教えて貰った矢崎の電話番号をかけると今度は矢崎本人が出て来た。
「日芸テレビさんですか。日芸テレビさんがどんな用ですか。」
電話に出た矢崎の声にはとまどいの背後に何かしらの不安な調子があった。矢崎の精神状態が不安定なのは彼自身の現在の生活、もしくはそれ以前の生活に何か人に知られたくないものを擁しているからかも知れなかった。
「日芸テレビの村上弘明と言います。ディレクターとリポーターを兼務して、報道番組を作っています。アメリカにいらっしゃったようなのでご存知ないかも知れませんが。」
「日芸テレビさんが、一体、僕に何の用なのですか。僕は数年間、アメリカに行っていたので日本のことはあまり、知らないのですが。」
あきらかに矢崎の言い方には迷惑だという調子があった。
「松田政男さんのことをうちの番組で調べているのです。K病院で不審な死を遂げた人物です。警察では自殺という線で落ち着いているのですが、そのことについては私たちは疑問を持っています。彼のことを調べていくうちに、彼の生前の姿が映っているビデオテープを発見しました。その中で松田さんは自分の過去を語っているのですが、協力しあえる、理解しあえる仕事上の友人として、あなたの名前を挙げているのです。それであなたにお会いしていろいろとお話をおうかがいしたいのですが。お会いしていただけますか。」
電話の向こうの矢崎泉は思い悩んでいるようだった。しばらく沈黙が続いたのち、矢崎泉は何か、決心したのか、電話口の向こうからまた声が聞こえてきた。
「キンダーランドを知っていますか。」
キンダーランドは大阪市内にある私鉄の経営する大型の娯楽施設だった。
「そこで会いましょう。今から三十分ぐらいでそこに行くことができると思いますから、十時半にキンダーランドの入り口のところで待っていてください。」
村上弘明は地下鉄を乗り継いでそこに着いた。キンダーランドの正門入場口の方に着くとそれらしい三十代くらいの男性が入場口の横の方にいた。子供連れの家族客か若い恋人同士ばかりだったので矢崎の姿はすぐにわかった。
「とにかく、中に入って話しをしましょう。」
矢崎泉の方から言ってきた。二人で入場券を買い、中に入るとこども連れの親子でいっぱいだった。大きなドームの中に水をいっぱいたたえたプールがあってその中に幽霊船を浮かべているというアトラクションの横にある赤煉瓦の壁の上に麦藁屋根を載せた南米の家の形をした喫茶店の中に二人は入った。セルフサービスなので二人はカウンターのところに行ってオレンジジュースを買い、壁側の席に座った。
「何故、私の名前が出てきたのですか。」
矢崎泉はためすような表情で彼に聞いた。
「松田政男さんが、自分の母校であるK高校で講演のようなことをおこなったのです。その様子がビデオテープに撮ってあって、その中であなたのことを信頼できる、有能な友達だと言っていたからです。もちろん、あなたは松田政男さんのことを知っていますよね。」
矢崎泉はうなずいた。
「そもそもどこであなたは松田政男さんと知り合ったのですか。」
矢崎泉はコップの中のオレンジジュースを一口飲んだ。南の島の民家をかたどった喫茶店の横では家族連れが楽しげに歩いている。不審な死の調査をここでやっていることは不思議な対称だった。
「このことは誰にも言わないでもらえますか。」
矢崎泉は思い悩んでいたことが少し吹っ切れたように話す気になっていた。
「今は失いたくないものがたくさん、あります。アメリカでの研究者としての地位も手に入れました。」
「家庭もですか。」
村上弘明は自分の身に引き替えていった。
「婚約者もいます。」
村上弘明の想像したとおりだった。
「彼女は私の過去のことなど何も知りません。」
「今の婚約者に知られたくない過去をお持ちで。」
矢崎泉の顔に苦渋の色が走った。
「私はあせっていました。早く、地位や業績をあげたいと、それよりも何よりも私は金が必要でした。ちょうどその頃、実家が手形詐欺にあって経済的にどん底の状態にあったのです。」
「別に犯罪に手を染めていたというわけではないんでしょう。」
「私が直接、犯罪に加担したというわけではないのですが。」
矢崎泉はまだ具体的な話にまで及んでこなかった。まだ話ずらいことがあるのかも知れない。
「具体的にはどんな場所で松田政男さんと出会ったのですか。」
「ええ、そのことをこれからお話します。私はやはり化学を専攻していました。洋々たる未来が約束されていると信じていました。大学院を出た時点で就職口はいくらでもあったのです。しかし、今、お話したように、実家が手形詐欺にあって私の将来に暗雲が立ちこめてきたんです。できれば私は研究を続けて海外に留学したいと思っていました。しかしその夢が危うくなりました。暗澹たる気持ちで町を歩いていると突然見知らぬ男に声をかけられました。
「矢崎さんですか。お宅に何度も電話をかけたのですが、電話に誰も出てこられないのであなたに直接会おうと思いまして。」
その男の物腰はひどく柔らかでした。」
両親の手から離れた五、六才の子供がおもちゃの魔法の杖を振り回しながら村上弘明のテーブルの横を通り過ぎた。
「その男に連れられてその男について行く事にしました。初めて会った人物でしたが、化学の知識にはかなり深いものがあって、私を何らかの研究で協力してくれればかなりの報酬を約束してくれるという話でしたから。何よりも私は今いったような理由で経済的に困っていましたし、その男が化学者の知識としても信用できるものを持っていたのでその話にのることにしたのです。その男につれられて行った場所は京都競馬場のそばにあるセメント工場の隣にあるビルでした。一見なんの変哲もないビルでしたがその中には最新の化学分析装置や反応機械がところ狭しと並べられていてまるでどこかの研究所のようでした。実際にそこは研究所だったのですが。そこで働こうと思ったときから私の銀行口座には信じられないくらいの大金が振り込まれていました。そこには私のような境遇の若者がたくさんいました。」
村上弘明は矢崎泉のその話を聞いてあきらかにうさんくさいものを感じた。就職したての若者にそんな大金を支給するなんてあきらかにおかしい。矢崎泉もそんな吉澤の印象を感じとっているようだった。
「私も何かおかしいという印象は感じていました。しかし、大金を必要としていたに目の前に金をつまれ、私が願っていた化学の職場についたので、私は自分自身のその会社に対する疑念は自分の心のどこかに押し隠してしまいました。」
「その研究所のようなところで何をやっていたのですか。」
「何か大きなプロジェクトがあってその部分部分をうけもたらされていくつかの化学物質の合成をやっていました。」
「その大きなプロジェクトというのがどんなものなのかは、わからなかったのですか。」
「いいえ。」
矢崎泉は沈黙した。はっきりとわかつていたのか、どうなのかは吉澤にはわからなかつたがそのまま、矢崎のいうことを額面どおりにうけとることはできなかった。
「とにかくそこで私は松田政男に出会いました。」
「じゃあ、松田政男さんも同じようなことをやっていたのですね。」
「そうです。」
「松田政男さんはどんなことを言っていましたか。」
「彼は人間の生理学に関したことにも興味を持っていたようです。しかし個人的なことはお互いにあまり話しませんでした。なるべくここで早くに実際的な経験をつんで私の方はアメリカに渡ろうと思っていましたし、彼も何か自分なりの計画を持っていたのでしょうが、そのことについては何も話しませんでしたから。」
「まだ、その研究所のような場所はあるのですか。」
「ありません。五年ほど前にその場所に行ったことがあるのですがビルの中は何もなくなっていてほかの会社の倉庫のようになつていました。」
「あなたはすぐそこをやめたのですか。何年ぐらいそこで働いていたのですか。」
「二年くらいでしょうか。それからアメリカに渡りました。松田さんは私がそこをやめたとき、まだそこにいました。」
いったい若い研究者に破格の待遇で何を研究させていたのだろうか。吉澤は化学者ではなかったからそのあたりのことはさっぱりとわからなかったが、何かあやしいものを感じさせた。
「じゃあ、松田さんが新しい化学薬品を開発して、その特許と製薬会社に売りつけたことによって大儲けをしたということはご存知ないんですね。」
「いえ、知っています。」
「その化学薬品の開発はその研究所に松田さんが勤めていたときになされたものではないのですか。そうなるとその以前、勤めていた会社のこともこの前の松田さんの事件に関係していると言わざるを得ないんですが。」
村上弘明はある仮説を立てていた。それによると松田弘明はその研究所で開発した成果を持ち逃げしたのだ。それでその研究所の誰かに殺されたという可能性もある。
「もし、そういうことがあったとしても彼は私がそこを出てから何年かはそこにいたのでそのあたりのことははっきりとはわかりません。」
松田政男はどんな研究をしていたのだろう。村上弘明は化学のことがさっぱりとわからなかつたのでそのことが残念だった。二人が座っている喫茶店の道を隔てた向こうにある海賊船のアトラクションの施設の上の方は大樹に覆われているのだがそこにとまっている烏が大きな鳴き声をあげたので吉澤はびっくりとした。
「じゃあ、そこで別れたきり、松田政男さんには会っていないのですね。」
「いいえ、会いました。」
何気なく言った矢崎泉の言葉に村上弘明はびっくりした。さらに矢崎の言葉が吉澤を驚かせた。
「いつ、お会いになられたのですか。」
「二年ぐらい前の七月だったと思います。」
二年年前の七月といつたら松田政男がK病院に収監される一年半ぐらい前だ。
それから松田政男はK病院に入ってその三ヶ月後に怪死をとげている。
「そのときの様子はどうだったんですか。」
村上弘明は身を乗り出して尋ねた。
「すごく、意気揚々としていました。具体的なことは何もいいませんでしたが、今度、学会が大騒ぎをするような学説を発表するというようなことをほのめかしていました。具体的なことは何も言いませんでしたが。」
「じゃあ、さっぱり何のことなのかはわからないのですね。」
「ええ、しかし生理学的なことに関しているのではないでしょうか。」
「じやあ、あなたと松田さんが最初に出会ったその研究所の住所を教えてくれますか。」
矢崎泉は住所は忘れてしまったが、どの駅で降りるのか、隣にあったセメント工場の名前を言った。矢崎泉は明日はアメリカに立つといった。
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(小見出し)松田
栗の木団地前駅のそばにある洋菓子屋でシュークリームを買ってから吉澤ひとみは自宅に向かった。地方都市の駅前にある洋菓子屋ではあったがここの店主の腕はよく、吉澤ひとみも弘明もここの洋菓子はなかなかお気に入りだった。それでそこのシュウクリームを買ってかえってひとみは弘明と一緒に食べようと思った。団地の一階の集合ポストを覗くと吉澤の家のポストの中にラシャ紙の封筒が入っている。ステンレス製のふたをあけて封筒を取り出すと手紙が入っているにしては少し重かった。宛名には村上弘明様宛になっている。ひとみはその封筒をかばんの中に放り込んだ。ひとみがコーヒーカップに紅茶をいれて待っていると村上弘明が帰ってきた。今日もどこかK病院のことを調べに大阪の御堂筋の方に行っていたらしい。弘明の紅茶茶碗の受け皿のはしにひとみは輪切りにしたレモンを置いた。
「兄貴、何か、新しいことがわかった。」
もちろん、松田政男、つまり、K病院に関してのことである。
「K病院の建設資金に関してのことだよ。絶対にやましい金が動いているのに違いないんだ。K病院の件に関しては福原豪が動いているに違いないんだ。それで建設資金の補助がどう市議会の方から出されているのか、それを調べに行ったんだよ。」
「あっ、そうそう、駅前でシュークリームを買ってきたから食べる。」
シュークリームを袋から出すとき、ひとみは下のポストに入っていた郵便のことを思いだした。
「そうだ、それから、下のポストの中に兄貴にあてて、郵便が来ていたわよ。普通の封筒に入っているんだけど、中には手紙は入っていないみたいよ。」
「どれどれ、どんなもの。」
弘明はシュークリームを頬張りながらけげんな顔をしてひとみの方に手を伸ばした。ごく普通の薄茶色の封筒だった。宛名書きには村上弘明様宛になっている。中には手紙が入っていないようだった。それにしては少しだけ重い。五百円玉が一枚くらい入っているのかも知れない。何のときだったか思い出せないが、何か五百円玉を一つ封筒に入れて送られたことがあったのだ。村上弘明はその封筒を破ってみた。すると中からは銀色に輝くクロームメッキされた鍵が出てきた。どこの鍵かはわからなかった。手紙は入っていないと思っていたが中に小さな紙片が入っていてそこには電話番号が書かれている。
「電話番号だよ。」
「どれどれ。」
吉澤ひとみもその紙片をのぞき込んだ。数字の桁数から電話番号だと判断するのが妥当だつた。
「どうするの。」
「とにかく、ここに電話をかけてみるしかないだろう。」
村上弘明はその数字のボタンを押していった。
「あっ。待った、待った。」
村上弘明はひとみに促した。台所にある電話は玄関にある電話の子機で玄関にある電話の方で録音をすることができる。そっちの方で電話の中の会話を録音することに決めたのだ。村上弘明が電話をかけると、電話をかけられた方でも電話がかかってくることを予想していたのか、すぐに村上弘明の方の受話器から声が聞こえてきた。
「もしもし、封筒を送りつけてきたのはあなたですか。」
村上弘明は最初その声の主が誰だかわからなかったが、すぐに思い当たる人物にぶつかつた。
「私です。K病院の事務長の小沼です。」
小沼、村上弘明たちが最初にK病院に調査に行ったとき、自分でこの病院の経理長をやっているといい彼らを案内した人物だ。しかし、実際はその病院の入院患者であり、病院関係者に連れ戻された。しかし、松田政男のことは少し、知っているらしかった。自分が小沼だと信じ込んでいる大沼が松田政男の入院していた部屋を案内してくれたのだ。そしてその後でも自分が不当に入院されていると市役所に訴え出て、その調査に同行して村上弘明は福原豪の屋敷まで行った。もっとも小沼が本当に精神病で入院しているということは福原豪に疑念をいだいている村上弘明の目から見てもあきらかだった。しかし、病院の中に長いこと入院していて、どうして身につけたのか、病院内の鍵を誰にも知られず入手するという特技を持っている小沼が意外な事実を知っている可能性はあった。そうなると。単なる狂人の奇矯な行動だと片づけられないものがあった。とにかく彼の網膜に何らかの事実が焼き付けられているかもしれないのだ。また何か重要なことを聞いているかも知れない。とにかくそれらの事実を引き出すためにも彼に調子を合わせなければならなかった。
「私は小沼です。以前あなたにK病院でおあいしましたよね。」
「小沼さん、あなたですか。この鍵を私の家に送りつけてきたのは。」
吉澤ひとみは親子電話の親機の方で彼らの会話を録音していた。
「どういうつもりですか。そもそもこの鍵はどこの鍵なんですか。」
「その鍵がこの病院のどの部屋の鍵かをいうことはまだいえませんよ。それは恐ろしいことなんですから。あなたは日芸テレビの人なんでしょう。とにかく、私を助けてください。」
「助けるって、どうすればいいんですか。」
「だから、私がこの病院から出られるようにしてくれることですよ。私はこの病院の事務長なのに福原豪の奸計によって、精神病患者に仕立て上げられてこの病院の中に押し込められているんですよ。だから、福原豪の悪事を暴いてください。」
「福原豪の悪事をあばくと言っても、福原豪がいったいどんなことをやったというんですか。具体的に教えてください。」
「だから、私をここの病院長である私を、精神病患者に仕立て上げてここに監禁しているということですよ。私が何故、ここの経理長だとわかるか、それが証明されるのかと言えばその鍵をあなたに送ったことでもあきらかでしょう。経理長ででもなかったら、その鍵はあなたのところになんか送ることができませんよ。」
「何故、この鍵が重要なんですか。」
「ふふふふ。」
電話の向こうで小沼は笑っているようだった。
「吉澤さん、あなたは松田政男殺人事件を調べているのではありませんか。この鍵はそれに関わっているのです。重要な鍵なんです。」
狂人は狂人なりに人の気を引くすべを知っているらしかった。あるいはもっと重大な謎をつかんでいるのか。
「じゃあ、この鍵は松田政男さんに関係しているということですか。」
どこかの部屋の鍵には違いない。あるいは何かの戸棚の鍵なのか。
「どこの鍵なのか、何故、重要なのか。松田政男とどう関わっているのか、教えてください。」
「それはあなたが私をここから出してくれたらですよ。」
吉澤ひとみはその会話を聞いていていらいらした。親機の外部スピーカーを作動させていて二人の会話が受話器を使わなくても聞こえるようになっていたからだ。吉澤ひとみは小沼と自分で名乗っている沼田がやはり妄想にとりつかれた現実と空想のはざまで自己を引き裂かれた人間だと思った。確かに現実の中の自分と空想の中の自分がこの人物の意識の中に混在している。
「だから、言っているでしょう。あのK病院が福原豪の悪の果実だからって。こうしてあの病院の中の鍵をあなたに送りつけたというのが何よりの証拠じゃないですか。私が本当のあの病院の経理長だということの。あいつらの手によって不当に監禁される前にあの病院の鍵のコピーを全てとっておいたんですよ。」
村上弘明はいらいらしていたがやはりこの男はそれなりに重要なことをつかんでいるのではないかと思い、自分の感情を押し殺して、この男の話に口を合わせることにした。
「じゃあ、この鍵は何か重要な鍵なんですね。福原豪の悪事をあばくような。もしくは何かの戸棚の鍵かも知れないけど。」
電話の向こうで小沼は満足しているようだつた。
「まあ、そうでしょうな、この鍵を私が持っていることを知ったら、福原は夜もおちおちねむれないでしょうな。あはははは。」
「それほど、福原豪の致命傷になるような証拠を握っている鍵だと。」
「まあ、そうですな、しかし、まだまだ、すごいものを私は持っていますよ。」
「すごいものって。」
「松田政男に関したものですよ。」
村上弘明は思わずのどから手が出かかった。しかし、精神異常者特有の吉澤の気をひくための嘘かも知れない。
「そんなすごいものを持っているなら私のところに送ってくださいよ。テレビで大々的に特集を組んで福原豪の報道をしますから。」この言葉には小沼もまんざらではないようだった。
「しかしな、そうなると私が福原に不当にここに監禁されていることも無駄ではなかつたということだ。つまり、私がいるために福原の犯罪が世間によって裁かれるということだからな。」
電話の向こうでの小沼はある種の感慨に浸っているようだった。しかし、それがあまりよい結果をもたらさないということに吉澤はすぐあとになって気づいた。
「じゃあ、とにかく、福原の犯罪についての特集を組みますから、あなたのつかんでいる重要な証拠を私のところに送ってください。たのみますよ。」
「まだ、あなた、吉澤さん、あなたは私の言っていることに半信半疑なんじゃないですか。まだ、あなたは私のことを本当に信用していない。私はこう見えてもアジア相互援助公団の調査員をやっていて五、六年前は日本国内をくまなく歩き回っていたのですよ。」
小沼の口から聞き慣れない言葉が急に出てきた。小沼の話によると小沼は五年前には本当にあるのかどうにかわからないのだが、アジア援助相互公団というところの調査員をやっていたという話しだ。その仕事は日本が資金の一部を出してアジアのどこかの国に鉄道などを建設したときに日本が輸入しなければならないものを日本に送る量を確保しておかなければならないという取り決めでその機構の中に位置している日本国内の保税倉庫の調査をするという仕事だそうだ。その仕事のつながりによって小沼は有力な政治家とのつながりもあり、そのからみで福原豪の病院の事務長になったと言った。いろいろと彼の知っている有力な政治家の私事にも詳しくゴルフのときのくせなども小沼は得々として話した。それがどこまでも真実かは、吉澤が検討することはできなかったが、どれもこれもまゆつばものだった。とくに疑わせられた言葉はゴルフ場で日本の石油資本と結びつきが深いといわれている福岡出身のある政治家が那須のゴルフ場で内密に石油産出国として知られるある東南アジアの王族とゴルフをしたとき、その三週間後に日本の石油の税制が変わる法案が国会を通過したとか、そんなような話しを二、三、した。
「瀬野弥十郎の事務所が何故、弥生町にあるか知っていますか。あれは本当の事務所じゃなくて、本当は・・・・・」
そのとき突然電話が切られた。電話が切られる直前の一緒に受話器に入ってくる声で、沼田さん、沼田さん、また、関係のないところに変な電話をかけているんですか。いいかげん、やめてくださいよ。という声が聞こえた。
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(小見出し)村上弘明が日芸テレビの通信部のファックスの前に立っていると制作部の星谷みすずが彼を呼びに来た。機械から出てくる用紙を眺めながら吉澤は少し小太りの星谷みすずの方を見た。
「吉澤くん、すごい美人のお客様よ。つれの人と一緒に応接室に待たせてあるわ。」
吉澤は一瞬、自分では勝手に婚約者だと思いこんでいる岬美加が来ているのかと思った。しかしそれは吉澤の希望的観測であり、自分の内心の希望にすぎなかった。自分自身でもすぐに来ているのがひとみだということはわかった。案の定、応接室のドアをあけると吉澤ひとみが松村邦洋と滝沢秀明をつれてそこのソファーに座っていた。
「何だ、びっくりさせるなよ。一体どうしたんだよ。」
「岬さんだと思った。」
吉澤は図星をさされて閉口した。彼女がつれている二人はそのことについて知っているのか、知らないのか、無表情だった。
「兄貴、兄貴、聞いて、聞いて。すっごくいい情報よ。」
「お前のいい情報はあてにならないからな。」
「吉澤さん、それがすっごくいい情報なんです。」
松村邦洋が横から同意した。彼女が二人を連れてきたということはS高に関連したことかも知れない。
「K病院に勤めていて、最近やめた人が見つかったの。うちの高校の戸田先生っているんだけど、その先生がよく行く近所の定食屋で会う人がいるんだけどその人の知り合いなんだって。その人と一緒に住んでいるらしいよ。」
「大阪港の海に面した倉庫にその人と一緒に住んでいるらしいですわ。」
「倉庫に住んでいる。」
「一緒に住んでいる人が前衛画家だという話しですわ。」
「じゃあ、これからみんなでそこに行くということね。」
「そうよ。」
四人は日芸テレビのビルの地下駐車場にとめてある四輪駆動車でそこに行くことにした。ひとみたちは自分たちの交通費を浮かすために弘明のところを尋ねたのかも知れなかった。日芸テレビからこの取材用の四輪駆動車を走らせて三十分ぐらいで倉庫に着いた。今は使わなくなった倉庫にその画家は住んでいるらしかった。道が大型車がとおるのでだたぴろっくなっていた。昔はたくさん工場などがあったらしいが不況の影響か多くの工場は住む人もなく、次の事業展開を待っていた。たってから四、五十年経っている工場が多かったので大部さび付いていてそれがどこか横たわっている古代の恐竜を思わせた。すでにゴルフ場に変わっている工場もあった。工場の敷地と敷地の間には名前もわからないような外国の雑草が生えていたりした。海に面した大きな直角三角形をつなげたような倉庫だった。倉庫の扉は二トン車ぐらいは入れるようになっていたので大きく、そこには大きな数字で番号が書かれている。中に物が置かれているだけの倉庫と違うのは扉の横の方に住所や住人の名前が書かれていることだった。扉の前には軽四輪のトラックがおかれている。中古で買ったらしく大部さび付いている。ここがこれから尋ねることになる画家の家だ。ここには昔、K病院で働いていたという医者が同居してるらしい。
四人は表札に書かれている名前を確認してインタホーンを押した。
中から三十才くらいの長髪のひげ面の人物が出て来た。髭をそってこざっぱりした顔をさせればもっと若く見えるかも知れない。出てきた人物は四人が立っているのを見て不審な顔をした。服装もあまりきれいとは言い難く油で手来たしみのあとがついている。一応洗濯をしてあるのが救いかも知れない。
「突然、お邪魔して申し訳ありません。井川さんですか。ここに栗田光陽さんという人はいますか。」
「あなた方はどちらの人。」
「日芸テレビのデイレクター兼、アナウンサーをやっている村上弘明と言います。」
「ああ、あんた、テレビで見たことある。」
「栗田光陽さんにお話をお伺いしたくて来たんです。」
「栗田光陽とは一緒に住んでいるんだ。だからと言って変なことを想像しないでくれよ。あっちの方には全く興味がないんだから、ここ、こんなにだだっぴろいじゃない、一人で住むには大きすぎるからね。」
井川という画家は聞きもしないことを話した。
