もんもん娘

第一回
 夏目房の進 夏目漱石の孫、漫画評論家。ときどき親子漂流教室の司会も務める。
 滝沢繁明  日本最大の男性アイドル事務所ヤーニー事務所に所属する男性トップアイドル。お猿の絵を描くのがうまい。「ヤーニちゃんのお猿」。同じ事務所に所属するツバメくんと大の仲良し。
 鈴木あみ子 日本人なのになぜかメキシコ国籍を持つ不思議な女。最近すっぴん写真集を某出版社から発刊した。
 原た泰三  最近、石原軍団を首になった浅草人情喜劇出身のトリオコメディアン逆さ金時の一員で自宅で光しいたけを栽培しながらトリオを経済的にバックアップする。実は日本ハム創業者の実の忘れ形見。現在の社長は赤ん坊のときにすり替えられた偽物である。
 モンモン娘 いつも太鼓を叩きながら悶々としている性的欲求不満女の集団。実は人間ではない。公安のブラックリストにのっている。
 井川はるら いやし系、グラビア美女 

 モンモン娘の魔手を逃れた夏目房の進は東京を離れるいい口実が出来た。彼が出入りするテレビ局から夏目漱石についてレポートをやらないかと打診を受けたからである。出張先は那古井の温泉である。そのことはまったく彼にとってはわたりに舟だった。モンモン娘のモンモン三号こと安部なつみかんと云うのは仮の名前で実は北朝鮮出身のキムキムという本名の暗殺者だったからである。薄汚いジャージ姿を好むのは本国でのマスゲームにあまりにも慣れ親しんだせいだったからだ。彼女が男が陥りやすいどんな誘惑の方法を使って夏目房の進に近づいたのかはここでは書かない。そして北朝鮮の秘密工作員というのも仮の姿でまだこの地上が混沌としていたときに人間とそうでないものが地上に存在していたときの生きている形骸だった。どんな力が成し遂げたのかは知らないが、妖怪、魑魅魍魎の類は暗い地下に封印されていたがモンモン娘は人間の姿を借りてこの地上に生息し続けていた。そして悪事を繰り返していた。
 扉が間一髪でしまったとき安部なつみかんは地獄の幽鬼のようにどす黒いこの世の中の邪悪なものをすべてこね合わせたような瞳で夏目房の進を憎々しげにみつめた。しかし手遅れだった。すでに列車は出発して彼と彼の安全を確保して彼は旅の旅情に身をゆだねていたからである。         

第二回
 列車がカーブを曲がるたびに車窓の窓枠がぎしぎしと音を立てる。遠心力で肘に変な力が加わって肌がこすれる感じである。そしてそのたびに列車が走ることで生ずる薫風が頬を心地よくなでていく。夏目房の進は車窓に肩肘をかけていたので列車の振動が伝わって心地よい。自分の髪を後ろになでつけていくようだった。この列車の着くさきにはモンモン娘なんかは住んでいない。モンモン娘のような邪悪なものは東京に残してきた。モンモン娘の罠に陥ったことをひどく恥じていた。人間の女に騙されたのならまだいいのだが相手は妖怪である。おんなを使って身体を押しつけてきたのだ。不愉快だった。妖怪め。
夏目房の進は気分を変えるとかばんの中から、そこに入っている帝国地理院発行の五万文の一の地図を膝の上に広げて余を待つ温泉の印をしかと確かめてみる。温泉の名前は那古井温泉である。塵埃を離れた清涼の地にモンモン娘などという不浄の生き物はいない。神が姿を変えた森の魚や清冽な滝が余を待っている。しかしそういう美しいものを思いながらあのもんもん娘の姿が頭をかすめたので余は不愉快になった。とくにあの安部なつみかん、余は自分の土地の名義をあやうく奪われるところだった。そこで余はまた頭をふるってそのいやな思い出を振り払うのだった。あの清らかな景勝の地のことを考えようと思った。すると緑の樹木の中にひっそりと隠れすむ滝や、霊験あらたかな神泉がまたまぶたに浮かぶのだった。自然の人智を越えた驚異で作られた巨岩に囲まれた温泉の薬効あらたかなる香りも目の前にあるようだった。

第三回
 途中で列車は停まって窓の外に弁当売りがやってきた。余は峠の釜飯と素焼きの土瓶に入った茶を買った。窓越しに弁当売りに千円札を一枚出して百二十円のばら銭を弁当売りは余に手渡した。そのとき列車はまたごとりと鉄車を回して動き出した。走りゆく後方に首からかけた弁当のかごが軽くなった弁当売りの善良な姿が小さくなっていき、余の旅はまた始まった。
 列車の中でうとうとして目がさめると目の前に座っていたじいさんは余の隣の男と話しを始めている。この爺さんはたしか前の前から乗った田舎者である。頭がカラスウリのようにはげ上がっている。白い開襟シャツは黄色じみている。足には汚れたゴム長をはいている。発車間際に素っ頓狂な声を出して乗った爺さんは突然、余の前の空いている席に座って大事そうに抱えていた和竿を自分の横に置いていたのだけは記憶に残っている。和竿の横には竹で組んだ古雅な魚駕籠が置いてあった。
 隣の男がいつ乗ったのかは記憶にない。野蛮人のような顔をしているのに分厚いめがねをかけて神経質そうに自分のかばんを後生大事に抱いていたから最初は銀行員かと思った、それでもなければ司法試験の受験生かも知れない、しかしそうでもないらしい。そして挙動不審である。邪悪な表情をしていれば犯罪者である。よくテレビドラマに出てくるではないか。凶悪な脱獄犯が生まれ故郷に戻って来る設定が。故郷が純朴であればあるほど浮き世離れしていればいるほどドラマの効果は上がる。しかしそれは想像の世界のことでその男が犯罪者であることはないだろう。めがねの中のぎろりとした目がそわそわと動いている。そして彼を貧書生だと判断した理由はかばんから出した粗末な仮綴じの論文を読み始めたからである。それがなぜ論文だったかと云うと紙片の最初のほうにオスカー・ワイルドのキリスト教とのかかわりと書かれていたからである。とすると学校の教師か、余にはひどくつまらないものに思われてその男に興味も払わずこれから訪ねる温泉のひなびた素晴らしさを思い描いてその男どころではなかったのである。

第四回
 余は目が覚めてからも狸寝入りをして目をつぶったまま相席のふたりの世間話に耳を傾けていた。余が起きて聞き耳を立てていることをふたりが意識しないほうがふたりが自由に話しておもしろい話が聞けるのではないかと思ったからだ。知らないあいだに知らない状況に置かれ、名乗り出るのも鬱陶しいということもあるだろう。余がうたた寝をしているあいだにこのじいさんと若い男はずいぶんと懇意になったらしい。
 しかし実際はふたりの世間話と思っていたのが田舎者のじいさんのほうが一方的に若い男に教訓をたれているかたちだった。このじいさんは余が行く田舎温泉の住人らしい。毎日つり三昧の生活をしているのかも知れない。ここで懇意になったのではなくて前から知り合いだったのかも知れない。
 じいさんが和竿を持っていたのはどうやらつりが好きらしいからだった。ずいぶんと使い込んだ修練のあとがあった。それからじいさんは、つまりつりの話から始めて、二二六事件の雪の日の話しに及んで、それから女というのは恐ろしいものだというところに話を持っていった。実際、どういうふうにおそろしいのかと云うと女の持っている超自然的な話から始まって、女自身の恐ろしさ、そして女が恐ろしい状況を引き起こす恐ろしさに話がおよんだ。そのあいだ若い方はその話を謹聴していた。
 いまさらそんな話しを聞くまでもない。
余は安部なつみかんのために随分と恐ろしい思いをしたのである。
 余もその話が人ごとだと思えなかったので自分の意識が覚醒していることを悟られないかと肝を冷やした。
 別にそんな必要もないのだが。
 余はときどき漂流親子教室の司会などということをしてテレビカメラと一緒に数組の親子と無人島に行き、ロビンソン・クルーソーのようなことをやっているのだが、それに目をつけた新宿追分けのラーメン屋でかつぶしラーメンを食べに行こうとよく誘うテレビ東京のディレクターがモンモン娘と一緒にテレビに出ないかと零段論法を開陳した。ほとんど理論にもならない強引なものだった。とにかくモンモン娘の中で室蘭の田舎から出て来た女でまだ福寿草の芽が出たような娘で安部なつみかんと云う女がいる。最近、お塩学ぶという俳優と彼の自宅マンションで一夜を過ごしたのだが今が食べどき、料理のし時とまるで食材のように不埒な話しをまくし立てている。それでも余もそう思われてこの企画に選ばれたのかと思い少し不快になった。そしてそのときは彼も安部を人間だと思っていたのかも知れない。ラーメン屋でその話を聞いたのだが、いいような悪いようなあいまいな返事をしているとその男の背後にラーメンのゆでじるの湯気でけむってよく見えなかったうしろの方に河童みたいな顔をした女がにやにやにやけている。それが安部なつみかんを見たはじめだった。口には焼き豚がくわえられていた。焼き豚はいい色で焼き上がっている。湯気の向こうにある安部なつみかんはただただラーメンをすすっている、なつみかんの横にはからになったラーメンのどんぶりがふたつも重ねられている。この雌豚が。余は心の中でつぶやいた。

第五回
 ディレクターの話しによるとそのテレビ番組と云うのは東京の日本橋から二千円の所持金を持った何組かの男女がペアになって室蘭までその所持金だけで到着してその順位を競うものだった。もちろん出場者は見栄麗しい乙女とますらおばかりである。余がどうして選ばれたかわからなかった。そして安部なつみかんがである。
千円だけで日本のはじの方にある室蘭まで行けるはずがなく、それなりの工夫が必要でそこがその番組の面白味となる。 余やほかのタレントたちが東京タワーの真下に集められ、そこから出発するのだ。最初は誰と組んで辺境の地、室蘭へ出発するか決まっていなかったが、番組の司会者がお互いの相手を見つけるように言うとそれぞれの男女のタレントたちがつぎつぎとペアになっていった。どこで彼らのあいだに面識があるのだろう。その内情を詳しく調べたら芸能界、相姦図が出来るかもしれない。しかし、安部なつみかんだけはみんなに嫌われていたのでじっとその場に立ちつくしていた。それともお塩学がいなかっただろうか。
しかしそのことも気にならないのか、にやにやにやけていたけど。その姿は醜悪だった。しかしちょっぴり哀れみをさそうものもあった。
余にも相手が見つからなかった。
するとするすると安部なつみかんは余のそばに寄って来て
「お供をしてもよろしいでしょうか」
と言ってやまねのような目で余を見つめてにやにやと笑った。内心、余は気味が悪かったが、余も相手がいなかったので仕方なく同意をしたわけだ。
二千円の軍資金では一日では室蘭まで行けない。最初の宿は松島だった。
芭蕉がああ、松島や松島やと詠んだ景勝の地である。
駅から降りるとデイレクターが待っていて
どこか場末の宿屋に泊まるように言った。そして五万円を渡した。その様子はテレビカメラには写っていない。
駅のそばに宿屋はいくつかあった。
なかなか敷居の高い、立派な宿もある。
しかしそんな宿に泊まれば番組の主旨にあわない。
見ている人間が面白くない。
ぶらぶらと歩いているとゴミ箱の上で野良猫が
余と安部なつみかんをじっと見ているよつ角があって
そこを曲がると少しさびれたところになった。その通りには汚い建物しか並んでいない。
そこの角から三軒目に
「一度きり」と妙な看板が大きく掲げてある汚い安宿があった。
これなら番組の主旨にも合っていると思ったので
ちょっと振り返って安部なつみかんに一晩ここでどうですか、
と聞くと例の薄気味悪い笑みを浮かべて安部もここでいいと言うので
思い切ってずんずんそこへ入った。
 夫婦でも恋人でもないので別々の部屋をとろうと思ったのだが
下女が出て来て竹の三番などと言われて、
ふたりはやむを得ず竹の三番に通されてしまった。その旅館の一番北側の布団部屋の隣の部屋だった。
 その和室の部屋で余と安部なつみかんは
ぼんやりと向かい合って座った。
個人的な話を聞こうかとも思ったがお塩さまのことを
聞くのもなんだと思ったので黙っていた。最近の押尾学には超自然的ななにかが加味されたような気がすると誰かが言っていたがそれは妖怪と交尾した結果だと気づいた人間は余をのぞいては誰もいないだろう。その妖怪のために余は大変な目に遭ったのだから。
 部屋に入ったときにはすでに汚い部屋の真ん中に魔法瓶と湯飲みがふたつ、茶饅頭が三個置かれている。部屋に入ってボストンバッグをおろしたとたんに安部は茶饅頭をとってがつがつ食い始めた。そして自分で魔法瓶からお茶をつぐとぐびぐびと飲み始めた。
 余は安部の閨房の中での狂態を連想した。お塩学とのあいだに繰り広げられた男と女の肌の絡み合いをである。妖怪が生身の男にとりつく姿をである。

第六回

 安部は腹がくちくなるとバッグの中からブラシを取り出して髪をすき始めた。安部の女を感じさせる背中が余のほうを向いていた。余は窓際に行き、撫りょうをなぐさめるために窓の下を通る人間を観察していた。すると下女がお風呂の準備ができました、と言って来た。
今まで髪をとかしていた安部がふり返って、変な笑みを浮かべて、あなたからどうぞと気味悪く笑うので余はボストンバッグの底に入っていたタオルを持って薄暗い廊下の奥へ行った。
そこに風呂はなくて下に下りていける階段がある。そこの階段をおりると小さな小さな広間があって壊れたゲームの機械がたくさん置いてある部屋に入ってその向こう側が上がる階段になっている。
余はその向こう側に行くと階段を上がって行き、風呂場があった。
天井は裸電球ひとつで照らされている。
だいぶ不潔なようであった。田舎の風呂にありがちなかび臭いにおいがした。
余は服を脱いでじゃぶんと湯の中に飛び込むと
顔を洗い熊のようにタオルでごしごし、こすった。入ってみるとちょうどよい湯加減でかびくさいことも気にならない。
そして安部なつみかんが「あなたからどうぞ」と
言って気味の悪い笑みを浮かべた姿が額の斜め上三十センチのあたりに浮かんでやはり気味の悪い気分がぶり返した。湯の中に入ってうとうとしていると湯に入っている自分の乳のあたりに何かが見える。金色をした毛玉のようなものだった。しだいにそれが姿をあらわし湯の表を破って六十センチぐらいの矢口が浮上してきた。余は矢口の頭のてっぺんのところを片手で押さえて水中に沈めるとぶくぶくと空気の泡を発生させながら矢口は風呂の底に沈んだまま浮かんでこなくなった。それからまた湯船につかっていると天井のほうで人の気配がした。上を見上げると真っ裸の紺野が天井にへばりついて首だけこちらをむけて舌をぺろぺろと出している。やもりめ。余は舌打ちをした。汚かったが我慢をして風呂のお湯を口いっぱいに含んで水鉄砲のようにして紺野に吹きかけると、紺野はへばりついていた天井から洗い場のほうに落ちてぎゃと声を発したので手早く洗い桶でお湯をすくって一挙に流すと排水口から温泉とともに流れていった。
余の平和は再びおとずれた。また余はまったりした湯の中にふたたび浸って太平楽を楽しむ。鼻歌までも口ずさんでいた。
    

第七回
 脱衣場の前の廊下がみしりみしりときしむ音がする。なにか遠慮をしているようだった。そして脱衣所のドアを開ける音がする。脱衣場の横には便所があった。どうやら便所に入ったようだった。水を流す音がする。
ドアを用心深くしめる音がする。
脱衣所の棚に何かを置いた音がする。かちゃりと音がして腕時計が置かれたようだった。それからベルトをはずすとき聞こえるこすれる音がする。
服を地べたに落とす音がする。少し変な息づかいが聞こえる。
それから風呂の戸が半分ほど空いて
安部が身体の半分をのぞかせた。
安部なつみかんは全裸だった。
「お背中を流しましょうか」
安部の目は半分うるんでいた。どうやら酒を飲んだらしかった。口元はだらしなくゆるんでいる。この女は男なら誰でも良いらしかった。
これは人妻温泉か、と余はうろたえた。
少し垢の浮かんだお湯に安部なつみは片足からそろそろと入ってきた。
安部なつみの内股が見えた。
肉付きがよくてバランスがくずれてしわの出来ているところもよく見えた。
「ちょうどよい湯加減だわ」
二メートル四方あった。安部は湯船のはじから入ってきた。
安部なつみはタオルで顔を吹きながらお湯の表面を波立てないように静かに移動してくると
余から三十センチ離れたところでにやにや笑いながら
余の太股のところに手をかけた。最初は太股の上のところに安部のぶっくりした手が置かれているようだったが少し手の位置がずれて中に寄って来たような気がした。
「疲れていらっしゃるでしょう。按摩をしてさしあげるわ」
「結構です」
余はあわてて風呂を出て自分の部屋に戻ると
部屋の中で腹這いになってさっきの興奮をさめるために
新聞を読み始めた。
それから冷蔵庫の中のビールを飲もうとするとすでに一本なくなっていた。
安部が飲んだに違いない。
それから女中が宿帳を持ってやって来た。
宿帳には夏目房の進 東京生、夫と書いてある横に
夏目なつみかん室蘭生、妻と書いてある。
誰がこんなことを書いたのかと猛烈に抗議すると、
「奥様が」
と女中はいいわけめいたことを言った。
「まあ、いいよ」
余が面倒臭いのではらばいになったまま手を振ってそのままにすると女中は不満気な顔をして
出て行こうとするから冷蔵庫から出したビールは別料金にしてくれ
と叫ぶとなんの返事もないので聞いていないのかもしれない。
 宿の入り口に入るところまではテレビカメラが回っていたが
それからそのあとはふたりはテレビカメラに写らないのでここでの宿での生活で
安部なつみかんは本性を現すかもしれないと余は思った。
 たばこ盆のそばにある週刊誌を手元にひきよせてみると、
すごいタイトルの記事が目についた。
「誰とでもすぐに寝る女。安部なつみかん」と書かれている。
その内容はあまりにもひどいのでここには書けない。
それを読んでいると部屋の戸があいて安部なつみかんが入ってきた。
「お背中をお流ししましたのに」
安部の顔は湯でほてったのか少し赤みがかっている。
余はうつぶせになったまま顔を畳みに強く押しつけた。
この呼吸困難感がたまらない。
風呂からあがった安部なつみかんは浴衣を着ていた。
それから電話を見つけて電話をかけはじめた。
モンモン娘に電話をかけているらしかった。
そのきんきん声が耳について夏の終わりのせみの鳴き声のように聞こえる。しかし余はすでにふたりのモンモン娘を殺している。矢口と紺野をだ。電話の相手は他のメンバーかも知れない。
 夕飯を食ってすっかり腹がくちくなっていると、それから女中がまた入ってきた。大きなふとんを一組かかえている。格子縞のいまにもすり切れそうなふとんだ。
部屋の真ん中にそのふとんをひろげた。
「ふとんが二組、何故ないんだ」と抗議すると、ご夫婦ではないんですか。
部屋が小さいのでふたつはひけません。これしかふとんはありません。
他のふとんは虫干ししている最中です。とかもっともらしいことをいう。
そのうち番頭が今いませんので詳しいことはわかりません。
帰ったら番頭に来させましょうなどと逃げ口上を言って出て行った。出て行くとき女中は足で障子を開けた。ずいぶんと器用な足だ。そのショックで床の間に置いてある熊の彫り物ががくりと揺れた。
 余はかばんの中からポケモンのパジャマをとりだした。
いつも外で寝るときはこれがなければ寝られない。これが世の魔物から余を守ってくれるのだ。
黄色のタオル地のそのパジャマを畳の上で
ひろげていとおしそうに見ていると、
隣のほうで安部は柔軟体操をはじめた。
安部なつみかんの浴衣の裾ははだけて太股があらわになっている。なかには背中を畳みにつけて足のさきを頭のほうに向けてえびのようなかたちをする体操もある。
パンティもはいていないようだった。
余は少し気になったので聞いてみた。寝ていた身体を反転させて、
なにを着て寝るのかと、その浴衣で寝るのかと、
すると安部なつみかんの答えは意外だった。
真っ裸で一糸まとわぬ姿で寝ると言った。
そのほうが気持ちいいと言った。
「わたし、疲れたから寝ます。電気を消してください
余は安部のいうとおり電気を消した。安部は浴衣のひもをとくと真っ裸になった。そして大きなふとんに横になると向こうをむいた。暗い部屋の中に豚の死骸のような安部の裸体が向こうを向いて横たわっていた。堅い畳の上で寝るのはいやだった。余もポケモンのパジャマを来て安部の横に身を横たえた。安部は暑いのかけだるそうにうちわで自分の方に風を送っている。余は仰向けで天井をじっと見つめていた。
「世の中には人間以外の、人間によく似た高等生物がいると思いますか」
「どういう意味だ。この雌豚」
余は天井を見つめながらつぶやいた。その問いを口には出さなかった。
「ふふふふふふ」
雌豚はまた意味もなく薄気味悪く笑った。
余は風呂場での出来事を思い出した。風呂の湯船の中に沈んでいったミクロの矢口、天井にへばりついていたヤモリ女、紺野、みんな人間じゃなかった。余は額のあたりに冷や汗が浮かんだ。それでいて金縛りに会ったように身体が動かない。
「あなたの知らない世界がいろいろとあるんですよ。くくくくく」
「なにを、言う、この雌豚」
「女の身体には穴がいくつあるかわかりますか」
「・・・・・・・」
「わたしの身体には特別に穴があるんです。冒険してみます」
安部はそういうと余の手をとり自分の汗ばんだ乳房の上にはわせた。
「うううう」
余は熱病にうなされた。安部のなせるままにしかならない。しかし身体は動かない。
「まず、この穴に」
雌豚は余の手をとり彼女の身体の一部に入れた。余の手は粘液で汚された。
「ううう、この粘液女、雌豚め。雌豚め」
「ふふふふふ、まだ最初じゃないの。お楽しみはまだまだあるのよ」
いつの間にか、雌豚安部はこちら側を向いている。余は口では表せない恐怖と甘美な快感に身を硬直させた。余の手が二つ目の雌豚の穴に運ばれたとき。余は叫んだ。
「お塩さま、お塩さま」
するとどうしたことだろう。淫乱女雌豚の姿から安部の姿は恥じらう乙女の姿に変わり、恥ずかしそうに浴衣を胸の前で合わせて乙女座りをして恐れを抱いていいる目で余を見ているではないか。
 これが妖怪モンモン娘の姿を見たはじめだった。余はじいさんと若い男の話しているのを聞いていて妖怪にあったことを思い出していた。

第八回
 いくらなんでもこれから訪ねる那古井の地にはモンモン娘のような妖怪はいないだろうと思う。那古井は水と緑に囲まれた景勝の地である。その温泉も有名である。過去には日本の名泉五十に選ばれている。なによりも余がじいさんが訪ねた土地である。疲れた人の生命力をふたたび取り戻させてくれる空気が良い、水が良い、食べ物が良い、風景が良いという那古井の土地にモンモン娘のような不浄な妖怪がかかわるはずがない。これまでたびたび余の前にあの妖怪どもが姿をあらわし悪さをするのは余に関係があるだろうか。しかし余と人間とは別の世界にあるモンモン娘を結びつける鍵はいっさいない。余はじいさんのことで那古井の地に行くだけである。
列車で同席したじいさんと若者は女のこわい話しから始まってじいさんが得意とする釣りの話しに変わっていた。その前には226事件の話しもはさまっていた。じいさんは若い頃は日本橋の方の問屋に勤めていたらしい。その頃に226事件があったらしい。その日は朝から雪が降っていてラジオから禁足令が出たそうだ。しかしじいさんの向かいに座っている挙動不審の若者にそんな話しをしても若者にはとんとぴんとこない。それからじいさんの話しは自分が日本橋の問屋で働いていたとき意外と出世したことを、処世訓として話し始めた。おらはなにも言わずにもくもくと働いただ。みんな給料が安いとか、休みが少ないとかぶつぶつと言っていたがな。おらはそんなことは一言も言わずにもくもくと働いただ。それで上の奴がこいつは見込みがあるとか思ったんだろうな。じいさんの自慢話しは続いた。学問もそうだろう。こつこつとやるのが一番だ。挙動不審の若者はじいさんの問いかけに肯定も否定もしなかった。余はじいさんの論が本当かどうかかなり危ぶんだが別に反論も浮かばなかった。同じ席のふたりはなによりも余が目をつぶって寝ていると思っているに違いないのだから、ことりとも動くことは出来ない。昔、余にこんなことがあったのを思いだした。学校時代、バスで上高地のほうに学年全体が旅行したことがある。その観光バスの中にはカラオケの装置がしつらえてあって、バスガイドが歌詞が書かれた本を持っていて、それに対応したカセットも全部そろっていてその伴奏で歌を歌うことが出来る。クラスの中でも出しゃばりのワハハ本舗の柴田のような顔をした女がそのマイクを握ると後ろのほうを振り向いてカラオケ大会を始めようよ。指名を受けた人は必ず歌わなければならないのよ。歌った人は次の人に指名しなければならないんだから。先生から歌ってよ。と喚くと突然、担任の手に渡した。担任は高橋真理子の桃色吐息を歌って次の生徒にバトンタッチした。そのときである余が目をつぶって寝たふりをしたのは。そんな生徒が何人かいた。余はこの状態を思い浮かべながら、突然そのときのことを思い出したのである。
 釣りの話しをしながらじいさんは自分の横に置いてあるクーラーボックスをあけると中から冷えた桃をとりだして目の前の若者に勧めた。「泰三さん、くえや」「ありがとう」若者はその桃を受け取った。余は薄目を開けてその様子を見ていたが、その男の名前が泰三ということを知った。しかし、その名前もすぐに忘れてしまった。「ほら、新聞紙」じいさんは新聞紙も渡した。若者はもらった桃をむきながらその皮を足下に広げた新聞紙の上に落とした。じいさんも同じようにした。ふたりで五個くらいの冷えた桃を食ってそのかすを新聞紙にくるんで足下に置いた。
「おじいさん、竜田川ではどんな魚が釣れるんだい」竜田川というのは線路にほぼ平行に流れている川の名前である。山の中の川にしては水量が豊かで水は清らかである。「やっぱり、鮎じゃな。ここは水の流れが急じゃから身がしまってうまいんじゃ。それにほかの川でとれた鮎より、身体の色が少し青っぽいんじゃ。駅の隣に山海亭という料亭みたいのがあるじゃろ。あそこで釣った魚を焼いて食わせてくれるし、そこからこんろを借りれば川端でも焼いて食えるんじや」若者はその話しに多いに興味を持ったようだった。余も同時に興味を持った。「おじいさん、那古井でつりの名人と言ったら誰なんだい」若者は歯をむき出してカップ酒を口にしながら言った。ゴリラが喜んでいるようだった。いつの間にかじいさんと若者はカッブ酒を買って口にしている。そうだな、じいさんはたばこ入れからきせるを取り出して磨きだした。「わしがそうだと言ったらいいんじゃがな。わしよりも名人がいる。まだ若い」「おじいさん、誰なんだい」「しかも、女じゃ」「おじいさん、人が悪いな。早く教えてくださいよ」「鈴木の本家の一人娘がいるじゃろう。鈴木あみ子お嬢さんだ」そのとき余は鈴木あみ子と言われても誰のことだかよくわからなかった。那古井のひとつ前の駅で若者とじいさんは降りて行った。その駅で三分ぐらい列車は停止した。機関車の車輪の回る音が止まるとときどき動力車のボイラーの蒸気を抜く音が聞こえる。その合間に川のせせらぎが聞こえるのだ。この駅にいて川のせせらぎの音が聞こえるということは川の水量が多いのか。ここが静かだということだろうか。そのほかの音としては鳥の鳴き声が聞こえるだけだったからだ。また列車が出発しようとする少し前に余の乗っている車両に誰か乗って来た。列車の入り口から客車の中央にその人が立ったとき、余は自分の目を疑った。なんでこんな人がこんな田舎に来たのだろうか。その人の姿はまるでグラビアの女王のようだった。身体の線がはっきりとわかる軽い着心地の服を着ている。天の羽衣が地上に降りて来たときはこうなのかも知れない。そのくせその顔立ちは慈愛に満ちていて白衣の天使のようだったのだ。前方の通路の中央に立つと客車の中を見渡している。この車両の中には余しか座っていない。余と目が合うと彼女はにっこりと笑った。彼女は列車の中を歩いて来ると余の斜め前の方の通路をはさんだ向かい側のところに席をとった。このさきで彼女は降りるのだろうか。余は思った。次の那古井の駅が終点である。当然、彼女も那古井の駅で降りることだろう。と云うことは彼女も那古井のどこかの温泉宿に泊まるのだろうか。那古井の地で彼女が何をするのかわからないが、彼女とそこでまた出会うかも知れないのだ。余の期待はいやがおうでも高まった。余は座っている彼女の姿をちろちろと盗み見た。そこで余の足下にあのふたりが残して行った、桃の食いカスを包んだ新聞包みがあることを思いだした。この包みをグラビア女王らしい、彼女はどう思うだろう。きっと公共心のない男と思うかも知れない。窓から捨てるか。いや、待てよ。この汽車は進行している。汽車から捨てればゴミが舞い戻って来てまた列車の窓にぶっかって窓は汚れてしまい彼女に悪い印象を与えてしまうだろう。そうだ。そこで余は思いついた。便所から捨てればいい。便所の大便のふたから外に落とせばゴミはレールの上に落ちるだろう。まだ新幹線などがこの世に現れない時代の話しだった。大便も小便もタンクにためて施設に持ち帰ることなどせずレールの上にまき散らかしていたのである。だから駅のそばでは便所に入ることは出来なかった。余は照れ笑いをしながら新聞のインキのにおいのついた包みを持ちながら便所への通路に向かった。そのあいだ余の耳の片隅にはニイニイという変な音がかすかすに聞こえていたのだが空耳だとばかり思っていた。列車の中の便所の戸を開けて中に入るとどこからかニイニイという耳障りな音がまた聞こえ始めた。便所の中は一メートル五十センチ四方の木の箱で真ん中にふたをしめてある木のふたがある。その前の壁にはしんばり棒がついている。右斜め後ろには小さな洗面台が置いてあってその下に便所掃除のための柄のついたたわしだとか、じょうろだとか、吸盤のお化けのようなものが掃除のために置いてある。余は自分の耳に神経を集中させた。音がしている方向がどこか、しょっちゅう間違えている。パトカーのサイレンの音がしても関係のないほうに顔を向ける。でもこのときはここだろうとあたりがついた。便所のすみにしか盲点はない。壁の向こう側から音がしているとは思えない。余はおそるおそる、掃除道具の置かれているほうに顔を向けた。たしかにニイニイとアブラゼミのような音が聞こえる。余は大きな吸盤の柄をとるとそっと持ち上げてみた。そのときだった。その物体は凶暴になったときのグレムリンか、フライングキラーフイッシュか、便所のすみから急に飛び出して余の顔のほんの数十センチ横を通り過ぎて便所の斜め上方にへばりついて、ニイニイと鳴いている。単細胞生物め。余ははきすてるように言った。最初の攻撃に失敗するとまた便所の壁にへばりついてニイニイと鳴いているしか能がなかった。それは体長二十センチほどのモンモン娘の新垣だった。ステゴザウルスは脳が分散されて存在すると云われている。巨大な身体をコントロールすることが出来ないからだ。新垣はほんの二十センチほどの肉体の中には小脳しかなかった。ホルモン調節と生存欲求しかなかった。余は吸盤を取り上げると壁にへばりついた新垣に押しつけた。新垣の口にはピラニアのような歯がついていてやはりニイニイと鳴いている。余は吸い付いた新垣を便器のふたを開けるとその中に入れた。下には走り去るレールが見える。吸盤をふると新垣はニイニイと叫びながら地べたにおちて行った。さよなら妖怪。余はつぶやいた。余は何事もないふりをして余の席に戻った。列車の中ではやはり例のグラビア美女が物思いにふけている。余はすっかりその姿に見とれてしまった。自分のかばんの中にあんず酒が入っていたことを思い出して鞄の中を探る。しかしなぜ余の行くところに妖怪モンモン娘が出現するのだろうか。余にはその答えを見つけることが出来ない。鞄の底のほうを探ると堅いものが指先に触れた。しかし、あんず酒ではなかった。少し離れたところに座っていたグラビア美女がその姿を見て微笑んだ。「なにを探していらっしゃるのですか」それがその女の声を聞いたはじめだった。「なにか、飲もうと思って」余はモンモン娘の一匹に襲撃されたことは言わなかった。「ちょっと待ってください」
彼女は横から缶入り飲料を取り出した。「これを飲んでください。いっぱい持っているんです。スポンサーからもらったんです」それしはお茶だった。余は恭しくそのお茶を受け取った。余は缶のプルトップを引っ張る。余は余のじいさんの茶の飲み方の話しを思い出した。普通の人は茶を飲むものと心得ているが、あれは間違いだ。舌頭へぽたりと載せて、清いものが四方に散ればのどへ下るべき液はほとんどない。ただ馥郁たる匂いが食道から胃のなかへしみ渡るのである。歯を用いるのは卑しい。水はあまりにも軽い。玉露にいたってはこまやかなること、淡水の境を脱して、あごを疲れさすほどの硬さを知らず。結構な飲料である。眠られぬと訴えるものあらば、眠らぬも、茶を用いよと勧めたい。云々。じいさんは羊羹についてもしゃべっている。しかし余はその茶をぐびぐびとバカボンのパパのように飲んだ。飲み終わって余は深呼吸を一つした。すると例の美女は余の顔を見て満足気にほほえんだ。「ありがとう」「どういたしまして」余は彼女と旧知のあいだからのような気がした。余は彼女の名前を知りたかった。「お名前はなんと言うんですか」「井川はるらともうします」「那古井に逗留するのですか」「ええ」「どういう目的で」しかしはるら嬢は那古井を訪ねる理由を言わない。逆に余がなぜここに来たのか聞いてきた。余もその問いに答えることが出来なかった。お互いに答えることの出来ない秘密を胸に抱いたままふたりはある距離を保っていたのだった。余には少しの寂しさと同時になにか自分でも予測出来ない期待のような感覚があった。
 汽車は那古井についた。余は那古井に着いたら真っ先にしようと思うことがあった。駅出るとはるら嬢は駅の隣の料亭に行った。余は駅を出ると目の前には数え切れない杉の木が視界を覆った。その杉の木々の葉は春雨に煙っている。千年杉という言葉が心の中に浮かんだ。実際、余の視界に入っている木々が千年の命を持っているとは思えないが、余の命の百倍も生きていることは確かだろう。この世の不浄なほこりっぽいゴミを浄化してくれる自然の浄水器である。杉の葉の上に落ちる雨がたどる旅の姿が目の前に浮かぶような気持ちがする。葉のさきからしたたり落ちる雨水はすでに清らかになっている。古代の人間は杉の葉をたばねて汚れた水を濾過するための道具を作ったのではないかと勝手に考えた。川のせせらぎの音が身体に静かに響いてくる。はるか向こうには緑の山が幾十にも重なっている。はやりの言葉を言えばマイナスイオンが山々の木々から発せられ、ここを訪ねる人を直撃している。駅の前は旧街道になっていて車が一台通れるかどうかという細さだった。駅を出た直後に大きな看板が立っていて那古井あゆ釣り場と書かれていて大きな岩がくり抜かれていてその下に道が出来ていて川に降りられるようになっている。ふり返って駅とその隣に建っている料亭を見るとまるで民芸品のおもちゃの家のようにみえる。本物の木の肌をはがして屋根に張り付け、かんなをかけない荒い木の目地の見える板材で壁を作った家のように見える。大きな水車でも付いていればなおさら似合うだろう。駅のうしろも山が重なっている。幽すいな景色だった。霧雨の中を遠くでとんびが飛んでいた。川に降りていけるトンネルの入り口はえんま大王の住む地獄の入り口のように見えた。もしくは桃太郎が鬼退治に出かけた鬼ヶ島の入り口か。どこかの遊園地で南極と同じ世界を体験させるというアトラクションがあってその入り口もこんな感じだった。余はそのトンネルをくぐって中に入った。崖のようなところにはところどころ巨岩がむき出しになっていてそのあいだを木がはえていて根を横に張っている。まるで猿飛佐助が修行をしたようなところだった。しかしその階段の途中から折れ曲がっていて広場のようになっていて大きな屋根のついた調理場のような施設があった。そこは下に炭を焚けるようになっていて灰の中にさしたままの鉄ぐしもある。ここで釣り人は釣ったあゆを焼いて食べるのかも知れない。その調理場は壁のないバンガローのようだった。そのうしろは苔の生えた大きな岩の壁になっていて石清水がちょろちょろと出ている。こんろは料亭、山海亭で貸し出しますと張り紙が張られている。余は那古井の駅に着く前から列車の中でのじいさんと若者の会話が気になっていたのだ。那古井一の釣りの名人がいる。それが女で。鈴木あみ子ということを。じいさんはその女が女釣りきち三平と呼ばれるぐらいだと言っていた。余は鈴木あみ子が見たかった。たとえその本人に会えなくてもあみ子がいつも釣りをしている場所がどんなところなのか知りたかった。春雨の中を余はその階段を下りて行く。川のせせらぎの音はますます大きくなる。川を流れる水は岩にぶっかり飛翔となって細かい霧のつぶになり、空中に漂う。それは春雨の雨粒と混ぜ合わさって空中にただよっている。雨具が必要なほどの雨ではない。川底になればなるほど巨岩が多くなる。川岸には三メートル四方の小舟のような大岩が置かれている。そして余は目を疑った。大きな岩の上で三メートルほどの竿を振っている人影があった。確かにそれは女の子だった。「釣りきちあみ子」余は心の中でつぶやいた。確かに彼女は魚神であった。彼女は竿を投げ込む。そしてゆっくりと竿を半周させて上げると若鮎が糸のさきにかかっているのだった。彼女が上げた竿のさきで銀色に輝く若鮎が彼女のあやつる釣り糸のさきからのがれようと身をくねらせている。余は彼女の立っている岩の横で手を叩いた。「あなたは」「あなたが釣りきちあみ子さんですか」「ええ、どういうことですか。わたしはたしかに鈴木あみ子といいますが」「列車の中で聞いたんです。那古井で一番の釣りの名人がいるって」すると途端に鈴木あみ子の顔は不愉快な色が浮かんだ。「誰から聞いたんですか」「おじいさんですよ。きっとここの土地の人だと思います」「まったく、余計なことを言って、わたし不愉快ですわ。きっとほかにもいろんなことを言ったんでしょう」そう言いながら鈴木あみ子は自分の釣りの道具をしまい始めた。「余がいるから不愉快になったんで釣りをやめるんでしょうか」「そんなことはないわよ。ただやめたいだけ」「自分のことを知っている人が横にいるのがいやなのですかな」「いいえ、釣りというのは微妙なものなんです。気がちるわ。わたしの釣った鮎あげます」「急にもらっても」「そこに見えるでしょう。そこで鮎が焼けるんです。コンロもあるし、わたしも暇だから、そこで鮎でも食べて帰るわ」どうも鈴木あみ子を怒らせたみたいだったが、鮎をただで食べさせてくれるという。あみ子は大岩の上から降りると階段を漁果を持って上がっていった。余も彼女のあとを上がっていく。調理場につくとガスの入ったコンロに火をつけた。春雨に濡れたあみ子の顔は生まれたばかりの魚のようにつやつやとしていた。髪が濡れてよじれている。つりきちあみ子はそこに置かれている鉄ぐしを持って灰の中をいじっている。「東京から来たんですか」「ええ」「わたしのことを釣りきちなんて誰が言ったの」あみ子は釣った鮎を串刺しにしながら手で塩をつけた。調理場の横では自然の沸き清水が常時、竹のパイプのさきからちょろちょろと流れている。あみ子は鮎の串を灰に刺した。初対面の余に鮎の塩焼きをごちそうしてくれると云うのはどういうことだろう。余に信を置いたのだろうか。灰の中の炭に火をつけた。そしてその火をあびさせるために鉄ぐしをさした鮎をその火を囲むように逆さにつきさした。鮎は頭のほうから脂がしたたり落ちて行く。よいにおいがあたりにただよう。その場所の後ろは石清水をためて置く小さな池になっている。ほとんど家庭用の風呂桶と大きさはたいしてちがわない。その池から水柱が幾筋も立った。そのとき余の背後からいっせいに多数の小さな怪物が躍り出てきた。怪物はみんな凶暴な歯を持っている。しかし大きさは十五センチほどしかない。あみ子は身構えるとそこらへんにある数十本の鉄ぐしを余の背後に投げた。ぐきゃ、にいにい、ぐきゃ、にいにい、そこには数十匹の凶悪な顔をした新垣がいた。あみ子の投げた鉄ぐしは新垣のひたいに刺さり絶命した。何匹かは鮎を焼く灰の上に落ちた。余が後ろを振り返ると草陰にいた新垣が飛び出して来て余の指にかみついた。余は手を振った。かみついた新垣は離れない。新垣を振り払おうと必死になって手を振ると指先が痛い。いつだったかアメリカザリガニのはさみではさまれたとき以来の痛さだった。「それっ」あみ子が鉄ぐしを投げると新垣の額に命中して余を噛みついていた力を失って、ぐぎゃ、にいにいとうめいて地べたに落ちた。妖怪にいがきはそこら中に数十匹が死んでいた。あみ子の投げた鉄ぐしの命中率は恐ろしいほどだった。しかしなかには絶命せずに仰向けになって足をぴくぴくさせてうめいている(ё)もいる。余の(ё)が噛みついた指からは三十秒に一度くらいのわりで血がぽたりと一滴のしずくになって落ちて行く。それを見て瀕死の新垣(ё)の中の一匹はこの世の中にこれほどおもしろいものはないというような顔をしてにやにや笑っていた。その笑いには安部(●´ー`●)と同様なものがあった。余はふつふつと怒りと憎悪、この世の中でそれらのすべての暗黒面のものがわき上がってそばにある手頃な石を取り上げると余の不幸をせせら笑っている(ё)の顔面に全力でもってうち下ろした。「この野郎。この野郎。(ё)死ね。死ね」
何度も何度も(ё)の顔面に石を打ち当てた。気づくと(ё)の頭部は灰の中に埋まっている。そしてその顔はやはり不気味に笑っていた。「どうなされたんですか」すずやかな声がして余がうしろをふり返るとさっきの列車の中で出会った井川はるら嬢がそこに立っている。横ではつりきちあみ子が処置なしという表情をして両手を大きく広げてみせた。井川はるら嬢がそこに来たときには(ё)の死骸はまるで空気に同化したように霧となって消えてしまった。やはり妖怪だ。と余は思った。しかし神が創りたもうたこの世に妖怪が同化することは納得がいかない。「指から血が出ていますわよ」「どうということはないです。これも正義のためですから」「わたしがやっっけたんじゃない」あみ子はうそぶいた。あみ子は不満気だった。井川「ちょっと、待って」井川はるら嬢は余のそばに寄ってって来て余の指の傷を見る。その噛みあとに興味を持っているようだった。井川はれら嬢の目の光りは死体監察官のようだった。余「たいした傷ではありませんよ」井川「でも、ちょっと傷口を洗ったほうがいいんじゃないでしょうか。でも、どんな獣に噛まれたんですか」余「それはちょっと説明しにくいんですが」余があみ子ちゃんのほうに助けを求めると勝手にしてよ、というような表情をつりきちあみ子はした。井川「この清水がたまっている岩風呂で指を洗ったほうがいいですわ」あみ子「だめよ。そこに書いてあるでしょう。この水は岩清水を集めたきれいな水です。飲み水にするのは自由ですが、ここで洗い物などをして水を汚すことは絶対にやめてくださいってね」あみ子は鉄ぐしをもてあそんでいる。あみ子の釣ったあゆはさっきの戦闘ですっかり灰や泥まみれになって食べられなくなっていたのであみ子ちゃんはそれらをゴミ箱の中に捨てた。井川「上にある山海亭に行けば、そこで傷口を洗って、絆創膏でも貼ってもらえるんじゃない」余「そうします」余と井川はるら嬢がまた石造りの階段を上がって行くとつりきちあみ子は自分の釣り道具をまとめて余たちのあとをついて来た。あみ子「待ってよ。わたしも駅の水道でつり道具を洗うから」川岸から階段を上がってまた上まで行くと那古井の景色が一望できる。春雨に煙る杉木立を見ると余はまた人間界と仙界の境に来たのだという思いがした。仙界には少しおきゃんなつりきちあみ子がいる。そして人間界から美しい乙女が訪ねてくる。そして言い忘れたことだが妖怪たちが余の周囲を渉猟している。駅の前に来たところからあみ子は自分の釣り道具を洗うと言って駅の水道に行った。この駅にはここの川で釣りをする人間のために簡単な洗い物が出来るように水道設備が外についているのだった。余と井川はるら嬢は長年のすすですすけたこれぞ民芸品という感じの料亭山海亭の前に立った。噂によるとこの宿は日本の民芸運動の先駆者、浜田正治の家を五年がかりでこの那古井の地に移築したという。梁の古木は三百年前のものだと言われている。大きな看板のうしろにある障子をあけて井川はるら嬢が声をかけると宿にいた従業員がみんな一斉にこちらを向いた。しかし変なことにその従業員の顔はみんな同じだった。表情も同じだった。大きな川o・-・)紺野と小さな紺野がいっせいにこちらを向いた。大きな紺野は帳場に座っている。七十八パーセントに縮小された小さな紺野たちは一階の食堂で忙しく働いていた。この二階が宴席になっていて、一階の奧の方が宿と調理場になっている。井川「おかみさん。この人がけがをしたんです。傷を洗って、絆創膏を貼ってもらいたいんです」紺野「どれどれ」大きい紺野は余のそばにやって来ると余の傷口を眺めた。大きい紺野「みんな、こっちに来て」するとその場所にいた五、六匹の小さな紺野たちは余のそばに未確認小動物のように集まって来て円陣になって、余の傷口を見つめている。大きな紺野「みんな手桶に水を持ってらっしゃい」すると一斉に小さな紺野たちは宿の奧のほうに走って行った。そして木製の手桶に入った水ときれいな手ぬぐいを持って来た。余「自分でやります」余はその清涼な水の中に自分の手を入れると傷口からほんの少しだけ血が出た。そして透明な水をちょっとだけ汚した。この桶の中が地上だとしたら積乱雲が生じたようだった。余は取り出した手を手ぬぐいでふくとそれは出来ないので井川はるら嬢に絆創膏を貼ってもらった。余の心臓は少し動悸を覚えた。食堂のあがりかまちに腰掛けながら余は妖怪(ё)におそわれたことを話そうかどうか迷っていた。余の横には井川はるら嬢が座っている。食堂では縮小サイズの紺野さんたちが机の上を忙しそうに拭いたりしている。帳場に座っている大きな紺野さんは宿帳を見ながらしきりに大きな五目玉のそろばんを使って計算している。おもしろいことには大きな紺野さんも、小さな紺野さんもみんなちょんまげを結っていて、江戸時代の設定の漫画はぐれぐもの息子がかけているようなひもで耳にかける丸めがねをかけている。大きな紺野さんの後ろには大きな水槽があった。井川「大きな水槽ですね。それに大きな金魚」紺野「ここまで育てるのは大変だったのよ。あら、忘れていた」大きな紺野さんはそう言って立ち上がると便所の便器を掃除するような棒のさきにナイロンたわしのついているものをとりだして大きな水槽の内側を掃除し始めた。中では七十センチあるくらいな金魚が泳いでいる。その水はあくまで清涼で少しの淀みもない、一日と言わず何時間に一回という割合で水を交換しているのだろうか。透明な水を折り畳んだような水槽の中で大きな金魚は泳いでいる。大きな紺野さんは楽しくて仕方ないという要素を含めて愚痴を言い始めた。紺野「これでなかなか大きな宿だから掃除をするのも大変ですよ。そのうえにこの水槽の掃除をしなければならないし」
余「でしたら、金魚を川にでも放してさしあげたらよろしいのに」
すると紺野さんの目はしだいにうるうると潤んで来た。
紺野「なにを言うんですか。あなた」どうして大きな紺野さんが動揺したのかわからない。なにか川o・-・)紺野さんの根本のもっとも中心となったくずれやすいところをゆらゆらと揺らしたのだろうか。そのとき、入り口の障子がどんどんと叩かれた。紺野さんはますます動揺して
紺野「あなたたち、表に出てくれません。会いたくない人が来ているんです」その様子があまりに哀れだったので余と井川はるか嬢は表に出た。そこには洗ってきれいになった釣りの道具をかかえているあみ子ちゃんと見知らぬおばさんが立っていた。
「今日は休業しますと張り紙をしておいたのに、あんたたち剥がしたんだね。それだけならいいんだけど勝手に入って」
井川「そんなことを言って。中では紺野さんが働いていますよ」
するとおばさんはいまいましそうな顔をした。
「また、あの妖怪が出て悪さをしているんだ」
余「この人は」
あみ子「この山海亭のオーナーよ」
余「じゃあ、中で働いている大、小、合わせた紺野さんは一体誰なのよ」
「だから妖怪だと言っているでしょう」
余と井川はるか嬢が食堂の中をふり返るとそこには紺野さんたちはいずに川o・-・)帳場のところには大きなかぼちゃとごほうときゅうりが置いてある。そのうしろの大きな水槽では巨大な金魚が中に入っている松藻をゆらゆらとゆらしながらゆうゆうと泳いでいる。井川はるら嬢はこの事態にひどく興味を持っているらしかった。
井川「こんなことはよくあるんですか」
「そうよ。この前なんか、うちが百年前から継ぎ足し継ぎ足し使っている鰻のたれが少なくなっていると思って、奧のたれの入った瓶を見張っていたのよ。そうしたら、夜中に誰かがたれの入った瓶の前でたれをぺろぺろなめているのよ。顔は長い髪で見えなかった。そのふり返った顔を見たら驚いたわ」
余「誰だったんですか」
「飯田かおりだったのよ」
余はこの料亭を離れて山に登ることにした。そしてつりきちあみ子と鈴木あみ子ちゃんは町まで用事があるので行くという。余は鈴木あみ子ちゃんが何者なのか、そのときはわからなかった。ただ釣りのうまい女の子とい印象しかなかったのだ。そして余の指のけがを治療してくれた井川はるら嬢は観海寺という寺に行くという。もちろん余にはるら嬢の目的はわからない。彼女とも余はここで別れなければならない。余は心残りを感じた。初対面とはいえ彼女に指のけがの治療をしてもらい彼女の顔は余のそば二十センチまで近づいた。彼女の息づかいもばらの花のような香水のかおりも余の鼻腔を刺激した。もしかしたらそれは香水ではなく彼女の体臭だったのだろうか。まったく生理的に嫌悪を感じている人間にそんなことまでしてくれるだろうか。と同時に彼女が独身なのだろうかということが頭をもたげた。その質問をうまく聞くことが出来るだろうか。
余「お一人ですか」これは一人旅かということを意味している。と同時に結婚しているかということを聞いたつもりだったが、自分ながらこんなときに知恵が回らないのでいやになる。しかし井川はるら嬢はそのことに気づいたようだった。
井川「わたしまだ結婚していないんです」
その言葉を聞いて余の顔は自然にほころんだかも知れない。鏡がそこに置いてあったら余は赤面したことだろう。そしてその言葉に本来なら喜んでいいはずなのに余の心のどこかにはまたあらたな疑念が生じてきた。
余「もしかしたら、あなたは誰か運命の人に会いにここに来たのではありませんか」
そのぎこちない表情や子供っぽい質問に井川嬢は表情をくずした。もしかしたら余が井川はるら嬢に好意を持っているということを知っているのだろうか。
井川「運命の人、そんな人はいませんわ。もし、いるとしたら運命の骨董品かしら。うふふふふ」
井川はるら嬢の謎めいたほほえみは余を魔界の迷宮に導き入れる。余は彼女の心の中に入って行きたい欲望を感じた。彼女の心の中に隠された言葉を口から発せられる言葉とともに外界に引き出したいと思った。しかし彼女はなにも答えない。井川はるら嬢はおそらく投宿していると思われる宿へと向かった。
余は山を登っていかなければならない。

第九回
山路を歩きながらこう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。綺麗な花には陥穽がある。とかく人の世は生きにくい。生きにくいと感じると、やすいところへ引っ越したくなる。どこへ越しても住み難いと悟ったとき、詩が生まれて、画が出来る。そして余は過去に戻りたくなる。突然の美女に出会ったこと、そして最近、妖怪につきまとわれていることが余を哲学的にしていた。人の世の苦難や陥穽は人を哲学的にする。余はさらに考える
人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向こう三軒両隣にちらちらするただの人である。
ただの人が作った人の世が住み難いからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりも住み難かろう。その上美しい人が手招きすればもとの国にも戻りたくなるだろう。越すことのならぬ世が住み難ければ、住み難いところをどれほどか、くつろげて、つかの間の命を、つかの間でも住みよくせねばならない。ここに詩人という天職ができて、ここに画家という使命がくだる。あらゆる芸術の士は人の世をのどかにし、人の心を豊かにするがゆえに尊い。ただ最悪の場合、人の世を嫌悪するあまり妖怪の国に足を踏み入れるおそれもないとは限らない。危ない、危ない。
また遠い場所にあって向こうから弓でも鉄砲でも届かないふるさとを訪ねるというくつろぎかたもある。それが旅行である。住み難い場所にいては息抜きも必要だ。それが場所だけとは限らない。遠い昔に思いをはせるというのは身体の半分をつかの間の住みやすい場所に置くことでもある。その場所はすでに固まっている場所である。固定されて変化も進歩もない場所やものである。現実世界の余になんの弓矢もはなつことができない。お化け屋敷に入った観客がお化けや怨霊が実はアパート代も満足に払えない貧乏役者だったり、幼稚園の保母さんになるための学校に通っている女の子だということを知っている。つまり画や詩のほかにも便利な道具はある。考古学や歴史学というもそんなものだろう。しかしそこには創造はない。その場所に何かの乗り物に乗って行くだけだからだ。デイズニーランドに行ってビッグマウンテンや海賊屋敷に行くようなものである。
 芸術の面から言えば住みにくきおのが世から、住み難きわずらいを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに移すのが詩である。画である。あるは音楽と彫刻である。こまかに言えば写さないでもいい。ただまのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌もわく。着想を紙に写さぬともきゅうそうの音は胸裏に起こる。丹青は画架に向かってとまつせんでも五彩の絢爛はおのずから心眼に写る。ただおのが住む世を、かく観じ得て、霊台方寸のカメラにぎょうき混濁の俗界を清くうららかに収め得れば足る。このゆえに無声の詩人には一句なく、無色の画家にはせつけんなきも、かく人生を観じ得るの点において、かく煩悩を解脱するの点において、かく清浄界に出入し得るの点において、またこの不同不二の乾坤を建立しうるの点において、我利私欲のきはんを掃討するの点において、千金の子よりも、万乗の君よりも、あらゆる俗界の寵児よりも幸福である。
 世に住むこと二十年にして、住むにかいある世と知った。二十五年にして明暗は表裏のごとく、日のあたる所にはきっと影がさすと悟った。三十の今日はこう思っている。喜びの深きとき憂いいよいよ深く、楽しみの大いなるほど苦しみも大きい。これを切り放そうとすると身が持てぬ。かたづけようとすれば世が立たぬ。金は大事だ、大事なものが殖えれば寝る間も心配だろう。恋いはうれしい、うれしい恋いが積もれば、恋をせぬ昔がかえって恋しかろう。旅に明け暮れる気楽な日々が重なれば、妻や子供の拘束もうらやましかろう。うまい物も食わねば惜しい。少し食えば飽きたらぬ。存分食えばあとが不愉快だ。
 余の考えがここまで漂流してきた時に、余の右足は突然すわりのわるい角石の端を踏みそくなっ。平衡を保つために、すわやと前に飛び出した左足が、仕損じの埋め合わせをするとともに、余の腰は具合よく方三尺ほどな岩の上におりた。肩にかけたショルダーバッグが腋の下から踊り出しただけで、はるら嬢からもらった缶入りのお茶や大事なものはなんともなかった。
立ち上がる時に向こうを見ると、路から左のほうにバケツを伏せたような峰がそびえている。杉か檜かわからないが根本から頂きまでことごとく青黒い中に、山桜が薄赤くだんだらにたなびいて、つぎ目がしかと見えぬくらい靄が濃い。少し手前に禿げ山が一つ、群をぬきんでて眉に迫る。はげた側面は巨人の斧で削り去ったか、鋭き平面をやけに谷の底に埋めている。天辺に一本見えるのは赤松だろう。枝の間の空さえはっきりしている。行く手は二丁ほどで切れているが、高い所から赤い毛布が動いて来るのを見ると、登ればあすこへ出るのだろう。路はすこぶる難儀だ。
 土をならすだけならさほど手間もいるまいが、土の中には大きな石がある。土は平らにしても石は平らにならぬ。石は切り砕いても、岩は始末がつかぬ。堀崩した土の上に悠然とそばだって、われらのために道を譲る景色はない。向こうで聞かぬ上は乗り越すか、回らなければならん。岩のない所でさえ歩きよくはない。左右が多角って、中心が窪んで、まるで一間幅を三角にくって、その頂点が真ん中を貫いていると評してもよい。路を行くといわんより川底を渡るというほうが適当だ。もとより急ぐ旅でないから、ぶらぶらと七曲がりへかかる。
 曲がる外周にかかると谷底が見える。谷底が崩れないように熊笹がはえている。人為的に生えたわけではなかろうが、これがなければこの余が立っている場所は地面全体がそっくりそのまま谷底に落ちてしまうかもしれない。そしたら余はここを現世とは感ぜずに地獄の閻魔大王の持ち場だと感ずるだろう。春雨が熊笹の葉の上に落ちて無数の珠粒を作っている。大気の中を漂う水のつぶが笹の葉を触媒にして無数の水の粒になったというか。人間の大きさの縮尺を変えればここが人の住みかとなるかも知れない。その笹の葉の下に小人でも住んでいないかと思って葉の下をのぞき込んで見る。余は熊笹の茂みの中に青いノートがうち捨てられているのを見つけた。青いノートである。まるで余に見つけられるためにここに捨ててあるようだった。このノートに意思があるなら余が来るまでここで待っていたのだろう。意思があっても移動手段はなかったから。その待っているあいだ一晩くらい雨にうたれたのかもしれない。そのノートは少しふやけている。取り上げて見るとたーちゃんの日記と書かれている。ノート自身に意思はなくても誰かの思いがこのノートに記されているに違いない。その内容はきわめて珍なるものだった。
たーちゃんの日記
 つばめくんが大好きです。僕はつばめくんがいなければ一日も過ごせません。つばめくんに初めて会ったのは公園デビューの日でした。僕もつばめくんもお互いに乳母車に乗っていました。ふたりは乳母車に乗ったままお互いに顔を見合わせました。つばめくんは幸せを運んでくる鳥です。つばめはせっせとせわしく絶え間なく鳴きます。つばめの鳴く声には休む暇もありません。つばめは空をどこまでも登って行きます。鳴きながら空を登って行きます。つばめはきっと空の中で死ぬに違いありません。つばめは口で鳴くのではないよ。魂で鳴くんだよ。魂の活動が声に表れたものであれほど元気なものはないよ。つばめは悲しみを歌う喜びに昇華して鳴くんだよ。
 僕はシレーのつばめの詩も好きだ。
前を見ては、しりえを見ては、物欲しと、あこがるるかなわれ。腹からの、笑いといえど、苦しみの、そこにあるべし。うつくしき、極みの歌に、悲しさの、極みの想い、籠もるとぞ知れ。
 つばめはなんでも知っている。喜びも悲しみも知っている。だから僕はつばめくんが好きなんだ。得意なときも不幸なときも絶頂のときもつばめくんさえそばにいてくれればなんでも出来るよ。悲しみのときは悲しみをいやし、幸せのときはしあわせを倍にしてくれる。
 だってつばめは幸福を運んでくれるからです。幸福の王子のお手伝いをしました。不幸な詩人のところに金の薄板を運びましたし、クリスマスプレゼントのもらえない女の子のところにも金貨を運びました。つばめ、幸せの運搬人。使徒。いろんな呼び方が出来るかもね。
 でもなんで僕はつばめくんを求めているんだろう。それは僕が幸せでないから。そう僕は幸せではありませんでした。幸せではない僕のところにつばめくんはやって来ました。不幸な思いに崩れてしまうかも知れない僕を救うための神様がくれたつっかえ棒なのかも知れないな。雨の日、風の日、曇りの日。いろいろな日々がありました。でも、僕に、もうつばめくんは必要ではありません。僕にも幸せが訪れようとしています。それは突然の出会いだったんだよ。でもずっと昔からその人は僕のそばにいたんだ。僕は魚ちゃんをみつけました。魚もまた神の贈り物です。魚ちゃんこんにちわ。つばめくんさようなら。ありがとうつばめくん。
 余ははなはだ解しかねた。このわけの解らないノートはなにを意味しているのだろう。最後のほうには僕の可愛い甥っ子のあすかくんへ、と書かれている。そしてその最後の五、六行のところには大きくばつが黒いマジックインキで書かれている。これを誰が書いたか想像してみた。少なくても那古井の住人のひとりには違いないだろう。この浮き世離れした温泉場に初恋にも似た純朴な感情の起伏を発見した。その感情の起伏というのも書かれている内容が喜びだとしたら、大きくばつてんをつけられている部分がその幸福である肯定的な感情を否定している部分であるということを意味していないか。これを書いている人間は突然の不慮の出来事に衝突して精神の断絶を味わい苦杯をなめたに違いない。余はこのノートを拾い上げてみた、なぜかここに置いて行くのは惜しい気がしたからだ。
 しかしまわりの景色はそんなことも余の頭のどこかに押しやってしまう。
しばらく路が平らで、右は雑木山、左は菜の花の見つづけである。足の下にときどきたんぽぽをふみつける。鋸のようなに葉が遠慮なく四方へのしてまん中に黄色な珠を擁護している。菜の花に気をとられて、踏みつけられたあとで、気の毒なことをしたと、ふり向いて見ると、黄色な珠は依然として鋸のなかに鎮座している。のんきなものだ。このノートを破り捨てた男か女の悲しみも無視して悠然とかまえている。世の時の流れと人の心の流れの時間の尺度はあまりにも違う。
山に登ってから、馬には五六匹あった。あった五六匹は皆腹掛けをかけて、鈴を鳴らしている。今の世の馬とは思われない。
やがてのどかな馬子歌が、春に更けた空山一路の夢を破る。哀れの底に気楽な響きがこもって、どう考えても画にかいた声だ。声を先導にして馬の姿があとから現れる。山路をひとり馬子が馬をひいてくるのかと思ったらそうでもなかった。白い中に青や赤、黄といろいろな色が混じっている。そのうしろからは紋付き袴を着た人たちがついて来る。馬上には晴れ着を着た花嫁が乗っていた。角隠しの下の白く塗った顔が喜びを押し隠すようにつつしみ深く下を向いている。口元には晴れの日の喜びがおのずと表れている。馬に乗って嫁入りをするのはこのあたりの風習か。余はこの花嫁がお互いに好きあった相手と結ばれているに違いないと確信をした。その美しさに見とれてしばしその場に立ち止まってしまった。幽玄なる風景にあでやかなる色彩を加えた見事な一幅だった。そして花嫁の華やかさはけっしてこの景色の調子を壊すほどの強さはない。そして余の前を大名行列のようにその一行は通り過ぎて行く。余はそこに木瓜の白い花を見るような気がした。木瓜はおもしろい花である。枝はがんこで、かつて曲がったことがない。そんなら真っ直ぐかというと、けっしてまっすぐでもない。ただ真っ直ぐな短い枝に、まっすぐな短い枝が、ある角度で衝突して斜にかまえつつ全体ができあがっている。そこへ、紅だか白だか要領を得ぬ花が安閑と咲く。柔らかい葉さえちらちら着ける。
評してみると木瓜は花のうちで、愚かにして悟ったものであろう。世間には拙を守るという人がある。この花嫁はその拙を守る人であろう。人格が匂うということがある。その精神作用が外見として、表情言葉使いに表れるのはもちろんであるが、匂いとして表れることはないだろうか。それは大気を通じてなされるのではない。その人のおこないを見たときいつか嗅いだことのある花の香りが懐かしく思いだされるのだ。余は久しぶりで良い心持ちになった。つい数分前になにかの精神の破綻をきたした軌跡のあらわれたノートを手にしたことが嘘のようである。余は通り過ぎる美しい色彩と図の調和を見送った。
 そして余はこの馬子が通り過ぎたあとに、この東洋的美意識に支配されている一幅の漢詩のような景色の中に、異物となる点景を発見した。
 さるすべりの木の根本が草が生えていず土があらわになっている場所がある。立っている場所からほんの十メートルも離れていない場所だったが、そこでひとりの若者が冬眠中のひぐまのように背を丸めて地面の上に枯れ枝を使って画を描いている。余はそのそばまで行ってみた。その姿はすっかりといじけていた。その地面には一筆書きでおさるの画が描かれていた。余がそばに行くまで若者は余の存在に気づかぬようだった。彼が視覚的に支配する領域に余の汚れた靴が侵入したとき若者は目を上げた。
余「見事ですな。そのお猿の画は」
若者「このお猿の画は中国まで行って修行をしました」
余「誰に師事したのかな」
若者「ヤーニちゃんです」
余はなるほどと思った。ヤーニちゃんとは、巷間でヤーニちゃんのお猿として知られている。古今を通じてお猿の画では第一級の画として知られている。ヤーニちゃんはまだ十三才の少女である。十三才にしてお猿の神韻を会得していた。
余「やはり、そうでしたか。中国に修行に行かれたのですか」
余は尊敬の気持ちがふつふつと起こってきた。しかし、そこに調和した精神の安息がなく、雑音のようなものが存在していたこともまた事実なのである。彼の心はなにによってかき乱されたのであろうか。この画を描いている若者の精神そのものを表しているようだった。
余「今、馬の背に乗った花嫁が通りましたね。花嫁姿のお猿を描けばいいのに」
するとどうしたことだろう。若者の目はしぼったスポンジのようにみるみるとうるみはじめた。そして余が持っていた捨てられていたノートに彼の視線はすいつけられた。
若者「なんで、そのノートを持っているんだよ。捨てたのに、返せよ。返せよ」
若者は余に飛びかかって来た。余は身をかわした。
余「十円玉でも、一円玉でも、拾ったもののものなんだよ。ガチャポンのおまけだってそうなんだよ」
余もなんだか悲しくなって目からは涙が流れてきた。
若者「忘れたい思い出だから、捨てたんだよ。燃やしちゃえば良かったんだよ。拾ったものはおまわりさんに届けなければだめなんだぞ。そうしないとおまわりさんにつかまっちゃうんだぞ」
余「なんで、そんなもの人の目につくところに捨てたんだよ。中身も読んじゃったよ。幸せいっぱいの内容がうしろの方でバツテンがひいてあるじゃないか。急に不幸になったんだな。もっと説明しろよ」
若者「幸せそうな花嫁が通ってうるうるしていたのに、悲しいことを思い出させやがって。ひどい。ひどすぎるよ。それは甥っ子の夏休みの宿題の作文を代わりに書いてやったんだよ。でもでも、そのあとで悲しいことがあったんだよ。それで、それで」
余「それで、どうしたんだよ」
若者「悲しいことがあって、バツテンをひいたんだよ。俺には魚が逃げたんだ。うううううううう。ばかばか。ばかやろう」
最後には若者の言葉は言葉にならなかった。
余も油断をしていた。若者は余の持っていたノートを奪い去ると全速力で逃げて行った。
そのときには余の目は真っ赤に泣きはらしていた。余は自分が高校生のときにポケモンが虐待されているかどうかで同級生と激論の果てに殴り合いのけんかまでしたことを思い出していた。

余はふたたび山道を歩き出した。余は絵の中を散策している。雲煙飛動の趣に身をゆだね、蕭々としてひとり春山を行くわれもまたただ詩中の人にあらず、歩き疲れて、足にまめができたのかも知らん。満目樹梢を動かす雨雲が四方より顧客にせまる。一休みしようかと思った。そばにわびさびた茶屋がある。まるで炭焼き小屋のようだった。
 「おい」と声をかけたが返事がない。
確か、ここは余の祖父がその昔、手には絵の具箱に画布、心には堯季混濁の俗界をうららかに収めうる霊台方寸のカメラを持って訪れたことのある、影絵のように雨に包まれて薄き墨で描かれた折り重なる山々の姿を背景にたたずむ茶屋ではないか。軒下から奥をのぞくとすすけた障子が立てきってある。向こう側は見えない。五六足の草鞋が淋しそうに庇からつるされて、くつたくげにふらりふらりと揺れる。「おい」とまた声をかける。返事をして首を振り向いてこっちを向いたのは土間の隅に片寄せてある臼の上に、ふくれていたにわとりが目をさました奴だけである。そしてその鶏はククク、ククク、と騒ぎ出す。かまうことはない、上がるか。余がじいさまがその昔、鶏の踏みつけた胡麻ねじと微塵棒をくり抜き盆の上に入れて差し出された茶屋である。そのくらいのことは許されるか。無断でずっと入って、床几の上に腰をおろした。菓子箱の上に銭が散らばっているところを見ると茶菓子を出して商売をやっているのだろう。なかから一人の婆さんが出る。これがうちのじいさんが八〇年前に出会った婆さんの孫だとすればまたおもしろい。興がわく。年をとった唐子のようである。
「お婆さん、ここをちょっと借りたよ」
「はい、これはいっこうぞんじませんで」
「だいぶ降ったね」
「あいにくなお天気で、さぞお困りでござんしょ。山道を歩いて来なさったのかな。おおおおだいぶおぬれなさった。今火を焚いて乾かしてあげましょ」
余は写生帳を取りだして婆さんの横顔を写していると雨があがったのか鶯が一鳴きした。竈から煙突を伝って出た青い煙が軒端に当たって崩れながらに、かすかな痕をまだ板庇にからんでいる。
「閑静でいいね」 
「へえ、ごらんのとおりの山里で」
外には逡巡として曇りがちなる春の空を、もどかしとばかりに吹き払う山嵐の、思い切りよく通り抜けた前山の一角は、未練もなく晴れ尽くして、老婆の指す方に峻厳と、荒削りのごとくそびえる岩がある。
「あの岩は何と言うんだい」
「あの岩は天狗山と申します、ここいらのものは雅儀の岩とも申しております」
「また何で雅儀の岩と言うんだい」
婆さんの話で大部時間を逆行している気分になる。
「楠雅儀があの天狗岩の中の洞窟に隠れていたという言い伝えがあります。」
楠雅儀といえば南北朝の立て役者、楠正成の三男だが。鎌倉時代のどろどろとした権力争いの影響もこの人里離れた湯治場にはあるということと思える。余はその天狗岩の来歴が忘却され、土中に深く埋められて自分の存在意義を問いただそうとしている欠けた古伊万里のような気がしてそれを問わずにはいられなかった。
「何で、その中に隠れていたんだい」
「戦でけがをして湯治に来ていたという言い伝えであります」
湯治場がどこにあったのかは知らないがあの岩から湯治場へ行くのはかなり難儀なことだろう。
「ここいらで宿のある湯治場といったらどこなんだね」
「ここいらでは志保田さんの宿と決まっております」
楠雅儀も志保田の宿のそばの湯治場へ傷の手当てに通ったのだろうか。
「話はそのあとがございます」
「楠雅儀の話かい」
「楠雅儀のひそんでいる洞窟に村の娘が手助けにまいりまして、その娘は身ごもったそうでございます。そして生まれたのはこの余のものとも思われない美しい娘でした。それが長良の乙女でございます」
「この村にはそんな美しい娘がいたんだ」
「ところがその娘に二人の男が懸想して、あなた」
「なるほど」
「ささだ男になびこうか、ささべ男になびこうかと、娘はあけくれ思いわずらったが、どちらへもなびきかねて、とうとう
あきづけばをばなが上に置く露の、けぬべくもは、おもほゆるかも
という歌をよんで、淵川へ身を投げて果てました」
余はこんな山奥へ来て、こんな婆さんから、こんな古雅な言葉で、こんな古雅な話しをきこうとは思いがけなかった。
「これから五丁東へ下ると、道ばたに五輪塔がござんす。ついでに長良の乙女の墓を見てお行きなされ」
余は心のうちにぜひ見て行こうと決心した。婆さんは、そのあとを語りつづける。
「志保田の家はその長良の乙女の子孫でございます。今の志保田のお嬢様と前にいた志保田のお嬢様は村の占い師の話によると一番、長良の乙女に似ているそうでございます。わたしのお婆さんが昔、東京からいらした絵描きさんにそんな話をしたことがあると言っていたのを思い出しました」
「それから、ばあさん、話しは変わるがそばで変な男に出会ったよ。お猿の画を描きながら泣いているんだ」
「それなら、滝沢のおぼっちゃまですよ。まだ、志保田のお嬢さまのことが忘れられないでございますね。おほほほほ」
ばあさんはそう言って巾着袋のような口をすぼめて笑った。
「みんな昔、ここに来た絵描きさんが悪いんでございますよ」
その東京から来た絵描きというのは余がじいさんの夏目漱石なり、そのことを言えば婆さんの目がまわるのではないかと思い黙っていた。しかし、余のじいさんをばあさんはなんで悪者扱いするのか、そこがわからない。
********************
 昨夕は妙な気持ちがした。まず、井川はるら嬢の投宿する観悔寺へ行ってみた。井川はるら嬢は相変わらずきれいだった。なぜか井川はるら嬢は下はジーパンに上は男物のシャツを着て観悔寺の納戸に入ってほこりだらけになりながら寺の骨董を調べていた。余ははるら嬢と寺の縁側にすわりながら庭にあった大きな石を見ながら言った。
はるら嬢「房の進さん、あそこに大きな石がありますわよね」
余「ええ、ええ、あります。あります」
余は井川はるら嬢に声をかけられてうれしかった。
はるら嬢「大きな石のあそこに渦巻きがありますね」
余「あります。あります」
はるら嬢「あれがなんだかわかりますか」
余「石だって最初は液体だったんじゃないですか。滞積岩として出来たものではないですよね。だってあの文様には平行な成分がないもの。だから高温のマグマの状態のときに冷えていた小さな岩の固まりが入ったとか」
はるら嬢「違います。あれはある生命体の痕跡なのです」
余「生命体というと、化石ということですか」
はるら嬢「化石というのは死んだものですね。もう生き返ることが出来ない。でもあの渦巻きは生き返ることが出来るのです。不滅の生命体です」
余には井川はるら嬢の言っていることの意味が全くわからなかった。しかし、はるら嬢がその目的がなんであるか仕事に来ているということの証拠のように思えた。彼女に男の影はない。決して男に会うためにここに来たのではないのだ。余は安心した。
宿へ着いたのは夜の八時ごろであったから、家のぐあい庭の作り方はむろん、東西の区別さえわからなかった。なんだか回廊のようなところをしきりに引き回されて、しまいに六畳ほどの小さな座敷へ入れられた。今様の旅館とはまるで見当が違う。晩餐をすまして、湯に入って、部屋へ帰って茶を飲んでいると、アルバイトらしい若い女が来て床をのべよかと言う。どうやら学校の春休みをとってこの湯治場にアルバイトに来ているらしい。どうやらこの宿に泊まっているのは余一人らしい。雀のお宿と言う絵双紙の世界に余は投げ込まれたような心持ちがした。
宿のそばを少し散歩してふたたび余の部屋に戻って来るとすでにふとんはしかれていた。例のアルバイトの学生がしいたのかも知れない。しかし余は入り口のふすまのところで思わず絶句して立ちすくしてしまった。余のふとんの枕のところで枕の四方から枕の形を整えている女がいる。一つのところで枕の端をとんとんと叩くと逆の方へ行き、また枕の端をとんとんと叩く、今度はその隣の端を叩くというように四方を叩いて枕を四角にしている。そしてたまに枕の上のところを赤ちゃんをあやすように手の平で叩いているのだ。
余「川o・-・)紺野さん」
川o・-・)紺野さんは不思議な表情をしてこちらを向いた。
余「なんでここにいるんだ。妖怪。料亭山海亭に出現したと思ったらここに来たのか。妖怪、帰れ」
川o・-・)紺野さんはまだ自分がなにを言われているのか、まったく理解できないような様子でこちらを見ている。余の右手には力が入って自然とグーが出来ていた。そして下におろしているその右手はふるえている。余は右手でグーを作ると肩の上に上げた。ぶつよ。ぶつよ。余は心の中で叫んだ。最近のことだが妖怪、川o・-・)紺野さんには苦々しい思い出があった。余が自分の事務所でソファーに身を持たせながら、マジンガーゼットの主題歌を聴きながらくつろいでいると突然、長ふし剛のマネージャーが顔を真っ赤にしながら余の事務所に怒鳴り込んできたことがあったのである。あんた、どんな、落とし前をつけてくれるんだ。余「なんですか。急に。わたしはあなたなんかとなんの面識もないんですから」それから長ふし剛のマネージャーは早口でいろんなことをまくし立てた。余の事務所にある水槽の中に入っている熱帯魚もぽかんとして口をあけて呼吸をしているようだった。話しも前後していて感情的になっていていまいちよくわからなかったのだが、要約してみるとこんなことらしかったのだ。長ふし剛のコンサート会場での出来事らしかった。長ふしのファンたちがコンサートの入場を待って長蛇の列を作っていた。そこに出店が出来ていて、その一角が空いていた。きっと誰かがそこに出店を出すのだろうがまだ来ていないのだろうと思っていたそうだ。すると案の定やがてリヤカーを引いた中学三年生らしい女の子がやって来てそのスペースの前でリヤカーを止めた。そしてチョコバナナの屋台を作り始めた。それが出来るとチョコバナナを売り始めた。ファンたちはチョコバナナを買い始めた。それで店がそこそこ盛況になってくると突然、五本ののぼりをたてた。そののぼりが見物だったのだ。そののぼりには長ふち剛、CD不買運動とでかでかと書かれている。それをみた長ふし剛のファンがいきりたった。長ふちのファンがその女の子のまわりを取り囲んだ。その女の子はチョコバナナを両手に持つと凍ったようになってしまった。そして大きな黒目がちな目で彼らを見つめた。そして関係者、つまり長ふし剛のマネージャが飛んで来たのだ。「お嬢ちゃん、なんでこんなことをするんだよ」「・・・・・」「とにかく、こんな変なのぼりは片付けようね」「だめです」「なんでだめなんだ」「おこられちゃいます」「片づけんだよ。この小娘」「だめです。だめなんです」「たとえ、こののぼりを片づけると巨大隕石が明日地球に衝突すると言っても片づけさすからな」「いや。いや」マネージャーは手を焼いた。しかしその緊張が一時くずれる場面があった。後ろには大きな水槽があって、七十センチの金魚が優雅に松もをゆらゆらさせながら泳いでいた。女の子は時計を見ると、時間だわと言って便器を洗うナイロンたわしがさきについた柄付きのものを手にとると水槽の中に入れて水槽の内側を掃除し始めた。「こうしないと水槽の内側に苔が生えちゃうのよね」とか、なんとか言っていた。てこでも動かない女の子をどかすにはこれしかないとマネージャは気づいた。マネージャーが命令して若いものが何人か水槽のところに行き、五、六人で水槽を持ち上げようとした。すると女の子の瞳はみるみる潤んでいったのである。女の子の名前は川o・-・)紺野さんと言った。
川o・-・)「やめてください。金魚が死んでしまいます」
「じゃあ、どけよ」
川o・-・)「こんなに大きく育つまでどんなに大変だったか」
水槽の中は清涼な水がたたえられていて金魚は銀色かつ赤い鱗をガラスや銀食器よりも美しく輝かせていた。その中の一人が
「残り物のジュースを入れちゃうぞ」
川o・-・)「やめてください。この水槽の水が汚れるとき金魚は死にます。そしてわたしも死にます」
川o・-・)紺野さんの瞳からは涙が一筋頬を伝わった。
「だったらなんでこんなことをするのか、おじちゃんに教えてね。」
すると川o・-・)紺野さんは黙って名刺を差し出した。
川o・-・)「この人に頼まれたんです」
それで長ふし剛のマネージャーが余の事務所にどなり込んで来たわけだ。これが長ふし剛にけんかを売った女、川o・-・)紺野さんの顛末だった。いい迷惑だった。このことをこの場にいる紺野さんは知っているに違いない。
余「妖怪、余がお前たちのためにどんな迷惑をこうむっているのかわかっているのか」
川o・-・)紺野さんは余をじっと見つめた。しだいに目がうるうると潤んでくる。余も少し哀れの感情が浮かんで来た。妖怪と云ってもまだ子供である。
余「だいたいお前たちは何者なんだ」
すると川o・-・)紺野さんの姿は霧のように
消えてしまった。
 しかし、なぜ妖怪モンモン娘たちが余のまわりに出現するのか、理由がわからない。妖怪というものは人間に害を加えるものである。しかし、彼らが余に害を加えていると結論づけることが出来るだろうか。(●´ー`●)安部なつみは余に一夜の楽しみを与えようとしたのかも知れない。あゆ釣り場で(ё)新垣が余を襲ったのも塩焼きされている鮎を食べようとしただけかも知れない。そして川o・-・)紺野さんにいたってはまくらの形を整えてくれたのである。余には妖怪たちの真意は測りかねた。妖怪だから真意などないのかも知れない。ただ気圧によって台風が移動するように彼らも人間界を移動しているだけなのだろうか。
 すやすやと寝入る。夢に。
楠雅儀と長良の乙女が大きな白鳥に乗って天狗岩の頭上を周遊している。そのうちに白鳥は地上に降り立つと長良の乙女を湖のほとりに降ろした。そこには大きな水に沈まぬ葉があって親指姫よろしく乙女はその上に優雅に座って余の方を見て微笑んでいる。
そこで目がさめた。脇の下からあせが出ている。寝返りを打つと、いつのまにか障子に月がさして、木の枝が二三本斜めに影をひたしている。冴えるほどの春の夜だ。
 気のせいか、だれか小声で歌を歌っているような気がする。夢の中の歌が、この世に抜け出したのか、あるいはこの世の声が遠き夢の国へ、うつつながら紛れ込んだのかと耳をそばだてる。その歌声は春風が木の葉にささやいているのかと思われる。この細くつややかな調子は男性か、女性か。余はたまらなくなって、われしらず布団をすり抜けるとともにさらりと障子をあけた。
向こうにいた。花ならば海棠かと思わるる幹を背に、よそよそしくも月の光を忍んでもうろうたる影法師がいた。しかし誰であるか、判然としない。あれかと思う意識さえ、心に浮かばぬその刹那、廊下の角をまがって余の視界から消え失せた。余の見た景色ははなはだ詩趣をおびている。ー弧村の温泉、ー春宵の花影、ー月前の低唱、ーおぼろ夜の姿ーどれもこれも芸術家の高題目である。例の写生帳を枕元に取りだして一句ひねってみる。
 海棠の露をふるふや物狂い
それから七八、発句づいてみたが眠くなって寝てしまった。ここにいた女が長良の乙女に一番似ていると言われている志保田の一人だけいる跡取りの孫娘だということをのちほど聞いた。しかしまだ現物にはお目にかかっていない。障子がすっかり陽光でいろが変わってから寝床から抜け出した。夢の名残がまだ残っているうちに右側の障子をあけて、昨夜の名残はどの辺かなと眺める。海棠と鑑定したのは、はたして海棠であるが、思ったよりも庭は狭い。五六枚の飛び石を一面の青苔が埋めて、素足で踏みつけたら、さも心持ちがよさそうだ。那古井はどこもかしこも山間の湯治場である。しかし海も近い、従って宿は傾斜地に建てられるということになる。温泉場は岡の麓ををできるだけ崖へさしかけて、岨の景色を半分庭へ囲い込んだ一構えであるから、全面は二階でも、後ろは平屋になる。縁から足をぶらさげれば、すぐと踵は苔に着く。道理こそ昨夕は梯子段をむやみに上ったり下ったり、異な仕掛けの家と思ったはずだ。
今度は左側の窓を開ける。自然とくぼむ二畳ばかりの岩の中に貼る水がいつともなく、たまって静かに山桜の影をひたしている。二株三株の熊笹が岩の角を彩る。向こうにくことも見える生け垣があって、外は浜から、岡へ上がる岨道か時々人声が聞こえる。谷の極まるところにはまた大きな竹藪が、白く光る。竹の葉が遠くから見ると、白く光るとはこのとき初めて知った。藪から上は、松の多い山で、赤い幹の間から石塔が五六段手にとるように見える。おおかた寺だろう。あれが昨日訪ねた井川はるら嬢が投宿する観海寺である。
家はずいぶん広いが、向こう二階の一間と、余が欄干に添うて、右に折れた一間のほかは、居間台所は知らず、客間と名がつきそうなのはたいてい立てきってある。客は、余をのぞくのほかほとんど皆無なのだろう。しめた部屋は昼も雨戸を開けず、あけた以上は夜もたてぬらしい。これでは表の戸締まりさえ、するかしないかわからん。非人情の旅にはもって来いという屈強な場所だ。余が祖父もここに泊まったのもさもありなんという感想だ。ここの娘と余がどんな因縁で結ばれているのやら。
 突然襖があいた。寝返りを打って入り口を見ると、因果の相手のショートカットが敷居の上に立って青磁の鉢を盆に乗せたままたたずんでいる。余はふたたび驚いた。つりきちあみ子がそこ立っているではないか。
あみ子「まだ寝ているの。昨夜は廊下で歌なんか歌っていてご迷惑だったかな。あなたはすっかり寝ていらっしゃると思っていたんですもの。障子が開いてびっくりしたからすぐここを離れたのよ。だって歌を聴かれたと思うと恥ずかしかったんですもの」
余「いいえ。それより、びっくりしたな。つりきちあみ子、いや、鈴木あみ子さんがなんでここにいるのだ」
あみ子「鈴木というのは戸籍上の名前、ここらへんの旧家はみんな昔から続く屋号を持っているのよ。わたしの家は志保多」
女は余が起き返ろうとする枕元へ、早くもすわってあみ子「まあ寝ていらっしゃい。寝ていても話はできるでしょう」とさもきさくに言う。余は全くだと考えたから、ひとまず腹這いになって、両手であごをささえ、しばしば畳の上に肘壺の柱を立てる。
あみ子「ごたいくつだろうと思って、お茶を入れに来ました。」
余「ありがとう」
この女とは千年の知友のような気がする。これも非人情の世界に生きて利害損得の圏外にこの世界を鑑賞しうるの宝珠にほかならない。
菓子皿の中を見ると、カステラの魚が皿の上で泳いでいる。牛皮をどらやきで包んだお菓子だ。皿の中に適度な隙間をあけて置いてあるのと皿の青い色が作用して涼しげに見える。
あみ子「こんなのが川の方に行くと泳いでいるんですよ。あなたも昨日見たでしょう。でもこの前、変な妖怪が出て来てあゆの塩焼き食べれなかったでしょう。そのかわり」
余「うん、なかなかみごとだ」
夏になればこんなのをつりに川は結構繁盛するのかも知れない。
あみ子「昔、あなたのおじいさまがここに泊まったことがあるんですって」
意外なところから矢が飛んで来た。余はそれにかかわらず青磁の皿をじっとみつめる。
余「これはシナですか」
あみ子「なんですか」と相手はまるで青磁を眼中に置いていない。
余「どうもシナらしい」と皿を上げて底を眺めて見た。
あみ子「話しを途中で変えるのね。まあ、いいわ。そんなものが、お好きなら、見せましょうか」
余「ええ、見せてください」
あみ子「家が古いですからそんなものはたくさんあります。それに変な家訓も、伝説も」
余はそこで長良の乙女の伝説を思い浮かべていた。目の前に立っているこの女が楠雅儀の直系であるというからこの家は鎌倉時代から続いていたことになる。
あみ子「あなたのおじいさまがここにいらしたときやはりいろいろと骨董をお茶と一緒にお見せしたそうですね。」
茶と聞いて辟易した。しかし余がじいさまも茶をすする犠牲を忍んで骨董を見せて貰ったのだろうか。余が辟易した顔をしていると風流を解せぬ男と思ったのだろう。
余「お茶って、あの流儀のある茶ですかな」
あみ子「いいえ、流儀もなにもありゃしません。おいやならのまなくってもいいお茶です」
余「そんなら、ついでに飲んでもいいですよ」あみ子「ウフフフフ。おじいちゃんは道具を人に見てもらうのが大好きなんですから・・・・」
余「ほめなくっちゃあ、いけませんか」
あみ子「年寄りだから、ほめてやれば、うれしがりますよ」
余「へぇ、少しならほめておきましょう」
あみ子「負けて、たくさんほめてあげてください」
余「はははは、時にあなたの言葉は田舎じゃない」
あみ子「人間は田舎なんですか」
余「人間は田舎のほうがいいのです」
あみ子「それじゃ、幅がききます」
余「しかし東京にいたことがありましょう」
あみ子「ええ、いました、それも東京の中心で電波を出すところにいました」
余「夜も昼も電車が地面をせわしくまわっている場所ですね」
あみ子「電車にはあまり乗りませんでした。おもに自動車で、タクシー券をよく使いました」
余「ここと都と、どっちがいいですか」
あみ子「同じことですわ」
余「こういう静かな所が、かえって気楽でしょう
あみ子「気楽も、気楽でないも、世の中は気の持ちよう一つでどうでもなります。蚤の国がいやになったって、蚊の国へ引っ越しちゃ、なんにもなりません」
余「蚤も蚊もいない国へ行ったら、いいでしょう」
あみ子「そんな国があるなら、ここへ出してごらんなさい。さあ、出してちょうだい」と女は詰め寄る。はたのものが見ていたら兄弟げんかだ。
余「長良の乙女の伝説を聞きましたよ。あなたは長良の乙女の、つまり楠雅儀の血を引いているそうですね」
あみ子「まあ、そんなつまらないこと」女は急に不機嫌になった。
*****************
床屋「失礼ですが旦那は、やっぱり東京ですか」
余「東京と見えるかい」
床屋「見えるかいって、一目見りゃあ、ー第一言葉でわかりまさぁ」
余「東京はどこだか知れるかい」
床屋「そうさね。東京はばかに広いからね。ーなんでも下町じゃねえようだ。山の手だね。山の手は麹町かね。え?それじゃ、小石川?でなければ牛込か四谷でしょう」
余「まあそんな見当だろう。よく知ってるな」床屋「江戸っ子がなんでここにいるんでがす。旦那に似た人をどこかで見たことがあるな」
余はぎくりとした。何もこの親方が握っている刃のこぼれた髭擦りのためばかりではない。
床屋「あっしも前の親方から聞いたことなんではっきりしたことじゃないんでがすが、この床屋もずいぶんと由緒のある床屋だそうでがすよ。自分の働いているところでなんでがすが」
余「どういうふうに由緒があるんだい」
床屋「その昔絵描きのふりをして偉い英文学士がひげをそりに来たという話を聞いたことがありますよ」
余「その英文学士の名前はわかるのかい」
余は冷や汗が出た。ここでわがじいさんの幻影と遭遇するはめになるとはここに入るまで予想もしなかった。
余「おい、もう少し、石鹸をつけてくれないか、痛くっていけない」
床屋「痛うがすかい。私ゃ癇性でね、どうも、こうやって、逆ずりをかけて、一本一本髭の穴を掘らなくっちゃ、気がすまねえんだから、ーなあに今時の職人なあ、するんじゃねえ、なでるんだ。もう少しだがまんおしなせえ」
余「がまんはさっきから、もうだいぶしたよ。お願いだから、もう少し湯か石鹸をつけとくれ」
床屋「がまんしきれねえかね。そんなに痛かあねえはずだが。全体、髭があんまり、延びすぎてるんだ。」

第十回
やけに頬の肉をつまみ上げた手を、残念そうに放した親方は、棚の上から、薄っぺらな赤い石鹸を取りおろして、水の中にちょっと浸したと思ったら、それなり余の顔をまんべんなく一応なでまわした。裸石鹸を顔へ塗りつけられたことはあまりない。しかもそれをぬらした水は、幾日まえくんだ、ため置きかと考えると、あまりぞっとしない。
余が祖父もこのゆがんだ鏡の前に座って自分の頬をあっちへ引っ張り、こっちへ引っ張りされたのかと思うとこの髪結床の親父の作品制作の素材として提供されたわけで同類の憐れみを禁じ得ない。すでに髪結床である以上は、お客の権利として、余は鏡にむかわなければならん。しかし、余はさっきからこの権利を放棄したく考えている。鏡という道具は平らに出来て、なだらかに人の顔を写さなくては義理が立たぬ。もしこの性質がそなわらない鏡を掛けて、これに向かえとしいるならば、しいるものはへたな写真師と同じく、向かうものの器量を故意に損害したといわなければならぬ。虚栄心をくじくのは修養上一種の方便かもしれぬが、なにも己の真価以下の顔を見せて、これがあなたですよと、こちらを侮辱するには及ぶまい。今余が辛抱して向き合うべく余儀なくされている鏡はたしかに最前から余を侮辱している。右を向くと顔中鼻になる。左を出すと口が耳元まで裂ける。仰向くとひきがえるを前から見たように真っ平らに押しつぶされ、少しこごむと福禄寿の申し子のように顔がせり出してくる。いやしくもこの鏡に対する間は一人でいろいろな化け物を兼勤しなくてはならぬ。写るわが顔の美術的ならぬはまずがまんするとしても、鏡の構造やら、色合いや、銀紙のはげ落ちて、光線が通り抜ける模様などを総合して考えると、この道具その物からが醜態をきわめている。小人から罵詈されるとき、罵詈それ自身は別に痛痒を感ぜぬが、その小人の面前に帰臥しなければならぬとすれば、だれしも不愉快だろう。余が動ぜざること山のごとし高等数学でも記述できないような曲面を存した鏡の前で奇怪にゆがまされた余が顔と百面相の勝負をやっているとこの一筋縄ではいかない親方は余が首が土中に深く埋まった桜大根だとでも認識しているのか、引っ張ったりねじり上げたり、ほとんどプロレスをやっているのと変わりがなかった。余は思わず悲鳴を上げた。
床屋「旦那、こんなことぐらい我慢できないなんて首が生になっているんですぜ」
そう言う親方もこの肉体労働に疲労を感じたのか、あぐらをかいて、長煙管で、おもちゃの日英同盟国旗の上へ、しきりに煙草の煙をゴジラの怪光線のように吹き付けている。
床屋「旦那あ、あまり見受けねぇようだが、なんですかい、近頃来なすったのかい」
余「二三日まえ来たばかりさ」
床屋「へえ、どこにいるんですい」
余「志保田にとまつているよ」
床屋「うん、あすこのお客さんですか。おおかたそんなこったろうと思ってた。実あ、私もあの隠居さんをたよって来たんですよ。ーなにね、あの隠居が東京にいた時分、わっしが近所にいて、ーそれで知ってるのさ。いい人でさあ。もののわかったね。去年ご新造が死んじまって、今じゃ道具ばかりひねくっているんだがーなんでもすばらしいものが、あるてえますよ。売ったらよっぽどな金目だろうって話さ。それにあの家には変なしきたりや伝説がうようよしているって言いますぜ。お化けも出るって噂だ」
余「きれいなお嬢さんがいるじゃないか」
床屋「あぶねえね」
余「なにが?」
床屋「なにがって。旦那の前だか、あれでまだ十九、未成年ですぜ」
余「そうかい」
床屋「そうかいどころの騒ぎじゃねえんだ。本当なら東京で親と一緒に住んでいるのが順当なんだが、自分のじいさんのところに居候を決め込んで、ここの名家の跡取りと結婚するとかどうかとか一悶着があったんですぜ」
余「東京で何をしていたんだい」
床屋「映画に出ていたという話ですよ。ですがねぇ、あのちょっとき印で相手の男をひっぱたいて居づらくなって自分のじいさんのいるここに来て羽を伸ばしているんでさぁ。そいでもってこの那古井の名家の跡取りとくつっくは別れるわって一騒ぎを起こして。それもあの女の方から誘惑したという話ですぜ」
余「へえ。それでその跡取りってのはなんて名前なんだい」
床屋「たしか、滝沢繁明ってたなぁ。旦那、何をのんびりかまえているんですぜ、もう蝿が空を飛びながらおまんまの三品でも作りますぜ。あの宿にいるのはそんな孫娘なんですぜ。もうここに住んでいながら義理が悪いやね。誘惑された方の相手はすっかりしょげかえって隠居さんがああしているうちはいいが、もしもの事があった日にゃ、法返しがつかねえわけになりまさあ」
余「そうかな」
床屋「あたりめえでさあ。本家の兄きたあ、仲がわるしさ」
余「本家があるのかい」
床屋「本家は岡の上にありまさあ。遊びに行ってごらんなさい。景色のいい所ですよ」
余「おい、もう一ぺん石鹸をつけてくれないか。また痛くなってきた」
床屋「よく痛くなる髭だね。髭が硬すぎるからだ。旦那の髭じゃ、三日に一度はぜひ剃りを当てなくっちゃだめですぜ。わっしの剃りで痛けりゃ、どこへ行ったって、がまんできっこねえ」
余「これから、そうしょう。なんなら毎日来てもいい」
床屋「そんなに長く逗留する気なんですか。あぶねえ。およしなせえ。益もねえこった。碌でもねえものに引っかかって、どんな目にあうかわかりませんぜ」
余「どうして」
床屋「旦那あの娘は面はいいようだが、ほんとうはき印ですぜ」
余「なぜ」
床屋「なぜって、旦那。村のものは、みんな気違えだって言ってるんでさあ」
余「そりゃなにかの間違いだろう」
床屋「だって現に証拠があるんだから、およしなせえ、けんのんだ」
余「おれはだいじょうぶだが、どんな証拠があるんだい」
床屋「おかしな話さね。まあゆっくり、煙草でものんでおいでなせえ話すから。ー頭あ洗いましょうか」
余「頭はよそう」
床屋「頭垢だけは落としておくかね」
 親方は垢のたまった十本の指を、遠慮なく、頭蓋骨の上に並べて、断りもなく、前後に猛烈なる運動を開始した。この爪が、黒髪の根をことごとく根こぎにされて、残る地面がべた一面に蚯蚓腫にふくれ上がった上、余勢が地盤を通して、骨から脳味噌まで震とうを感じたくらい激しく、親方は余の頭をかき回した。
床屋「どうです、いい心持ちでしょう」
余「非常な辣腕だ」
床屋「え? こうやるとだれでもさっぱりするからね」
余「首が抜けそうだよ」
床屋「そんなにけったるうがすかい。全く陽気のかげんだね。どうも春てえやつあ、やに身体がなまけやがってーまあ一ぷくお上がんなさい。一人で志保田にいちゃ、たいくつでしょう。ちと話においでなせえ。どうも江戸っ子は江戸っ子同士でなくちゃ、話が合わねえものだから。なんですかい、やっばりあのお嬢さんが、お愛想に出てきますかい。どうもさっぱし、見境のねえ女だから困っちまわあ」
余「お嬢さんが、どうとか、したところで頭垢が飛んで、首が抜けそうになったけ」
床屋「違えねえ、がんがらがんだから、からっきし、話に締まりがみえったらねえ。ーそこでその寺に泊まっていた文学士が逆せちまって・・・・・」
余「その文学士たあ、どの文学士だい」
床屋「観海寺に泊まっていた青なりの文学士がさ・・・・」
余「青なりも観海寺にも、文学士はまだ一人も出てこないんだ」
床屋「そうか、せっかちだから、いけねえ。東京から来た文学士で、やっぱりここに昔、偉い文学士が来たらしいって、そのことを調べに来ていた文学士なんだけど、ああ、話していてもあっしの頭の中はこんがらがっちまうよ。そいつがお前さん、レコに参っちまって、とうとう文をつけたんだ。ーおや待てよ。口説いたんだっけかな。いんにゃ文だ。文に違えねえ。するとーこうっとーなんだか、いきさつが少し変だせ。うん、そうか、やっぱりそうか。するてえとやっこさん、驚いちまってからに・・・・」
余「だれが驚いたんだい」
床屋「女がさ」
余「女が文を受け取って驚いたんだね」
床屋「ところが驚くような女なら、しおらしいんだが、驚くどころじゃねえ」
余「じゃだれが驚いたんだい」
床屋「口説いたほうがさ」
余「口説かないのじゃないか」
床屋「ええ、じれってえ。間違ってらあ。文をもらってさ」
余「それじゃやっぱり女だろう」
床屋「なあに男がさ」
余「男なら、その文学士だろう」
床屋「ええ、その文学士がさ」
余「文学士がどうして驚いたのかい」
床屋「どうしてって、駅で次ぎに来る電車を待っているといきなりあの女が抱きついて来てーうふふふ。どうしても狂印だね」
余「どうかしたのかい」
床屋「そんなにかわいいなら、このまま電車で私を遠くに連れて行ってって、だしぬけに原た泰三さんの頸っ玉へかじりついたんでさあ」
余「へええ」
床屋「めんくらったなあ、原た泰三さ。気違えに文つけて、とんだ恥をかかせられて、東京から来た文学士の面目もまるつぶれでさあ。いつも苦虫を噛みつぶしたみたいな顔をしていたのが、体面のやり場に困っちまって、とうとう、その晩こっそり姿を隠して死んじまって・・・」
余「死んだ」
床屋「死んだろうと思うのさ。生きちゃいられめえ」
余「なんともいえないな」
床屋「そうさ、相手が気違えじゃ、死んだって冴えねえから、ことによると生きているかもしれねえね」
余「なかなかおもしろい話だ」
床屋「おもしろいの、おもしろくないのって、村中大笑いでさあ。ところが当人だけは、根が気が違ってるんだから、しゃあしゃあして平気なもんでーなあに旦那のようにしっかりしていりゃだいじょうぶですがね。相手が相手だから、めったにからかったりすると、大変な目にあいますよ」
余「ちっと気をつけるかね」
余「それにしても最近、観海寺にきれいな女の人が泊まっているだろう」
床屋「観海寺にそんな女がいましったけ。あっ、あれかな。東京から来たとかいう。名前はなんだっけ。井川はるらなんて言っていたな」
余「彼女は何をしにここに来ているんだい」
床屋「骨董を調べるために来ているとか言っていましたよ」
その昔、画工のふりをしてこの那古井に来た文学士とはわが祖父のことなり、その祖父のことを調べている文学士がいるとは驚いた。祖父がここに来たことは波のないまつたりとした池の表に小石を一つ投げ込んだぐらいの作用は及ぼしているかも知れぬ。しかしあの余の枕もとに鮎の形をしたカステラ菓子を運んで来たショートカットとどういう因縁があるというのか、はなはだ余には理解しうる範囲のことである。そして余の憧れの井川はるら嬢の逗留している観海寺に文学士も泊まっていたということは少し気になる出来事ではあった。しかしそんな遠い日の恩讐も春風に流して、生温い磯だまりの中で小魚や小海老、小さな蟹、その他名前もわからないような節足動物たちがそこを自分たちの温泉だとでも思って日がな湯船につかっているのだろうか。塩気のある春風がふわりふわりと来て、親方の暖簾を眠たそうにあおる。砂川は二間に足らぬ小橋の下を流れて、浜のほうへ春の水をそそぐ。春の水が春の海と出会うあたりには、参差として幾尋の干網が、網の目を抜けて村へ吹く軟風に、なまぐさき微温を与えつつあるのかと怪しまれる。その間から、鈍刀を溶かして、気長にのたくらせたように見えるが海の色だ。今わが親方はかぎりなき春の景色を背景として一種の滑稽を演じている。のどかな春の感じを壊すべきはずの彼は、かえってのどかな春の感じを刻意に添えつつある。余は思わず弥生半ばにのんきな弥次と近づきになったような気持ちになった。このきわめて安価なる気炎家は、太平の象を具したる春の日にもっとも調和せる一彩色である。余が音楽の才を持っているならば春の浜辺の波の音の中にこの一彩色をアクセントとして加え得るであろう。
こう考えると、この親方もなかなか画にも、詩にもなる男だから、とうに帰るべきところを、わざと尻をすえてよもやまの話をしていた。ところへ暖簾をすべって小さな坊主頭が、小坊主「ごめん、一つ剃ってもらおうか」
とはいって来る。白木綿の着物に同じ丸桁の帯をしめて、上から蚊帳のようにあらい法衣をはおって、すこぶる気楽に見える小坊主であった。
床屋「了念さん。どうだい、こないだあ道草あ、食ってゲームセンターなんぞに入って、和尚さんにしかられたろう」
小坊主「いんにゃ、ほめられた」
床屋「使いに出て、途中でUFOキャッチャーなんかやってアフロ犬のぬいぐるみなんか、とって来て、了念は感心だって、ほめられたのかい」
小坊主「若いに似ず了念は、老師の好みがよくわかると言って、感心じゃ言うて、老師がほめられたのよ」
床屋「道理で頭に瘤ができてらあ。そんな不作法な頭あ、剃るなあ骨が折れていけねえ。今日はかんべんするから、この次から、こね直して来ねえ」
小坊主「こね直すくらいなら、ますこしじょうずな床屋へ行きます」
床屋「はははは歯が四つ、頭はでこぼこだが、口だけは達者なものだ」
小坊主「腕は鈍いが、酒だけは強いのはお前だろ」
床屋「べらほうめ、腕が鈍いって・・・」
小坊主「わしが言うたのじゃない。老師が言われたのじゃ。そう怒るまい。年がいもない」
床屋「ヘン、おもしろくもねえ。ーねえ、旦那」
余「ええ?」
床屋「全体坊主なんてえものは、高い石段の上に住んでやがって、屈託がねえから、自然に口が達者になるわけですかね。こんな小坊主までなかなか口はばってえことを言いますぜーおっと、もう少し頭を寝かしてー寝かすんだてえのに、ー言うことをきかなけりゃ、切るよ、いいか、血が出るぜ」
小坊主「痛いがな。そうむちゃをしては」
床屋「このくらいしんぼうができなくて坊主になれるもんか」
小坊主「坊主にはもうなっとるがな」
床屋「まだ一人前じゃねえ。ー時にあの原た泰三さんは、どうして死んだっけな、お小僧さん」
小坊主「原た泰三さんは死にはせんがな」
床屋「死なねえ? はてな。死んだはずだか」
小坊主「原た泰三さんは、その後発憤して、大阪国語研究所に行って研究三昧じゃ。今に近代文学の有数な研究者になるであろう。そしてここにやって来た英文学士が誰であったのか、明白にするであろう。結構なことよ」
床屋「なにが結構だい。いくら文学士だって、夜逃げをして結構な法はあるめえ。お前なんざ、よく気をつけなくちゃいけねえぜ。とかく、しくじるなあ女だからー女ってえば、あの狂印はやっぱり和尚さんの所へ行くかい」
小坊主「狂印という女は聞いたことがない」
床屋「通じねえ、味噌擂だ。行くのか、行かねえのか」
小坊主「狂印は来ないが志保田の孫娘さんなら来る」
床屋「いくら、和尚さんの祈祷でもあればかりゃ、直るめえ、まったく楠公が祟っているんだぜ。でなきゃ、一九才だからと言ってラブシーンの相手役をぶん殴って役を降りるなんてことがあるか」
小坊主「あの娘さんはえらい女だ。老師がようほめておられる」
床屋「小坊主さん、あの女にほれてんじゃないのかい。エヘヘヘ」
小坊主「いんにゃ、そんなことがあろうか」
余「観海寺にきれいな女の人が泊まっていますね」
小坊主「井川はるらさんのことですか。はるらさんは精力的に那古井の土地をまわっていらっしゃいます」
床屋「井川はるらにも、小坊主さん、ほれてんじゃないのかい」
小坊主「うそばっかし」
床屋「ほら、顔が赤くなってるよ。それにしても石段をあがると、なんでもさかさまだからかなわねえ。和尚さんが、なんていったって、気違えは気違えだろう。ーさあ剃れたよ。はやく行って和尚さんにしかられてきねえ」
小坊主「いやもう少し遊んで行ってほめられよう」
床屋「かってにしろ、口の減らねえ餓鬼だ」
小坊主「とっ、このかんしけつ」
床屋「なんだと」
青い頭はすでに暖簾をくぐって、春風に吹かれている。
*******************
 鏡が池の横を抜けると長良の乙女の眠る六輪の塔があるというので余はそこへ行くことにした。鏡が池の横の道には熊笹が多い。ある所は、左右から生い重なって、ほとんど音を立てずには通れない。木の間から見ると、池のみずは見えるが、どこではじまって、どこで終わるか一応回った上でないと見当がつかぬ。この池は非常に不規則な形でところどころ岩が自然のまま水際に横たわっている。池とその岸の境目が判然とせず、大雨がふればその境界線の形も変えるだろうし、今歩いている場所も池の中になるかも知れない。少しさきの場所に目をやると熊笹のやぶがいくつか重なった間から石段がついていてそこを上って行くと長良の乙女の六輪の塔がある場所に出ると余は聞いた。その熊笹の茂みの向こうの暗いところに椿が咲いている。椿の葉は緑が深すぎて、昼見ても、日向で見ても、軽快な感じはしない。ことにこの椿は岩角を、奥へ二三間遠のいて、花がなければ、なにがあるのか気のつかないところに森閑として、かたまっている。その花が! 一日勘定してもむろん勘定し切れぬほど多い。しかし目がつけばぜひ勘定したくなるほどのあざやかさである。ただあざやかというばかりで、いっこう陽気な感じがない。ぱっと燃え立つようで、思わず、気をとられた。あとはなんだかすごくなる。あれほど人を欺す花はない。余はいつも深山椿を見るたびにいつでも妖女の姿を連想する。黒い目で人を釣り寄せて、知らぬ間に、嫣然たる毒を血管に吹く。欺かれたと悟ったころはすでに遅い。向こう側の椿が目に入った時、余は、ええ、見なければよかったと思った。あの花の色はただの赤ではない。ぱっと咲き、ぽたりと落ち、ぱっと咲いて、幾百年の星霜を、人目にかからぬ山陰に落ち着きはらっている。ただ一目見たが最後! 見た人は彼女の魔力から金輪際、のがるることはできない。あの色はただの色ではない。屠られたる囚人の血が、おのずから人の目をひいて、おのずから人の心を不快にするごとく一種異様な赤である。もしかしたらここに井川はるら嬢が出て来るのではないかと思った。しかし彼女はいなかった。その椿の固まりの向こう、古雅な話とはほど遠い場所に長良の乙女の墓はあるようである。余の散策コースとしてはこの石段を登って行くと観海寺の裏に出て、宿の方に戻ることが出来る。余はその石段を上がって行くことにした。熊笹の茂みをよけて石段を上がって行くとちっぽけなお椀のような山の一部をくり抜いたような広場に出て、その中央の昼なお暗い天上に茂る茂みの真下に六輪の塔はあるのだが、余が目には予想外の闖入者も入って来た。六輪の塔と言うのは石で作られたものではあったがその横で何かをしている人物がいる。余が彼の姿を認めたのに彼はまだ余の姿を認めていない。背後にすり鉢を逆さにしたような丘が重なっていてその丘が重なっているところを丸くえぐって長良の乙女の六輪の塔のある墓所がある。そこもやはりお饅頭を上から巨人の手の平で押しつぶしたようにぺちゃんこになっていて、そのぺちゃんこの一番高いところに石で出来た四角い傘を六つ重ねた長良の乙女の六輪の塔がある。五輪の塔というのが死者を弔う石塔では通常の話である。剣豪宮本武蔵の剣術指南書、いな、剣の極意書に五輪の書というのがある。余はその五輪を頭の中で数えてみた。オリンピックの五輪ではない、オリンピックの五輪は五大陸を表す。その創始者クーベルタン男爵がその参加国を表す五大陸を象徴した五つの輪を波のように合わせて五大陸の民族にその参加を促した。クーベルタンの発言にオリンピックは参加することに意義があるというのがある。してみると参加国を募ることがはなはだ困難な事業だったのかも知れない。現在のその祭典の隆盛からは信じられない事実である。オリンピックは五つの大陸であったが五輪の書はその大陸や海、つまりこの世界を作る五要素を表している。その五要素を頭の片隅の中に探してみる。もちろん五輪の書は密教の教えに基づいている。地輪、水輪、火輪、風輪、そしてあとの一個がなかなか思い出せない。頭の中にあるいろいろな家の戸を叩いてみる。たいていは居留守を使っているのか、本当に買い物に出かけているのか、出て来ない。こんなもどかしい気持ちを昨夕も味わったような気がする。宿の孫娘が青磁の菓子皿を置いて余が部屋を出て行った直後とつこつとして余が額に光るものがあった。空しく抜ける春風が、空しき家を、抜けて行き、それを迎える人の義理でも、拒むものへの面当てでもないと悟ったとき、詩境が人人具足の道であるという立脚地に立てば、無弦の琴を霊台にきくという心理の状態もありうるだろう。そしてあらゆる春の色、春の風、春の物、春の声を打って、固めて、仙丹に練り上げて、それを蓬莱の霊液に溶いて、、桃源の日で蒸発せしめた精気が、知らぬ間に毛穴からしみ込んで、心が知覚せぬうちに飽和されてしまって春と自己が同化されたと感じたとき、詩を作ってみようかとこころみた。写生帳の上に鉛筆を押しつけて、前後に身をゆさぶってみた。しばらくは、筆の先のとがったところを、どうにか運動させたいばかりで、ごうも運動させるわけにはゆかなかった。急に朋友の名を失念して咽喉まで出かかっているのに、出てくれないような気がする。そこであきらめると、でそくなった名は、ついに腹の底へ収まってしまう。葛湯を練るとき、最初のうちは、さらさらして、箸に手ごたえがないものだ。そこをしんぼうすると、ようやくねばりが出て、かきまぜる手が少し重くなる。それでもかまわず、箸を休ませずに回すと、今度は回し切れなくなる。しまいには鍋の中の葛が、求めぬに、先方から、争って箸に付着してくる。詩を作るのはまさにこれだ。
 手がかりのない鉛筆が少しずつ動くなるように勢いを得て、かれこれ二三十分して
 青春二三月。愁随芳草長。閑花落空庭。素琴横虚堂。瀟蛸掛不動。篆煙堯竹梁
 と詩が出来た。そのときの心持ちのように思い出せない単語が出て来ないかもう一度こころみる。地、水、火、風、・・・・、地、水、火、風、と来て次ぎに来るのは天という単語が来た。しかし、何となく座りが悪い。天上と地上の対称としてはいいが、今ひとつ哲学的ではない。哲学的な感じがしてもうひとついい言葉がないか。そこで余は地、水、火、風、を存在としてとらえてみる、そこでその反対にあるのは無存在ということになる。つまり空。そういう手があったか。言葉としても座りが良い。地、水、火、風、空ということになる。それが五輪である。それにもうひとつ長良の乙女の墓には輪がひとつ余計についているのだ。余はそれを心ととらえる。心は動きである。捕らえようとしてもとらえることは出来ない。捕獲者の手をするりとすりぬけてしまう。動きは存在ではない、動きは状態である。物の存在と無存在を論じる言葉ではない。非人情の旅に出た余にとって象徴的な第六の輪だった。その長良の乙女の六輪の塔が目の前に立っている。その横にはまだ花の咲いていない野かん草の幹と草がすくっとけなげに立っている。その雰囲気を壊すように長良の乙女の塔の横には何やら怪しい男がその墓に何かやっている。余がそれをみていることにも気付いていないようだ。のふうぞうというのは歌の題名だがそういう草木があるなら、その男の印象はまさにそれだった。余が彼のそばに行くと現代的なクロマニヨン人はその墓に金属のようなものを使って何かをしている。
余「余の名前は夏目房の進である。そちは何をしておるのかな」
原た泰三「ああっ、びっくりしたあ」
クロマニヨン人は半歩後ろに下がって余の顔をしげしげと眺めた。彼の右手にはナイフのようなものが、そして左手にはガラス瓶が握られている。彼はしきりに頭を掻きながら目尻にしわを作りながら口元にはぎこちないほほえみを浮かべている。
余「そちは何をしているのかな」
原た泰三「実は俺、今度二種の測量技師の試験を受けようかなと思ってこの墓のかけらを持って行こうと思って」
森の石松の墓石のかけらを博打のお守りに持って行く話は聞いたことがあるが長良の乙女の墓石を試験のお守りに持って行く話は聞いたことがない。もしそうだとしても重要な歴史的建造物である、たとえこの墓を訪ねるものが一人もいないとしても明らかな犯罪である。余は低くうめいた。
余「逮捕する」
その余の声がこのクロマニヨン人は聞こえないのか、きょとんとした表情をして余が顔を眺めていたので余は連続して叫んだ。そして身体を自己の運動能力の限界まで各部の関節が動きうる範囲で動かした。
余「逮捕する」
余「逮捕する」
余「逮捕する」
余「逮捕する」
余「逮捕する」
・・・・・・・・
余「逮捕するーーーーう」
その言葉を五十回ぐらい叫んだあとには余ははなはだしい酸欠状態に陥り、ぜいぜいと息を切らした。するとそのクロマニヨン人は崩れ落ち、足はからんだ割り箸のように涙目で余の方を見つめた。
原た泰三「許してちゃぶだい」
余はすぐに閃くものがあった。この男こそ余がじいさんのことを調べおる文学士ではないかと。
余「あなたはもしかしたら、原た泰三さんではありませんか」
原た泰三「なんで私の名を」
余「床屋であなたの名前を伺いました。観海寺に逗留しながらここに八十年ぐらい前に来たという謎の英文学者のことを調べていると」
原た泰三「なんだ私のことを知っていたのですか」
余「でも何でここでこんなことをしているのですか」
原た泰三「実はこの墓の一部を削って資料として持ち帰り年代測定をしようと思っていたのです」
余「それが謎の英文学者のことを調べるのに必要なんですか」
原た泰三「ええ」
余が祖父と長良の乙女とどういう関係があるというのだろうか。
余「長良の乙女というの楠雅儀の子孫だそうですね、そして私は志保田の宿に逗留しているのですが、その孫娘が長良の乙女のそし楠雅儀の直系の子孫だそうですね」
すると原た泰三の顔は一瞬曇った。
余「いったいあなたが駅であの孫娘から抱きつかれたという話しを聞きましたが本当なんですか」
原た泰三「本当です。でも、あみ子ちゃんは僕が好きだから抱きついたというわけではありませんよ」
余「じゃあ、どんな理由からなんですか」
原た泰三「彼女は自分の家の言い伝えや伝説から自分が幸せな結婚が出来ないんじゃないかと悩んでいたんです。でも、僕がここの文学史の研究からそんなことはないと教えてあげたんですよ。それで彼女、うれしくなっちゃって思わず僕に抱きついたというわけで」
*******************
 寒い。手拭いを下げて、湯壺へ下りる。
 三畳へ着物を脱いで、段々を、四つ下りると、八畳ほどな風呂場へ出る。石に不自由せぬ国とみえて、下はみかげで敷き詰めた、真ん中を四尺ばかりの深さに掘り抜いて、豆腐屋ほどの湯槽をすえる。槽とはいうもののやはり石で畳んである。鉱泉と名のつく以上は、いろいろな成分を含んでいるのだろうが、色が純透明だから、はいり心地がよい。おりおりは口にさえふくんでみるがべつだん味もにおいもない。病気にもきくそうだが、聞いてみぬから、どんな病にきくのか知らぬ。もとよりべつだんの持病もないから、実用上の価値はかつて頭のなかに浮かんだことがない。ただはいるたびに考えだすのは、白楽天の温泉水滑洗凝脂という句だけである。温泉という名を聞けば必ずこの句にあらわれたような愉快な気持ちになる。またこの気持ちを出し得ぬ温泉は、温泉として全く価値がないと思ってる。この理想以外に温泉についての注文はまるでない。すぽりとつかると、乳のあたりまではいる。湯はどこからわいて出るか知らぬが、常でも槽のふちをきれいに越している。春の石は乾くひまなくぬれて、あたたかに、踏む足の、心は穏やかにうれしい。ふる雨は、夜の目をかすめて、ひそかに春を潤すほどのしめやかさであるが、軒のしずくは、ようやくしげく、ぽたり、ぽたりと耳に聞こえる。立て込められた湯気は、床から天井をくまなく埋めて、隙間さえあれば、節穴の細きをいとわず、もれいでんとする景色である。
秋の霧はひややかに、たなびく霞はのどかに、夕餉たく、人の煙は青く立って、大いなる空にわがはかなき姿をたくす。酒に酔うという言葉はあるが、煙に酔うという語句を耳にしたことがない。あるとすれば、霧にはむろん使えぬ、霞には少し強すぎる。ただこの靄に、春宵の二字を冠したるとき、はじめて妥当なるを覚える。 余は湯槽のふちに仰向けの頭をささえて、透き通る湯のなかの軽き身体を、できるだけ抵抗力なきあたりへ漂わしてみた。ふわり、ふわりと魂がくらげのように浮いている。世の中もこんな気になれば楽なものだ。分別の錠前をあけて、執着の栓張をはずす。どうともせよと、湯泉のなかで、湯泉と同化してしまう。仙人の住む仙界というところはこんなところだろうか、すへてが湯気の中にぼうともやけている。どこかでひく三味線の音が聞こえる。美術家だのにいわれると恐縮するが、実のところ、余がこの楽器における知識はすこぶる怪しいもので二が上がろうが、三が下がろうが、耳にはあまり影響受けたためしがない。しかし、静かな春の夜に、雨さえ興を添える。山里の湯壺の中で、魂まで春の温泉に浮かしながら、遠くの三味を無責任に聞くのは、はなはだうれしい。遠いから何をうたって、何をひいているかむろんわからない。そこになんだか趣がある。音色の落ち着いているところから察すると、上方の検校さんの地唄にでもきかれそうな太棹かとも思う。夢見心地の中で湯に酔ってとろりとしていると、突然風呂場の戸がさらりとあいた。だれか来たなと、身を浮かしたまま、視線だけを入り口に注ぐ。湯槽の縁のもっとも入り口から、隔たりたるに頭を乗せているから、槽に下る段々は、間二丈を隔てて斜めに余が目に入る。しかし見上げたる余の瞳にはまだ何物も映らぬ。しばらくは軒をめぐる雨垂れの音のみが聞こえる。三味線はいつのまにかやんでいた。やがて階段の上に何物かあらわれた。広い風呂場を照らすものは、ただ一つの小さき釣りランプのみであるから、この隔たりではすみきった空気を控えてさえ、しかと物色はむずかしい。まして立ち上がる湯気の、こまやかなる雨におさえられて、逃げ場を失いたる今宵の風呂に、立つをだれとはもとより定めにくい。一段を下り、二段を踏んで、まともに、照らす火影を浴びたる時でなくては、男とも女とも声はかけられぬ。黒いものが一歩を下へ移した。踏む石は天鵞絨のごとく柔らかとみえて、足音を証にこれを律すれば、動かぬと評してもさしつかえない。が輪郭は少しく浮き上がる。余は画工だけあって人体の骨格については、存外視覚が鋭敏である。なんとも知れぬものの一段動いた時、余は女と二人、この風呂場の中にあることを覚った。注意をしたものか、せぬものかと、浮きながら考える間に、女の影は遺憾なく、余が前に、早くもあらわれた。みなぎり渡る湯煙の、やわらかな光線を一分子ごとに含んで、薄紅の暖かに見える奥に、ただよわす黒髪を雲とながして、あらんかぎりの背丈をすらりと伸した女の姿を見た時は、礼儀の、作法の、風紀のという感じはことごとく、わが脳裏を去って、ただひたすらに、うつくしい画題を見いだし得たとのみ思った。
そこにはここの孫娘のあみ子が一糸まとわぬ生まれたままの姿で余が眼前に立っておる。彼女の腰のあたりが湯気をとおして同じ高さに見える。自分の裸体を余の網膜に提供しようという意識が彼女にあるのか、どうなのか、余にはわからぬ。湯舟の中の湯を自分の身体にかけると湯は玉となってはじけた。ちらりと不敵な瞳をもって余の方に一瞥をくれたような気がする。今余が面前にひょうていと現れたる姿には、一塵もこの俗挨の目にさえぎるものを浴びておらぬ。常の人のまとえる衣装を脱ぎ捨てたる様と言えば、すでに人界に堕在する。はじめより着るべき服も、振るべき袖も、あるものと知らざる神代の姿を雲のなかに呼び起こしたるごとく自然である。孫娘はすらりとした足を湯槽のなかにつけるとするするとそのなかに入っていった。湯の面は波さえたてぬ。湯のなかの両端に余とあみ子は位置しておる。あみ子は無言である。首から上だけが湯の上に出ている。額のあたりに汗の玉が生じている。あみ子は余の方を向くと神仙にも似たほほえみを余に投げかけた。再び、あみ子は湯槽のなかから洗い場に出た。油を塗ったごとく湯玉が小さきつぶとなって背中に無数に付着している。首筋を軽く内輪に、双方から責めて、苦もなく肩のほうへなだれ落ちた線が、豊に、丸く折れて、流るる末は五本の指と分かれるのであろう。ふっくらとした二つの乳の下には、しばしひく波が、また滑らかに盛り返して下腹の張りを安らかに見せる。張る勢いをうしろへ抜いて、勢いのつくるあたりから、分かれた肉が平衡を保つために少し前に傾く。逆に受くる膝頭のこのたびは、立て直して、長きうねりの踵につくころ、平たき足が、すべての葛藤を、二枚の足の裏に安々と始末する。世の中にこれほど錯雑した配合はない。これほど統一のある配合もない。これほど自然で、これほど柔らかで、これほど自然で、これほど柔らかで、これほど抵抗の少ない、これほど苦にならぬ形態は決して見いだせぬ。余はあみ子の裸体が、桂の都を逃れた月世界の仙女が、彩虹の追っ手に取り囲まれて、しばらく躊躇する姿と眺めた。あみ子の姿はしだいに白く浮きあがる。いま一歩を踏み出せば、せっかくの仙女が、あわれ、俗界に堕落するよと思う刹那に、緑の髪は、波を切る霊亀の尾のごとくに風を起こして、ぼうとなびいた。渦まく煙をつんざいて、白い姿は階段をとび上がる。ウフフフと笑う女の声が、廊下に響いて、静かなる風呂場をしだいに向こうへ遠のく。余はがぶりと湯を呑んだまま槽の中に突っ立つ。驚いた波が、胸へあたる。縁を越す湯泉の音がさあさあと鳴る。その夜は夢見心地の気分が続いていた。自分の部屋に戻るとアルバイトの女の子がふとんを敷き終わっていた。余はふかふかのふとんの中に身体をすへりこませる。海の底に住むあなごが自分の巣の中に戻るようだった。余はふとんの中であみ子がなんで浴室に入って来たのか考えてみた。あみ子は床屋の親方が言うようにやはり頭の中がおかしいのだろうか。電気を消したふとんの中でまぶたをつぶってもあみ子の裸体が瞼の裏に浮かんでくる。突然、腕のあたりが痛んだ。余は押し殺したような悲鳴を上げた。誰かが余の二の腕をつねったに違いない。気がつくと余のふとんの両側に(●´ー`●)安部、(ё)新垣、川o・-・)紺野さんが座っている。余の横に座っている(●´ー`●)安部の片手は伸びて余のふとんの中に入っている。(●´ー`●)安部が余の腕をつねっていることがわかった。
余「妖怪、なんで、つねっているんだよ」
(●´ー`●)安部「あみ子のはだかを見てにたにたしていたでしょう」
(ё)新垣「にい、にい、にい」
余「そんなことお前たちに関係のないことだろう。妖怪」
(●´ー`●)安部「関係ないわけないだべ。わたし以外のはだかを見てなにが楽しいのよ」
(ё)新垣「にい、にい」
余「なつみ、妖怪のくせに何を言っているのだ」
(●´ー`●)安部「わたしたち以外の裸を見たらだめなの」
(ё)新垣「にい、にい、にい」
余「お前達の言っている意味がさっぱりわからない。余はお前たちと結婚しているわけではないぞ」
(●´ー`●)安部「わたしたちから、絶対に逃げられないわよ」
(ё)新垣「にいにい」
余「なんでだ」
川o・-・)紺野さん「あなたがわたしたちのご主人様だからです」
余「ご主人。・・・」
余ははなはだその言葉を解しかねた。ご主人様とはどんなことなのか。余が別に魔法のランプを拾ったといわけでもない。しかしその話しの途中ですでに安部なつみは服を脱ぎはじめている。余はあせった。そして余はふたたび魔法の言葉を唱えた。「お塩さま、お塩さま」すると三匹の妖怪は雲散霧消した。余は再び目がさめた。胸にはすっかりと寝汗をかいていた。
 翌日、観海寺の裏のほうから寺へ行くことにする。例の池の横を通ることになる。一寸あまりの青黒い岩が、まっすぐに池の底から飛び出して、濃き水の折れ曲がる角に、ささと構える右側には、例の熊笹が断崖からの上から水際まで、一寸の隙間もなく叢生している。上には三抱えほどの大きな松が、若蔦にからまれた幹を、斜めにねじって、半分以上水の面へ乗り出している。湖の面は鏡のようである。少し観海寺へ行くのに遠回りして見ようかと思う。もちろん、井川はるら嬢に会うためである。観海寺へ行く小道の入り口がふたまたに別れていて左に曲がると観海寺、左に曲がるとこの湖に注いでいる水の源流につきあたるそうである。この源流を訪ねてみようかと思った。井川はるら嬢に会う楽しみはあとにとっておくのもよい。その源流を訪ねてから観海寺のほうにまた曲がっていけるという話しである。左の小道に入ると胸をつくような傾斜の階段になっていてそこにはいつも水が流れていて青い苔が生えている。その苔が余の足裏を滑りやすくする滑り台の役割をしている。あやうく何度も足をすべらせそうになる。あわてて路の横に生えている細木の幹に絡まっている蔦をつかんでころばないようにする。余は歩くことに関しては足のつたない乙女のようだった。からまった枝と枝の隙間から源流の水の流れが聞こえる。たしか源流だと聞いたが、源流がこんなに大きな音がするのだろうか。きっと余がアルバイトの少女に池の源流のことを聞いたとき、滝のことと勘違いしたのかも知れない。階段のような急な斜面の下のどこかには地下水系があってその水の路が池につながっているのだろう。しかし、水の流れはそこだけではなくてこの斜面の上にも常時水が流れている。水は堅い岩の上の土を流して灰色のような緑の岩の表面を表している。この水の流れている斜面の上を歩くのはかなり難儀なことだった。
 トリストラム・シャンデーという書物のなかに、この書物ほど神のおぼしめしにかのうた書き方はないとある。最初の一句はともかくも自力でつづる。あとはひたすら神を念じて、筆の動くにまかせる。何をかくかは自分にはむろん見当がつかぬ。かく者は自己であるが、かくことは神のことである。したがって責任は筆者にはないそうだ。余が渓流のぼりもまたこの流儀をくんだ。無責任の渓流のぼりである。ただ神を頼まぬだけがいっそうの責任である。スターンは自分の責任をのがれると同時にこれを在天の神に嫁した。引き受ける神を持たぬ余はついにこれをどぶの中に捨てた。
 石段を登るにも骨を折っては登らない。骨が折れるくらいなら、すぐ引き返す。一段登ってたたずむときなんとなく愉快だ。やすみやすみ登る。まるでアマゾンの奥地を旅しているような気持ちになる。遠くでは滝音にまじって鳥の鳴き声が聞こえる。天然の石で出来たウォータースライドのようなところを登り切ったところで砕かれた石がばらまかれているような場所に出た。
天蓋は名の知らぬ木で囲まれている。ここだけをきれいに掘った巨大なプールのようだった。そのプールの背後は灰色の岩石で囲まれている。その背後の一番高いところからいきおいよく人の胴ほどある水が滝壺に注がれていた。その滝壺のところで素足の女がなにかを追っていた。腰のところには竹を編んで作った駕籠をくっっけていた。あみ子は素足にわらじをつけて水の中に入っていた。
余「あみ子ちゃん、なにをやっているんだい」
あみ子は突然の余の出現にはなはだ驚いているようだった。
あみ子「こんなところになんで来たの。朝、観海寺に行くと言っていたじゃないですか。ここだと観海寺に行くのは遠回りですよ」
あみ子はやはり背を曲げて水のの中の石の裏なんかを探っている。あみ子の手に赤いものがちらりとするとそれをすぐに竹駕籠の中に入れた。それが余にも赤い沢ガニだということはわかった。水に濡れた黒い岩、緑の水、赤いかに、それらはいい色の対称をなしていた。余は滝壺の中に手を入れてみる。少し冷たい。あみ子の水に濡れているふくらはぎのあたりはいつもよりも少し白くなっている。
余「こんなところがあるなんて想像もしませんでしたよ。でも、あみ子ちゃんはなんでここで沢ガニを捕っているんだい」
あみ子「餌にするのよ。これでひらまさを釣るつもりなの」
余は沢ガニでひらまさを釣るという話しははじめて聞いた。つりきちあみ子は川釣りではなく、海釣りにも手を出していたのだ。
あみ子「午後から釣りに行くつもり、あなたも行きますか」
余はもちろん同意した。
あみ子「うちでは海釣りのための舟も持っているんです」
余はあみ子の沢ガニ取りにつき合うのは途中でやめにして滝を下りていった。
観海寺の山門に立つと海のほうが一望出来た。遠くに浮かぶ島がまるで石膏やモールで作った模型のように見える。山門の敷居をまたいで寺の庭の中に入るとくねくねと曲がった松の木の幹のところに毛虫が一匹はりついていた。この松の木の幹を大蛇の腹と形容するものもいる。松の木の根本には針をぱらぱらとまいたように松の葉が落ちている。石畳を途中で曲がって裏の方に行くといろいろな道具類の入っている納屋の前を通る。そこに本堂と庫裡を結んでいる太鼓橋のような廊下があって、その下をくぐると禅宗の教義を表現している庭に出る。その庭を見渡せるところに縁側があり。その縁側の上で井川はるら
嬢が庭の中の池を見ながら足を伸ばしてくつろいでいた。横にはほこりを被ったような本が置かれていた。余は庭の方から縁側に入って行って井川はるら嬢の横に腰掛けた。
余「妖怪というのは夜中に出るのでしょうか」
井川はるら「なんで、突然、そんなことを聞くのですか」
余「はるらさんは妖怪を見たことがありますか」
井川はるら「それは私が妖怪の存在を信ずるか、どうかということ」
余「それでもいいですけど」
井川はるら「それなら、わたしは妖怪の存在を信ずるわ」
余「妖怪、というのは死なないんですかね」
井川はるか「妖怪は無限の命を持っているんじゃないですか」
余「そうしたら世の中は妖怪でいっぱいになってしまいますよね」
井川はるら「でも、妖怪の活動を封ずることは出来るとおもいますよ。殺生石ってあるじゃないですか。鳥羽天皇の后が殺されて毒ガスを出す石になったという話しや、九尾のきつねがその妖力を封印されて石になってしまったという話し、石になっても妖力を持っているって話し」
余「それはすごく興味があります。どうやれば妖怪を封じこめることが出来るんですかね」
井川はるら「まるであなたが妖怪につきまとわれているみたいですね」
余は少しあわてふためいた。
余「そういうこともないんですが。妖怪というのは必ず人間に害をなしますよね」
井川はるら「その妖怪の誕生の秘密に関わっているんじゃないかしら。人間にひどく虐待された結果妖怪になったとしたら、きっと人間に害をなしますよ」
余はこの会話を妖怪に聞かれていないかと危ぶんだ。周りを見回しても妖怪らしいのはいない。井川はるら嬢はうしろをふり返るとふすまに描かれた竜の画を指さした。
井川はるら「この竜の画は珍しいでしょう。水竜ですよ。だいたい竜は雷雲の中で手足を八方に伸ばしているのが多いのに」
井川はるら嬢はまるで妖怪評論家のようだった。
そのふすまががらりと開いて、小坊主が顔をあらわす。
小坊主「ちょうどよいところに来なさった。志保田の家に逗留しているお方。志保田の家に行こうかと思っていたんでごじゃります。これです。渡そうかと思って」
余「なんですか。小坊主さん」
小坊主「誤配の手紙でございます」
余は小坊主の了然から誤配の手紙を受け取る。差し出し人を見ると夏目ひで子となっている。余の母親である。井川はるら嬢もその手紙を興味深げに見つめた。余はすぐに手紙の封を切った。どうせ大したことは書かれていないだろう。女ずわりをした井川はるら嬢は余の手紙をのぞき込んだ。
「おじいさまの土蔵の中の金目のものを売って家を新築しようという計画をお父さんと一緒にしていたのをあなたは知っていますね。あれほど土蔵の中に入ってはいけませんと言っていたでしょう。それなのにあなたは土蔵の中に入っておじいさんの遺品をいじくったでしょう。あれは全部、わたしたち夫婦のものです。わたしたちが死なないかぎりその権利はないとおもいなさい。もう好事家に売りつける計画は立っているのです。あなたに財産を譲らないと言っているのではありません。おじいさんの使った火鉢だとか、紫檀の机だとか、漱石さんぼうのロゴの入った原稿用紙だとか、売って現金化して時期がくればあなたにそりなりの取り分は与えます。もちろん、家を新築した費用の余った分をです。あなたがおじいさんの遺品に手をつけたことはわかっています。とにかく、持って行ったものは返しなさい」
余はその文面を見ながら恥ずかしくなった。仮にもお札の顔になった人間の子孫である。家の改築費用がどうだとか。余は照れ笑いをしていると、井川はるら嬢が複雑な顔をしている。
井川はるら「おじいさんの遺品をいじったのですか」
余「ええ」
井川はるら「そのときから身の回りでなにか変化が起こったというようなことはありませんでしたか」
思ったより井川はるら嬢は真剣な顔をしている。そこで余は自分の指を折ってじいさんの遺品をいじったのがいつだったのか、計算してみた。すると意外な事実が出て来る。ちょうどそのときから余の周囲に妖怪モンモン娘が出現し始めているのだ。しかし、井川はるら嬢にそのことを言うのはためらわれた。そんな話しを余がすれば余は井川はるら嬢に変な人と思われてしまうに違いない。それよりも余はもっと気になることがある。井川はるら嬢がなぜここに来たかということだ。こんなきれいな人に男の影がないというのはどういうことだろうか。余は気になった。そもそも誰の紹介で井川はるら嬢はこの観海寺に泊まることになったのだろう。
余「井川はるらさんは、どういう手づるでここに宿泊することになったのですか」
その問いに、彼女は答えず、横にいた小坊主の了然が答えた。
小坊主「英文学士の原た泰三さんだよ。はるらさんは泰三さんの昔からの知り合いなんだよ。原た泰三さんがここに来るように頼んだんだよ」
余はしだいに無口になった。原た泰三とはあの原始人のような顔をした英文学士のことか。列車の中でも出会ったし、五輪の塔でもであった。余の知らない青春の日のひとこまの中で原た泰三は井川はるら嬢とどんな関わりをしていたのだろう。余の心の中にねたみの気持ちがむくむくとわき起こってきた。澄んだコップの水の中に黒い墨汁を一滴たらしたようだった。そしてその汚れはコップ全体に広がって支配した。
 山の方からトロッコのような電車に乗って下りて行くと港に出る。港は入り江に作られていてまるで金魚鉢の中の鏡のようだった。そんな小さな港だったが近くの島を回遊する連絡船があり、それは車も二、三台載せることが出来るフエリーボートだった。志保田の家で所有している舟は港のはじにつながれている。余はさっきの井川はるら嬢のことですっかり気分がめいっていたが、電車を降りて港まで行くとそれなりに意識は高揚した。つりきちあみ子はそのボートのところで出航の準備をしている。昼間、滝のところでつかまえた沢ガニをボートに積み込んでいるところだった。あみ子は若者らしく大きく手を振って余に合図をした。余が乗り込むとそのボートは沖に向けて出航した。舟に乗っていると前に進んでいるという意識が希薄になる。周りに距離感を計るべき目標物がないからだろう。泳いでいてもそんなに感ぜずとも水の抵抗とはすごいものに違いない。ボートのとものほうには水が飴菓子のようにうねっている。あみ子はボートのハンドルを握っている、女ながらに大したものだ。それにまだ若い。無言でボートのハンドルを握るあみ子を見てそう感じた。港の方が小さく見える。港に面している民宿の看板の文字も見えないくらいだ。家の背後に広がる濃い緑色がさらにこくなる。海にしては静かである。余は舟の中に浮き輪があることを確認して安心した。
余「ここで、なにを釣るんですか」
あみ子「ひらまさよ」
余「沢ガニなんかで釣れるんですか」
あみ子「釣れるわよ」
塩水の中で沢ガニが生きていけるのか余にははなはだ疑問だった。
余「どこでボートの運転を習ったんですか。すごいですね。余は感心しました」
あみ子「東京よ」
ボートは海の上で停止している。そこでいかりをおろした。ボートはゆっくりと上下に揺れているが前に言った理由で平面的にはどうなっているのかわからぬ。遠くにある小島はエクレアのように見える。空は春らしく薄曇りである。けい人が自分の天上で産するうすぎぬの着物を脱いで透明な天蓋にかぶせたようであった。夜はむしろこういう日のほうが漁果があがるなどということを子供の頃に聞いたことがあるような気がした。余の素人なりの考えであるが天気の良い日、悪い日、太陽の光線が海の下どのくらいまで届くかで餌が浮遊する場所がまた変化するのではないか。全くの素人考えである。そして魚には時間感覚があるのかどうかということも考えてみた。雨戸を開けて日が射し込めばまぶしい光にいたたまれなくなって目を覚ますだろう。曇りの日は魚も明け方だと思うのかも知れない。もちろんそれは魚が明け方に食事をするからという話しでである。海に出た人は地球が丸いということを実感するというが言われて見れば水平線が少し曲がっているような気がする。海に出てみると海の水が液体であるとい事実が感覚と一致しないような気がする。海の水はゼリーのように何メートル四方の四角い箱のような固まりになっているのではないか。そのゼリーがいくつも積み重なって海を作っているような気がする。そしてゆっくりとブロックごとの振動が次々と伝わって行って波が起こるのだ。だから海の上のほうと下の方の波では揺れかたが違う。余はそんなことを考えていたが、つりきちあみ子は沢ガニを針に引っかけて海の中に落としていた。水の近くではかにの姿が見えるがすぐに見えなくなった。かには足をさかんに動かして海の中に入って行くことを楽しんでいる。かにが餌とい感覚がなく、海底に沈んでいる水死体者を探している潜水夫のような感じがする。水の中で自由に動けたらどんなに素晴らしいことだろうか。人は空を飛べたらと夢想してきたが、どんな深海にでも自由に入れることも素晴らしい。空を飛ぶことはあらゆる束縛から解き放たれる自由を意味しているが、海の中を自由に移動することは自分の姿を完全に隠すことを意味していないだろうか。海の表面のほうは太陽の光でその姿を隠すことは出来ないが海の底のほうは光が届かない。まるで忍者のようだ。人間のおおもとは海から生まれたという、母なる海という。あみ子にはそんな能力があるのではないかと、余は思った。四国のどこかでは水の中に潜って大きな魚を抱いてとる漁があるという。つりきちあみ子ならそんな芸当が出来るのではないかと余は夢想した。水の中で巨大な魚の腹にだきついて身体をくねらせて魚が格闘する力の弱まるまで身をまかせているあみ子の姿が目に浮かんだ。余はあみ子のように釣り竿をたれていたがボートの喫水線の向こうに見える海面の少し波が荒くなって舟の汽笛の音がした。見ると小舟の左の方から観光用の舟が寄って来る。余はその舟の方に顔を上げた。あみ子もその舟の方を見た。するとその舟のデッキのほうに乗務員の服装をした若い男が立っている。その男の視線はあみ子の方に向かった。あみ子の方でも視線を返した。すると両人しかわからない愉快の感情がわき起こってふたりは至福の喜びに顔をゆるめた。若い男のほうは手まで振っている。余はその男の顔を見たことがある。山を登ったときに泣きながら余からノートを奪い去った男だ。あみ子は余が彼女の横顔を見つめていることに気づくと失態をしたというように唇をかんだ。
あみ子「わたしがあの男の顔を見て笑ったと思いますか」
余「そう判断しました」
あみ子「あの男が誰だかわかりますか」
余「あなたの恋人、もしくは婚約者」
あみ子「かつてはそうでした。でも、わたしと結婚しようとしたとき、あの人は手形詐欺にあって、一財産失ったのです。それで生活にも困って観光船の乗務員をやっているのです」
フェリーはボートを残して過ぎ去って行くが若者はやはりあみ子の方を向いてばかのように手を振っていた。