「栗田なら中にいるよ。おーい、栗田、お客さんだぞ。さあ、中に入って。」
ぼさぼさ頭の井川とは対称的に栗田光陽は髪を七三に分けていた。この二人が同じ屋根の下に住むということは不思議な感じがした。それよりも何よりもこの家の中に栗田光陽がいるということがある種の違和感があった。この倉庫を改造した家の中にまず入ると作業場のような平間と段違いになっている居住区間にわかれていた。平間の方はこの芸術家の仕事場になっているらしく百五十号とか百号といった制作途中の大作がたてかけられていた。コンクリートの床になっていて絵の具が床の上にこぼれていた。階段状になっている居住区域の方はまるで新劇のそれもロシアの題目を主に上演している舞台のようだった。居住区域の方は二階建てになっていて一階に台所などがあった。二階にベットがおかれている。二階のスペースを二つに区切っていて、間を薄い壁で区切られ、それぞれにベットが置かれている。一階には台所のほかにもテレビやラジオが置かれている。仕事場には絵の具やイーゼル、それに大きな石油ストーブが置かれている。屋根の片方が通し窓になっていてブラインドもついているのだがブラインドが開かれているので空がそのまま見えた。井川は二人で住むには大きすぎると言っていたがそういう事もないように思えた。栗田光陽は一階の居住空間の方でテレビを見ていた顔をこちらの方に向けて来た。見たこともない人間がそれも他の三人は高校生だったから、さぞ驚いたことだろう。
「栗田さんですか。私は日芸テレビでアナウンサーをやっている吉澤と言います。」
「はい、何の用ですか。こんなところに住んでいるので変わった人間かと思われるかも知れません。倉庫だって改造すれば結構住めるようになるんですね。でも、この家の持ち主は井川さんの方ですからね。私は実は自分の実家が大阪市内にあるんですよ。市内病院に勤務先が変わったので知り合いの井川さんに頼んで住まわせてもらっているんですよ。」
栗田光陽は二十代後半の青年だった。丸いめがねをかけているのが誠実そうな印象を人に与える。
「いえ、この家のことでここに来たわけではないんです。」
「じゃあ、井川さんに会いに来たんじゃないんですか。」
そばで話しを聞いていた井川は席をはずそうとした。
「俺は席をはずそうか。」
「いいえ、結構ですよ。人に聞かれて困るような話しではありませんから。」
「そう。」
この芸術家もここに居たいようだった。
「じゃあ、コーヒーでもいれるか。」
この無骨な感じの絵描きも思ったより気がきくようだった。
「今はどこに勤められているんですか。」
「市立病院で内科を担当しています。」
「そこに勤める前はK病院に勤めていたのではありませんか。」
「ええ、そうです。」
「それではK病院のことを少し教えてもらいたいんです。あなたがいたときに、松田政男さんという患者さんが変死しましたよね。」
「ええ、そういうことがありました。」
「松田政男さんについて何かご存知ですか。」
「あそこに勤めていて恥ずかしいかぎりなんですが松田さんについては何も知らないんです。とにかくあそこは秘密の多い病院でしたから、そんなこともあってやめたんですが。」
「最初、何で見てあそこに勤められたんですか。」
「インターンで勤めていた病院の紹介ですよ。何しろ破格に給料が良かったんで。」
「あの病院が福原豪の経営している病院だということを知っていましたか。」
「入るときにはすでに知っていました。もちろん、福原さんがあまり評判のいい人物じゃないということは知っていました。でも、鳴り物入りで開設された病院でしたから、働きがいがあるんではないかと思っていましたからね。」
井川がみんなにコーヒーをいれて持ってきた。井川の作業場の方にみんなが座れるようなソファーと椅子があったのでみんなはそこに座って栗田の話を聞いていた。
「K病院をやめた最大の原因というのは何なのですか。」
「われわれ職員でもふれることのできない秘密が結構ありました。松田政男さんが入院していた部屋なんかは私なんかは行くことができませんでしたからね。」
「ほかにもそんな秘密の場所がたくさんあつたのですか。」
「ええ、たくさんありましたよ。」
小沼が鍵を送って来てこの鍵が福原の喉元にナイフをつきつけていることと同じだと言ったことと符号する。
「じゃあ、それらの秘密をあなたが知る機会はなかったのですか。」
「秘密を知る機会はありませんでした。それに知りたくもありませんでしたから、でも聞きたくないと思ってもいろいろな噂が入ってきたことはありましたよ。」
吉澤は不当な強制入院のことかも知れないと思った。
「あの建物の形は随分と変わっていますよね。まるで中世のイタリアのお城のようでしょう。」
吉澤ひとみも松村たちもそのことに同意した。確かに変わった形をしていた。まるで海にうかんでいる鉄製の明治時代の軍艦のようだった。
「何やら言う、新進気鋭の建築家が設計したという話しでしたが、随分と建設費を浮かしたらしいですよ。市が半分、建設費を出すということで建設したらしいからです。そのへんのことは僕もはっきりとは知らないんですけど、作ったのが福原の建設会社ですからね。」
この言葉は吉澤たちにも初耳だった。確かに人目を引く建物だった。新しく建設された病院だったが、あまり新しさも感じることができず丘の上に立つこの異様な建築物は身を伏せたこうもりのようだった。しかし、それは全体から受ける印象であって建物の形は灰色の明治時代の軍艦のようであり、その奇抜な形というのも野心のある建築家の手にかかっているからかということが栗田の言葉からわかったのだ。しかし、建設費のピンハネのようなことにその建築家がどのくらい拘わっているのだろうか。もちろん、福原豪が建築費のピンハネをしているという仮定のもとでの話しだが。
「その建築家の名前はわかりますか。」
「さあ、何て言う名前でしたか。」
栗田はその名前を聞いたことがあるのだが思い出せないようだった。
「今泉寛司じゃなかったかい。」
そういうことに関しては栗田より興味を持っている井川が答えた。
「あっ。知っている。その人。」
吉澤ひとみもその人物の名前を知っていた。コンサート会場として有名な大阪福祉会館を設計したのが今泉寛司だ。イタリアの中世の城塞都市をモチーフにして建築を設計している異例の建築家だ。吉澤ひとみも彼の設計したコンサート会場に行ったときイタリアの中世の城の中に入っているような感じがした。そういった印象を与えられたのは設計者の好みが現れているからだった。K病院を設計した今泉ならあの建物の中の秘密について知り得たに違いがなかった。
「そうだ。前に一度、日芸テレビにゲストとしてやって来たことがあるかも知れない。」
村上弘明は日芸テレビに移ってからそう日数が経っているわけではなかったが彼の姿をテレビ局のロビーで一度だけ見たことがある。そのとき何故そう感じたのかはっきりと思い出せないのだが頭から動物の首を被っているいるような印象を受けた。遠くから担当ディレクターと話しているのを聞く気もなき聞いていたのだが日芸テレビの近所のたばこ屋の話になっていて、そのたばこ屋はずいぶんと古くからそこに建てられていて、その看板が少し変わっていた。その看板を高校時代に今泉寛司は自分が作ったのだと言って笑った。
「随分いい情報じゃないの。」
「そうや、そうや。」
高校生たちは小躍りをして喜んでいるようだったが、まだ若い医者とひげ面の芸術家は彼らの喜んでいる意味が皆目わからないようで、だいたい何故、テレビ局の取材に高校生がついて来ているのか、理解ができなかっただろう。その上、これら三人が小刻みに足を動かして踊っているように喜んでいるからなおさらだ。村上弘明は大人だったから落ち着いてはいたが。今泉寛司は関西では異色の建築家として知られている。コンサート会場として多くのポップス系のミュージシャンが使っている大阪福祉会館の設計を皮切りに関西地区で活躍し始めた建築家だった。大阪福祉会館の設計の成功でいくつかのコンベンションセンターの設計依頼が来たらしい。関西国際空港にあるコンベンションセンターの設計も手がけている。それはみな巨大なコンクリートブロックを組み合わせて建物の立体感と建設コストの低減を狙っていた。建設費の削減ということが大きな課題になっている昨今の現状だからそれは当然のことかも知れなかった。建物のイメージとしては中世のイタリア都市をイメージさせるものが多かった。今泉寛司の言うところでは中世のイタリア都市って現代の都市の原型でしょう。商売がさかんで貿易が盛んで船で海外からいろいろなものが入ってくるし、また国内で作られたいろいろなものが出ていくし。大阪はそんなイメージがぴったりなんだな。そう言って作られた建物は市民を中心とした商人の邸宅とはイメージがほど遠い、封建領主の要塞に近かった。その建物のそばに来ると異様な威圧感を感じ、迷宮に住む魔物を連想させた。そう言った意味でK病院を今泉寛司が設計したことは理にかなったことだと言える。
「あなたは、福原豪があの病院の建設費をピンハネしているかも知れないと思っていますか。さっき、ちらっとそんなことを仰いましたよね。」
「ええ、なんで、あんな無駄に大きな病院を建てたのか、私にもよくわかりませんよ。市の方から建設費がどのくらい出たのかわかりませんが。絶対、あれは建設費をピンハネしていますよ。モニュメントを建てているわけじゃないんですからね。あそこで働いたことのある人間なら、みんな変だと感じているに違いないんです。使っている部屋は半分くらいで、鍵がかかっていて何のためにあるかわからない部屋が半分あるんです。」
「松田政男さんの入っていた部屋もそうなんですか。」
「ええ、でも、あれはちょっと意味が違います。あそこの区画は離れになっていて、私たち一般の職員は一切あそこにはいけないことになっていました。最初にあそこに勤めたとき、そういう確約をとらされていてあそこに許可なく立ち入ると有無を言わせず、解雇になるんです。」
栗田光陽はつまらなさそうに言った。
「だいたい、あそこで働いていた人が何人くらい、いたと思います。あの大きさの病院で二十人ですよ。」
「離れにいた松田政男さんの面倒は誰が見ていたんですか。」
「上の連中の何人かです。福原の言うことはよく聞いていましたから、きっと、彼らは福原から法外な給料を貰っていたに違いありませんよ。」
栗田光陽は自分の貰っていた給与からそういう結論を下しているのか。
「福原豪についてもっと知っていることはありませんか。」
「福原とはあまり会いませんでしたからね。噂によると大豪邸に住んでいるそうですね。」
「ええ、彼の屋敷に行ったことがあるんですが、屋敷だけでなく、その敷地も相当なものでした。何しろ塀がどこまでも続いているんですから、ところで、福原についてこんな噂を聞いたことがありませんでしたか。患者を不当に強制入院させるというような。つまり、患者でもない人間を患者に仕立て上げてK病院に入院させて、禁治産者扱いにするというような噂が。」
「今の時代にそんなわけのわからないことがまかり通るのかい。」
井川が自分の世界と違う世界だという表情で吉澤の方を見た。
「いくら何でもそんなことはないでしょう。もっとも僕の知らないところでどんなことがなされているのかはわかりませんが。」
「沼田さんと言う人を知っていますか。自分では小沼と言って本当はこの病院の経理長だと言っているんです。福原の奸計によって不当にこの病院に入院させられていると主張しているんです。」
「ああ、小沼氏でしょう。その人なら有名でしたよ。自分は海外に行って調査事業に携わっていたのが、福原によって不当にこの病院に監禁されていると主張している人でしょう。」
栗田光陽は頭の尖った始祖鳥の生きていた頃に生息していた小型恐竜の姿を想い出しているのかも知れなかった。
「沼田さんはどういうわけかK病院の中を自由にどこにでも行けたみたいなんですよ。私も何度も沼田さんがここにいるのか不思議だと思ったことが何度もありましたよ。あるときなんか、白衣を着て患者さんの診察をしていたんですからね。」
「きっと、昔、おおどろぼうか何かだったんじゃないの。」
井川が茶々を入れた。
「でも、あの人は確かに病気ですよ。誇大、とまでは行かないかも知れませんが、妄想狂。」
「じゃあ、やっぱり、小沼氏の言うことを真に受けたらだめなんだ。」
吉澤ひとみが残念そうに言った。ひとみとしては小沼が松田政男の変死の謎をつかんでいるのではないかと思ったからだ。小沼の言うことが全て信用できないとすると重要な手掛かりのいくつかは白紙に戻さなければならない。
「じゃあ、小沼さんは本当にあの病院に入れられていたんだ。」
「何としても、あの病院の中にもう一度入らないとしようやないやろう。」
松村邦洋は若年寄のようにあごを手でさすりながら言った。
「今泉寛司って人のことはよくわからないんだけど、何か、あの病院はちぐはぐな感じがするよね。」
「そりゃ、そうよ。中で何がおこなわれているかわからないような病院だもん。」
「いや、そういうことじゃなくて。建物の内部のことじゃないんだ。俺はあそこに入ったことも診察を受けたこともないからよくわからないんだけど、建物の外観について俺の感じたことを言わせてもらえばK病院の本体とたぶん松田政男が入院していた離れとかがあるじゃん。何か、あれがちぐはぐなんだよね。何かつながりがないと言うか。あの離れだけあとからつぎたしたような感じがするんだ。」
井川は芸術家らしい美的観点から意見を言った。そう言えば外から見た感じ、あの離れだけがとってつけた感じがするのは否めない。井川はいつしか、コーヒーを飲み終えて作業場の奥の方からだいだい色の表紙の本を持って歩いて来た。彼は手に持っているその本を村上弘明たちの方へ差し出した。村上弘明は井川の真意をはかりかねて彼の顔をのぞきこんだ。
「これに今泉寛司の住所も電話番号ものっているから。」
井川の差し出した本の表紙には大阪在住アーティストの現在というタイトルが載っていた。村上弘明がその本を開くと、一枚のチケットの端切れが落ちた。コンクリートの床の上に落ちたその紙切れを見て吉澤ひとみは驚いてその紙を拾い上げた。吉澤ひとみは満面に笑みを浮かべてそばにいる松村邦洋や滝沢秀明の顔を首を左右に振って見比べた。
「ほら、これ。あのときのチケットじゃないの。」
「どれどれ。」
松村も滝沢もそのチケットをのぞきこんだ。村上弘明にはなんのことかさっぱりわからず、井川の顔を見た。
「井川さんもあの試合を見に行ったんですか。」
吉澤ひとみは微笑みながら井川に言った。そのチケットというのはいつだつたか、吉澤ひとみが松村と滝沢の三人でクラブの部長から貰ったプロレスの試合のチケットだった。三人は半ぺらの方を試合会場に棄ててきたのだが井川の方は半ぺらを持って来たらしい。チケットがちぎられているということは井川も試合を見に行ったのだろう。
「ああ、それね。俺もその試合を見に行ったんだよ。君たちも行ったの。」
「あのとき、最後の試合に変わった事がありましたよね。最後に出て来たゴーレムというメインイベンターに日本の空手家が挑戦して、やられちゃってそのあと墨染めの衣を着た若いお坊さんがあらわれて、ゴーレムをKOしてどこかに消えちゃったんですもん。」
「何や、君たちもあの試合を見ていたのかい。本当にあの試合は不思議だったな。あのお坊さんは一体誰なんだい。」
その話しは村上弘明にとっても初耳だった。そんなことがあつたのなら、いいネタになったのに。しかし、ここに赴任して来てからこの大阪の新興住宅地に随分といろいろなことが起こっているのだと今さらながら村上弘明は感じた。
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(小見出し)設計者
南海電鉄の泉大津駅で今泉寛司は待っていると電話で答えた。井川と栗林の住んでいる倉庫から井川が教えてくれた電話番号でK病院の設計者である今泉寛司に連絡がつき、今泉寛司は紀伊勝浦に建てる水族館の設計に関して泉大津に用があるので泉大津の駅でなら会うことができるという返事だった。高校生たちをのせて愛車のルノーを走らせた。途中で道路のはたにあるファーストフード店で四人は食事をすませた。有力な建築家に似つかわしくなく、駅の待合室で今泉寛司は待っていた。村上弘明がテレビ局でちらりと見たときは頭に動物の首をかぶせたような印象を持っていたのだが、地方の駅の待合室にいる今泉寛司はただの三十五才の男性に見えた。四人が今泉寛司の方へ行くと彼は挨拶をした。彼は日芸テレビに何度か出演したことがあり、そのために彼の知名度もいささか増えて仕事の依頼も増えたのかも知れない。異才の建築家は名を売る必要があり、テレビ局の方は鮮度のあるネタを必要としていた。この両者の欲求が一致していたために、日芸テレビと今泉寛司は接点を持つことができたのだ、村上弘明が彼に会いたいと言って会うことができたのも、ここに理由がある。もしかしたら今泉寛司は全国区で名前を売りたかったのかも知れない。今泉寛司は愛想を見せて手を軽く挙げて合図をした。彼にもルノーで駅に乗り付けて来たのでわかったのだろう。
「これから食事をするところです。この駅前に大正時代から続くという鍋料理の店があるんです。そこに入りますか。いえ、鍋料理と言っても、冷たいそばやうどん、蜜豆なんかも出しますから大丈夫ですよ。車はそこに停めておけば、ここらへんでは駐車違反はありませんから大丈夫ですよ。」
四人は大正時代から続くという鍋料理の店の前に立った。煤でくすんだ店構えは大正時代から続いているという歴史を感じさせる。店の屋根にかけられている変にねじれた年輪の看板に書かれた店の屋号の墨の色も長年の風雨のためにかすんでいた。四季のある国に育つ木は夏と冬では成長の度合いが違うから堅い部分と柔らかい部分ができる、だから柔らかい部分は凹んで、堅い部分は浮き出てくる。この店を作っている材木も木地のところは縞模様になっている。だからと言ってただ古いだけで乱雑に汚れているというわけではなく、年月が小綺麗に軟着陸していた。村上弘明をつれて今泉寛司がその店の中に入っても、たぶん、今泉寛司はその店の常連であるには違いないのだが、店員はとおりいっぺんの愛想をふりまくだけで素っ気がなかった。一階はランチメニューを中心にして大きな丸太を縦に裂いたようなテープルが五つぐらい適当に並べられていて五、六人の客が冷たいうどんを食べていた。天井には大きな古木の梁がある。天井は細い竹が張り巡らされている。一階の半分は調理場になっているらしい。一階の端に二階に上がる階段がついている。灰褐色な御影石はつるつるに磨かれていた。その一階を通ると、今泉寛司は吉澤たちを二階に案内した。
「二階に行くよ。」
今泉寛司は店員が二階に案内する前に吉澤たちをつれて二階に上がって行った。後からエプロンをつけた二十歳前後の女の子が彼らの後を追ってお盆にお茶をのせて上がって行った。古ぼけた店の外観に比べて店の中は随分ときれいになっていた。
「こういうところって。一階と二階では同じ料理を出しても値段が違うのよね。」
吉澤ひとみの言ったことは正しかった。二階で食事をするときは席料を別にとるのだ。二階の部屋は三つぐらい部屋が仕切られていて、そこで小さな声で話せば他人に聞かれずに話しができた。今泉寛司が連れてきた部屋はしいの木のような壁で囲まれていた。
「冷たいうどんにしますか。」
今泉寛司は他の四人の顔をちらりと見ただけで勝手に決めてしまった。
「僕が皆さんに食事をおごりますよ。」
今泉寛司はなかなか金持ちのようだった。他の四人が何か言いたそうなのを見越して今泉寛司は両手をテーブルの上で会わせて中国人のやるような挨拶の、手だけだが、格好をした。
「こう見えてもお金は持っているんですよ。冷たいうどんと言っても、そばに具もちゃんとついてくるんですよ。たらいが二つに受け皿が一つ、それにだし汁の入ったお銚子が一つくるんです。二つのたらいのうち一つはうどんが入っていて、もう一つの方には軽く湯がいたえびや魚介類、それにいろどりに野菜がついているんですよ。」
あくまでも自分のペースで話しを進めていく今泉寛司に吉澤ひとみは毒気を抜かれたような気がした。
「海老なんかも随分と新鮮なものを使っているらしいんですよ。持って来たおかみに聞いたんですよ。この海老、海で採れてどのくらいたっているのって。そうしたら、おかみの奴が今泉さん、海老語がはなせるなら、直接、聞いて見ればって。あはははは。」
たいがいのことではおどろかない高校生たちもすっかり毒気を抜かれてしまった。だいたい、どこがおもしろいのかよくわからない。今度は今泉寛司の方が滝沢秀明の方へ話しかけた。
「家を造っている外見から見た三要素ってなんだと思う。」
滝沢秀明は急に自分の方に声をかけられたのでとまどった。外見から見た三要素、それはすぐにわかった。しかし滝沢秀明が答える前に今泉寛司が答えた。
「屋根と壁と床だよ。この三要素があるから家は家でいられる。屋根は何と対話している。壁は何と対話している。そして、床は何と対話している。」
「屋根のない家というものもあるわ。イタリヤの映画館って屋根がないんでって。」
「対話をしているという言い方がよくないのかも知れない。対話を拒否していると言ったらいいのかも知れない。なぜならそれは情報の遮断のための障壁だからだ。」
「イタリヤの映画館に屋根がないなんて話しは聞いたことがないや、わてが聞いたことがあるのは夏なんか、夕方に映画を上映して、夕暮れには大部涼しくなるので、屋根を開け放して空気を入れ換えるという話しは聞いたことがるわ。」
「じゃあ、映画館も家の部類に入るのね。」
「だから、質問を変えよう。それらの障害物が何との対話をうち切っているか。屋根は天、だ。それは宇宙と言い換えてもいいかも知れない。宇宙から雨が降ったり、雪が降ったり、それは宇宙の信号だ、屋根はそれを遮断しているのだ。壁は社会だ。隣人の訴訟騒ぎ、うるさい物売り、自動車の騒音、子供の甲高い遊び声、じゃあ、床は床は家を人間にたとえるなら足に履いた靴のようなものだ。大昔の人間は足にくつなんか履いていなかった。大昔の人間は裸足で大地の鼓動を直接聞いていたのだ。十七世紀の最大の発見は何だと思う。このわれわれがよって立つ地球と天井に輝く星がこの地上と同じ力のために運行しているという事実、月も火星も木星も太陽も同じものに引っ張られて円運動をしている。この事実を発表したためにイタリヤの科学者ガリレオは宗教裁判に掛けられた。そしてりんごが木から落ちるのを見たイギリスの偏狭な若者がそれを幾何学の言葉に言い表した。大原理などと。床、つまり足の裏はこの原理との対話なわけだよ。このことからインドで発達した仏教が信仰の中心をその崇拝物の足の裏に見いだしているのは東と西の世界の妙な一致だよ。足の裏を信仰の対象にしている。気の医学では足の裏をいくつもの地図に分けてそこに人間のどういう機能が存在するか、細かく分析している。もし家が何かを感じる自我があったなら、家は床を通して自然の法則を学んだというだろう。これはちょっとおもしろいよ。屋根と壁がそれが障害となって対話ができないというのに、床は目や耳をふさぐことによって自然法則との対話をしているんだから。つまり対話の一つの結果として、自然法則の一つ、重力というものを学んでいる。何も、床が奥深い森に住む明哲なふくろうだというばかりではないよ。市場原理だって床は学ぶかも知れない。その家の所有者の所得とその土地の有り様、駅に近いか、元は国有地だったか、地盤はどうか、地下に有望な地下資源が眠っているかどうか、彼はいろいろなことを知るんだ。」
今泉寛司はここまで話すと目の前に置いてあるお茶を一口すすった。
「宇宙との対話、社会との対話、それを一時的に遮断して、それでもかつ、自然の摂理からは抜けられないでいるとしても、人々は家を建てるのか。」
そう言ったあとで、今泉寛司は目の前に置いてある爪楊枝を勿体ぶって一本つまんだ。
「人々は何故、家を建てるのか。」
村上弘明は何故今泉寛司がこれほど饒舌になっているのか、よくわからなかったが、とりあえず、たらいに入れられたうどんが彼の目の前に運ばれて来るまでは彼の話を聞いて置こうと思った。
「そりゃ、外敵から身を守るためでしょう。森を抜け出した猿は動物たちの中でもっとも弱い種族だった。それで岩の横穴を見つけてそこに寝床を敷き、入り口をふさいで安眠したそうや、ないか。」
「じゃあ、今の人間は弱いか。」