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 お茶のご馳走になる。相客は僧一人、観海寺の和尚で名は大徹、その従者の小坊主、床屋に頭を剃りに来た了念、俗一人、二十くらいの若い男である。若い男はあのノートの男だった。老人は客が来たときあたりを見回した。
老人「あみ子が見あたらないようじゃが、繁明くんが来たんで、あみ子を呼んで来よう。あみ子はどこにいるか、わかるかな。」
余はあみ子が今さっきまでこの宿のいけすの前でさかなに餌をやっていたのを見ていたので老人の孫娘を呼んで来ようと言った。
余「私が呼んで来ましょう」
小坊主「私も行きますがな」
小坊主の了念もあとからついて来た。この宿は山の斜面に建てられていて後ろは羊歯や名前のわからないようなぜんまい、蕨などが群生している。それらがみずみずしい深いみどり色をしているというのもこの山のわき水がそこから出て来るからだ。それを採って料理にも使う。昨日の晩飯には膳の左の隅にそのぜんまいのおひたしが載っていた。食べてみると葉がぷりぷりしていてそれがとれたてだということがわかる。箸でそのぜんまいをつまんで見て、その色に感心した。太陽の光を浴びた緑色とも違う。透明な水をどんどん凝縮していったらこんなエメラルドのような緑色になるのではないか、宝石とは違って透明ではないが深い緑色だった。奥深い山に住む妖精を連想させる。そのわき水を山の斜面から大きな竹の節を抜いたやつでいけすにひいている。いけすは底はそれほど深くはないが広さは畳八畳ほどある。いけすの内側には苔がびっしりとはえているが、たえず山の清水が注ぎ込まれているので水は澄んでいる。その中を魚が悠々と泳いでいる。いけすの中には魚のための橋や家が落としてあるのだが、このいけすの持ち主がしゃれで入れたのだと思う。そしてそれらは水苔ですっかりと毛だらけになっていてまるで半魚人の王宮のようになっていた。そのいけすの前でここの宿の孫娘が魚に餌をやっていた。
小坊主「あみ子さん、滝沢くんが来ているがな」
余が何かを言う前に小坊主の了念が口を開いた。そのときの女の表情は見物だった。女は魚を見ながらうすら笑みを浮かべている。しかしそれが人を馬鹿にしているものではなくてある悲しみを底に秘めていることがわかる。口は一文字に結んで静かである。しかしそれは話すことがないからではなく、話すことが思いが籠もっていることを知ってそれをあえて口に出さないようにも見える。額は広く前に飛び出し、目はいつも笑っているようだった。まだ十九才の少女ではあったが眉は美しく整えてある。鼻ばかりは軽薄に鋭くもない、遅鈍に丸くもない。画にしたら美しかろう。容貌はきわめて現代的な少女だったが、それが魔境を箱庭にしたようないけすの前に立っているのが妙ちくりんな対照を与えていた。元来は静であるべき大地の一角に陥欠が起こって、全体が思わず動いたが、動くは本来の性にそむくと悟って、つとめてむかしの姿にもどろうとしたのを、平衡を失った紀勢に制せられて、心ならずも動きつづけた今日は、やけだからむりにでも動いてみせるといわぬばかりの有様がーそんな有様がもしあるとすればちょうどこの女を形容することができる。それがこの女がいけすの前から動くに動けぬ理由だろうか。それだから軽蔑の裏に、なんとなく人にすがりたい景色が見える。人をばかにした様子の底に慎み深い分別がほのめいている。才に任せ、気を追えば百人の男子を物の数とも思わぬ勢いの下からおとなしい情けがわれ知らずわいて出る。どうしても表情に一致がない。それはこの小坊主が滝沢が来ていると言ったときからその表情に表れていた。余は滝沢という若い男とこの孫娘にどういう詳しい因縁があるのか知らぬ。あの海でのできごとしか知らぬ。悟りと迷いが一軒の家の中にけんかをしながらも同居している体だ。
あみ子「わたし、今、魚にえさをやっているから行けませんと伝えて」
小坊主「へえ、わかりました」
小坊主の了念は番頭のような口調で答えた。老人の部屋は、余が室の廊下を右へ突き当たって、左へ折れた行き留まりにある。大きさは六畳もあろう。大きな紫檀の机をまん中にすえてあるから、思ったより狭苦しい。それへという席を見ると、布団の変わりに花毯が敷いてある。むろんシナ製だろう。まん中を六角にしきって、妙な家と、妙な柳が織り出してある。周囲は鉄色に近い藍で、四隅に唐草の模様を飾った茶の輪を染め抜いてある。シナではこれを座敷に用いたものか疑わしいが、こうやって布団に代用してみるとすこぶるおもしろい。インドの更紗とか、ペルシアの壁掛けとか号するものが、ちょっと間が抜けているところに価値があるごとく、この花毯もこせつかないところに趣がある。花毯ばかりではない。すべてシナの器具は皆抜けている。どうしてもばかで気の長い人種の発明したものとほか取れない。見ているうちに、ぼおっとするところがとうとい。日本では巾着切りの態度で美術品を作る。西洋は大きくて細かくて、そうしてどこまでも娑婆っ気がとれない。まずこう考えながら席に着く。若い男は余とならんで、花毯の半ばを占領した。
和尚は虎の皮の上に座った。小坊主の了念はその横に座った。虎の皮の尻尾が余の膝のそばを通り越して、頭は老人のしりの下に敷かれている。老人は頭の毛をことごとく抜いて、頬と顎へ移植したように、白い髭をむしゃむしゃと生やして、茶托へ載せた茶碗をていねいに机の上へならべる。
老人「今日は久しぶりで、うちへお客が見えたから、お茶を上げようと思って、・・・・」と坊さんのほうを向くと、
坊主「いや、お使いをありがとう。わしも、だいぶご無沙汰をしたから、今日ぐらい来てみようかと思っとったところじゃ」と言う。坊主「ときにあみ子ちゃんは」
小坊主「お嬢さんは魚に餌をあげていて来られないそうです」小坊主の了念が居酒屋の小僧のように言った。すると若い男の顔に一瞬もの悲しいような表情がやどるのを余は見逃さなかった。
坊主「そうか、仕方ないのう」達磨のような坊主は何もかもわかったような調子でうなずく。この僧は六十近い丸顔の、達磨を草書に崩したような容貌を有している。老人とはふだんからの昵懇とみえる。魚のカステラを載せた青磁の菓子皿を予がほめたのを、孫娘がこの老人に伝えたのではないかと余はよんだ。
坊主「このかたがお客さんかな」
老人はうなずきながら、朱泥の急須から、緑を含む琥珀色の玉液を、二三滴ずつ、茶碗の底へしたたらす。清い香りがかすかに鼻を襲う気分がした。
坊主「こんな田舎に一人ではお淋しかろ」と和尚はすぐ余に話しかけた。
余「はああ」となんとこかとも要領を得ぬ返事をする。淋しいといえば、偽りである。淋しからずといえば、長い説明がいる。
老人「お客さんが、青磁をほめられたから、今日はちとばかり見せようと思うて、出しておきました」
坊主「どの青磁をーうん、あの菓子鉢かな。あれは、わしも好きじゃ。時にあなた、画を、西洋画を描きなさると聞いたが、西洋画で襖などはかけんものかな。かけるなら一つ頼みたいがな」
かいてくれ、ならかかぬこともないが、この和尚の気に入るか入らぬかわからない。せっかく骨を折って、西洋画はだめだなどといわれては、骨の折りばえがない。
余「襖には向かないでしょう」
坊主「向かんかな。そうさな、このあいだの繁明さんの画のようじゃ、少し派手すぎるかもしれん」
余「あなたも画を描かれるのですか」余は若い男に聞いてみた。
滝沢「和尚さんの言っているのは鏡が池を描いた絵のことでしょう。私のはだめです。あれはまるでいたずらです」と若い男はしきりに、恥ずかしがって謙遜する。
余「鏡が池、私も行きました。幽すいなところですね。あそこの横の石段を上がって行くと長良の乙女の六輪の塔がありますね。それから横に行くと滝に出る」
坊主「六輪の塔のさきの道を左に曲がると観海寺に行くのじゃ。滝にもいける」
余「なんという名前の滝なんですか」
坊主「天女の杯というきれいな名前がついている。観海寺もいいところじゃよ。わしのいるところじゃ。海を一目に見下ろしてのーまあ、逗留中にちょっと来てごらん。なに、ここからはつい五六丁よ。あの廊下から、そら、寺の石段が見えるじゃろうが」
余「もう、お伺いしました。井川はるらさんというきれいな女の人が逗留していますよね。またおじゃまにあがってもいいですか」
坊主「ああいとも、いつでもいる。ここのお嬢さんといえばあみ子さんもここに来ればいいのに。さっき、魚に餌を与えておったと言っておったか。アハハハハ。そうそうあみ子さんはなかなか足が強い。知っておったかな。ハハハハハ。このあいだ法用で礪並まで行ったら、姿見橋のところで、橋の手すりに身体をくっっけながら大きく両手を振っている女の子がいるではないか。どうも、よく似とると思ったら、あみ子ちゃんよ。ジーンズにパンプスをはいて薄い水色のサマーセーターを羽織っていた。和尚さん、何をのんびりと歩いているの。どこへ行くんですか、といきなり驚かされたて、ハハハハ。お前はそんななりで、じたいどこへ、行ったのぞいときくと、都会では何とかドーナツというのが、今、流行っているらしい。捻りかりんとうみたいなもんじゃろうが、和尚さんに少しあげると言うて、いきなりわしのたもとに袋に入ったドーナツを三四個押し込んだ。ハハハハハ」
小坊主「和尚さん、僕、それ、食べてない」小坊主の了念は泣きそうな表情をした。しかし僧はそれを無視した。
老人「どうも、・・・・・」と老人は苦笑いをしたが、急に立って「実はこれをごらんに入れるつもりで」と話をまた道具のほうへそらした。
老人が紫檀の書架から、うやうやしく取りおろした紋緞子の古い袋は、なんだか重そうなものである。
老人「和尚さん、あなたには、お目にかけたことがあったかな」
坊主「なんじゃい」
老人「硯よ」
坊主「へえ、どんな硯かい」
老人「山陽の愛蔵したという・・・・」
坊主「いいえ、そりゃまだ見ん」
老人「春水の替えぶたがついて・・・・・」
坊主「そりゃ、まだのようだ。どれどれ」
老人は大事そうに緞子の袋の口を解くと、小豆色の視覚な石が、ちらりと角を見せる。
坊主「いい色合いじゃのう。端渓かい」
老人「端渓でくよう眼が八つある」
くよう眼というのはすずり石の中に入っている円い斑紋のことでこれが多いほど稀少価値がある。
「八つ?」と和尚は大いに感じた様子である。八つもくよう眼のある硯、それも端渓となるとめったに出ないものである。稀少価値に重きを置くのとよく稼いでくれる競馬馬に惚れ込むのは万人の常である。
老人「これが春水の替えぶた」と老人は綸子で張った薄いふたを見せる。上に春水の字で七言絶句が書いてある。小坊主の了念は骨董に興味を持っているのかしきりに見たがった。
小坊主「和尚さん、ふたが立派ですがふたがないとこの硯の価値はないんですか」
坊主「当たり前だ。ふたと揃いになっているんじゃ。ふたがないと価値が半減するのじゃ。それにふたには宗教的の意味合いもある」
余はどういうことかよくわからなかった。
「そしてこれが端渓」老人が緞子の袋を取りのけると一座の視点はことごとく硯の上に落ちる。厚さはほとんど二寸に近いから、通例の倍はあろう。四寸に八寸の幅も長さもまずなみといってよろしい。それからふたをとった。下からいよいよ硯が正体をあらわす。もしこの硯について人の目をそばだつ特異の点があるとすれば、その表面にあらわれたる匠人の刻である。まん中に袂時計ほどな丸い肉が、縁とすれすれの高さに彫り残されて、これを蜘蛛の背にかたどる。中央から四方に向かって、七本の足が湾曲して走ると見れば、先にはおのおのくよう眼を抱えている。残る一個は背の真ん中に、黄な汁をしたたらしたごとくにじんで見える。背と足と緑を残して余る部分はほとんど一寸余の深さに掘り下げてある。墨をたたえるとこは、よもやこの塹壕の底ではあるまい。たとい一合の水を注ぐともこの深さをみたすには足らぬ。思うに水うのうちから、一滴の水を銀杓にて、蜘蛛の背に落としたるを、とうとき墨に磨り去るのだう。それでなければ、名は硯でも、その実は純然たる文房用の装飾品にすぎぬ。
老人「この肌合いと、この眼を見てください」
なるほど見れば見るほどいい色だ。寒く潤沢を帯びたる肌の上に、はっと息をかけたなら、ただちに凝って、一だの雲を起こすだうと思われる。ことにおどろくべきは眼の色である。眼の色といわんより、眼と地の相交わるとこが、しだいに色を取り替えて、いつ取り替えたか、ほとんど我が眼をあざむかれたるを見いだしえぬことである。形容してみると紫委の蒸し羊羹の奥に、隠元豆を、透いて見えるほどの深さにはめ込んだようなものである。眼といえば一個でも二個でも大変に珍重される。八個といったら、ほとんど類はあるまい。しかもその八個が整然と同距離にあんばいされて、あたかも人造のねりものと見違えられるにいたってはもとより天下の逸品をもって許さざるを得ない。
余「なるほど結構です。観て心持ちがいいばかりじゃありません。こうしてさわっても愉快です」と言いながら、小坊主の了念がしきりに見たがっているので硯を渡した。
小坊主「和尚さん、確かにこれも立派ですが、くよう眼が十二もあるのもあったんでしょう」
するとただちに老人の顔に不快の色が広がった。和尚もその大徹という名前に似合わず、精神の動揺を表して、どうこの場をとり扱っていいかわからないという表情をした。若い男の態度こそ見物であった。別にそれがこの男の責任でもないだうが、しきりに恐縮している。
坊主「全く、了念、よけいなことを言いおって」
今にも小坊主の頭をはたきそうな調子であった。
「だって、和尚さまが八十年前には、志保田の屋敷には十二眼のくよう眼の端渓があるのじゃ、と言っていたではありませんか」余はそれがどういうことなのか知りたいと思った。老人は居住まいが悪いのか、おしりの下に敷いているシナ製の虎の敷物の上でもぞもぞと腰を動かしている。小坊主の了念は自分が不当にしかられたのでさかんに抗議の瞳を老師の方に向けている。非人情の旅に出た余だったが志保田の宿の端渓の硯には何か因縁があるのかも知れない。
老人「わしの自慢の品の鑑賞をするつもりが、とんだ昔話をするはめになってしまいましたな、と言ってもこれはわしが直接に体験した話というわけではないのじゃが、前のじいさんから聞いた話じゃ、今から八十年も前の話じゃ、この那古井の志保田の家に画工と名乗る男が来たのじゃ、そのとき、志保田の家には那美という、あみ子の祖祖母に当たっている娘がおった。それがわしの母親なんじゃが、ひどく機ほうのするどい女だったそうじゃ、わしのじいさんはその画工を茶に招いてくよう眼の端渓を見せたそうじゃ、その後、この志保田の家にあったくよう眼の端渓はなくなってしまったそうじゃ」
小坊主「それでもってね。原た泰三さんが言っていたんだけど、そのくよう眼の端渓の硯を見付けることは自分の説の証明になるんだって」
何の証明か、余にはわからなかったがたぶん原た泰三が主張している画工と偽ってここにやって来た余のじいさんのことだろう。
どうも老人はまだ何か知っているのに言わないのかも知れない。ぽかんと部屋へ帰ると、なるほどきれいに掃除がしてある。他の座敷は、近頃客が来ない、ゆえに、掃除がしていないので、ふだん使っているこの家の孫娘の部屋でがまんしてくれと言われた。風呂場の湯煙を共用したあみ子嬢が昨夕は自分の浴衣を取りに余が休んでいると入って来た。その用箪笥の余った片側に書物が少々つめてある。いちばん上には白隠和尚の遠良天釜、その間に何か薄い本が一冊、そして草枕が置いてある。余は部屋のまん中にごろりと大の字になって上の方を見ると、欄間に、朱塗りのふちをとった額がかかっている。文字は巨大で視力がコンマ一の人間でも読める。ほとんどとうもろこしぐらいの筆で書かれた文字だった。人間、元気が一番。元気だったら、何でもできる。ーそこで一行、行が変わっていて、あみ子ちゃんへーと書かれている。余は書において皆目鑑識のない男だが、その書の横には大きな手の平のあとが墨をべったりとつけて押されている。その手の平も常人よりはずっと大きく、相撲取りのサインかも知れない。ここの孫娘が東京の方で映画に出ていたということだから、その方の関係かも知れない。その額を見ながら鼻毛を三本ほど抜いていると金魚鉢越しに見える球面にゆがんだおおきな顔でここの孫娘が上から余の顔をのぞいていた。
あみ子「おじいちゃんのところに行ったんだ」
余「あみ子ちゃんは何故来なかったのかな」
あみ子「魚に餌をやっていたから」
余「滝沢という若い男がいましたよ」
あみ子「何をやっていたんですか」
余「いえ、何も」
あみ子「知ってるわよ、硯を見ていたんでしょう」
余「小坊主の了念が昔はもっといい硯があったと言っていました」
あみ子「八十年も前のことでしょう、志保田の家とくよう眼の硯とは深い関係があるの」
余「それはどんな」
あみ子「遠良天釜の隣りにある本に全部、書いてあるんです」
余は手を伸ばしてその小冊子を取り上げた。あみ子嬢は膝をかかえながら座って苔の生えている庭の方を見ている。
あみ子「五百年にわたる滝沢家と志保田の家の関係が書かれているの。おじさんは峠の茶店で楠雅儀の伝説を聞きましたか」
余「長良の乙女の歌を歌ってくれた」
あみ子「この志保田の家が楠雅儀のおとしだねなら、滝沢家は後醍醐天皇のおとしだねなんです。そして四代目ごとに両家は婚姻を結ばなければならないんです。それもただの婚姻ではなく、滝沢家には代々伝わるくよう眼の端渓の硯を志保田の家に収めなければならないんです」
余「また、どうして」
余にはひどく時代錯誤のことに思える。
あみ子「その本に書いてあるからです。そうしなければ、両家には不幸が訪れるからです。あみ子は子どもの頃からその本を繰り返し、読んで来ました。そして、滝沢家の男性と結婚すること、滝沢家から端渓の硯を送られることを頭に想い浮かべないことは一日だってなかったのです」
余「その結婚相手って、あの滝沢という若い男のことかな」
あみ子「そうです。でも志保田の家に送られることになっていた端渓の硯が八十年前に盗まれてしまったんです」
それで余にも納得がいった。硯の話をしたとき、老人が不快な表情をして、若い男が申しわけなさそうな様子だったのを。
余「でも、どうして、そうだと両家が不幸になると結論するんですか」
あみ子「その本に書いてあることは五百年にわたる確かな記録なんです。その取り決めを守らないときは不幸になっているんです。原た泰三さんも確かだと言っていました。そしてその言い伝えのこともすっかり忘れていて、くよう眼のすずりがなくなっているのに、私と滝沢くんはある夜、結ばれてしまったのです。幼なじみにして初恋の相手、そうして永遠の伴侶だと思っていました。そうしたらそのすぐあとに、滝沢家では手形詐欺にあって大損をしてしまったのです。言い伝えは本当だったのです。それで両方の家でこの結婚はやめようって」