「今の人間だけではないさ。全ての生物は弱い、それが古代白亜紀の恐竜だったとしても、それがある方向、ある目的を持って、細胞を系統的、組織づくられて構成された集合体だったとしたら、道ばたに転がっている石だったらどんなに細かくくだけても、水だったら、川の中で流れていたとしても、雨として降っても、空気だつたら、金持ちの家の空気でも、貧乏人の家の空気でも、誰に吸われようが、雷をうけたか、信じられないような高温で熱を受けたりして、化学変化を受けたりしなければ、石は砂になろうが、土になったとしても、水は花瓶の中に入っていても、どぶ川の中でどろを押し流していても、扇風機で吹き飛ばされた無風でも、台風となって吹き荒れる風でもカビ臭い棺におしこめられた空気でも、それはそれであるんだ。人間なんて単に生物学的に見てさえも五分も脳に酸素がいかなかったりしてみてよ、もう人間は死んじゃうんだからさ、金魚なんて冷凍窒素の中に瞬間的に入れて、冷凍金魚にしてまた外に出してみてよ、生き返ってまた泳ぎだすんだから、狼の住む森の中に赤ちゃんをおきざりにしてみて、運よく赤ちゃんが狼に買い殺されなかったとしてだよ。その狼が全てのほ乳類が持つ、赤ちゃんに対する保護欲を持っていたとしてだね、自分の母乳、それは母親狼のなんだけど、狼に育てられて、月夜の晩に吠えることや、生肉を手も使わずに歯でかみ切ることしか知らなくて、見知らぬ人間にあっても挨拶もできないでただうなるだけだったり、言葉を使ってレストランに入ってメニューをたのめなかったり、テーブルマナーも出来なかったりしたら、生物学的には人間とみなされても、社会的には人間とはみなされないだろう。だいたい、暑さ、寒さ、空気がなければ人間なんて、生きていけないんだから、多量の放射線をあびたら、即、死を意味するからね。だから、人間はスペースシャトルでも、宇宙に出て船外作業をするときは宇宙服を着るよ。宇宙服が生命を維持して身を守るものだからだ。単に宇宙服が古代人の洞窟とその意味で同じ用途をある部分持っていたとしても、宇宙服を家とは言わないだろう。」
「そりゃ、言わないでしょう。」
松村邦洋は相槌を打った。
「子供の頃の旅立ちたいという欲求が何から出て来るか、分かるかい。赤ん坊だったとしても、赤ん坊だった頃の記憶はなくなっているから何とも言えないが、きっとぼんやりとした周辺が淡くにじんでいるまん丸な母親の顔の輪郭しかないのかも知れないが、太陽が夕日となって沈む、山の彼方にどんな町があるか知りたくて、帰り道の算段も付かないうちに遠い町に冒険の旅に出た懐かしい遠い想いでを持っている人間は多いと思うよ。何故、迷宮に人は迷い込むのか、プロスペローの島に王子の船が難破してたどり着くのか、魔法使いのプロスペローに比べれば、王子の計画性なんて何もありゃしない。何しろ、彼は王子が自分の島に難破したことを知っていたのだから。宇宙服が家ではないことは明らかだと思うけど、銀行の預金通帳にゼロがいくつも並んでいたとしても、銀行の預金通帳は存在するし、世の中の貨幣制度というものが存在することは誰でも知っている。そしてそのゼロの数字が五や七に変わるかも知れないんだ。「空間とは移動の自由性のことだ。われわれが空間中に立つとき、われわれ自身をその空間に本能的に適合させ、また移動することによって自己をその空間中に観念的に投影させる。われわれが歩いている間も、その空間は移動を暗示する。」ージェフリー・スコット、1924年。
宇宙服には空間がない。空間は時間と運動、つまり、移動の作用によって認識される。移動の主体は物理的な肉体と精神、想像力という道具を使った自我である。肉体も自我の支配下に置かれているとすれば閑職にある自意識と呼んでもいいかも知れない。」
今泉寛司の建築論とK病院という存在がどう結びついているのか、村上弘明にはいまいちわからなかった。
「建築家が点でなく、空間という自由性を獲得したとき、つぎにもとめるのは空間それ自体の運動性だ。空間の中にはエーテルが満ちていなければならない。エーテルとはエネルギーよりも純化されていない空間の充足物であり、常に振動している、その運動性は知覚はできないが、空間の中の対象物には作用することができる。波動が伝わり、共鳴現象を起こすと言い換えても良いかも知れない。
「遊びは、ある一定の規則の範囲内で進行する。ある特定の過程に縛られており、始まりもあり、終わりもある。またそれは、この限定された範囲内で、その固有のダイナミックを有するものである。だから遊びとは、これらのすべてに限定されつつも、なおかつ、自由のうちに進展するものだということができる。・・・・遊びの全プロセスとは・・・・ある運動によつてはじめ刺激を受けた全ての部分を結合してひとつの全体を構成し、この全体を維持しながら、一度開始された運動を持続させ、かつ高めようとするような運動だ。」G・フォン・クヤワ。」
「じゃあ、そのエーテルによる運動、エーテルそれ自身が運動なのでしょうが、自己完結されて、破綻のないことが前提なのですね。」
今まで黙っていた滝沢秀明が口を挟むと今泉寛司は少し眉を動かしておやっ、という顔をして彼の顔を見た。滝沢秀明の瞳の中には隠しきれない懐疑のようなものがあったからだ。
「破綻にこだわっているみたいだね。最近、何か、破綻を見たのかい。」
「あなたは、七月の大阪府立体育館で行われた、ゴーレムの出ていたプロレスの興行を見に行きませんでしたか。」
吉澤ひとみも松村邦洋もそのことは全く気づかなかった。彼がその会場にいたとは。しかし、今泉寛司のその答えはあつさりとしたものだった。
「いたよ。ゴーレムという選手を見に行きたくてね。」
「ゴーレムのことを知っているのですか。」
吉澤ひとみは目を丸くして尋ねた。
「もちろんだよ。一時期、アメリカに住んでいることがあってね。たまたまテレビを見ていたら、ギネスブックに載っている世界一、身長、体重とも巨大な人物ということでバラエティに出ていたのを見たんだ。でもその時は大きな体を支えられなくてよろよろと歩いていたよ。水道局に勤めていたという話しだつたけど。いつの間にか、怪物プロレスラーということになって日本にやって来ていたから見に行くことにしたのさ。」
「へぇ、あの巨大な恐竜のようなプロレスラーが水道局に勤めていたんだ。それはいつの事ですか。」
「一年ぐらい前だったかな。」
「一年で世界中に相手になれる選手がいなくなるほど強くなれるかしら。」
「あれだけ大きいんだから、三メートルの巨人だもの。何もしなくても、相手が倒れてくれるよ。」
「でも、歩いていても自分の身体をもてあまして、ふらふらしていたくらいだっていう話しじゃない。」
「破綻の話しの続きだけど。」
今泉寛司はゴーレムについてまだ何か、知っているらしかった。
「つい、二、三週間前にアメリカの自宅でゴーレムは死んだらしい。そういう話しだよ。」
「ええっ。」
吉澤ひとみは驚いた。
「僕がとっている英字新聞を読んでいて知ったんだけどね。ゴーレムはソースの会社もやっていたらしいよ。死んだ原因なんだが、何かの仕事で放射能の汚染地域に行ってそれでガンになったという話しもある。村上弘明にとってもゴーレムが突然、死んだという話しは意外だった。とにかく人間離れをした怪物として興味本位で扱っている記事を何度も読んだことがある。突然の死とは意外だった。身体の大きさの割に心臓が大きくならない突然変異の怪物の映画を見たことがあるがどこかそれに話しは似通ってもいた。とにかく一度もあの怪僧を除いては一度も苦杯を喫したことがないあの怪物はもうこの世にいないのである。
「破綻ということだけど、現代人の生活も破綻に向かっているといえないこともないよ。ゴーレムだって放射能汚染の犠牲者という話しになっているけど、食生活のアンバランスかも知れないからね。心臓に疾患があったという話しも伝えられているんだ。人間は田園を棄て、都市を目指し始めた、そのつけが回っているのさ。ゴーレムの場合は水道局員の生活を棄てて、プロレスラーになつたのがそもそもの間違いなのかも知れない。だいたい都市というものが何の病理で蝕まれていくか、都市が蝕まれていくのではない。そこに住む住人こそが蝕まれていくのさ。都市の支配者、その欲望の権化、市民が都市を造っているのではないことは、誰でも、知っているだろう。そこは人間のハイマートではなくなっているからだ。この大阪の地区でさえ、ここを支配しているのは、名前のない、資本主義の中心に位置している効率性、経済性という形のない命令者だ。そこには大きなコンツェルンに所属する不動産会社、銀行、自動車会社、石油会社、その他もろもろの欲望の権化がある。都市の一番利用価値の高い場所はみんなそんなところに買い占められている。そこをめざして、あるいはそこから出発して鉄道や線路が東西南北に走っている。そして無名性を保っているこの支配者たちが次に手に入れたのが、K病院のあるような田園都市だ。田園都市、名称だけはすばらしいが、その土地の名義を見てごらん。そこには大資本に名を連ねる不動産会社がいくつも出てくることだろう。都市の生産をその目的とする高密度共同社会は田園都市では消費を目的とする高密度共同社会に対応している。田園都市、たとえば、吉澤さんの住んでいる栗の木団地駅周辺を例にとって見れば、何らかの問題がなくもない。それらについて個別に語るのはやめよう。」
吉澤ひとみはそれらの問題について語って貰いたい気もするのだったが、浅い眠りから起こされるように、村上弘明の声がした。
「今泉さんは栗の木団地駅周辺の設計にも拘わっているんですか。」
「ええ、田園都市に対する最初のアプローチとして栗の木団地駅周辺の設計にも当たっていますよ。」
「じゃあ、K病院の設計も。」
「もちろん、私の主張は現代の田園都市の設計者に対するアンチテーゼの提出という意味もあるんです。K病院の奇抜な格好を見たことがあるあなたなら、そう思われるでしょう。」
村上弘明は別の意味でK病院に不気味さを感じているのだったが。
「何も、先入観のない人間が見たらK病院に不気味なものを感じるかも知れません。でも、あの病院はそれなりに意味があるんです。「たとえ人にとって耐えきれないような所でも、たくさんの便利な施設をここに集中させ、そこがなくてはならないものにすることによって人をむりやりに定住させることができるかも知れない。だが、このような方法によって、人工的な生活でもって荒みきった共同体を共同体らしくしようとしても、人々の内面における不満、反発は、これらによって解消されるどころか、むしろ、逆に強まるだけであるる。こうした無理矢理人工的に活気づけられた環境と対照をなすのは、個人個人が、そこに自己の要求に対応する形での世界を見いだし、解放されて自由に行動しうるような環境である。」アルフレット・ローレンツァー。」
今泉寛司は栗の木団地にしろ、K病院にしろ、解放されて自由に行動しうるような環境だと言いたいのだろうか。しかし、栗の木団地はともかく、K病院はそんな環境の一要素だとは思えない。そんな気持ちを今泉寛司は感じとっているのかも知れなかった。
「建築の美をどんなときに人は感じると思う。」
今泉寛司はそう言うとテープルの上にあるマッチ箱を一つ取りだした。そして、それをテープルの上に立てた。まず、面積の小さな側面を下にして、そして息を吹きかけると、そのマッチ箱は倒れた。今度は面積の広い部分を下にしてテーブルの上に立てて息を吹きかけると、マッチ箱はテーブルの上を少し滑るだけで倒れなかった。東京タワーを見たことがある。もちろん、あるよね。通天閣タワーでもいい。上に行くほどせばまっていて、下にいくほど、広がって地面に土台がしっかりと付いている。そして何トンもの鉄材が自分自身の自重をささえると同時に他の部材の重量を支える補強材になっている。吊り橋にはそれぞれの支柱に美しい曲線を描く太い金属製のロープで引っ張られていて力の均衡を保っている。「建物むのリズム、この目に見えるものに置き換えられた静力学的ー数学的思考こそ、構造的に正しく出来上がった構築物ーこれが前提だがーをして芸術にならしむるものだ。そうなると、もう構造との符号など問題にならなくなる・・・・」レオポルド・ツィーグラー、1912年。つまり、僕の建てる建物は芸術ならしめる建物のリズムを全ての構築物は持っているのだ。」
今泉寛司はそう断言した。しかし、あの古城のような、それも呪われた古城のようなK病院に数学的思考が適用できるであろうか。
「K病院も今泉さんが設計したのですか。」
「公共性、反公共性、半公共性、いろいろな社会のひずみがあるわけで、しかし、根本的な解決は決してできないわけですよ。なぜなら、現代社会は見えない支配者に支配されているわけだから、人工的に構築された都市部の効率性という麻薬から解放されるには、誰も新しい旗を立てているわけではない。旗がないかぎり、誰もそこに集まることはできない、地図における目印がないんだから。現代の集合高層住宅の建て方は敷地に建物を平行に同じ向きに何棟も建てるというやり方をとっている。同じ時間に同じ方向から太陽の光を受け、住居の差のないことは同じ貸借条件を満たす、そして棟同士が平行に間隔をあけて並ぶことはいろいろな衛生上好ましい、しかし、中世では集合住宅は一つの井戸を中心にしてそれを取り囲むようにして四角い、囲いのように建てられていた。現代では水道を引くことは困難なことではないし、いつ襲ってくるか分からない外敵がいるわけではない。新しい共同体の原理がみつからない間は古い教義を借りてくることも厭わない。それでK病院は中世の城塞のイメージを借りたというわけだよ。自分なりの田園都市に関するアンチテーゼというわけで、都市からの目に見えない呪縛からの解放であり、田園都市の宗教の集結点という建物になっているんだ。」
とにかく今泉寛司があのK病院を自分なりの哲学を持って建てたことが村上弘明には分かった。しかし、それはあくまでも今泉寛司の理念の問題であり、現実の図式を説明しているというわけではないだろう。彼は持論を主張して一息ついている今泉寛司に唐突にたずねた。
「松田政男という人物を知っていますか。」
お茶をすすっている今泉寛司には何の変化もなかった。
「知らないよ。」
その口振りには何の感情の変化もないようで嘘をついてはいないようだった。
「K病院で不審な死を遂げた人物なんですが。警察では自殺という結論を出しているのですが、私は他殺という線を追っています。」
「あの病院を建ててから大部たっているからな。あそこに入院している人間のことなんか詳しく知っていないよ。」
「あの病院の離れに入院していた患者なんです。化学の方で大変な秀才で新薬を開発して特許をとって悠々自適な生活をしていたらしいんですけど。」
「離れ。」
ここで今泉寛司は不審な声を上げた。
「あの病院に離れがあるという噂は聞いていたけど本当の話だったんだな。あそこに見に行く暇がなかったから確認できなかったんだけど、やっぱり離れが出来たんだね。実はそこ、僕が最初に設計したときにはそんなものはなかったんだよ。」
「じゃあ、あとから付け加えたというわけですか。」
「そういう事ですね。」
それで吉澤ひとみにもあの病院が何となくアンバランスな感じがしていたわけがわかった。あとからあの離れだけつけくわえたのだ。
「そもそもどういう感じであの病院の設計を依頼する話しが来たんですか。」
「福原豪の秘書という人物が直接うちの事務所に設計の依頼を持って来たんだよ。あれは何という人間だったかな。鉄道会社から福原氏の個人秘書になったとか言っていたと思うけど。」
そこへ料理が出来て運ばれて来た。たらいに入ったうどんと湯がいたえびや貝などだ。今泉寛司はうどんをぱくついた。その表現はおかしいかも知れない。うどんをすすった。
「あそこの建設費用のことはご存知ですか。」
茹でたえびをはしでつかんでいる今泉寛司は何か上の空のようだつた。
「具体的にいくらお金が出ているかという話しはできないよ。」
「市の方も半分ほど建設費を出したんですよね。」
「ええ、そうですよ。」
「でも、何で市の方が建設費を半分も出したんですか。」
今泉寛司は村上弘明の言っている意味を察した。
「僕も福原豪があまりいい噂の持ち主ではないという事は知っているよ。」
それなら何で福原豪の依頼した設計を受けたのか、彼の持論である見えない支配者である資本主義社会における大資本の自己集中と矛盾するではないかと思ったが黙っていた。
「でも、あの病院の建設に当たっては何もおもしろい隠された事実というのはないんですよ。そもそもあの病院を建設しようと言って来たのは市の方からなんですよ。」
この事実は吉澤たち四人にとっては意外だった。
「それも市だけではなかったんですよ。」
ここで今泉寛司はうどんを一本すすった。今さっきまでとうとうと建築に対する持論を展開していた人物には思えなかった。滝沢秀明もたらいの中に入っている海老を一つ口の中に入れた。
「警察の方もあの病院を作るに当たっては乗り気で福原氏に頼み込んでいたんですから。」
「本当ですか。」
「本当ですよ。僕が何で嘘を言わなければならないんですか。」
今泉寛司はおちょぼ口をすぼめて口のあたりをナプキンで拭った。
「でも、何で、警察が病院なんかの建設を福原氏に頼まなくてはならないんですか。」
村上弘明の疑問はもっともだった。
「栗の木団地周辺地区の急激な人工増加のためですよ。あそこが田圃や畑ばかりだったらそんなことはないでしょうけどね。K病院から三百メートル離れたところに何か変わった施設があるのに気づきませんでしたか。」
「いのしし料理の山賊の館という郷土料理屋がK病院の裏にある大きな林の中にあるけど。」
松村邦洋が言っている林というのはほとんど森に近い半径一キロぐらいの樹林地帯だった。
「あっ、そうか、あの煙突。」
松村邦洋は気づいたようだった。
「焼き場がある。」
その森の中に車が入れるだけの笹林に囲まれた細道が開かれ、そこを通って行くと火葬場に出ることができた。
「その火葬場からの話しでね。警察も拘わっていることだけど、死骸を荼毘に付する前に保管しておく霊安室が欲しかったんだ。もちろん、警察なんかでも不審な死を遂げた死体を保存しておく部屋が欲しかった。それで警察もK病院の建設を福原豪にたのんだんだ。
だから霊安室は立派なものを持っているよ。あの病院は。」
K病院の建設の目的が霊安室の確保にあるなんてことは村上弘明は考えてもいなかった。それでその条件、つまり、公共に利用出来るという条件で福原豪に半分の建設費を出したというわけなのか。
「設計の打ち合わせのときがそもそも変わっていたな。立派な霊安室を作るのが条件というんだから。」
今泉寛司はまたうどんをつるつるとすすった。
「じゃあ、K病院の設計図を見せてくださいと言えば見せてもらえますか。」
「いいよ。」
今泉寛司の返事は意外とあっさりしていた。しかし、その彼の瞳に多少の感情の変化のあることを吉澤ひとみはみのがさなかった。こういう点においては兄の弘明よりも神経の細やかなひとみだった。
「福原豪が全く、あの病院を私物化していなくて市のためだけに建設したような事を言っていたけど本当はそうではないんだ。」
「それはどういう事ですか。」
吉澤ひとみは今泉寛司の目のあたりを見たが今まで建築論みたいなものを展開していた今泉寛司はどきまぎした。
「僕の設計した建物の一部に変な部屋が存在するんだ。」
「どんな部屋ですか。」
「部屋中の壁がが厚いスポンジで覆われていて、その上にビニールのシートがコーティングされている。部屋の中はコンセントもなければドアのノブもない、でも、ノブがなければ部屋の出入りが出来ないからドアの外にはノブが付いているけどね。後は部屋の上の方に換気扇と照明がついている。天井は普通の部屋の二倍以上の三メートルもある。もちろん、僕が設計したんじゃないよ。そういう部屋を埋め込むようにと福原豪が注文したんだ。」
「その部屋はまだ壊されずにあるんですか。」
「あるはずだよ。」
「どこの位置にその部屋はあるんですか。」
「ちょうど、あの建物の一番はじだよ。君たちが離れと呼んでいる後から付け加えた建物に接した場所にある壁の向こうだ。」
「何のための部屋なのかしら。」
「福原豪がこういう部屋を作ってくれという話しで、その設計図も自分から持って来たので、その部屋をはめ込んだという状態だったんだけどね。」
「その部屋が何に使われる部屋か、全くわからないのですか。」
「実は知ってるんです。」
そう言った今泉寛司の顔には薄気味悪い微笑みが広がった。
「わけの分からない、理由で部屋を一つ付け加えてくれと言われても、納得がいかないじゃないですか。それで福原豪が何故、その部屋をK病院の中につくらなければならないか、調べたんです。そうしたら、わかりました。福原豪の一人息子で、正妻の子供ではありませんが、福原の正妻の子供は全て女ばかりなのですよ。福原の別宅の子供で十九になる息子がいるんですが、彼が特殊な精神病にかかっていて、治療中らしいんですが、ときどき、手がつけられない位、暴れるらしいんです。どうも、その部屋らしいんです。」
「福原豪にはそんな子供がいたんだ。」
吉澤ひとみは複雑な顔をした。
「どんな息子なんですか。」
「福原豪とは似つかわしくないような線の細い、青白い顔をした幽霊みたいな若者です。一度だけ彼を福原の屋敷で見たことがありますよ。たぶん、K病院に住み込んでいる、いや、入院していると言った方がいいかも知れませんね。入院していると言っても自由に病院を出入りできる状態でしょうから、あの病院のあたりで彼の姿を見られるかも知れませんが。」
村上弘明はぴんと感じるものがあった。
K病院のゴミ捨て場で写真を撮ったとき、村上弘明が何をしているのか、近寄って来た病的な感じのする若者がいた。きっと、彼が福原豪の一人息子に違いない。すると、もしかしたら、福原豪は自分の息子の治療のためにあの病院を建てたのかも知れなかった。
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秘密の研究会社でかつて机を並べていた矢崎泉から日芸テレビの村上弘明のデスクの上の電話が鳴った。その電話がきたのは吉澤が松田政男の開発した新薬について調べようと、その特許を売り渡したと言われている製薬会社を調べようと思っていたやさきのことだった。
「矢崎泉さんですか。今、アメリカに居られるのですか。」
「ええ、ウィンスコン州に居ます。日本に居たとき、松田政男さんについて、いろいろ聞かれましたが、正しいことを教えたつもりで、間違った情報をあなたに伝えたようなので、そのことが気になって電話をかけているんです。」
矢崎泉はウィンスコン州にある大きな湖のそばにあるホテルに自分の専門とする研究の学会の集まりで招待され、そのホテルに泊まっているらしい。電話口の向こうから、何の音も聞こえてこないのは部屋の一室がしめられているのか。本当に田舎のような場所で学会が行われているのか、どちらかだろう。
矢崎泉は実験科学者らしい几帳面な態度を示した。村上弘明のような研究者でないものだったら、気にならないような些細なことでも実証を重んじる実験科学者としての彼にしてみれば大いに気になっていたのだろう。
「こっちに来て知ったのですが、松田政男くんの開発した新薬ですが、噂によると少し複雑な経緯をたどっているらしいのです。」
「複雑な経緯とは。」
村上弘明は聞き直した。
「日本では承認されていないはずです。」
「じゃあ、松田政男氏が特許を取って利益を上げたということはないんですか。」
「日本でも最初は承認されていたんですが、副作用があるということで、承認がとりけされたらしいですよ。日本では製造も販売もなされていないはずです。」
「松田政男さんが開発した薬というのはどんな薬なんですか。」
「最初は精神病に関しての薬だったらしいんですが、筋肉の化学成分を変える効果も発見されたらしいですね。それも単なる噂なんですが。」
松田政男の開発した新薬は最初、その精神病に関する効果から、アメリカで承認され、実験段階で使われたらしい。しかし、人間の筋肉の化学組織を変化させるということが報告され、アメリカで使用が禁止され、日本では研究もされていないらしい。今は日本でも外国でも全く販売もされていないし、使用もされていないというのがただ一つのはっきりした事実だ。松田政男が薬成金になっていたというのは村上弘明の勝手な想像だったのだ。とにかく、厚生省の許可をとって使用製造されるような製薬会社であればその薬は使用も製造もされないということだった。しかし、その薬が開発されたときには売られていたのは事実であり、松田政男がそれなりの利益を得ていたのは確からしかった。
「その薬について、もう少し教えてもらえますか。」
村上弘明が電話口で言うと、海の彼方にいる矢崎泉は人に聞かれてはいけないと内心思っているのか、それとも口に出すのがためらわれるのか、くぐもった声で言った。
「RDー153、研究者の間では通常、悪魔のはく息、と呼ばれているそうです。しかし実体ははっきりしないのですが。」