第十一回
それであみ子の複雑な表情のわけがわかった。ふたりの恋人はなさぬ仲のふたりなのだ。次の日に観海寺に余はふたたび出向いた。あの哲学的な庭のところで余は井川はるら嬢にもっと聞きたいことがあったのだ。その目的のためでもあったが、井川はるら嬢の声を聞くのも目的だった。あの涼やかな声、そして美しい容姿。余は年甲斐もなく浮き立つ心で観海寺の中庭へ行った。すると例の中庭のほうから人の声が聞こえる。坊主の声が聞こえる。例のたいこ橋の影から縁側の方を盗み見ると縁側のところであみ子嬢が足をぶらぶらさせて庭のほうを見ている。
坊主「あみ子ちゃん、なぜ、悟ろうとしない」
庭を見ながら足をぶらぶらさせているあみ子の背後には太った観海寺の坊主、大徹がいる。志保田の家ですずりの鑑賞をしながらこの坊さんに会ったときはもっと衣をきちんと着ていたが、今は衣のえりのあたりが少し乱れている。その坊主の唇が下唇のあたりが突き出しているように見える。そして吐く息は見えないのだが少し息が乱れているようだった。坊さんは女座りをしてあみ子のすぐうしろに座っている。声だけは悟りきった高僧のように稟としていた。前には不同不二の乾坤を後ろには悟脱した坊主にはさまれてあみ子も随分と息苦しいことに違いない。あみ子は背後からいきなり公案をぶつけられたようであった。しかし、坊主の声に比べてその身体の方は随分と筋肉の緊張はほどけていて関節の両方に接続されている腱の引っ張る力はゆるみ、軟骨は楽をしているに違いない。坊主の問いにあみ子は無言だった。
あみ子「・・・・・」
無言のあみ子のそばに老僧は少し顔を近づけたようだった。
坊主「あみ子ちゃん、あなたはつりの名人ではなかったのか。雨月物語に僧が鯉の身体に乗りうる話しがある。ある日、僧の意識がなくなって気がつくと自分が鯉になっていて、水の中を泳いでいる。水の中で楽しく泳いでいたが、鯉に変化が起こった。漁師が来た。漁師につり上げられて自分の寺に買い上げられまな板の上で料理されようとしたときに、意識が僧のほうに戻り、僧はその鯉を料理するなという。そして鯉は川に戻されるのじゃ。わしが何を言いたいのか、わかるかな」
余にも坊主の言う話しの要領は得なかった。しかし大徹という名前のとおりもっともらしく話す。ましてあみ子には。
あみ子「・・・・・」
坊主「あみ子ちゃん、じゃあ、ここで話しを変えよう。あみ子ちゃんはようような魚を釣ってきた。どうすれば釣るのがむずかしい魚を釣ることが出来るのかな」
あみ子「魚の生態を研究すること。その知識を積むこと」
あみ子の釣りの腕前は二度しかともに行かなかった余にもよくわかった。あゆ釣り場ではあみ子愛用のつりざおのさきにあみ子の神経はつながっているようだった。いな、釣り竿のさきからさらに先の糸の先の釣り針にも神経の末端があったのかも知れない。海に行けば群青色の海の底に餌を投げ込み、その餌の匂いにつられて寄って来る魚の姿を見ているような風情があった。
坊主「魚を男と言い換えてもよし。あみ子」
いつの間にか呼び捨てになっていたそして自己の威厳を増すように少しだけあみ子のうしろの方に身をしりぞけた。こうした方が声はよく聞こえるのかもしれない。寄らば引け、ひかば押せ。逆説の真理は凡愚の人にはかゆくても手が届かないところをかかれているようで心地良い。ここで大徹は諭すように優しい調子になる。
坊主「魚の気持ちになることが一番だ。あみ子ちゃん。自分が滝沢くんの気持ちになることだ。自分があみ子ちゃんか、あみ子ちゃんが滝沢くんか。そこまでいくのだ」
あみ子「でも、言い伝えがありますわ。言い伝えを破ってセックスしたら彼の家は大損をだしました」
坊主「喝。あみ子、滝沢くんの心の中に入っていこうと念ずるのじゃ。目を覚ますのじゃあみ子ちゃん」
あみ子「・・・・」
余はこの坊主の行動を危ぶんだ。この坊主は西洋画で寺のふすまを描いたらどんなものかと余に聞いた。子供の描く画のほうが純粋でおもしろいと言った。余ははやとちりをして子供の方が純粋だからおもしろいのかと聞くとそうではないという。じゃあ、なぜおもしろいかというと子供の描く画には形がない。色だけである。そしてある場合はかたちだけの画を描き、色のないものもある。色と形は不即不離だと思って今日まできた余の目がさめた。いつも同じ場所に立っているものをはなして立たせればおもしろい。対象と表現にもそれがいえる。対象と表現も別のものである。対象と余が思っているものもそれは心の中の表現の幻影に過ぎぬ。それらが別々だと肝に銘じたとき、それらがまたあらたな姿を持って創造がなされるのである。坊主らしいことを言った。そのときの坊主のすっきりと立つ姿はなかった。いつの間にかあみ子と呼び捨てになっていた。そして坊主の身体があみ子にさらに二十センチ近づいているのを確認した。人生相談にかこつけて女に男が近づくのは常套手段である。つりの奥義を会得したつりきちちあみ子にしてこのていたらくであろうか。あみ子あぶない。あぶないあみ子。しかし余の心配は杞憂だった。
あみ子「和尚さん、わたし帰ります」
あみ子は縁側から飛び降りるとこちらのほうに早足で歩いてくる。向こうから来るあみ子と余の目は合う。ばつが悪かった。あみ子の目はうっすらと濡れている。あみ子は無言で行き過ぎた。
小坊主「志保田の家に泊まっているお客さん、なにを見ているんですかな」
寺の小坊主の了然が声をかけた。
小坊主「見てたんでしょう」
余「見てない」
小坊主「嘘だ。見てた」
余「見てた」
小坊主「和尚さんがまたあみ子さんを泣かしたでしょう。滝沢くんのことを言うとすぐ泣いちゃうんだな。愛しているんだよ。きっと」
余「関心ない」
小坊主「じゃあ、なんでここにいるんですか」
余「井川はるら嬢に会いに来たんだ」
小坊主「はるらさんなら、原たさんから電話があって出ていきましたよ」
その言葉を聞いた余の心情は内心穏やかではなかった。だいたい井川はるら嬢がどんな目的でここに来たのかわからないし、男に会いに来たのだとは信じたくなかった。しかし、観海寺には以前に原た泰三も泊まったことがあるという話しだ。もしかしたら原た泰三がこの寺に泊まるように井川はるら嬢に言ったのかも知れない。そうすると原た泰三と井川はるら嬢とはどういう関係になっているというのだろうか。余ははなはだ不満だった。すぐに観海寺を退散した。
 そのまま志保田の宿に戻るのはこころもとなかった。余の心の片隅には満たされぬ思いがある。満たされぬのは同じ平面の上に乗っていながら手が届かぬからである。視力においてはそれが見える。しかし腕力においてはそれに手が届かぬ。あの神秘的な滝に再び行こうと思った。あのエメラルド色の水を見れば心が落ち着くのではないかと思ったからだ。観海寺の裏の方から滝へ抜ける路がある。どういう宗教的な意味があるのかわからない石塔の間をぬけて行くとほぼ垂直にむきだしの岩盤の上に鉄の梯子のようなものがついていてそこを上がって行くと岩の間の路があった。その路は迷路のようになっていたがそれが路に迷わせようという意図ではなくて急な斜面をゆっくりと登らせて行こうという意図がわかった。それほど樹木がなかった路に樹木がふえていき、ボブスレーの競技路のはてにトンネルがあり、そのトンネルの上の方はいろいろなつたで覆われている。そのトンネルをくぐると下の地面が水っぽくなった。その路を登って行くと滝の横の方に出た。前に来たときの上がり口は五十メートルくらい離れている。そこから上がったときにはその上がり口には気づかなかったのだ。そこにはやはりエメラルド色の水がたたえられている。二十メートルぐらいの高さから滝が落ちて来る。余はこういう場所にこそ水竜が住んでいるのではないかと思った。余は靴も靴下も脱いで滝壺のへりに足をつけて見る。冷たいが我慢できないほどの冷たさではない。上から落ちていく水の背後にある崖には点々と名前のわからない樹木が逆さに生えている。根のところが逆さになっていて途中から上に向いているのだ。それらの木々がたてに割れた岩の透き間から生えている。岩の透き間に土がたまってそこに木が根をはる。根がさらに伸びていけば岩は剥離する。余は滝の音しかしないこの静寂に身をまかしているとにたにたの存在を感じた。滝のへりのところに妖怪(●´ー`●)安部なつみが足首のところまで滝つぼにひたりながらにたにたとこちらを見ていた。なつみの扁平した足首は滝底の石をたしかにつかんでいる。
余は唖然とした。なぜこんなところに(●´ー`●)安部なつみがいるのだろうか。
(●´ー`●)安部「暑いわ」
そう言って安部は悩ましげな視線を余に向けた。あきらかに情欲を持って余にせまろうとする目の光りだ。
(●´ー`●)安部は豊満な肉体の上、全裸のままで胴体のところに黄色なバスタオルを一枚まいただけだった。全裸というのは想像だけだったがその黄色いバスタオルの下になんの下着も着ていないようなのは明らかだった。下着の線が全く見えない。
(●´ー`●)安部「暑いわ」
(●´ー`●)安部はふたたびそう言うと身をかがめて手の平で水をすくうと自分の膝小僧のあたりにかけた。透明な水は(●´ー`●)安部のふくらはぎを伝って下に落ちて行った。安部が身をかがんだとき胸の隙間が余の目にふれた。バスタオルの下のほうが飛び散る水で濡れた。余が唖然としてその様子を見ていると安部なつみは突然、余のほうにはしってきて余の首に両手を回すと胸を余の身体に押しつけてきた。余は全力で安部の身体をひきはなすと安部は滝の水の中に尻餅をついて座った。バスタオルはすっかりと水を吸っておしりの形がはっきりと見える。
余「なんで、余につきまとうのだ」
(●´ー`●)安部「なんでって、なんで、あなたがご主人さまだからでしょう」
安部はにたにた笑いをしながら二三歩、余のそばに寄ってくる。
余「余がお前のご主人になった覚えはない、帰れ、妖怪」
すると(●´ー`●)安部は少し悲しそうな表情をした。それが演技なのか、真実なのか、余にはわからない。
(●´ー`●)安部「そんなに邪険にしないでちょうだい」
立ち上がった安部は再び余のそばに来ると余の片腕をとって自分の両腕をからめて来た。バスタオルの上の方はみだれて来て安部の両の乳房が余の身体の横のほうに押しつけられている。ものが余の身体に当たっているという感じはなく、温度だけを感じていた。そしてぴったりと密着しながら顔を上げて余の表情見る。
(●´ー`●)安部「ご主人さま」
それからまた少しあいだを開いて口を半ば開いて悩ましくいった。妖怪にしては歯並びの良い歯と口の中の赤いのどや下が見える。のどという洞窟の上をしめらしている唾液も見える。
(●´ー`●)安部「ご主人さま、あなたはわたしのご主人さまなのよ。わかってらして」
余が何も言えなかったのは自分の意志に反して感覚が反応していたからである。このときは安部は自分のすべすべした太ももまでも余に押しつけていたのである。つまり両方のふとももを開いて余の片方の太ももを挟んでいた。これは余が逃げられないようにとの安部の戦略に違いない。余のあごの下あたりにある安部の頭は急に回転すると余の顔を見上げた。
(●´ー`●)安部「ご主人さまがわたしに心を開いてくれないのは、きっと、あの女がいるからね」
余「あの女って誰だよ」
余は恐ろしさにぶるぶるとふるえていた。
(●´ー`●)安部「観海寺に泊まっているあの女よ。あの女は大人しそうな顔をしているけど大変な女よ」
余「どういうふうに大変なんだよ」
(●´ー`●)安部「ご主人さまを騙している」
その言葉は余にとって聞き捨てがならなかった。さっきの原た泰三の電話の件があったからである。余は疑心暗鬼になっていた。あんなきれいな女性に男がいないわけがない。それが原た泰三なのではないだろうか。それは論理的帰結というわけではなく、なんとなく直感であった。コップの中の水が汚れていく論理であった。
(●´ー`●)安部「わたし、ご主人さまを不幸にしたくないんです」
安部は急にしおらしい顔になった。
余「じゃあ、彼女に男がいるということなのか」
すると安部はゆっくりと首を傾けた。余は躊躇していた。その名前を聞きたくなかった。それは余の心を鷲掴みにする鷹の爪ほどの威力がある。安部はその残虐な道具を手に入れているのだ。
余「誰なんだ」
(●´ー`●)安部「原た泰三です」
安部はおごそかに宣言した。地獄の番人が運命の扉をあけるよりも厳粛なものだった。
余の頭の中で除夜の鐘クラスの鐘がごーん、ごーんと鳴った。見も知らぬ外国の街角の広場に余は取り残されたような気がした。
余「でも、井川はるらさんは、余が男に会いに来たのかと言ったら、そうではないと言ったぞ」
するとこんなおもしろいことはないというように笑って
(●´ー`●)安部「男でも、女でも異性に持てたいとい気持ちはみんな同じですよ。ご主人さま。永遠にご主人さまにお仕えし続けるのはわたしたちだけ。ご主人さまの気を引こうと思って、あの女はうそをついたんですよ」
余「でも、証拠がないじゃないか。証拠が」
すると安部は背中のほうで両手を動かすと一枚の写真を取り出した。妖怪だからどんな魔法も使えるらしい。余はその写真が目の前に取り出されると両膝の力が急に抜けるような気がした。その写真の中で井川はるら嬢と原た泰三が微笑んで一緒に写っているではないか。安部は上目使いににたにたしている。
余「お、お、お、お前。た、た、確かに一緒に写真に写っていることはいるが、これでふたりが恋人であるとは結論出来ないじゃないか」
(●´ー`●)安部「ご主人さま、まだわたくしめの言うことが信用出来ないのでございますか。こちらへいらっしゃって」
余は安部につれられて滝壺のはじのほうに来た。そこに樹木の隙間があってそこから海岸のほうが見える。海岸には小さな喫茶店があり、オープンデッキのところに椅子やテーブルが出されていてお茶をすることが出来るようになっている。それは肉眼では見えない。余が海辺に行ったとき、それを確認したのだ。
(●´ー`●)安部「ほら、小さな人影が見えますね。これをご覧になってください」
安部はふたたび後ろのほうで両手をごちゃごちゃさせると今度は双眼鏡を取り出し、余に渡した。お前はどらえもんか。余はつぶやいた。無言で渡された双眼鏡を余は受け取るとそのパラソルの下にある人影に焦点を合わせた。すると丸いテーブルに向かい合って井川はるら嬢と原た泰三がうれしそうに談笑しているではないか。お互いに心を許しあっている。その話し方は恋人のそれである。余はそのまま双眼鏡を背後にある安部に渡すと今度は安部は看護婦のような顔をして余の片手の指をからんできた。その間中、余はあわわ、とか、あぅぅぅぅとか声にもならない声をもらしていた。
「遠くの親戚よりも近くの他人、額縁の中のごちそうよりも、テーブルの上のホットケーキ」
安部はまたわけのわからないことを言った。
(●´ー`●)安部「ご主人さま、こっちにいらして」
滝壺のはじのほうで木陰になっているベットくらいの表面が平らな大きなみどりいろ岩のあるほうに安部は余を誘った。余も滝の中にくろぶしまでつけて歩いていた。その岩はどんな自然現象か知らないがほぼ水平になっていて表面はベッドのように平らである。そのときはすでに安部のまいていたバスタオルはすっかりととれていて全裸になっていた。安部の片手にはバスタオルが握られていた。その岩のところに来ると安部はバスタオルをその表面にひいてみずから仰向けになってその上に寝そべった。しかしその動作をするときも安部の手は余の手を放さなかったので安部の重さで余も安部の上に覆い被さった。安部の裸体はその岩の上に完全に収まっていた。倒れた余の身体の頭部は安部の乳房の上に自然と落ち、余の顔は安部の乳房に接触した。すると安部の両手は余の頭部を押さえて無理矢理、余の口が安部の乳首を吸い付くように動かした。余は衝撃の事実を目にしたために自暴自棄になっていた。
(●´ー`●)安部「ご主人さま、ご主人さまー、ご主人さまぁー」
余は安部の身体が小刻みにふるえているのを感じた。行為をなしたあと余は自分の身体に変化がないか危ぶんだ。一方的に妖怪どもの性的アタックを拒否しているのも、道徳的な理由からではない。一般に言われている妖怪と性交渉をすると精気をすわれるのではないかと思ったからだ。明治の落語界に
変革をもたらした三遊亭園朝の怪談話し、ボタン灯籠などでも見込まれた男が幽界にひきずりこまれるという話しがあるではないか。自分の足を見ると確かに生えている。しかし余には精神的な満足は起こらなかった。行為のあとで安部は余に言った。「やりたくなったら、すぐにわたしを呼んでくださいね。ご主人さま、わたしはそのために存在しているんですから」「・・・・」
 井川はるら嬢のことが頭の中から離れなかった。宿の畳の上に寝転がって古びた杉で出来た杉で出来た天井板の木目を眺めていても井川はるら嬢の顔が木の板の前の方に浮かんでくる。しかし、しばらく観海寺を訪れようとするのはやめにしようかと思った。アルバイトの女の子が志保田の家の離れに伊藤若ちゅうの画があるというので見に行くことにする。この家は建て増しに建て増して創られているので平面的な広がりだけではなく、上下にも広がっていてまるで古ぼけた木造の建造物でなかったら千九百六十年代に建てられた現代建築のようで、見方を変えれば子供の遊ぶ大きな石段のような感じがする。しかし離れの隠居所だけは他の建物とつながっていないのですっきりした印象を余に与えた。いつも一輪差しの木瓜の花がかざられていて馥郁たる香りをその周囲数メートルにただよわせている。誰がいつも花を取り替えているのか、余は知らぬ。しかしいつも一晩明けると新しい花になっている。木瓜の花は一晩でしおれるに違いないから毎日代えるのだろう。その一番南側の玄関から花崗岩の置き石の上を伝って左に沿って曲がって行くとひいらぎを竹ではさんで作った垣ねがあり、その垣ねの途切れるところにしおり戸があって離れの隠居所につながっている。置き石で出来た路の横には菖蒲池があって中国の剣のような葉が真っ直ぐに上を向いて田んぼの中にたくさん生えているがまだ花は咲いていない。その離れの前に田んぼのような池があった。菖蒲池の前には雨戸が開けられていて障子が春の日のうららかな陽光を浴びている。余が見に行くと言ったから掃除がすませてあったらしい。「入りますよ」余がそう言っても返事がないのでたたきの上に履き物を脱いでそのまま上がりかまちの上から余は上がって畳みの上をふみしめる。玄関から上がるとそこは四畳半の部屋だった。右から障子を通して太陽の光が和室の中をぼんやりと照らしている。障子の中を通った光が行き場をなくして、天井に漆喰の壁に畳みに跳ね返ってその部屋の中で出口もみつからない永久運動をしている。さらに余は足をすすめて白地に牛車だとか、鼓だとか、扇だとかが有田焼きのような色で図が下から二十センチぐらいのところに描かれているふすまを開けると、玄関に接している部屋よりもその部屋のほうが明るかった。左手に絵がかかっている。右手には障子戸が、前方にも障子戸がある。明るいわけだ。四っに区切られたうちの二辺から採光されている。そこは縁側でつながっているので縁側からまわって障子戸を開けてその部屋に入れば良かったが玄関のほうから縁側に出ることは出来ない。床の間にあおに色の掛け軸が下げられていた。群魚貝甲図、伊藤若ちゅうの作に間違いはない。その鮮やかな色となまめかしい感覚におどろかされる。この絵の中で魚と貝が斜め下の方向を向いて並べられて描かれている。こんなひなびた温泉で高価な画に出会ったので驚いた。盗難のおそれはないのだろうかと余は危ぶんだ。ずいぶんと細かく描き込んである。余はツタンカーメンの棺がはるかエジプトから持ってこられて一般公開されたときのように顔を近づけてその部分部分を詳細に観察した。随分と細かい絹の下地の上に薄塗りで描かれている。これは驚きだ。余は画の技法について詳しいことは知らぬが、油絵と違って絵の具の重ね塗りということは日本画では出来ぬと思うのだがこれほど色がしっかりと出ているということは、まるで重ね塗りをしたようである。この絵の贋作は多いそうで、本物を似せようとして厚塗りの偽物を作るものもいるのだが、その厚塗りで偽物とばれるそうである。これは本の受け売りなのだが。つまり上等の絹の下地と絵の具を使っているということを意味している。そして古いのに今描かれたように色彩が鮮やかなのは高価な絵の具を使っているからである。伊藤若ちゅうはその制作費を全部ポケットマネーから出したそうだ。京都錦小路の青物問屋の嫡子でのちに商売を譲って動物や植物なんかを描いて一生を過ごすわけだ。かと言ってその生活は特別に貧乏だったというわけではないが華美だったというわけでもない。しかし世捨て人のような生活をしていたらしい。絵描きといのは不思議な人種である。芸術家というのは芸人である。なんやかやと言っても世の中の人間を楽しませ、愉快な気持ちにさせて、桃源に誘ったり、現世ではめったに味わえない異境の入り口に立たせたり、空を飛ぶ英雄や灼熱地獄の罪人の気分を味わわせたりするものである。それを味わった観客がその別乾坤の三文字の中でもう一つの人生を味わってまた現実世界に戻って気分を一新するものである。しかし、絵描きは芸をしない。誰に見せるかわからぬ絵を描くばかりである。完全なる自己満足。ゴッホを見ろ、ゴーギャンを見ろ。生きているときは絵も売れず不遇と貧窮のうちに死んでいった。
しかし、レオナルド・ダ・ヴィンチは描きかけの絵をいくらでも作って準貴族のような生活をしていたという人がいるかも知れない。材料費の何万倍もの作品を金持ちに売って、ダ・ヴィンチは詐欺師である。しかし歴史の中にはいくらでも詐欺師がいる。ピカソしかり、ルーベンスしかり。しかし、世の中には絵描きが好きだという人間がいる。その絵よりもである。卓越した詐欺師には卓越した戦略と巧妙きわまりない話術が必要だろう。それらの誘惑に乗ったものは信じられないような大枚を払って絵を購入する。金があまって仕方ないという人間に会ったことはないが地上を一瞬にしてまわることの出来る羽のついたサンダルをはいて探せばいくらでもいるのかも知れない。そう言った選民が何を買うか金の使い道に困ったとき、まず金の地金を買うだろう。しかし、それで金庫がいっぱいになったとき、つぎに土地を買うかも知れない。しかし王様でもないのだから占有する土地は制限されるだろう。つぎに人間でも買おうかと思っても人道上、それは許されない。工場で大量生産されたものを買っても意味がない。単価が安いから莫大な数のものを買わなければならないから。そこで地上で唯一無二で、多数決で価値ありとみなされているものに目がいく。それが絵画なのかも知れない。この那古井の宿はそんなお宝であふれている。菖蒲池に面した四枚の障子のまん中があいてあみ子ちゃんが顔を出した。
あみ子「あなたが画を見たいと言ったと聞いたから床の間にかけておいたんです。気に入りましたか」
余「大変、高そうな画ですね」
あみ子「同じものが京都の相国寺にあるといいます。でもうちの画の方がいい画だとおじいちゃんが言っていました」
余「こんな画がまだたくさんあるんですか」
あみ子「倉のほうにたくさんありますよ。なんなら、もっと見る」
余「遠慮しておきましょう。余は骨董屋でも美術評論家でもないですから」
あみ子「原た泰三さんはうちの倉に入っていろいろと見ましたよ」
余「原た泰三さんが。あの人は文学士でしょう。わけがわからないなあ」
あみ子「あなたは原た泰三さんが嫌いなようね」
余「そんなことはない」
あみ子「観海寺に泊まっている井川はるらさんと一緒にうちに来て、倉の中を見せてくれと言ったのよ」
余「井川はるらさんはなんと言っていたのですか」
あみ子「これだけのものがあれば売ったらだいぶお金になりますよと言っていました」
余「あみ子ちゃんの家ではこんなお宝を無造作に飾っておくのですかな」
余は多少不愉快な調子をこめて言った。
あみ子「なんでです。那古井の里ででうちのものを盗む人なんて一人もいませんよ。田舎の人ばっかりなんですから」
余「田舎の人こそあぶない。赤心を売り物にして、自分の腹の中には真心しか詰まっていませんというような顔をして人をだしぬくんですから。そんなことだから、くよう眼の十一個ある硯を盗まれたりするんですよ。それであなたは滝沢繁明くんと結婚できなくなっちゃったんじゃありませんか」
あみ子「じゃあ、那古井の人が盗んだというわけ。見つけて来てちょうだいよ。その人を見つけてきて」
余「余にそんなことを言われても」
余はなぜかうろたえていた。あみ子は縁側に腰掛けてまだ花の生えていない菖蒲池のほうを見ていた。そして急に振り向くと
あみ子「わたしこんなことをしている場合ではないわ。町に行かなければならないんです。そこに豆箪笥があるでしょう。その中に手鏡があるからとってちょうだい」
余はあみ子にそう言われたので床の間の横にあるくぬぎの木で出来た豆箪笥の引き出しを開けてみた。その中には大きな櫛と手鏡が入っている。引き出しの中にかくれんぼをしている子供のように寝ていた。
あみ子「手鏡だけではなく、櫛も入っているでしょう。それもこっちに貸してください」
あみ子は靴を履いたままだった。靴を履いたまま縁側に腰掛けて身体だけひねってこちらを見ている。それでいろいろと余に化粧道具をとってくれなどと言っているのだった。あみ子は縁側に腰掛けたまま、手鏡を左手に右には櫛を持って髪をとかしていた。無作為の誘惑、本人はその気はないのだが、あみ子にはその本能があるに違いない。髪をとかし終えると余にふたびその道具を返してそのまましおり戸を通って走り去るようにどこかに行ってしまった。余はふたたび出した手鏡を引き出しの中にしまおうと思ったが、なんの関係もない男の前で化粧をするあみ子の精神状態はどんなものかと思った。いな、あみ子の精神状態ではなく、余との関わりである。あみ子とともに湯船にもつかった。海でつりもした。このままで行けばあみ子は厠に入っていて紙がないので戸をあけて手を差し出し、紙がないのとか言って余に紙を持って来させるかも知れない。危ない。危ない。手鏡をとって自分の顔を映してみる。そこにはひとり桃源に遊ぶ遊山の詩人のかげはなく、画の前に立つ鑑賞者が画中の人になっている。
 独り、ゆうこうの内に座し
 琴を弾じてまた長唱す
 深林、人知らず
 明月来たりて相照らす
などと竹林の賢人をきどってうそぶいてみても生活に疲れ、井川はるら嬢に心乱されている匹夫野人のすがたがある。危ない。危ない。余は現実世界に引き戻された。女がつりをするという。女だてらに釣りをするという。個人は自由であるという。趣味嗜好はおのがじし勝手に追求するべしという。世に同好会というものがある。下着収集同好会、女子トイレ研究会、使用済み口紅収集会。欲望にしたがえばいくらでも同好会ののぼりは立てられる。世の人に人人具足の趣味があり、その欲望を成就する方法も万策ある。その算法によればその形態は無尽ごうとなる。諧謔文学のたねはつきない。文明はあらゆるかぎりの手段をつくして、個性を発達せしめたるのち、あらゆるかぎりの方法によってこの個性を踏みつけようとする。一人前何坪何合かの地面を与えて、この地面のうちでは寝るとも起きるとも勝手にせよというのが現今の文明である。何坪何合のうちで自由をほしいままにしたものが、この鉄柵外にも自由を欲しくなるのは自然の勢いである。憐れむべき文明の国民は日夜この鉄柵にかみついて咆哮している。文明は個人に自由を与えて虎のごとくたけからしめたるあと、これを陥穽の内に投げ込んで、天下の平和を維持しつつある。この平和は真の平和ではない。動物園の虎が見物人をにらめて、寝ころんでいると同様な平和である。檻の鉄棒が一本でもぬけたらー世はめちゃくちゃになる。第二のフランス革命はこの時に起こるのであろう。個人の革命は今すでに日夜に起こりつつある。北欧の詩人イプセンはこの革命の起こるべき状態についてつぶさにその例証を吾人に与えた。世はあみ子の猛烈に、見境なく、川釣りでも海釣りでも、なんでも手を出し、異性に注意を払わないぞんざいぶりと、世のまわりにはりめぐらせている堕落への道への陥穽を比較して、ーあぶない、あぶない。気をつけねばあぶないと思う。現代の文明はこのあぶないで鼻をつかれるぐらい充満している。おさきまっくらに盲動するあみ子はあぶない標本の一つである。
あみ子のことはひとまずおいておこう。
世はふたたび鏡を見てみる。顎のあたり、頬のあたり、耳たぶから下がって頬の裏側のあたりにぽつぽつと胡麻のおはぎのように無精髭が生えている。はなはだ見苦しい。こんな顔をしてあみ子と対面していたのだろうか。余は髭を剃ろうと思った。そして余の気に入ったひげそりをさがした。
ちょうどいつも使っているひげそりの刃がなくなっているのを知り、アルバイトの女の子に近所でそのひげそりの刃が買えるのか聞くと、隣町の雑貨屋でなければ置いていないという話しだった。余はその目的のために列車に乗ることにした。あの民芸品のような駅に行くと駅員がひとりしかいない。そのひとりの駅員が切符の販売から、駅の掃除、列車の到着の準備からなにからなにまでやっている。十分ごとに列車が到着したらこんなことは出来ない。一時間に一本も列車はとまらない。ひなびたこの温泉の町では住民は普段の昼には列車などには乗らないのだろう。余は松ヤニのような色をした切符売り場で一番安い切符を買った。大理石の上に小銭を投げ出すと厚紙で出来た切符を駅員は渡した。余はその切符を握りしめた。この古びた駅舎の天井は高い。その上、上のほうはすすでよごれていて光も少なくってどうなっているのかよくわからない。駅の待合室は古びた温泉に似つかわしくなく広い。駅の待合室には噴水のようなものが置いてあり、引いてきた温泉がさきの方から上に向かってちょろちょろと吹き出している。それはタイル張りで作られていて青や赤や白いタイルが張られている。そこにアルマイトのコップが金くさりでつながれてついていて誰でも自由に飲めるようになっている。胃腸病に利くようだ。列車を利用する人間の中には毎日利用する人間もいるそうだ。これで胃潰瘍が完治したと言っている人間に会ったこともある。そして駅の隅に高砂のじいさん、ばあさんをかたどった木彫りの像が鎮座ましましている。ばあさんは熊手を持っている。じいさんの表情もばあさんの表情も柔らかだった。余がこんな彫り物を見たのは七五三の千歳飴の袋だけだったが、桜の木を彫って作ってあるのでメープルソースのような色をしている。じいさんの像の頭の上もばあさんの像の頭の上も物理的に柔らかいものでこすられて摩耗していて何十分の一ミリか摩耗している。彼らの身長はほんのちょっとだけ低くなっている。しかしそれは大事なことではない。一部だけ削られてしまっているからバランスが崩れているのだ。しかしそこにある偉力を感ずるのは多くの人がその頭をさわったという時間の堆積を感得するからにほかならない。そのふたつの像の背後には野球場の観客ぐらいの数の人間が目には見えないが並んでいるというわけだ。うしろには横が二メートル、高さが一メートルぐらいのホーローびきの大きな看板があって山紫水明のこの地の絵地図が載っている。個々の場所の名所の建物や湖が大きく拡大されて描かれていてその間を風呂屋の看板のペンキ画のような杉や檜の木の路が現実よりもはるかに短く描かれている。ここにある駅もその看板の中にある。駅の画が描かれている。ふなの解剖図のように駅の内部が見える。駅の中にはこの高砂もある。高砂の愛称は願かけの高砂と云うそうである。一度別れた恋人もこの高砂の頭をなでればよりが戻るそうだ。案の定それで多くの若者がその頭をなでたのだろう。男が別れた女とのよりを戻したいときは婆のほうの頭をなでるのである。女が別れた男との再びの再会を願うときは爺の頭をなでるのである。この話しを聞いて本当ならあみ子と滝沢のことが思い浮かぶはずであるのに、余は井川はるら嬢の姿を思い浮かべてしまった。余と同じ感情を抱いてこの翁像の前に立つ旅人の姿が偲ばれた。駅の待合室には老人がふたり座って気楽な世間話をしている。
「今年の松茸はよくとれるみたいだよ」
「ちょうどいいぐらいに雨が降ったからなあ」「去年はざるに五杯もとったが、今年は七杯ぐらいいくかも知れない」
「みんな大きいのか」
「そうだよ」
「去年は京都の料理屋がわざわざ来て全部買い付けてくれたさ」
「それでその金は何に使ったのさ」
「ほら、これ、この懐中時計を買ったのさ」
「ほら、見せてくれ」
「いいなあ」
「いいさ」
ふたりの老人は余の恋いの悩みなど知らずに気楽に自慢の懐中時計を見せあっている。
 この温泉町の駅舎の天井から突然歌が聞こえた。駅舎の天井はどこまでも高く、そのはじが見えないような気がした。その見えないところから歌が聞こえてくるような気がする。歌が降りてくるような気がする。その見えない場所にスピーカーでもあるのだろうか。春なのにまだ少し寒い山間の空気をふるわせる。
 草津よいとこ一度はおいで、どっこいしょ。お湯の中にもこーりゃ、花が咲くよ。ちょいな。ちょいな。
山間の川をいかだに乗ったそま人がいかだをあやつる手際もあざやかに下って行く。
お医者さまでも草津の湯でも、どっこいしょ。恋いの病は、ほりゃ、なおりゃあせぬよ。ちょいなちょいな。
 余には確かに春にふる雨の銀せんのように、なんとも感慨深い響きのある美しい声がはるか遠くに嬰児のときに聞いた子守歌のように聞こえていたのである。
余はホームのほうに上がる。ホームの両側に列車が逆方向で停まるようになっている。そこに意外な人がいた。井川はるら嬢がすっくりとホームのなかほどに立っていたのである。井川はるら嬢のその背後には左のほうにバケツをふせたような峰がそびえている。杉か檜かわからぬが根元から頂きまでことごとく青黒いなかに、山桜が薄赤くだんだらにたなびいて、つぎめがしかと見えぬくらい靄が濃い。少し手前に禿げ山が一つ、群をぬきんでて眉に迫る。はげた側面は巨人の斧で削り取ったか、鋭き平面を作ってまた下へ行くと杉かけやきがはえていてその下には清流が流れている。天辺に一本見えるのは赤松だろう。とびがそのあたりを春雨を切りながら縦横に飛んでいる。原た泰三の恋人かも知れない女、井川はるら嬢はそのその景色を背景に立っている。まことに画にもなり、詩にもなる風情であった。しかし井川はるら嬢は余とは逆方向のホームに立っていた。
井川はるら「毎日、観海寺に来ていらっしゃったのに、昨日はいらっしゃらなかったのでどうしたのかなと思って心配していたんですよ」
余「いいえ、ありがとうございます」
井川はるら「どちらへ行かれるんですか」
余「ひげそりを買いに行こうと思いまして」
そのうち余の乗る列車が向こうのほうから低くレールを鳴らしてやって来た。点と見えたものが余の油断を見透かすように大きくなって余の視界のすべてを占有する。みやげもの屋で売っている竹で出来たへびのおもちゃのようだった。余はそれに飛び乗った。余の内心は複雑な思いがあった。列車の扉がしまるときに余が
余「あなたは意外とプレーガールなんですね」
と言うと井川はるら嬢は変な顔をした。
余はそのとき知らなかったのだが駅の物陰で安部と紺野さんが
(●´ー`●)安部「プレーガール、キュッ、キュッ」
川o・-・)紺野「プレーガール、キュッ、キュッ」
つぶやいていたことを知らなかった。
あのミジンコ以下の知能の持ち主の新垣までもが同じ文言を口にしていた。
 余が目を覚ますと枕のほうには坂井抱一の屏風が立てかけてある。萩と月が題材になっている。屏風の仲から鈴虫の鳴き声が聞こえるような気がする。余に涼やかな気分になってもらおうとして屏風を引っ張り出して来たのであろうか。
ふとんの両側を見ると妖怪(●´ー`●)安部も妖怪川o・-・)紺野さんもいなかった。三匹の妖怪たちと余はついに契約をかわした。妖怪たちの話しによると、余をご主人様とあがめたたえて三匹の妖怪たちは余のしもべとして永久に余に奉仕をするという契約だった。しかし妖怪が永久の命を持ち、余が凡なる人間であるかぎり、その契約は途中でうち切られるだろう。しかし妖怪たちはなんの不服もなく、その契約書にサインをすることはある条件を余が許諾すればいいと言った。(●´ー`●)安部に関して言えば
(●´ー`●)安部「ご主人さま、わたしはご主人様に永久にお仕え申し上げます。しかし、その契約書をかわす前にあなたのしもべの願いを一つだけ聞いていただけますでしょうか。私に預金通帳を作ってください」
妖怪の話しによると妖怪は銀行に行っても預金通帳を作れないそうである。それはそうだろうそもそも住民台帳がないのだから。(●´ー`●)安部には余の名義で預金通帳を作ることを確約した。川o・-・)紺野さんに関して言えば
川o・-・)紺野さん「ご主人さま、わたしは命よりも大切にしているものがございます」
余には紺野さんの考えていることがわかった。瞳の仲にその答えが書いてあり、それを読めるような気がした。妖怪紺野さんのうしろには大きな水槽が置いてあり、その中には七十センチもある金魚が悠々と泳いでいる。それはいつものことで、紺野さんのいるところにこの金魚はいて、この金魚のいるところに紺野さんはいる。余には金魚が七十センチもの大きさになるということが驚異だったが。それを天上にあるりんろうや無上のほうろのように大切にしている紺野さんの理由がわからなかった。
余「そのばかみたいに大きな金魚だろう」
紺野さんはばかみたいと言われて少し立腹して頬をふくらませた。
川o・-・)紺野さん「ご主人さまにはそうでございます。この金魚は命よりも大切なもの、いつもしもべめのそばに置いておき、掃除をすることをお許しください」
余「いいだろう。しもべよ。でもなぜ、その金魚を大切にするのだ。余にそのわけを教えてくれないか」
すると紺野さんは今さっきまで飲みかけの牛乳のコップがテーブルを離れたすきになくなった人のようにうろたえた。
川o・-・)紺野さん「ご主人さま、ご主人さまのお望みでもそれだけは言うことが出来ません」
余「まあ、いいだろう。それで妖怪(ё)新垣はどんな条件があるのだ」
余がそう聞いても(ё)新垣に思考力はなかった。ただ、(ё)ニイ、ニイと繰り返すのみでそもそも契約書の概念がなかった。妖怪はもちろんサインは出来ないし、はんこも持っていなかったから余は(ё)新垣の手を出してボインを押させようとするとそれはザリガニの手だった。ザリガニの手に朱肉を塗って契約書にはんこを押させてもその紙にはロールシャッハテストの図形のようなものが変な形で残っただけだった。そのうえぶつぶつのついたかたいからで覆われているはさみだったから契約書の紙は変なようにくしゃくしゃになって一部に穴があいた。世の良識ある人から見れば妖怪なんかとなぜ契約書をまじわせたのだと言う人がいるかも知れない。きっとたたりがあるぞと言うだろう。しかし向こうのほうが乗り気だったのだ。契約書の内容も永久に余をご主人さまとして妖怪たちはしもべとしてつかえるということだけだったのでなんの問題もないと思っていた。それに余はなぜ余の前に妖怪たちが表れたのかも解明できない。なによりも井川はるら嬢のことで余は自暴自棄になっていたからだ。(●´ー`●)安部は余にセックスを供与してくれた。この温泉地でまじわせた契約によって妖怪たちは余が泊まっている部屋で寝ることになった。余はあみ子に相撲とりが使っているような巨大なふとんを貸してくれるように要求した。あみ子は大きなふとんを持って来た。夜はその大きなふとんの中央に余が寝てその両隣に(●´ー`●)安部と川o・-・)紺野さんが寝た。(ё)新垣はふとんの中に寝ず、床の間の柱にその鋭い歯でかみつくとまるで五月の風になびく鯉のぼりのように空中で水平になったまま睡眠をとったのである。(ё)新垣が寝ていることはそのまぶたが閉じられていることから明らかだった。カメレオンが半眼を閉じて枝にその奇妙なかたちをしている手をからませて周囲にえさのないことを確認して安心して寝ている姿に似ている。もちろん餌が来れば本能で目を覚ましてその異状に長い舌で餌を絡め取って口の中に入れてしまうのだ。妖怪も夜、寝るのである。世はそのことを知った。妖怪がここにいることはもちろん誰にも秘密だった。夜ふとんに入るたびに(●´ー`●)安部は余の身体をまさぐってきた。そのやりかたも少し変わっていた。三人、いや、一人と二匹が寝ている巨大なふとんの枕元には行灯のようなかたちをしているライトが置かれている。六十ワットと三ワットの電球がその四角い傘の中に入っていてひもを引っ張るとそれらの電球の点灯が切り替わってかすかな明かりがふとんの枕元を照らすだけの明るさにすることもできる。余の寝ている部屋はあみ子がいつもは使っている部屋だった。この部屋には雪見障子がついていてその外には縁側があり、外は庭になっている。庭にはいろいろな庭木がはえていて、ジンチョウゲの香りが障子を締め切ってもこの部屋に入ってくるようだった。その庭に咲く白い花が月光をあびて輝く。その花の明るさぐらいの光をこの行灯は発していて余の横に寝ている(●´ー`●)安部の頭を浮かび上がらせている。ひとつのふとんに三つ並べられた枕の中で(●´ー`●)の頭はその自重でまくらをへこませている。(●´ー`●)安部の顔は向こうを向いている。顔は向こうを向いたままで安部の上を向いている片手は余の身体をまさぐってくる。腹から太ももから蛇が感覚器で周囲を認識するように余の身体をさすってくる。そして目的のものに巡り会ったときクリームパンのような手の平に力を入れて余の身体の中心を確保すると今度は顔をこちらのほうに向けて身体をくるりと反転させてにやにやと笑うと唇を余の唇に重ねるのだった。つねに(●´ー`●)安部のほうから仕掛けてきた。しかし余はつねに妖怪の性的アタックを受けていたのかというとそうではない。夜中に目を覚まして(●´ー`●)安部とごそごそしているあいだ、川o・-・)紺野さんはすやすやと向こうを向いて寝ていた。余は小学生が使うゴムボールほどの大きさの川o・-・)紺野さんの頭をみると欲望がうずうずとうずいて来た。(●´ー`●)安部は小声で余の耳元にささやくようにやっちゃいなさい、と言った。余は川o・-・)紺野さんの両耳を両手で押さえるとその冷たい髪の感触のする後頭部に唇をおしつけた。紺野さんは急に目を覚ました。
川o・-・)紺野「ご主人さま、なにをなさるんですか。やめてください」
余「余と契約をまじわしたではないか。しもべよ」
川o・-・)紺野「やめて、やめて」
川o・-・)紺野さんは余から逃げようとして身体を魚のようにくねらせた。しかし余はがっちりと紺野さんの後頭部をつかんでいる。余は川o・-・)紺野さんの後頭部にさらに唇をおしつけた。川o・-・)紺野さんの冷たい黒髪が余の口の中に入る。髪の向こうに川o・-・)紺野さんの頭皮が直接余の唇に触れる。余は思い切り息を吸うと川o・-・)紺野さんの頭蓋骨と頭皮の間に間隙が出来る。
「ご主人さま、ご主人さま、ご主人さまぁ」
「紺野さん、紺野さん、紺野さあーん」
余は紺野さんに対しては人間吸引機と化していた。その間、新垣は空中を浮遊するはえを待っていて、それらしい音がするとライオンがあくびをするように目を一度だけしばたかせて、首を歌舞伎役者がやるように大見得を切ってぐるりと回した。
 その紺野さんが余が起きるとたたみのところで正座している。その横には(●´ー`●)安部も(ё)新垣もそれぞれの仕方で座っていた。
川o・-・)紺野「ご主人さまのかばんの中を見たらこんなものが入っていたんです」
川o・-・)紺野さんの横には口の開けられた余のかばんが置かれている。そこから川o・-・)紺野さんは白い絹製のものを取り出した。
余「それは」
余はくちゃくちゃになったふとんの上で土俵の上で投げ飛ばされて尻餅をついてあたりを眺めている相撲取りのように紺野さんのもっている白い衣料をみつめると紺野さんはそれを広げた。
川o・-・)紺野「名前が書いてあります」
それは女物のパンティだった。パンティには花文字で名前が刺繍してある。
川o・-・)紺野「あみ子」
紺野さんがつぶやいた。
余「そんなものがなんで余のかばんの中に入っているのだ。余はそんなものを見たこともない」
川o・-・)紺野「ご主人さま、わたし、それを持ち主に返しに行きます」
余「やめろ。なんでそんなことをしようとする」
川o・-・)紺野さんの話し方にはなんの悪意もなく、全くの善意から出ているようだったが、その結果はまったく違う。
余「やめて、やめてください。余はそちらのご主人さまだろう。そんなことをしたら余はあみ子ちゃんにどう思われてしまうかわからないじゃないか」
(●´ー`●)安部「そうだ、そうだわ。わたしが誰にも見つからないようにお風呂のたき付けにして燃やしてあげる。でも、ご主人さま、わたしたちにも条件があります」
(ё)新垣「ニイ、ニイ」
新垣までも口をそろえた。
(●´ー`●)安部「今日から私たちもご主人さまの親族として朝げ、夕げ、そしてお昼の食卓には一緒につけるようにしてもらいたいんです」
余「なんで」
(●´ー`●)安部「だって、ご主人さまと一緒にごはんを食べたいんだもん」
川o・-・)紺野「一緒に外で散歩もしたいし」
(ё)新垣「ニイ、ニイ」
そこで余は妖怪たちの申し出を受けることにした。余が志保田のものに親戚の女の子が三人訪ねて来たのでそのようにしてくれと頼むと、こころよく返事をした。その夜の食事は余のほかに三人のモンモン娘もともにとることになった。食事をとる人数が多いので土間になっている台所からまかない部屋が続いていて、まかない部屋にはこの家の紋の入った昔からの椀や銚子や据え膳が棚の中に整然と収納されているのだが、そこから少しだけ段が高くなっていてそこに八畳くらい畳敷きの部屋がある。そこで志保田の家族は食事をしているのだが、余やモンモン娘たちも飯を食べることになった。その部屋に入ると鏡のようにつるつるした床の間に五葉松の大きな盆栽が置かれている。殷や周の時代の青銅器のように古色蒼然とした鉢に植木は植えられている。色だけではない。形も少し変わっている。それがこぶが変な具合に出来ていて鉢とうまい具合につり合いがとれていて、一たす一が三や四になったように大昔の武人が床の間に立っているようだった。部屋の横はまかない部屋につながっていて、床の間の正面には廊下があって廊下の前には梅の古木のある日本庭園になっている。部屋の中には大きな紫檀の卓が置かれている。かもいには中国の桂林あたりの風景の透かし彫りがなされているが時代がかっていて木の木目の色が渋く染まっている。それぞれのものがそれぞれの場所に理由があって置かれているのだが合成樹脂の外装のテレビ受像器だけが異質な感じを与える。ただの真っ黒だったら、安物ぽく見えるのだが、黒の中に微妙に小豆色が加わっていて、暗いところではまるっきりの黒だが、少し日向に出ると小豆色が表に出てくる。それがこのどこにでもあるようなテレビ受像機に少し重みをもたせている。二十二インチのそれが五葉松の床の間の横の部屋の隅に置かれていた。余やモンモン娘たちがその部屋に入って行くと老人とあみ子はもう座って待っていた。
余「これが余が話していた親戚たちの女です」
(●´ー`●)安部「夏目なつみといいます」
川o・-・)紺野「夏目あさみといいます」
(ё)新垣「ニイガキ、ニイニイ」
(●´ー`●)安部が横で夏目りさと言っていると言った。
一人だけがわけのわからない言葉を発した。
あみ子「こっちに座って」
あみ子と老人の向かい側に四つのうぐいす色に金地のはいった座布団が並べられていて余はその座布団の上に腰をおろした。卓の上にはそれぞれの茶碗が伏せられている。牡蛎のフライがキャベツの千切りの横に五、六個置いてあり、別の小皿にはポテトフライが山盛りに載せられている。それらの皿を結ぶところにソースの容器がある。卓を傷つけることをおそれたのか、白いレースのクロスがしかれている。余は妖怪も飯を食うことを最近、知ったからそのことをあまり驚かなかった。
余「遠慮なく、いただきます」
余がそう言う前に妖怪たちはすでにはしを手に持って食事をはじめている。新垣の前には老人が座っている。両方の耳の横が髪を束ねて編まずにおろしている髪型をしているこの妖怪の顔を老人はじっと見つめた。
老人「お嬢ちゃん。出身、どこ、南方」
(ё)新垣「ニイ、ニイ」
老人「おいなりさん、好き」
(ё)新垣「ニイ、ニイ」
老人「おじいちゃんもおいなりさん、好き。おいなりさん、作れば良かったのにね」
(ё)新垣「ニイ、ニイ、ニイ」
老人「うちのあみ子が鮎釣り場で妖怪におそわれたんだって、身長が十五センチしかなかったんだってさ。お嬢ちゃん、身長何センチ、お嬢ちゃんじゃないよね。お嬢ちゃん、大きいもんね」
(ё)新垣「ニイ、ニイ」
老人「歯を見せてご覧」
(ё)新垣「ニイ、ニイ」
老人「おっ、おっ、立派な歯だ。立派、立派。おじいちゃんがあとで鰹節あげよう」
(ё)新垣「ニイ、ニイ、ニイ」
余が牡蛎フライを三個目食い終わった時点で川o・-・)紺野さんはもうご飯を三杯目のお変わりをしていた。床の間の五葉松は立派なものだった。本物の何百分の一かの大きさでそれ本来の大きさをあらわしているのだから素晴らしい。松は海岸に多く植える。風が吹いてもそれに身をまかせて変な具合にねじれて立っている。舞台でもねじれた松の画を立てるだけでそこが海岸になる。松が海辺か、海辺が松か、あれだけで大きな海辺を一人でもっている。だいたい葉が針のように細い。一つの細い枝に葉が五つついている。画を描くときも便利だ。そして地面に根を広く張っている。松というのはどこにでもある。余の通っていた小学校の裏庭にもあった。くぬぎやどんぐりの生えている雑木林の中で木の空いている場所があり、そこに一本だけ生えていた。きっと誰かがわざわざ植えたものではないだろう。松ぼっくりが大きくなっていって、ある日、天候のかげんか何かで傘がぱっと開いて、風に飛ばされて羽のついているたねが遠くに飛ばされてそこをすみかとして大きくなっていくのだろう。人間いたるところに青山あり、という名文句がある。大望を抱いてどこででも骨を埋めよという意味だが、その句だけでは人のいる場所にはどこにでも墓場がある。つまり戦争があった場所だととる人もいるかも知れない。肯定的に見れば旅立つ人を励ます文句だが、大きな歴史に翻弄される人間の姿をあらわしていると言えないこともない。蘇東坡もまたへんぺんとした浮き世に身をまかせた詩人だった。大きな運命だけではない、風にもまれる羽のようにと、恋いの歌を歌った歌もあった。
余「立派な盆栽ですね」
あみ子「いつもは日のあたる廊下に出し放しで全然、世話をしていないんです。みんなでご飯を食べるからって床の間に何もないのも寂しいでしょう。それで床の間に飾っているんです」
老人「わしはいつも世話をしているよ」
遠くで話しを聞いていた老人が答えた。
あみ子「夜のニュースを聞くのを忘れていた」
あみ子は畳の上に投げ出しているリモコンをとるとこの部屋に似つかわしくないテレビ受像機のスイッチを入れた。余はこの山間の別世界に入れられてからせわしく、自動車が排気ガスをまきちらしながら人のあいだをぬって走り、それを追う交通巡査が警笛を鳴らし、一つでも多くの品物を売ろうとする商人が声を張り上げて客をよびとめて、客がメニューと出て来たものが違うとウエートレスに文句を言い、誰と誰が仲が良いかと芸能記者がしっこく追い回し、それを毎日、テレビで流し、いろいろな事件の責任のなすり合い、選挙演説、人間界のせわしく、身の置き所もない、競争や、雑音をしばらく忘れていた。テレビのスイッチが入ると相変わらずの進歩のない、日々、余が下界にいたときはその中にどっぷりとつかっている人間生存のための雑音が流れて来た。
あみ子「東北で鮎釣りが解禁されたんですって。那古井ではもう解禁されているのに、やはり寒いほうは遅れるのね」
テレビの画像には釣りの格好をした人間たちが川に降りたっている姿が映っている。あみ子は牡蛎フライをはしで口のところに持って行きながらその画面を見ていた。それからアナウンサーがまた出て来て中国の奥地の農村の沼で大きなナマズがとれたというニュースが流れた。紺野さんはそのニュースをじっと見つめている。紺野さんは三杯目のご飯を食べ終わるところだった。その農村の風景はかすみにもやった奇岩に囲まれた仙郷だった。その仙郷を同じような場所から電波を通して眺めているというのはおもしろい。水墨画で日本の画家が奇妙な場所を描いているが、本土には実際にそのような場所があったのである。風景画などを見て表現のためにゆがめて描いているなどという印象を受けたりするが実際にはその画家の住んでいる場所にはそういう場所があるのである。その点ではもし南極や北極で生まれ育った人間が画家になったらどんな画を描くのだろうか。生まれつきオーロラを独自の視点で描く画家も出てくるかも知れない。伊藤じゃくちゅうは象を描かなかった。その理由というのも象を見たことがなかったからだ。しかし、象自身は徳川綱吉か、吉宗の時代にすでに来ている。もっと前にインド象が来ているだろう。
余「伊藤じゃくちゅうの群魚貝甲図を見せてもらいました。素晴らしいものですね」
老人「あれは相国寺にあるものより素晴らしい出来映えです」
余「若ちゅうの水墨画もあるのですか」
老人「あります」
余「精緻な筆遣いで描かれているのですか」
余は若ちゅうと水墨画とは結びつかなかった。
老人「それがおおまかな筆使いで描かれているんですな。筆の遊びのようなことを使っている」
またアナウンサーが出て来て今度は違うニュースを取り上げた。滋賀県の古い寺の古文書が発見されたといニュースだった。それは安土桃山時代の武将に関したものだった。それを発見して分析した学者の説によると、忠君と呼ばれていた武将が実は敵方に内通していて自分の主君を毒殺したということだった。それだけではなく、自分の支配地の農民も随分と残虐なやりかたで殺しているということがあきらかになった。と言っている。余が学生時代に習ったときにはその武将は大変尊敬すべき人間ということになっていた。それである小説家が新聞小説でそのように描いていて一般の印象もそういうことになっている。しかし、事実はその逆でそのほうが真実だと学者は断言しているし、それに異論を唱えているものもいない。
老人「だいぶ、価値をさげたね」
川o・-・)紺野「今まで偉いと思われていた人が悪人だったということですか」
あみ子「でも、そういうことって、よくあるじゃない。おじいさんはよく、知っているだろうけど」
老人「悪人というわけでもないけど、前後で評価が下がったのは乃木将軍だろうな」
あみ子「そのかわり、東郷平八郎の評価がさらに上がったのね」
(●´ー`●)安部「歴史の時間に教科書なんかに出て来る人の子孫ってどんな気持ちなのかしら」
川o・-・)紺野「教科書に出てくるって、いい意味でも悪い意味でもですか」
(●´ー`●)安部「もちろんよ」
老人「立派な人だと認められている人の子孫はいいだろうが、悪い評価の人の場合は大変だと思うわ。たとえば吉良上野介なんかは子孫だけでもなく、その土地の人までもが本当は吉良上野介は立派な領主だったとか、運動をしているという話しじゃ」
川o・-・)紺野「お札に顔が載っている人の子孫なんてどんな思いで生きているのかしら」
あみ子「お札に載っている人はいいわよ。いい印象しか与えられていないから。わたしなんてみんなに何を言われているか、わからないんだから」
(ё)新垣「ニイ、ニイ」
川o・-・)紺野「でも、そんな人だって、その評価は絶対というわけではないんでしょう。太平洋戦争の前は持ち上げられてお札になっていた人の評価が一変したこともあったのではないかしら」
老人「そういうこともある」
(ё)新垣「ニイ、ニイ」
テレビのニュースが茶の間の話題を提供してくれた。話題の提供というよりもこの茶の間に物議をかもした。余は始終黙っていた。余のじいさんもお札に顔が載っている。余の隣に座っている(●´ー`●)安部は余が黙っている顔を見ていつものニタニタ笑いをしている。(●´ー`●)安部はなにかを知っているのかも知れない。次の日、楠雅儀が落ち延びてひそんでいたという洞窟を見に行くことにする。麓から見ると断崖絶壁にあり、中世の琵琶法師が命がけで登ったようなところだと思っていたが、そこに行く利便な路が開かれているそうだ。ばあさんの茶屋では木に隠れて円空の彫った険しい岩の切りあとしか見えなかったが、二百メートル下から普段着でも上がっていける路があるそうだ。余が老人から聞いてその路の入り口に行くと羅生門を小さくしたような門が建っている。余はその門の下をくぐった。両側には山間部に生えている樹木が茂っている。路そのものは岩を彫って登りやすい。路のすべてではないがところどころに朽ちているが平安時代の裏小路のような屋根がついている。そこを歩いていくと桂木門になった、路はちょうど中間ぐらいだろう。そこをくぐると一気に視界が広がった。路の左側は落ちて行かないように鉄の鎖が張られているがその鎖を張っている鉄の棒が途中で抜けでもしたら大変なことだろう。下で見たときのように崖になっていたのだ。酔狂な物見遊山でもここまでは上がって来ないようだった。大きな木がいっぱい視界より下のところに生えていて木のてっぺんがたくさん並んでいてこんもりした緑の毛糸で出来た小山のように見える。はるか下に清流が見える。ぽつんぽつんと藁葺きの農家の屋根が見える。庭にはなにかわからないが農作業の道具らしいものが置いてある。やがて楠雅儀があみ子ちゃんの先祖と結ばれたという洞窟の入り口に来た。ここが志保田の家のルーツである。洞窟の両側は茂みになっていて茂みの向こうには空に浮かんでいる雲が見えるその下のあたりにはたにしの集団のような山に植林された木が見える。山の方に向けられた視線をもとに戻す。さらに洞窟の入り口に近寄る。中に誰かいるようだ。余はまたどきりとした。入り口のかげに隠れて中のほうを見るとふたりの人影がある。二つの人影は奧の方でかがんでつづらのようなものをさかんに調べている。そしてふたりはこしかけてこちらを向いた。その顔を見て驚いた。井川はるら嬢と原た泰三ではないか。
洞窟の中はうまい具合に外からの光が入るようになっているのでそのことがわかった。余は中に入るべきかどうか躊躇した。
(●´ー`●)安部「ご主人さまー」
川o・-・)紺野「ご主人さまー」
(ё)新垣「ニイ、ニイ、ニイ、ニイー」
坂道を上がってくる三匹の姿があった。
(●´ー`●)安部「ご主人さま、なんで、どこへ行くとも言わないで行ってしまうんですもの」
川o・-・)紺野「ご主人さま、洞窟の中でなぜ立ち止まっているんですか。この中に入りたいんじゃないの」
(ё)新垣「ニイ、ニイ、ニイ」
余「うるさい。黙ってろ。静かにしろ」
余はまた洞窟の中をうかがった。三匹も余のうしろから洞窟の中を盗み見る。
(●´ー`●)安部「なるほどね」
川o・-・)紺野「なにが、なるほどなんですか」
(ё)新垣「ニイ、ニイ」
(●´ー`●)安部「ご主人さまはまだ、あんなくわせものに未練があるんだ。私たちというものがありながら」
余「うるさい。妖怪の分際で」
(●´ー`●)安部「もう、あの女は原た泰三の女だということはあきらかじゃないですか」
(●´ー`●)安部は孔雀の羽で出来たうちわを取り出して自分の方に涼やかな風を送った。余は頭をかきむしった。しかし、なぜ余がこの洞窟に来たことを知っていたのだろう。余に一つの疑問が生じた。三匹が妖怪だということを忘れていた。こんなことは簡単なはずだ。余の居場所を知ることなど。
余「しかし、なぜ、余がこの洞窟に来たことを知っているのだ」
(●´ー`●)安部「愛よ。愛の力よ。私たちのご主人さまですもの。当たり前じゃないですか」
川o・-・)紺野「これです」
川o・-・)紺野さんは自分のポケットから携帯電話を取り出すとボタンを操作した。突然、余のシャツの胸ポケットの中のものが鳴り出した。余はそこに電源を入れたまま携帯電話を入れておいたことを忘れていた。
川o・-・)紺野「今度、新しく出来た機種でこっちで電話をかけると相手のいる場所までわかるんです。最新式のGPSというわけね。もちろん人工衛星の下にいなければわからないんです」
妖怪たちも携帯電話を持っていたのか、余は自分の不覚を恥じた。と同時にしぼんだ粟粒が消えてまた別の場所から粟粒生じるようにある考えがひらめいた。大正時代の軍艦の設計者で足立政則という人間がいる。砲弾を自動的に装てんする装置を開発して功があった。その息子で足立愛田という映画監督がいる。その監督の作った「お墓に立てたマイホーム」という昔見た映画のことを思い出した。いかがわしい場所にお墓がたくさんあり、それらのお墓はみんな無縁仏だった。その土地の所有者が死んでその土地を譲られることになった主人公はある住宅土地会社にマイホームを建ててもらうことにする。しかし、どんな理由からかは覚えていないのだがその土地をその会社はどうしても欲しくてマイホームを建てながらその家にいろいろな細工をしようとする。家が建ってから住人がその家の不思議珍妙さに嫌気がさして家を手放すのではないかと悪知恵をめぐらしたのだ。その建設中の家がおかしいというので主人公の妻は大工たちの会話を盗み聞きするために携帯電話を通話中の状態にして置いてくるのだ。余もその方法を思いついたのだ。
余「お前たちは姿を消すことが出来るのか」
(●´ー`●)安部「人間の目に見えないようにするということですか。ご主人さま」
余「もちろん、そうだ」
川o・-・)紺野「そんなことは簡単です」
余は紺野さんの持っている携帯電話をひったくるようにとると電源を入れ、通話中にした。余「この携帯をふたりに気づかれないようにしてふたりのそばに置いてくることは出来ないか」
余の言葉が終わらないうちに(ё)新垣はその携帯をとると姿を消した。しばらくして(ё)新垣は余の前に戻って来た。
余「うまく、ふたりのそばに携帯を置いてきたか」
(ё)新垣「ニイ、ニイ」
その返事を聞くまでもなく、余の持っている携帯からは彼らの話声が聞こえてくる。
「そんなことをしたら、彼は悲しむわ」
「幸せのためではないですか」
「でも」
「愛されていると思うのですか」
「少なくとも嫌ってはいないと思う」
「進歩のためには必要ですよ」
「でも、なんか、可愛そう」
「自殺なんか、しないでしょう。ちょっと悲しむぐらい」
「滝から飛び込むかもしれませんよ」
「まさか」
余のはらわたは再びむんずと鷲掴みにされたような気がした。そのとき、余の携帯をのぞき込んでいた(ё)新垣が変な声を発した。
(ё)新垣「ニイガキ、ニタ、ニタ、ニイガキ、ニタ、ニタ」
余は(ё)新垣が携帯の話し口に近づいて話しているのを引き離した。しかし、事態は最悪だった。洞窟の中からふたりの男女が出てきた。片手には妖怪が所有している携帯を持っている。ふたりは余たちの前に立った。余が携帯を持つ手の力なく、ぼんやりとしていると(ё)新垣は余の携帯を取り上げ
(ё)新垣「ニイ、ニイ、ニイガキ、ニイ、ニイ」
と電話に声をのせると井川はるら嬢の持っている携帯からその声が出てきた。
井川はるら「こんなことをしてわたしたちの会話を聞いていたんですか。それも妖怪を手下に使って」
原た泰三は無言でその様子を見ている。この状況を妖怪たちは喜んでいるようにも悲しんでいるようにも見えた。
(●´ー`●)安部「プレーガール、キュッ、キュッ」
川o・-・)紺野「プレーガール、キュッ、キュッ」
(ё)新垣「プレーガール、ニイ、ニイ」
井川はるら「最低ですね。とにかく、この携帯は返すわ」
余は井川はるら嬢に嫌われてしまったようだった。余の落胆は冬の凍るような日々を前にした秋のようだった。
 花間 一壺の酒
 酒をくむは、われひとり、
 相親しむものもなし。
 杯をあげて明月を迎え
 その映る影は三人
 月、すでに 飲むを解せず
 影、おのずとわれに従う。
 月と影とを供なって
 行楽、すべからく春に及ぶかな
 われ歌えば 月 徘徊し
 われ舞えば 影もそれにしたがう。
 醒めるとき、ともに喜びをわかちあい
 酔ってのちおのおの分散する。
 永く無情の友となり、
 いつかふたたびまた会おう
 あの遙かな天の川の向こうで
余は志保田の家の中庭に竹の長椅子を出して酒をちびりちびりと月を肴に月を友として世の無常について語り合っていた。
 妖怪たちは余の部屋でこいこいをやっている。立て膝もあらわにもろ肌脱いで片手には芋焼酎のびんを握りながら畳の上に札を叩いていた。
障子に映る妖怪たちの姿は歓声とともに大きくなったり、小さくなったりする。誰かの札が揃ったのかも知れぬ。急に大きなときの声が聞こえた。
 余の悲しみを知るものは月のみしかなかった。いや、月だけではない。月の光で余の影ができる。この世に生を受けてから久しく、いつでもこの影は余の伴侶であった。失意のときも得意のときも余のそばを離れず、無情の友なのだった。ありがとう、もうひとりの自分よ。
 所詮、余に永遠に仕えると契約を交わしたといってもまだ十代の女の子ではないか。彼女らに恋いの情けがわかるわけがない。なかにはミジンコ並の知能の妖怪もいるのだ。相変わらず修学旅行の晩のようなキャキャした笑い声が聞こえる。別れということを考えてみた。別れを知らずに芸術家は芸術家になれるだろうかということがある。人はいつかすべてのものから別れなければならぬ。そのことを知らずに真実が見えるだろうか。そのことを本当に知っているものこそ真の偉大な芸術家である。余は別れを知っている、この点では有資格者である。
 それにしても妖怪たちのキャッキャッと騒ぎ声はうるさい。余をほっぽらかしておいて、ご主人さまを忘れているとは失格である。中庭に月に誘われたのか、あみ子がやって来た。
あみ子「なに、ひとりでお酒を飲んでいるのですか」
余「ひとりで酒を飲みたいときもあります」
あみ子「わからなくはないけど」
余「それはどういう言い方ですか、わからなくもないとは」
大きな声を出したあとで余は反省した、ここにもつらい別れを経験したひとりの女がいるのだ。しかし、本当に滝沢繁明となぜわかれることになったのだろう。つりの名人にして悟りきれないところがあるのだろうか。
あみ子「みんな、楽しそうですね」
余「あいつらのことですか。あんなガキはほっとけばいいんですよ。修学旅行じゃあるまいし」
あみ子「あの子たちに無視されているから、怒っているわけ、子供みたいね」
余「人間はみんな子供ですよ」
あみ子「みんなあなたのことを考えていますよ。今日、わたしが町に行くからと言ったら、なつみさんが、わたしに頼んだんです。これ」
あみ子は余に包装紙に丁寧に包まれた筆箱のようなものを渡した。余はそれを受け取ると包みを開け始めた。
あみ子「なつみさんがあなたに渡してくれって」
黒い丈夫そうな箱が出てきた。金色の文字が入っている。箱を開けてびっくりした。中からは海外ブランドの高級腕時計が入っていたのである。さっそく余はその時計を左手にまいてみた。あきらかに余には勿体ない品物である。金色に光る本体についている窓ガラスはダイヤのようだった。時計の秒針がカチカチと時を刻んでいる。
あみ子「これも渡してくれって」
そう言って手渡された封筒は厚い。中を開けてみると五十万円ほど入っているではないか。余はその札びらとともに障子のほうを見た。ありがとう(●´ー`●)安部なつみ、いや、妖怪、(●´ー`●)安部なつみさま、余はそのときはそれらの金がどうやって作られたのか、深く考えもしなかった。きっと妖怪が妖術を使ったんだろうと思った。そして余の名義で作った預金通帳にはもっと大変な金額が入っているのかも知れないと思った。これは大変なことである。(●´ー`●)安部はどのくらい金を稼げるのだろうか。妖怪にしておくのは惜しい。余もそろそろ現実に目を向けるべきだろうか。