最初、松田政男がその薬を開発して、臨床に使われたときには大いに歓迎された薬らしい。一種の向精神薬で鬱病などで、ほっておくと自殺の可能性のあるような患者に投与された。麻薬のような、その薬がないと生きていけなくなるような、中毒性や濫用して、幻覚を見るような害がなかつたと最初は思われていたらしい。しかし、試用期間中に、使用している患者の調査をしていくうちに、極端な攻撃性がその性格にあらわれて、もっとも顕著な例は鬱病でおとなしい性格だと思われていた患者が攻撃的な犯罪、殺人や強盗に走るという事例がわかり、何人もの患者に事故が起こった。そして、さらにわかったことは今までは体力的に劣っていたと思われた患者がその薬を投与されることによって筋力が二倍にも上がっていた。研究者がその筋肉の組成を調べるとたんぱく質の組成が変わっていた。そして、患者はその数ヶ月後に死亡した。この事実は一部の研究者しか知らなかったらしい。その研究者たちのあいだで、その薬につけられた名前は「悪魔の吐く息」だった。村上弘明には松田政男の開発した新薬が短期間の間しか主に臨床によってしか使用されなかつたというのも耳新しいことだつたが、その薬の副作用として筋肉の化学変化、そして死にいたるということも意外な事実だった。そこで、村上弘明はK病院のゴミ捨て場で出会った幽霊のような若者のことが思い浮かんだ。今泉寛司の話しによれば、福原豪の子供は一人をのぞいて全て女らしい。そして一人だけ子供がいるが、その子供は精神を病んでいるという話しだ。あのゴミ捨て場の柵の向こうで薄気味悪くこちらを見た若者の顔が思い浮かぶ。そのときはそんな印象はなかったのだが、矢崎泉の「悪魔の吐く息」の話しを聞いてからはある想像が村上弘明の心のうちには浮かぶのだった。それはK病院にあると言われる部屋の中がスポンジで覆われていて表面に厚いビニールが張ってあるという部屋、もしかしたら、福原豪の一人息子、あそこにいた若者がその薬の服用をしているのかも知れない。それで手がつけられないくらい暴れるので、その部屋に隔離するのかも知れないと思った。
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(小見出し)大阪市内にある九州の方から進出しているというパチンコ、チェーンのある一店にゴト師のグループがよく来るという情報をつかんだ村上弘明はその店に取材に行った。最近のヴィデオカメラの性能は著しく、その手口を全て隠し撮ることができた。放送をするときにはもちろん、顔にはマスクを入れる。村上弘明は警察ではないのだから。そのテープを制作室に持って行って編集をしていた。東京にいたときには考えられないことだった。本社では完全な分業体制が決まっていてめったなことでは制作室に入るということはなかったが、ここではよく自分みずからテープの編集をすることがあった。テープを編集機に挿入するとメニュー画面がモニター画面上に現れた。早送りで再生していくと今撮ってきた映像が現れた。ゴト師の指先を拡大してみる。撮られていることを知らない彼は手に持った発信器のスイッチを入れているようだ。パチンコ台の基板についている電子機器に誤動作をおこさせようというやり方だった。ビデオテープが無機質な回転音を立てているのを聞いていると若干の疲労を覚えた。少し離れたところに置いてある内線電話が鳴った。内線電話は二度ほど転送されて制作室のこの電話にかかって来たらしかった。受付の守衛の声が聞こえた。
「吉澤さん、こちら、受付ですが。今、服部良子さんというご婦人が尋ねていらっしゃったんですが。服部さんは、以前に一度お伺いしたことがあると仰っています。」
村上弘明は服部良子と言われても誰のことか、皆目見当がつかなかった。知り合いの飲み屋やプロダクションの人間のことを思い出してもその名前は浮かんで来ない。
「K病院のゴミ問題で以前、お伺いしたことがあるそうですよ。」
そこで村上弘明はその主婦のことを思いだした。そもそも、K病院のことを調べるきっかけを与えてくれた女性だ。最初はK病院のゴミ問題からこの取材は始まったのだ。村上弘明は最初に会ったときと同じ応接室に彼女を通した。前に来たときと同じように彼女はショッピングバックに資料らしきものをたくさん入れて来ていた。
「その後の取材の進行具合をお伝えしていなくて申し訳ありません。K病院や福原豪のことをいろいろと調べているところです。調べれば調べるほどいろいろなことが出てきますよ。」
「そうでしょう。じゃあ、あのゴミ捨て場も見て来たんですか。」
「もちろんですよ。写真もちゃんと撮ってきましたよ。」
「ただ、取材を頼むだけじゃ、なんだか、まどろっこしくて、私なりにあの病院や福原豪のことを調べたことがあるんです。」
服部良子が持って来たショッピングバックには彼女が調べた資料が入っているらしい。彼女はバックの中からテープレコーダーを取りだした。テーブルの上に置くとそのスイッチを押した。音が出る前に、さらにバックの中からカセットテープを何本か出して来た。みんな三十分の短いテープだった。
「これはみんなK病院や福原豪の自宅に電話をかけたときの録音です。」
やがてテープレコーダーのスピーカーから音が出始めて、電話特有の機械的な音声が聞こえた。それはみんなありきたりな電話の応対だった。それから彼女はアルバムを取り出すとまたテーブルの上に広げた。
「これは。」
「K病院の入り口やゴミ捨て場、福原豪の自宅入り口あたりに張り込んでいて撮った写真です。」
明らかに、市民のやる範囲を逸脱しているように村上弘明には思えたが、このくらいやらなければ、K病院の謎はとけないのかも知れなかった。写真の下には撮影した年月日時間、場所などが記入されていて、K病院や福原豪の裏の姿の一部を写している。彼女に夜中でも写すことのできる赤外線カメラを貸し与えていればこの三倍の量の写真を手に入れることができるかも知れないと村上弘明は感じた。そこには病院の出入りをしている病院の職員、大きな外車で豪邸から出ていく福原豪の姿があった。病院のゴミ捨て場では病院の職員がビニール袋を抱えてゴミ捨て場の柵を越えてゴミをほおり投げている連続した写真が何枚かあった。
「おっ、これは。」
村上弘明の興味をさそう写真があった。ゴミ捨て場のところに、あの幽霊のような若者がまた写っていたのである。
「この若者は。」
「この人ですか。福原豪の一人息子の福原一馬ですよ。吉澤さんはご存知なかったのですか。福原豪の一人息子の福原一馬は鬱病であの病院に入って治療を受けているという話しですよ。でも、比較的自由で病院を自由に出入りしているみたいですね。この日もゴミ捨て場のあたりをうろうろしていて何か捜し物をしているようでした。よく、ゴミ捨て場のあたりでこの人を見ますよ。」
すると福原一馬は何を探しているというのだろうか。村上弘明には疑問が残った。
「それより、これを見てください。こんな危険なものが棄てられているんですよ。」
そう言って服部良子は再び、ショッピングバッグの中からK病院を告発するための証拠の品を取り出した。そしてそれをテーブルの上に置いたが、他の証拠とは受けるインパクトが違っていた。まず第一にテーブルの上に置かれたとき、堅い物同士がぶつかりあう、かちんという音がしたからだ。それは茶色のガラス瓶だった。瓶の側面に張られた紙のラベルは相当に汚れていたがRDー153という名称がたしかに見えた。瓶の底には五、六錠の錠剤が残っていた。薬が削れて粉になり、その粉が茶色の瓶の内側に付着してガラスが曇っている。
「こんなものが、あのゴミ捨て場に棄ててあるんですよ。こんな、なんの薬かわからないようなものが。私もどんな薬か、わからないから、近所に来る野良犬に肉の中にはさんでその薬を食べさせてみたんです。すると、急に狂ったように駆けだして、ブロック塀にものすごい早さでぶっかっていったんです。そしたら、あの厚いブロック塀が壊れて、そのまま野良犬は川の方に走っていって川の中に入るとそのまま溺死して泥水の上にぷかぷかと浮かんで流れて行きました。」
「ここにある以外にこの薬はありますか。」
「いいえ、ありません。」
「この薬がどんなに危険なものか、わかりませんから、私が預かります。いいでしょう。幸い、私は化学研究所に知り合いがいますから、この薬を調べてもらいます。もちろん、その結果はお知らせします。」
「そうして貰えれば一番安心です。」
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新聞部の第二の部室と呼んでもよいような掘っ建て小屋、そこはかつてはウェートリフティング部の部室で、校舎から離れた校庭の片隅の林の中にわすれられたように建っている。昔はここをウェートリフティング部が使っていたのだが、今はその部もなくなっているので新聞部の休憩室のようになっている。もちろん、学校の許可を取っているわけではなく勝手に吉澤ひとみたちが使っているのだった。この朽ち果てた木造のおんぼろ小屋の中にはかつてその部が存在していたときに使われていたバーベルやダンベルが赤錆たまま、放置されていた。吉澤ひとみ、松村邦洋、滝沢秀明の三人はここで同学年の生徒が来るのを待っていた。手持ちぶさただった滝沢秀明は試しに赤錆たバーベルを持ってみたが、すぐに自分の手がその赤錆で汚れたことに気がついて手を離した。半分割れかけたドアをようした引き戸があいて吉澤ひとみたちと同学年の深見美智子がこの小屋の中に入って来た。
「待たせてご免なさい。」
「詳しく、話すからって廊下のところではあまり詳しい話しは聞けなかったんだけど、どういうことなの。」
今日の昼休みの昼食の時間に吉澤ひとみたち、三人は一階の職員室と正面ホールに挟まれた食堂で昼食をとろうと思って職員室の横の廊下を通って食堂へ行く途中、教会のミサをおこなう講堂のような大ホールの方から同学年の深見美智子がやって来て声をかけられたのだった。ちょうど、職員室の前だったので深見美智子は詳しい話しもすることもなく、あとで校庭のはずれにある元のウェートリフティング部の部室だった掘っ建て小屋で待っているように言われたのだった。吉澤ひとみにはぴんと来るものがあった。教室の中で兄の弘明と連携しているK病院の取材について話しているとき、たまたま語学でひとみたちのクラスに来ていた深見美智子がその会話を聞いていたのだ。吉澤ひとみの高校は英語に関しては成績順にクラスわけがなされていて、深見美智子、吉澤ひとみ、松村邦洋、滝沢秀明の三人は同じ成績だったのでその時間は席を並べていた。その授業が始まる前の雑談をしているとき、三人が村上弘明につれられてK病院に関する取材をしていたときの話しをしていたとき、深見美智子はその話しを聞いていたらしい。こっちを向いている深見美智子の視線に気づいて吉澤ひとみが深見美智子の方を向くとあわてて、彼女は目をそらした。そのとき、きっと吉澤ひとみが高校生の身でありながら日芸テレビの報道関係の仕事の一翼を担っていることに興味を持ち、何か彼女自身にもそのことで日芸テレビを含めて自分たちに用があるのではないかと思った。
「あの、吉澤さんのお兄さんって日芸テレビで報道探検隊って言う番組をやっているんでしょう。」
「そうよ。」
「それで、あなたたちが教室で話していたのを聞いたの。お兄さんと一緒に取材の仕事も手伝っているって。」やはり来たか。と吉澤ひとみは思った。深見美智子は何か、取材対象を持っているのかも知れない。吉澤ひとみは深見美智子のことをあまりよく知らなかった。ただ、彼女の家が歯医者をやっていてわりと裕福だということは聞いたことがある。松村邦洋はもっといろいろなことを知っているらしかった。
「美智子の家の血統書付きの犬をテレビに出してくれって言うのや、ないだろうな。あかん、あかん。そんなこと。テレビを私的なことに使ったらあかんがな。」
「そんなことや、ないよ。でも、かなり関係のあることだけど。」吉澤ひとみは深見美智子の家族全員がかなりの犬好きで、特に美智子の母親は犬好きが高じて何度も自分の犬を品評会に出すような女性だということを知った。
「この町で犬の虐殺が何度も起きているのを知っている。」
深見美智子は伺うような目をして吉澤ひとみに尋ねた。
「さっき、美智子は犬を何匹か飼っているって言っていたわね。あなたの飼っている犬が殺されたの。」
「ええ、最近、買った犬なんだけど、いなくなって、おかしいなと思って、その夜は家に帰って来なかったの。そうしたら、次の日の朝、川に浮かんでいるのが発見されたの。おなかがぱんぱんにふくれていたのよ。」
深見美智子の顔には苦痛があふれた。
「誰が、そんなことをしたの。犯人はつかまらないの。」
「それが私の家だけや、ないのや。犬の愛好家の中ではその噂で持ちきりなんやけど、もうそんな事件が七件もこの町で起きているんや。一体、これはどういうことなの。」
吉澤ひとみはこの町でそんな事件が起きているなんてことは全く知らなかった。
「それだけじゃ、ないのよ。私たちがこんなに悲しい思いをしているのに、それを商売にしようとしている人間がいるのよ。」
「商売にしているって、どんなこと。」
吉澤ひとみは深見美智子の真意がわかった。その犬の失踪、もしくは虐殺を商売にしている人物を番組、つまり、村上弘明のやっている番組、報道探検隊で取り上げてもらいたいと思っているのだ。
「商売にしているって、どんなこと。」
吉澤ひとみは再び、深見美智子に尋ねた。
「商売にしているというからには、お金を要求しているんでしょう。どんな方法でお金を要求してくるのよ。」
そのことに関しては深見美智子はいまいち確信が持てないようだった。
「お母やんなんかは、あれは詐欺なんかじゃないなんて言っているんだけど、私は絶対に詐欺に違いないと思うんや。だってお金を要求してくるんだもの。」
「お金を要求してくるってどんな方法をとるのよ。具体的に教えてくれる。」
「そうや、具体的にどんなふうにだまし取られるのか、聞かないことには何とも言えないやないか。そうやろ。滝沢。」
深見美智子は引っ込み思案な性格のようだった。自分では、詐欺だから告発するという心構えだったが、いざ、そのことを言うのは、躊躇しているようだった。
「昔、日芸テレビに勤めていて、報道探検隊の村上弘明とも友達だって言うのや。」
「そりゃあ、嘘だ。妹の口から言うんだから、これは間違いない。大阪に兄貴が来たのは初めてだし、大阪には兄貴の昔からの知り合いなんていないもん。兄貴から、そんなこと、聞いたことないもん。」吉澤ひとみは断定した。その彼女の言葉に安心したのか、深見美智子はこのおんぼろ小屋に置いてある一段の背の低い跳び箱に座った。跳び箱の上のあんこは破れていて、藁が飛び出していて、ほこりが被っていて、そこに座るとスカートがほこりで真っ白になってしまう。座ろうとした深見美智子に底に座るとスカートが真っ白になってしまうと滝沢秀明は言おうと思ったが無駄だった。滝沢秀明がそう言う前に深見美智子はそこに座ってしまった。
「これは、うちだけではないんやで。この町に住む犬の愛好家はみんな知っていることや。わての家に来たとき、犬の失踪事件、もしくは虐殺事件が起こっているのを知っていますか。と聞いてきたんや。そんなことのあった家の住所、名前や、日時なんかもみんな知っていた。それでお宅も犬の愛好家だから、犬の安全を守るのはどうかと聞いてきた。それでお母やんが、そんな事件のことや、うちが犬を何匹も飼っていることがどうして分かったのかと聞いたんや。そうしたら、日芸テレビ、報道探検隊、村上弘明の名刺を出して、私はこの人の知り合いです。今は内密ですが、この番組が今回の犬の怪事件を調べ始めています。私もそのことを彼、つまり村上弘明さんから聞いて知りました。そのつてで犬の愛好家団体に連絡してこの町の犬の愛好家を調べていき、お宅様の住所氏名を知ることができました。しかし、このような事件はペット産業が盛んなフランスでは昨日今日、始まった問題てせはありません。すでにフランスではこういった問題に対処する方法が確立しています。そう言ってかばんの中から二つの機械を取り出したんや。二つとも愛犬の首に付ける機械だと言っていた。一つは小型無線テレビカメラでこれをつけておくと愛犬の目線で外部の対象を見ることができる。無線でその映像は飛ばせるから、家の中に受信機を用意すればりあるタイムで愛犬が何を見ているか、知ることもできるし、家庭用のヴィデオでその映像を録画することも出来る。そして、もっと小型の機械も取り出して、そっちの方の説明も始めたんや。それは最初の機械よりもうんとちっちゃな機械やった。最初のテレビカメラも充分、小さな機械やったんだけどな。こつちはナビゲーターシステムで衛星を使って愛犬の位置を正確に知ることが出来る、この二つの機械をわんちゃんの首輪につければあなたのわんちゃんの安全は確実だって。」
「その人、どんな人だったの。美智子の話だと女の人か、男の人かさえわからないんだけど。」
昔からこういう手の押し売りはよくあった。道を歩いていると易者に呼び止められて、火難、水難、女難の相がある。拙者、かくかくしかじか、幾多の奇禍に遭遇し、熊野の深山の山伏や遠く唐土の土を踏み、顔相や八卦を見る術を心得ました。貴殿がそこを通り過ぎるのを見てはっとしてあやうく持っていたたばこを取り落とすところでした。私があなたの手相を見てしんぜよう。と言ってぱっと筮竹を机に打ち当てる。そこでとどめにはあなたの顔には死相があらわれている。すぐ三メートル後ろに死に神の姿がわたしには見える。このごろ変な夢を見ることはありませんか。云々。そして、しまいにはありとあらゆる災厄から身を守るというお札や占いの本を売りつけるというのがそのパターンなのだが。そのときの易者というのは山羊髭の丸めがねと決まっている。「それが、若いとは言えないけど三十くらいの女なの。ちょつと小ぎれいなブランドを身につけて、小柄でまあ、顔は十人並みというところや。」
「美智子の家にだけ行ったのではないの。」
「ええ、この町の愛犬家の家にはみんな言っていたみたいや。」
「美智子の家ではすでに飼っていた犬が誰かに殺されちゃったわけでしょう。」
「それで、その女、そのときのことを詳しく聞いてくるんや。どこで犬を見失ってしまったか。いつ、いなくなったのか。最近、変わった人に出会わなかったか。他人との利害関係で争った人物はいないかとか、何かの集会で感情的対立の場面に出会わなかったかといろいろと聞いてきたわ。」
「何で、犬が死んだぐらいで、まるで刑事みたいにそんないろいろなことを聞いてくるのやろ。その女、保健所の職員か。」
松村邦洋もよこから口を出した。
「私の家の犬はそんなこともなかったんだけど。相当すごい殺され方をした犬もいるみたいや。その女も言っていたし、知り合いの愛犬家のおじさんも言っていたわ。」
「犬の惨殺事件やな。」
松村邦洋は持っていた小枝で地面の土塊を掘り返した。
「それで、わてがこの女は詐欺師やないかと思うのわ。何で、報道探検隊のひとみの兄さんの名刺をわざわざうちなんかに見せるかと言うことが一つやろ。」
「もう一つ、そう思う理由があるの。」
吉澤ひとみは深見美智子を見つめながら言った。
「さっき、お宅のわんちゃんにこれをつけておけば安心だと言って二つの機械を見せてくれたと言ったやないか。わんちゃんの目と同じ、わんちゃんが見ているものと同じものが見られるというカメラ、それにわんちゃんのいる位置が特定できるというナビゲーター装置、両方こみで一日千円で貸すというのや。ただで貸したいのはやまやまなんだけどそれではわんちゃんの安全を守るという私の仕事が成り立たないのでお値頃な価格でお貸ししますというのや。一日千円なんて高すぎると思わん、ぼったくりやで。」
「うん、でも、こっちの方が労働や技術という対価を払っているんだから、その報酬を払うのも道理にあっていると言えないこともないんじゃないかな。それで世の中の仕組みは成り立っているんだから。」
今まで黙っていた滝沢秀明が言った。
「でも、言っていることが気に食わないんや。何で、ひとみの兄貴の名刺なんか使わなければならないんや。それにうちにいろいろなことを言ってくるんやで。」
感情的に反発を感じたらどうしようもないだろう。
「言い方がそれらの機械を使わなければ飼っている犬がみんな誰かわからない何物かに殺されてしまうんだろうと言うんや。全く、縁起が悪い。」
深見美智子の家では犬を二匹飼っていた。大型の秋田犬とマルチーズだ。殺されたのは秋田犬だった。家に鎖でつながれていて家の敷地の外には飼い主が外につれて行かなければ外に出る可能性はない。しかし、深見美智子が家族と一緒に和歌山にいる親戚の家に行き、一日家をあけたとき、家に帰ると秋田犬はいなくなっていた。そして犬は惨殺されて見つかったのである。そのことについてその犬のボディガードはいろいろなことを聞いてきた。その秋田犬とは関係がないと思われる深見美智子や家族のこともいろいろと聞きただした。過去の人間関係などもである。その家族に対する怨恨だったとしたら、犬に八つ当たりをしても何の意味もないと思われる。それにこの犬の惨殺事件の被害者は深見の家族だけではないから、彼女の言うことも一理あった。もう一匹の飼っている犬はマルチーズという室内犬だつたから、もし、その犬が被害に遭うなら犬の誘拐ということになるだろうが、室内から出さなければそんな目に遭う可能性ははなはだ低いだろう。必ず犬が惨殺されるという言い方は飼い主の感情をあおる扇情的なやり方だといえないこともない。「お母やん、すっかり、その女の口車に乗っているのや。」
深見美智子は彼女の母親がすつかりその女のペースに乗せられたことが不満の大きな部分をしめていたのかも知れない。
「三日間、機械を貸し出すから、これに記入してくれと言われて調査用紙まで渡されたんやで。」
「その犬のボディガード屋さんって名前は何て言うの。」
「下谷洋子っていう名前よ。」
栗の木団地の自宅に戻って来た村上弘明はヴィデオデッキの前に行くとあわてて鞄の中から帰宅の途中で買っててきたヴィデオの生テープを取り出した。録画しておきたいスポーツ中継があったのだ。カセットをデッキの挿入口に滑り込ませて、自分の机の前に座って以前、温泉旅行に行って土産物屋で買った木彫りのふくろうの置物をいじっていると書斎のふすまがあいて中に吉澤ひとみが入って来た。ひとみの服装は上は水色の薄手のカーディガン、下にはモスグリーンのコール天のズボンをはいていた。その服は身体にぴったりとして悩ましかったが彼女自身にはその意識がないようだった。
「兄貴、今度の日曜日、暇なんでしょう。」
吉澤ひとみは本棚の上に置いてある吊り橋のような形をした時計をなでながら言った。吉澤ひとみは策略家だ。実の兄に対しても親しげな態度や冷たいとりすました態度を使い分けることができる。村上弘明はそんな彼女の魂胆に気づきはするものの彼女の女性としての魅力にあがない切れずに、つい苦笑いしてしまうのだった。
「福原豪に関する情報の進展はあったの。」
吉澤ひとみも松田政男事件に関してはすっかりと取材の一員になっていた。
「川田定男というフリーのジャーナリストに連絡を取ろうとしている最中だよ。この男が福原豪に関してはかなり詳しいらしいんだ。しかし、なかなか、連絡がとれなくてな。」
「何で。すぐに福原豪に関することを教えて貰えばいいじゃない。」そう言うと吉澤ひとみは書斎に置いてある椅子を中央の方に、と言っても書斎の大きさは六畳しかなかったが、持って来て逆向きに椅子の背もたれの方で肘をかけて座った。
「それが住所も電話番号もわからないんだよ。ときどき、雑誌社にルポを載せているけど、それも社会正義や好奇心から出発した記事じゃないらしいんだ。」
「じゃあ、何のために、それをしているの。」「どうも、自分のやっている商売、ゆすりを効果的にやるための道具にしているらしいんだな。それで、川田定男の住所も電話番号もわからないというのは彼がそれが誰にもわからないように用意周到に行動しているからなんだ。しかし、ルポの方はかなり深いところの内実まで探っているし、正確だから、雑誌社の方も問題なく載せているんだよ。」
「ゆすりの片棒を担いでいるなんて、雑誌社の方にもかなり問題がない。」
「まあ、そう言われればそうだけどね。」
「じゃあ、その川田定男というゆすり屋は全く正体がわからないの。」
「そういう危ない橋を渡っている人物だから、誰にも自分の正体がわからないようにしているのさ。でも、噂によると左胸の上の方に天秤はかりのあざがあるという噂だ。」
「天秤ばかりは真実と嘘を計りにかけるというわけなのね。」
「まあ、そんなことだろうが、ゆすりという犯罪をやっているわけだから、矛盾しているさ。」
しかし、村上弘明は福原豪の身辺を調査するためにそんな人物の力を借りなければならないのである。
「友達から変な詐欺師の話を聞いたの。まあ、最初から詐欺師だという話しではないんだけど。兄貴、今まで配った名刺の行き先は全部知っている。そいつは兄貴の名刺を持っていたんですって。」
ひとみの話している人物が自分の名刺を持っているということを聞き、村上弘明は俄然、その話しに興味を持った。
「名刺なんて、めったに僕は他人に渡さないようにしているんだがな。島流しにあった俺の名刺なんて使って一体どんな利益があるというんだい。」
「それが、兄貴。犬の迷子の防止機を高い値段で売りつけているというのよ。小型の無線カメラとGPSなんだけど、それがあれば全部あなたの愛犬の行動は逐一把握できるというふれこみで、高額な値段で愛犬家に貸し出したり、売りつけたりしているの。何でも、絶滅種野生動物調査のために開発されたという装置らしいんだけど信じられないくらい小型にできているの。それをつける動物の行動に支障がでないようにするためだと思うわ。いろいろな付け方があるらしいんだけど犬の場合は首輪に仕込むみたい。この町の愛犬家たちはみんなそれを買ったり、借りたり、それも高額でしているらしいわ。」
机の背もたれにひじをのせながら、吉澤ひとみは目をくりくりさせて村上弘明の方を見た。「でも、何で。ひとみの言う詐欺師みたいな人物のそんな装置を高額で買ったり、借りたりしているんだ。」
村上弘明はこの町で多発している犬の惨殺事件を知らなかった。
「犬の惨殺事件が多発しているのよ。愛犬家のあいだではその話題で持ちきりらしいわ。それで今日、同じ学年の女生徒の深見美智子という女の子から、そんな押し売りみたいな女性が家にやって来てそんな装置を置いていったという話しを聞かされたの。そのとき、この町で犬の惨殺事件が多発しているということと、その女性が兄貴の名刺を置いていつたということもね。きっと、深見美智子は女の直感でこの女は怪しいと思って兄貴の番組で取材調査してもらいたいと思っているのよ。だって犬が死んだことぐらいで家族の個人的なことをいろいろと聞いてきたんですって。犬が死んだぐらいでそんなことをするかしら。それも深見美智子の話によると他の愛犬家の家でもそんなことをしているみたいなの。」
「その女性は何て言う名前なんだ。」
「下谷洋子、深見美智子の話によると小柄で年齢は二十代後半から、三十を少し出たぐらいだとか、言っていたわ。来たときは**というブランドのスーツを着てきたそうよ。」村上弘明は**というブランド名を聞いてもさっぱりとわからなかった。それで東京に居たときは何度か岬美加に馬鹿にされたことがある。その岬美加も今は遠く東京にいるのだ。
「とてもじゃないが無理だね。今は福原豪の身辺を洗うことで精一杯だから。福原豪のことをかなり深く調べていると言われる川田定男を見つけだすことさえ出来ないんだから。とても、ひとみの同級生の手助けなんか出来ないよ。」
「同級生じゃないわよ。同学年。」
吉澤ひとみは少し唇を尖らせた。
「兄貴がたよりにしている川田定男って何者なの。単なる雑誌記者、それも同時に恐喝をやる、単なる犯罪者でしょう。」
「単なる、犯罪者なんだけど、いろいろな有力者の弱点を全て握っている。彼が全てをあらいざらいぶちあける気になれば政治家、高級官僚、大会社の重役、日本の根幹を握っているような全ての権力者がその地位を危うくする。だから、すねに傷を持つ連中は彼の居場所をいつも狙っている。この前の尼崎で起きた、**組がかかわったといわれる暗殺事件があるだろう。あれは川田定男を某有力政治家が**組を使って暗殺しようとした結果だと公安の連中が言っていた。でも、川田政男はその正体を知られていないから、人間違いで殺された人物が居たことは悲しい事実だよ。その後、**という政治家が国有地の再開発事業に関する不正リベート事件で捕まっただろう。あれは川田定男が彼を地検に確実な証拠を持ってさしたからだと言われている。また川田定男はそれらの人間の弱みを全て握っていて、それらの証拠はもし、彼の身に何かがあったときには信用のおける国内外の機関に提出され、彼らの暗部が全て明るみに出ることになっていると言われている。どっちにしても彼がそう言った人間に命を狙われていることは違いがないのさ。だから、自分の恐喝を効果的にするために、ルポを書き、決して自分の素性がわからないように雑誌などに発表している。」
「まるで加藤**や、許**みたいだわね。」高校生の吉澤ひとみでもかつて仕手戦や大掛かりな詐欺事件の主犯格の加藤**、許**の名前は知っていた。
「しかし、彼の少し違うところは伝説のルポライターと言われているところだ。」
ここで吉澤ひとみは笑い出した。自分の兄ながら何を言い出すのだろう。人の暗部をほじくり回して、金を稼いでいるような人間に対して。
「兄貴、単なる恐喝専門の犯罪者でしょう。何、入れあげているのよ。」
「それが、単なる犯罪者でないことは、彼のメジャー石油資本、日本におけるその人脈と関係した企業というルポを読めばわかる。あれでこの前の日本の税制にそのことが盛り込まれているからさ。その内容の有益性は政治にかかわっているものなら誰でもわかるさ。」
そう言われても吉澤ひとみにはその内容も分からないし、税制がどうなっているかなどとは全く興味がなかった。ただ、川田定男のことを語るとき、村上弘明の目が恋をしているように輝いていて、男同士なのに少し気持ちが悪い気がした。
「兄貴、その人のことが好きなの。」
村上弘明はあわてて顔を赤くしながら否定した。
「馬鹿を言うなよ。」
「でも、実際にルポを書いて雑誌に載せているわけでしょう。これはすごい証拠だと思うわ。だって自分自身に関する証拠を公開しているようなものじゃないの。そこから足がついて、正体がばれてしまうということはないの。」
「ルポの中でうっかり漏らした個人的な情報があるんだ。」
「どんなこと。」
吉澤ひとみは政治的な重要性より個人的な話しの方が興味があった。「身体的なことなんだけど左胸、鎖骨の少し下に最初に言っただろう。てんびんの形をしたあざがあると自分で言っている。」
「虚偽と真実を計りにかけるという計りね。どうも裏の世界で暗躍する川田定男にしてみてはふさわしくないんじゃないの。」
「でも、彼は福原豪の裏の顔は全て知っているよ。川田定男にその情報を提供して貰えば福原豪の真実の姿は丸見えになるさ。」
「それでどうやって川田定男に福原豪の情報を提供して貰うか、頼むの。」
吉澤ひとみがそう言うと村上弘明は彼女の方を向いていた椅子をくるりと回転させて自分の机の方を向いた。村上弘明の書斎にある彼の机はスチール製の味も素っ気もないものだった。四本の足は黒い塗装がなされていて天板はプリント印刷された木目調、天板の下には木目調の下の部分を同じ大きさで分割している引き出しが二つ付いている。片方の引き出しの中には鉛筆やサインペン、はさみなどの文房具が入っていてそれらは乱雑に引き出しの中を占有しているだけだった。もう一つの引き出しの中には郵便番号簿や最近買ったビディオデッキのマニュアルや保証書がやはり乱雑に整理されずに入っている。主に大事な本やメモなどは同じ部屋の壁に埋め込まれている収納戸棚の中に入っている。しかし本当に重要な物はめったに見ないので整理箱の中に入れて押入の奥の方にしまわれていた。木目調の机の上には一枚の大きな厚いガラスが置かれ、そのガラス板の上にはその日その日の買って来た新聞や雑誌、誰かの旅行の土産で貰った菓子折などが放り投げてあることが多い。しかし、常に机の上に常駐している物もある。テレビ局の行き帰りのときに買ったアールデコを真似ているが、全くのまがい物のランプと上高地に東京にいたころ、岬美加と旅行に行ったとき買った木製の河童の人形だった。その河童の人形がうらめしそうな顔をしてこちらを見ているのは机の上に乱雑に置かれた五、六冊の雑誌のために机の上を占領されているからだろうか。机の方を向いた村上弘明はそのうちの一冊の雑誌を取り上げた。経済誌ではあるが学問的ではない、それなりの体裁を整えてはいるが時として、有力な経済人や政治家にパンチをかませる、いわゆる一癖ある雑誌だった。それを片手で取ると村上弘明は椅子をくるりと返してまた吉澤ひとみの方を向いた。
「川田定男は近々この雑誌に何かスキャンダルを書いてよこすという噂があるんだ。裏の世界ではそういう噂が流れている。それも皆たぶん、川田定男が流した噂だと思うんだけどね。これに川田定男の方から連絡が行ったら僕の方につないでくれるように頼んであるんだ。」
そのとき、キッチンの方に置いてある電話が鳴った。吉澤ひとみはキッチンの方へ行くと、電話を取った。
「もしもし、吉澤ですが。」
電話の向こうから今日聞いた声が聞こえて来た。
「ひとみ、深見なんだけど。あなた、今日、あなたに校庭の裏のおんぼろ小屋で会ったとき、忘れ物をしていたでしょう。あなたたちが帰ったあとであたし、見つけたの。あとで学校であなたに渡そうと思ったんだけど、あなた、いろいろな教室をわたり歩いているんですもの。つかまらなくて。あなたの家に持っていくわ。」
そう言われても吉澤ひとみには自分が忘れ物をしたという記憶はなかった。
「ええ、忘れ物なんか、したかしら。」
すると電話の向こうの深見美智子は吉澤ひとみに何も言わせたくなかつたのか、矢継ぎ早に言った。
「いいの、いいの。あなたが忘れたものを持ってこれからあなたの家に行くから。」
吉澤ひとみが何も言わないうちに深見美智子は電話を切った。
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(小見出し)可愛い子犬
玄関のチャイムが鳴って吉澤ひとみがドアの除き窓からその姿を覗くと少し球面に変形したような映像で深見美智子が立っていた。吉澤ひとみがドアをあけると深見美智子が一人だけで来ているわけではないことに吉澤ひとみは気づいた。両手に持ったかばんの一つアメリカの郵便ポストみたいなかばんの中から、わん、と言う鳴き声が聞こえ、深見美智子はそのかばんを開けると中にいた犬を叱りつけた。
「権三郎、鳴くんじゃないの。」
そう言うとバスケットの中にいたマルチーズは居たたまれないように首をすくめた。
「あなたに相談したいことがあるの。」
深見美智子が吉澤ひとみが彼女の家に忘れ物をしてそれを持って来たというのは嘘だったと彼女には分かった。今日、深見美智子と話したときに登場した下谷洋子に関しての話しかもしれない。
「おじゃまします。」
そう言うと深見美智子は吉澤ひとみの後をついてひとみの家の奥までどんどんついて来た。と言っても玄関から通じる廊下を通り抜けるとキツチンに達してしまうのだが。キッチンをさらに通り抜けると村上弘明の書斎に達する。キッチンには風呂から上がったばかりの村上弘明がキッチンのテーブルの上で家計簿をつけていた。テーブルの上には吉澤ひとみがいれてくれたコーヒーがのっている。
「こんにちわ。わぁー、テレビで見ているのと同じだ。初めまして。私、ひとみさんと同じ、S高校に通っている深見美智子と言います。」
どちらかというと引っ込み思案な方の深見美智子だったが、目の前に報道探検隊という番組に出ている村上弘明がいるので多少興奮していた。
「今晩は。」
女子高生に家計簿をつけているところを見られて多少閉口している村上弘明ではあったが、そこは人気者のつらいところで笑顔を返した。
「改めて紹介するわ。報道探検隊メイン司会者、村上弘明氏よ。」
吉澤ひとみがおどけて言った。
「はじめまして。光栄です。私、ひとみさんと同じ高校に通っている深見美智子と言います。報道探検隊をやっている村上弘明さんにお会いできて光栄です。」
そう言って深見美智子は家計簿をひろげたまま椅子に座っている村上弘明に純心な高校生らしくぴょこりと頭を下げたが、それが本当のことか、どうなのか、村上弘明にはわからなかった。高校生が見るには自分の持っている番組は少し堅い気がしたからだ。また、深見美智子が自分の母親が勝手に進めている愛犬保護計画に反発して下谷洋子の口車にのせられてしまった事件の取材をしてもらいたいという下心があるからだろうかとも思った。そして自分の妹が高校生であるにもかかわらず高校生に対してどう接していいかわからないという部分もあった。
「あの、ひとみ、話してくれた。」
「少しね。」
「まあ、そこに座りなさいよ。ひとみ、たこ焼きを買ってきたのを忘れていたよ。ほら、そこ、冷蔵庫の横に置いてある。電子レンジで暖めればいいじゃないか。」
村上弘明は冷蔵庫の横にあるたこ焼きの包みを指し示した。あとで吉澤ひとみと一緒に食べようと思って道頓堀で買って来た品だったが三人で食べても支障のない数があった。
「お茶を入れてあげるね。」
村上弘明はテーブルの上に伏せてある湯飲み茶碗をふきんをはずしてお茶を入れ、今、腰掛けた深見美智子の目の前においた。深見美智子の横に置いてある二つの荷物の一つの方、籐かごのバスケットに入っている子犬のマルチーズがまた一声、吠えた。
「権三郎、静かにしなさい。よその家にお邪魔しているんですからね。」
そう言うと深見美智子は足下にいるマルチーズを睨みつけたが、その犬は何故だか、わからず、尻尾を振って深見美智子の方を見て舌を出した。たこ焼きを持って来た吉澤ひとみは深見美智子の横に座って彼女の方を見た。
「忘れ物って、何、なにか、私、忘れ物をした。」
した、というところに変なアクセントをつけて回答のわかっている質問を吉澤ひとみは深見美智子にした。そこで何も知らない深見美智子のマルチーズはまた飼い主を呼んで、わん、と吠えた。
「実はあなたに相談したいことがあったの。
何か、理由をつけないとあなたの家に行きにくいやんか。」
深見美智子はすんなりと本心を言った。
「それで権三郎と一緒にひとみの家に来たんや。なあ、権三郎。」
ただ相談するだけなら電話でもできる。わざわざ栗の木団地の吉澤ひとみの家にまで来たのは兄の村上弘明にも話しを聞かせたかったのかも知れない。彼女の飼っている犬をつれてきたのは一体どういうわけだろうか。かごの中に入っているマルチーズは頭に赤いリボンをつけられている。
「実はこの権太郎のことなんや。」
そう言って深見美智子は自分の飼っている愛犬の方に目を注いだ。
「わての家、台所の隣が洗濯機と乾燥機を置いてあるスペースになっているのや。そこにはこれから洗う洗濯物を入れるかごもあるんやけど。お母やんが権太郎が鳴いているというのでそこへ行ってみたら、その洗い物のかごの中に権太郎が入っているんや。前にもこんなことがあったんや。権太郎を抱いてお母やんが家の前の道路で植木に水をやっていると、近所の書道の先生が買い物の帰りにうちの前を通ったんや。華山美佐という名前の書道の先生なんやけどうちのお母やんがそこで書道を習っているんや。手には大きなショッピングバックを抱えていたんや。それでうちのお母やんと立ち話をするためにそのショッピングバックを置いたんや。」
何のために深見美智子はそんな書道の教師の話をするのだろうか。
「その次の日にわてはまた華山先生に会ったんやけど、先生は最近、年のせいか物忘れがひどくて困るとわてに言うんや。見た目は先生はお母やんよりずっと若いからそんなことはないでしょうと言ったら、昨日難波へ買い物に行って戻って来たらもう何を買ったのか忘れているのや。確かに昨日、毛糸で編んだマスコットを露天で買ったと思ったんやけど家に帰ったら買ったと思った毛糸のマスコットがなくなっているんや。本当に最近は私、物忘れがひどいんよ。
そう言うからわてはそんなことないですわ。先生はわてのお母やんよりずっと頭もさえていますわ、と言っておいたんやけど。」
深見美智子は何が言いたいんだろう。
「それから、この前、テレビを見ていたら、犬にすごい芸を教え込んでいる人がいるんやね。停留所でバスを待っている人がかばんを下におろしてたばこを吸っていたんや。そうしたら、犬の飼い主がダックスフントに命令をするとそこまでするすると近寄って行ってかばんの中にあったさいふをすって飼い主のところに持って来たんや。わての家でも犬を飼っているけどあんな芸当は覚えさせることはできんわ。」
村上弘明は深見美智子の話を黙って聞いていた。
「それでその書道の先生の話の続きなんやけど。さっき、言ったやない、うちの台所の隣に洗濯のためのスペースがあって、いつもそこに洗濯をするための汚れ物がかごに入っているって、うちの権三郎がそのかごを気に入って自分のベットだと思っているのや、いつものようにお母やんがそのかごの中に入っている権三郎をどかして洗濯物を取り出そうとすると中から赤い毛糸のぬいぐるみの人形が出て来たんや。おちはもうわかるやろ。うちの権三郎が道端で書道の先生がショッピングバックを置いたすきにその中に入っていた毛糸のぬいぐるみの人形を口にくわえてうちの汚れ物のかごの中に入れたんや。もちろん、それは書道の先生に理由を言って返したわ。だって、うちでは飼っている犬にそんなことを仕込んではいないもの。」
もちろん、書道の教師の買った毛糸のぬいぐるみの人形の話しをするためにわざわざうちに来たのではないだろうと村上弘明は思った。
「きっと権三郎はそういうくせを持っているのやないかと思うわ。人の靴を持って来る犬は珍しくないんやけど。」
ここで深見美智子はまた一息を入れてお茶をすすった。
「下谷洋子という人がうちに変な機械を売りつけようとして来た日のことなんやけど、うちにはわてとお母やんだけしかいなかったんや。下谷洋子はお母やんとうちに応接間で二つの変な機械を見せて盛んにそれを使うように言っていたんや。そのとき、下谷洋子は機械を入れたかばんを一つ、それから自分の化粧品だとか、メモだとか、入っただろうハンドバックだとかをもう一つ持って来ていたんや。中身を見たわけではないから、そうだろうと思うんやけど。うちの応接間でそれらの機械の効用だとか、他の愛犬家の対応だとかを話していたんやけど、うちの飼っている秋田犬が死んだ話しになって、その犬が入っていた犬小屋を見たいというからうちとお母やんの二人で犬小屋まで案内してあげることにしたんや。応接間には権三郎だけが残っていた。犬小屋で下谷洋子に飼っていた秋田犬のことを説明してまた、家の中に入った。お母やんと下谷洋子はそのまま応接間に戻ったんやけど、わては台所に行ったんや。そうしたら洗い物かごの中で権三郎がちょこんと座っているやないか、そのうえ、口には何かをくわえている。驚いて権三郎の口を見ると女ものの手帳をくわえている。権三郎からその手帳を取り上げてみると中に下谷洋子という名前が書いてある。驚いてそばにあったカメラでそこに書いてある内容を全て写したんや。でも、この手帳の内容が写されたことが彼女にわかるとまずいと思ったんや。それで応接間に行くと下谷洋子はまだお母やんと話していた。下谷洋子はハンドバックの中の手帳を取られたことにはまだ気づいていないようだった。そこでその手帳を彼女が気づかないように返すことを考えたんや。何とかお母やんと下谷洋子を外に連れだして後からついて行くふりをしてその手帳をハンドバックの中に返す。」
「そのまま、美智子が手帳を応接間に持って行き、下谷洋子にわからないようにハンドバックの中に忍び込ませればいいじゃない。」
「女物の手帳と言っても随分と大きかったから持って行ったらすぐばれてしまうわ。それにハンドバックの口は小さいのですりみたいに手先が器用じゃないと彼女に気づかれないようにそれをハンドバックに入れるのは至難のわざや。それでもとにかく返さなければならないからとにかく雑誌の間にはさんでその手帳を応接間に持って来たんや。それでちょっと席を立って同じクラブの友達の石井ちゃんにお芝居を打ってもらうことにした。石井ちゃんに電話をかけたんや。愛犬家のふりをして下谷洋子に用があるということにしてうちに電話をかけてもらうように、そうしたら三分後に電話がかかって来た。わてが最初に出るのは怪しまれるからお母やんが電話に出た。お母やんは石井ちゃんの声を知らなかった。お母やんは本当の愛犬家だと思っていたみたいや。そしてお母やんは下谷洋子を迎えに来た。石井ちゃんの嘘の愛犬家なんて、二、三分しかもたないのは明らかや。下谷洋子が席を立ったときはどきどきしたわ。お母やんは台所の方へ行ってりんごをむきに行ったし、下谷洋子が席を立って見えなくなったらすぐに雑誌のあいだにはさんでいる手帳を取り出して彼女のハンドバックの中に元通りに入れたんや。本当にどきどきもんやったし。」
深見美智子のちょっとした冒険談は終わった。自分の手帳の中身を騙そうと思った相手に盗み見られるようでは大部まの抜けた詐欺師、彼女が詐欺師と確定しているなら、と言わざるを得ない。しかし、子犬に手帳を盗まれるとは彼女自身も想像もつかなかっただろう。
「ここに下谷洋子の手帳の中身を全部写した画像が入っているんや。」
そこで深見美智子の飼っているマルチーズの権三郎がきゃんと吠えた。彼女が差し出したのは半導体の記憶装置だった。深見美智子は若い女の子の持っているようなデェジタルカメラを持っているようだった。
「これを見て欲しいんです。」
そう行って深見美智子はそれを村上弘明の方に差し出した。村上弘明はその小さな電子部品を受け取った。
「ところでその下谷洋子という女性はまた来るのか。」
「たぶん、また来るんやないかと思うわ。」「その人の言っていることは要するに犬の虐殺事件を調べていると言うんだね。」
「本人はそう言っています。その上にこれから起きる虐殺事件を未然に防ぐんだと。」
「どんな人なんだい。外見を具体的に言うと。」
「小柄でうちに来たときはスーツが似合っていたわ。ちょっと綺麗な人。」
そう言った深見美智子の口調には反感があった。その手帳を置いて深見美智子は愛犬と一緒に帰って行った。早速、村上弘明は彼女が撮影した下谷洋子の手帳の中身を見ることにした。台所のテーブルの上にノートパソコンを置いた。テーブルの横にあるコンセントから電源をとる。スイッチを入れると画面がくるくると変わってパソコンが立ち上がった。吉澤ひとみは村上弘明の横にいてその画面と村上弘明の顔の両方を見比べた。村上弘明の顔はパソコンの画面の照明を受けて妖しく光っている。今はすっかり吉澤ひとみは村上弘明の取材の助手になっていた。深見美智子の持って来た半導体メモリーをパソコンの周辺装置につなぐと機械はその画像を認識した。村上弘明はキーボードを操作して画面上にその画像を映した。まず一枚目。
下谷洋子
大阪市茨木市5ー8ー21
生年月日
昭和45年3月12日水曜
と言うのが手帳の一ページ目に書かれていた内容だった。
「名前が書かれているわね。住所もあるわ。大阪市茨木市5ー8ー21、電話番号は書いてないみたいね。それから生年月日は昭和四十五年三月十二日、ということは現在、二十八才ということね。兄貴と同い年じゃないの。」
吉澤ひとみがきゃきゃと騒いだ。
「うるさいぞ。ひとみ。」村上弘明はボタンを押して次ぎの画像を見ることにした。
今日はたくやから電話なし、少しいらいら。
今、評判のラ・フォンテーヌで食事をとる。デザートはなかなか気に入る。料理法を知りたいと思い、店主に聞くとポイントを教えてくれる。簡単に教えるということは技術的に真似できないと思ってみくびったのか、材料がそもそも違うという自身なのか、家で同じものを作ってやるとファィトがわく。粉砂糖を買ってないことを思い出す。
今日は朝から雨で少し気が滅入る。今日訪問するところは辺鄙な電車に乗っていくようだ。
新しく開発された口紅を購入、使用感は少し愛嬌が出るので満足。どちらかというと堅い感じだと言われるのでイメージを変える効果があるかも。
たくと少し口げんかをする。けんかをした後で少し反省。好き、たく。
今度の日曜に映画を見にたくと行く約束をする。コミックの実写版らしい。映画のあとで、何かを期待LOVE LOVE。
「くっ、何がLOVEだよ。」
村上弘明は本当に怒っていた。
「恋人のあだ名はたくくんと言うのね。」
「けっ、何がたく君だよ。」
村上弘明の憤懣は収まらなかった。
「何か、彼女のちょっとした思いついたことが書いてあるのね。」
そう言ったあとで、村上弘明は何も感じていなかったが、吉澤ひとみには不審に感じられる部分がその手帳の内容にはあった。女が持つような少しこぶりの革製の手帳だった。それが判明するのは次の画像を見たときだった。
十月十一日
こてにきうけおでぃう
何か変なおまじないのようなものが書かれている。二人はもちろんその内容を判読することはできなかった。
「変な文句が書かれているけど一体、何のおまじないなんだ。」
村上弘明はシャーロック・ホームズよろしく頭をひねった。大部昔の探偵ではあるが、もちろんここは霧深いロンドンの街ではない。
「やはり、下谷洋子というのは詐欺師なんだろうか。こんなわけのわからないことを書いているのをみると。」
村上弘明はまたしたり顔で言った。村上弘明の顔はモニターの照明で顔の前面の部分だけが照らされている。その表情だけ見ればどこかの秘密の作戦本部の中で国家の機密軍事情報でも盗み見ているようだが、その内容というのはちゃちな押し売りの手帳を盗み見ているだけに過ぎなかった。
「この手帳の存在が真実だとしたらね。」
吉澤ひとみはいやにあつくなっている兄を冷ややかな目でみつめた。
「手帳の存在が事実だとしたらってどういう意味なんだよ。現にこうして手帳の中身がここに来ているじゃないか。ひとみ。」
「だって、兄貴、手帳が来ているんじゃなくて、手帳の中身をカメラで撮ったという画像が来ているだけでしょう。まあ、本当に手帳がここに来たとしてもそれが下谷洋子のものであるかどうかは確定はしないんだけど。とにかく、深見美智子は下谷洋子に反感を持っていた。自分の母親が彼女の口車にのせられていることに。彼女自身の判断では下谷洋子は完全にインチキ商品を売りつけに来ているだけだと思っている。それで兄貴のやっている報道探検隊にそのことを取り上げて貰いたいと思っている。兄貴が乗ってくる餌を自分で作って来ても不思議ではないわ。」
「そんなことを言ってもひとみと同じ高校に通っている学生なんだろ。」
「彼女、趣味で何をやっていると思う、漫画を書くのが趣味なの。この前も同人誌漫画大会という催しがあって、自分で書いた漫画をそこに売りに行ったみたいなのよね。」
しかし、村上弘明はその手帳の中身のあの変な呪文のようなものにこだわっていた。
「わざわざ、そんな変なことをするか。あの変な呪文のような言葉が何かをあらわしているよ。それが解けたら、誰かの名前かも知れないし、何かの数字かも知れない、それでこの手帳が全くのナンセンスなのか、想像の産物ではなく、現実に存在するものなのか、判断がつくだろう。」
「まあ、兄貴の言うことも一理あるね。とにかくその呪文を解かなければね。」