第十二回
たとえ妖怪だとしても正式に結婚するのも悪くない。いつまでも夢のような相手を思っていても仕方がない。井川はるら嬢には完全に嫌われている。はるら嬢の愛を得るのは不可能なような気がする。相手は高値の花である。そこでまた余は少し生活設計をしてみた。余は少しばかりの土地を持っている。今は自分の名義ではない。しかし、親が死ねばその名義も余のものになる。その土地を(●´ー`●)安部に譲ろうか。そこに(●´ー`●)安部との愛の巣を建ててこのさき生きていくのも悪くはない。その夜は少しほのぼのとした気持ちで湯に浸かった。
いつもよりだいぶ遅れて目を覚ます。どこか遠くで郭公の鳴く声が聞こえる。朝露に濡れた笹の葉の間から生じてくるような気がする。廊下に出て左に曲がって洗面所のほうに行くと、四畳半ぐらいの大きさの部屋の中には誰もいない。白と水色の四角のタイルで出来た流しの前についている真鍮製の蛇口からはちょろちょろと山からひいた清水が流れている。四つある蛇口のうちでふたつは温泉が出てくる。入り口の真向かいに大きな窓ガラスが張ってあって、その向こうに溶岩を急に覚まして固めたような崖が見える。岩の中には数え切れないぐらいの多さの気泡が見える。崖の前は人工的に作った小さな池がある。池の中はやはり月の世界のように溶岩の固まったものが地面をなしている。その中を小さな金魚が無重力の中を泳いでいるようだった。その崖の横のほうに見えないが穴を開けて山の中の見えない路を通っている石清水をここにひいている。水はさらに透明になっている。流しの前の窓ガラスのふちにはプラスック製のコップが幼稚園の園児のお遊戯のように三つ並んで置いてあって妖怪たちの歯ブラシがたてかけてある。いつだったか、歯ブラシを使った人形劇を見たことがある。歯ブラシは毛が埋め込まれているだけで顔もないくせに、その歯ブラシにも表情があるようだった。赤いのは(●´ー`●)安部のだ。青いのは川o・-・)紺野さんのだ。白いのは(ё)新垣のだ。歯ブラシの毛のところが濡れているのはもう起きて歯を磨いたあとなのだろう。洗面所を直角にまっすぐ進むと朝飯を一緒に食べている座敷に出る。障子を開けるといつものテーブルクロスをかけてある紫檀のテーブルの上に茶碗が一つ伏せてあった。小皿が置いてあり、上にはかちょうがかけてある。小皿にはなすのみそ漬けが載っている。小皿は外側が青い上薬がかけてあって中は乳白色の中に中国の太った役人が小猿を追いかけている画が青い線で描かれている。余はそこで座って横に置いてあったひつから飯をよそる。テーブルの上には急須も湯飲みも置いてある。ひつの横には鉄瓶が小竹を短く切ってその節の中にひもを通してへびがとぐろをくんだように編んだ鍋敷きの上に置いてある。少し手を近づけてみるとまだ熱い感じがする熱が空気の層を通ってここまでやってくる。きっとこれでお茶づけでも食べろという配慮だと思ったから飯の上に漬け物をのせ、お茶をかける。急須の注ぎ口からはしょうゆを薄めたような色の液体が出て来て香ばしい匂いがその場に広がった。急須の中に入っているのはほうじ茶だった。その熱いお茶がなすのみそ漬けの上にかかってなすのみそ漬けの茶色い色が少し透明になる。それをさらさらとかけこむ。障子があいてアルバイトの女の子が顔を出す。
「起きて来られたんですか。教えてくださればよろしかったのに。お湯をもう一度沸かしましたのに、お湯は少しぬるくなってはいませんでしたか」
余「いいよ。このぐらいの熱さがちょうどよい。みんな起きているのかい」
「親戚の女の子たちですか」
余「そうだよ。三人いるだろう」
「お三人とも、みんな、あみ子さまの衣装部屋にいますわ」
余「衣装部屋って」
「あみ子さまの衣装が置いてある部屋です。
この部屋を出て左に曲がって離れに通じている渡り廊下がありますからそこを通るといけますよ。でも、部屋の中に入るときは声をかけてくださいね。おほほほほ」
アルバイトの女はなんで笑うのだろう。余にはわからなかった。余はとにかく飯を食い終わってから、出てから左に曲がって渡り廊下を通ってつがいの鶴が片方は首を天に向け、片方は足下の雪を突っつきながら片足だけをくの字に曲げている図がふすまに描かれたその部屋に行った。障子そのものが着物の柄のような感じがする。部屋の前で中の方に大勢の女たちがざわざわとざわめいているのを感じながら余は中のふすまの向こうの女たちに声をかけた。
余「余です。入ってよろしいかな」
その余の声に呼応するようにふすまの向こうでまた笑い声がする。そしてまた静かになった。余にもこういう状況の経験はある。授業のはじまる前に担当の教師が入ってくる前方のドアに黒板消しをはさんでおき、教師がそこから入って来たときに黒板消しが落ちて来て教師の頭を白いチョークの粉で染めるといういたずらを生徒たちが計画した。そのたくらみの仕掛けが準備されているとき、教室の中は騒がしくなり、教師が入ってくる数分前には教室の中はしんと静かになった。しかし、期待はつねに裏切られた。もちろん、教室の前方のドアは引き戸でなければならない。その条件を満足したとしても、こんないたずらに引っかかる教師はほとんどいなかった。扉をひく教師の手前に黒板消しは落ちてアイロニーをこめたように白いチョークがほんの少しだけ舞い上がった。
余「入ってよろしいかな」
あみ子「どうぞ」
余がふすまに手をかけて部屋を開けると部屋の中からはいっせいに五彩の絢爛が無数の光の帯に乗って飛び出して来た。季節は春だったが、ここはさらに春らしく、さまざまな春の花が色とりどりに咲き出したようだった。部屋自体が光りをはなっているわけではなかったがそこにいた住人たちが光を放ち、西方十万億土にあるという極楽が地上に現出したようだった。そこにいる阿弥陀如来は複数であり、そのうちの三人は妖怪だった。馬子にも衣装とはよく言ったものだ。一人と三匹は春の花を身にまとっていた。
あみ子「素敵でしょう」
余「馬子にも衣装とはよく言ったものだ」
(●´ー`●)安部「ご主人さま、ひどいのね」
(ё)新垣「ニイ、ニイ」
余「本音を言うとみちがえったよ」
(ё)新垣「ニイガキ、ニイ、ニイ」
余「でも、どうしたということだ。ここで着物の新作発表会をおこなうというわけでもないだろう」
川o・-・)紺野「みんな、あみ子さんの着物なんです」
余「ずいぶんと着物をたくさん持っているものですね」
(ё)新垣までもが自分の着ている着物の袖口を引っ張って着飾っている喜びを感じているようだった。四人がそれぞれ華やかな着物を着ている。
余「でも、なぜ、急に着物なんて着て見るのですか。余のつれも一緒に」
あみ子「もうすぐここら辺の近郷一帯で開催している踊りの催しがあるんです。わたしはそれに出るつもりなんですが、みんなも出たいというので、その衣装を着てみたのです」
(●´ー`●)安部は余に片目でウインクをしてみせた。
あみ子「みんな、よく似合うでしょう」
余「それはいいけど踊りなんて、三人ともやったことがあるのかなぁ」
この一言には三人ともはなはだ不満の瞳を余のほうに向けた。まるで妖怪の世界での舞踊の家元のような顔をしていた。
あみ子「ちょっと、やってもらったんだけど、みんなすじがいいわ」
あみ子はつりの名人なだけではなかったのか、おそるべし、あみ子。
あみ子「これから少し練習をしてみようと思うんだけど、見て行きます。衣装合わせも終わったことだし」
余「それは遠慮しておきましょう。でも、どこでそれをやるんですか」
あみ子「いつだったか、わたしが鮎釣りをやっていた場所がありましたわよね。あの川を少し下流に下ったところに能楽堂があるんです。江戸時代に建てられた建物です」
あみ子の話しによると楠家の事跡を顕彰するために江戸の幕府が政治的な意味合いもあって作ったそうだ。
余「そんなところがあるんですか。余も見てみたいな。それであみ子さんが踊っている姿はあるんですか。踊っている姿の写真はあったかしら。そのときの写真はあったと思うけど」
余「見てみたいな」
川o・-・)紺野「わたしも見てみたい」
(ё)新垣「ニイガキ、ニイ、ニイ」
あみ子「あったかしら」
あみ子はその部屋の中で箪笥の上の方にある引き出しを開けて中の方をまさぐっていた。
あみ子「あったわ。このアルバムにそのときのわたしが写っているはずよ」
川o・-・)紺野「見せてください」
川o・-・)紺野さんがそのアルバムを受け取ると(●´ー`●)安部も(ё)新垣もそのアルバムをのぞきこんだ。余もその背後からアルバムをのぞき込む。そこには着物で着飾ったあみ子がいた。しかし、その中はあみ子ひとりではない。孟宗と石灯籠を背景にして着物姿のあみ子と若い男が写っている。
川o・-・)紺野「あら、あみ子さんの横に男の人が写っている。この人だれですか」
(ё)新垣「ニイガキ、ニイ、ニイ」
(●´ー`●)安部「いい男じゃない」
余はすべてを知っていた。
川o・-・)紺野「あみ子さんの彼氏なんですか」
(ё)新垣「ニイ、ニイ、ニイ」
(●´ー`●)安部「男なんだ」
あみ子「違うわよ。違う」
あみ子の頭の上のほうにもじゃもじゃの雲が漂っているようだった。そのもじゃもじゃの雲を描く線も随分と太く、塗り方にもむらがある。
 余はその能楽堂に行くことにした。あの鮎釣り場を川沿いにさらに下ったところにその能楽堂があみ子の衣装部屋で見た写真と同じように孟宗の林をうしろに控えてその建物は建っていた。建てられた当初は杉の木の正目の模様もまだ鮮やかに産土の雲の波間に見え隠れする様子をこの石清水の音とともにここで歌っていたに違いない、瀬をはやむ水の流れは変わらぬとしても千代や八千代の神木も、神垣のみむろの山の榊葉では今はもうなくなった。余は悠長で、すべての言霊やはしのあげさげ、水で口をすすぐことにも、爪を切ることにも、髪をけしくずることにも、この地に長らくおわしましまう大和の神の霧がくれしながらほんの少しだけ姿をあらわす古代の世界に誘われていた。そして余がぼんやりとその舞台を眺めているとどこかで聞いたことのある声で余を現実に戻すものがいた。
小坊主「志保田の宿に泊まっているかたではありませんか」
霊木を背景にして上は白、下は黒の袴の、下には下駄を素足にはいている頭を青く剃った子どもがそこに立っている。
余がうしろをふり返ると観海寺の小坊主の了念が立っている。
小坊主「なんでここに立って、なにを見ているんですか」
竹ぼうきを持っていればもっと画になるが残念なことにそれは持っていない。
余「ここで女たちの踊りの催しが毎年開かれていると聞いたので見にきたのですよ。この舞台の上に上がって踊りを踊るのですか。あみ子ちゃんも踊るのですか」
小坊主「あたしも去年はあみ子ちゃんが踊っているのを見ましたよ。振り袖がひらひらと蝶々の羽のように舞ってそれはきれいなものでしたよ」
余はそこであみ子が娘道成寺でも踊ったのではないかと思った。そんな縁起でもないものを踊るからあみ子は滝沢繁明と別れることになったに違いない。
余「あの若い男も見に来たんでしょうね」
小坊主「滝沢くんのことかいな。滝沢くんに嫉妬しているのですかいな。あみ子ちゃんが好きなの」
余「余が、余が、あははははは」
余の笑いは杉の林の中に空しく響いた。
小坊主「あやしい」
余「あやしくない」
小坊主「あやしい」
余「ニイガキ、ニイ、ニイ」
小坊主「それは違う人のせりふやがな」
小坊主も新垣語の意味はわからないが、新垣語の存在は知っていた。
余「うちのつれの親戚の女の子たちも踊りの大会に出ると言っているよ。それで志保田ではその話しで盛り上がっていてね」
小坊主「衣装はどうするんですか」
余「あみ子ちゃんのを借りると言っている」
三匹があみ子の着物を着ていた姿がふたたび余の目の前に浮かんだ。
小坊主「わあ、それは華やかなことやな。でも志保田のお客さん、踊りを見るためにわざわざこんな草深い温泉場に来たわけではないんでしょうが。それとも古典芸能に興味があるのかいな。拙僧にはそうは見えないが。もっとなにか目的があるのじゃないかな。前から拙僧はあなたが何かを隠しているとあなたをはじめて見たときからにらんでいるのですがな」
小坊主は余の姿を上から下へ何度も見ながら余に威圧感を与えた。小坊主がその力を持っているのではない。小坊主の疑念が余に無用な不安感を与えたのだ。
余は少しうろたえた。小坊主の指摘は当たっている。この小坊主のほうが住職の大徹よりも真実を見ているのかも知れない。余は田舎者が皇居にはじめてやって来てうろうろしていると警官に職務質問されたときのようにうろたえた。
余「誰にも言わない」
余は小声で小坊主にはなしかけた。近くに流れている川の音が低く地を鳴らしているように聞こえる。
余は小坊主のつるつるとした前頭葉のあたりを盗み見た。余の目の切れ目の下の眼瞼の裏の血管までもが見えたかも知れない。
小坊主「言うわけがないがな。そんなことをしてあたしになんの得があるというんですか。まして拙僧は仏に仕える身、煩悩に悩む衆生を救うのがわたしの役目、そのためにわたしは仏門修行に入ったのであります」
余「本当」
余はまた幼稚園の子供が母親におねだりをするように聞いた。
小坊主「本当やがな。あなたは母なる巨大な海に、今、抱かれています。そしてその海の中でくらげのようにぷかぷかと浮いています。あなたはなんの重力も感じません。あなたのまわりには暖かい空気が漂っています。息を吸うとあなたの脈拍は安定します。さあ、なんでも話してご覧なさい」
余「本当」
小坊主「本当やがな。あたしを信用しなさい。なんなら、特典をつけてやるがな」
余「どんな特典ですか」
小坊主「驚いちゃいけないよ。あんたの関心の的の井川はるらのことだよ。あんたも井川はるらが観海寺に泊まっているって知っているね。そこではるらは寝泊まりしているんだよ」
余「えっ、えっ」
余は井川はるらが出てきた意外な展開にどきまぎした。
小坊主「観海寺にはお風呂がある」
余「はるらちゃん」
余の理性に反して勝手な言葉が口から出てきた。
小坊主「どういうわけか、観海寺の風呂場には誰があけたのかわからない穴があいている。その穴はビデオカメラのレンズがちょうど入るぐらいに大きい」
余「はるらちゃーん」
小坊主「そして、拙僧はビデオカメラを持っている」
余「はぁ、はぁ、はるらちゃーーん」
小坊主は完全に余を支配下においた。
小坊主「拙僧に話す気になったですかな」
余「話す、話す、話します」
小坊主「さあ、深呼吸をして心を落ち着けるのです。そして頭の中を整理して順序よくお話しましょう」
余は小坊主の用意したにんじんに完全につられてしまった。その能楽堂の横のほうは庭石が円形に並べられていてその中は苔の生えた墳墓のようになっている。その墳墓の頂点のところに大きな岩が二、三個並べられていてその岩の横には松が生えている。余と小坊主はそのうちの座りやすい椅子のほうに腰掛けた。
余「実はこの那古井の地を訪れたのは深い理由があるのです」
余はいつも肌身離さず持っているショルダーバッグを横に置いた。そしてフアスナーをおもむろにあけた。そして右手をそのかばんの中に入れるとモスグリーンのフェルトで厳重に包まれたかたまりを取り出すとそばにある御影石の大きな庭石の上に置いた。その御影石はものを置くのに都合がいいように、上の部分が平らになっている。
余「これなんです」
小坊主「なんですかな、これは」
大きな庭石の上にもうひとつ庭石が置かれたようだった。それを包んでいる布をあけると、その上にはいちだの雲が生じてその中から神竜が飛び出した。神仙が住むという雲の余韻は残ったままでしだいに本体が姿をあらわす。宝石のような質感をしているが宝石ではない。もっと落ち着いた渋いものだ。そのうえに潤沢なはだ触りがある。大きな庭石の上に置かれているがその大きさや重さでもその大きな石に決して遜色しない。画家は白を何種類も使うように黒を黒として使わない。黒にもいろいろな種類がある。ピーチブラック、アイボリーブラック、マースブラック、その絵の具のもとを燃やすとき、なにを燃やしたのかでその色は違うものになる。しかしそれを人間の手で再現することははなはだむずかしい。それが光学的に何色と何色をどういう割合で混ぜれば出来ると理屈はあるかも知れない。しかし現実には画布の上に塗られた色は微妙に生き物のように違ってくる。それの色はさらに玄妙な色だった。たとえて言えば仙界に昼と夜があるならその夜のとばりを固めて作ったような深い黒い色をしている。ただ黒いというだけではなく、その中に明るい光を内包している。白雪姫の中に出ている魔女がもっとも美しい姫を捜すための魔法の鏡はこんなもので作るのかも知れない。人が息をふきかけても自分の力でまた透明になるであろう。そして白雪姫のすがたを映し出すかもしれない。
小坊主「これは、これは。くよう眼の硯よりも立派ですね」
小坊主も思わず絶句した。
余「十二くよう眼の硯」
小坊主「えっ」
小坊主は驚いていた。小坊主ながらもその硯の価値を知っているらしかった。
小坊主の了念はもう一度その硯をのぞき込む。そして眼の数を数えた。
小坊主「えっ、眼は九つしかありませんよ」
余「嘘だ。余がそれをはじめて目にしたときはたしかに眼は十二個あった」
小坊主「たしかに志保田の家にあるものより立派ですが、眼は九個しかありません」
余は最初にそれを見たらすぐ包んでしまったのだが、そのときは確かに眼が十二個あった。
小坊主「でも、ふたはないんですか。ふたは。ふたも大切だって和尚さんが言っていましたよ」
余はふたなんてたいして必要でもないと思ったのでそれを見つけたときふたはひっぺがしてそのままにしておいた。
小坊主「でも、どこでこんな珍品を見つけたのですか。本場に行ってもこの一つしか見つかりませんよ。きっと」
余「それは今は言えない」
その十二眼の硯の来歴があきらかになれば余の家の名誉はことごとく失墜する。三代前のじいさんが千円札になっているとしてもだ。いや、そんな家筋であるからさらに大変なことになる。余の家の破滅だ。小坊主と余のあいだにしばらく沈黙が続いていたが余は向こうの孟宗の間を縫っている細道から人がやってくるのを認めてあわててその麗品をフェルトに包むとかばんの中にしまった。向こうから歩いて来たのは老人だった。どこかで見たことがある。あのぐらいの年になると遠くから見ると女か男かわからないことがあるが老婆だった。その上どこかで見たことがあるような気がする。孟宗の竹林の中を歩いてやってくるが、前に見たときは山家の炭焼きの煙が春雨の空に立ち上る背景を背にしていた。炭焼き小屋に毛の生えたような茶店で粉をひいて団子を丸めていたではないか。今もその中身は変わりないがこんなところまで歩いてくるのだとは知らなかった。買い物にも出てこないのだとばかり、思っていた。思ったよりも行動半径が広い。茶店のばあさんだな。余は心の中でつぶやいた。下の砂利をふみしめながらばあさんは歩いてくる。仏教のそれも禅宗のほうでその内部の行儀作法はどうなっているのか、余には皆目見当がつかないのだがもっとも徳の高い者に対する作法らしいことをして小坊主は茶店のばあに挨拶をした。余はその動作、所作が重々しく、きびきびしていて、かつすっきりとしていたものを感じたのでそう思っただけだったが。
ばあさん「笹餅はどうでございます。小坊主さん」
小坊主の了念はそこに高遠な公案を見ているのかも知れないようだったが、余には木瓜の花の香る茶店のばばだけでしかなかった。浮き世離れしたばあさんのほほえみだけが残った。
余「おばあさんは笹餅を作っているのですか」
余はこの地方ではそういう食べ物があるのかと思った。了念はあわてて余を制止して無言で下を向いたまま、しっしっとか言葉にならない音声を発している。横で余の服の裾のあたりをさかんに引っ張って合図をしている。
ばあさん「困ったことがあったら、ばあの茶店にまた来てください。おふぉ、おふぉ」
ばあさんは巾着のような口をしてそのまま通り過ぎてしまった。通り過ぎてしまったばばの後ろ姿を見送りながら余は隣でまだ手を合わせている小坊主の横腹をつついた。
余「了念さん、いつまでばあさんに手を合わせているんだよ。お前、ばかじゃないの。あれは茶店のばばじゃないか」
すると小坊主はとんでもないという顔をした。
小坊主「あなたはあのかたがどんなに尊いかたか、ご存知ない。うちの和尚さんなんかは足下にも及ばないありがたいかたなんですよ。あのかたがうちの寺に来たとき、台所で金色の光をわたしと和尚さんは見たんです。台所でばばさまが座っている、その向かいから光りが発せられていました。しかし戸の影でその本体が見えませんでしたので和尚さんとわたしは位置を変えました。するとばばさまの向かいには大日如来さまが蓮の花を片手に持ってその花をばばさまに手渡すところだったのです。それからこんなこともありました。山の中の温泉に浸かっていた湯治客が北極星を眺めていると急にその星は一筋の糸を引くように地上の方に飛んできました。天上の星は温泉のそばに落ちました。客がその場所に行ってみると婆さんがすりこぎの棒を持ち、星のほうにすり鉢を持たせて、ばあさんは胡麻をすっていたのです。ばばさまはこの那古井の土地のことでなにも知らないことはありません。たとえ七百年前の楠雅儀のことでもありありと眼前にあるように語ることができます」
余には小坊主の話はにわかには信じられなかった。しかし、茶店のばあさんが郷土史家かなにかでこの土地のことにやたらと詳しいということは考えられる、なにしろ年はとっているのだし、年寄りだから伝承話しは好きだろう。よく地方などに行くと土地の古老が源義経や木曽義仲のことをきのうのように語ることがある。彼らの語っている感覚では数百年前のことが数年前のことなのである。それらの武将がそんな地方にまで足跡を残しているということかも知れない。小坊主はまだなにかを語りたがっているようだったそれも全く違う方向の話しだった。
小坊主「三人の身内と一緒に志保田の宿に泊まっているのですか。あの三人は親戚かなにかなんでしょう」
余「そうだが」
小坊主「三人の姿を見ましたよ。わたし」
余はこの小坊主が三匹の妖怪のうちの誰かとつき合いたいと思っているのかと突然思った。(ё)新垣はただ毎日「ニイガキ、ニイ、ニイ」と叫んで近所の小さい川でザリガニ捕りをやっている毎日だし、(●´ー`●)安部は小坊主よりも年が上すぎる。そうなると小坊主とつきあえるのは川o・-・)紺野さんだけということになるが、三匹は余と契約を結んで永久に余の面倒を見ることになっているから、その話しは不可能である。他の女の子とつき合ってもらうしかない。しかし、小坊主の口から出てきたのは意外にも(●´ー`●)安部の名前だった。
小坊主「一番年上の女の人はなんという名前なんですか」
余「(●´ー`●)安部なつみと云うんだ」
小坊主「その人なんですが、よくない噂があるんですよ」
余「どんな噂なんだ」
小坊主「いかがわしいことをやって金を稼いでいるという噂です。それでわたしもたまたま隣街に行ったとき、安部なつみさんを見たんです。駅のそばのくらがりの中で湯治客と話していたのを見たんです」
余はそのいかがわしいことというのが見当がついたが本当にそんなことをやっているのかどうかはまだ信じられなかった。志保田の宿に戻ると屋敷から少し離れたところに志保田の所有している西洋庭園があってテニスコートが二面ほど入ることが出来るくらいの広場になっている。そこから海を見渡すことが出来る。その広場から海のほうに緩やかな坂が続いていて斜面には蜜柑の木がたくさん植えてある。冬になったら蜜柑の橙色の点々が緑の絨毯の中に斜面一面に広がっていて美しいことだろう。宿に戻ってアルバイトの女に余のつれがどこにいるかと聞いたらその広場にいるというので、そっちのほうに行ってみた。その広場が見える前にその場所に近づいていくとカーン、カーンと聞き慣れない音が聞こえる。広場の入り口になっている草の絡まっているアーチの人が通れるようになっている空間の中から白いものが放物線となって海岸のほうに飛んでいく。白いものというのはどうやら白いボールのようだった。それが青い空の中に飛んで行く。青い地の中なのでそのボールを見失ってしまうようだった。斜面を削って赤土の土手の上に草がぼうぼうと生えている広場の山側に近いほうの一角にそのボールを打ち上げている原因があった。白い野球のユニフォームに身をまとい、野球帽まで被っている川o・-・)紺野さんがパリーグのホームラン王、カブレラ選手仕様の特別あつらえのバットを持ってぶんぶんと振り回している。そのうしろのほうには七十センチの大きさの例の金魚が水槽の中で楽しそうに泳ぎまわっている。その金魚は川o・-・)紺野さんの勇姿を見てまるで喜んでいるようだった。川o・-・)紺野さんの前方には、大きな腕を持った上皿天秤の親分のような機械がぎしぎしという音をたてながらぶるぶると動いていた。それは見ようによっては装飾品のたくさんついた金てこ台の大きなものに見えないこともない。機械の横には円筒形の鉄製のかごがあり、白い硬球がかごの三分の二ぐらい入っている。その横には(ё)新垣が立っている。そしてご苦労なことに、地面を平らにならすためのコンクリートで出来たロードローラのようなものも置いてある。ただし、引っ張る取っ手が車軸から出ていて人力で引っ張るものだ。(ё)新垣もやはり野球選手のように白いユニフォームに身をかためている。そのユニフォームは全く白いままで汚れていない。(ё)新垣はそのバッティングマシーンを操作していた。ミジンコ並の知力しかないと思っていたが(ё)新垣に意外な能力があることを発見して余は驚いた。その機械は(ё)新垣の背の高さの三分の二ぐらいの大きさがある。まるで巨大な殺人ロボットのようだった。そしてその外観は重量感のある黒い色で塗られていてボールを投げる金属製の腕は太く、強力なバネが装着されている。大きな噴水に六分儀がのっているような感じがする。ボールがからになった腕のさきが下のほうからじょじょに上に上がってくる。その腕がほぼ水平になったときにボールが腕に供給されるように鉄の棒で出来た雨樋のようなものがあって、水平な位置からボールを支持する場所にボールがのせられ、それからゆっくりとぎしぎしと音をたてながらその腕はボールを落とさないようにして回転していく。そしてある臨界角度に達すると今度はばねの力で白球が百六十キロ以上の速度で川o・-・)紺野さんめがけて突進していく。そのボールの出会いがしらに川o・-・)紺野さんの振り回した重量級のバットが叩く。すると三十五度の角度で海に向かって白球はするすると飛んでいく。その飛距離はゆうに二百五十メートルはあった。余がそこにいることに気づくと川o・-・)紺野さんと(ё)新垣はこちらを振り向いた。バッテイングマシンの機械は止められている。川o・-・)紺野さんの持っているバットの頭のところは地面にささえられている。川o・-・)紺野さんはバットのヘッドのところを両手をのせながら余が近づいてくるのを待っていた。
余「なにをやっているんだ」
川o・-・)紺野「身体がなまるといやなので野球をやっているんです。ご主人さま」
川o・-・)紺野さんの立っているところまで(ё)新垣もやって来た。
(ё)新垣「ニイガキ、ニイ、ニイ」
余「野球をやっているのはわかるが、なんだ、この機械は。一体どうしたと云うんだ。仰々しく、それに野球のユニフォームも硬球のやまも。どこから持って来たんだ。こんなものを余が買ってやった覚えはないぞ」
(ё)新垣「ニイガキ、ニイ、ニイ、ニイ、ニイガキ、ニイニイニ」
余の問いに答えたつもりか、(ё)新垣がニイニイ語でもって答えた。ニイガキ語を持ってしても余にはなんのことか、さっぱりわからない。
川o・-・)紺野「このバッティングマシンもユニフォームもみんななつみねえさんが買ってくれたんです」
(●´ー`●)安部なつみが余に海外製の高級腕時計を買ってくれたのと同じパターンか。しかし、機械やユニフォームはまた使えるからそれでもいいかも知れないが、白球を海に打ち込むのはどういうものか、海に漂うままに海にゴミの山を作り、無駄な設備投資をしているというしかない。海面でうきつしずみつしている白球が思い浮かんだ。しかし、(●´ー`●)安部がこれらの機械を買ってくれたというのはよくわかった。あの女の所持金ではそのようなことも出来るだろう。
余「でも、ボールを海に打ち込むのはよくないよ。勿体ないじゃないか」
川o・-・)紺野「ご主人さま、海の方をよくご覧くださいませ」
川o・-・)紺野さんがそう言って海のほうを見ると小舟が波打ち際にぷかぷかと浮かんでいる。長いさおのさきに網のついたものを持った男が波間にうきつしずみつする野球のボールを熱心に網で拾い上げて小舟の中に積んでいる。濡れている小舟の船底には白いボールがちらほらしている。余たちが海のほうを見ているのに気づくと男はその仕事の手を休めて余たちのほうを向いて手を振ってばかみたいに笑っている。その動作を余はどこかで見たことがあることに気づいた。顔をよく見ると確信した。滝沢繁明ではないか、家で不渡りを出して観光船の乗務員になってあみ子に手を振っていたときと同じ動作だ。
川o・-・)紺野「あの人がわたしたちが海に打ち込んだボールを拾ってくれるので、海が汚れる心配はありません。それにあの人はお金がなくて困っているらしく、拾ったボールを売りたいと言っているので、そうしてくださいと言っておきました。わたしたちはあの人の生活も助けてあげることが出来ます。ご主人さま」
(ё)新垣「ニイガキ、ニイ、ニイ、ニイ、ニイ」
(ё)新垣もさかんにその喜びをあらわしている。
余「まあ、いい。それで(●´ー`●)安部豚はどうしたんだ。あの淫乱、男大好き女は」
川o・-・)紺野さんも(ё)新垣も(●´ー`●)安部がどこに行ったのか、知らなかった。(●´ー`●)安部がいかがわしいことをして金を稼いでいるなんてことはもちろん知らないに違いない。いくらなんでもお塩のところに再び行って、プレステをやっているとは思っていないだろうが。
余「余は今日は帰りが遅くなるかも知れないから、夕飯の支度はしなくてもいいとあみ子ちゃんに伝えておいてくれ」
余が時計を見ると午後の四時を少し過ぎていた。
 亜子井は那古井の隣の駅だというのにその様子はずいぶんと違っていた。両方とも同じ温泉町だが、夫がその温泉に行くというと妻があからさまに嫌な顔をするという種類の場所だった。そして繁華街も多い。那古井とは違ってうまい具合に温泉の線を駅のそばの繁華なところまでひいてこられる。店も多いので余は先日ここにかみそりを買いに来た。だから男はその温泉に行くときは黙って、もしくは嘘をついてそこに行く。同じ風光明媚な地だというのにこの違いはどこから出てくるのだろう。亜子井は駅から出たときからすこし様子が違っていた。駅を出ると目つきの悪い男がちらほらと見える。しかし、時代はこうした街を受け付けなくなっているのでなんとなく寂れていく、進行中という感じもある。余が駅を出て左に曲がるとけばけばしい看板が目についた。幅が二メートルしかないアーケードの下を歩いて行くとすぐにけばけばしい化粧をした女に声をかけられた。
「少し、休んでいかないべか」
お前はどこの人間なんだ。余は心の中でつぶやいた。
「安くしておくべ」
余「少し、聞きたいことがあるんだけど」
「なんだべ」
余「この淫乱雌豚を探しているんだ。喜びの絶頂に達するとお塩、お塩と叫ぶんだ」
余は(●´ー`●)安部なつみの写真を取り出すとその女に見せた。
「お塩と叫ぶ、おもしろいねぇ。焼きとりの塩が好きなんかぇ」
余「まあ、そんなところだ」
「ちょっと写真をよく、見せてもらえるべか」
余「この写真はあまり化粧をしていないが、本物はもっと化粧が濃いかも知れない」
女はよく、写真をのぞきこんだ。
「この娘、見たことあるべ。知り合いだべか」
余「まあ、そんなところだ」
「思い出した。思い出した。そこを左に百メートルぐらい曲がったところに亜子井三条通りという、バーやスナックが固まっている場所があるんだ。そこに宝舟時計店という時計屋があるんだけど、そこによく立っているよ」
余はそこに行くことにした。その通りに行くとたしかに飲み屋やバー、スナックが多い。店の外に合成樹脂で出来た看板がまるで人間のように立っている。その看板もかなり疲れている。看板の明かりがかなり明るく感じる。時計を見ると午後の六時半を少しまわっている。山は暗くなるのが早い、都会とはわけが違う。いろいろな店のドアがときどき開いて客が中に吸い込まれて行く。きらきらと金色に輝くのは例の時計店のからくり時計らしい。その前にたしかに女が立っている。しかし、背格好は(●´ー`●)安部と同じだが顔が見えないので(●´ー`●)安部だと断定することは出来ない。余はその様子をじっと見ていた。すると中年の男が飲み屋から出て来たのか、これから飲み屋に入るのか時計屋の前を通った。するとその男のそばにするすると寄って行った(●´ー`●)安部かも知れない女は声をかけたようだった。しばらく話している。指を立てて何かを合図しているようだった。それから男は自分の顔の前で大きく手を振ってその女のそばを離れた。女は男になにか侮蔑の言葉を投げつけたようだった。離れて行く男を見ながら女は片足で地面を強く踏んだ。余は静かにその女に近寄って行った。女は余に声をかけてきた。
「お客さん、お金、持ってます」
こちらが何も言わない前から向こうのほうから声をかけてきた。
化粧をして大人びた顔になっていたがそれは確かに(●´ー`●)安部なつみだった。余の顔を見て(●´ー`●)安部ははっとした表情をすると顔をそむけた。そのとき(●´ー`●)安部の瞳にはいつものニタニタした光はなかった。なにかを突き刺すような、そう、世の中の正しいと言われていたり、権威と言われていたり、まったく泰然自若として動かないようなものに対して一撃を加えるような目の光りだった。(●´ー`●)安部は逃げようとしたので余はすぐに(●´ー`●)安部の身体に覆い被さった。(●´ー`●)安部の身体の暖かい感触が余の身体に、暖かい(●´ー`●)安部の血の流れが、心臓の鼓動が余の身体に伝わった。(●´ー`●)安部はまるで山の中で生活をしている毛がふさふさとしている動物のようだった。(●´ー`●)安部は逃げようと身体をもがいた。余はさらに(●´ー`●)安部の身体を抱きしめた。(●´ー`●)安部は余の抱きしめる力に負けてやまねのように身体を縮めて地面の上にすくんだ。余は(●´ー`●)安部が逃げられないように抱きしめながら、やはり(●´ー`●)安部同様に余の息ははあはあと上がっていた。(●´ー`●)安部の髪が乱れる。
余「なつみ、お前がなにをしていたか、わかるか」
(●´ー`●)安部「わたしの身体でしょう。なにをしても自由じゃないの」
余「ばか」
余は思わず平手で(●´ー`●)安部の横頬を叩いた。
(●´ー`●)安部「女を叩くなんて、最低ね。そんなことをしなければ私を説得出来ないの」
余はうらみを込めた(●´ー`●)安部の視線を一身に受けた。
余「お前が憎いからぶったんじゃない。自分を大切にしろと言いたいんだ」
(●´ー`●)安部「そんなことを言って、あんただってわたしの身体をもてあそんだじゃないの。それになによ。わたしがあげた時計だってまだしているじゃないの」
余は自分の腕にはめられている時計を隠した。
余「自分を大事にしろ。お前は金を手に入れるために自分の価値を下げていることがわからないのか」
(●´ー`●)安部「わたしの身体はみんなのものよ。それをお金に換えて何が悪いのよ。あなたにお金がないことの悔しさ、苦しみがわかるわけがないじゃないの。なにが、わかるというのよ。ふん、そうよ。あなたのじいさんはいつも千円札の表紙になってあなたのほうを見ているじゃないの。それになによ。わたしのお金でその時計だって買ってやったし、そして、まだその時計も腕にまいている。通帳だってお金が入っているんじゃないのそれもわたしがわたしの身体で稼いだお金よ。ふん、わたしの身体をもてあそんだくせに、さんざんわたしの身体であなたは楽しんだじゃないの。わたしの身体にはあなたの刻印が押されてしまったのよ。それがどういうことかわかる。哀れみなんか欲しくないわ。あなたが勝ったとおもう。ふん、あなたの考えはあさはかね。実はわたしが勝ったのよ。あなたとわたしとはもう同等なのよ。もう、あなたがご主人様でもなんでもないのよ。あなたがわたしの身体を求めるかぎり、わたしはあなたのご主人さまなのよ」
余はまったく反論が出来なかった。その場に立ちつくして(●´ー`●)安部の顔をじっと見つめ続けた。自分の腕にはめている時計をはずして地面にたたきつけることもできなかった。
 このひなびたマクドナルドもロッテリアもないような温泉郷に来て、電気もガスも使わずに煮炊きをして、この地球上の大部分の国を何度も全滅させる核のボタンがある場所に置かれたスーツケースの中にあることも、麻薬の流通経路で表の世界からは無視出来ない闇の経済圏があることもとんと知らず落ち武者の末裔のみが住むとばかり思っていた隠れ里に入湯のために来訪して、美しい景色と山の霊気に心洗われるかと思っていた余であったが、そうではなかった。妖怪のくせに彼らは人間よりも人間のようである。喜びもあれば悲しみもある。男を求めれば、野球もする。とくに(●´ー`●)安部に関しては金に対する執着が異常に強い。世の中は何でも金でかたがつくと思っているようである。それは誰でも金は欲しい。金があればいい家に住めるし、きれいな嫁さんももらえるだろうし、嫌な奴に頭を下げずに精神的にも健康でいられるだろう。しかし余は金というものが人間世界においての想像上の概念であり、実体がないと余は思っている。もちろん硬貨や札という実体はある。しかし具体的な金属や紙にすがたを変えただけでそれが金というもの自体をあらわしているわけではない。動物社会の中では金はなんの用も持たないだろう。犬におにぎり一個と一万円札を見せたら、おにぎりのほうに飛び付くだろう。犬は人間社会における金の効用を知らないからだ。いろいろな欲望や労力を簡単に交換できるものだとして金のことを五才ぐらいの子どもでも知っている。いつだったか、おもちゃ屋の前でおもちゃを欲しいと泣きわめいていた子どもが突然、手を出してそのおもちゃを取った。すると親は静かにお金を払わなければそれを取ることは出来ないのよ。そんなことをしたらどろぼうになってしまいます。と言ったらすぐにそのおもちゃを棚に戻すのを確認した。もっとも最初に子どもが身につけているルールのひとつというのが、このお金がなければ商品と交換できないということかも知れない。そして子どもはお金があればそのおもちゃを手に入れられるということを知っている。商品だけではない。いろいろな奉仕や、欲望や、信用までもそれを持っていれば得ることが出来る。つまり万能な薬というわけだ。世の中にこんな便利なものがあれば人はいつもそれにばかり関心を向け、目がいってしまうだろう。人がある場所まで行くのに徒歩で行く、それから馬に乗り、自動車で行くようになった。自動車にもいろいろな種類がある。車体を黄色く塗ったスクールバスもあるだろうし、銀色に輝くツーリングカーもあって高速道路をすごいスピードで走って行くだろう。そして飛行機が出て、人間の目的へ行く距離も時間も異常に縮まった。飛行機にも今は垂直旅客機というのがあるらしく、長い滑走路も必要としないらしい。しかし、金はロケットである。そのうち光速ロケットが出現し、タイムマシンまでも出来るかも知れない。人々はみなこの金といものに支配されている。それが完全無欠な完全な妙薬だという幻想を抱いているからだ。金に支配されているというよりもこの幻想に支配されているのかも知れない。金があればすべての欲望を満たすことが出来て、困難な状況から脱出することが出来るというある意味では当たっている思想。しかしその一方でその前に自分の欲望や運命の前の自己の無力を認める諦念というものを得ることが出来る人が少なくなっているのも事実だ。人の欲望だけが肥大してしまった。牛馬の肥料にしかならない巨大かぼちゃがこの地上に満ちている。慎ましさやかわいげなどというものもなくなって、人の隙をねらって小股をすくうことが人生の最良の処世術となる。オイルショックのときのトイレットペーパーの買い占めが日常的におこなわれている。余もまたその中で浮かび沈みつし、ぼうふらのような生の時間を刻んでいるわけだが。その競争に勝った者が人生の勝利者と呼ばれる。しかし人類の歴史の中にはその輪廻から解放されたものもいるかも知れない。そんな人はこの金の支配から逃れていると言えるかも知れない。それが社会と縁を切っているかどうかは余はしらん。竹林の七隠の生活を送っているのか、語る資格も目の前で見たこともない。余は死ぬまでその境地には達しないかもしれぬ。しかし、生まれついて大金持ちでありながら修道院にみずから入って行ったり、世を捨てて殉教の人生を過ごす人もいる。世の中にはそんな金の支配から逃れた人もいる。それもまた事実である。しかし、淫乱雌豚(●´ー`●)安部は金にも男にも、支配されている。とくに男に対する執着はまるで人間世界の人情物を見るような気がする。自分の身体を使って金を稼ぎ、妖怪の身分でありながら、お塩と二晩も過ごしたのだ。余も俗物ではあるが(●´ー`●)安部よりは少しはましだと自分自身をなぐさめた。
 余はそんなことを考えながら鮎の泳ぐ川のほとりを歩いて行くと川の流れる音がざらざらと聞こえる。川の水も見える。川の水がどんな水質なのかよくわからない。まるっきり純粋な水だというわけではないだろう。そこには何かが含まれているに違いない。人の心を覚醒させる何かが含まれているに違いない。深山の水には鋭いものがある。山の神の使う巨大なのみで大きな岩が切り崩されて川の中に投げ入れられる。神話の時代のそんな営みが思われる。そんな岩をめがけて渓流がぶつかる。川端の崖のかたちは西洋の巨人の椅子のようにも見える。こんな水のようなかたちもなくなんの手応えもないようなものが何千年も同じことを繰り返して岩を削っていくから不思議である。ひとかたまりに見える岩にもひびが入ってその中に土がたまってそこから木が生えている。岩の上のほうに木が生えているのは普通だが、横のほうからもそんな普通でない生え方をしている木がある。そこに水があるかぎりどこでも植物というものは生えるものなのだろうか。岩のほうもただ一色に塗られているわけではなく、コンクリートの中に鉄のねじでもあってそこに雨が当たってさびが生じて一筋の橙とも茶色ともつかない線がついているように一部分色が変わっているところがある。温泉の注ぎ口にある湯の華のようである。それがどのような原因で出来たのか、地層としてあるのか、余にもわからない。余の気持ちは清々しくなる。余が右足を前に運んで地面におろすと小枝がぽきりと小さな音をたてて折れた。弥生人だが縄文人だかわからないが、古代の人間はこんな枝を竈に入れて暖をとったに違いない。自分の関節を鳴らしているように気持ちよい。
 川に沿って人の通る道が作られている。道に沿って松が植えられている。この道を歩くのは余だけである。松の枝にいた四五羽の鳥が枝葉をばらばらと鳴らして空に飛んで行った。
 あたりで騒いでいた鳥は空高く飛んでどこかに消えて行った。
 空にぼんやりと浮かんでいたちぎれ雲は飛んで行き、静けさがあたりを包む。
 ともに相い眺めてともに心にかなうものはこの香炉山だけである。
余は向こうに見える山の山容をめでた。少しのぼり道になっている。その道を横に入って行くとさらに坂が急になった。さらに登って行くと大きな丸い石を固めて門柱にして、なまこに逆立ちをさせたような門柱には那古井鮎養殖場という看板が出ている。そこでやはり水の流れる音がする。
 太陽は香炉山を照らしてもやが紫煙にくもっている。
 遙か向こうでは長く大きな川が垂直にそのまま立っているように滝が流れ落ちて行く。
 その規模ははるかに大きく、その長さは三千尺。
余は李白の詩をくちずさんでいた。
 その勢いはまるで銀河が天上の九つの宮殿の門から落ちてくるようだった。
その中に入るとまず目の中に飛び込んで来たのは大きな円形のコンクリートで出来たプールでまわりはみんな金網で囲まれている。その中心からパイプを使って水を流しているらしい。その水の流れでプールの中には川の中と同じような水の流れが出来るらしい。その水の中にはまだ成長しきらない鮎が泳いでいる。魚は泳いでいなければ呼吸が出来ないということを聞いたことがある。その真偽はわからない。あるいは餌を食べやすくして成長を促すためだろうか。プールのうしろにはトタン屋根の大きな切り妻の屋根の倉庫か事務所のようなところがあってその建物の側面は四角く入り口があいていた。その建物のうしろは山の斜面になっている。そしてその建物の隣には時代がかった木製の平屋が建っている。平屋の前には梅干しの漬け物の大瓶がいくつも並んでいる。トタン屋根の倉庫のようなところも段差があって二三段の階段を上ってそこにあがれるようになっている。
 その回流式プールの金網のかげになっているところからじょじょに猫車を押した人影が上がってくる。じょじょにその人影が見えてくるということはそこがゆるやかな坂になっているらしい。その男は頭にタオルを巻いている。猫車には山盛りに何か積んである。その山にはスコップがささっている。よく見るとそれは配合飼料のようだった。坂を上がってくるときにも、男は猫車のバランスをとるのが大変なようだった。男にとってはだいぶ重い荷のようであり、ふらふらと坂を上ってきた。最後の坂を上りきるところでは男は顔を真っ赤にして坂を登り切った。その男がその仕事に一心に取り組んでいることはわかった。上に上がりきると猫車をいったんプールサイドのコンクリートの上に置いて、頭に巻いていたタオルをほどいて顔の汗を拭いている。それから思い直したように頭にそのタオルをまき直すとまた猫車の取っ手を持って持ち上げた。それからまた口をへの字に曲げながら配合飼料が山と積まれた猫車を押してこっちに持って来た。プールのちょうど入り口から半周ほどのところに太い水色に塗られた鉄管があってそこから勢いよく水が流れ落ちていて水煙がたっている。男はそこまで猫車を押して来た。そこで猫車を停めると斜めに刺さったスコップを両手で引っこ抜くと配合飼料をスコップ一杯にすくい取ってプールのなかほどにばらまいた。飼料が水面に落ちて行くとそれを求めるあゆの群が寄って来て突然の雷雨が泥道を叩くように水しぶきが生じた。こんな水しぶきの立ち方は七人のさむらいという黒沢明の映画の集団による入り乱れての戦闘場面だけだったような気がする。その様子を見ると満足したように男は再びスコップでえさをすくい取るとふたたび水面にばらまいた。そして数え切れない数のあゆが水面に銃弾の雨をふらせるように水面近くで身をくねらせた。あゆたちの生に対する渇仰の象徴のように。男はそんな行為を二度三度と続ける。
 余はそれがおもしろくプールを取り囲んでいる金網のそばに思わず近寄ってその様子を見ていた。鯉の滝のぼりというものがあるが、まるであゆの滝のぼりのようである。
 山間の霧の海の中に置かれたこの施設が、大きな噴水のように思えた。すべてを見せれば神秘さや神々しさが失われる。杉や檜の衣装をまとった女王はうすぎぬを身にまとっていなければならない。この地のどこかにその衣のしっぽがどこかにあるのかも知れない。この噴水もそのしっぽの一つなのかも知れない。しかし、その源流の一つを見つけたという驚きでもない。はじけるようなあゆの姿を見た満足感だけでもない。その男が一心不乱に働いて余の存在にも気づかない様子に心をとめたのである。男は額に汗をかいていた。
 「あみ子ちゃんの家に泊まっているお客さん」
スコップを持つ手をゆるめて男は首にタオルを巻いたまま、余のほうを振り向いた。それから空になった猫車にスコップを置くと余とのあいだの境になっている金網のところまでやって来た。
「こんなところまでなんで来たんですか」
男は額のところの汗をタオルで拭った。
「散歩をしていたら、ここまで来たんだよ。きみは実にいろいろな仕事をしているじゃないか。連絡船の乗務員から始まって、野球のボールの回収、そしてあゆの養殖場で魚に餌をあげているのかい」
「えへへへ」
滝沢繁明はやはりタオルで顔の汗を拭きながら照れ笑いをしている。
「おにぎりをたくさん持って来たんです。一緒に食べませんか。ちょうど、午前中の仕事も終わったところなんです」
滝沢繁明はそのおにぎりが誰の手で握られたものかは言わなかった。滝沢繁明はもとに来た坂を今度は下って金網の同じ側に来た。余が同意すると
「こっちで食べましょうよ」
と余を誘った。滝沢繁明が余を誘った場所は大きな切り妻の三角屋根のほうでなく、木造の板張りの壁を持った弓道場のようなところだった。コンクリートのべた板みたいなものが無造作に置かれて階段となり、その板と板とのあいだには雑草が生えていて、板のはじのところもそうなっている。その板は風雨にさらされて砂のざらざらした表面が表に出ている。板のはしのところには大谷石の段々がくっっいていて、背の低いこびとの手すりのようだった。大谷石のだんだんの上には金魚鉢のようなかたちのした鉢が乗っていて万年青みたいな色の濃い葉の植物が植わっている。その向こうにはいくつも区切られた四角い池があって水が水中の微生物のためか、お茶のようにどろりとした感じで中が見えないのだが魚が泳いでいるようだった。その四角い池も上から下に水が巡回するように段々になっていた。その朽ちた階段を登り切るとプールのところから見えた弓道場のようなところに達してそのまわりには大きな火鉢のようなものが並んでいた。その建物の窓から中をのぞくことが出来て、その中にはコンクリートで出来た、朽ちた大きなプールみたいなものが出来ていて、しかし、その中には水は張られていなかった。そしてコンクリートは灰褐色の色をうせて黒くなっている。火鉢の並びのところに渋茶みたいな長椅子が置かれていて滝沢繁明は余をそこに座るように誘った。
「ここ、ここ。ここに座ったらいかがですか」
滝沢繁明の座った横には竹の皮で包んだ大きな握り飯の包みと湯飲みが二つ、それに中国製の魔法瓶が置かれている。余はその握り飯が少なからず大きいことに驚いた。余が座ると滝沢繁明は文鳥の水容器のような茶碗にお茶を注いだ。白く厚い陶器の中にレモン色の液体が八分目までたたえられた。余はその茶碗を口のたりにまで持ってきながら
「那古井の温泉にこんなところがあるなんて思いもしませんでしたよ。それにしても滝沢さんは実にいろいろな仕事に就いていられるのですな」
とさっきと同じようなことを聞いた。
「この後ろにあるいけす、今は水も張っていないんですが、ここが最初に魚の養殖がはじめられた場所なんですよ。この那古井では歴史的な場所ですね。さっき、僕が鮎に餌をやっていたでしょう。あの回遊式のプールのほうは十年ぐらい前に出来たんです。それまではここで鮎の養殖をやっていたんですよ。川から水を引いて来て水が流れるようにしてですね」
「猫車を押していたとき、滝沢さんはふらふらとしていましたよ。随分と重いんですか」
「坂を上る作業がなければそんなにでもありませんよ」
滝沢繁明はおにぎりを頬張りながらにっこりとした。
「貴殿は随分とよく働きますな」
すると滝沢繁明は照れくさそうに苦笑いをした。
「いつだったか、お客さんに、茶店のところで僕が泣きわめきながらノートをあなたから奪い取ったことがありましたね。覚えていますか。照れくさいな。あのときは自暴自棄になっていたんです」
照れくささに乙女のように顔を染めた滝沢繁明が横に座っている。
その気持ちは余にもわかった。余もつい数日前に同じ気持ちを味わっている。
「もちろん、あみ子ちゃんと別れることになったからなんです。でも僕は考えたんです。僕の家が不渡りを出して経済的に苦しくなってあみ子ちゃんと別れなければならないとしても、それは決して運命ではないんだ。単なる事象に過ぎないんだと考え直したんです」
この若者は自分の不幸を運命とは考えていない。歩いているとき、向こうから飛んで来て顔に当たった木の葉ぐらいに考えている。
「だから、うんと働いて借金を返すことが出来たらあみ子ちゃんと結婚出来ると思うんです」
「あみ子ちゃんを愛しているのかな」
「アイ ラブ アミコ」
若者は言った。若者の瞳は澄んでいた。
余は神ということを考えてみた。この若者はあみ子と結婚することによって幸福になると信じている。あみ子が幸福のもとだと考えている。その幸福を得るために身を粉にして働いている。と同時に神を信じられない哀れな人間のことも考えてみた。いろいろな情報が入って来て、人は虚栄心、それも知的虚栄心を持ったりすると、神を信じなくなる。神という言い方をすればあまりにも神秘主義的すぎる。それはまた自分の運命を握っているかも知れない何者かのことでもある。
 芥川龍之介の箴言にいい人というのがある。
いい人の定義というのが
 好人物は何よりも先に天上の神に似たものである。第一に歓喜を語るのによい。第二に不平を訴えるによい。第三にーいてもいないでもよい。
というものがある。最後にはいてもいなくてもいい人のことで、神もだいぶ見限られたものである。これは近代人における一般の神というものの考えと似ている。芥川龍之介は近代人であった。そして彼は神を信じることが出来なくて自殺した。
 しかし、この若者にとってあみ子は神なのだ。それはあみ子が彼に絶対的な影響力を及ぼしているというわけではない。自分の現世的な利益を越えたものであるのかも知れない。神でもあり、神の創った設計図そのものなのかも知れない。
 つまり運命の人という言い方でも言うことが出来る。その人が運命の人なら、ふらふらとすることはない。近代では自らの運命を自らの手でつかめという。つかんでもつかんでも次の運命がやってくる。しかし神にしかれた道ならばその道を真っ直ぐに進めばいい。黒田如水、水のように運命に身をまかせるのだ。滝沢繁明は黒田如水であった。運命の人は向こうにどんとひかえているのだから。
純愛という二文字をしっかりと胸に抱いてこの若者は生きている。たとえこの若者のあみ子に向かう情熱に不純なものがあったとしても彼は一直線の道を歩いている。この意味で純愛である。燃え上がる純愛である。余も何か幸福になる。まだ世の中は捨てたものではない。余は若者に聞いた。
「いつから、あみ子ちゃんを愛し始めたのですかな」
余はあみ子と滝沢の家が古い昔からの因縁でいつかは結ばれる仲だということは聞き及んでいた。しかし、滝沢繁明の心の中にいつ、この恋の卵が生じたのか。
すると滝沢繁明は恥ずかしそうに話し始めた。
「あみ子ちゃんと僕は那古井キノコ狩りクラブというものに所属していたんです。天狗山にクラブの連中数十人ときのこ狩りに行ったときのことなんです。でも、なんにもなかったんですよ。いつもと同じような那古井の自然でした。平々凡々。みんながてんでばらばらにキノコ狩りに打ち興じていて、ばらばらに広がっていました。ちょうど空に変な黒雲が生じて雲行きが妖しくなっていました。僕はきのこ狩りなんてばかばかしくて木の根元のところで昼寝をしていたんです。そうしたら、急に胸が苦しくなって、お前に殺された恨みだと言って、あとからあとからゾンビがやって来て僕の上においかぶさってくるんです。そのとき、苦しくって苦しくって、ゾンビたちにまとわりつかれたまま、闇の中に落ちて行きました。僕が声にならないような叫び声をあげると、急にさわやかな風が吹いてきて、楽な気持ちになって目を覚ますとあみ子ちゃんが上から僕の顔をのぞき込んでいたんです。そのとき、この世の中にこんなきれいな人がいるんだろうかと思いました。そのときからあみ子ちゃんは幼なじみのあみ子ちゃんでもなくて、因習の許嫁のあみ子ちゃんでもなくて、僕のあみ子ちゃんになっちゃったんです」
 それから数日後、余は阿古井の街から半病人のような顔つきをして那古井の宿に戻って来た。余は誰にも顔を見られるのを拒んだ。途中でアルバイトの女の子からも声をかけられたが顔を隠すようにして自分の部屋に入った。アルバイトの女の子は余の気が違ったと思ったかも知れない。それでも余は夕方頃になるとなんとか気分を普通に持ち直し、宿の中庭に出ると手に持った木の小枝で地面に相合傘を書いてその中に滝沢繁明とあみ子の名前を入れた。そして傘の上に純愛と大きく書いた。別に幾何学に没頭していて兵士に殺されたアルキメデスを気取っていたわけではない。裸でギリシャ語でわかった、わかったと叫びながら町中を走るような真似はしない。しかし余はその相合傘にひとり見入っていた。傘は一筆描きで描きうる。傘の上の純愛という文字は余の心全体を鷲掴みにして上へ下へと無理矢理引きずりまわすような何かがあった。すると何者かが飛び降りて来てその相合い傘を踏みにじった。そばに大きな石があってそこから飛び降りてその相合い傘を土足で踏みにじったのだ。余が顔を上げるとそこには(●´ー`●)安部なつみが売春宿の親父のような表情をしてせせら笑っていた。
「なにが、純愛よ」
(●´ー`●)安部の鼻の穴が見える。それが尊大さの象徴のように。(●´ー`●)安部の足下にひざまずいている余の頭頂に侮蔑の息を吹きかける。山を霧がおおうように、毒流が致死の毒霧をまき散らすように。(●´ー`●)安部の体育館履きみたいなゴムの運動靴が地面に来着したときに大きな土ぼこりがまきあがった。
 不純物の混じった王冠を見破る法則を見つけたアルキメデスは帝国の無謀な兵隊に刺し殺された。余は妖怪(●´ー`●)安部の扁平足に踏み殺されるかも知れない。
 「余の描いた相合い傘から足をのけろ。不浄の妖怪め」
「何よ相合傘なんて。あたいはそういう甘ったるいものが大嫌いなんだよ」
相変わらず(●´ー`●)安部はせせら笑っている。
「愛は甘くはない。純愛は吹雪ふく雪原に結晶する情熱の集合体のようなものだ。その炎はどんなに風が吹いても、どんな強固なのみでこわそうとしても壊れない透明の器に入っているのだ。そして外の世界に恩沢の光と熱を与え続けるのだ。お前にはそんな真似はできまい。あみ子ちゃんと滝沢くんのカップルだからこんな奇跡が起こせるのだ。それでいいのだ」
余は(●´ー`●)安部の顔を見上げながら言った。古来より幾多の哲人がこれらの暴威に命を落としたことだろう。フランス化学界の雄、ラボワジェが革命派を名乗る山賊のやいばに命を落としたとき、ある百科全書派はこう言った。
 フランス化学界は百年の歴史を失った、と。
「なんども言っているだろ。あたいは純愛だとか、プラトニックラブとか、初恋だとか、そんな甘ったるい言葉が大嫌いなんだよ」
(●´ー`●)安部はやっぱり腕を組んで余の地面に描いた相合傘の上に立っている。つい最近、妖怪と契約をまじわしたのに、これはおかしいと余は思った。余が主人で妖怪(●´ー`●)安部は余の召使いであるはずだ。しかし、余と(●´ー`●)安部が肉体関係を結んでいくうちに(●´ー`●)安部の態度はますます横柄になっていった。どちらが主人か召使いかわからなくなった。そして(●´ー`●)安部の言動にも行動にも狂気にも似たとげとげしさが表出してきたのもまた事実だ。その(●´ー`●)安部が純愛という言葉に敵意を表しているのもうべなるかなである。悪魔が崇高な十字架を意味嫌い、守銭奴が聖人にばけつの水をかぶせる今日である。そして今度は今飛び降りた岩にこしかけると足を組んで十九世紀のフランスの貴婦人が使うような長煙管を妖術で取り出すとスパスパとやりだした。たばこの煙を口から出すたびに足を組み替える。そのたびに内股がちろちろと見える。それは見方に寄ればパリの裏町を根城にして自由に徘徊して、貴族の館に忍び込み、ビーナスの涙とか、アフリカの黒貂とかいった名前のついた宝石を盗み出してくる女盗賊のようだった。しかし、恥ずかしいが告白するとその(●´ー`●)安部の姿に余はすっかりと心を奪われていたのも事実なのである。
(●´ー`●)安部は性的に余の優位に立っている。この事実は動かしがたい。
「アルバイトの女から聞いたけど、半病人のような顔をして那古井に戻って来たそうじゃないか」
「余は元気な顔をして戻って来たのだ」
「嘘を言いでないよ。宿の暗がりの部屋でアルバイトの女に水銀の入った軟膏は置いてないかと聞いたそうじゃないか。それに川o・-・)紺野さんがお前の姿を薬屋の前で見かけたと言っているんだよ」
「嘘だ。ぶっ、侮辱だ。誰が水銀軟膏なんて求めるか」
余はどもりながら(●´ー`●)安部の方に向かってつばを飛ばした。
(●´ー`●)安部はその様子がよっぽどおかしかったと思われる。岩の上で腹を抱えて笑い出した。
「むきになるんじゃないよ。今夜も可愛がってやるからな。わたしというものがあるのに、他の女にお前が興味を持つなんてことがあるとは思えないからな。わたしの身体を味わった男は一生、わたしから離れられないのよ」
偉い自信だ。余は内心反発するものがあったが黙っていた。しかしそのとおりである。余はもしかしたら、テイク2の深沢のように、もしくは高知のぼるのように、世の男のすべての嫉妬と羨望を一気に受けるべき身分なのかも知れない。それでいいのだ。きれいで金持ちの女優のペットとして毎晩可愛がられるという至福の身分。これはすべての男が望んでも果てし得ない境遇ではある。しかしその余の内心を見透かすような(●´ー`●)安部の発言、許せん。余のプライドはいたく傷つけられる。
しかし(●´ー`●)安部は何を言っているのだろう。水銀軟膏は最近では発売されなくなった。発ガン性の疑いがあるからだ。でも水銀軟膏と聞いただけで男なら何に使うかだいたいわかるだろう。
「でも、純愛はあると思う」
おこられた小学生が不満を言うようにぽつりとつぶやいた。その言葉をやはり(●´ー`●)安部は聞いていた。
「なんだって、純愛はあるだって。おもしろいことを言うじゃないか。わたしにそんなことを言う資格がお前にあるのかい。今日、お前は半病人のような顔をして帰って来たね。その理由はわかっているんだよ」
「なんだよ」
「なんだとはなんだよ。わたしの身体がなければ一日だって生きていけないくせに」
「ふん」
(●´ー`●)安部は余の手をとると自分の股間に余の手を押しつけた。(●´ー`●)安部はパンティをはいていなかった。
「昨日も三回もやったわよね」
(●´ー`●)安部はうるんだ目をして売春婦のように余の瞳を見つめた。
そしてまた声高々に大笑いを始めた。
 余は本当にどうかしていた。余は有頂天だった。余は熱病にかかっていたような気がする。あの日、あのとき余はどうしていたのだろう。確かに春にしては少し変わった天気だった。暖かいという感覚を通り越してなま暖かい風が吹いていた。赤煉瓦の壁の前では春のさかりをつげるもんしろ蝶が生の喜びを高らかに歌うように乱舞していた。
 余に不可能なことはないような気がしていた。
妖怪(●´ー`●)安部は余に金ぴかの海外製高級腕時計を送ってくれた。そして銀行の通帳をくれた。その通帳にはいつも数字のゼロがいくつも並んでいた。
 余はなんでも出来るような気がしていた。
余は阿古井の街に行った。阿古井の街には場外馬券場がある。その前日から余は神の啓示を受けていた。余に祝福があるという天の言葉を聞いていた。
 余は一財産を作る気になって通帳の全額をおろし、さらに天一報という馬にかける気になっていた。天一坊ではない。天一報である。天一坊では葵転覆計画になってしまう。なにしろ余には神がついていたから、通帳の金では足りない。天一報は必ず来る。来るのだ。余にはわかっていた。余は通帳の金を元手にしてさらに金をつぎ込むことを考えた。そこにおばあさんの顔をロゴにした金融会社が見えた。余はそこで通帳の全額を担保にしてその十倍の金を借りた。余はその全部をつぎ込んだ。余は高額納税者になるはずだった。
だった。
「ばか」
余はうつむいた。でも(●´ー`●)安部がなぜ、そのことを知っているのだ。
「これがなんだかわかる」
(●´ー`●)安部は一枚の紙切れをひらひらさせた。それは余の借金証書である。
「騙したな」
「おっと、危ない。これはコピーよ」
「妖怪、やっぱり、お前は妖怪だ」
「妖怪、いいじゃない。わたしが妖術を使えばこんなことをするなんて朝飯前よ。架空の金融会社を作ることなんて朝飯前よ」
「で、なにが、お前の要望なんだ」
「とりあえず、わたしには逆らえないってことね。もう、主人と召使いの関係は逆転しているってことなの。こんなことが公になったらあなたの家名はどうなることでしょうね。あなたはわたしの身体におぼれていればそれでいいのよ。さて、とりあえず、まず、ここで一発やる」
(●´ー`●)安部は挑発的な目で余を見つめた。
「いやだ」
余はまだ少しの自負心というものをかろうじて持っていた。
「我慢しなくていいのよ。ここでやりたいんでしょう。わたしの身体が欲しいんでしょう。あげるわよ。それに許してあげる」
「なにを」
「わたしのことを「なっち」と呼んでいいわよ。さあ、いいなさい。なっち、ここでやろうって。そうしたら、ここでからだを開いてあげるから」
「うう。うう」
余は心を抑えた。ここで「なっち」と呼びかけたら余の心は心張り棒を失ってしまう。自分というものがなくなってしまう気がしたからだ。
「な、な、な、な、な、なめこ汁赤出汁。誰とでも遊んでくれるなっち。やりまん女なっち」
すると岩の上に座っていた(●´ー`●)安部はその上に仁王立ちになって、実際よりも巨大化したように余には感じられた。そして天上には漠として黒い雷雲がおこり、あたりは暗くなった。そして雲の中では巨大な龍が泳ぎ、無尽劫の大きさの鉄輪を地上で巨人が押し回しているようにごろごろと低く雷が鳴った。と同時に瞬光が天上と地上のあいだを切り裂いた。一瞬にして天と地が無数の太い稲妻で結ばれた。光の塊が爆発したようにあたりは明るくなり、
天狗山の中腹に生えている一本杉がめりめりと音を立てて折れた。
「まったく、強情な男だね。なっちと一声呼べばいいんだよ」
「でも、純愛だってあると思う」
余は雷の恐ろしげな音に両耳をふさいだ。
「純愛だって、なにをまた寝ぼけたことを言っているのだ。この男は。世の中にそんなものはないんだよ。わたしが一番嫌いなのは純愛だとか、プラトニックラブだとか、そんな歯の浮くような言葉なんだよ」
「じゃあ、どんな言葉が好きなんだよ」
余は虚勢を張った。そのくせ恐ろしさに身体はぶるぶるとふるえていた。
「ふん、言葉なんて虚しいものはわたしは信用しないよ。わたしが信ずるものはこの身体、そうセックスよ。身体と身体の絡み合いよ。粘膜と粘膜の交合よ。わたしはこの身体で世界中の男を跪かせてやるからね。ふほほほほほ」
(●´ー`●)安部は組んでいた膝をまた組み直して片足を上げた。(●´ー`●)安部の白い大根足が宙を舞った。
「でも、でも、純愛って存在するよ。あみ子ちゃんと滝沢くんは純愛中なんだ。ふたりはお互いに思い合っているよ。ふたりの愛は永遠だよ。誰がどんなことをしたってふたりのあいだを引き裂くことは出来ないよ」
「まったく、何を言ってるんだね。このうすらとんかちが。永遠の愛なんて存在しないんだよ。男と女の愛なんて薄紙を一枚裂くよりも簡単なんだからね。ふん、こんなところで時間を食っちまった。わたしは一稼ぎしに行かなきゃならないんだからね」
(●´ー`●)安部の身体のまわりにいちだのつむじ風がおこってその渦の中に(●´ー`●)安部は隠れて、その見たこともないような外国のねじれたマカロニみたいな風ごと(●´ー`●)安部の身体は空中に飛んで行った。
 「安部、また稼ぎに行ったな」
余は(●´ー`●)安部に殺されるかも知れないと思ったのでひとまず安心した。
余は那古井の宿に戻ると京都の北の方にあるお寺みたいに緑色の苔一面に覆われている中庭の上に裸足でおりた。なんというお寺だったか。一度行ったことがある。高山寺だっただろうか。はっきりとしたことはわからない。足の裏を心地よい刺激が刺す。建仁寺垣で覆われた庭の中には山の方から清水が引いてあって斜めに切った竹の切り口から水滴が落ちる仕組みになっている。その落ちて行く先にはうずらの卵みたいな石がたくさん敷いてあって水琴窟が入っているらしい。水で濡れた石の色は宝石よりも美しいとは言わないが心をなめらかにする。黒緑をしている。耳をすますとその音が微かに聞こえる。その瓶のまわりに盆栽みたいに小型な紅葉の木が植わっている。建仁寺垣の向こうには春の海が見える。どこまでもたおやかでおだやかである。余は井川はるら嬢のことを考えていた。しかし、このときは余の心を不快にする原た泰三の顔は浮かばなかった。これはどういう精神作用だろうか。春草が秋になれば枯れて地に倒れるように記憶というものも日々更新されていく。夜と昼があり、眠りというものがあるのもこの更新作用を有効に働かせるための神様が人間に与えてくれた贈り物だというようなことを医学者が言っていた。まだ失恋の痛手から逃れられぬ余ではあるが、原た泰三の顔が細部まで余の頭に浮かぶだんどりからは遠のいていた。時間は有り難い。
 井川はるら嬢にもちらりと十二倍くよう眼の硯のことを話した。十二倍くよう眼というのは余の発明である。眼が十二個あるからそう名付けた。しかし、最近、その包んだ袋を開けて現物を見たら九つしか眼はなくなっていた。だから今は九倍くよう眼の硯と呼ぶしかない。井川はるら嬢の話しによるとその蓋も大事なものだそうだ。そのことは観海寺の小坊主もそう言っていた。宗教的な意味合いがあるのかも知れぬ。余は実家の納戸からそれを持って来るとき、たいして大事なものではないと思っておったから、ほっぽらかして置いた。そんな大事なものならここに本体と一緒に持って来なければならんだろう。余は実家の母親にそれを那古井の宿まで郵便でも運送屋でもよいから送るように電話をかけた。それが一週間前のことだ。それがまだここに届かないのはおかしい。余はアルバイトの女に駅のそばにある郵便局へ行ったら余の荷物が届いていないか調べてくれと頼んでおいた。
 縁側のところにアルバイトの女がやって来た。余は裸足になっていた足にまた下駄を急いで履いた。
「お客さん、郵便局へ行って来ましたよ」
「そうか、ありがとう」
「もう、郵便局にはお客さんの荷物は届いていたそうですよ。でも、この宿に届く前にお客さんの身分証明書を持った人が来てその荷物を持って行ったそうですよ。以上、わたしは洗濯物があるから行きますからね」
アルバイトの女は遠くからそう言うと縁側の奧の方に小走りで洗濯物の駕籠を抱えながら行ってしまった。余はもっと聞きたいことがあったのに手元不如意な感じが残った。でもなんで井川はるら嬢はそのふたも大事だということを言ったのだろう。余は失恋の痛みも乗り越えて井川はるら嬢のところにまた行かなければならないかと思った。心苦しくもあり、また楽しみでもあった。
 余が苔を裸足の足で踏む独特の健康法を試みたあと、縁側に腰掛けておじいさんのようにぼんやりと海を見ているとニイニイという音がする。ふり返るとそこには川o・-・)紺野さんと(ё)新垣が立っていた。
「ご主人さま」
(●´ー`●)安部はすでに余のことを召使いのように扱っていたが川o・-・)紺野さんは余のことをまだ「ご主人様」だと思っているのかも知れない。(ё)新垣はなんと考えているのかわからぬ。少なくとも犬とアメーバーの間に存在する生物には違いないと思うのだが。(ё)新垣の歯は相変わらず鋭い、くるみの殻も砕くかも知れない。このような頑強な歯を見たのは中国びっくり人間発見という番組に出て来た四川省安南群在住のリー・ウンチョンさん以来である。リー・ウンチョンさんは天井からつり下げられた鉄の線に噛みついてそのまま空中に浮かんで三十回転もした。余はテレビに(ё)新垣を出して一儲けしようかと考えたこともあった。その(ё)新垣も上目遣いに余の方を見ている。これは余に頼み事がある証拠である。
「ご主人さま、錦帯橋につれて行ってください」
川o・-・)紺野さんと(ё)新垣が並んで余の方を向いていた。
「錦帯橋、それは岩国にあるものだろう」
錦帯橋、山口県の岩国市にある錦川を横断して五つの橋をつらね、架橋となす。半円のような個々の橋が五つつらなった姿は美しい。江戸時代に作られた。しかしここは山口県ではない。
「ここは山口県ではない。残念ながらそこには行けないよ。少なくとも駅で切符を買って列車に乗らなければならない」
「あみ子ちゃんがこの郷にも錦帯橋があると言いました」
「ニイ、ニイ」
(ё)新垣も同意する。
「場所はわかるのか」
「あみ子ちゃんが地図をくれました」
余は川o・-・)紺野さんと(ё)新垣をつれて散歩がてらにそこに行ってみることにする。川o・-・)紺野さんの手には確かにその地図が握られている。その橋はこの郷のはずれにあるそうな。この郷に最初に駅に降り立ったとき、鮎が泳いでいる川があった。その川の上流に向かって河畔を歩いて行くらしい。水が流れて砂が堆積しているところはそのまま歩いて行ける。流れが岩を切り取っているところはそのまま進めば水の中に落ちる。陸の方へ上がって熊笹をかき分け、林の中を進まなければならない。そのときもいつも川を意識して林のあいだから川の流れを見て、渓流の音を聞きながらさきに進まなければならない。河畔を歩くと云っても岩のごろごろしている河原を歩いて行くので散歩のようではない。歩いて行くというよりも大きな岩を乗り越えて行く。岩の横に川の流れで岩が削られたところがあって、そこが測道のようになっているが人が一人通るぐらいの幅しかなく、横の岩にへばりつくようにして上流に向かって行く。そんな岩登りを何度か繰り返すと比較的歩きやすい川端になった。しかし、雨期になって川の水が増えたらここは川の底になるだろう。
川o・-・)「ご主人さま、わたし暴走機関車という映画を見たいんです」
「なんで」
川o・-・)紺野さんの言葉は余の神経を不安定にした。川o・-・)紺野さんは何で暴走機関車なんてものを持ち出したのだろうか。その暴走という言葉に余と(●´ー`●)安部との秘め事に対して川o・-・)紺野さんが何か考えているのではないかという不安感である。川o・-・)紺野さんが何かを意図してその暴走を持ち出しているのではないかという気持ちである。(●´ー`●)安部と余の関係が逆転していることを川o・-・)紺野さんが知っているのではないかという疑念である。しかしそのときまで余は暴走機関車なんて題名の映画があるなどということはまったく知らなかった。しかし、それは実際にはあったのであるが。映画界の巨匠、故黒沢明が脚本だけを書いていて外国人が映画化した映画があったのだ。しかし、もう一度言えば余の精神の平衡を少し狂わせたのはその暴走という言葉のニュアンスである。それが暗喩でないと誰が言えるだろう。それの仕掛け人が川o・-・)紺野さんだと言っているのではない。それが目に見えない何者か、暴走、つまりそれは(●´ー`●)安部の行動そのものに違いない。(●´ー`●)安部のセックス漬けの生活、誰とでも寝る(●´ー`●)安部。余は毎日のように(●´ー`●)安部とのセックスに夜を費やしている。しかし、相手は余だけではないのだ。さまざまな男とやっている。それの筆頭はお塩だろう。それを単なる性欲の所作だとすれば淫乱雌豚の(●´ー`●)安部だと言ってもあの妖怪の名誉に傷がつく。(●´ー`●)安部とのセックスにより、余は解放感を味わう。もちろん、(●´ー`●)安部が心の中に何を考えているのかはわからない。しかし、肌と肌を接して唇を重ねているときにはたとえ心の中がどうなっているかわからないにしても、(●´ー`●)安部のすべてをわかったような気持ちになる。実際、余は(●´ー`●)安部の身体のすみずみまで知っている。夜、一つの大きなふとんの中には川o・-・)紺野さんもいる。しかし、余は川o・-・)紺野さんの姿には不安を感じる。川o・-・)紺野さんとはやったことがない。川o・-・)紺野さんはまだ若すぎる。(●´ー`●)安部のようには行かない。もしかしたら(●´ー`●)安部の身体を通り抜けて行った男たちはみんな(●´ー`●)安部のことをすべて知り尽くしているのかも知れないと思っているのかも知れない。そこで男は詐欺に会うのだろう。枕さがしでさいふを抜き取られることになる。妖怪とはいえ罪なことをしている(●´ー`●)安部である。永遠に年をとらず男の精液を絞り尽くして生きていく(●´ー`●)安部。そして(●´ー`●)安部とセックスをした数え切れない男たち。なるほど妖怪というものは恐ろしい。妖怪が人間と共存出来ないのは道理である。
 川岸に生えている木がトンネルのようになって薄暗くなっている上流の方から笹舟のようなものが流れて来る。小さな舟だ。艫にはエンジンがついているようだった。川の流れに上下している舟の姿が大きくなっていくにつれて傘を被った船頭の姿も見えた。
滝沢繁明である。今度は滝沢繁明は簑笠を被って船頭の格好をしている。いやはやいろいろな格好をする男だ。小舟が上下するたびに滝沢の姿も上下する。余は大きく手を振った。川o・-・)紺野さんも手を振った。(ё)新垣も手を振った。滝沢繁明は舟のエンジンを逆転させて川の流れに逆らう。微妙に舟はゆっくりと下り始める。それと同時に滝沢繁明は舵を微妙にいじくる。小舟は川岸に寄ってほとんど停止している状態になる。舟の中からとも綱を岸の方へ投げ捨てる。川o・-・)紺野さんと(ё)新垣がその綱の方に走り寄って行く。
(ё)新垣が綱を口でくわえた。
「そこに地面に根を張っている岩があるでしょう。そこに綱をくくりつけてください」
滝沢繁明が小舟の中から大きな声で叫んだ。(ё)新垣が綱を口にくわえたまま、その岩の方に走って行った。余も川o・-・)紺野さんも一緒にその綱を引っ張っている間に(ё)新垣がその岩に綱をまきつけて結んだ。小舟は川岸に着いて水の流れにしたがって木の葉のようにぷかぷかと浮かんでいる。水が透明だったので余はこのときはじめてこの手の舟の底のほう見た。小舟の喫水線のところから流れに沿って斜めの線状が幾筋も川面に走っている。これで船頭がいなくてもこの小舟が流れていく心配はない。簑笠地蔵のような格好をした滝沢繁明が河原に降り立った。
余「変わったところでお会いしますな。今度は川下りの船頭さんですかな」
滝沢「ええ、上流の方へお客さんをつれて行って帰るところだったんです」
滝沢がなんで船頭をしているか、その理由は言わずもがなである。余の横には川o・-・)紺野さんも(ё)新垣も立っている。滝沢繁明は川の前に立っている。川の向こうにはもくもくと生えている木の茂みがいくつも折り重なり、横方向にも並んでいる。
 (ё)新垣は珍しいものを見るように滝沢を見ている。
滝沢「そうだ、おにぎりがあるんです。食べませんか」
滝沢は岸につながれている小舟の中をのぞき込んだ。そして不安定な船底に手を伸ばすと熊笹の皮に包まれたおにぎりの包みを取り出した。握り飯の好きな男だ。でも誰が握ってくれたのだろう。余はそんな考えがふと起こった。しかし、余はそんな探偵みたいなことをやる気にはならなかった。その包みを川o・-・)紺野さんと(ё)新垣はじっと見つめている。われわれは少し川端から離れた大きな岩を椅子がわりにして四人並んで座った。滝沢は大きなおにぎりの包みを左手で膝の上にのせた。余は一瞬おやと思った。滝沢の左手には白い包帯が巻かれている。
余「左手をけがしているようですが、どうしたのですかな」
滝沢「何でもないんです」
滝沢はわざとなんでもないんだということを強調するように握り飯の包みを解く、するとちょうど良い具合に海苔をまいた大きなおむすびが四つ出てきた。滝沢はそのおにぎりを四人で分ける。余はそれにかぶりつく。
滝沢「川の上流に三人で上がって行くつもりですか。どこへ行くつもりですか」
その問いには余ではなく、川o・-・)紺野さんが答えた。川o・-・)紺野さんの後ろにはいつのまにか大きな水槽があって、その中には七十センチもある大きな金魚が泳いでいる。それはいつもと同じことだった。
川o・-・)紺野「錦帯橋を見に行くつもりなんです。この地図はあみ子ちゃんにもらいました」
「はあ、錦帯橋に」
滝沢は間延びしておむすびにかじり付きながら川o・-・)紺野さんの方を見た。
「錦帯橋って橋が五つも架かっているのですかな」
滝沢はおもしろそうに笑う。
「橋は一つだけですよ。この川の両岸を結んでいる岩で出来た橋なんです。でも、人間が作った橋ではありませんよ。自然現象で出来た橋なんです」
「じゃあ、人が使っているというわけではないのですかな」
「いいえ、使っていますよ。どういう具合で出来たのか、よくわからないんですけど、この川の両側を繋ぐような大きな岩の塊なんです。その岩の中に大きな穴が開いていて川が流れているんです。いつの時代だかわからないんですけどその岩の上の方を削って人が通れるようになっているんです」
「その上を通るとどこへ行くことが出来るのでしょうかな」
「隣の県に続く近道なんですよ。昔からこの那古井の住民は一旗揚げるためにこの郷を出るときにはその橋を渡って行くんです」
「歴史的な橋なんですな」
「そうなんです」
四人並んでいるはずなのに並んで握り飯を食っているのは三人しかいない。余が横を見ると(ё)新垣は岩から降りて水たまりの前でパンダ座りをしながら透明な水たまりの方を見ながら握り飯を食っている。水たまりの中には一つの物体にエメラルド色と溶岩が冷めて固まる直前のような赤い色を持ったじゅん菜みたいなものが動きまわっている。よく見るといもりだ。(ё)新垣はそのいもりを見ながら何か音声を発している。余はこれまで(ё)新垣の持ちうる単語はニイガキ、とニイのみでそれの組み合わせですべての会話をこなしているとばかり思っていた。たしかにこのときの(ё)新垣の会話もこれまでの方法を踏襲していたが、一聴してこれまでと違う。いもりの動きに明らかに呼応している。(ё)新垣のニイ、ニイもニイガキももっと多彩で変化があり、感情の微妙なひだもあらわされていた。水の中のいもりも喜びを表現するようにさかんに動きまわる。そして(ё)新垣もときとして背中をそらして大笑いをする。
「ほら、(ё)新垣がイモリと話して喜んでおるぞ」
「体表面の色が青っぽくなっていますね。交尾期が近づいているのかもしれません。あのイモリはおすでしょう」
「なんで」
「だって(ё)新垣さんはめすなんでしょう」
余は妖怪たちの出現がうつぼつとする日々を過ごしはじめてから、つねに気になっていた疑問があった。妖怪たちと情誼を通ずる間柄となってから、妖怪たちには前世があり、前世で遂げられぬ思いのために妖怪になったというようなことをほのめかされたりした。そのことについて本気で聞いたことはない。猿や栗鼠しか鳴かない山の中にいることがその質問をして見ようという気にならせた。余はイモリと遊ぶ(ё)新垣を横で見ながらその質問を川o・-・)紺野さんにして見ることにした。
余「妖怪たちよ。今、その答えを余に与えて欲しい。自分たちは前世では妖怪ではなく、この世に未練を残して妖怪になったのだと言ったではないか。余にその顛末を教えて欲しい」
「僕も聞きたいな」
滝沢繁明もおむすびをほおばりながら同意した。そのときはもう川o・-・)紺野さんはひとりおにぎりを食べ終わっていたので滝沢繁明は川o・-・)紺野さんの話しが滑らかに進むようにお茶を勧めた。川o・-・)紺野さんは進められたお茶をすすった。川o・-・)紺野さんはまったりとした顔になった。