ひとみに返された言葉に村上弘明は返すものをもっていなかった。全くそれが何を意味しているのか判断がつかない。もしかしたら仲間うちの符号かも知れないと村上弘明は思った。つまり銀行カードの暗証番号と同じでそれを知っていると仲間だと認める道具かも知れず、それを知っている人間は盗賊の家に入れるのだ。またはその盗賊の家の住所が記されているという可能性もあった。もちろん、それは下谷洋子のことについて深見美智子が本当のことを言っているという仮定のもとでの話しではある。しかし、感情的に下谷洋子見美智子は自分の母親が正体不明の下谷洋子の口車にまんまと乗せられたことに反感を持っている。それがどういう感情からきているのかはわからないが、深見美智子は下谷洋子に不審な部分を感じているからもしれないし、下谷洋子に深見美智子が同性の女性として反感を感じているからかもしれなかった。下谷洋子がどんな女性なのかは吉澤ひとみは見たことがないのでわからなかったが、同性の深見美智子に反感を抱かせるということはどういうことなのだろうか。吉澤ひとみにはある想像が浮かんだ。小柄でスーツの似合った女詐欺師、美人局、彼女の想像はあらぬ方へと展開していった。次から次ぎへと吉澤ひとみの連想は浮かんでは消えていったが、深見美智子が下谷洋子に関するそう言った話しを作っているとするなら、それなりの理由があることもあったのだあるにはあるのだ。数ヶ月前のことだが大阪市にスポーツの国際大会を開くことを記念して建てられた室内運動場があって、その建物の屋根には大きなテントが張られていて普段は定期的には野球場に使われていた。新しく新設されたモノレールの駅のそばに建てられたこともあって多目的に使われていた。大阪市の中心からは少し離れた場所に建てられてはいたが交通の便も良いこともあって集客しやすいようになっていたからだ。明日は雨が降るという天気予報が出ていたときのことだった。吉澤ひとみたちのいる新聞部の部室に深見美智子がやって来てその体育館に明日遊びに来ないかと言ってきた。そこで漫画の同人誌のフェスティバルが開かれ、そこで深見美智子の描いた漫画も売るという話だった。次の日、吉澤ひとみが松村邦洋と滝沢秀明の二人とその体育館、体育館というよりもイベント用の多目的ホールと呼んだ方がいいような建物だったが雨に濡れたヒマラヤ杉のあいだに逍遙として建っていた。開演前の入り口のところには傘の列が並んでいた。普通のイベントと変わっているところと言えばアニメの主人公の姿をしたファンが多くいたことだろうか。頭にこうもりのような頭巾を被っていたり、近未来人の宇宙服を着ていたりとそれらのファンたちが愛読しているアニメの登場人物の格好をしている。それが何十人という単位でいたのだった。いわゆるコスプレという状態である。三人がそこに着くと間もなく開演となり、それらの行列が鈴なりに入り口に吸い込まれるように入って入った。イベント会場の中はいくつものブースに分けられてさっき言ったコスプレ姿や若者が動き回っていた。ブースの中はテーブルが置かれ、彼らが持って来た自主出版の漫画がテーブルの上に置かれていた。
「思ったより大規模じゃないの。」
吉澤ひとみがそんな感想を漏らすぐらいその中は盛況で若者の熱気で暑苦しいくらいだった。その中の一つのブースに深見美智子がいることを松村哲也はめざとく見つけた。うずたかく積まれた自主出版の漫画の載っている机の前で座っている。漫画と言ってもその絵にオリジナルティがあるものとそうでないものがある。既成の漫画の絵を借りてパロディのようなものを作っているものが多い。ガンダムという漫画に出てくるシャーという主人公を宇宙空間ではなく、下町の下宿に登場させて恋愛をさせてみたり、宇宙戦艦ヤマトの乗組員が湘南の海で恋の鞘当てをしていたりする。だいたいがコピー用紙を使って製本をしてあって一冊が十数ページで百冊ぐらいが刷ってある。それなりに利益が出るくらいの値段設定がされているのだろう。そこに深見美智子がいた。彼女の前には彼女の描いた漫画がつまれている。吉澤ひとみはその漫画の一冊を手に取ってみた。題名は「金田一好子の冒険」、もともと金田一耕助という探偵小説があって、それをもとに金田一少年の冒険という漫画があった。それをさらにパロって金田一好子の冒険という自主出版の漫画を作っているらしい。それで吉澤ひとみは深見美智子が探偵小説なんかも読んでいるだろうから、そんなこともやっているのではないだろうかと思ったのだ。
「深見美智子って、自主出版で探偵漫画のパロディみたいな漫画も描いているのよ。兄貴。だから犯罪小説みたいな作り話をすることぐらいは容易に出来ると思うわ。」
そう言われて改めて村上弘明は写真で撮られた手帳の画像を見てみた。だいたいもとの手帳もないのだし、手帳があったとしてもそれが本当のものかどうなのかはわからない。そうすると、この呪文めいた文句は深見美智子みずからが作ったのだろうか。
「こてにきうけおでぃう」
村上弘明はその手帳の画像を見て同じ文句を繰り返してみた。
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放課後の誰も居なくなった化学室の中に吉澤ひとみは居た。天井の蛍光灯は全部がついているわけではないので化学室の中はあまり明るくはない。誰でも経験することだが蛍光灯の熱のない光は電球の暖かい光とは違って光りのカーテンを部屋の中に幾枚もたれさげるような感じがする。人間の目が光学に基づいたレンズの一種であるから物理光学的にその現象は説明できるのだろうが吉澤ひとみがその光の中にたたずんでいる様子はオーロラが降り注ぐ不思議な世界から降り立った異星の住人のような感じがした。誰も居なくなった化学室で吉澤ひとみは化学実験で薬品やバーナーのために表面が焼けこげている木製の頑丈な実験机の上にのせた。その机は教室の中に縦三列、横二列に並べられていて机の横には水道の蛇口、ガスの元栓、流しが付けられている。教室の前には同じ構造の机が置かれているが生徒のものよりも一倍半くらい大きい。黒板には昨日の板書のあとがまだ残っている。教室の中はカビと薬品の混じったような変な臭いが残っていた。まだ歴史の浅いS高ではあったがこのに化学室にもそれなりの怪談話はあった。化学準備室と生徒たちが呼んでいる実験の用具や薬品むなどがしまわれている倉庫のような部屋があるのだが生徒たちが課外授業のときこの市の古い農家や商家の納戸の中から歴史資料になるようなものを探してこの倉庫においたのだが江戸時代の古色蒼然とした火縄銃を持ってきたことがあり、それが長い間化学室の裏に置かれていた。それから夜中になると血だらけの頭をざんばらにした農夫がうらめしそうな顔をして化学室の隅でこっちを向いていたという噂がいつの間にか広がっていた。用務員が夜中に校内を巡回しているときに三度見たという話や遅くまで学校に残っていた生徒が五人くらいその幽霊らしいものを見たという噂が広がっていたが吉澤ひとみはその噂を信じてはいなかった。ほとんどその噂もあることも知らないくらいだった。吉澤ひとみが分厚い机の上に自分の鞄をのせたのは鞄の中に入れて置いたものを誰にも見られないでその中身を確認したいからだった。彼女は机の上にのせたかばんを開けると中から英語のたくさん書いてある包装紙に包まれた四角い箱を取り出した。花瓶くらいの大きさだが瀬戸物の花瓶のようには重くない。早速その包装紙を破るようにしてあけると中から無地のダンボールの箱が出てきた。箱を開けると吉澤ひとみは思わず小さな驚きの声を上げた。そしてその顔には少し喜びの表情が浮かんだ。箱の中に入っていたものを取り出して机の上に立ててみた。エッフェル塔のような形をした置物で下は四角い箱になっていてオルゴールが入っているらしい。塔の部分は実はエッフェル塔ではなく塔の真ん中あたりに大きな輪が付いている。材質はプラスチック製で表面に銀色の塗装がなされているので銀色の金属光沢になっている。観覧車の模型だった。下にはオルゴールが付いていて螺子を巻くと観覧車が回転してオルゴールも鳴る仕組みになつていた。螺子はちょっとしゃれていて蝶の意匠をあしらったデザインがなされている。新聞部の部室に入っていくと机の上にこの箱が乗っていた。送り状には吉澤ひとみさまへと書かれている。後から松村哲也と滝沢秀明が部室に入って来たのでこの箱に心当たりがないか訊いてみてもさっぱりと見当がつかないと言った。新聞部の部室には誰でも皆出入りができるので部室に誰も居ないことを陰で監視していてこつそりと机の上に置いてくれば誰にもわからず置いてくることは出来るだろう。一体誰がこの置物を吉澤ひとみあてに置いていったのか、吉澤ひとみがK病院のことを調べていることを知っている人物がいるということだ。福原豪を中心としてそれに関連したいやがらせか、しかし箱をあけて出てきたのはオルゴール付きの観覧車の置物だった。これは単なるいやがらせではない。しかし、もっと裏があるのかもしれない。このオルゴール付きの観覧車がなんなのかは吉澤ひとみは知っていた。こんな小さな市だったがこの市には遊園地があった。この市を見晴らす市の境界の場所に通称ホットケーキ山、山というよりは丘に近い山がこの市を見渡すように立っている。その山の上に自衛隊のレーダー施設があって大きなアンテナが空を向いて立っていた。その施設が十五年くらい前に移動することになってその施設の土台を利用して小規模ながら遊園地が建てられることになった。世の中には意外なことがあるものである。ここに何故こんな施設があるのか、意外な事実に突き当たることが多い、日本では富士山の周辺とかにそんな場所が多い。だいたいが在日米軍の駐留施設とか自衛隊の施設に関連したものが多く、旧共産圏の国へ行けば旧ソ連に関連したものが多く見つかることだろう。だいたいそう言った施設は由来典拠が軍事上の最高機密ということになっているからはっきりとせず謎が謎を呼び、混迷が混迷を深め、秘密の悪魔たちののすみか、怪物が住む伏魔殿のようになってしまい、一般の住民には何もわからなくなってしまうのだ。そこに建ってある遊園地もそんな施設だった。そこでわかっていることと言えば観覧車を建てている土台の部分はそのアンテナが建てられていたということだけだった。しかし小規模ながらその山のてっぺんに建てられた遊園地は観覧車を始めとして遊技器具は一通り揃っていたから休日にも平日にも親子づれが遊びに来ていた。その遊園地に管理事務所を兼用して土産物屋が開かれていたがそこの土産物屋でその観覧車のオルゴールが売られていたのだった。本物の観覧車の方は高圧線の電気塔に大きな輪がついていてそこに観覧席のかごが八個付いていてくすんだ銀色の塗料が塗られていたがおみやげの観覧車の方は金属光沢で銀色に輝いていた。これを誰が吉澤ひとみに送ったのか、好意からなのか、どす黒い意志が働いているのか、吉澤ひとみにはわからなかった。吉澤ひとみへの挑戦かも知れなかった。しかし、それが挑戦であったとしても吉澤ひとみはその挑戦を受ける気になっていた。次の日曜日に吉澤ひとみは村上弘明と一緒にアンテナ山遊園地に来ていた。かつて自衛隊のアンテナが建っていた場所に観覧車は建っていた。観覧車の横には切符のもぎりをやる小屋が建っている。木目が向きだしになっていて今時どんなちんけな遊園地でもこんなのちゃちい料金所の小屋はないだろう。まるで西部の油田にある石油掘削機の横に建てられた作業小屋のようだった。観覧車の方は駆動部分に付けられたグリスが固まっていてのど飴のようだった。料金所のところには縞模様の制服を着た中年のおばさんがほうきとちりとりをもって地面を掃いていた。吉澤ひとみと村上弘明がそばにいることにも気づかないようだった。村上弘明がそばにあるジュースの自動販売機へ行ってコーヒーを買っている間、吉澤ひとみはその係員に話しかけた。
「観覧車に乗りたいんですが。」
係員はほうきを掃く手を休めて吉澤ひとみの方を振り返った。
「悪いんだけどもう少し待ってくれる。まだ点検がすんでいないんでね。点検がすむまで三十分ぐらいかかるかも知れないよ。ほら、東京の遊園地であつたじゃないの。アルバイトが機械の点検もしないで子供を遊器具にのせて子供が死んじゃったという事件、私はアルバイトじゃないからね。こう見えても正社員だからね。」
縞模様の制服を着た係員は訊きもしないことを答えた。点検をしてから遊園地に入れればいいかもしれないがこの遊園地は入園料をとらないのだ。遊園地の周りは柵があることはあるのだがどこからでも入れる形になっている。そんなら早く点検をすればいいのじゃないかと思っていると彼女はほうきとちりとりを置いて油で汚れた工具箱を取り出した。
「兄貴、点検がすむまで観覧車に乗れないんだって。」
吉澤ひとみと村上弘明は木陰のベンチで休むことにした。
「しかし、その観覧車のオルゴールをくれたのは一体誰なのかなぁ。」
「全く、わからないわ。見当もつかない。どういう意味があるのかしら。兄貴、わかる。福原豪という可能性は。」
「まさか、あいつはそんなしゃれた真似はしないだろう。」
「犬の詐欺師の方はどうなったの。あの呪文みたいな暗号は解けたの。」
「それは全くわからないよ。ひとみの女流漫画家の友たちの創作じゃないの。」
「そうかな。」
吉澤ひとみは缶コーヒーの口を開け、コーヒーを一口飲んだ。
「それより、面白いことがわかった。」
「何が。」
「福原豪の奥さんのことだけどね。もう死んでいるんだ。一人息子を残してね。」
「不慮の事故。」
「詳しいことはわからないんだけどどうもそうらしい。福原豪の一人息子がちょうど小学校二年生のときだ。」
福原豪の女房は死んでいるのだ。原因はまだわからないが不慮の死を遂げているらしい。観覧車の方ではまだ観覧車の点検をしている。かごを一台づつ電源を入れて駆動用のモーターを作動させて観覧車を回転してかごが地面に達するとかごのとびらのあけしめなどをたしかめている。そんな様子を見ていると向こうからうば車を押して若い主婦が赤ちゃんと一緒に観覧車の方へやって来るのが見える。この主婦も観覧車の点検が終わるのを待っているのかも知れない。係員の女性は観覧車の点検をしながら、つまり観覧車の動力を入れて観覧車を回転させて、つぎつぎにかごを回転させてドアのあたりのところを点検していった。点検が終わるとなにやらドアのところに紙を貼っていった。よく見るとその紙には使用不可とか書かれている。いくつものかごのドアにそんな張り紙をしながら彼女は観覧車を一回転し終わらせた。見ると八個あるかごのうち張り紙が張られていないのは一つだけだった。係員は張り紙を張り終えると大儀そうに吉澤ひとみたちの方へやって来た。
「お客さん、観覧車に乗りに来たんですか。ご覧の通り、ドアの故障が七つまであるんで今日は観覧車の運行は取りやめにしてもらいたいんですが。」
申し訳なさそうな様子もなく係員は言った。
「一つだけ動いているなら動かしてもいいじゃない。」
「一つだけじゃ、動かしても仕方ないでしょう。」
「そんなことを言っても僕らはこの観覧車に乗りに来たんだからね。」
なおも係員はぶつくさと言っていたが、そんなに乗りたいならとか口の中でもごもご言っていたが村上弘明たちに乗車券を発売した。
「じゃあ、ちょっと待っていてくださいよ。一つだけドアの調子が悪くないかごがありますから、今、下まで降ろしますから。」
相変わらず係員は不満そうだった。おそらく平日は一日中この公園にある観覧車などに乗りに来る客などいないのだろう。係員は自分はアルバイトではないと言っているがそれに準じた待遇なのかも知れない。観覧車の運行を止めている間に他の仕事をしているのかも知れなかった。吉澤ひとみと村上弘明が観覧車に乗り込もうと観覧車の入り口のところまで行くと後ろの方に乳母車を押して来た若い主婦が後ろの方にいた。
「私も観覧車に乗りたいんですけど。」
その主婦は係員から観覧車の乗車券を買っていた。年齢は二十七、八、瓜実顔の色の白い日本的な顔立ちをしている。吉澤ひとみたちがかごの中に乗り込むと後から、その主婦も赤ん坊を抱いて乗り込んで来た。機械が壊れているから乗せないなどと杓子定規なことを言っていた係員だったが乳幼児を同席させるなんてかなりいいかげんだわと吉澤ひとみは思った。と同時に吉澤ひとみはある不自然なものを感じた。新聞部の部室の机の上にアンテナ公園の観覧車の置物が乗せられていて、それが発端で吉澤ひとみと村上弘明の二人はここにやって来て観覧車に乗り込んでいる。そして観覧車のかごが一つを残してすべて壊れていて見知らぬ主婦、それも乳幼児をつれている主婦と乗り合わせている。吉澤ひとみはそもそも誰が送って来たかわからない観覧車の置物が自分への罠だと感じている。そう思うと目の前に乗り込んで来たこの主婦の姿がうさんくさく見えるのだった。そう感じている吉澤ひとみの気持ちがわかるのかわからないのか、赤ん坊を抱いた主婦は彼女に少し頭を下げたようだった。無言で係員はかごの扉を閉めた。やがてゴンドラは静かに地上を離れた。ゆるやかにゴンドラは空中にあがっていく。何故この観覧車に早く乗ってみなかったかと吉澤ひとみは悔やんだ。この市の境界線上にある観覧車に乗ればこの市の全貌が見渡せるのだ。徐々に上っていくゴンドラの下に広がる世界は小学生が作る研究発表の自分の街のデコラ模型のようだった。吉澤ひとみたちの住んでいる栗の木団地の姿が見える。栗の木団地の前の花壇の様子もうっすらとだがわかった。くぬぎ林の一郭にあのK
病院のまるで中世の要塞のような一種異様な姿も見える。K病院の裏には広大なくぬぎ林が続いている。そのくぬぎ林の中には何となく木の層が薄くなっているような部分が感じられる。そこには道があるのかも知れない。その道の先の方に敷地があった。あれは。吉澤ひとみが何か声を出そうとすると、前の席から声が聞こえた。
「ほら、美智ちゃん、あれがママが勤めていた病院よ。ここから見るとあんなにちっちゃくなっちゃうんですね。」
若い主婦に抱かれていた赤ん坊は彼女の問いかけが理解できるのかできないのか、微笑んだ。赤ん坊への彼女への問いかけよりも村上弘明や吉澤ひとみは彼女があの病院に勤めていたという言葉にびっくりして大きく瞳をあけて瓜実顔の主婦の顔をしげしげと見つめると彼女も二人の方を見つめた。最初、吉澤ひとみは彼女が見えない犯人の回し者ではないかと思っていたがどうもそうでないように感じ始めていた。だいたい吉澤ひとみたちをはめる気で誰かがたくらんでいたとしても彼女たちがいつこの観覧車に乗りに来るかなどということは四六時中監視していなければ不可能なことだから吉澤ひとみの思い過ごしかも知れなかった。K病院の姿は遙か下にある。このK病院が彼女たちの最大の関心事なのだった。その病院に勤めていたという女性が目の前にいる、村上弘明は思わずみを乗り出して尋ねた。
「K病院に勤めていたのですか。」
「はい、あそこの病院に看護婦として勤めていました。ほら、下の方に見えますわよね。あれがK病院であの少しくぬぎ林が薄くなっている部分がありますでしょう。あそこが昔の山城に登る道なんです。その先に逆さの木葬儀場という焼き場があるんです。」
くぬぎ林の薄くなっている場所が昔の山城に抜ける旧道になつていてその先に葬儀場がある。その葬儀場の名前が逆さの木葬儀場、変な名前だ。山城へ続く道があのくぬぎ林に残っている道だということはどういうことだろうか。その下界にある葬儀場の方へ向けられた彼女の目には少し嫌悪の情が表れている。その葬儀場に特別な感情があるのかも知れない。吉澤ひとみたちが彼女の顔とその葬儀場を見比べているうちにゴンドラは半分くらいの位置にまで降りて来てしまった。
「私は報道探検隊という番組をやっている村上弘明といいます。こちらは私の助手でひとみといいます。報道探検隊をご覧になったことはありますか。」
吉澤ひとみは村上弘明に助手と呼ばれて少し頬をふくらました。目の前にいる主婦はそう言われてばら色に顔が輝いた。
「どこかで見たことがあると思ったら村上弘明さんでしたのね。」
東京でぶいぷい言わせていたときの村上弘明ではなかったが敗残の兵のような心境の彼にしてみれば自分もまんざらではないとうぬぼれさせてくれる調子がその主婦の喜び方にはあった。ゴンドラが地上に降りてからこのアンテナ公園遊園地に唯一ある食堂に彼女を誘って村上弘明たちは話を聞くことにした。この食堂はこの公園の事務所の半分だけを使って建てられており、外側は割と小ぎれいな建物だったが中の調度は貧弱なものだった。デコラ張りのテーブルが五、六脚ぐらい並べられていて奥の方がカウンターで仕切られていてその奥が厨房になつていた。入った途端に頭がはげて鉢巻きをした親父が四人の方に声をかけた。
「この時間じゃ、何にもできないよ。軽い食べ物ぐらいしかね。」今さっきまで厨房の中で椅子に腰掛けてたばこを吸っていた親父はそれでもコツプに水を入れて三人が座っている席にまで持って来た。
「紅茶、コーヒー、厨房の方にやかんやポットが置いてあるだろう。自分で入れれば一杯、百五十円、こっちでいれて持って来れば、一杯が二百円だよ。それからそこにうどんの玉とそばの玉、汁もあるからな、自分で作れば一杯が二百円、作り代が百円だ。カレーライスも同じだ。詳しくはそのテーブルに乗っているメニューに書いてあるだろう。」
厨房にどうやつて入るのだろうと思っているとカウンターの左端のところが切れていて厨房の中に入ることができるようになっている。
「焼き鳥も出来るの。」
急に吉澤ひとみが変なことを聞いてきたので親父はとまどった。
「何で。」
「だって、そこに焼き鳥のくしがたくさんあるじゃないの。」
親父は厨房のステンレスの流しの上に置いてある串にさしたままの生肉の刺さった状態の焼き鳥の串の方に目をやった。
「これは晩に出すものなんだ。」
「でも、自分で焼けば食べられるんでしょう。」
少し親父は考えているようだったが吉澤ひとみの笑顔に負けてしまつた。
「自分で焼いて食べれば一本、五十円だよ。そこに焼き鳥を焼くこんろがあるだろ。今、火をいれてやるからな。しょうがないな、おねぇちゃんは。」
そのとき食堂の入り口ががらりと音をたててあくと
「今日どうする。観覧車の具合が悪いよ。ゴンドラでちゃんとしているのは一台だけだよ。今、さっきどうしても乗りたいという人がいたから乗せたけどね。」
入って来たのはさっきの係員で声の調子からするとこの二人は夫婦らしい。二人の年齢がかなりいっていることからすると市の一種の福祉政策としてこの夫婦をアンテナ公園の管理人としてやとっているらしい。物好きな客と言われて村上弘明が苦々しく係員の方を見ると彼女は物憂げに村上弘明の方に視線を投げ返した。
「あっ、どうも、さっきは。今日は良い天気で良かったですね。この市の様子が人目で見渡せたでしょう。お前さん、なーに。焼き鳥なんか焼かせているの。」
係員は厨房の奥に入ってこんろの火の具合を見ている吉澤ひとみの方を見て言った。
「お前さん、お茶を出しておくれよ。いつもはこんな時間にお客さんが来ることなんてないのに、早くからゴンドラの点検なんかやって疲れちゃったよ。」村上弘明たちを無視してその女は端の方の椅子に座ると親父がお茶を入れて女房の方へ持って来た。
「おじさん、たれは、たれは。」
吉澤ひとみが厨房の奥の方から叫んだ。
「全く、うるさい奴だなぁ。」
その間に村上弘明は椅子に腰掛けて競艇の予想を立てている親父を横目に見て紅茶を入れてゴンドラで一緒に乗り込んだ主婦の前に持ってきた。おほんも勝手に使っていいことになっていた。主婦の横には乳母車に乗せられた赤ん坊がおしゃぶりをしゃぶっている。厨房の奥では勝手にもちろん代金を払ってではあるが吉澤ひとみが長方形の横に長いうなぎや焼き鳥を焼くこんろで焼き鳥をあぶっている。まるで自炊可能なと言うより自炊を前提に宿泊させる山奥の湯治場のようだった。
「さっきゴンドラの中でK病院に勤めていたとおつしゃっていましたよね。そのことをもっと詳しく教えてくれませんか。」
またもや、村上弘明は身を乗り出して尋ねた。若い母親は少し身を引く動作をした。
「今、K病院のことを調べているところなんです。」
村上弘明は両手をテーブルの上で合わせて少し懇願するような表情をした。
「あそこで看護婦をしていたんです。私、ここの出身ではないんです。結婚した人が大阪に転勤になったのでここにやって来たんですが、前に看護婦をやつていたのであの病院が開業するということになって募集をしていたので勤めることに決めたんです。」
「どちらの科だったんですか。」
「内科の方に勤めていました。」
「病院の中の様子はどうでしたか。」
「今まで二つくらい病院に勤めたことがあるんですがあんなに変な病院はありませんでした。」
単刀直入に彼女は断言した。
「どういうところが。」
「入ってはいけないという立ち入り禁止のようなところが多かったからです。入院患者も二、三人しかいませんでしたし、ベットも大部開いていたのにも関わらずにですよ。」
「小沼さんという患者さんを知っていますか。自分では小沼と名乗っているんですが、本名は大沼さんと言うんですが。」