第十三回
なつみお姉さんもあんなにとげとげしく、なるとは思わなかったんです。もう少し、まろやかでした。それが男を、変な捉え方をするようになってそれが最近さらにひどくなっています。まるで針鼠のように、表面的には愛想がいいのですが、心の中では戦争をいつもやっているのです。まるですべての男が敵でもあるように、ああやってなつみ姉さんは男を誘惑して日々を送っていますが、男を愛しているからあんなことをやっているんではないんです。男を憎んでいるから自分の身体を開いているんです」
川o・-・)紺野さんはまたお茶を啜った。その話しぶりはまるで悟りきった説教僧のようでもあった。
「男を憎んでいるから」
運命には翻弄されてはいるが永遠の愛の中にがっちりと包まれている滝沢は信じられないというような表情をした。
「そうなんです。なつみ姉さんは男を憎んでいるのです。このすべての地上の男というものをすべて」
川o・-・)紺野さんの話しは大時代的になってきた。余はまるで歌舞伎の芝居の長いせりふを聞いているような気になった。
「川o・-・)紺野さん、そもそもお前たちは妖怪ではなかったということなんだね。このいもりと遊んでいる(ё)新垣も妖怪だったということなんだね」
「そうなんです」
川o・-・)紺野さんはそこで一気にお茶を飲み干した。空になった湯飲みを催促をするように差し出すと滝沢繁明がその湯飲みの中にお茶を注ぐ。
川o・-・)紺野「私たちの産は中国です」
滝沢「きみたちは中国人だったのか」
川o・-・)紺野「ニイハオ」
余「チャイナドレスを着てくれ」
すると今まで水たまりの前でいもりと遊んでいた(ё)新垣がぎろりと眼をむいて余を睨んだ。
川o・-・)紺野「わたしたち三人は中国の山東省で今から数千年前に生を受けました。春秋戦国時代の戦国時代と呼ばれる時代の楚の国に生まれました。それから十年後に秦が中国を統一しました。楚の国の半分は秦の将軍、東陶文が支配していました。楚の国の人間はみんな生かされず殺されずという生活を送っていたのです。その国の中は悲惨な状況が満ち満ちていました。道のまん中に楚の国の人間がみせしめのためにさらし首にされていたということは日常茶飯事だったのです。特にこの国を支配した将軍の東陶文の個人的な性格に基づいていたのかも知れません。東陶文は残虐であると同時に色好みでもありました。楚の国の美女たちはあの男の宮殿に集められました。しかし、無数の美女がいたとしても、その男の精力には限りがありましたので、将軍は精力増強剤を無軌道なやり方で集めました。楚の国にある冬虫夏草も朝鮮人参もすべてとりつくされました。そのためその薬を頼りにしていた多くの病人たちは死にました。しかし、楚の国には伝説の精力剤があったのです。それが黄金味いもり一家(ё)新垣ファミリーと呼ばれるいもりだったのです。そのいもりは須弥山にある日月星辰沼という井戸の中で家族揃って静かにくらしていました。その井戸は蟷螂老大という仙人が守っていたのです。しかし、楚の国の言い伝えによればそのいもりの蒸し焼きを食した人間は五十才も若返り、水の中に潜って三十分も息を止めることができると言われていましたし、それを食した梧桐という羊飼いは百人の子どもを持ったと云われています。東陶文はその黄金味いもり一家(ё)新垣ファミリーに目をつけました。全軍を持って蟷螂老大にそれを進呈するように要求しました。蟷螂老大は仙人ではありましたが、むやみな争いをさけるために黄金味いもり一家を将軍に差し出しました。奸計を持ってしてあとで彼らを取り戻そうと思っていたのです。そして将軍がもうすぐ失脚することはわかっていたからです。しかし、それも失敗しました。将軍には魔女がついていたからです。戦術と魔術の戦いで仙人は負けたのです」
おにぎりを頬張りながら滝沢繁明は川o・-・)紺野さんの方を見た。また、(ё)新垣が余たちのほうをぎろりと睨んだ。
滝沢「どんな魔女に負けたのですか」
川o・-・)紺野「おにぎり名人、釈由美世という魔女です。わたしも数千年前にその魔女の姿をはっきりと見たことがあります。一度として忘れたことはありません。その魔女はおにぎり握るのが上手だった。いつも真っ黒でつやつやしたエナメルの身体の線がぴったりと出る服を着ていました。まるでプレーメイトのようでした。そして背中には裾が現代建築のよう急に曲がっているマントを着ていてこうもりに変身するのが上手だったのです。足には網タイツをはいていました」
すると滝沢繁明は驚いたようだった。
滝沢「偶然の一致です。このおにぎりは駅前の釈釈おむすびという店で買ったんですよ。そこの主人の名前が釈由美恵と云います。みなさんの食べているおにぎりもそこの女が握ったんですよ」
川o・-・)紺野「偶然の一致ではありません。わたしたちは運命の糸でつながれているのです」
世もそんな希代な因縁のおむすびを食べていたのかと思うと少し気味が悪かった。
余「それで」
川o・-・)紺野「蝙蝠魔女、釈由美世の魔術で悲しい事態が待っていたのです。蟷螂老大が将軍の城に忍び込むと黄金味いもり一家(ё)新垣ファミリーはすでに蒸し焼きにされ、黒こげとなり、大皿の中で焼きすぎためざしみたいになって将軍の食卓に上がっていたのです。蟷螂老大は月の光に化けて城の窓の中から将軍の食堂の中に忍び込んでいたのですが、あまりの事態に仙術の力が解けて姿を表すところでした。しかし、黒こげの死体を探すと(ё)新垣ファミリーの人数よりも一匹足りません。光となった仙人は地下牢に行きました。そしてその地下牢のおまるみたいな壺の中で一匹のいもりが元気に、無邪気に泳いでいました。その姿を見ると蟷螂老大は思わず涙が出そうになりました。老大はいもりに話しかける。家に戻りたいか。ニイガキ、ニイ、ニイ、モドリタイ、ニイ、ニイ。デモ、パパモ ママモ、イナイノハ、ドウイウワケダ、ニイ、ニイ、パパ、ドコダ、ニイ、ニイ、ママ、ドコダ、ニイニイ。そう言っていもりは父と母を捜したそうです。しかし、もちろんその問いに蟷螂老大は答えられるはずがありません。ここからその姿では帰ることは出来ない。パパもママも人間に姿を変えて街の食堂で一緒に食事をするつもりでさきに行っているのじゃ。人間に姿を変えるか。アンナ、ヘンナ モノノ スガタニ ナルノワ イヤダ、ニイニイ。しかし、そうしないと一緒に食堂に入れないぞ。シカタナイ ニイニイ。ニンゲン ノ スガタ ニ ナルゾ ニイニイ。そう言って仙人の術によって人間の姿に変身して首尾良く城を脱出したのですが、そこにパパの姿もママの姿もなかったのでした。そしてその思いのため(ё)新垣は妖怪に変わったのです」
滝沢「なるほど」
余「ふーむ」
余たちから離れたところで妖怪(ё)新垣は楽しそうに水たまりの中のいもりと語らっている。(ё)新垣の前身はいもりであったか。そこでまた余には疑問が生ずる。(ё)新垣の前身がいもりなら金魚を飼っている川o・-・)紺野さんの前身はなんなのだろう。人が死んでまた生まれ変わり、また死んで生まれ変わり、そんな営みを繰り返しているならそもそも未生以前の本体はないことになる。未生以前同士がある一点で接触することだけが生の営みということになるだろう。しかし、余の目の前にはれっきとして川o・-・)紺野さんの州浜のような顔がある。もしかしたら川o・-・)紺野さんの前身は和菓子だったのかも知れない。川o・-・)紺野さんは伏し目がちに、まったりとまたお茶を啜った。そのとき例の水槽の中でぴちゃりと音がして巨大な金魚が身をくねらせると川o・-・)紺野さんはふり返り自分の子どもを見るように目を細めた。それに呼応して金魚は巨大にもかかわらず小さな口から小さなあぶくをいくつか吹き出した。水槽の中の松藻が水中ダンスを踊っているように優雅に身をくねらせる。それを見て川o・-・)紺野さんはまたうれしそうな顔をする。
余「(ё)新垣が妖怪なら川o・-・)紺野さんも妖怪であろう。川o・-・)紺野さんの前身は一体なんなのだ」
妖怪と云われて川o・-・)紺野さんは恥ずかしそうに目を伏せた。余は妖怪ということ自体が恥ずかしいということはないと思った。は恥ずかしがる必要もないのだ、川o・-・)紺野さん。それとも遠い昔を懐かしんでいるのだろうか。しかし、すぐにその目は悲しみの含んだものに変わった。川o・-・)紺野さんもまた余の知らぬ悲しい過去を持っているに違いない。
川o・-・)紺野「さっき、エロエロ光線発射、身体ぴったしハイレグワンレン魔女、釈由美世のことを言いましたよね。数千年前にあの女もわたしと同じ時代に生きていたことを話しました。それも将軍のお抱えの魔女として。世の人は勇将の下に弱卒なしと申します。エロエロ女、釈由美世もまたそうでした」

余「勇将の下に弱卒なし」
滝沢「エヘヘヘヘヘ」
川o・-・)紺野「笑うでない」
滝沢「おしお」
川o・-・)紺野「おしお、言うな」
川o・-・)紺野さんは手に持っていたうぐいす色の湯飲み茶碗を灰白色の砂岩の上に置くと滝沢繁明をきっとした目で睨み付けた。話しの途中を折られたのが気に触ったようだった。それほどその話しが川o・-・)紺野さんの大切な肌身離さず抱いていた思い出なのかも知れない。川o・-・)紺野さんのうしろに置かれている金魚も水槽に垂直の向きでじっと川o・-・)紺野さんのほうを見ている。
「わたしの生きている時代が戦国時代だったのに、どういうわけでしょうか。若くて美しい男をまるで高価な宝石のように珍重する風潮がありました。それは現代のアイドルをブラウン管や映画のスクリーンの中でもてはやすよりもさらに大変な騒ぎでした。殺伐とした時代だったのに美というものが異常に奇形のように発達したのです。世の中の勢力家が美しくて若い男を自分の所有する家宝のように集めだしたのです。しかし、変なことを考えないで下さい。軍閥たちはそれを物言わぬ至宝だと思っていたのです。兵隊達がそんな男を求めて街の中を群狼のようにうろついていたのです。わたしの家は家族で中華饅頭を屋台に積んで売っていました。その中華饅頭の製造もしていました。いつもわたしの家が屋台を出している寺の横で萌さんという一家がうどんをわたしの家と同じように屋台を出して売っていたのです。そこにわたしよりも二才年上の萌ゆうきという男の子がいました。萌ゆうきは美形でした。もし兵隊に見つかれば間違いなく東陶文の城に幽閉されて一生鑑賞物として終わったのに違いありません。もちろん生のある間だけですが。でも、どういうわけか萌ゆうきは兵隊にも見つからず、わたしの屋台の隣でいつも軽口を聞きあう仲だったのです。ゆうきはすいか畑の中に不思議な生物のいることを、彼は田舎出身なので知っていました。城に幽閉された美しい子どもたちは一生そこで生きていけるというわけではなかったのです」
余「城の中で殺されるのかな」
川o・-・)紺野「そうなんです。諸侯に食べたことのないような美味を所望された料理人が自分の息子の手首を切って唐揚げにして差し出した話しがありますよね。わたしの楚の国でも城の中では同じことが行われていました。それもその美少年たちが一番美しいときに料理にして殺して食べてしまうのです。その城内での風習はわたしが子どもの頃にはありませんでした。東陶文につれられて魔女がやって来たときからそんなことが行われ始めたのです」
滝沢「おにぎり屋の釈由美恵が、ですか」
川o・-・)紺野「おにぎり屋ではありません。蝙蝠魔女釈由美世が来てからです。蝙蝠魔女釈由美世は将軍にも勝るとも劣らず色好みでした。あの独特な服装をして、身体にぴっちりとするエナメルの水着のような服、胸のところは三十度の角度の切れ込みの入ったもので、胸の谷間のまん中よりも下のところに切り込みの頂点があります。そしてももの付け根のところは四十五度の角度になっていて、ももと腰の付け根が露出しています。そこから張りのある足が編みタイツに包まれて伸びていて、ふくらはぎをすっぽりと覆うコバルトブルーのブーツを履いていて、両肩の一番高くなっている場所に金色の大きな髑髏のボタンがついていてそこから内側が深紅の裏側が黒いこれも同じようにエナメルのマントをしています。空を飛ぶときはそのマントが風をはらんで生き物のようにたなびきますし、男を抱くときはそのマントで男を覆い隠してしまうのです。言い忘れましたが胸の前がそんなに開いているのに大事なものがぽろんとはみ出さないのは胸の前の開きを革ひもで編むようにしているからです。蝙蝠魔女、釈由美世は蝙蝠に変身することを得意にしていました。そして目からはエロエロビームというものを発射しました。この魔女が(ё)新垣ファミリーを黒焼きにしたことは前に言ったとおりです。わたしは隣のゆうきと恋いに落ちていたのです。なにしろ楚の国の中で一番美しい男でしたから、城に入れられないことが不思議でした。わたしとゆうきは一生を誓い合いました。そして兵隊が来そうなときはゆうきは屋台の陰で隠れるようにしていたのです。わたしが一家で中華饅頭を蒸かしていると近所の葉という子どもが走って来ました。兵隊が来るよ。兵隊が来るよ。魔女も一緒だよ。魔女も一緒だよ。ゆうき、隠れてちょうだい。わたしは言いました。ゆうきは急いで大きな瓶の中に隠れました。そこへあの魔女が太ももも網タイツであらわにして兵隊を従えてやって来ました。マントはやはり風にたなびいていました。その魔女は虫けらでも見るような目つきをしてそこを通り過ぎて行きました。そのあいだじゅう、魔女はエロエロ光線を発射していました。わたしがその女は通り過ぎて行ったと思い、安心して瓶の中へ ゆうき、安心して、魔女は行ってしまったわ。と言って瓶の中をのぞき込むと瓶の中は空っぽです。わたしは石畳の道の上で叫びました。ゆうき、ゆうき。すると古寺の離れた壁の曲がり角のところに黒いつやつやした塊がもごもごとうごめいています。わたしがそこへ走り寄ろうとするとその塊が急にぱっと開いて魔女がゆうきのくちびるを奪っていました。ゆうきは夢遊病者のように目を閉じていました。魔女の唇はぬらぬらと濡れていてわたしの方を見ると目を見開いてにたにたと邪悪に笑いました。お前達は恋いをしているね。ふふふふふ。恋いをしている男ほどおいしいものはない。この男は食べさせてもらうよ。そう言うとゆうきを抱いたまま城の方へ飛んで行きました。ゆうき、ゆうき、ゆうきー。わたしはその場にうずくまってしまったのです」
滝沢「信じられない」
たしかに滝沢繁明には信じられない世界に違いない。こんな理不尽なことがあろうか。愛し合っているものが別れてしまうことなんて。
川o・-・)紺野「わたしはその場にうずくまって涙をぽろぽろとこぼしました。すると前の方に落ちている石のほうから。許せん。という声がしました。そしてもう一度許せん。とい声が聞こえました。目の前を見ると一匹のカマキリがいるばかりです。そして煙が立ち上がり、一人の老人が立っているのです。それが蟷螂老大でした。娘よ。お前の恋人は蝙蝠魔女、釈由美世に連れ去られた。お前の一番愛するものを連れ去られた。お前の恋人を取り戻す。そして蝙蝠魔女を殺す。これは復讐戦じゃ。わしについて来る気があるか、わたしはもちろん、はい、と返事をしました。わしの衣の裾につかまれ、するとわたしの身体は空中を飛んでいました。そして城の中に降り立ったのです。蟷螂老大とわたしが降り立ったのは魔女の寝室でした。釈由美世はわたしのゆうきくんを裸にすると青い長いきれをゆうきくんの身体に巻き付けているところでした。わたしはこれがどういう意味があるのかわかりません。魔女、お前の悪事を精算させてやる。そしてその場で蟷螂老大と蝙蝠魔女との戦いが始まったのです。仙術と魔術の戦いでした。しかし、正義は勝つ。魔女は断末魔のうめき声をあげ、魔術エロエロ光線を最後に誰あろう、わたしのゆうきくんに発射したのです。蟷螂老大もゆうきくんに仙術をかけました。仙術、なんでも金魚化。それが蟷螂老大の究極の仙術ですべての魔術の攻撃から犠牲者の命だけは救うことの出来る仙術がこれでした。ゆうきくんは死なずにすみました。しかし、ゆうきくんは金魚になってしまったのです。魔女は死にました。お前の恋人は金魚になってしまった。そのときは小さな金魚だったのです。お前はこの金魚を育てていくつもりか。わたしは、はい、と答えました。いつか、わしよりも偉い仙人があらわれてお前の恋人を人間の姿に変えてくれる日がくるかも知れない。おこたりなく勤めるのだぞ。その日からわたしは金魚になったゆうきくんの面倒を見ているのです。それから数千年が経ちました」
話し終わった川o・-・)紺野さんは水槽の中の金魚を見ると、ゆうきくんと言葉をかける。すると金魚はうれしそうに尾っぽを振った。七十センチの金魚であるが数千年も生きながらえているならそのぐらいの大きさにはなるだろう。しかし余にはまだ疑問が残る。キリストが神であり、神の子であるマリアがキリストを生んだ。そしてマリアは大工のヨゼフを夫として処女懐胎をした、そしてキリストは神であると言われているような気がする。これがわたしの知っている歌手は私の姉のいとこの母親の家に通っていたカウンセラーの友達の子供だというようなものだ。さっぱりわからない。肝心の妖怪が出て来ない。そう(●´ー`●)安部である。そのことは余だけではなく、川o・-・)紺野さんも気になっているらしい。気になっているというよりも自分たちのことを話したので当然(●´ー`●)安部のことも話さなければいけないと思っているのかも知れない。しかし、あのひねくれた、ねじくれた(●´ー`●)安部の性格はどんなふうにして醸成されたのだろうか。その(●´ー`●)安部の肉体と借金証書に支配されている余であるが、知りたい。知れば、余は(●´ー`●)安部の優位に立てるのだ。いくら支配されているとしても心の中では ふん と舌打ちをしてやることも出来る。
余「(●´ー`●)安部のことだが」
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 そのとき余の携帯がけたたましく軍艦マーチを鳴らした。
余「ちぇつ、いいところなのに電話かよ。淫乱雌豚(●´ー`●)安部の弱点をつかめるところだったのに」
余は文豪の子孫だとも思えないような下品な言葉を発して舌打ちをした。携帯の通話スイッチを入れると、あみ子ちゃんが出て来た。
余「なんですか。あみ子ちゃん。余はみんなで錦帯橋を見にハイキングに来ているんですよ。途中の道でね。おむすびを食べているの。(ё)新垣も川o・-・)紺野さんもいますでちゅよ。なんなら代わりまちょうか」
すると電話口の向こうで罵声が聞こえた。
あみ子ちゃん「何、言ってるんだよ。このうすらとんかちのぼけが。顔を川の水で洗って目を覚ませって言ってるだろうが、この低脳のちんかす野郎が。パンツ、とっかえろ」
電話の向こうのあみ子ちゃんは怒り気味である。あみ子ちゃんが怒りながら電話をかけている様子が頭に浮かんだ。そのカメラの位置はあみ子ちゃんの額から垂直に伸ばした直線の延長上になければならない。そして髪はショートカットでなければならない。そして髪の先は気楽な子どもの揺らすブランコのように揺れていなければならない。そしてその位置からのカメラワークがあみ子ちゃんを一番可愛く写すのである。
余「あみ子ちゃん、どうしちゃったの。興奮して。いつものあみ子ちゃんじゃないみたいだよ」
あみ子ちゃん「(●´ー`●)安部が大変なことになっているんだよ。荒れちゃってひどいんだから。酔っぱらって狸の置物を壊したんだってさ。山海亭で酒飲んで暴れているらしいんだよ。もう銚子を何本もあけちゃったんだってよ。とにかく、戻って来い」
余はあみ子ちゃんとの夢の世界での会話から急に(●´ー`●)安部豚の固有名詞が出て来たので正気に戻った。それほど(●´ー`●)安部豚の名前は余を消沈させるものがあった。余は携帯を持ちながら(ё)新垣と川o・-・)紺野さんの方をふり返った。しかし余の精神には少しも沈鬱なものはない。(●´ー`●)安部の名前が余を消沈させるのと(●´ー`●)安部の行動が余を楽しがらせのは別の問題である。
余「(●´ー`●)安部が大変なことになっているらしい」
余は冷静を装っていたが(●´ー`●)安部が常軌を逸しているのを聞いて内心満足だった。
川o・-・)紺野「錦帯橋には今度の機会でも行けると思います」湯飲みを横に置いて川o・-・)紺野さんが余の方を向いた。
(ё)新垣「ニイガキ、ニイ、ニイ、林もアルデヨ」
余「でも、ふたりともあんなに楽しみにしていたじゃないか。たかが、(●´ー`●)安部豚なんかのために」
川o・-・)紺野「いいんです。(●´ー`●)安部ねえさんのために帰りましょうよ」
(ё)新垣「ニイガキ、林もアルデヨ。林モアルデヨ」
(ё)新垣も新しい言葉を覚えて同意したが、そのあと同じ言葉を繰り返しているので余は閉口した。
滝沢「山海亭に行かなければならないんですか。この舟に乗って行けばいいんですよ。川も下りだからすぐ着きます」
なぜか、滝沢繁明は心苦しいような表情をしていたが錦帯橋にはまたの機会に行けばいい。
余「滝沢殿、舟に乗せて下さるかな。山海亭まで運んでほしい」
われわれが舟に乗り込むと舟は川端を離れた。するすると舟は進んでいく。川波の上に踊るように。いつかあみ子が釣りをしていた公共の釣り場の船をつなぐところに着いた。われわれは例の石段を上がって行く。石段を登りきると駅が見えてその横には山海亭もある。山海亭の腰障子から明かりが漏れている。障子に描かれた山海亭の墨の文字が遠い昔の場面のようであった。障子の前にあみ子ちゃんが立っている。狸の大きな置物が不細工に倒れて首がごろりと転がっている。
あみ子「こっちよ。こっちよ。早く、早く」
店の中から誰かが断続的にどなっている声がする。そしてまたくどくどと酔っぱらいの堕事を繰り返しているのだ。聞き覚えのある声だ。(●´ー`●)安部の声である。
あみ子「なつみが酔っぱらって大変なのよ」
余は山海亭の障子を開ける。確かに倒れた銚子を何本も前に置いてよっぱらった(●´ー`●)安部豚がろれつのまわらない声で何かをぶつぶつと言っている。そのうしろには山海亭の女おかみが困ったような仕方ないような消極的な表情でこの場の一景色の中の構成物のひとつになっている。それにしても全くこんな醜態を晒して恥ずかしくないのだろうか。親が見ていたら泣くぞ。少しは室蘭のことを思い出せ。しかし、やはり(●´ー`●)安部豚である。お塩の家で夜を明かしたのもなるほどと思う。
うっぷして小刻みに動いていた(●´ー`●)安部が急にがばと顔を上げる。動物園で寝ていたライオンが急に起きて一声吠えたみたいでその場にいた見物人はあとずさりする。
(●´ー`●)安部「男が何よ。男が何よ。ふん、クレオパトラ以来の絶世の美女がここにいるのに気づかねぇのかと言っているんだよ。どこに目玉をつけているのかって言いたいよ」
そう言ってとっくりを木のテーブルの上にばんとたたきつけた。
なかなかの怪気炎である。落語の世界で八さんや熊五郎がくだをまいているのとほとんど変わらない。まだ、世間に対する鬱憤をぶちまけている。
(●´ー`●)安部「ふん、お嫁に行っちゃうぞ。この唐変木。あとで後悔したって知らねえぞ」
はなはだ下品な言い回しである。これが水もしたたる麗人がとち狂い、雨に濡れた海棠の花のように、悲しいさだめにしおれているなら色っぽいのだが、(●´ー`●)安部じゃあなあ。
と言いながら余は(●´ー`●)安部のスカートがめくれ上がって白いパンツの股間のところが丸見えだったので変に興奮をしてしまった。(●´ー`●)安部豚なかなか興味深い地球上生物である。
(●´ー`●)安部「好きなだけやらせてやると言っているだろう」
余「本当」
余は思わず自分の名前が指名されたような気がして酔っぱらっている(●´ー`●)安部の横に行って彼女の手を取ろうとすると思い切り跳ね上げられた。
(●´ー`●)安部「お前じゃ、ねえって言っているだろう。このぼけが」
すると(ё)新垣が満足したように笑い。覚えたての言葉を発した。
(ё)新垣「林モアルデヨ。林モアルデヨ」
余は思わず(ё)新垣をぶとうかと思った。
くだくだとくだをまき、酔っぱらっていた(●´ー`●)安部が急に顔を上げてわれら見物人の中にある人物の顔を発見すると。ある人物の顔を見て
「帰れよ。ウエーン」
と叫んでまた顔を突っ伏して泣き始めた。
余が後ろを振り返りその視線のさきを見ると滝沢繁明が居たたまれないという表情をして立っている。
あみ子ちゃんは(●´ー`●)安部のそばに行くと
「帰りましょう。(ё)新垣、なつみちゃんの肩を持って、アルバイトの女の子がタクシーを呼んだからね」
すると(●´ー`●)安部はあみ子ちゃんの言うことにすなおに従って立ち上がった。山海亭を出るとき、ちらりと滝沢繁明の方を見て、それからあみ子ちゃんの方をみて、
(●´ー`●)安部「いい人を見つけたわね」
とぽつりと言った。その言葉の意味をあみ子ちゃんはわからないようだった。もちろん余にもわからない。
あみ子「私たちはタクシーで帰るからあとから来てね」

*****************************
よっぱらった(●´ー`●)安部豚を見送りながら、余と滝沢と川o・-・)紺野さんは那古井の宿までの暗い道をぽつりとぽつりと歩いた。
「いい人を見つけたわね、ってどんな意味なんだ」
余は疑問を口にする。余と滝沢と川o・-・)紺野さんは横一直線になって歩いている。空には月がかかっている。
 余は今夜は興味深いものを見せてもらった。おもしろい生物である。セックス至情主義、わたしの肉体に男をすべてひざまずかせると言ったかと思うと、ぐでんぐでんに酔っぱらって滝沢繁明の顔を見て泣き崩れる。頭の中にはいくつもの電極がむきだしについていてどんな具合なのか、たぶん物理的な要因なのだろう。ある場所に導通すると怒ったり、泣いたりする。おもしろい。神様はわれわれ地球人におもしろいおもちゃを用意してくれた。われわれはこの生物から目を離さずに観察を続けなければならない。いつの日かNASAからこれまでの業績を顕彰され、感謝される日がくるかも知れない。
川o・-・)紺野「言ってもいいかしら」
川o・-・)紺野さんの横顔が月の光を浴びてきらりと輝いた。春の月はやさしい。その月が天上にあることを忘れさせる。
 春宵一刻値千金
中天には月が昇り、道の両側には香りそのものと思えるような花がさいている。沈丁花の匂いがする。沈丁花は匂いだけで語られる花かも知れない。花の姿が自分を主張しているわけではない。緑の葉に囲まれた中に慎ましやかな花がついている。この葉がなければこの花は自己本来の持ち味を生かさないのかも知れない。
 余は川o・-・)さんが話しかけて来たとき、(●´ー`●)安部のことを話すのかと思って期待した。川端で自分たちのことを話したのだし、(●´ー`●)安部の醜態を公の場にさらしたところである。妖怪仲間として自分としては恥ずかしい部分もあっただろう。少しはいいわけめいたことを言わなくてはならない気分になったのではと、思ったのだが。
川o・-・)紺野さんの魂胆はまったく別のところにあった。魂胆というほどではないのだが。余と滝沢繁明が歩いている少し手前を川o・-・)紺野さんは歩いていた。川o・-・)紺野さんは急に振り向いて余に話しかけてきたのである。川o・-・)紺野さんの横は駅のはじにあたっている。駅のはじには売店があっておじいさんが座っている。おじいさんの前には冷蔵庫があって紫や橙や白や、いろいろな色の棒状のアイスキャンデーが入っている。川o・-・)紺野さんはそれに目をつけたのだ。
川o・-・)紺野「アイスキャンデーを買ってくださらない」
余は三人でアイスキャンデーを買った。余はオレンジ味の、滝沢繁明はミルク味の、川o・-・)紺野さんはグレープ味のアイスキャンデーを買った。川o・-・)紺野さんはそれがうれしいのか、余たちのあとさきになりながらついてくる。
 余もまた内心うれしかった。(●´ー`●)安部豚が負けたからだ。あのセックス至情主義が負けたのである。山海亭でぐでんぐでんによっぱらっていたというのはそのために違いない。そのわけの詳しいところはわからないが(●´ー`●)安部豚のセックス至情主義はとん挫してしまったに違いない。そう思うとこの沈丁花の香りもまた清々しい。
 「あれ、あれ」
川o・-・)紺野さんが田舎道のまん中で指をさした。
川o・-・)紺野「あれで、遊びたい」
余と滝沢繁明が川o・-・)紺野さんの指をさす方を見ると幼稚園の庭の中にトランポリンが置いてある。しかし、幼稚園の門は閉められている。
余「門を乗り越えますか」
滝沢繁明も同意した。他人に迷惑をかけない範囲でたまにははめをはずすのも必要か。三人は幼稚園の門を乗り越えた。まるですいかどろぼうのようである。余がシーソーの片側で腰掛けていると川o・-・)紺野さんと滝沢繁明がトランポリンの上で飛び跳ねている。川o・-・)紺野さんがまだトランポリンの上で飛び跳ねているのを後目にして滝沢繁明はトランポリンから降りて余の横に座った。
滝沢「小学生の頃を思い出してしまいましたよ。小学生の頃が一番楽しかったな」
余「そりゃ、そうでしょう。一日中ただ遊んでいればいいだけなんですからね」
滝沢「あの頃に戻りたいな」
余「でも、きみにはあみ子ちゃんがいるじゃないか」
滝沢「えへへへ」
余は遊園地の遊具のことを思った。遊園地の遊具はジェットコースターにしろ、お化け屋敷にしろ、それを利用する客が浮き世の煩いから解き放されて子ども時代の精神状態に戻ることを面目にしている。それでなければわざわざ金を払って園の中に入る意義がないだろう。客がそういう状態に戻りたいと願うのも日々の生活に疲れているからである。動物は餌をとるために三割か四割のエネルギーと時間を使うのか、詳しいことはわからないが、その他の時間は寝て過ごしている。人間は五割のそれらを使っているのかも知れない。それで睡眠だけでは疲労を取りきることが出来ずに、わざわざ心を解き放す行為をしなければならない。睡眠を削り、労働時間を増やして遊びに時間と金を使っているということになる。そうなればそうなるほど高度に人間として発達しているということになる。そういう位置にある人間ほど社会的な地位が高いといことになっている。
 芸術もまた疲れた人の心を解き放すことを商売にしている。しかし、遊園地の遊具と絵画や詩が違うのは生活の陰が遊園地の遊具から排除されるのに、絵画や詩には生活の陰が落とされるものがあるということである。絵画や詩が生身の人間の生を写す一面があるからそれは当然だろう。
 しかし、絵画や詩の中にも人生の重苦しさからまったく離れたものと、積極的にそれを取り入れているものの二種類がある。
 天使のように、しかし神のようにと言ったら少し意味が違うが、人間が生活し、維持し、時間の波を泳いで行く障害からまったく自由で自由に現れ、自由に消え、いわば現実こそ架空の存在だったり、人間から離れた抽象的な秩序の中に美や喜びを見つける種類の人たちがいる。そういった人たちの作品は空中を自由自在に飛び回るような快活さがある。しかし、芸術はそれだけではない。重い人生の澱を器の底に沈めるようにして、その中にかき分ける快感を売り物にしているものもある。
 でも、作品だけでその制作者の人生が前者のようで後者であり、またはその逆。という結論は下せないに違いない。われわれはどうしたら真の自由を得ることが出来るか。地上でも天上でもない第三の道を選ぶことができるか。
「ない」
余がそんなことをぼんやりと考えていると突然、声が聞こえた。
「ないんです」
川o・-・)紺野さんがトランポリンから降りてトランポリンの下あたりを探している。
余と滝沢繁明は川o・-・)紺野さんのところに行った。
川o・-・)紺野「ゆうきくんとわたしが一緒に写った写真の入っているペンダントがなくなってしまったんです。さがしてください」
川o・-・)紺野さんはコンタクトをなくした女の子のようにトランポリンのあたりで四つん這いになって地べたを探している。余と滝沢繁明も地べたを探った。するとそのペンダントはすぐに見つかった。
川o・-・)紺野「ありがとう」
余たち三人はまた塀を乗り越えて田舎道を那古井の宿に戻るたびにぽつぽつと歩き始める。川o・-・)紺野さんは道端に生えている草を摘むと鼓笛隊の先頭が旗を振るように振り回す。
滝沢「わらしべ長者のつもりですか」
川o・-・)紺野「わらしべ長者って」
滝沢「お百姓さんが仏さまにお願いして、最初に手にしたものを持ってろと言われて、わらしべを持っていたら、それが道で行き会う人とどんどん交換していって長者さまの娘と結婚できるという話しです」
川o・-・)紺野「わたしのゆうきくんも元の姿に戻るかしら」
余「なんか、かえるの王子さまの話しみたいだな」
さっきから道端では春の宵の中で蛙が春を鳴いている。田んぼの横には用水池があってその中に蛙がいっぱいいるみたいだ。もうすでにあたりは暗くなって田んぼもぼんやりとしか見えない。遠くで一軒だけ藁葺き屋根の家の明かりが見える。川o・-・)紺野さんは持っていた草を捨ててまた道端に行くと今度は違う草を持って来た。川o・-・)紺野さんと同じくらいの背の高さの草がたくさん生えている場所だ。
余「子どもなんだな」
滝沢「子どもなんですね」
川o・-・)紺野「見て、見て。草のさきっぽに固い珠がたくさんついているの」
余「これに糸を通すとネックレスになるよ。きっと」
滝沢「今は茶紫色をしているからいいんですが、もうすぐ灰色になるんであんまりきれいじゃないですよ」
川o・-・)紺野「わたしピストルの弾のネックレスが欲しいわ」
滝沢「ピストルの弾なんて、ぶっそうですね。そんなものが売っているんですか」
川o・-・)紺野「売っていますよ。材質は真鍮なのかしら。濁った金色をしていました」
余「ただで作れる方法を知っているよ」
滝沢「どうするんですか」
余「自衛隊の演習場に入って持ってくるんです」
川o・-・)紺野「危ないわ」
余「でも、どこかの国では戦車部隊の演習のあとで空の砲弾を盗んできて屑鉄屋に売るという話しがあるそうだよ。日本にもそんなことがないとも限らない」
川o・-・)紺野「そんな経験があるんですか」
余「自分自身はそんなことはやらなかったが、そんなことをやったという人の話は聞いたことがあるよ」
滝沢「それで弾丸のネックレスを持っていたんですか」
余「持っていなかった。うちのじいさんは千円札の表紙になっている男だったので、いろいろな人間が余の家に出入りしていたんだよ。彫刻家を志望しているという男が余の家に出入りしていることがあったんだ。その男が自衛隊の演習場に忍びこんで空薬莢を盗んでいたという話しを聞いたことがある。余が小学生の頃の話しだったよ」
川o・-・)紺野「その人は結局、彫刻家になったんですか」
余「ならなかった。もともと板前をやっていた男で、余がその男のアパートに行くと見知らぬ女がいた。余は子どもだったのでその女とその男がどんな関係になっていたのかはよくわからなかったが、六畳のアパートの中には絨毯が敷いてあって電気ごたつもあった。そんなちっちゃな空間に不釣り合いのように豪華な食器棚が置かれていたんだな。その中にはダイヤカットされたコップが置かれていた。そこで鍋を出されて黄色くて丸いものがたくさん入っていた。それはもつだったんだ」
川o・-・)紺野「食生活はまずしかったんですね」
余「貧しかったみたいだな。でも食器棚は立派だったよ。そしてその余には理解できない女の顔は今でもありありと思い浮かべることが出来るんだ。やたら色が白くて細面だった。美人だったということではもちろんないさ」
余は立ち止まって話したが、「歩こう」と滝沢繁明と川o・-・)紺野さんに促した。
余「それにしても、淫乱雌豚(●´ー`●)安部の醜態はひどかったな」
滝沢「ひどかった」
川o・-・)紺野さんは無言で数珠玉の枝先を振り回している。それを月がやさしく眺めている。この月はしょじょ寺の坊主や寺の庭先に集まった狸を見ているのと同じ月だ。
余「でも、なんで(●´ー`●)安部豚はあんな見境もないぐらいにぐでんぐでんによっぱらってしまったんだろう」
余は内心(●´ー`●)安部の醜態を思い出し、快感を感じながら言った。
 しかし、余はなぜ今まで気づかなかったのか、そのとき滝沢繁明の左手に包帯が巻かれていたことに気づいた。川o・-・)紺野さんが妖怪として再生した顛末について語っていたときにはすでに滝沢繁明は手にけがをしていたに違いない。しかし、そのときは気づかなかった。
余「滝沢さん、手にけがをしているではないか。包帯を巻いて、一体どうしたのかな」
滝沢繁明はそのことに触れられたくないらしい。
滝沢「なんでもないんです」
余の横では川o・-・)紺野さんが指をくわえながら余の横から隠れたり現れたりしながら、滝沢繁明の方を見ている。
川o・-・)紺野「言ってもいいんですか」
滝沢繁明は複雑な表情をした。
川o・-・)紺野「こんなことは言わなくてもそのうちわかることだから」
川o・-・)紺野さんは手を後ろで組みながら斜め上方、星空の方を見ていた。女子学生が友達と会話しながら登下校するときよくやるように、スカートの裾を三角に広げ、横を向きながら話しかけるという困難をらくらくとこなしていた。
川o・-・)紺野「自分で自分の手の甲をつねっていたからなんです」
余は自分の耳を疑った。
余「また、なんで」
川o・-・)紺野「自分の自制心を保つためです」
余「自制心」
余には全く話しの要領を得ることが出来ない。
川o・-・)紺野「なつみねえさんには、そんなことやめればと言ったんです」
それから川o・-・)紺野さんはその包帯の理由を余に話してくれた。余と純愛論で口論した(●´ー`●)安部は自分の説を主張するためにある行動に移った。余が純愛の権化と主張する滝沢繁明にその牙は向けられた。滝沢繁明は運命的に経済的に困窮している。そこで(●´ー`●)安部は変な仕事を滝沢繁明に要求したそうである。カラオケ屋の一室を(●´ー`●)安部は借り切って、滝沢繁明に料金を払うからカラオケの相手をするように要求した。何も知らない滝沢はそのカラオケ屋に入るとその部屋のドアを開けた。そこには信じられないような光景が待っていた。部屋の周囲、南東の二辺を周回している赤いソファーの上で(●´ー`●)安部が全裸で足を崩しながら待っていたのである。ソファーの上に(●´ー`●)安部の足はソファーの上に全部上がっていた。滝沢が部屋に入るやいなや、ドアをしめて、鍵を飲み込んでしまったそうだ。そしてなにあろう、(●´ー`●)安部のせりふは恐ろしいものだった。「一晩で身ごもろうと思うの。もちろん、あなたの子どもよ」そして(●´ー`●)安部は例のいかがわしい行為のオンパレードを始めたのだ。(●´ー`●)安部はすべてのテクニックを屈指した。滝沢繁明はその攻撃を受けた。滝沢繁明は理性を失わないために自分の左手の甲を自分の指でつねった。いつまでも部屋のドアが開かないことを不審に思ったカラオケ屋の従業員がドアを開けると半分意識を失った滝沢繁明がいた。彼の左手は損傷を帯び、病院での治療を必要とするほどだった。そして全裸の(●´ー`●)安部は泣き叫びながら部屋を飛び出して行った。永遠の楽園を追われたイブのように。考えても恐ろしい光景だったことだろう。しかし余の心は浮き浮きした。心の中で喝采を叫んだ。
 セックス至上主義は純愛に負けたのだ。
 滝沢繁明は雌豚に勝った。
 雌豚は敗北した。
 滝沢繁明とあみ子ちゃんの愛の絆は(●´ー`●)安部のどす黒い、世界の安部の肉体による(●´ー`●)安部支配の危機をうち砕いた。
(●´ー`●)安部が身体を使えばなんでも出来るという浅はかな考えはひとまず敗北したのだ。
 しかし、それでよっぱらってぐずぐずになってしまうなんて。ほんのちょっぴり(●´ー`●)安部が可愛そうな気もしてくる。もしかしたら(●´ー`●)安部は寂しいのかも知れない。さびしんぼ。そんなにお塩が恋しいか。
しかし、正義は勝った。圧政に苦しむ民衆が縛り首に狂気するのは世の常である。
余は滝沢くんの快挙に拍手をしなければならない。そもそも(●´ー`●)安部の無知蒙昧さは内面の寂しさを無制限に男を食い散らすことで晴らそうとしていることである。ひとりを決めて肉体的精神的に満足感を得なければならないだろう。男、出来たかなぁ、とからかってみるスレ。
 しかし、滝沢くんは偉い。見上げたものである。余はにこにこしながら田舎の夜道を歩く。今夜は月も明るい。蛙が田んぼの中でケロケロ鳴いている。もうすぐ蛙の産卵が始まるのかも知れない。あのゼリー状の卵が春の泥水の中でプカプカと浮かんでいる光景が目に浮かぶ。
余「余の目に狂いはなかった。やはりあなたは純愛の権化ですな」
すると滝沢くんはびっくりした目をする。
滝沢「純愛、そんなたいそうなものではありません」
余「でも、きみは安部のセックス攻撃に負けずに純愛を貫いたではありませんか。きみはあみ子ちゃんのことを一度でも忘れたことはないんでしょう」
しかし、ただの若者だと思っていたこの滝沢が計り知れぬ男だということがやがて余にもわかってきた。滝沢繁明、決して一筋縄ではいかぬ男である。
滝沢「いつもあみ子ちゃんのことを思っていることに変わりはありません。あみ子ちゃんは僕にとって永遠の恋人だからです。永遠という言葉の意味はもう少し別な意味もあるのです。僕は中学生のときにどうすれば赤ちゃんが出来るかという性教育を受けました」
性教育と聞いて川o・-・)紺野さんが横を一列に歩いていたのが前に出て来た。そして滝沢くんの方に近寄って行く。そして犬のように鼻をくんくんさせて滝沢くんのにおいを嗅いでいる。
滝沢「女の身体の中には卵子というものがあって、男は精子を発射してその精子が卵子に到達して赤ちゃんが生まれます。その精子は何万匹もいて、そのうち一匹が卵子に到達するのです。世の中は強いものが生存していく。僕は最初そう思っていたんです。適者生存の法則ってありますよね。象の鼻がなんであんなに長いのかっていう問題。でも、それが生存のための手段ではないとどこかの生物学者が言っていたのを聞いたんです。それはたまたまの偶然なんだって。精子だってそうです。一回の行為で何万匹の精子が出て、そして何回その行為が行われるかということを考えると、僕があみ子ちゃんと出会ったのは筋書きのあるドラマではなくて確率の問題だということに気づいたんです。それだからこそ、あみ子ちゃんは僕にとって運命の人なんです。僕はあみ子ちゃんのことを一生思いながら生きていくんです」
蛙が春の田んぼ道の中でケロケロと鳴いた。
哀れな女、(●´ー`●)安部、お前がいくら滝沢くんのことが好きだって、滝沢くんはあみ子ちゃんが好きなんだよ。
***********************************************
 (●´ー`●)安部の泥酔、敗北事件から(●´ー`●)安部はしばらく静かになっていた。あの醜態がよっぽど恥ずかしかったのかも知れない。那古井の宿で余が腹這いになりながら遠良天釜をめくっていると玄関の方で呼ぶ声が聞こえる。誰も宿の中に居ないのかも知れない。そう言えばアルバイトの女も買い出しに行くと言っていた。余は玄関に出て行った。
「井川はるらと申します」
余の失恋中の心の中に鈴のような声が玲ろうと響いた。もちろん相手ははるら嬢である。余はあの日のショック以来、そのショックの事件もいくつか重なっていたのだが、井川はるら嬢のことを考えるのも苦痛だったが、突然の彼女の出現はショック療法のように意外と余の心を平静に保たせた。
「こんにちわ」
玄関の陰からのっそりと骨太の古代人が姿を現す。古代人は照れくさそうにしきりに頭をかいている。
「まだ滞在していらっしゃると聞いたので、お伺いしたのです」
はるら嬢と古代人は国勢調査員のように余の目に映った。しかし、こんなきれいな国勢調査員はいないが。
「とりあえず、上がりませんか」
余が下駄箱に置いてあったスリッパを玄関の上がり口に置くとふたりはその履き物に足を通した。玄関の上がり口に構えている大きな朽ちた桜の木の根っこをぴかぴかに磨いて焼いた銀杏の皮みたいな色に照り輝いている置物の前を右に曲がって、すぐに庭を見渡せる縁側に出た。そこを左に曲がる。縁側の左に並んでいる和室の障子はすべて閉められている。余しか泊まり客はいないのだから当然のことである。
 二つ目の部屋の障子を開けた。欄間にはあみ子が貰った色紙がまじないのお札のように飾られている。その文言を声に出して読んだなら梁の上に積もった塵も感動に身を震わせて畳みの下に落ちるかもしれない。部屋の中には箪笥が置かれ、その横には折り畳み式の本箱が置かれていて余が今さっき読んでいた遠良天釜がもとあった場所に戻されている。高僧もあみ子に自分の言葉を読まれるとは思わなかったことだろう。これはあみ子が普段読んでいる本である。恋いの悩みを超克するためにあみ子はその本を読む。部屋の中央には鉄瓶にお湯を沸かしておくだけの目的で藍色の火鉢が置かれていた。火鉢の中では燃えているのか、消えているのかわからない墨の火が灰の中に埋まっている。しかしその炭が燃焼中だということは息を吹きかけると白い灰の薄皮に包まれた炭素の塊が切れかかった電球のような色で全体がほんのりとだいだい色に輝くことからわかる。余は部屋に入ると隅に重ねてある座布団を客人たちが座るだろう位置に投げ置いた。もちろん投げたわけではないが、そんな感じだった。余はその座布団が巨大手裏剣のように思えた。その手裏剣は投げられたが最後、その行く手をふせぐものも現れない、山中に立っている木の幹に当たれば木の幹をなぎ倒さずにはおかない、巨石に当たれば巨石を砕かずにはおかない。そんな巨大な手裏剣を投げるためには小手先だけではだめだ。身体全体のありとあらゆる筋肉を使わなければならない。投げ終わったあとにはその反動で身体が半回転する。余がその座布団をふたりの客人の足下に投げ終わったあとには余の脳髄に行き渡るはずの血液は不足してよろよろとよろめいた。
古代人が言った。
「座布団を配るだけで、なに、ふらふらしているんですか」
「すいません」
 余は井川はるら嬢の訪問を受けてうれしい反面、おもしろくない面もあった。余の古傷をうずかせる井川はるら嬢であったがやはり目の前にその実物がいるのはうれしい。しかし古代人がお荷物についている。はるら嬢の横にこの古代人が座っていることははなはだ目障りである。その上このふたりが並んで座っている姿にはある調和がある。余は内心腹を立てていた。なんでこの原人と現代人の合いの子が井川はるら嬢について来るのだろうか。もしかしたら余に彼らの婚約発表をここでするつもりかも知れない。もし、そうだとすると大部なことだ。無神経である。余の失恋の傷を治らないうちにその傷の上をさらに引っ掻こうというつもりなのだろうか。そのことに関して井川はるら嬢は同意したのだろうか。はるら嬢もあまりにも無神経である。残酷である。だから(ё)新垣なんかにプレーガール、キュキュなどと揶揄されるのだ。しかし、真に美しい花は自分の美しさに自覚がないのかも知れない。いつも決まった道筋を美しい人が歩く。そのことを習慣や義務にしている。その道筋を歩くのは彼女の自由だが、その人の姿を瞼の裏に焼き付ける男がいる。ここに恋いこがれる者と恋いこがれられる者の関係が出来る。れとられの違いであるが大きな違いである。
 はるら様
余が中天を見つめて忘我脱魂の物思いにふけっていると、トイレのドアを閉めずに入っていたのに急に開けられて睨んだ男の顔をして古代人が余の顔をじろじろと見つめた。もちろん落とし紙は片手につかんだままである。
 無礼である。無礼である。古代人の分際で。なるほど彼は縄文式土器を作ったり、黒曜石の切り欠けで犬の肉を切ったりするのは達者であろうが、はるら嬢に、この温泉街に静電気の火花みたいに突然に現れて婉然と微笑むはるら嬢を賛美する歌を歌うことが出来るか、しかるに原た泰三とはるら嬢の仲が親密に見えることは悲しい。
 余はふたりに茶碗の三分目しか入っていない茶を勧めた。茶の道具は部屋に置いてある。ただ茶菓子はない。アルバイトの女が戻ってくれば買ってきてもらうのだが、もしくは台所の戸棚のどこかに入っているらしいのだが、どこに入っているのか、余にはよくわからない。
「それで」
余は借地料の滞っている若夫婦から重大な案件を突然うち明けられた地主のようにおごそかに口を開いた。
 しかし、古代人は背中を丸めて口に手を当ててさかんに笑いをこらえている。余が古代人の方をきっと睨むと彼は左手で口を押さえたまま、右手でしっかりと余の方に指をさした。
「青海苔が、青海苔が」
「青海苔がどうしたというのかな」
「歯に青海苔がついています」
「失礼な」
余は余の歯に付着している青海苔のありがたさを原た原人に言う気になった。
「この宿で作っている焼きそばが全国一おいしい焼きそばに選ばれたというのをご存知かな。その焼きそばを食べたところなんだよ。それがこの青海苔に表現されている。この青海苔もそんじょそこらの青海苔とは違う。燕の巣を取るのよりも、もっと大変なところで得られる青海苔なんだ。ときにはそれを取る海女が海底の恐ろしい怪物の餌食になることもある」
原た「なんでここの宿の焼きそばが全国一おいしい焼きそばだってわかるのですか」
余「今まで黙っていたが、余は焼きそば評論家というものもやっている。食い物屋で出されている焼きそばはもちろんのことだが、即席焼きそば、フリーズドライ焼きそば、すべてを網羅している。その焼きそばを訪ねる旅は北は足摺岬から南は沖の鳥島まで及んでいる。足摺岬では猛吹雪に会い、沖の鳥島では軍事機密を盗む国際的なスパイと間違われて海上自衛隊の巡洋艦に三日もとどめ置かれたこともあった。それもみんな日本で一番おいしい焼きそばを見つけるためなんだな」
古代人はやはり心に引っかかることがあるらしく、その行為を余が行う意義について問いただしてきた。古代人はやはり古代人である。意義がなければその行為が行われないと思っているらしい。意義と言っているが、それは古代人にとっては古代人にどんな利益をもたらすかということらしい。古代人の頭は単純である。しかし、原た泰三のように悟りきらない人物と余のように悟りを開き、日々、額の上方三十センチに真理の電光を見る人間を同一に扱うわけにはいかない。意義があればそれを始めるときに決心がつくだろう。その途中で失意挫折のときには元気を回復するための滋養物になるだろう。余の輝かしい成果を示さなければならない。
余「ひとりの足の悪い少女の命を救ったのだ」
原た「少女というからには幼い女の子のことですか」
余「もちろんだ。この話しは話すと少し長くなる」
原た「どのくらい長いんですか」
すでにはるら嬢は足をくずしていた。
余「原稿用紙で二枚半ぐらいだ」
原た「聞きますか」
原た泰三は横にいるはるら嬢の方を向いて同意を求めた。
はるら嬢「ご自由に」
はるら嬢の冷たい挨拶が余の闘争心にむらむらと火をつけた。話すぞ。話さずにはおくものか。でも、あなたはいつも冷たいんですね。はるら様、はれほろほー。
原た「はれほろほーってなんですか」
余「余の心のむせび泣きだ。しかし、そんなことはいい。原たさんは三重県の尾鷲町ってご存知かな。知っていても知らなくてもいい。原稿用紙の二枚半しか持ち分はないのだから話しをさきに進めるのだ。それでいいのだ。尾鷲町は港町である。そこに船乗りを夫として持ったが夫を嵐で失い、お茶漬け屋で生計を立てていた、出し殻舟、六十四才、女がいたのだ。港でとれた魚介類を焼いてお茶漬けにして出していて、船乗りに結構人気があった。しかし、舟にある日不幸がおそった。舟が台所に出てみると、床の上で黒いすいかの種よりも少し小ぶりなものが何匹もびょこびょこはねている。それはよく見ると虫だった。米櫃をのぞき込むとそれが無数にいて、米粒の上でぴょこぴょこはねている。舟は天下の一大事と思ったからすぐにテレビのスイッチをひねった。すると尾鷲町公営テレビニュースというのが流された。アナウンサーは絶叫していた。尾鷲町もこの世の終わりです。尾鷲町に米搗きバッタが大量に発生しました。尾鷲町の米は、米は。というとアナウンサーは涙ぐんだ。尾鷲町の米は全滅です。舟にとっては自分の夫が死んだとき以来の呆然自失とした出来事だった。しかし、舟は冷蔵庫の中に焼きそば用のそばとオイスターソースが入っていたことを思い出した。冷蔵庫の中には港に上げられた魚介類がある。米がなくてもそばがある。舟はそこで焼きそばを作った。その焼きそばの評判が良かったので余はそこに行った。焼きそば評論家たるもの、うまいという噂があれば、嘘か真かそれを確かめに行かなければならない。その噂は本当だった。それで三年前の、午後三時半の奥様にという番組で余がその焼きそばを紹介したのだ。たまたま、その番組を絵本作家の瀬戸もの子という絵本作家が見ていて、その女も焼きそばには目がないものだから紀勢本線を乗り継いで舟の店にまで焼きそばを食べに行った。その焼きそばに感動した瀬戸もの子はその焼きそばをヒーローにした絵本を描いた。それが焼きそばマン、正倉院御物を守るという絵本だ。二年前に評判になったのだが覚えているかな。その中に歴史的建造物のことが詳しく載っていて、それらを修復保存しようという運動がさかんになったのだ。しかし、その技術を持っている大工は少なくなっていて、その運動をしている連中はそんな大工を一人でも多く求めていた。その中でいろいろと探し求めた末に白井権八郎という大工が一人みつかった。そして今までには想像も出来ない手間賃を貰うことが出来て、白井権八郎は今まで飼いたいと思っていたが飼えなかったセントバナードを飼って六くんと名付けていた。その六くんはなかなか頭がよくて主人がいなくても勝手に散歩をして家に帰ってくるのだったが、いつもの散歩をしている道を渡ろうとしているとき、足の悪い女の子も同時に渡ろうとしていた。その女の子は考えごとをしているようで車道の方に一歩踏みだそうとしたとき、向こうからタクシーが猛スピードで走ってきたのだ。だから六くんはその女の子のスカートのはしをくわえた。タクシーは間一髪のところでその女の子をはねずにすんだ。これが余が三年半前においしい焼きそばを見つけた功徳である」
どうも、原た泰三もはるら嬢も余の話しを半分聞いて、半分聞いていないようだった。つまり全然熱心に聞いていなかった。
原た「あなたの歯に青海苔がついているのは違う理由だと聞いていますよ」
余「どんな」
原た「あなたが、あるカルト教団の秘密を暴いた結果だと聞いていますが」
余は自分の記憶を探ってみた。焼きそば評論家とカルト教団の秘密を暴く正義の探偵、当然、後者の方が格好良い、余は後者を選択することにした。
余「画龍点睛を欠くということわざがあるが、びんづる聖者の頭のてっぺんが光らなければ、そのありがたみはない。焼きそばの青海苔は後光のようなものである。紅生姜も大切だが、青海苔は焼きそばに風格を与える。二百円で売っている焼きそばが青海苔ひとつで二百五十円にも売れるのだ。これは蕎麦が海苔をかけているとざる蕎麦と呼ばれ、海苔がかからないともりそばと呼ばれる。余はいつも天ざるよりも天もりを頼むことにしているが、そば自体、一番粉を使う、二番粉を使うという区別もあったのだが、今はそれも曖昧になっている」
余は自分で一番粉、二番粉と呼んでいるがその意味もよくわからなかった。ビールで一番しぼりとかそんなものがあるがそんなようなものだろう。
「そもそも、おにぎり屋でも天丼屋でも、お付けものという別メニューがあって、小皿に漬け物がちよぴっとしかのっていないのにお金をとられる。あれはどういうものだろうか。金持ちは漬け物を頼んで貧乏人は漬け物を頼まず、店の経営がうまくいくということなのだろうか」
余は語りながら自分でも何を言っているのか、わからなくなっていた。
余「原たさん、あなたが焼きそばそれ自体よりも、それの上に座っている青海苔が大切であるということにはよく気がついた。しかし、余の活躍談を得々として話すのは心苦しい。原たさんから井川はるら嬢にもわかるように話して頂けますかな」
原た「はるらさん、この人はあるカルト教団の悪事を暴いただけではなく、その悪事の道具を利用してここの青海苔、それも良質のものをです。発見出来た初めての人なんです」
余「ふむふむ」
余の記憶の中には覚えはないが確かにそんなことをしたような気がする。原た泰三は余よりも余のことをよく知っているのかも知れない。
原た「この温泉街に終末かたるという予言者めいた男が現れたのを知っていますか。あの安土桃山時代の山賊みたいな風体をしているくせに、あと五年で日本は海中に沈没するとこの街の住人を煽動している男です。この男の言うことを真から信用している信者が海出散歩という海洋工学者を誘拐した事件がありました。海出散歩を誘拐しただけではなく、彼の発明した海中散歩機まで持ち去ったのです。ここにいる夏目さんはその組織に忍び込んで海中散歩機だけ取り戻して、海出散歩のことは忘れていました。そして海中散歩機をつけるとここの海に潜って青海苔をたくさん採集しました。海中でその味見もしました。それで歯に青海苔がついているのです」
余は思いだしていた。海に潜って青海苔を採集していたことを。それで余の歯には青海苔の破片が付着しているのか、余は納得した。余はしばしば感慨に耽った。余の活躍を認めていた人物がここにいたのか。しかし原た泰三はなにあろう、冷めた目で部屋の片隅にある紙でこよりを作ってそれを編んで、その上にニスを塗って固めて作ったゴミ箱の上から顔を出しているカップ焼きそばの箱をゆびさした。
原た「でも、本当はあなたはあのカップ焼きそばを食べたんでしょう。あの焼きそばは青海苔がたくさん入っていることで有名なんですよね。僕はあなたの妄想につき合ってあげただけなんです」
何を言うのだ。この古代人は妄想などと、それに僕なんい言い方をして、井川さんに与える印象の点数を上げようとしているのではないか。余が妄想、妄想を抱いている愚物だと井川さんに知られたら余は井川さんに嫌われてしまうではないか。ひどい、ひどい、ひどすぎるよ、原た泰三。余はその場に居たたまれない気がしていつもなら何かを言って恥ずかしさを紛らわすのだが、その元気もなく、陸に揚げられた蛸のように意気消沈してぐにゃりとなっていた。話しは変わるが、烏賊の頭のように見えるところは実は下半身で、足がある方が上半身だって知っていた?。この事実は蛸については確認していない。余はその蛸の頭に見えるところをぐにゃりとさせてしおれていた。漁師の運転するディーゼル漁船の甲板の上で陸揚げされ、料理を待つ蛸のようにである。
 しかし、そこは井川はるら嬢である。余の虚言を追求するようなことはしなかった。
(●´ー`●)安部なつみとは大違いである。
はるら「あなたのところに来たのはそんな話しをするためではありませんの」
では、なんの話しをするためなのだ。井川はるら嬢と原た泰三の婚約発表に来たのだろうか。それもあんまりだ。余の井川はるら嬢に対する気持ちも知らずにそんなことをするなんて。
はるら「(●´ー`●)安部なっつさんてあなたにとって何に当たっているのですか」
余はそのことをはるら嬢に言ったことがあるような気がしたがもしかしたら言っていないのかも知れない。それに(●´ー`●)安部なっつなんて変な呼び方までしている。まあ、(●´ー`●)安部なっつでもいいが、表向きは余の親戚となっているが、余の周りに出没する妖怪である。余と彼女たちは契約を結んだ。永遠に余をご主人様として仕えるという契約書を取り交わしたが、余の借金や(●´ー`●)安部のセックス攻撃によってその関係は逆転しつつある。いや、今は完全に逆転している。
余「あの、ヨゴレですか」
余は(●´ー`●)安部の前では安部さまとか、なつみ様と呼んでいるが、それも皆、あの女から金を借りていること、セックスの提供を受けているからにほかならない。その反動であの女妖怪のいない前ではヨゴレと呼んでいる。
 しかし、(●´ー`●)安部のことをヨゴレと呼んだときの目の前にいるふたりの皿の上に焼きたてのさんまを出された子猫のようににやりと笑った顔は忘れられなかった。
(●´ー`●)安部、その存在はたしかに妖怪という異性物である。いつの時代かは知らないが地球に降り立ったエイリアンである。そのエイリアンも今は帰郷する円盤もなく、地球でわれわれ地球人の観察の対象となっているのだ。ありがたいことである。まず第一に動物園に飼育され、観察される生物の種類が一種類増えている。動物園にパンダを見にきたお子たちの喜ぶ顔が目に浮かぶ。しかし、安部がその子どもたちに粗相をしないかという心配も余の脳裏をかすむ。自分の**を幼稚園児たちに感情の赴くままになげつけないか、仏頂面をしていないか。ちゃんと芸をしてくれるか。そして第二に生物学者の研究材料が一つ増えるだろう。これで向学研究の熱意に燃える学徒がひとり救える。そしてなによりも(●´ー`●)安部がいなければ地球上の生物と異星の生物の違いはわからないだろう。そして(●´ー`●)安部を観察することによってわれわれ地球人はわれわれが何者であるかをますます知るようになり、同胞としての連帯感も高まるというものである。このふたりもそんな観察生物を発見した喜びを感じているに違いない。
余「あのヨゴレですか。一応、余の親戚ということになっています。あの女に興味があるんですか」
はるら「あります。興味津々ですよ」
余「余の観察していたところ、この前ラーメン屋に入って味噌ラーメンを食べてから、やはり味噌ラーメンは北海道でなければならないとか、なんとか、偉そうにほざいていました」
はるら「北海道、出身なんですか」
余「室蘭出身でね。あの女を喜ばせるなんて簡単なんですから。室蘭にガラス細工美術館というのが観光目的であるんですけど、それの初代イメージガールに選ばれたのが自慢なんですよ。それでミス、ガラス細工なんて言うと喜ぶんですよ。それから子どもの頃、海の中に潜って貝なんかを取って来て浜辺で焼いて食べたなんて話しをすると食いついて来ますよ。ふへほほほほ」
余は薄気味悪く笑った。
しかし、(●´ー`●)安部は今どこにいるのだろうか。ヨゴレなどとあの女の本質をつくようなことを聞かれると、やばい。余は用心深くあたりを見回した。
余「でも、どうしてあんなヨゴレなんかに興味を持っているんですか」
はるら「あなたみたいに、(●´ー`●)安部さんと交換日記をしたいと思って」
余は口に含んでいた茶をあわてて吐き出しそうになった。
余「交換日記、交換日記なんてしていませんよ」
余は(●´ー`●)安部との肉欲にまみれた日々を思い出していた。あの妖怪とのセックスの泥沼に陥りながら余は(●´ー`●)安部豚を侮蔑している。いや、侮蔑しようとしている。(●´ー`●)安部豚と余の関係はセックスと借金しかない。
余「余とあのヨゴレをつないでいるのは借金しかないんです」
さすがに(●´ー`●)安部との間のセックスまみれの関係については言えなかった。そんなことを言えば余は不潔な男としてはるら様に嫌われてしまうかも知れない。
余「恥ずかしいですが、親戚の女の子に借金をしていまして、交換日記なんていうそんな清らかな関係ではないんです」
はるら「それだけ、でもなんであなたはヨゴレだとか、(●´ー`●)安部豚とか、変な呼び方で安部さんのことを呼ぶのですか」
はるら嬢の目が少し真剣味を帯びている。
余「だって、あいつは人間じゃ、人間じゃないんで、もっと下等な生き物なんです・・・・・・・」
余は危うく安部の正体を明かしそうになる。
はるら「あなたが何か勘違いをしているようなんで、そのことを言いたい気持ちもあったんです」