「知っていますよ。自分が経理の事務長だと言っている妄想患者でしょう。あの人はあの病院の中では有名でしたから。でも、何であの人はいろいろなところに出歩くことが出来たのかわからないんですよ。職員の私でさえ、出入り出来ない場所がたくさんあつたんですから、と言うより、出入り出来ない場所の方が多かったんですけど。病院の中だけならいいんですが、いつだったか、駅であの人に出会ったことがありました。私の顔を見たら、今、理事長に追われて命を狙われているからここで出会ったことは誰にも言うなと強い調子で口止めされたんですよ。そのくせ次の日になったら沼田さんは病院の自分の病室にちゃんと戻っているんですからね。」
「あなたの見たところ沼田さんは精神に異常を来していると。」
「そう思います。」
「でも何故、病院のいろいろなところに出入りが出来たり、病院の外部に行くことが出来るのは何故なのでしょうか。」
「わかりません。」
「何故、あんな変な感じの病院を建てたと思いますか。病院と言ったらもっと威圧感のない、お年寄りから子供まで気軽に出入り出来て、その上、安心感を与えるものでなければならないと思うんですが、その上、とってつけたような変な離れがついている。」
「あの病院は有名な建築家が設計したとか聞いています。その建築家の設計が終わってから理事長の意見で離れが付けられたそうですね。」
「理事長の福原豪さんに会ったことはありますか。」
「一度も会ったこともありません。理事長はほとんどあの病院に来ませんでしたし、来たとしても理事長室か経理の方の部屋にしか来なかったと思いますよ。」
そこへ焼き鳥を焼き終わった吉澤ひとみが焼き鳥の皿を持ってやって来た。
「兄貴、焼き鳥が焼けたわよ。二十串で千円、消費税込みだって。」
吉澤ひとみは村上弘明の横に座った。皿の上に載った焼き鳥をほおばる姿を見て主婦の横の乳母車に乗った赤ん坊が微笑んだ。
「松田政男さんという患者さんを知っていますか。」
「もちろん、知っています。あの病院の中で変死した人ですもの。でも、あの人が死んだというニュースが流れるまでそんな人があの病院に入院していたなんて少しも知りませんでした。病院の中でも見たことがありませんでした。あの離れに入院させられていたんですね。」
「松田政男さんを一度も見たことがなかつたんですか。」
「ええ、あの離れにはほとんどの病院関係者が入れないことになっていましたから。」
「何故、K病院をやめられたのですか。」
「出産準備にとりかかろうと思っていたからなんです。それに変なことがあって、どうもあの病院が胡散臭い病院だと感じたからなんです。」
「変なことって。」
吉澤ひとみは食べ終わった焼き鳥の串を皿の上に置くと彼女に尋ねた。その様子を見て赤ん坊がにかっと笑った。あの病院の一階のくぬぎ林に面した部屋が看護婦たちのお風呂になっているんです。そのお風呂でのぞき事件が起こったんです。それにのぞき事件だけじゃないんです。下着のどろぼう事件もあったんです。ちょうどちょっとお風呂の窓を開けていたとき同僚の看護婦
がその顔を見たんです。それがあの病院に出入りしている人で、うちの病院の人たち、四、五人でそのあとを追いかけて行ったら、薄柳のはしごの間の天竺のほこらの中に私たちの盗まれた下着が隠してあつたんです。それで犯人は逆さの木葬儀場の上田橋の助に違いがないと病院側に言ったのに何も対処してくれなかったからなんです。」
急に聞き覚えのない固有名詞が出てきて村上弘明はとまどった。
「逆さの木葬儀場まではわかるんですが、薄柳のはしご、天竺のほこら、それはなんですか。」
「薄柳のはしごというのは道の名前、天竺のほこらというのはその間にある道の名前です。」
「ますます、わからなくなったわ。」
吉澤ひとみは肩肘をついてため息をもらした。皿の上にのっていた焼き鳥は半分かた吉澤ひとみに食べられてしまった。いつの間にか後ろのテーブルにこのアンテナ公園食堂専属のコック兼店長である親父が座っていた。
「お客さんたちK病院のことを調べていなさるのかい。俺も知っているよ。あそこの患者さんが殺されたって言うんだろう。だからあんなところに病院を建てるものじゃないって女房の奴とも話していたんだよ。なあ。」
少し離れたところにいるこの親父の女房は生返事を返した。
「警察では単なる変死だと言っているけどそうじゃ、ないんだろう。殺されたに違いねぇ。俺はそう睨んでいるんだ。」
「親父さん、ここは大阪なのに関西弁をしゃべらないんだね。」
「あんた、東京のテレビに出ていただろう。なんだっけ、思い出せないけど、そうだ、ミュージックリボリューションとかいう番組じゃなかったかい。あれ、東京に居たときはあっしも見ていたよ。歌手であれなんて言ったけ、あの歌手の小樽火の街、君の街って歌はよかったね。でもあの歌、消防署からクレームがついたんだって、俺に言わせればあんまり業腹じゃないかってね。」
知らない歌手と知らない歌のことを言われて村上弘明は面食らった。
「じゃあ、親父さんも東京の出身なのかい。今は大阪で日芸テレビの報道探検隊という番組をやっているからよろしくね。見たことある。」
村上弘明は自分が東京に居たときの活躍をしていたときのことを知っている人物にあってこそばゆい気がした。しかし、この親父の詮索ぐせの全くなさそうな態度が心を気安くした。たぶん、彼は村上弘明の東京でのスキャンダルも一切知らないのだろう。そうした確信が彼にはあった。
「こうして今は大阪におりゃすが、ここの地名については詳しいよ。いつも俺の代わりに競艇の船券を買って来てくれる、俺よりも二十も上のじいさんがいるんだけどね。こいつがこの市の歴史についてやけに詳しくてね、何でも教えてくれるんですよ。でも競艇に関しては俺の方が先生でね。あいつも言っていやした。あの場所に病院を建てるなんてよくないって。あそこは室町時代末期の古戦場だったという話ですぜ。」
「へぇ、あそこは古戦場だったの。」
K病院に勤めていた元看護婦の彼女もそのことは知らないようだった。この親父は受け売りではあったがどうやら、その地名の由来を知っているらしかった。
「室町時代末期、ここいらは摂津の国の一部だったんだ。」
そう言ってこの親父は食堂の中に貼ってある日本酒のお姫様姿のモデルが一升瓶を抱えてにっこりと微笑んでいるポスターを指で指した。モデルの背景に写っている景色はこのアンテナ山のような気がする。
(小見出し)栗毛
「この田舎の町で御姫様やさむらいが出て来るのは逆さの木しかないんですぜ。それでほら、こうして日本酒のラベルにもなっているんだからね。」
どこに醸造元があるのかはわからないがこの町の地酒、たぶんただ一つの地酒だろうがそのラベルに使われているということはこの町の中ではその逆さの木という固有名詞がそれなりに郷土史家に研究されているということだろう。
「あっしはそのじいさんから聞いたんですけね。ここいらは昔、摂津の国と呼ばれていて守護大名の細川高国から謀反を起こしてお家を乗っ取った細川晴元という室町時代末期の大名がいてその有力に配下に栗毛光昭という武将がいたそうなんですよ。その時代、そいつがここら一帯を治めていて、ここからあのK病院の裏のくぬぎ林を抜けていくあたりに見えるでしょう。逆さの木葬儀場があそこに山城を築いていたという話なんですがね。栗毛光昭が何でここいら一帯を治めるようになつたかというと細川晴元に滅ぼされた高国の重臣たちが軍をたてて細川晴元を伐とうとしたとき大がかりなわなを仕掛けてあのK病院のあたりで皆殺しにしたという話なんですぜ。それもあのじいさんから聞いた話なんですけどね。それでご褒美ということになってあの逆さの木葬儀場のあたりに山城、屋敷も兼ねていたんですが、建てたんですね。それで最初はその名前が栗毛城と呼ばれていたという話でした。その城が何で逆さの木と呼ばれるようになったかと言えば栗毛光昭には娘がいてその娘がインドから送られて来た大猿を飼っていたんですが、その大猿の活躍でそんな名前が付いたという話ですよ。これもそのじいさんから聞いたんですがね。山城と言っても一族郎党がそこに住んで軍事上の拠点になっているというだけの小規模のものでしたから謀反人に攻められる可能性も多大にあったという話、そこへ自分は六角満高の弟だという大規模な盗賊団が表れて栗毛城を占拠してしまって栗毛光昭は命からがら生き延びて彼らしか知らない洞窟の中に隠れていた。そこには栗毛光昭とその奥方、娘、何人かの家来たち、それに姫君の飼っている大猿がいた。大猿に栗毛光昭が言うことにはインドからやって来たお前だが随分おいしい物を食べさせてやって暖かい寝床も与えやった。もしわしの恩義に感じるところがあるならあのわが館を奪った奴らを殺して館にある櫓の上からつるせ。栗毛光昭が大猿にそう言うと大猿は洞窟から飛び出して栗毛城の方へ走っていった。そして一時間くらいたったら櫓の上から謀反人が逆さにつるされていたんだって言う話なんだな、これが。それでその城は逆さの木城、そのに洞窟はインドから来た大猿にちなんで天竺のほこら、K病院から逆さの木葬儀場に続く、くぬぎ林の中の道をその大猿が薄緑色をしていたのでその道を薄柳の梯子と呼ぶようになつたという話ですぜ。」
そこで親父は寿司屋の湯飲み茶碗の中に入ったお茶を飲んだ。
「それでその葬儀場は本当なら栗毛葬儀場と呼ばれるはずなのに逆さの木葬儀場と呼ばれることになったの。」吉澤ひとみが横から口をはさんだ。
「そのじいさんの話によると栗毛光昭の子孫はまだここにいるんだよ。誰だと思う。」
親父が思わせぶりな言い方をするので村上弘明は思わずこの食堂の店長の方に目で合図を送りそうになった。
「俺が、まさか。東京からここに来たんだぜ。」
「まだこの市に住んでいるの。」
「逆さの木葬儀場を一人で守っているのさ。これもじいさんの話だけどね。」
逆さの木葬儀場という言葉が出たとき元看護婦の彼女は露骨にいやな顔をした。親父はまだ話しを続けた。ここいらのお大尽といったら今では福原豪ということになっているけど百年前なら栗毛百次郎一家ということになっていただろうな。何しろこの市だけでなくここいら一帯の大地主だったんだから福原豪なんて目じゃないよ。それが戦後のどさくさで商売気がなく、どんどん土地は売り払って今では栗毛百次郎は焼き場の番人に成り下がったということだよ。」
「栗毛百次郎という人が栗毛光昭の子孫なの。」
「それは間違いない。何しろじいさんの話によると戦前は栗毛家の豪勢な暮らしぶりと言ったら語りぐさになっていたそうだ。それに歴史的に価値のある書画骨董のたぐいは数え切れないぐらいにあって年中、日本国中からいろいろな研究者がその研究に来ていたそうだ。あの逆さの木葬儀場も元はと言えば栗毛家の別宅だったんだけど栗毛家が零落してからは市が全部その建物を買い取って焼き場に変えたんだそうだ。栗毛百次郎はその中の一室だけを宿直室みたいにしてそこで寝泊まりしているのさ。焼き場の番人としてね。だからこの市でもあの葬儀場は一番立派な建物なんじゃないかな。フランク・ロイドの建てた帝国ホテルみたいなもんだよ。」
「栗毛百次郎ってどんな人なの。」
吉澤ひとみがそう聞くと、元看護婦は再び嫌な顔をした。
「逆さの木葬儀場に行って見なさい。本人を見ることができるから、今、五十の半ばくらいかも知れない。背が低くてやたら太っている男だよ。結局、十才になるかならないうちに家がつぶれちゃって本人も何の才覚もなく貧乏なままだったから結婚もできず、独身で親戚もみんなてんでんばらばらになつているみたいだね。誰がどう見てもそんな大地主の跡取りだった人間には見えないよ。」
アンテナ食堂の親父の話は意外だった。K病院でののぞき事件の話を親父に聞かれるとまずいので、何故ならこの親父ならそこら中にその話を吹聴して歩くに違いないから。そこを切り上げて食堂を出ることにした。
「これからその逆さの木葬儀場へ行ってみますか。」
村上弘明がそう言うと元看護婦は頷いた。アンテナ公園を降り、畑に囲まれた道を通り抜け、前に来たことのあるK病院の裏手に出た。相変わらずK病院は謎をひめて物言わぬ鉄のかたまりのようにくぬぎ林の中にたたずんでいる。
「前にこの病院に勤めていらっしゃったんですよね。その頃と変わっている部分はありませんか。」
「外見は全く変わっていませんわ。あの時代錯誤の建物の外観も、建物の左右と正面は塀に囲まれているんですが裏のくぬぎ林に抜ける道に面したところは建物の垂直な壁が立っているでしょう。あの壁のところの一階に女性職員のための浴室があるんですけどあそこから覗かれたんです。」
北向きのくぬぎ林に面したこの建物の壁にはその窓を覗いては一階には一つも窓がなかった。二階から上には不規則に小ぶりの窓が配置されていて、この建物は三階建てになっていたがその窓の配置の仕方や窓の大きさが明治時代の軍艦を連想させるのだった。村上弘明が愛車のルノーを停めてその窓を眺めていても窓からは誰も首を出さなかったし、この建物の外に出て来る人間も、小沼さえも出てこなかった。まるで時を止めた死人のように沈黙を守っていた。
「あのアンテナ公園の食堂でのぞき事件があったと言われましたよね。」
「ええ。」
「その犯人が逆さの木葬儀場の番人の栗毛百次郎なんですか。」
「そうです。」
元看護婦に抱かれた赤ん坊は何が起こっているのか、どういう状況に置かれているか自分でも全くわからないので目をばちくりさせた。
「何故、その犯人が逆さの木葬儀場の番人だとわかったの。」
「あの病院に出入りしていたからですよ。」
これは意外な事実だった。しかし、もっともそう感じたのは村上弘明だけで吉澤ひとみはそういうこともあり得ると思った。医者と葬儀屋、病院と焼き場、近いところにあると言えば言える、どちらも人生の終着駅に近いところを担っているから。
「何故、栗毛百次郎はK病院に出入りしていたの、お葬式の関係。霊柩車を運転してこの病院に入って来たとか。」
吉澤ひとみがそのことに気付いて彼女に聞くと病院の内部のことについて彼女は語った。
「K病院と逆さの木葬儀場とは特別な関係があるんです。」
「特別な関係って、何。」
「K病院が特別な目的を持って建てられたということはご存知ですか。この市にある病院はみんな大きな病院でも死体安置室の設備が整っていないんです。警察署にもそれがないし、市の方ではちゃんとした死体安置所を作るという条件で福原豪に病院を建てる許可や資金援助をしているんです。だからこの病院の地下室には温度調節の設備も整った最新式の死体安置所があるんです。」
「焼き場に死体を運ぶ関係で栗毛光昭はこの病院に出入りしていたのね。」
まだその死体安置所という場所を二人は見たことがなかったがそこから死体を運び、それもまだ、観覧車のゴンドラの上でしか見たことがなかったが逆さの木葬儀場でその死体を火葬にするのかと思った。ただこの病院と火葬場を行き来しているだけならのぞきの犯人と確定している時点ですぐに警察に突き出せばいいのにと思った。
そうできない理由が何かあるのだろうか。吉澤ひとみは不審に思った。
「ただ単に死体を運んでいるという関係だけじゃないんです。栗毛百次郎は死体修復の名人で事故なんかで傷ついた死体を生前のきれいな状態に戻す名人なんです。それでちょくちょくK病院の死体安置所に出入りしていて死体の修復なんかもやっていたのかも知れません。」
「でも、のぞき犯だと確定しているのに何で警察に突き出さないのかしら、それがおかしいと思うわ。」
吉澤ひとみは元看護婦の抱いている赤ん坊をあやしながら言った。
「あなたは死体安置所を見たことがあるんですか。」
いろいろな制限のあるK病院、それもこの病院の理事長の福原豪の仕組んだことかも知れない。死体安置所のある場所さえも村上弘明は知らないのだ。この看護婦は市内唯一というこの病院の死体安置所に入ったことがあるのだろうか。ガーゼのような肌着を付けている赤ん坊をあやしているこの元看護婦に再び尋ねた。
「いいえ、入ったことがないんです。死体安置所や私は見たことがないんですがみなさんが収容されていたという松田政男さんの病室は別棟になっていましたから、わたしたち職員でもあの病院は入っていけない場所がたくさんあったんです。そもそもあの別棟は最初の計画では建設計画になかったものなんですって。あの病院を設計した人を知っていますか。今泉寛司という新進気鋭の建築家なんですけど、私たち職員の噂ではあの離れを建設するにあたっては随分うまいことをやつたらしいですよ。」
「私たちもうどん屋さんで今泉さんには会いましたよ。なんかやたら理屈ぽい人で自分の建築論を熱心に私たちに説明していたんです。」
吉澤ひとみは何かを食べながら話したことは結構覚えていた。
「その人は離れの建設のことで何か言っていましたか。」
「今泉さんの計画では最初に離れを建設する計画はなかったんだけどあとからそれを建設して欲しいという要望が出たのであとから設計に変更を加えたと言っていましたよ。」
「本当ですか。私たち看護婦仲間では離れの方の設計や建設から一切関知しないという約束で仮のそこの設計図を作って書類や審査を通るようにした上でその代わりとして福原豪が今泉寛司に別口で料金を払っていたという噂があるんです。」
「じゃあ、そこまでして作った離れというのは一体どんな目的があるんですか。」
村上弘明には全くの初耳だった。どちらにしてもあの病院を作るに当たっての主導者は福原豪だろうから、何か人に言えないようなやましいことがあるに違いない。そこで逆さの木葬儀場の死体修復の名人、嘗てのここいらの支配者の子孫である栗毛百次郎の存在が気になる。この世捨て人がのぞき事件を犯しながら警察にも通報されなかつたという理由は何なのだろうか。
「とにかく、あなたが盗まれた下着が投げ込まれていたという天竺のほこらという場所に行ってみましょう。それから逆さの木葬儀場へ行って栗毛百次郎という人物にも会って見ましょう。あなたが彼に会うのが嫌だというなら、あなたは車の中で待っていてくださればいいです。」
K病院の裏に停めてある村上弘明の愛車ルーノーのヘッドノーズは室町時代末期から続く樫の木林の間を抜けている道に続いている。その道は薄柳のはしごと呼ばれ、その道はかって山城であった逆さの木葬儀場に続いている。山城は明治の時代には栗毛家の別荘として有機建築理論に基づいた煉瓦と大理石を多様した別宅になっていたのだ。それが栗毛家の没落により、その邸宅は市に没収されて火葬場と姿を変え、その当主の栗毛百次郎は無一文な生活破産者としてわびしくその葬儀場の番人としての生活を送っている。椚の木林の中の道は現代においても整備されていず、室町時代に比べればその道幅ははるかに広くなっているだろうが霊柩車が一台通れるぐらいだった。地面は舗装されていないのであまりスピードは出せない。でこぼこの道を走っているので車は前後に揺れる。そう言った道路を走るような仕様になっていない車だったから余計だった。左右の椚の木はあまり人が入らないらしく下草が鬱蒼と生えている。車を走らせてから二、三分で椚の木の林が少し途切れて大きな岩が道にせり出している場所に来た。小さな一戸建ての家くらいある花崗岩で岩の上の方は土が被っていて草が生えている。その上には松の木がねじくれた幹の形をして生えている。岩の下の方は乗用車が一台入るくらいの洞窟になっていた。椚の木林の木立を眺めていた元看護婦は赤ん坊を抱いている手を片方離してその洞窟の方を指で指し示した。
「そこが天竺のほこらなんです。」
そう言われて村上弘明は車をとめた。三人と一人の赤ん坊は舗装されていない道の上に立った。外から見ると乗用車が一台入れるぐらいの広さがある。入り口の片方のところに朽ちかけた石仏が立っている。まるで第二次大戦中に作られた防空壕のようだった。入り組んだ宗教事情の国、いろんな宗教が同時に同一地域に存在する国ではこういうことが起きるのだろうが、つまりご本尊を人目につかない洞窟の奥に置いてうやまうということだが日本では珍しかった。アンテナ公園の親父の又聞きによればこの中には天台宗に関連した石仏が洞窟の奥に鎮座しているということである。室町時代のその伝説は栗毛百次郎の先祖、栗毛光昭が山城を奪われてその飼っている大猿が華々しい活躍をして謀反人を山城にあるやぐらの上から逆さにつるしたという話だが、もちろんそんな大きい猿がそんなことができるわけがないわけでそう言った家来が居たということを暗示しているのかも知れない。
「ここです。ここです。」
片手に赤ん坊を抱いている上に道が舗装されて居ず大きな石がごろごろしているので足をとられてよろよろしながら元看護婦はその洞窟の入り口のあたりに近寄って行った。
「きゃあー。」
すると急にもと看護婦は声にならない叫び声を上げ、それにつれて赤ん坊も泣き出した。
「どうしたの。」
吉澤ひとみは彼女の方に駆け寄って行った。吉澤ひとみと弘明は凍り付いたような表情で彼女が指さしている方を見て驚いた。そこには半ば白骨化した犬の死骸が三つ横たわっていたからだ。目玉は落ちくぼんで飛び出し毛は半ば抜け落ちている。
「何で、こんなところに犬の死骸が置いてあるのかしら。」
元看護婦は誰にも答えられない問いを発した。吉澤ひとみはすぐに最近起こっている犬の連続殺害事件を思い出していた。深見美智子の言っていたことは本当だったのだ。深見美智子の家を訪れた押し売りがいかさまであるかないかということはとにかく、犬の惨殺事件がこの市で起こっていることは間違いがない。
「深見美智子の言っていたことは本当だったわね。この市で犬が惨殺されているということが。」
村上弘明は無言で頷いた。元看護婦は何のことかわからず二人の顔を見比べるだけだった。
「もちろん、あなたがK病院に勤めていてのぞき事件が起こったときはこんなものはここにありませんでしたよね。」
「もちろんです。私たちがのぞき事件の犯人を追って行ったときはそこにわたしの仲間の下着が置いてあったんです。犯人が逃げて行くとき証拠になることをおそれてそこに捨てていったんですわ。それでもし、見つからなかったらまた持って帰ろうという魂胆でわかる場所に置いて行ったに違いありません。」
この犬の死骸の後ろの洞窟の奥の方には名前もわからないような宇宙の象徴である仏像が置いてあるのだから随分と罰当たりな話だ。犬の死骸には首にくびれたあとと胴体には指されたあとがあった。
村上弘明の判断によればまず首のあたりを縄のようなものでしめられて動かないようにして腹のあたりを凶器で刺したものと思われる。相手は動物にしても随分と残酷な殺し方をしている。たぶん犯人は犬に対して非常な憎悪を感じているのかも知れない。
「あなたはのぞき犯人が栗毛百次郎だと思っているんでしたね。栗毛百次郎だとしたら彼が犬に対して非常な憎しみを感じているとか、そう言った動物を殺すことで何かの欲望を解消しているとか、そんなことは考えられますか。」
「わかりません。その人のことは何一つ個人的には知らないんです。」
やはりこの犬の死骸は現在この市で起こっている犬の殺害事件に何らかしら関係しているに違いないと村上弘明は思った。彼はその犬の殺害現場を二、三枚の写真に納めるとまた車に乗り込んだ。また整備されていない道を椚の林のあいだ、五、六分走ると御影石のタイルの貼られた大きな門柱のある入り口に近づいた。門柱の横には大きな鋳物で作ったような奇妙な模様を織り込んだ鉄の壁が続いている。村上弘明の運転するルノーはその門柱の間から中へ入った。門柱には逆さの木葬儀場と書かれている。廷内はちょっとした学校ぐらいの広さがある。水平線を基調とした帝国ホテルのような建物が中にあった。建物の横には煙突の立って居る建物がある。そこが焼き場なのに違いない。
「確か正面入り口から入って左側の一部屋が栗毛百次郎さんの宿直室になっていたと思いますわ。私は彼に会うのは遠慮します。」
吉澤ひとみと村上弘明の二人はルノーから降りてこの帝国ホテルのような葬儀場の正面を見た。位牌を飾る部屋が全部で六室あるのだと言う、こんな小さな市ではその数は多すぎないか。栗毛家が没落する前はそれぞれの部屋に家具調度が置かれてぬくもりのある生活が営まれていたのだろうが今はそれらの机も椅子も取り払われてただの四角い箱になっているそうだ。ただ、一室だけは番人として栗毛百次郎が雇われて最低限の生活が行われるように家具が置かれているそうだ。子供時代の大金持ちの生活から一変して底辺に流れ込んだ栗毛百次郎の精神状態は一体どんなものなのだろうか。きっと毎日がおもしろくないに違いない、毎日を鬱々として暮らし、ただ死んでいくのを待つような日々を送っているのかも知れない。何しろ子供時代には欲しいものは何一つ手に入らないものはなかったのだろうから、それが今は人のお情けにすがって生きているような身分である。今はここいら一帯の大地主として中央政界にも進出を計っている福原豪も彼の子供時代には歯牙にもかけないような存在だったらしい。それほどの大金持ちだったのだ。そして栗毛家が持っていた土地や山を福原家が大部買い取って、それも大部買いたたかれたらしい。その土地や山を元手にして福原家はいろいろな事業に乗り出して今日の資産を築いたといわれている。栗毛百次郎の心の中には暗く薄黒く、しかし、爆発をすることを止められている鬱屈した思いがあるに違いないのだ。好意的に解釈すればそれが彼をK病院での痴漢行為に走らせている原因かも知れないのだ。そんな人間的な悲喜劇には関せず贅を尽くした栗毛家の別荘は外観だけは今も昔の姿をとどめて吉澤ひとみたちの前に立っている。帝国ホテルを真似ただけあってその建物は均整美をほこって建物の前方には堀が作られていて真ん中に大きな橋が架けられそこを通って正面玄関に入るようになっている。正面に面した一階部屋で橋で左右に分けられている二つの部屋は窓ガラスはステンドガラスになっている。そして建物自体の壁は大理石とレンガを多用してあり、アメリカのロッキー渓谷のように見えないこともない。また、ステンドガラスに目を奪われていれば大きなオルゴールのように見えないこともなかった。吉澤ひとみと村上弘明の二人が車から降りてその橋を渡り、三、四段大理石の階段をあがって四枚あるうちの一枚の大きな扉をあけると中はシャンデリアがつるされている大広間だった。大広間の正面には山間の春の自然を描いた大きな油絵が掛けられている。床は荒い目の花崗岩で敷き詰められていた。