第十四回
余「勘違いって、どんなことですか。はるら様」
はるら嬢は原た泰三の方を向いた。そしてお互いに目で合図をした。いよいよ、ふたりの婚約発表をするのだろうか。余は冷や水を浴びせられたような気持ちになった。しかし、原た泰三、この男の目の線は一体どこを向いているのだろう。家を建てるとき、最初に土台を作らなければならない。地面を整地して穴を掘って礎石を土に埋める。そのとき、大事なのは地面から水平線を引くことである。今はレーザーでその水平線を引くことが出来るが、バケツに水をくんでそこからホースをたらして、そのホースも透明なものの方が良いのだが、水の喫水面はいつもどこでも同じという性質を使って引くことが出来る。この古代人の目は水平線引き器みたいだ。どこにいても地面と水平線を保っているみたいだ。こんな男がはるら様のハートをとらえたなどとは世も末である。奇面組という漫画があったがその中でウルトラセブンみたいな顔をした登場人物がいたがそんな顔をしている。
はるら「あなたは何か勘違いをしているようですね」
余「何に対してですか」
はるら「わたしと原たさんの間の関係についてです。あなたは何かわたしと原たさんが特別な関係があると思っていたんじゃありませんか」
はるら嬢の声は三人が教会の聖堂にでもいるように神々しく響いた。
余「どういうことですか」
原た「あなたに前に会ったとき言いましたよね。わたしがこのひなびた温泉に来たわけは、ここに八十年ほど前にやって来た文学士のことを調べるためだと。井川さんも同じ目的です。わたしと井川さんは同じ学問的目的でつながっているというわけです。井川さんはわたしの一年先輩です。それに井川さんは超常現象にも興味を持っていますが。ふたりともここに仕事で来たんです」
余には突然のことだった。井川はるら嬢と原た泰三氏は恋愛関係にあるわけではなかったのだ。しかし、あまりに突然のことなので、それが余には朗報だとも思えなかった。
「はるらちゃん~。あなたは一体何者なんでしょうか」
余は心の中で叫んだ。
余「じゃあ、ふたりともその文学士のことを調べに来たんですか」
原た「そうです」
余「それで結果は出たのですか」
はるら「残念ですが、さきを越されました」
余「誰に」
はるら「安部さんにです。あの人はなかなか立派な明治文学の研究者なんですね」
余「あのヨゴレがですか」
はるら「あの人のことをヨゴレなんて言うとわたしたちはあなたのことを嫌いになりますよ。彼女は優秀な研究者なんですから」
余「それでなにか、結論が出たのですか」
はるら「出ました」
余「どんな結論ですか」
余は悪事を隠し続けている悪人のように内心怯懦していた。余には隠し続けなければならない秘密がある。余のじいさんのことが出てくることはなんとしてもさけなければならぬ。
 ここで少し話しは変わるが諸般の事情のため、ここであることを宣言しなければならない。それは作者が風邪をひき、高熱を出し、それも三十九度の熱を出し、ふとんの中で悪寒と戦いながらふとんにくるまって寝ているのでしばらく今回の戯れ言を中断することを宣言し、エスキモーの家のようなふとんの中から白旗を出すということではない。
 残念なことではあるが、諸般の事情から耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、ある人物の改名式をとりおこなわなければならない事情にあいなりました。
 では改名式を行います。
 安部なつみ の 名前は今日から 安部なつき に変わりました。
昨年はいろいろとこの名前で皆様方に可愛がって頂きましたが、改名、安部なつき
新生 安部なつきとして、今後ますます鋭意努力いたしますので、皆様のますますのご愛顧をお願いいたします。
 今年も残り少なくあいなりましたが、あらたまの年の初めのお寿ぎめでたく申し上げまほし。
 そして新生安部なつきは立ち上がった。
余「あの余の親戚の淫乱雌豚、安部なつきも関わっているんですか」
はるら「(●´ー`●)安部なつきさんが結論を出したのです。あなたはわたしたち、ふたりをだいぶ誤解していましたね」
余「なんで、はるらちゃん」
もうちょっと余のそばに来て話してもいいんだよ。僕ちゃんの耳元で囁いてね。
すると黙っていた原た泰三が話し出した。余ははるらちゃんの声が聞きたいのに、うっん、もう、古代人めが
原た「那古井市の市長の蛭子正和って人を知っていますか」
余がこんなひなびた温泉街の市長の名前なんて知るわけがないじゃないか。
原た「僕とはるらさんのふたりは蛭子さんから、相談を受けたんです。昔、明治の御代にこの温泉に、高名な文学士が来たということが昔から言われていたんです。でも、その人が名前を隠して逗留していたので、誰だかわかりませんでした。その人が誰だか、文学と歴史の研究をしている僕らふたりに調べて欲しいと依頼されたんです。ここ最近の不況で温泉に来る人の数も減っているそうなんです。それに旅行者の好みの変化もありますよね。何か、特徴がないとただ温泉が沸いているだけでは泊まりに来ないそうです。それで何かないかと市長と助役の人が頭をひねってここに昔、偉い文学士が来たことがあるという噂に目をつけたんですよ。それで僕とはるらさんは考古学的な視点や、文学史研究からその人が誰だか、特定しようとしてこの温泉街を歩きまわっていたんです」
それは何を隠そう余のじいさんの夏目漱石である。でも、でも、とすべて肯定、ハッピーエンドという結末を持つものではないが、そこが余の苦しい立場である。余の気持ちにはもやもやとしたものがあった。
余「その文学士ですが、いい噂しかないんですか」
原た「たとえば」
余「悪い噂はないのですかな。例えば、親の解らない子どもが一人生まれたとか」
原た「まさか、明治の高名な文学士ですよ。そんなことがあるわけがないじゃないですか」
余は下を向いて恥ずかしさに耐えていた。
余「それで結論は出たのですか。誰がここに来たのかと」
今度は井川はるら嬢が答えた。余は奇術師のように普段は絶対に動かない耳をぴくぴく動かすとはるらちゃんの方に十センチほどすり寄って行った。
はるら「わたしたちが出来ないことを(●´ー`●)安部なつきさんがやったのです。ここに明治時代にやって来た文学士の名前を特定したのです」
余「それで、その人の名前は」
余は沈んだ声で聞いた。
はるら「二葉亭四迷先生です」
余はびっくり箱の中の折り畳みピエロのように箱のふたを開けると同時にぴょんと飛び出した。
余「本当ですか」
余の声は喜びで打ち震えている。余のじいさんの名前は出ていない。助かった。胸をほっとなで下ろす。ぬいぐるみの人形が神のみしるしを確認して心安らぐようである。
原た「随分とうれしそうじゃないですか。何か、理由があるんですか」
余「いいじゃん。そうじゃん。勝手じゃん」
原た「あなたがあまりにもうれしそうな表情をしているからですよ」
余「それにしても渋めな文学士が出てきましたね」
ひと頃盛んにもてはやされた文学者でイプセンがいる。人形の家という作品のことが同じ時代の文学士の書いたものによく出てくる。ちょうど女性の地位向上の運動が起こった頃に書かれた作品で余のじいさんの書いたものの中でも少しイプセンについて言及している。それが文庫本からなくなって復活して欲しいと何かに書いている人の記事を読んだことがあるが、国語の授業で二葉亭四迷の名前を覚えて、坪内逍遙に師事し、浮雲を書き、言文一致運動に貢献したということを覚えている人もいるかも知れない。余節として外国航路の船の中で死んだという話しを国語の教師がしてくれたことを覚えているが確かではない。イプセンと同じように試験のために文学史で名前は覚えてもその作品まで読んだことのある人は少ないだろう。とにかく余のじいさんの名前が出てこないことはありがたい。有り難きかな人生。
はるら「(●´ー`●)安部なつきさんが二葉亭四迷が那古井に来たことを確かめてくれたんです」
余「どうやって」
はるら「二葉亭四迷の本名は長谷川辰之助というんですが、その本名で宿泊している宿帳が見つかったのです。わたしの古代史の研究手法でそれが正しいものだとは証明出来ました」
(●´ー`●)安部なつきがどんな方法を使ったのかはわからないが妖怪なんだからたぶん妖術を使ったんだろう。道端に落ちている石ころだって茶饅頭にしてしまうくらいだから、そんなことは朝飯前だ。余はすり替えがおこなわれたことは喜んだが(●´ー`●)安部の不正に対しては憤りを感じた。
原た「それに(●´ー`●)安部なつきさんって高貴な生まれなんですって」
余「なんだって」
余は自分の耳を疑った。
原た「今は華族の制度はなくなっていますが、昔なら華族としてわれわれ庶民がお顔を拝見出来なかったような方、さきの細川さんの娘さんの御学友の隣の席に座っていた娘さんの嫁ぎ先のペットウォーカーの恋人のアルバイトさきのおいに当たっているそうですね。つまり天皇家ともお知り合いだそうですよ。畏れ多いことです」
余「それがどうして天皇家と知り合いなんですか。細川さんの学友のなんとかのなんとかとか」
原た「だから、さきの細川さんの娘さんの御学友の隣の席に座っていた娘さんの嫁ぎ先のペットウォーカーの恋人のアルバイトさきのおいに当たっていらっしゃると言っているじゃないですか。天皇家と知り合いなんて当たり前ですよ」
余はそこにペットウォーカーと入っているのが怪しいと思った。犬を散歩させる人という意味だろう。
余「なぜ、あの女が天皇家と知り合いなんですか」
原た「でも、僕が今の天皇の前の天皇はなんというかと聞いたら、昭和天皇だとちゃんと答えられましたよ」
(●´ー`●)安部なつき、なんという厚顔ぶりだろう。そんなことは誰でも答えられる。そんなことが右翼にでも聞かれたら襲われてしまうかも知れない。
余「でも、あの女は室蘭の産ですよ。第一の故郷は中国ですが」
原た「人間に第一の故郷や第二の故郷があるんですか」
余「あの女の場合、いろいろと複雑な事情があるんですよ。とにかく、あの女は室蘭の産なんです。ずっと余はあの女を四六時中観察しているんですから、間違いはありません。室蘭だったら、どうして細川云々と関わりが出てくるのか余にはわかりませんよ。ほら、ここにあの女の観察記録ノートがありますから、なんなら見せましょうか」
余は小学生の使うような学習ノートを取りだした。そこには(●´ー`●)安部豚の観察記録がびっしりと書かれている。余は最近の(●´ー`●)安部なつきの情報を原た泰三に見せて彼らの妄想を晴らそうと思った。
以下は(●´ー`●)安部豚がほざいていることである。
今夜みんなのラジオに届けたい曲はですね、BOOWYの『わがままジュリエット』
っていう曲なんですけど、最近ですね....この、MDも、先週に引き続き発見い
たしまして、これは『JUST A HERO 』って言うね、アルバムなんですけども、中
学校二年生とか三年生の時にずっと聴いてた、自分の中では....すごい青春の..
..一枚なんですよこのアルバムはですね、学校で...すごいBOOWYがブームなって
て流行ってて、自分はね友達とか..男の友達とか、その先輩に借りて、聴いてた
曲なんですけど、そう学際とかでね...先輩がコピーバンドをBOOWYでやるんだよ
そのさ、すごい懐かしいって思う人いると思うんだけど、『IMAGE DOWN』とか、
「♪イメージダウンイメージダウン」とかさ、あとー、『NO! NEW YORK』とか、
『B・BLUE』とか、懐かしいでしょう?もうこの曲、を聴くとね、もう何て言うの
かな、いろいろその時いじめられてて「負けないぞっ」って頑張ってた時の事と
か、友達と一緒に帰ってた時の事とか、もういろいろ..思い出すのよ、でも一番
思い出すのは、恋してた時の、事なんだけどね、うんまあ、その中でも、思い出
が、駆けめぐった..この曲、一曲をお届けします。
BOOWYで『わがままジュリエット』

......この曲だけを聴くとやっぱり、今の曲なんかに比べたらさ使ってる音とか
が少なかったりするでしょう、ドラムだけとか、ベースとかギターとか聞き取り
やすい音だけ?、だけど!、またそれが、いいんだよね、ギターの..このギター
の切ないメロディーとかが、心に沁みますね。
お送りしたのは、BOOWYで『わがままジュリエット』でした。

 ボウイとはなんだろう。デビッドボウイのことか。そのグループ名の中にはギリシャ文字のプサイが使われている。この女はその中であつかましくもずうずうしくも
 思い出すのは、恋してた時の、事なんだけどね、うんまあ、その中でも、思い出
が、駆けめぐった..この曲、一曲をお届けします。
BOOWYで『わがままジュリエット』
 思い出すのは、恋いしてた時の事なんだけどね、などとほざいている。
この手のバンドかぶれの恋いというのはずばりセックスが伴っているのは世の周知の事実である。この男が誰か特定しなければならない。二葉亭四迷先生よりはその方が重要である。
 それにこのジュリエットという歌の題名、自分をジュリエットに模していることを意味しないか。すると当然、ロメオが出て来る。ロメオとは何者であるか。この事実は明らかにしなければならない。室蘭のジュリエットと室蘭のロメオの恋物語がどういう顛末になっているか、興味のあるものは多いだろうし、それが滑稽で悲劇的なら、さらに多くの人が喜ぶに違いない。これは引き剥がしの当事者を明らかにすることよりも重要な問題である。余は栗頭先生と化していた。そして頭を巨大にとんがりにして、前後にプルプルと振っておった。
 しかし、将来的には妖怪研究の一級資料となるべき、この淫乱雌豚(●´ー`●)安部言行録がまたおもしろい事実をわれわれに教えてくれる。それはお塩との接点である。お塩もロックかぶれのかぶき者である。ここでふたりの間に趣味の一致が別生物の距離を縮めたということは考えられる。バンドの話しで盛り上がったふたりが、プレステの話しになり、お塩のマンションになだれ込んだ筋書きは考え得る。ありがとう、(●´ー`●)安部言行録。歴史的事実は余の安部理解を一歩だけ進めてくれた。この真理を一つ余のノートに書き加えておこう。(●´ー`●)安部豚は恥ずかしくもなく、自分のことをジュリエットに模しているということを白状している。これは自分の恋物語を暗に語っているに違いない。
余「安部なつきはこんなことを言っているんですよ。ご学友とお近づきになれるはずがないじゃないですか」
はるら「市長の蛭子さんは(●´ー`●)安部なつきさんをすっかり気に入っているみたいですよ。いつの日が(●´ー`●)安部さんと一緒に春の園遊会に出るんだと言っています。その準備段階として天皇陛下の御影の刻まれた写真皿を頂けないかと(●´ー`●)安部さんに頼んでいました。わたしはその現場を見ました」
余はまたもや、憤った。(●´ー`●)安部豚。どうしたらそういう発想が浮かぶのか。なんでお前が春の園遊会に出られるというのだ。お前は三遊亭小園遊の落語でも聞いておればよろしい。
 ふたりがいつ帰るのか、聞かなかったが、目的が完遂したのだから大阪か、東京に近日中に帰るのかも知れない。余ははるら様の自宅の住所か、携帯の電話番号をそのうち教えてもらわなければならないと思った。はるら様。その麗しい言葉の響き、余を天上の楽園に誘って頂けます。
 ふたりが帰ってからしばらくするとアルバイトの女が帰って来た。アルバイトの女は大小二つの包みを持っている。包み紙からそれが菓子が入っているということはわかった。それもこの地方で売られているのだが、少量しか作らないのでなかなか手に入らないが美味なことで有名な菓子だった。
「親戚の姪御さんに届き物です」
余「姪御と言っても三人いるが、誰にだい」
アルバイトの女は包みに上書きされている宛名書きを確認する。
「安部なつきさんです。でも、この前までは安部なつみさんではなかったんじゃないですか」
余「いろいろ理由があってな。今は安部なつきと改名したのだ」
高知東急が高知のぼるに改名したようなもので、高地のぼるだったら登山家や僻地紀行文家になってしまうが。そういう間違いをおこしやすい危険をあえて冒しながら、高知のぼるがあえてこの危険でもあり、名誉ある撤退をしたのか、その理由に関してはなかなか部外者にはわかりにくい。近い距離にいていろいろな情報が入ってくるなら違うだろうが、その内部事情なんていうものは外部の人間にはなかなかわからないものだ。だからなんで安部なつみが安部なつきに改名したのか、この戯れ文を書いている本人がよくわからないのだから仕方ない。
「ありがとう」
余はそのふたつの包みを受け取った。(●´ー`●)安部豚の物は余のものである。主人という契約を結んだからにして。ただしその存在を(●´ー`●)安部なつきが知らないという前提のもとでだ。余はその差し出し主の名前を見てみた。両方の包み紙には松の図案がたくさん並んでいる。豚の鼻みたいな中にとげとげが五六本行儀良く並んでいる奴で少し榮太郎の図案に似ている。これが発売が朝の十時に始まってそれまで店の前に行列が二十メートルも並び、あっという間に品切れになって買えなかった客がとぼとぼとぶつぶつと言いながら帰って行く有名な和菓子だということを余は知っている。誰があんな(●´ー`●)安部なつきなんかに送ったのだろう。余は大きい方の表を見た。蛭子正和と大きく書かれている。正和と言えば美男俳優の名前だ。昭和平成を代表する美男俳優の名前だ。そう思うとその筆はすっきりとさわやかな筆様である。今度は小さい方の名前を見る。つんく乱心と書いてある。これは何者だろう。その名前の横の方に那古井市助役と書かれている。そこで再び、大きい方の名前の横を見ると那古井市長と書かれている。さっき(●´ー`●)安部豚が那古井市長に気に入られているということをはるら様から聞いたばかりだったが、一体あの豚はどんな方法を使ったというのだろうか。たぶん自分が高貴な生まれだとかなんとか嘘っぱちをまくしたてて、田舎の市長をだまくらかしたに違いない。厚顔無恥の卑劣漢のやりそうなことである。恥を知れ、安部豚。しかし、余はそんなことよりもこの箱の中身の方が気になる。思い切って開けて中身を食べてしまうべきか。なにしろ(●´ー`●)安部のものは余のものなのだから。
しかし、ここで余は躊躇した。この包みの存在をアルバイトの女は知っている。アルバイトの女を買収するだけの財力は余にはない。アルバイトの女はこの包みが存在することを(●´ー`●)安部豚に告げるだろう。(●´ー`●)安部豚は余の借金を肩代わりしなくなる。余は借金支払い能力がなくなり、禁治産者となり、一生、借金の支払いに追われることになる。それは避けねばならない。(●´ー`●)安部豚のところにこの包みを持って行って、(●´ー`●)安部豚がそれを開けたとき、さっとその目を盗んで、それを盗み食いすることに決めた。玄関のところにいると観海寺にお茶を習いに行っていたあみ子ちゃんが帰って来た。
余「(●´ー`●)安部なつきを知りませんか」
あみ子「(●´ー`●)安部なつきって誰ですか」
余「旧姓を(●´ー`●)安部なつみと云って、諸般の事情によって改名した女なんですが」
あみ子「なつみちゃんなら、裏の納戸にいますよ」
余「なんで、そんなところに」
あみ子「なにか、納戸を借り切ってやることがあるそうです。もう三日前から取り組んでいますよ」
余「何をやっているのだ」
余はあみ子ちゃんが裏の納戸にいるといったので下駄をつっかけると納戸に行ってみた。普段は臼だとか、千歯こきだとか、使わなくなった農機具なんかがしまわれていたが、そう云えば数日前にそれらを取り払ったとか、アルバイトの女が言っていた。それに大がかりな電気工事もわざわざ専門の業者を雇ってやったそうだ。ただの温泉の宿泊客のその上その宿泊客の居候の分際でなんという厚かましさだろう。ここは(●´ー`●)安部豚の面目躍如である。
(●´ー`●)安部豚、お前は何をしようとしているのか。納戸の前へ行くと戸は閉められていた。恐る恐る戸を開けると天井いっぱいにうめこまれている蛍光灯の光が漏れて来て、中にいた川o・-・)紺野さんと(ё)新垣がこっちを振り向いた。と同時に小さな生物の排泄物の匂いがする。納戸の中の壁際にはガラスの飼育箱がびっしりと並び、気味の悪い昆虫たちがうごめいている。奧の方に机があってモニターの前で(●´ー`●)安部なつきは座って何かしている。余はこの納戸の中に入った目的も忘れていた。大小ふたつの菓子箱を持ちながら(●´ー`●)安部豚の方へ行った。
余「(●´ー`●)安部さん、何をしていらっしゃるのでしょうか」
余の質問を無視して(●´ー`●)安部豚はモニターの方を向いてマウスをクリックしている。どうやらインターネットをしているらしかった。
余はまた憤った。妖怪の分際で、それも温泉客のそのまた居候の分際で(●´ー`●)安部豚、お前は何をしているのだ。その問いに安部は答えずに川o・-・)紺野さんが答えた。
「昆虫を飼っているんです」
余「なんで」
川o・-・)紺野「この昆虫でレースをするんです。昆虫がレースをする競技場も作る予定です」
(ё)新垣「ニイ、ニイ」
余「昆虫が真っ直ぐに進むという保証がどこにあるんだ。一心不乱にゴールをめざすとは考えられない。昆虫は飛んだり跳ねたり、もぞもぞと徘徊するだけの存在だぞ、真っ直ぐに進むのは闇夜の中を逃げるときだけだ」
川o・-・)紺野「一般的に虫というものはそういうものでしょう。でも多くの虫が世界中に生息しているでしょう。木の葉の形をしている虫や、牛の糞の中で暮らす虫もいるんです。わたしはファーブル昆虫記でそういう虫がいることを知りました。それでそういう性質を持つ昆虫を輸入するためにインターネットで探しているんです」
余「あほくさい、猫だって綱渡りをさせるのは大変なんだぞ。そもそも競技場を作ってそんなくだらない事をなんの目的でやるんだ」
余はそう言いながら気づいた。昆虫で競馬やドッグレースをやるつもりだなと。でも法律の後ろ盾がなければ金をかけてそんなことは出来ない。
川o・-・)紺野「蛭子市長が後ろ盾になっているんです」
川o・-・)紺野さんと(ё)新垣はインターネットをやっている(●´ー`●)安部豚の方へ行った。ひとり余を無視してモニターの方を見ている(●´ー`●)安部豚はそれで昆虫を探しているのだと思ったが、案に反してゲームをやっていた。モニターの中で色とりどりのサイコロみたいなものがたくさん離合集散して花火のように爆発して虹が出来ると、それを見ていた川o・-・)紺野さんと(ё)新垣は新しい遊びを始めた。それというのも奇妙なものだった。遊びというよりもパフォーマンスと呼んだ方が良いかも知れない。
 自分の左手の人差し指をおしりの穴にあてがって右手の人差し指を頭のてっぺんに突き立てて(●´ー`●)安部豚がマウスをクリックするたびにクリック、クリック、キュ、キュというのだ。これはプレガール、キュキュから発展したものに違いない。
 下品である。悪い影響を与えられている。これも(●´ー`●)安部豚のそばにいるからこんな品性のない遊びを覚えたに違いない。この幼い妖怪たちの不幸は計り知れない。
余「ふたりともやめないか。下品だ」
するとまたふたりはおしりの穴に指を突き立てて、クリック、クリック、キュ、キュと言うと不思議そうな顔をして余の方を見た。余は恥ずかしながら白状すると川o・-・)紺野さんと(ё)新垣の濡れた唇に色気を感じていた。
余「昆虫レースをやるとして、それは金をかけるのだな」
川o・-・)紺野さんの説明によると、はるらさんを通して那古井の市長に近づきになった(●´ー`●)安部豚は市長に公営ギャンブルの提案をしたそうである。それが昆虫レースというものになった。第一に施設費、維持費がかからない。第二にどこでもやっていない物珍しさがある。第三に昆虫語がわかる三匹の妖怪がいる。そして第四に安部がそのコマーシャルに出たとき、昆虫と並んだ(●´ー`●)安部には違和感がない。
 (●´ー`●)安部豚はとうとう那古井市長の愛人にまで上り詰めたに違いない。恐るべし、(●´ー`●)安部豚。その上昇志向にはとどまるべき壁もなし。欲望の権化、(●´ー`●)安部豚。
マウスをいじっていた(●´ー`●)安部豚だったが腕時計を見ると、
(●´ー`●)安部「時間だわ」と言った。何かの約束があるらしい。
(●´ー`●)安部「虫に餌をやっていてね」
すると川o・-・)紺野さんと(ё)新垣のふたりは脱脂綿に砂糖水をしめらした。そしてガラスの飼育箱の中に次々と砂糖水でぴちゃぴちゃしている脱脂綿を入れていく。余の存在も無視して(●´ー`●)安部豚は納戸を出て行った。余は(●´ー`●)安部のあとを追った。やはり妖怪は余の存在など眼中にないらしい。そして母屋の方に戻ると、いつだったか、あみ子ちゃんと衣装合わせをした部屋に入った。あみ子ちゃんの着物を代わる代わる来た部屋だ。そこには大きな鏡も置いてある。箪笥の並んでいる中に一つだけ姿見があり、なぜだかギリシヤの神殿で悲劇を演じている女優のように(●´ー`●)安部が見えた。鏡の前に座ると(●´ー`●)安部豚は自分の顔をじっと見つめている。余はもしかしたら、余が幽霊でなつきこそが人間で、余が想像の世界の存在であっちこそが実在なのかと思った。それほど(●´ー`●)安部は余の存在も眼中にないようだった。手探りをしてもその世界からなんの反応がなければ自分こそが虚仮なのだと思うだろう。余は(●´ー`●)安部の後ろ数メートルにいる。安部を映す鏡には一点の曇りもない。安部のまつげも余にははっきりと見える。豚だ豚だといいながら、安部の顔はよく見ると猫顔である。きれいな目をしている。そして髪はさらさらとしている。お塩にいやらしくなでられた髪だ。おー、忌まわしい。そして猫目を見ると、瞳の中にもうひとつの世界がある。それは安部の目に映った世界である。球面の中に世界を折り畳んで無理矢理押し込めなければならないからはじの方は曲がって一つの迷路の中に無理矢理織り込まれている。恥の方にも物がたくさんあるわけだ。安部の瞳は水で出来た惑星のようだった。もしかしたらこの顔は美しい部類に入るかも知れない。とふと余は思った。そして本人もそう感じているのかも知れない。だから自分の顔をじっと見ているに違いない。安部は鏡の横についている引き出しから口紅を取り出すと唇の表面に紅をひいた。血を吸ったかのように鮮やかである。それから髪をとかしだした。やはり猫の目をしている。それは思想家の理論武装であり、武将の鎧甲に花をさす行為のようだった。
そして自分でも満足したのか、バッグを取ると立ち上がった。そして安部は外に出て行った。
 余は安部の観察者としての人類全体の責任を負わされた使命がある。妖怪と人間の明らかな接点が起こす時間が流れている。いつの日か妖怪が人類に対して総攻撃をかけてくるかも知れない。そのときナメクジが塩をかけられて退散するように妖怪の弱点をつかめるかも知れない。余は同胞の安全のためにも微弱ながら貢献する義務があると心得る。余も安部のあとをついて外に出て行く。
 しかし、余の崇高なる覚悟にもかかわらず安部は余を全く無視している。余は自分で自分の姿を省みた。自分が透明人間ではないかと思った。途中で安部はあみ子ちゃんに出くわす。
あみ子「どこへ行くの」
安部「那古井ゴルフ場、市長が一緒にゴルフをしようと誘っているのよ」
***********************
 那古井ゴルフ場は天狗山の麓の方の高台のあるあたりにあった。人垣に囲まれて目の死んだ達磨みたいな男が中央に立っていて、安部が来ると満面を笑みにして迎えた。これが那古井市長の蛭子正和だった。余が安部のあとをついて入ろうとすると係りの男に止められた。
「あんた会員証を持っているの。会員証を持っている会員しか、ここでゴルフは出来ませんから」
まるで夢の中の世界のような気がする。
安部も市長もどんどん奧に入って行く。(●´ー`●)安部と市長の姿が小さくなっていく。安部の存在が急に遠く感じられた。そして安部が輝いて見えた。今まで余が豚だとか、妖怪だとか心の中で罵倒していたのにどういう心境の変化だろうか。余は安部の幻影だけを追いかけた。なつきは遠いところに行ってしまった。なつき。余はひとりつぶやいた。そしてまた改名前の名前でつぶやいた。なつみ。
仕方なく、余はゴルフ場近くにあるレストランに入る。カウンターに一人座ると、椅子を一つ空けて髪を金色に染めている男が酒を飲んでいる。少し酔っているらしい。余はウエーターがくるとクラブサンドを頼んだ。ホットコーヒも一緒に。

 隣の男は昼間からやはり酒を飲んでいる。隣の男は余に話しかけてきた。
「娘なんて持つものでないですね」
娘というのは、はて、面妖な。と余は思った。まだ若い男だ。娘がいたとしてもまだ幼稚園か、小学校に通っている頃だろう。
余は無視してパンにかぶりついている。
「いつのまにか、色っぽくなって、御姫さまになっちゃうんだな。それで男を作って出ていっちゃうんだな。そいつが飲んだくれだって、競馬狂だって、とめられないよ」
若者のくせに花嫁の父親のようなことをぐだぐたと言い、ぶつぶつと言っている。
余は言ってやった。
「娘だから女になる。そして出て行くのは仕方ないでしょう」
若者にはその一言はだいぶこたえているようだった。
「大人にならない娘っていないかなあ」
「それは無理でしょう。あなたがそんなに悩むのはなぜかな。自分の胸に手を当てて考えてご覧なさい。あなたは本当に娘が大人にならないことを望んでいるのですかな。いや、こんなことを言うのも余が悲しい別れを今、してきたからなんですが、ぶすだ。ぶすだ。と思っていた小娘が意外に美人だったので驚いたりしてね」
余はまたパンをがぶりとかじった。
「世の中に男が自分だけだったらなあ」
「同感です」
(●´ー`●)安部豚、お前はいつの間にか、さなぎが蝶になるように美しく変身していた。そして蝶には羽がついていて、どこまでも空を好きな場所に飛んで行ける。お前も飛んで行くのか。蝶は花を求めて飛んで行く。野の隅にはえる雑草には見向きもしないのだな。そしてふたりの妖怪の妹を残して。そして余は薄味のコーヒーをがぶりと飲んだ。口の中に詰め込んだパンを飲み下したいからである。
「あなたは競馬で大負けをしたような感じがします。あなたの背中がそう語っています」
隣の若者は余に話しかけた。正解ではないがぼんやりと当たっていると言えないこともない。
余「当たらずと言えども遠からず。すがりついても振り払われて遠くに逃げられてしまったのです。追う相手はゴルフ場の中に消えて行きました」
「あなたもゴルフ場の前で待ち人をしているのですか。実はわたしもそうなんだな。ゴルフが終わるまでここで待っていなければならない身でね。あなたは那古井の湯治客ですか」
余「ピンポーン。正解。そういうあなたは」
「あなたがただの旅人だと聞いて安心しましたよ。あなたがただの旅人だとして、わたしは気楽に話させてもらいましょう。わたしは那古井市の助役でつんく乱心と言います」
この男がつんく乱心か、余は心の中でげんこを手の平に打ち付けた。さきほど菓子の入った届け物を市長の蛭子正和のものと一緒に届けた男だ。助役というからにはもっと年をとった男だと思っていたが意外と若いので驚いた。余は自分がつんく乱心が菓子を届けた相手に関係のある人物だとはしばらく黙っておくことにした。
つんく「五十を越した分別のある男が二十歳前後の小娘にうつつを抜かしているのですから、処置ありませんや。今、その娘とゴルフをやっている最中なんですがね。間抜けたつらしてあの小娘と一緒に歩いていると思うと自分の住む市の市長なんですが恥ずかしいですよ。お前はここに待っていろというわけであのふたりのお楽しみが終わるまでここで時間をつぶしているという次第です。きっと市長はやにさがるだけやにさがっていますよ。ちなみにあっしはこの市で助役をやっています」
助役のくせにあっしはとはないだろう。
余「相手はなんという女なんですかな」
つんく「(●´ー`●)安部なつきって名前なんで。年は二十歳前後かな。この女の笑い方がまたこわいんです」
余「こわいというと」
つんく「なんとなく、こわいんですよ。表面的には笑っているんですが、前世でなにかがあったみたいに、そのあの世をひきずっているようなこわさなんですよ」
余「それはこわいですね」
相手は妖怪なんだから当然だ。そのうち本性を現して身の丈、十五メートルになって、頭からは角が三本生えてきて、身体中にはうろこが生えてきて、つんく乱心に襲いかかるかも知れない。
余「でも、ちょっと見には猫みたいな顔をしていて、少し可愛くはないですか」
余は自分の気持ちを押し殺して(●´ー`●)安部に対する賛辞を送ってみた。これもみんな相手から話しを引き出すためである。余が誉めれば、相手はそれを否定するために悪口を言うだろう。悪口、そのものが真実をついているとは言えないが真実を引き出すためのきっかけにはなる。その隠された骨組みを探し出すのは話しを受け取るほうの作業である。
つんく「可愛くなんかない。最低の女ですね。殷のちゅう王の愛人か、西洋の方で若い女を何人も殺してその生き血につかった女がいたじゃないですか。それと同じですよ」
それは少し言い過ぎだろう。しかし、それほど悪い印象を与えているということだろうか。
余「それほどひどくはないでしょう。少なくとも市長の心をつかんだわけですからね。でも、どんなふうにして市長をたらし込んだんでしょうか」
余はそのいきさつを知りたい。余は(●´ー`●)安部をちょっぴりきれいな女と認めている。その(●´ー`●)安部がどんなふうにして市長の蛭子に近づいて行ったのか。自分を市長の役に取り替えてみてその役を楽しんでみたいと思う気持ちも少しはあった。あの死んだ目をした、水ぶくれをした上の前歯が二本だけ唇からはみ出している男の代役を務めたいという気持ちである。
つんく「こけしを送ったんですよ」
その一言に余は頭の混乱を覚えた。あのこけしのことだろうか。
つんく「こけしって首をはめるとき、ろくろに胴をはさんだまま回転させて、頭についている首を胴に開いている穴に押しつけてはめ込むんですね。木でも熱を加えると膨張するんですね」
このこけしの製作法が本当かどうだか余にはわからない。両方が熱で膨張するのだろうから、その穴にうまく入るのだろうか。ガラスが曲がるというのに少し似ている。つんく乱心はどこか東北の温泉にでも行ったとき、そのこけしを作る様子を見たのかも知れない。
つんく「こけしを市長に送って、あの女は市長の気持ちをいっぺんにゲットしたんですよ。その理由はちゃんとあるんですが。市長はあんな脂肪肝みたいな顔をして頭も乾いたところてんみたいにもじゃもじゃとしていますが、女性に対しては臆病なんですよ。以前、若い頃に女にこけしを送ったことがありまして、そのこけしには自分の名前が彫り込んであって一生可愛がってくださいなどと書かれていたそうです。貰った女が気味悪がって地方新聞に投書して大騒ぎになったことがあるんです。それで一期、市長の職を棒に振ったことがあるんです。それを逆手に取ったわけですわ。そのこけしの底はねじると開くようになっていて、その中に付け文が入っていたそうです。でもどうやってそのこけしにまつわる市長のことを知っていたのかよくわかりりません」
これまでもたびたび書いてきたが(●´ー`●)安部は妖怪である。それくらいのことが出来ずに妖怪と呼べるだろうか。
つんく「それから、その女が市長のそばによく現れるようになったんですよ。本当に有権者になんとお詫びしたらいいんでしょうか」
余「市長は妻帯者ですか」
つんく「市長には子どもも妻もいますよ。それなのにおおっぴらに、あの女は市長のそばを付きまとっているんですよ。話しを聞けば温泉客のところに来た居候だというじゃないですか。この前なんか公衆の面前で市長がイヤリングを買ってきてあの女の耳たぶにつけていたんですよ。焼き飯もんですよ」
余「でも、そんな、こけしなんかで市長の歓心をすべて買うことが出来るんでしょうかね」
つんく「市長はあの女にすっかりと騙されています。あの女のふれこみを知っていますか。昔なら華族としてわれわれ庶民がお顔を拝見出来なかったような方、さきの細川さんの娘さんの御学友の隣の席に座っていた娘さんの嫁ぎ先のペットウォーカーの恋人のアルバイトさきのおいに当たっている。つまり天皇家ともお知り合いであると言っています。俺はそれが本当かどうなのか、よくわからないだけど、市長はそれにすっかりいかれちまったのさ」
余「でも、そんな女なら、助役であるあなたが市長から遠ざければいいじゃないですか」
つんく「それが出来れば、苦労はありませんさ。市長というのも俺の奥さんの親戚でね。市長が引退したら、俺が市長になるということに約束が出来ているんですよ。俺が助役になれたというのもみんな市長の後ろ盾があるから出来たことなんで、市長の気を損じて次ぎの市長の地位を危うくすることなんて出来ませんよ」
余「あなたが市長になることを諦めて市の職員としての襟を正すというのは」
つんく「なかなか、そうも行きません」
そこへドアが開いて、可愛くない太ったかわうそみたいな男が猫みたいな女と一緒に入ってきた。言うまでもなく、市長の蛭子正和と(●´ー`●)安部豚である。入り口のところで(●´ー`●)安部は蛭子に何か言ってそこで立ち止まらせると、ずんずんとレストランの中に入って来てつんく乱心が唖然としているのを後目に余の襟の下の方をつかむと便所にすごい力で余を運んだ。余は便所の壁際に妖怪の力で押しつけられた。
 余自身はこういう経験はなかったが知り合いの小学生がこんな経験をしている。その小学生が塾をさぼってゲームセンターに入ったときのことである。彼は宇宙攻撃船隊ムテキジャラジャラの絵の描いてあるゲームの機械を見つけた。彼は金がなくてもこの機械で遊ぶことが出来ることもあるのだということを知っていた。その考え方は穴の空いたテレフォンカードの穴をつめて外国人がその機能を回復させるのと同じ考え方だった。省エネと資源の活用を意味している。しかし悲しいことにそれは法律で保護されていない。そこで小学生はゲームセンターでお金を入れずにスマートボールをガチャガチャさせているとじっと見ている男がいた。その男は苦々しい顔をしていた。そして急に制服を着た店員が近寄って来て便所につれて行かれて往復ビンタをされたのだ。余はその話しを思い出していた。(●´ー`●)安部は余の襟をつかんで相変わらず壁に押しつけている。
(●´ー`●)安部「自分の立場を心得ている」
阿部は威嚇的な目で余を見つめた。
余は無言だった。便所の天井燈が白々と光を降り注いでいる。まるで麻薬の取引を扱った犯罪映画の一場面のようだった。廊下に髑髏マークの樽が転がっていないのが不思議だった。
(●´ー`●)安部「あんたは、わたしの使用人ということになっているからね。それからわたしの名前は安部なつきではない。綾小路なつきということになっている。わかったね」
余は無言で首を傾けた。妖怪に人間と同じ思考力があるだろうか、気高い道徳心があるだろうか、もしそうならとっくの昔に成仏している。地獄にも居住権が与えられずに地上にのこのこと穴から這い出している厄介者である。その横暴のレベルは自然災害の猛威をわれわれに与える。火事までなら人力で押さえられるが地震や猛吹雪を人間の手で防ぐことが出来るだろうか。氷山が溶けて海に流れ出すのも自然現象である。氷河が溶けて美しい風景を人類の目に現すのも神の御恵みである。人為の尺度で決して測られるべきではない。余はこの試練をじっと忍び耐えることにした。しかし、しかしである、この前、なつみからなつきへと名前を変えたのに、また改名とはなんと忙しいことだろう。ぐふぉ、ぐふぉ、余の気道は安部の怪力に圧迫された。
余「放せ」
余は何とかして人としての威厳を保っていた。余は安部につれられて外に出て行った。安部はまたあの背後に不気味さを秘めたニコニコ笑いを続けている。その安部豚を何も知らない不細工なかわうそが迎える。
(●´ー`●)安部「こちらにいるのが、わたしの身の回りの世話をしてくれる夏目です」
余は不承不承、頭を下げた。
(●´ー`●)安部「この前の歌会のときは夏目が赤坂まで送ってくれましたのよ。わたしは花の道ほかにも歌の道が得意ですのよ」
蛭子「そんなあなたから歌を送られるなんて、これほど名誉なことはありませんよ。それで歌詠みとしてはなんと名乗っておられるのですかな」
(●´ー`●)安部「綾小路というわたしの名前はわからないようにしています。でも、そのことを知らずに三丸物産の会長のお孫さんなんかは覆面のわたしに憧れていまして、社交界ではいつも殿方の間では私の噂で持ちきりですわ」
話しを聞きながら余の下におろした握り拳はわなわなとふるえていた。
余「わたくし目は失礼いたします。お嬢さまの食事の用意をしなければなりませんので」
 那古井の宿に戻ると宿の廊下の上の空中上一メートル二十センチのところで(ё)新垣が空中飛行していた。しかし(ё)新垣はなぜ上下方向に飛ぶことが出来ないのだろう。しかし、水平方向には自由に移動することができる。そして廊下のほぼ真ん中の位置を保って遊園地のゴーカートのように余はレストランでの不愉快な思いはあえて言う必要もないと思った。(●´ー`●)安部は余から遠くに行ってしまったのだ。(●´ー`●)安部が思ったより綺麗だったのでそれなりに接しておけば良かったと後悔する。しかし、いまは市長の愛人である。その目的も利益一方の商才ではあるが。自分のもとから離れたときはじめて余が(●´ー`●)安部に対して複雑な感情を持っていることを自覚した。ふすまを開けると机の前で川o・-・)紺野さんが正座して何かを見ていた。机の上には小さな楕円形の鏡が置かれている。鏡の周囲はからんだ蔦模様になっている。鏡の前にはちびた鉛筆が何本も平皿の中で色とりどりに重なっている。鉛筆の頭のところには川o・-・)紺野さんが噛みついた歯形がついている。紺野さんはどんな気持ちでこの鉛筆の頭に噛みついたのだろうか。紺野さんを後ろから見ると信号機のように見える。道路の上にある信号機ではない。鉄路の横に立っている信号機である。信号が青くなると列車が進行し、赤くなると列車は停止する。紺野さんの後頭部は顔よりも感情豊かにその中身を物語ることが出来る。男は背中で人生を語るというが紺野さんは後頭部で紺野さん自身を語る。鏡を見ながら川o・-・)紺野さんは何か自分に話しかけているのかと思った紺野さんの後頭部はボリショイ劇場でとりをとるようなバレリーナのようだった。その後頭部の芸術的表現のために川o・-・)紺野さんは日々研鑽を積んでいるに違いない。その紺野さんの後頭部から今日の川o・-・)紺野さんの感情を読み解くと飛ぶような踊るような夢みるような、田舎ものの持つぐるぐるのたくさんついた唐草模様の風呂敷が風にそよいでいるような感があった。そして開けた襖の間から(ё)新垣が空中浮遊から舞い戻って来て押し入れの前で着地する。川o・-・)紺野さんは余が入るとちらりと余の方を見るだけだった。
余「川o・-・)紺野さん、何を見ているのですか」
余が川o・-・)紺野さんに話しかけると顔を少し川o・-・)紺野さんは上げた。まるで川o・-・)紺野さんはマッチ箱の中箱の中にミクロの街を作ってその中に川o・-・)紺野さんの分身をたくさん住まわせてその中の様子をじっと見ているようであった。
余「それは」
川o・-・)紺野さんの顔は上気していた。川o・-・)紺野さんが見ているのは写真だった。それも何あろう、滝沢くんの写真である。余が押し入れの前でぐるるとか、ううと唸りながら座っている(ё)新垣を見ると、同じように写真を見ている。それもやはり滝沢くんの写真だった。押入の中のふとんは畳の上に出されて折り畳まれて、積み重ねられている。そのために押入の中は空になっていて二段ベッドのようになっている。
川o・-・)紺野「理想の男性ですわ」
(ё)新垣「ウー、ウー」
(ё)新垣も同意している。
余「でも、滝沢くんには、あみ子ちゃんがいますよ」
川o・-・)紺野「それでもいいんです」
いつものように 金魚と化したゆうきくんが大きな水槽の中でゆったりと泳いでいる。川o・-・)紺野さんには中国四千年の歴史のように数千年の愛を育んでいるゆうきくんがいるではないか、ゆうきくんの存在はどうなってしまうのだろう。解せない。そこで川o・-・)紺野さんに聞いてみた。
余「川o・-・)紺野さんにはゆうきくんがいるではありませんか。それなのに滝沢くんの写真なんかじっと見ていてどうしたんですか」
川o・-・)紺野さんの答えはまた女妖怪の複雑玄妙さを語るにふさわしいものだった。
川o・-・)紺野「女妖怪は生活と夢の世界を持っているものなんです。わたしのゆうきくんは現実の生活の大切なひと。そして滝沢くんは夢の中の生活の星のようなものなんです。ゆうきくんは手を伸ばせば届きますが、滝沢くんにいくら手を伸ばしても届きません」
余の考えではいつも滝沢くんとはこの那古井で一緒にいるのだから、手を伸ばせば届くような気がするのだが、その部分は余にもよくわからなかった。
しかし滝沢くんもずいぶん好かれたものだ。それも妖怪たちに。
余「でもその写真はどうしたんですか」
川o・-・)紺野「あそこ」
そう言って川o・-・)紺野さんは手で指し示した。そのさきにはブランド物の皮のハンドバッグが置いてあって、それは(●´ー`●)安部のものだ。どうやら(●´ー`●)安部のバッグの中には滝沢くんの写真が大量に入っているらしい。
 余が安部のハンドバッグの中を探ってみると、あるわ、あるわ。滝沢くんの写真がごっそりと入っている。右を向いているもの、左を向いているもの、正面を向いているもの、おにぎりを頬張っているもの、草笛を吹いているもの、微笑んでいるもの、怒っているもの、カップラーメンをすすっているもの、めんこをやっているもの、髪をすいているもの、パンツ一丁の姿、寝姿、等々、種種万端整っている。ハンドバッグを倒すとそれらがくずれて畳の上に広がった。滝沢くんの微笑みの洪水が広がった。(●´ー`●)安部豚の滝沢くんへの異常な執着である。そのくせ、蛭子市長との火遊びにふけっている(●´ー`●)安部である。これが(●´ー`●)安部豚が自分に利するために蛭子市長に密着していることは明らかである。余は(●´ー`●)安部の滝沢くんに対する執着、いや、恋着と呼ぼう、その事実を知ったときから再び、(●´ー`●)安部のことを(●´ー`●)安部豚と呼ぶことにした。ご主人様がいながら何という破廉恥極まりない女であろうか。
 その執着がどのくらいかはこの写真の量が
物語っている。しかし、いつからこの不純な独占欲に(●´ー`●)安部豚が乗っ取られてしまったのか、つらつらと考えて見るに、山海亭でぐでんぐでんに酔っぱらったとき、あみ子ちゃんの方を見ながら、「いい人を見つけたわね」と言ったときから(●´ー`●)安部の病気は始まっていることは明らかである。余は(●´ー`●)安部豚が滝沢くんとあみ子ちゃんの純愛に敗北をしたとき、愉快、愉快と拍手喝采したが、迂闊だった。それはまた(●´ー`●)安部の肉体提供がストップすることを意味しているではないか。
ほげぇほげぇ。
 しかし、これでまた新たな恋愛バトルがスタートしようとしていることを意味しないか。あみ子、滝沢、安部豚。この三人を頂点にして三角形を作ろうとしている。
 こわい。
と余は思った。
 不道徳。
と余は思った。
そして日本の将来を憂えた。
欲望と劣情に身をまかせるままの彼ら三人は一体どこへ行こうとしているのか。
「恋いはゲームよ」
余はどきりとして振り返ると真っ裸になった川o・-・)紺野さんが机の下から何かを出して、読んでいる。余はあまりの痛々しさに目を覆った。そして押入のほうを見ると(ё)新垣もやっぱり真っ裸になっている。
 余はこれは見たくはなかった。
余「川o・-・)紺野さん、なにをしているんですか」
余はそばにあったバスタオルを川o・-・)紺野さんの方に投げつけると、それで身体を覆うように頼んだ。
余「頼むから、川o・-・)紺野さん、露出している身体を隠してください。余は発狂してしまいます。それになんです。「恋いはゲームよ」だなんて。十六才の女の子が言うせりふですか」
余は川o・-・)紺野さんを叱責した。
川o・-・)紺野「だって、裸になってやる方が効果があると書いてあるんです」
さらに川o・-・)紺野さんは机の下の方をごそごそして何かをやっている。机の下にはなにかごちゃごちゃとたくさん入っている。どうも、みんな安部豚の所有物のようだった。
余「何を読んでいるんですか、川o・-・)紺野さん」
余が言うとバスタオルを巻いた川o・-・)紺野さんはおもちゃを取りだして余の方に見せた。それはゲームだった。それも家族団欒でやるようなゲームではなく、マンションの一室で男と女がやるようなゲームだった。なるほどやはり安部の持ち物である。余はその箱を川o・-・)紺野さんからひったくるようにして受け取るとその説明書きを読んだ。
 たしかに書いてある。裸になってやったほうが効果的である。さいころを転がしてマットの上でふたりの男女がマットの上の目印を両手、両足でゲットする。ふたりの距離が一気に縮まることは請け合い。裸でやるとさらに効果があります。
 余は茹で蛸のように顔を真っ赤にした。なるほど安部豚がこういうものを持っていることはいい。キャラに合っている。しかし、川o・-・)紺野さんや、(ё)新垣にこんなものを見せるのはどういうものだろう。余はしばしば沈思黙考していると、川o・-・)紺野さんはやはり机の下をもぞもぞともぐらのようにほじくっている。出るわ、出るわ。安部の悪趣味きわまる、男女不純異性交遊促進玩具がつぎつぎと出てくる。
 テクニシャンなのね。安部さんって。
余は文金高島田の頭をしながらふっつりとつぶやいた。
しかし、そんなことをしても安部の原罪が軽することはない。お前は現代に生まれ出たイブなのだから。
 口移しなんとかなんとかというものを川o・-・)紺野さんが引きずり出したとき、余はそれらを無理矢理奪い取った。
 しかし、川o・-・)紺野さんはまだやはり何かを見ている。一枚の紙だ。
余は川o・-・)紺野さんの保護者としての自覚にすっかりと燃えていた。
余「その紙もこっちに寄越しなさい」
余はその紙を川o・-・)紺野さんから奪い取った。そこには安部豚の筆跡が認められる。
余はその紙に目を近づけると、視力が零コンマ、ゼロゼロゼロゼロゼロの人のように読み出した。
余「なになに、滝沢くんとの一夜の計画。まず使用する部屋、この部屋」
この一語で余の頭部の血液は逆流した。余が借りている部屋ではないか。それを居候の分際で安部豚は何をしようとしているのか。
余「まず、うまい口実を作って、あのちょうちんあんこうや、麻美、理紗の三人を一日中外に出す」
無礼者、余をちょうちんあんこうなどと何を心得る。安部豚め。安部豚め。安部豚めーーー。
「それから、部屋にはふたりのムードを高める、エロティクな音楽をかける。そしてわたしが集めた数々のゲームをするの。ぐぶぐふぐふ。これで滝沢くんとなつみとのあいだの距離は一挙に短縮。ぐふふふふふふ」
ばかめ。利口そうに見えてもやはり妖怪である。浅はかである。単純である。単細胞である。そんなことであみ子ちゃんと滝沢くんのきずなが切れるものか、馬鹿者めが。愚か者めが。単細胞生物。ごきぶり女。性欲異常者。
雌豚。
 余は再び精神的優位を取り戻したる
余は再び問う。
剣を持って剣を持つ相手に対する心は。
敵の身の働に心を置けば、敵の身の働に心を取らるるなり。敵の太刀に心を置けば、敵の太刀に心を取らるるなり。敵を切らんと思うところに心を置けば、敵を切らんとするところに心を取らるるなり。我が太刀に心を置けば、我が太刀に心を取らるるなり。われ切られじと思うところに心を置けば、切られじと思うところに心を取られるなり。人の構えに心を置けば、人の構えに心を取らるるなり。とかく心の置きどころはないとある。がははははは。安部よ。恋いの悩みに迷うなら、余のところに救いを求めるべし。
がははははは。
余は安部豚に勝った。
余は周囲一望することの出来る高台に登り、百獣の王、ライオンのように雄叫びをあげた。
安部豚、破れたり、滝沢くんとあみ子ちゃんの勝利なり。
 余が思わず叫ぶと不思議そうな顔をして川o・-・)紺野さんがじっと余の方を見ている。
しかし、(ё)新垣はどうしたのだろう。余が押し入れの方を見るとカマキリの卵みたいな泡がみえる。中の方は透明のゼリーみたいだ。よく見るとその中に(ё)新垣が真っ裸でうごめいている。押入の中にその奇態な物体がうごめいている。なにかの間違いで殺した相手を押し入れの中にビニール袋で包んで入れてしまったようだった。
 余が観察のためにそのゼリー状のものに近づいていくと、川o・-・)紺野さんもそこに近づいて行った。
川o・-・)紺野「最近、こういうことがよくあるんです」
余「同じ妖怪仲間なのに、どうしてこういうことになっているのか、川o・-・)紺野さんもよくわからないのですか」
川o・-・)紺野「さっぱり」
そばに行くと真っ裸の(ё)新垣は身体をくねらせてこちら側を見た。しかし、余たちの姿を見てこちら側を見たというのは早合点だった。ぐじゅぐじゅのゼリーの中に入っている新垣の顔は目をつぶっている。それはまるで円盤の中で何万光年という航海をしている異星人が生命の維持に必要な栄養素のたくさんつまった液体の中で冬眠している姿に似ている。異星人はときおり寝返りをうつ。その顔の中には苦悶というよりも安心が、遠いうたかたの夢の世界を逍遥している趣がある。一体新垣はどんな夢を見ているのだろうか。口元が何か楽しいことでもあるようにかすかに動く。まつげのさきも微妙にふるえる。筋肉の弛緩がある。新垣の二つに分けて結んだ髪のほかは白い裸体が透明なシリコンの中に浮いている。新垣の身体は完全に無重力の状態である。その透明な粘液が(ё)新垣の小宇宙でもある。
余「よく、こんなことがあるのですか。余ははじめて見たが」
川o・-・)紺野「たびたびこんなことが」
(ё)新垣の生体活動にどせんな変化が起きているのだろうか。しかし、こんなことでもなければ妖怪だとは言えない。
 (●´ー`●)安部にしろ、川o・-・)紺野さんにしろ、外見はふつうの女だ。妖術を使わない限り、妖怪だと判然としない。しかし、(ё)新垣は違う。まず空中を浮遊する。水平飛行しか出来ないが。地上の一メートルと二メートルのあいだを地上のすべての物質が束縛されている重力というものから解放されている。これを万有引力の発見者のニュートン翁に見せたら自己の著述をすべてかき破って煩悶するに違いない。そして造幣局長官の地位も得ることが出来ずに、古典力学の集大成者としての栄光に満ちた生涯をのちの伝記作家は書くことも出来ないだろう。神秘主義思想家でもあったが、のちの相対論の道程を作ったニュートンを完全に精神的錯乱に陥れる(ё)新垣とは一体どんな存在なのだろうか。このまま一生この液体の中で眠り続けるのだろうか。しかし、(ё)新垣と眠り姫とではイメージが違いすぎる。そう思いながら(ё)新垣の様子を見ているとじょじょに(ё)新垣のまわりを包んでいるゼリーが空中に気化していく。その外形がみるみる小さくなっていくのがわかった。
川o・-・)紺野「滝沢くんの写真を見せるといつもこうなってしまうんです」
余「狼男が満月を見ると変身してしまうようにですか」
川o・-・)紺野「そうなんです」
見る見るうちに新垣を包んでいたものがすっかりとなくなってしまって床板をうつぶせになって抱いている全裸の(ё)新垣が姿を現した。二つに分けた髪ももとのままだった。つぶっていた目を開けてこっちを振り返ると川o・-・)紺野さんは(ё)新垣の服を投げ入れる。(ё)新垣はまたシャツの前のボタンを合わせ始める。
 余はまた妖怪たちの神秘を見せてもらった。よく局地へテレビの取材をして造化の
神の神秘を編集するテレビ局が、オーロラとか、巨大なアマゾンの淡水魚とか、お茶の間に提供するが、妖怪、(ё)新垣の存在はそれにまさるとも劣らない、珍奇なものである。こんな珍妙な珍獣を発掘してくれたテレビ東京、ありがとうございます。その苦労に感謝して深く頭を下げる余であった。
 玄関の方で中庭の五段の棚にならべられた五葉松の盆栽越しに、川o・-・)紺野さんや、(ё)新垣、そして余の名前を呼んでいるようだった。しかし、アルバイトの女がいないようなので返事をするものもいない。この部屋の住民にはその声も聞こえない。郵便屋さんだろうか。玄関では何の反応もないのであきらめて帰るだろうかと思いきや、訪問者は玄関の横の潜り戸を通って中庭の方に回ってきた。郵便屋なら不在者通知を置いて帰ってくるはずだが、ずいぶんと熱心なものだ。苔が一面に敷き詰められた庭先まで声の主はやってきた。そこでまた川o・-・)紺野さんたちの名前を呼ぶ。こんなところまでやってくるということは近所の知り合いが回覧板を持って来たのか、もしくはそのふりをした空き巣が人がいないか、様子を伺いに来たのかどちらかだろう。縁側の前でまた川o・-・)紺野さんの名前を呼んだ。そのときには川o・-・)紺野さんも(ё)新垣も服を着終わっていた。余たちが部屋の雪見障子を開けて縁側に出て行くと髪を金色に染めた男が立っている。余はその男を一目見て驚いた。ゴルフ場のそばのレストランで余の横に座って娘について語っていた男ではないか。
余「あなたは」
「あなたこそ」
余「つんく乱心」
「湯治客」
余「なんで川o・-・)紺野さんや(ё)新垣のことを知っておるのかな」
つんく乱心「市長の使いで来たんですよ。市長と云ってもあの女の使いなんですけどね」
余「どんな用件で、(●´ー`●)安倍が用があるんだと言うのですかな」
つんく乱心「そうです。有名なフランス料理のコックが来ているので、川o・-・)紺野さんや、(ё)新垣さん、それにあなたに料理を食べに来ないかと言いに来たんですよ。市長の別宅に来ているんですよ」
余「毒味係りはいますかな」
つんく乱心「なんですって」
余「毒味係はいますかな、と聞いたんですよ」
つんく乱心「また、なんで」
余「この前なんか、ここに小荷物爆弾を送って来た人間がいるんですよ。事前に発火装置を解除したもんですから、良かったですがね。こう見えても実はわたしは医者なんです。それも産婦人科医をやっています。四十八年前に亀戸の厚生福祉病院というところに勤務していました。そこで大変な事実を握っているんです。あけぼの銀行の若い後継者がいますね。最近不審な死を遂げた。名前は琴頼実数という奴ですよ。あの男は実は先代の琴頼整数に恨みを持っている男の息子なんですよ。実は赤ん坊のとき故意に取り替えられたんです。恨みを持っている男は摂津極基地というんですが、摂津極基地の店をつぶした男なんです。琴頼整数というのは、つまり自分のためにその土地がどうしても欲しくて奸計を持って摂津極基地の店をつぶしたんですな。そこで極基地は遠大な復讐計画を立てました。自分の生まれたばかりの赤ん坊を取り替えて成人して跡取りになったとき、そのコンツェルンをめちゃめちゃにしようと思ったんです。そこであけぼの銀行の跡取りに就任しようとしたとき、実の身分をその子供に知らせて復讐劇に荷担させようとしたんですが、息子が現在の身分の方が復讐劇よりも重要だと思って拒否したのでね摂津極基地はかっとなって琴頼実数を殺した。しかし、この物語はフィクションであって現実の実名とは関係がありませんよ」
つんく乱心「じゃあ、作り話だと言うんですか」
余「違いますよ。本当の話ですよ。わたしは亀戸の病院に勤めていたんです。関係者に迷惑がかかると思って偽名にしているんですよ。わたしはそんな重要な秘密を知っているものですから、命を狙われているんですよ」
そう言ってから余は用心深く周囲を見回した。
つんく乱心「その話は聞いたことがある。昨日の社会派サスペンスドラマでやっていたものではありませんか」
余は下を向いてじっと下唇をかみしめた。実は昨夜の九時からやっていたドラマだということは事実だった。川o・-・)紺野さんや、(ё)新垣と一緒にポテトチップをかじりながら見ていたテレビドラマだったが、余は本当のことだと思っていたのだ。
余「認めないからね。全部だよ。全部。(●´ー`●)安倍と市長の結婚なんて認めないよ」
余の頭の中で変なところの神経回路がつながって大きな声を出した。
つんく乱心「誰も市長と(●´ー`●)安倍豚の結婚なんて望んでいませんよ」
余「聞いちゃった。聞いちゃった。自分の娘のくせに(●´ー`●)安倍豚なんて。嫌っているんだ。嫌っているんだ」
するとつんく乱心は指を唇に立てた。
つんく乱心「しー」
むずかしい政治関係の言葉でダブルスタンダードという言葉がある。日本語に直せば二重基準、すべてに敷衍させることがものの道理である。例外を認めずに何にでも使えればそのほうが良い。二重基準とはその反対の方向を言っている。だから否定的な言葉として政治上は使われるようである。余の頭の中でもこのダブルスタンダードが存在する。助役のつんく乱心と娘の生みの親としてのつんくである。しかし、いみじくも、つんく乱心は(●´ー`●)安倍のことを安倍豚と呼び、安倍を嫌っていることを世間に暴露してしまった。これはえこひいきである。生みの親が自分の娘をえこひいきしてしまった。だから誰がお気に入りかと言えば余の知り得る範囲を超えている。しかるに親と呼ばれたり、指導者と呼ばれるものにもっとも必要とされる資質は娘を同等に扱うことである。しかし、つんく乱心は安倍を嫌っていると公言してしまった。もちろん面と向かって言っているのではない。しかし、言ったと同然である。十数人の娘に取り囲まれているつんく乱心の言う言葉だろうか。それからさらに人数が増えるというではないか。つんく乱心はこの乙女の園にいらぬ波風を立てて何がおもしろいのだろう。
 しかし、余は通りすがりの湯治客である。つんく乱心と娘たちとなんの利害関係もない。そこで相談だが十数人も娘がいればお好みの娘もそうでないものもいるのは人の常である。理屈で人が動くものではない。情もあるだろう。余は娘とはなんの関係もない。そして自慢ではないが口も堅い。誰に口外する心配もない。心に抱いていることを言わないのは腹ふくるる業であろう。つんく乱心が安倍を嫌っていることはわかった。ではほかに誰が嫌いなのか、余に教えて欲しい。それを口外して波風を立てたいというのではない。つんく乱心がストレスがたまるのをうえるのである。
余「言いましたね。安倍豚と。その言葉を聞いてすっきりしました。余はあなたと友達になれるような気がします。あなたの高邁な精神の息吹を感じました。それであと誰が嫌いなんですかな」
つんく乱心「あなたは何か勘違いをしているようですね。たしかにシャランQにつんくという人物がいて、娘をプロデュースしました。でもわたしはつんく乱心でつんくではありません。でも安倍豚が嫌いだということは事実です。それにあなたの話は昨日のテレビドラマじゃありませんか」
余の頭の中はこんがらがってきた。では余の横にいる川o・-・)紺野さんは一体誰なのだろう。それに(ё)新垣もいる。(●´ー`●)安倍にいたっては肉体関係まで結んでいるというのに。(●´ー`●)安倍、帰って来ておくれ。余は待っているよ。お塩に捨てられる前に戻ってくるのだよ。
つんく乱心「さっきから言っているではありませんか。市長の別宅に高名なフランス料理のコックが来ているからごちそうを食べに来ませんかって」
余「今、言ったでしょう。余はここに小包爆弾まで送り届けられるくらい重要な秘密を握っている人物である。それにえびすという名前が気に入りませんよ。なんで恵比寿と書かないんですか。最初、余はひること読んでいましたよ。ひるこだったら妖怪と仲良く出来るわけがないんですから。ほとんどの人はわからないでしょうけど。ひるこという名前は妖怪と相性が悪いんです。だから、(●´ー`●)安倍と仲良く出来るわけがない」
横でひるこだとどうしてわたしたちと仲良くなれないんですかと川o・-・)紺野さんが聞いてきた。それは妖怪ハンターひるこという映画があったからだよ。川o・-・)紺野さん。あまりにくだらないおちですいません。
つんく乱心「わたしだってあんな(●´ー`●)安倍豚の使いでこんなところまで来たくないですよ。でも、妖怪ってなんのことですか。それにおいしいフランス料理を食べたくないんですか」
フランス料理と聞いて、川o・-・)紺野さんと(ё)新垣がぴくりと耳を動かした。
川o・-・)紺野「わたし、行きたい」
(ё)新垣「ニイガキ、ニイニイ」
つんく乱心「外に車を待たせてありますから」
 蛭子市長の別宅は山間の炭焼き小屋があるようなところにあった。しかし、その場所に行けるように舗装はされていなかったが道は整備されていた。田舎家の木曽の合掌づくりのような建物で駅のそばにある山海亭よりもさらに立派で豪壮な建物だった。この中で(●´ー`●)安倍は市長の愛人として収まっている。売春行為から足を洗ったことは喜ばしいが、(●´ー`●)安倍は遠くに行ってしまった。
つんく乱心「市長、帰って来ましたよ」
ドアが開くと着飾った(●´ー`●)安倍が姿を現した。
(●´ー`●)安倍「あさみ、理紗も来たのね。あら、あんたも来ていたの」
(●´ー`●)安倍は余のそばに来るとそっと耳打ちをした。
(●´ー`●)安倍「わたしは綾小路なつきということになっているからね。わたしの本名を言ったら承知しないからね」
どうやら(●´ー`●)安倍はやはり天皇家のお知り合いのふりをしているらしい。おそれ多いことである。この天然の詐欺師女はどうしたらこういうペテンの種を見つけてくるのだろう。
 それから市長のひるこではなく、蛭子が出てくる。毎晩、この男が(●´ー`●)安倍豚の肉体をまさぐっているのかと思うと敵愾心がむらむらとわき起こってくる。つい最近までは余がこの女妖怪の身体の所有者だったのだ。ああ、あの頃が懐かしい。帰って来ておくれ。(●´ー`●)安倍。
蛭子「みなさん、よく来てくれました。フランス料理界の巨匠、不穏度望さんが来ているんですよ。なつきのお友達を呼んでフランス料理を楽しんでもらおうと思って呼んだんですよ」
蛭子市長の文末はぐるぐると丸く折り畳まれて、外側には伸びていかない。上唇から二本だけ歯が出ていてあとの歯は口の中に収まっているのと同じだ。二本だけ歯が出ているとビーバーというあだ名がつくだろうが、この男には間違ってもそんな可愛いあだ名はつかないだろう。こんなヌーボーとした男がなんで市長までのぼりつめたのか不思議である。目が笑っているが一歩間違えば凶悪犯人のような表情になる。
 一言で言えば犯罪者の顔である。「断定」
もっとも(●´ー`●)安倍とはおそろいである。(●´ー`●)安倍と並ぶ男には爽やか系は似合わない。お塩と別れて正解である。ぐだぐたと崩れて腐臭を発するくらいの恋愛劇を演じなければならない。あみ子ちゃん、滝沢くん、のプラチナトライアングルの三角関係に参加するためにはキャラがあまりにも違うのである。(●´ー`●)安倍が滝沢くんに好かれる道理がない。(●´ー`●)安倍よ、自分を知れ。そして余のもとにまた戻ってくるのだ。ひるこ市長の愛人に収まっているのが席の山である。それにしても(●´ー`●)安倍はどこに行ってしまうのだろうか。
 蛭子「みなさん、こっちの部屋に来てください。そっちの方で料理が出来ていますからね」
(●´ー`●)安倍は蛭子市長の横で市長夫人のようにふるまっている。余たちとつんく乱心は蛭子市長のあとをついて行った。
 この合掌作りは外見と中身は随分と違っていた。
外側は田舎風だったが、中は白木を多用していてまるで神殿の中にいるようだった。そして余はその廊下を歩いていて気づいたことだが内部のところどころに監視カメラが用意されていて、物陰には警察の格好をした黒い陰がちらついている。
 蛭子市長が最後に案内する部屋の中に入るとそこには大きなテーブルが置かれていて、テーブルの上には色とりどりの花が飾られていて銀の食器が並べられている。外は床から天上までつながっている大きな窓ガラスがはめ込まれていて外にはいろいろな食材、おもに香草類が栽培されている。どうやら窓ガラスは防弾の二重ガラスのようだった。
 それよりも変なところはこの部屋の一角に神棚がおかれていてそこにはサツマイモが一個飾られていることだった。
市長が席に座るように言ったので余たちは着席した。
すると前菜が運ばれた。余たちはスプーンを取り上げた。
川o・-・)紺野「おいしい」
と一言発する。
川o・-・)紺野「でも、なんでこの部屋には神棚があるんですか。それにサツマイモが一本だけ飾られている」