「誰もいないみたいだわね。兄貴。」
「栗毛光昭の部屋は左に曲がって二部屋目だと言っていたな。あの人は。」
「兄貴、行ってみる。」
「もちろんだよ。」
天井には大きなシャンデリアが付いていて、それを中心にして小さなシャンデリアが左右の廊下に続いている。廊下を歩くことはそのシャンデリアの下を歩いていくのと同じだった。左の廊下を歩いて二つ目の部屋はすぐにわかった。廊下の突き当たりは塀と同じように鋳物で作られた変わった模様の格子のようなものが組み込まれていてそこには厚いガラスがはめられている。そのために外光が充分に入るようになっていて二つ目の部屋のドアがはっきりと見えた。ドアの取っ手のところにも変わった意匠が彫刻されている。
「金持ちはこんなところにも金をかけるんだな。」
村上弘明はそう言いながらドアのノブをそっと手で回して見た。
「あれ、開くよ。」
「兄貴、入っちゃえば。」
「栗毛さん、居ませんか、栗毛さん。くりげさん。」
ドアを開けると栗毛光昭が寝起きをしているという部屋の全貌があきらかになった。十畳ぐらいの大きさの部屋でベッドと食器棚、それにキッチンが付いている。キッチンに付いているガスや水道はあきらかに最初から付いていたものではなく、後からとってつけたような感じだった。ベッドの前には棚が置かれていてその上には十四型のテレビが置かれている。これが五十の半ばを過ぎた男の生活だとすればあまりにも侘びしすぎた。子供の頃と現在との生活にあまりにも差が大きすぎる。食器棚の横にもう一つ棚が置いてあって彼の生活に不釣り合いなものが置かれている。プロの放送局員が使うような録音機とそのそばに四角い小型のライターのような物が置いてあった。
「これは何かしら。兄貴。ライターにしてはおかしいわよね。」
村上弘明もそばによって見るとライターにしてはおかしい。それらがのっている棚の引き出しを吉澤ひとみはあけていた。一介の放送局の社員とその家族がする行為にしてはあまりにも権限を逸脱し過ぎている、一体この二人の素人探偵にどうしてこんな権限が与えられているのだろうか。そんなことにも躊躇せず吉澤ひとみはさらに引き出しの中を物色し始めた。
「これだわ。兄貴、見つけたわよ。」
吉澤ひとみは一人で納得していたが兄の村上弘明には何もわからなかった。
「ひとみ、何を見つけたというんだ。」
「兄貴、まだわからないの。このライターみたいなもの、盗聴器よ。それにこの録音機をセットにすれば遠く離れたところから盗聴ができるのよ。それにこの紙を見てちょうだいよ。」
吉澤ひとみは引き出しの中から取り出した紙を村上弘明の前に広げて見せた。
「私は怪盗三十面相である。ここにあるテープを聞いて、これが何を意味するかわかるかい。これは君たちが会話が全部録音されている。これを返して欲しかったら、駅前のロロという喫茶店の窓側に座って窓にCDをたてかけておいてくれ、日時は・・・・」
「これが脅迫文でなくて何よ。」
引き出しの中から取り出された紙を見ていても村上弘明にはその汚い字が何を意味しているのかさっぱりとわからなかった。
「兄貴がきょとんとして何もわからないのは不思議ではないけどね。」
そう言って吉澤ひとみはその紙片を手でぶらぶらさせた。全くの何の権限もない素人探偵が痴漢の容疑が確実であるとは言え、全くの見ず知らずの家に入って行き、他人の部屋の引き出しの中の手紙を抜き出してぶらぶらと手で揺らしているというような行為が許されるのだろうか。
「ひとまずこの脅迫文を写真を撮っておいてくれる。」
村上弘明は吉澤ひとみにそう言われたのでわけがわからないがとにかく、自分の持ち歩いている三十画素のデェジタルカメラでその映像を撮った。その画像を再現して見れば風景なんかの写りは今一ではあったが文字や文章の再生では全く何の問題もなかった。
「これと同じような脅迫文を読んだことがあるの。」
吉澤ひとみは瞼を半分ほど閉じて斜め下の方を見ながら村上弘明に挑むような態度で言った。吉澤ひとみのようなきれいな女性がやるから絵になるのだがそんなときはいつも村上弘明は彼女が一瞬自分の妹でないような気がするのだった。
「どこで。」
「私の同級生で一つ上の男の子とつき合っているちょっと不良がかった女の子がいるのよ。その子が恋人とラブホテルに泊まったことがあってそこで二人が済ますことを済まして、一週間後に彼女のところにそのときの様子が録音されているテープが送られて来たの。書いてある文面もほとんど同じだったわ。その子は家でも両親からも見放されていて学校の方にそのテープが送られて来ても学校なんかいつでもやめてやるという感じでいたからへっちゃらだったのよ。それで同級生の子がおもしろがって呼び出しを受けている場所に大挙して押し寄せて、一体どんな奴が来るかと見張っていたのよ。結局、犯人は来なかったけどね。これで犯人は分かったわ。これが何よりの証拠よ。この脅迫文が、犯人は栗毛百次郎だったのね。」
痴漢行為といい、ラブホテルの盗聴といい、その呪われた一生のうさをはらすにしてはあまりにも道化的な行為だった。しかし彼の不幸な人生を鑑みてもその行為は認可されるものではない。こうした証拠が栗毛百次郎の一面の生活を表していることは確かだった。しかし何故その栗毛百次郎がK病院の明らかな痴漢行為によって告発されないのか不思議だった。彼はK病院での何らかの秘密を握っているのかも知れない。彼は室町時代の武将の子孫でもあったが死体修復の名人だと言う話を元看護婦は言った。その技術をどこで覚えたのかはわからないがそれでK病院に出入りを始めたのだと言う。もしかしたら松田政男と栗毛百次郎の間には何らかの接点があるのかも知れない。栗毛百次郎の件、つまり痴漢事件を使うことによって警察を動かし、K病院を動かすことができるかも知れない。
「兄貴、私と考えていることは同じね。」
吉澤ひとみが言った。確かな証拠も今は手に入れている。二人は元看護婦を自宅まで送り届けてから大阪府警に行くことにした。吉澤ひとみは元看護婦が抱いている赤ん坊に手を振りながら言った。
「福原豪理事長の息子を知っていますか。」すると元看護婦はルノーの助手席に乗っている吉澤ひとみの方を見て怪訝な顔をしながら答えた。
「あの病院に小沼さんほどではないんですが自由に病院内のいろいろなところへ行ったり、外に出入りしていた人物がいたんですが、患者さんなのか、職員なのかよくわからなかったので、仲間の看護婦に聞いたんです。でも、誰も答えてくれなくて。正体不明の若い男性だったんですが、あれがもしかしたら福原豪の一人息子だったのかも知れません。」
その言葉を聞いてハンドルを握っていた村上弘明はK病院のゴミ捨て場で見つけたうつろな表情でゴミを見ていた幽鬼のような若い男の姿を思い出していた。
「でも、ひとみ、何で、福原豪の息子のことなんか聞いたんだ。」
「兄貴、女の感よ。女の感。」
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(小見出し)江尻伸吾
大阪府警の広報部長室は一昔前の刑事ドラマにでも出てきそうなほど古色蒼然としていた。部屋を仕切る目隠しの衝立はベニヤ板にニスを塗ったもので作られていたし、その衝立の前にはイカを逆さまにしたような帽子かけが立ててあり、さらにその前には厚手のベニヤ板をその周囲を見栄えよくカットしたウォールナットのニスが塗られた机が置かれガラスをダイヤのようにカットした見栄えは良いが安物の灰皿が置かれていた。その灰皿はかなり長い間使われていたらしくきれいに洗われていたにもかかわらずガラスの表面はすっかりと光沢を失って曇っていた。そこが広報部の応接室でさらに壁の横に廊下に出なくても行ける部屋があり、そこが事務室でそこで広報部の警官が事務を執っている。窓のところには薄い板を何枚も重ねたようなブラインドではなく、場末の映画館の幕のようなカーテンがつり下がっていた。そのカーテンもかなり古く痛んでいる。小柄でその小太りの体から雪だるまを連想させるこの広報部長尼山六兵衛は酔うといつも若い頃の唯一の自慢話、筒石事件のことを同じ課の若手に話すのだった。尼山六兵衛がその事件の指揮を執ったというわけではなかったが彼が関わった唯一の昭和の犯罪史に残るような事件だったからだ。筒石事件の指揮を執ったのは若い頃の尋問のテクニックからカツ丼刑事と呼ばれた、落としの名人、中山正吾だった。中山正吾が取り調べにおいてカツ丼を始めて取り入れたと警察史の雑学の今は古典となってしまったが昭和三十五年に刊行された尾木野勘助の警察現場捜査詳解記述には書かれている。今はその事件のことを知る人間はほとんどいないかも知れないが、何の政治的力もなく、ただ現場捜査をすることだけをモットーにしていた中山正吾が政治的に微妙な問題を含んでいるあの事件を解決したことは希有な出来事として現代の警察史の研究者も新たに取り組んでも良いかも知れない。それほどあの事件は重要であり、歴史に残るものだった。筒石というのは新潟県の上越市にある日本海に面した小さな町でその場所と東京を結んで事件は起こった。かいつまんで言えば中国で特殊政治工作の訓練を受けた秘密工作員が筒石を根城にしてその本来の目的を離れて自分たちの収得したスパイ技術や工作用の秘密機械を用いて麻薬の搬送と密売をやっていたという事件だった。この事件においては中山正吾が中国本土に渡り、秘密工作員の本部の協力を得て、何しろ自分たちの分身が起こしていた事件だったからその手の内を全部知っていたので彼らの裏をかき全員を逮捕することができたのだつた。そのとき尼山六兵衛は新潟と東京を行き来して犯人逮捕の一翼を担ったのだがその頃にはもちろん新幹線などなく東京から筒石へ行くには四時間近くかかったから捜査のめども立たない間にそこへ行くことは精神的にも非常に疲労困憊したことだろう。しかしその苦労もあって事件は解決した。そしてその事件が彼の関わった事件の中では日本の犯罪史上に残る唯一の事件だった。だから酒がまわるとその若い頃の輝かしい武勇談を誰彼となく周りの誰にでも吹聴して歩くのだった。その姿はラッパを口にくわえた雪だるまのようだった。
「浜館さんは今、何をやっているの。」
尼山六兵衛は今は現場から離れて広告の方に移っている村上弘明が二、三度しか話したことがない警察回りの記者の名前を出した。天山六兵衛の人物評価によれば日芸テレビの人間で浜館を知っているかどうかということが信用出来るかどうかという判断の基準になつていた。そして報道探検隊の村上弘明という名前は彼にとっては煙たい名前だった。尼山は二つの仮定を立てていた。いい方の仮定と悪い方の仮定の二つだった。いい方の仮定としてはつい二ヶ月くらい前に解決した大阪市内の雑居ビルの二階にあった偽造五百円硬貨の製造場所を特定し、証拠物件と重要参考人を五人ほど確保したことだった。製造場所と言っても偽造硬貨の試作場所と言った方が良い場所だった。外国から運ばれた偽造硬貨の試作品がここを中心としていろいろな自動販売機で使われ、また修理解体屋から取り寄せられた硬貨の選別機と組み合わせて新しく対応した自動販売機で使用できるように偽造硬貨の手直しがなされていた。そんなアジトを見つけたのだから大阪府警ははな高々だった。尼山はそのことでテレビ局の取材が来ることを内心期待していたのだがもっともそのための捜査のためには特殊な自動販売機を利用しなければならなかった。
「御免ください。」
入り口のドアが開いて風呂にも入らないような感じの髪型が変な今にも死にそうなバッタのようなやせた男が広報室に入って来た。尼山六兵衛はその人物の顔をちらりと見ただけで返事もしなかった。
死にそうなバッタは村上弘明の方を見ると警察官が職業上の必要から身につけた威圧的な表情を村上弘明の方に向けたがその偉力は皆無だった。
「資料を取りに来ました。」
バッタはそう言うと広報室の奥の方の部屋に消えて行った。尼山六兵衛は苦々しい表情をしながら彼が部屋の奥に入って行くのを見送った。村上弘明は彼らの間にある種の距離があることを何となく感じとった。今回の偽硬貨のアジト発見においてはこのバッタが多くの役割を担っていたのである。アジト発見のポイントになったのは自動販売機のある工夫で、この犯罪捜査のために開発された自動販売機がなければ犯人のアジトは発見されなかっただろう。一つ目の自動販売機は難波のあたりを中心にして二十台くらい投入された。それは正規の自動販売機を改造したもので変造硬貨も受け付ける仕組みになっていた。ただし、変造硬貨が機械の中の識別装置を通り抜けるとそのことが認識されテレビカメラと連動して犯人の姿を撮影する仕組みになっていた。そのテレビカメラも自動販売機の中の外から見てもわからないように内蔵されていて犯人の姿を写した。そしてここがポイントなのだが釣り銭にこそ特殊な仕組みがなされていた。これはこの大阪府警のバッタ、本名を江尻伸吾というのだが彼のFBI帰りの知識がなければ開発できなかったことだろう。FBIの犯罪装置研究所において開発されたもので人体に有害にならないほどのある二つの放射性物質をある割合でゆるく結合させると、これはイメージ的な言葉で、専門的には結晶構造に関した専門的な定義がなされているらしい、微弱な固有周波数を持つ電磁波を発生させるという最新の量子力学の応用でその金属を個別に識別ができるのだ。つまり一つ一つの数ミリグラムの金属片が個人名を持つということになる。そしてその金属片の埋め込まれたお釣りの硬貨を識別するために同じく難波を中心にして二十数台の警察の用意した自動販売機が設置された。そこから偽造犯のアジトを割り出すことに成功したのだ。だから一番のお手柄は改造された自動販売機ということになる。そしてその自動販売機を作ったのはFBI帰りの江尻伸吾ということになる。しかし尼山六兵衛はそのことを認めたくなかった。江尻伸吾の経歴は変わっていた。創生期のマイクロソフト社においてビル・ゲイツとOS言語の製品化に当たっていたが、そのあとアップル社のスティーブ・ジョブスと共同経営を始めた。その後、スティーブ・ジョブスが一時期会社を追われたのに従って彼もアップル社を退き、FBIの犯罪研究所に入って犯罪捜査のための装置の研究開発に当たり始めたのだ。彼を大阪府警に呼び込んだのは警察関係者の中でも狂人として知られていた神山本太郎だった。彼の本名は山本次郎というのだがある理由から彼は神山本太郎と名乗り始めた。父親の名前は山本太郎といい、売れない詩人だった。もちろん詩人で財をなした者はいないだろうが山本一家は赤貧洗うような状態だった。山本次郎は猛勉強をして官僚への道を歩き始めた。山本次郎は警察に入ってからは父の名前をつぎ神山本太郎と名乗り始めた。彼が二十三才で研修のおりは共産圏の秘密警察に留学した。そこで彼は尋問の研究を続けたのである。
そして五年の留学の後に大阪府警の署長に二十八才の若さで迎え入れられたのである。その彼が江尻伸吾をFBIからこの大阪府警に呼び込んだのだった。大阪府警では二大勢力が拮抗していた。それは尋問の仕方においてカツ丼派と呼ばれる中山正吾を師として仰ぐ一派である。そしてもう一派は神山本太郎を中心とする拷問派と呼ばれる一派である。もちろんあからさまな物理的暴力に訴えるのではないが、やり方としては自白剤の投与、寝させない、銀行口座の停止、家族の監禁、光の入らない部屋に三日間閉じこめるなどというものがあった。それに対してカツ丼派は容疑者を一ヶ月ほど閉じこめて、その間にその家族のところに行き、お手伝いさんをやったりして、その家の子供と一緒にお風呂に入れるまで仲良くなり、お手紙を容疑者に届けたり、最後は容疑者にカツ丼を食べさせて自白を促すというやり方だった。この二派が大阪府警内では対立していたのだ。江尻伸吾は前者に、尼山六兵衛は後者に属していたからお互いに反目しあっていた。それが今回の神山派の点数を上げた快挙である。尼山六兵衛はおもしろくなかった。それにカツ丼派には失点があった。それが村上弘明と吉澤ひとみが大阪府警にやって来たとき、このテレビ局のリポーターが今度の警察の不祥事をかぎつけに来たのではないかと懼れた理由だつた。ある暴力団の幹部が刑務所に収監されたとき、まだ盗品のルートが確定していなかった。それでカツ丼派の出番となり、一人の刑事がこの暴力団の幹部の家に入り込みお手伝いさんを始めた。その家庭がよくなかった。この幹部の女房というのがある映画会社のニューフェースとなった評判の美人でその刑事は自分の業務を忘れてその女房と駆け落ちしてしまったのである。もしかしたら、この二人のリポーターはそのことを記事にしに来たのかも知れない。何も言わないうちから村上弘明と吉澤ひとみはすでに応接室のソファーに腰掛けていた。
「ここら辺の交通量も最近増えたと思いませんか。それでも割と交通の流れはスムーズやからね。これも違法駐車の取り締まりに効果が上がって来たということやないかな。これは警察に点数をあげてもいいんやないかと思うんや。どないやろう。本当に大阪人はどこにでも駐車しよるからな。」
「私は東京にいたんですが東京でも同じようなものですよ。」
「じゃあ、大阪府警の交通行政について取材に来たんじゃないの。じゃあ、あれやろ、偽造硬貨製造のアジトが見っかったんやで、あれは大阪府警のお手柄や。うちからもあの事件に関してはぎょうさん人を出したからな。」
すると広報室のドアの向こうからせき込むような音が聞こえた。
「あの事件のことでテレビ局から来なはったんやろ。そならもう少し早く来てくれなきゃ。」
「いいえ、違うんです。」
村上弘明の横にいた吉澤ひとみが声を出すと尼山は今度は吉澤ひとみの方を向いた。
「あの偽金事件の解決じゃないとすると、ここ最近でテレビ局さんが飛びついてくるような事件があったやろうか。」
尼山六兵衛は首を斜めに傾けた。
「そんな新聞に載るような大きい事件じゃありませんわ。ある看護婦、元看護婦なんですけど彼女から聞いたんですけど、K病院って知っていますか。」
「いいや、知らない。どこにある病院なの。」
「栗の木団地駅のそばです。」
尼山六兵衛はそう聞いて安心したようだった。
「福原豪氏って知って居るでしょう。あの人が作った病院なんです。」
「もちろん知っていますわ。関西では名前の知られた経済人やからね。」
「じゃあ、逆さの木葬儀場って知っていますか。」
「それも知っていますよ。いつだったかな、昔あそこに遠足で行ったことがあってね。遠い昔のことですわ。」
「その葬儀場の管理人のことなんですけど、栗毛百次郎という人、昔は城主だったけど今はすっかりと落ちぶれて葬儀場の管理人をやって細々と生計を立てているんですが、その人がK病院の看護婦さんに痴漢行為をしたというんですけど、警察の方ではちゃんと調べてくれないと言ってK病院の看護婦さんが文句を言っているんです。何故、警察の方ではちゃんと調べてくれないんですか。」
「突然、そう言う話をこっちの方に持ち込まれてもねぇ。警察と言っても巨大な組織ですからねぇ。だいたい、その栗田、なんと言いましたっけ。」
「栗毛百次郎です。」
「その人物が痴漢行為を働いたというのは確かなんですか。あっ、そうだ。思い出した。栗毛百次郎ってそこら辺にある城の城主だつた人やないか。なんかでその名前を見たことあるわ。」
「ええ、逆さの木城の城主だった人ですよ。」
「何で、そんな偉い人が痴漢なんてするの。」
「昔は偉くて、金持ちだったかも知れないですが、子供の頃に家がすっかりと落ちぶれて独り身で貧しい生活を送っているんです。」
「だいたい、栗毛百次郎が痴漢をやつたかどうか、それを調べるのが警察の仕事でしょう。」
「そんなことをいちいち調べていたらカツ丼が何杯あっても足りないやろ。」
尼山六兵衛は口の中でぶつぶつとつぶやいたが吉澤ひとみには彼がなんと言っているのか、聞き取れなかった。
「そもそもですなぁ、警察にはそういう訴えが毎日、どのくらいあるのか、ご存知か。」
「いくつあるんですか。」
尼山六兵衛は口をつまらせて答えられなかった。
「警察は住民すべてのためにあるんですわ、テレビ局さんのためにあるわけではないんでね。」
「私は住民を代表して来ているわけですよ。そもそも、栗毛百次郎が痴漢行為を行ったかどうかということより、何故、その事件が途中でうやむやになってしまったかということの方が重要なんですよ。そこに関西を代表する経済人の福原豪の影響があるからではないかということを問題にしているわけです。あなたも福原豪のいろいろとよくない噂についてはご存知でしょう。」
「まあ、知らないわけではありませんがね、私がこんなことを言ったなんて記事にしないでくださいよ。」
そう言いながら尼山六兵衛は吉澤たちがテープレコーダーを持っていないか、じろじろと見回した。そのとき少し離れた棚の上にある内線電話がなり始めた。
「もしもし、何だ。うん、わかった。」
電話を受話器の上に置くと彼は吉澤ひとみたちの方を振り返った。
「急用ができたので、ごめんなさいね。この穴埋めはそのうちしますわ。」
尼山六兵衛は警察人でありながら商売人のような愛想の良さを見せてこの場を離れた。彼にとってはそれは都合の良かったことかも知れなかった。
「兄貴、あいつ、うまい具合に逃げたわね。」
「このまま、話していてもこっちは何も重要な栗毛百次郎に関したことを知らないんだから仕方ないさ。」
「仕方ないことはない。」
そのとき応接室の隣のドアが開いて今にも死にそうな、それでいて、しぶとく生に執着しているような感じの男が身を出した。
「今の話、ミーが聞いていました。ドュ・アンダースタンド。」
「彼は警察の本分が何であるかアンダー・スタンドしていない。疑わしいときこそ警察が働くべきでしょう。」
「あなたは。」
「失礼、先に名乗るべきでした。ミーはムッシュ、江尻伸吾ともうします。」
この男がこの広報室に入って来るときも吉澤ひとみはちらりと見ていたが、そのときはまるで今にも死にそうなバッタのようだったが今はすっかりと元気だ。まるで昔、算盤を片手に漫才をしていたコメディアンがいたがその話し方はそれに似ていた。死にそうなバッタから今は地獄から出て来た気の良い伊達男の悪魔という感じだった。
「あなたは、もちろん、警察関係の方ですよね。」
「ウィ、ムッシュ、二年前にはFBIに勤めていました。ゼロゼロセブンを見たことがありますかな。あそこでジェームス・ボンドがいろいろな秘密兵器を使うでしょう。ああいう物の開発を担当しています。」
そう言って窓のそばまで行くと江尻伸吾はブラインドの隙間から隣の交通安全協会のビルを指し示した。
「あそこで研究を行っているんでがす。ここもカツ丼派とミーたちみたいな維新派の対立があるんでがす。」
「カツ丼派。」
吉澤ひとみがいぶかしがって聞いた。
「尋問のあとにカツ丼を出すんでげす。」
「じゃあ、維新派というのは。」
「自白強要剤から始まって、催眠術、眠らせない、効果的な方法を使って泥をはかせるんでげす。」
村上弘明はこれは大変な人物に出会ったと思った。公的機関である警察に何でこんな人物がいるのだろうかと思ったが、何か役に立ちそうなのでこの男に話しを合わせておくことにした。カツ丼派である尼山六兵衛が居ないことが江尻伸吾の口を軽くしているのかも知れなかった。
「カツ丼派はこの大阪府警の恥でがす。あんな奴らがいるから検挙率が下がるんでがす。」
「維新派って何人いるんですか。」
「神山本太郎署長、・・・」
それから江尻伸吾は指を折って人数を数えるふりをしていたがすぐに数えるのをやめてしまった。
「とにかく維新派が増えなければこの大阪府警の改革はなされませんね。あの尼山六兵衛の態度を見てもわかるでしょう。警察官が船場の商人みたいな態度をとっていていいと思いますか。あなた方はここにどんな用件で来たのですか。いや、言わないでいいでがす。ドア越しに聞いていましたから。偽金作りがどうとかこうとか言っていましたがあれもみんなミーの開発した固有周波数発生金属がなければ成功しなかった捕り物でがす。まあ、そんなことはどうでもいいでがすが、お二人とも逆さの木葬儀場の管理人が何故、痴漢を働いていたのに警察が動かないのかと言っていましたね。少しはミーがあなた方の力になれるかも知れませんでがすよ。ミーの研究開発室に来て見ませんこと。」
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