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川o・-・)紺野さんがそう言うと蛭子市長は満足げな笑みを浮かべる。(ё)新垣はただがつがつとスープを食べている。そのうち皿にかぶりついてがつがつとかみ砕き始めたが誰も注意を向けなかった。それほどこの部屋に置かれた神棚とそれにその上に置かれたサツマイモに注意をひかれたからだ。待ってたとばかり、いつの間にか、蛭子市長と長年連れ添ってきたと言わぬばかりに(●´ー`●)安倍豚が前に進み出てくると口を差し挟んだ。
(●´ー`●)安倍「市長は市長なだけではありません。おさつ教の教祖でもあり、開祖者、おさつ大明神でもあらせられるのです」
川o・-・)紺野「おさつ大明神」
(●´ー`●)安倍「ここに奉られているおさつはただのおさつではありません。遠い昔、楠正成公が兵をあげてからごく少数の手の者をつれてここに立ち寄ったことがあります。ここの温泉の霊験があらたかなる噂を知っていたからです。それと言うのも後醍醐天皇の挙兵のみことのりのあと、大楠公は皮膚病を患ったことがあったからです。その治療のためにこの温泉に来ました。しかし足利尊氏の手の者が密かに大楠公を付け狙っていたのです。ごく少数のつれの者しかつれていなかった大楠公は身の危険を感じて舟で沖の小島に逃れて様子を見ることにしました。そこで漁師に舟を出すように言いましたが漁師は金を出さなければ舟を出さないと言います。ちょうどそのとき大楠公はお金を持っていなかったのです。困った大楠公が地面を見ますとさつまいもの種が地上に少し顔を出していて茎が一本だけ出ていて葉が一枚そのさきで広がっています。そしてわたしを使って下さいという声が聞こえました。そして大楠公がそのさつまいもを手にとると種から葉のさきっぽまで金色に輝いています。さこで種を少しちぎってみると確かにそれは金だったのです。その金を漁師に渡して沖の小島に身を潜めた大楠公は命拾いをしました。そのさつまいもがそこに飾られているおさつなのです。おさつに選ばれた方がそのおさつを持つと金色に輝き金とかわるのです。代々そういうお方がこの那古井の地に現れました。その最初の方が大楠公であらせられます。その方はおさつ大明神と呼ばれる現人神でもあらせられます。そこでこの霊験灼かなみしるしに目覚めた蛭子市長はあさつ教を始めました。市長はおさつ教の教祖さまでもあります」
(●´ー`●)安倍は教祖の妻であるかのように神の言葉を吐く、市長の人間語への翻訳者であるかのようだったが、地上をつちのこのようなものが一瞬よぎったような気が余にはした。そのあとで大きな神棚の上で変な毛虫みたいなものが上に横たわっていて毛虫の口からさつまいもの葉っぱが一枚だけ出ているのは前衛的な生け花のようだった。余は(ё)新垣がそのさつまいもを食ってしまったということがすぐにわかった。すると大統領警備の警官みたいな人間たちがどかどかとこの神殿の間に入って来て、神棚の上でビキニの水着を着たプレーボーイのモデルのような格好をしながら口からさつまいもの葉っぱを出している(ё)新垣を引きずりおろすと数人で羽交い締めにした。
(●´ー`●)安倍「お前なんてことをするの」
(ё)新垣「キュウ、クルクル」
またわけのわからない新垣語である。蛭子市長はお供えの破魔矢を三本ほど束ねるとばきっと音をさせて折ってしまった。
「御神体を。御神体を」
蛭子市長の声はわなわなと震えている。
「あんた達、帰ってよ」
(●´ー`●)安倍がいらって声を荒げた。そして新垣に罵声を浴びせる。
余は紺野さんと一緒に帰ることにした。おそるおそる五六人の屈強な男たちに組み敷かれて手だけかろうじて出ている新垣をつれて帰ろうとすると蛭子市長がそいつだけは帰すわけにはいかないと言ったのでこそこそと余と紺野さんはその屋敷を出て宿へ向かう田舎道をとぼとぼと歩いた。
「新垣はどうなるのだろう」
「妖怪は不死身ですわ。ブラナリアという生物を知っていますか。いくら細切れにされてもその分身が成長して同じものがいくつも現れるのです。新垣はブラナリアと比べようもない生命力を持っています」
「じゃあ、新垣は死んでしまうことはないんだね。むしろにぐるぐる巻きにされてコンクリートで固められて海の底に沈められてしゃこや手長海老の餌になってそのうち苔や珊瑚が生えて来て光合成を始めるなんてことはないんだね」
紺野さんは確信を持って言い切った。
「新垣は不死身です」
その紺野さんの言葉が嘘でないということはしばらくするとわかった。余と紺野さんがのこぎりみたいな葉をしたタンポポが脇に生えている田舎道を歩いていると杖をつきながら新垣がとぼとぼと歩いて来た。余と紺野さんは思わず後ろに見える新垣のところに駆け寄って言った。
「新垣」
余は絶句した。
(ё)新垣「ニイガキ、ニイニイ」
左目を腫らし、おでこのところには青あざの出来ている(ё)新垣が笑った。この道を通ることは知らないはずだ。どうやって余たちがこの道を歩いていることを知ったのだろうか。それよりも不思議なのはあの屋敷をどうやって抜け出して来たのだろうか。余はまたここで自然の玄妙にして霊的な神秘を感じる。それにしてもあの連中にはだいぶやられたみたいである。百メートルの高さから落下しても傷一つ負わないはずの(ё)新垣が杖を突き、びっこを引いて歩いて来たからだ。しかし、そんなことも関係のないように(ё)新垣は背中に背負った風呂敷包みを指さしている。
(ё)新垣「ニイガキ、ニイニイ」
余がその風呂敷包みの中を探ってみるとごろごろしたものがたくさん入っている。
「あっぱれ。新垣」
余と紺野さんは思わず手を叩いて喜んだ。(●´ー`●)安倍豚と蛭子市長たちのリンチを受けながら、その手を逃れてその上ににぎりめしまでかすめて来るとはここ掘れワンワンと吠えて金の小判の詰まった瓶を花咲かじいさんに教えた犬よりももっと忠犬である。
余たちは道端に生えている一本の木の根本に座って新垣が蛭子の屋敷から盗み出して来たにぎりめしをほおばることにする。この木の下には何が埋まっているのだろうか。新垣が持っているにぎりめしの包まれた笹の葉の上にあるたくあんをひとつまみ手を伸ばして捕ると余はそれを口の中に入れた。あんなに目にあざを作り、びっこまで引いていた新垣の怪我がみるみる間に直っていく。月の満ち欠けや海の潮のようにそれが決まっているできことでもあるようだった。余たちは下を向いてにぎりめしをむさぼり食っていたが、涼やかな声が聞こえてくる。
「みんなでハイキングですか」
余も紺野さんも新垣も顔を上げた。そこには余の憧れの人、井川はるら様がお立ちになっているではないか。
「座っていいかしら」
余たちがにぎりめしを半分口にくわえたままではるら様の顔をじっと見つめていると余たちの返事を聞かないまま新垣の横に腰をおろした。原た泰三がいないことは何よりも好ましい。そして前の方の杉木立の向こうに見える春の山を見ながらにぎりめしのひとつをつまんだ。
「家族っていいわね」
はるら様は相変わらず涼やかな目で前方を見ながら誰に聞こえるでもなくつぶやく。
まったくはるら様は妖怪たちと余の関係をどういうふうに感じているのだろうか。余と彼らが契約を交わした間柄であるという事実を知らないのだろうか。もちろんそんな秘密を言うことは出来ない。つまり彼らとの間には夫婦としての契約も成り立っているのだからだ。
「夏目さん」
「なんでしょうか」
「わたしには家族がいないのです。わたしの実の父も母も外国航路の船の旅の途中で突然の事故で死んでしまったのです。叔父の家に養女として入って育てられたのです。でも、勘違いしないでください。そこでわたしがいじめられたというわけではありません。叔父は充分わたしを可愛がってくれました。でも、違うのよね。どこかが。やっぱり本当の家族ではないということを感じることがあります」
やはりはるら様はどこか遠くを見ている。
「でも、家族だって仲がいいというわけではない人たちもいますよ。その反対に他人でも仲のいい人たちもいますよ」
「でも、あなたたちは仲がいいのでしょう」
「余たちがですか」
余はこいつらは人間じゃなくて妖怪で、余は人間であるからして水と油である。それよりも何よりもあの(●´ー`●)安倍豚の無軌道な行動を見たのかと言いたかった。まだ妖怪契約を結んでいるのに市長の愛人に収まってやりたい放題のことをやっていると。
「暖かいスープ。暖炉の火。家族揃って初詣に行くこと。そして家族みんなが健康で長生きが出来ますようにと祈ること。芝生のある家に住んで自分の子供をそこで遊ばせるの。そんなことをやって見たいわ」
そう言って新垣の頭をぽかりとやった。
「でも、遺伝学の研究から人類はみんなアフリカにあるひとりの母から生まれたのだということを聞いたことがあります。だから、みんな家族だということも言えますよ。それをたどっていくと一つの脊椎動物に行き着くわけですが」
余があまりにももんきり型のことを言い、建前だけのことを述べていると川o・-・)紺野さんが余の脇腹をつついた。そして妖怪の特技であるテレパシーを使って余に話かけてくる。
川o・-・)紺野「ご主人さま、チャンスです。チャンスです。はるら様は精神的に不安定な状態になっています。そんな家族のことを話題にするのははるら様が何かを求めているのに違いありません。ご主人さまおわかりになりませんか」
余は改めて川o・-・)紺野さんの横顔を眺めた。
余と夫婦の関係にありながらこんな忠告を与えてくれるなんてなんて可愛いしもべなんであろう。余は焦って声がのどにひっかかる。そして突然くだらない質問をしてしまった。
「原た泰三氏はどうしたのですか。最近仕入れた情報なんですが、あの人、結婚しているんですってね。それもできちゃった婚らしいですよ」
すると余は自分の失敗に気づいた。急にはるら様の表情はみるみる曇っていったのである。
「私、帰ります」
そう言うと急に立ち上がりぷいと向こうを向いてずんずんとどこかに行ってしまう。
「何か、変なことを言ったのかしら」
余には見当もつかない。
「紺野さん、余は何か変なことを言ったのでしょうか」
川o・-・)紺野さんも沈黙したまま、何も答えようとしない。もちろん、(ё)新垣が答えられるわけがない。しかし、原たという言葉を聞いた途端にはるら様の態度は豹変した。その言葉にそれほどの影響力があるということである。もちろんその言葉にあらわされる実物によってである。余の心の中でふたたび原た泰三の存在が大きくなる。春の一日に余の心の中には木枯らしが吹きすさぶ。
「今度から余のことをおとたまと呼んで欲しい」
「おとたま」
「おとたま、にいにい」
傷のすっかり直った(ё)新垣がつぶやく。
「はるらさまぁぁぁ~あ」
余は心の中でブルースを唱った。
 余はすっかりニヒリズムに陥っていた。生きることになんの価値があるのだろう。
 宿に戻る途中の駅の公衆電話の前に川o・-・)紺野さんがつんく乱心を発見して余の腕を引っ張る。余は言いたいことがある。お前が市長の変な晩餐会に招待するから、(ё)新垣だってリンチにあって、こんなに顔だって傷だらけじゃないか。と詰問したかったが振り返って(ё)新垣の顔を見るとすっかり怪我も治って何事もないようになっている。
 不死身なり、(ё)新垣。
そこでそのことについては責任を問えないことに気づいた。しかし、つんく乱心の方は余たちに気づいていない。少し離れた駅の公衆電話のところに行くともう一つの公衆電話の方に十円玉を十個ほど入れた。川o・-・)紺野さんがこの前、発見したことだがこの電話でつんく乱心のかけている方の電話番号を回すと向こうの話している電話が聞こえることを発見した。その電話番号を回す。つんくの声が聞こえる。
「今、温泉にいる。那古井という温泉だよ。地図にも載っていないぐらい辺鄙なところだ。でも、今の僕にはそれがぴったりだ。心が落ち着くよ。娘も連れて来たかったな。それで娘はみんな集まっている。そう。****だけがいない。いいよ。それでも、じゃあ、みんなに僕の声が聞こえるんだね。娘たち、元気かな。****だけはいないって聞いたけど。まあ、いいや。この前、(●´ー`●)安倍に関して変な噂が立ったのを聞いたかも知れない。俺が安倍豚なんて言ったなんてことを言っている奴がいるらしい。そのうえ俺が娘たちの仲で好きな奴と嫌いな奴がいるなんて噂を流している奴もいる。・・・・・・・・・・」
そこでつんく乱心の言葉は途切れた。
「娘。娘がおれにとってどんなものか。俺の遺伝子の一部みたいなものだということは明らかだ。そう、お前らは深い海に沈んでいた真珠だった。そして俺は素潜りで真珠を取る漁師みたいなもんだ。俺は深い海の底に光り輝くものを見つけた。俺が娘のひとりでも嫌いになるなんてことがあると思うか。娘を嫌いになるなんてことは自分の手や腕を切り落とすことみたいじゃないか。俺は娘がみんな好きだ。ひとりも嫌いな奴なんていない。そう安倍のことを俺が安倍豚なんて言うわけがないじゃないか。ふたたび言う。俺は娘が好きで好きで仕方ない。・・・・・・・・・・・・・娘たち、俺について来てくれるか」
電話の向こうではすすり泣きの声が聞こえる。あほの石川なんかは滂沱の涙を流しているようだ。
そしてつんく乱心は電話を切った。そこでまたあわてて電話番号を回す。電話のベルの鳴る音がして向こうの相手が電話に出る。
「もしもし、あら、つんくさん」
第一声で余にはわかった。それがモーニングむすめっこの一員であることを。そしてつんくさんと言う声の調子にどうしようもなく艶っぽい部分がある。それもさっきの電話には出て来ない娘である。****である。しかし、余はその名前を挙げることが出来ない。つんく乱心の声はやたらにはしゃいでいるし、うれしそうだった。
「今、那古井って温泉にいるのよ。どういう風の吹き回しかわからないけど、ここで市の助役をやっているわけ。今日は暇なの。どう来ない」
「なんで助役なんてやっているんですか」
「あの変な漫画家、知っている。蛭子とかいう。あいつが市長をやっているわけよ。まあ、そんなことより、いつになったら、僕のプロポーズを受けてくれるのかな。もう告白してから半年になるよ。ほかのメンバーは客観的に選んだけど、****だけは私情から選んでいるって知っているよね。最初から何年か後には僕のお嫁さんにするために選んでいるんだからね」
「でも、ほかのメンバーに対して悪くって」
「****が遠慮することはないさ。みんな幸福になる権利があるんだからね」
「でも、つんくさん、あなたの気持はよくわかるんですが。わたしのことを愛してくださる。でも、まずい、メンバーのひとりが入ってくるので電話を切ります」
その電話を聞きながら余は怒りで胸がわなわなと震え、身体中の胆汁が頭部にまわって顔は土気色になった。(●´ー`●)安倍から逃げられ、はるら様の心の秘密の銃弾に脳髄を撃たれ、虚無的無政府主義者に陥っているというのに、余はデカブリストの乱を勃発させたい衝動で血液が逆流した。余はつんく乱心のところにずかずかと進みよるとわめいた。
「ペテン師、色男、蜘蛛男。****が好きなら好きだって、正々堂々と言えよ。そんなに娘の中でも****が好きなのかよ。じゃあ、早く、****を娘から脱退させて結婚しちゃぇばいいだろう。お前のお嫁さんにすればいいだろう。えこひいき。えこひいき。えこひいき。可愛子ちゃんに囲まれていながらそんなことをするなんて、世間は絶対許さないからね。あほの石川が泣いているじゃないか」
ここで石川の名前が出て来た。そして余の隣には川o・-・)紺野さんと(ё)新垣がいる。そうすると****は一体誰なのだろうか。消去法で答えを見つけるしかない。
まず、石川が抜ける。そして川o・-・)紺野さんと(ё)新垣が。すると残りは、保田、ここにはいないので当然、(●´ー`●)安倍は入る。飯田、矢口、吉沢、辻、加護、高橋、小川、その中にいることになる。
誰なのだ。余は自分の不幸も忘れてこの問題にすっかりと心をとられていた。
「****、ひとりのために他のメンバーをみんな犠牲にするのかよ。なんのために歌や踊りのレッスンをしてきたんだよ。この青ひげ、石川を泣かせた男」
そう言いながら横ですすり泣きの声が聞こえる。横で川o・-・)紺野さんが余の袖をひっぱりながらもうやめてという合図を送っている。あの下等生物の(ё)新垣までもが泣きながら余のズボンを引っ張っている。こんなあどけない娘の澄んだ瞳を濁らすことなんてこんなペテン師のつんく乱心なんかに出来るはずがない。お前なんか、****と裏で楽しくやりながら娘たちをだまくらかしていろ。余はつんく乱心にかかわることがひどく下等なことに思えてその場を離れることにした。つんく乱心はまた****に電話をかけなおしているようだった。
 滝沢繁明、純愛を貫く立派な男である。
 つんく乱心、娘をだまくらかして****だけをえこひいきしている悪い男である。
駅の横を通り、山海亭の横を通ると看板を業者が掛け替えている。驚いたことにその掛け替えようとしている看板を見て驚いたことにはその店の名前が安倍亭に変わっていることだった。その様子を元の店の主人が見ていた。
「なんで山海亭という名前を変えちゃうんですか」
「蛭子市長のせいですよ。市長のところに変な(●´ー`●)安倍とかいう愛人が入って来て、入れ知恵をしたんですよ」
それから詳しい法律の話になってきて余にはよくわからなかったのだが(●´ー`●)安倍がこの店の名義を買ったらしい。安倍、出世したな。余は余のもとを去った安倍に聞こえないだろうがつぶやいた。蛭子市長と結託した安倍の那古井支配は着々と進もうとしていた。
 それから数日後、信じられない光景を余はテレビで見た。ウインブルドンで優勝した日本人テニスプレーヤーが招待されることが話題になっている天皇陛下の催される春の園遊会をカメラが映しているときだった。そのテニスプレーヤーをカメラが追っているとき、その横に誰あろう安倍豚と蛭子市長がモーニングを着て突っ立っているではないか。あの(ё)新垣リンチ事件から数日しか経っていない。どうやって潜り込んだのだろうか。信じられない。余は自分の目を疑った。
 その夜、見知らぬ男から電話がかかってきた。蛭子市長のことを調べているフリーライターだという話だった。昔から蛭子市長にはいかがわしい噂しかなかったらしい。蛭子市長の悪行には余は興味がなかった。その男が注目しているのは最近、身元不明の綾小路なつきという女が市長の愛人に収まっていて、さらに市長の不正行為が度重なっているとい話だった。そして調べていくとその女の本名が安倍なつきといい、温泉客のところに着た居候だということを確かめた。そしてその温泉客というのが余のことだとわかったというのだ。どうやらその男は安倍豚のことも直接対談したらしい。その話によると安倍豚は自分が天上人になった気分でいるらしい。そして市長の権力をかさに着て弱者を随分と泣かせているらしい。昔の江青婦人のようだと言っていた。しかし、少し、救いのあるのは初恋の人のことを忘れていないようだということである。その初恋というのもほんの数週間前のことであるが。その人の名前は滝沢繁明ということも教えたらしい。しかし、その人のことは調べるなと釘をさしたらしい。
 余の心の中には木枯らしが吹きすさぶ。滝沢繁明とあみ子ちゃんは純愛を貫くことによって、井川はるら様と原た泰三氏は学問的興味によって結びついているのだろう、たぶん。そして安倍豚にいたっては市長の愛人に収まることによって権勢を思うままにふって楽しんでいる。
 しかし、余は不幸である。(●´ー`●)安倍においていかれたふたりの妖怪たち、川o・-・)紺野さんと(ё)新垣も不幸である。
このやるせない精神状態をいかにしたものだろうか。余が温泉からあがって自分の部屋に戻ると川o・-・)紺野さんと(ё)新垣はすやすやと寝息をたてている。まだ目が覚めていて眠りにつけないので手元にあった漫画雑誌をぱらぱらとめくる。その話がまた余の心をなえさせるものだった。話は暴力団の話である。組長に若くて美しい愛人がいる。その暴力団の下っ端の方に若い男がいる。愛人は気晴らしに若い男を誘惑する。若い男と愛人は逃避行をする。若い男は命がけの仕事だったが、愛人にとっては気晴らしにすぎなかった。あきた愛人はみずから組長のところに自分の居場所を告げる電話をかける。そして若い下っ端は組に見つかりリンチを受けて死んでしまう。愛人はもとのさやに収まる。別にこれは暴力団だけの話ではないような気もする。余にはその愛人の顔と(●´ー`●)安倍豚の顔が重なった。しかし、そんな性悪女の(●´ー`●)安倍豚も今は余のそばにはいない。そんななえさせるような内容の漫画を見たあとでどういうわけだろうか。夢の中で余は(●´ー`●)安倍と中学の教室の中で見つめ合っているのだ。そのときの空を飛んでいるような不思議な気持は何とも例えようがない。あまりにいい気持だったのに目が覚めてしまう。そこでそれが夢の中のできごとだったことを覚った。それからまた眠りにつく。今度は祖父の夏目漱石が出て来た。そして漱石が余に問うた。
「自分の心の中を探って見ろ。本当はお前は(●´ー`●)安倍が好きなのではないか」
「はい」
余はなんとなく返事をした。
「お前を見ていると心細い。余が孫子や孔明の研究から得た知識を授けよう。(●´ー`●)安倍は市長の愛人になって権力を得た。そして何でも出来る気分でいる。しかし、(●´ー`●)安倍の心の中には空隙がある。市長の愛人になったからと言っても出来ないことがあった。それは滝沢くんの愛を得ることである。そこでお前が余の子孫としてあまりにもほっとけないほどたよりにならないのでいい知恵を授けよう。これを落とし穴、ポッの軍様という。まず、滝沢くんと(●´ー`●)安倍をふたたび近づけるのだ。そして(●´ー`●)安倍をその気にさせる。つまり滝沢くんが自分のことが好きなのではないかと思わせるのだ。そして落とし穴、ポッ作戦だ。実は滝沢くんはあみ子ちゃんのことが好きで(●´ー`●)安倍のことなんてなんとも思っていないということを実感させる。そこで(●´ー`●)安倍は落とし穴に落ちるわけ。そのときお前が行くのだ。手をさしのべるのだ。すると孤独な(●´ー`●)安倍の魂はお前に近寄って行くというわけ。世話の焼ける子孫だな」
「ありがとう。ご先祖さま」
余はご先祖さまの話を聞きながら涙がこぼれてきた。あんないかめしい顔をして千円札の表紙になっているわりには余に経済的な御利益をくれないご先祖さまでしたが、やっばり余のことを考えてくれているのですね。早速、その作戦をやってみます」
余はその作戦を実行することにする。すぐに蛭子市長の別荘に電話をかける。最初、お手伝いさんが出てくる。多少の押し問答の末、(●´ー`●)安倍豚本人が出て来た。
(●´ー`●)安倍「誰かと思ったらお前かよ。このゴミが」
余「そんな言い方はないと思います。一応戸籍上は夫婦ということになっていますから」
(●´ー`●)安倍「お前なんかと口を聞くのもわずらわしいんだよ。一体、わたしを誰だと思っているの。この平民が。昔だったら、打ち首にしても文句は言えないんだよ。このかすが」
余「ごもっともでございます。春の園遊会の姿を御覧しましたよ。また一段とお美しいお召し物でありましたね」
(●´ー`●)安倍「お前なんかにほめられたってちっともうれしくないと言っているだろう。このぼけが」
余「実はわたしのことではないのです。滝沢くんのことなんですが」
(●´ー`●)安倍「えっ、繁明さま。繁明さまのことなの」
余「滝沢さまのことでございます」
(●´ー`●)安倍「早く、教えて。ねえ、早く、早く」
余「実は滝沢さまはあみ子さまとお別れになりました」
電話の向こうで下品な笑い声が聞こえる。
(●´ー`●)安倍「どうして。どうして。原因は。原因は」
こんな単純に喜ぶなんてやはり妖怪は人間よりも単純に出来ている。
余「実は滝沢さまの本心があみ子さまに伝わってしまったのです。その本心というのも滝沢さまが本当に好きなのは」
(●´ー`●)安倍「本当に好きなのは」
余「安倍さまだということがわかってしまったからです。それで滝沢さまから余のところに話がありました。一度ゆっくりと安倍さまとお話がしたいと」
また電話口の向こうから下品な笑い声が聞こえる。そこで電話を切った。それから余は川o・-・)紺野さんと(ё)新垣を余の前に座らせた。
余「愛しているよ。娘たち」
川o・-・)紺野さんは恥ずかしそうに顔を赤らめた。(ё)新垣はグルグルと唸った。
「おとたまの一生のお願いだよ」
川o・-・)紺野「大人も子供もすぐ一生のお願いなんて言うんですね」
「本当におとたまの一生のお願い」
川o・-・)紺野「おとたまが、そんなに言うんなら、聞いてもいいかなあっと」
(ё)新垣「ニイガキ、ニイニイ」
余「妖怪は何でも出来るよね」
川o・-・)紺野「出来ることと出来ないことがあります」
余「余の姿を滝沢くんの姿に変えてもらいたい。明日、一日だけでいい」
余はふたりの妖怪に頭を下げた。
川o・-・)紺野「なぜですか」
余「理由は聞かないで欲しい」
川o・-・)紺野「いいですわ。おとたまの言うことを聞いてあげる」
(ё)新垣「ニイガキ、ニイニイ」
ありがとう。我が娘たちよ。血を分けた娘たちではないが余はきみたちのような娘を持って幸せ者だ。
余「ふたりとも、かき氷、食べに行く」
余はふたりを連れだってかき氷を食べに行くことにする。近くの小川の端を歩いているとむぎわら帽子を被った男が網を打っている。そのそばで腰をかけた女がその様子を見ている。
「房之進さん」
余たちの姿に気づいた男が手を振る。女の方も振り向いた。
滝沢繁明くんとあみ子ちゃんだった。余の計略のことを思うと少し心苦しい。相変わらず仲の良いふたりである。苦しいことはあっても幸せそうである。余は心の中でふたりに幸あれと祈る。
「これから、三人でかき氷を食べに行こうと思って。滝沢くんは何をしているんですか。あみ子ちゃんも一緒に。相変わらず、仲がいいですね」
「つりの餌をとりに来たんですよ。あみ子ちゃんの指導のもとですが」
ふたりはすっかりとくつろいでいた。ああ、幸福なふたり、幸福とはこういうものを言うのだろうか。その姿を見ながら余は何か崇高なものでも見たように胸が熱くなるものがあった。ふたりとも幸福で良かったね。こんな姿は江戸時代から、いや、もっと前から続いていたに違いないのだ。どんな社会体制でも歴史的背景があっても、一瞬でもこんなまどろみがあるに違いない。余は幸福な気分に浸りながらかき氷屋に入った。
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 なんだかわけのわからないものを奉っている神社の裏にあるわき清水が貯まって小さな池になっている場所の前に余と川o・-・)紺野さんと(ё)新垣は立っていた。
川o・-・)紺野「おとたまのお願いというのでは仕方ありません。でも、どうしてそんなことをしようと思ったのですか」
(ё)新垣「ニイガキ、ニイニイ」
湯治客もこんなところにまでは来ない。あたりには人もいず、空を覆う神木の茂みの隙間からはちらりと空が見えるだけで隙間からはその姿を見せない空を飛ぶかっこうの声が聞こえるばかりだった。かっこうは地上の人を笑っているのか、はたまた神が姿を変えてその自分の存在を森の住人たちに知らせているのか。翼を広げて森のすべてを覆っているような錯覚を余に与える。昨日の夜から今日の明け方にわたって降った雨は足下の土を適度に湿らせている。池のまわりには奇態なかたちをした岩が取り囲んでいる。池というよりも水たまりと言ったほうがいいかも知れない。池の直径は五メートルぐらいしかない。その池の最大の、ちょうど真ん中をとおる径の水際の両端から大人が抱え込もうとしても出来ないような太さの杉の白木の柱が空に向かって立っている。その柱は上の方で直立しているほうと同じくらいの太さの二本の柱でつながっている。池をめぐる岩も平均して並べられているわけではなく三人の立っているわほうから向こうに行くにつれて高い峰を象徴するように高くなっている。
川o・-・)紺野「おとたま、わたしたちの妖術を変なことに使わないと約束してくれますね」
(ё)新垣「ニイ、ニイ、ニッ、ニッ」
余「もちろんだよ。おとたまの一生のお願い。どちらかというと人助けの面もあるんだよ」その人というのは他人ではない。もちろん自分自身のことである。あの安倍豚を余のほうに連れ戻すのだ。安倍豚カムバック、ツウミー。
余「でも、ふたりとも随分と変な場所を見つけて来たね」
川o・-・)紺野「わたしたちの妖術を使うには最適な場所です。ここが結界の切れる場所なのです。この地に眠る墓の住人の陰界と湯治場の住人の陽界の微妙な霊のバランスにおいてお互いが霊的に行き来することが出来る場所です。そして霊たちが交流する活気を四つの聖なる神獣たち、竜、麒麟、鳳凰、亀たちが姿を変えた気に守られている場所でもあります。人間にこの場所を教えることもつれてくることもめったにありません。邪気に満ちた人間がこの霊的な地の神秘的妖力を悪用することをおそれるからです。しかし、おとたまの願う、変身の妖術のためにはこの場所を選ぶほかに方法はありません。わたしたちが数千年の齢を生きてきた妖怪だと言ってもこの変身の妖術を使うには土地の地霊や四匹の霊獣の手助けを得なければなりません。なつみねえさんに較べてまだわたしたちの妖力は弱いからなのです。おとたま、目をつぶってください。目を覚ますとおとたまは滝沢くんの姿に変わっていることでしょう。ただし、その効力は二十四時間しか持ちません。では妖力、みんな滝沢くんになってしまえ、るるるるるるる」
川o・-・)紺野さんの声と(ё)新垣のうなり声が最後に聞こえた。目が覚めると列車の中にいる。その列車はまだ那古井の駅に停まっていた。余の横には自分のショルダーバッグが置かれている。あわててバッグの中から手鏡を出して自分の顔を見てみる。なっている、なっている。余の外見は滝沢くんになっている。その鏡に映っている自分の顔を見ながら夢の中にいるような気持が半分と変な期待の気持が半分いりまじって余は犯罪者めいて気味悪く笑った。余はふたつの意味で犯罪者となる道の手助けを得ている。ひとつは美形アイドルの外見を得たということである。これは社会的に非常に有利に働く、世の女性は美形アイドルが好きだからである。そして美形アイドルのうちでも滝沢くん系は変なことをしないという世の女性たちの暗黙の了解がある。安心感がある。滝沢くんはいいものである。正義の味方である。しかし、美形アイドル系でも変なことをしそうな系統もある。そういう系統には女性は警戒心を抱く。しかし、これはあくまでも少数派でだいたいが有利に働くにほかならない。そこでまた余は自分の顔を見てにやにやと犯罪者のように笑う。気味が悪い。外見は爽やかだが内心は犯罪者である。こういうのは社会から隔離しなければならない。そして犯罪を誘発する第二の要素は自己は余本人でありながら、外見は滝沢くんという実在する他人だということである。この借り着を外にさらしている限り他人は余のことを滝沢くんだと思い、余が何かをしても滝沢くんだと思うだろう。たとえばパチンコ屋に入ってパチンコ台の二重のガラス窓の上からスピーカーからはずしてきた磁石を持って来て落ちて行くパチンコ玉の流れをちょっと変えてチューリップの方に誘い込むとする。そこへ店員が来て控え室に連れ込まれてぐいぐいとねじられたら、泣きながら、うちに来てください、弁償しますから警察につれて行かないでくださいと涙ながらに訴えて、本当の滝沢くんの住所を言ってごまかしてその場を逃げる。そして余は罪にとられることはない。余はまた気味悪く笑った。
 そこへこの湯治場に遊びに来ている女子高校生らしいのが三四人乗り込んで来た。列車の中に入って左右を見渡して余の存在、つまり滝沢くんの姿をした余を見つけた。途端に黄色い嬌声がわき起こる。そし手を口の方に当てて余の方を見つめる。余の期待したとおりの出来事である。これこそ、滝沢くんの外見をかりている醍醐味である。
「きゃー、嘘。滝沢くんよ。滝沢くんよ。本物よ。なんでこんな辺鄙な湯治場にいるのよ。きゃー。こっちを見ている」
余の期待はいやがおうでも高まる。余は前科一犯になっていた。余はにたにたとしながらいやらしく女子高生の方を見る。
「きゃー。滝沢くんがこっちを見ている」
余の口の端からはよだれがひとしずく落ちる。それでも女子高生はまだ余のことをスターの滝沢くんだと思っている。余は口からよだれをたらしながら女子高生の方へ手招きしてみる。
「きゃー、やだ。滝沢くんが手招きしているわよ」
「えへへへへへ」
余は言葉もなく、ただ至福に酔いながら欲望に身をまかせて女子高生をながめている。
「行く、行ってみる」
「どうする」
「だって、滝沢くんが手招きしているじゃないの」
「けい子が行くなら、行く」
「じゃあ、行くわよ」
余は手招きを続ける。
余の座っている隣に女子高生が座る。
「滝沢くん、なんでこんなところにいるの」
「えへへへへへへ」
余は気味悪く変な期待をしながら笑う。
「やっぱ、格好いいわ。滝沢くん。実物のほうが数千倍もいい」
その言葉に余は歓喜して口を半ば開けながら、ズボンのチャックも半分あいていた。ズボンのチャックの隙間からはユーフォーのような奇形したおいなりさんが出ていた。そのおいなりさんは冬に植物のたねでサボテンみたいなかたちをしていて、セーターにくっっくものがあるがそんなものにも見える。そして口の端からこぼれているよだれは下につたわって上着の胸のあたりに落ちた。
「なんか、この滝沢くん、きもい」
「やだー。よだれが。変質者みたい」
「えへへへへへへへ」
「やだー。この滝沢くん、変なおいなりさん持ってる。きもい。きもい。おいなりさん引っ込めろ」
余は周囲の状況を全く把握できなかった。自分がやはり滝沢くんの外見を持っているのか把握できない。
「きも滝よ。きも滝」
「これ、本当の滝沢くんかしら」
「えへへへへへへ」
「ちょっとほっぺた、つねってみれば」
女子高生のひとりがおそるおそる手をさしのべると余のほっぺたをつねって見る。
「本物の皮膚みたいよ」
「えへへへへへへへへ」
女子高生のふっくらした指先の感覚が余のほっぺたにつたわった。
「けいこばっかり、ずるい。わたしにも触らせてよ」
ひとりが勇気を持って手を出して来たのでもうひとりはもう少しだいたんである。急に余の目の前にウインナーみたいな指をさしだしてきた。余はその指をばっくりと口に含む。地を揺するような叫び声が起きる。
「きゃー」
「きゃー」
「きも滝に指食われた」
女子高生たちの皮のかばんが一斉に余の顔面に飛んでくる。
「きもたきーーーーーーー」
女子高生達はさけびながら列車を出て行く。余の頬は皮の鞄の洗礼をうけ、赤くなる。
列車は扉をしめ、静かにすべりだす。余はまたかばんの中から手鏡を出して余の顔を眺めた。
***************************************************
 鏡に映ったその顔はやはり美しい。右目をつぶってウインクしてみる。右目の目尻のところに少ししわが出来て左目が微妙にかたちがくずれる。やはり美しい。自分で自分に恋してしまうような気になる。もっともこの顔は借り物であるが。二重の目には力がある。自分で自分は滝沢くんなのだと言ってみる。よく見ると左目の少し下のところに小さなほくろがある、このほくろが顔を柔らかにしている。この手鏡のまわりには唐草模様がついていてその唐草模様に囲まれた楕円の中に余の顔でもある、滝沢くんの顔がある。少し流し目をしてみる。しなくても流し目をしているような感じである。こんな目に見つめられたら女の子はどんな気持になるのだろうか。恋しないだろうか、恋するに違いない、反語表現、この顔は焼き菓子をそっとかじってみるとさらに引き立つような気がする。そのまわりは秋色の風が漂っていなければならない。
鏡一枚で余の美しさを確認する。もしかしたらこの鏡は何らかの電気装置で理想的な美を鏡の表面に映し出しているだけなのかもしれない。皮膚一枚だけをそれによって表現しているのかもしれない。この鏡に映った美術品が余の顔であるとどうして確認出来るのだろうか。それは余の顔ではない。滝沢くんの顔でもない。まず第一に左右が別だ。余の顔の裏側から見たものを鏡に映しているだけだとも言える。そして鏡がなければ余、つまり滝沢くんの美しさは知ることが出来ない。さっきの女子高生がいなければ滝沢くんの顔の効力を知ることが出来ない。余がなにも言わないうちから近づいてきた女子高生、滝沢くんの美の効力である。
 効力はまた権力につながる。この滝沢くんの顔があればなんでも出来る。渋谷のセンター街で一晩に女子高生を千人ぐらいつることが出来る。まったくおそろしいことだ。余が余の外見を持っていたら決して出来ることではない。昔、漢文の授業で野鳥が人の庭のそばに巣を作るのはなぜかという、文章が載っていた。それは人がその鳥を襲わないという安心感があるからだという話だったと思うが、その結論として苛政は虎よりも猛し、とい結論が導かれていた。滝沢くんの美しい顔はある意味では苛政である。その使い方を間違えれば大変なことになる。
 もし、ここに「確実に千人の女の子を結婚詐欺で騙す方法」という本があるとする。余がその本を読んでいたとしてそれを横目で見ている人間は余のことを冷笑するだけだろう。しかし、滝沢くんがその本を読んでいるとしたらそれを見た人間は驚愕し、恐怖を抱くのに違いない。その本を余が持った場合は駄菓子屋でおもちゃの鉄砲を持ったに過ぎないが、滝沢くんにとってはロシアからの秘密ルートでトカレフを持ったと同じことである。そして滝沢くんが無邪気に自分の美しさに気づかないとき、その害悪は最大にたっする。
 美は罪悪である。
ごく親しい年少の知り合いがこのモンモン娘に出てくる色ボケ女たちをさしながら、どの人が善玉なの、どの人が悪人なのと聞いたことがある。年少の者には悪玉、善玉の色分けがはっきりしているとわかりやすいらしい。余はすぐに安倍豚を指さして、悪人であると指摘した。そして余や、川o・-・)紺野さんや、(ё)新垣は善玉であると言った。その意味は前出したようなものである。余も川o・-・)紺野さんも(ё)新垣も被害者なのである。社会的権勢ははなはだ微かなのである。それにひかえて(●´ー`●)安倍豚にいたっては市長の愛人にまで上り詰めてその横暴を思うがままにふっている。苛政は虎よりも猛し。(●´ー`●)安倍豚の悪人説はその論より来ている。その意味で滝沢くんも危ないのである。
 このトカレフやルノーやニトログリセリンになりうる外見が手鏡の中に映っている。余は下の方に鏡を持って行く。さっき開けておいたズボンのチャックがまだ半分開いていておいなりさんが一個だけ出ている。あの奇妙な宇宙船のようなかたちをした雑草の種の名前を思い出したい。冬枯れている雑草が立ち枯れしている荒れ地の中にあってセーターを着ているとくつっくものなのだが。その部分を手鏡で拡大して見てみる。これが滝沢くんのおいなりさんなのだろうか。おいなりさんも美しい。それからまた手鏡を離して余の全体像を映してみる。上には美しい顔が、そして下にはチャックから半分出ているおいなりさんが。普通の人間が同じ格好をしていれば見るに耐えないものだろう。しかし、相容れないと一見思えるものが同じ場所に映っているのにうつくしい。ここで余はあるラーメン屋に対する賛辞を思い出していた。ある店のラーメンに惚れた俳優が自分の家でもそのラーメンを食べてみたいと思い、麺とスープを持ち帰って食べてみる。そしてある日、麺のほうがなくなっていて、出来合の麺でそのスープに入れて食べてみる。これでうまくなるのかと思っていた俳優は言う。やっぱりうまいんですねぇ。滝沢くんの顔とおいなりさんはこの関係のようだ。きれいなものと一見きもいものが一緒に映っているのに美しい。
 しかし、花は咲くのが道理である。半分出ているものはもう一方も出るのが道理である。余は滝沢くんのもちもののもう一方のおいなりさんも外界に出してみた。するとどうだろうそのあいだにはさまれている長い棒状のものも呼びもしないのに出て来たのだ。余はこれを神柱と名付けることにした。神柱と名付けるにふさわしい、諏訪の湖に供えても恥ずかしくない清々しいものだった。
 そして余は大変な発見をした。見えないてぐす糸が存在するのだ。余の両手の指と神柱とおいなりさん二個はつながれている。余が右手を引っ張ると右のおいなりさんが動く。親指と人差し指をひねると右のおいなりさんが回転する。見えない糸でつながれているとしか思えない。今度は左手を動かしてみる。すると今度は左のおいなりさんが動く。目の錯覚だと思って両手を引っ張ってみると今度は神柱が動いた。両手をうまく動かして、三つを手前に動かす、すると三個ともこちらを向いておじぎをする。そして今度は向こうにそらしてみる。エッヘン。まるでそれら自身が人格を持っているようだった。もし、これが消防士だったらどうだろうかと思ってみる。火事が発見される。消防自動車がサイレンを鳴らしながらやってくる。おいなりさんと神柱を左右に揺らす。火事の現場に到着しました。消火ホウス接続。放水はじめ。余がかけ声をかけると神柱のてっぺんから消火液がちょろちょろと出てきた。すごい浄瑠璃人形である。人のかたちに似せて芝居をさせる人形はある。しかし、消防士の放水活動まで出来る人形は古今東西を見渡しても存在しなかっただろう。今度はアラビアンナイトのお芝居をさせてみる。王様と大臣のひとり二役である。王様であるおいなりさんと神柱が砂漠をとぼとぼと歩いている。神柱のさきが頭を振っている。そこでおいなりさんが立ち止まる。そこでひとり二役、もうひとりの役になる。「王様、あそこにかまどの明かりが見えます。あそこで少し休みましょう」そこで股間の主はまた王様になる。「休もう」股間の主は頭をふりふりしながら砂漠の家の戸を叩く。中から女主が出てくる。ここで股間の主は女主人の役を振り分けられる。「旅の人、ここには何もありませんよ」
「お湯を一杯もらえればいい」
中から子供の騒ぐ声が聞こえる。王様と大臣が部屋の中に入ると女主人は急に戸を閉めた。そして女も子供たちも真っ赤な大きなさそりに姿を変えて、王様と大臣を襲った。しかし、王様は指になんでも冷たい氷にして固めてしまう魔法の指輪を持っていたので大きなさそりの姿をした女と子供ちを凍らせてしまった。「お前たちは旅人を襲って金目なものを奪っていたのだな。なんでそんなことをする」
すると頭のところだけ凍らされていない女が答えた。「みんな王様が悪いんだ。こんなことでもしなければ生活していけないよ。それでさそりに姿を変えたんだよ」
「さそりの毒も少量では薬になると聞く。お前たちを余の宮殿の薬局に勤めさせよう」
そこでさそりの一家は王様の宮殿に勤めて心臓の悪い人間の薬を作る仕事で一生を終わったのさ。ここで余は自由に操れる余、つまり滝沢くんの股間の主を使って存在しない観客に向かって一礼させる。余が自分の両手を使って神柱とおいなりさんをおじぎさせると拍手がパチパチと起こった。
 横を向くと(ё)新垣が座っている。さっきからずっとこの股間芝居を観劇していたらしい。
「(ё)新垣、いつからここにいるのだ」
(ё)新垣「にい、ににに」
「さっきから、ずっとだって。最初から見ていたのか。なに、この股間芝居が好きなのか。もっと見たい。三匹の子豚を見たい。それから、銀のおの、金のおのも見たい。不思議なリュックも見たい」
どうやら(ё)新垣はこの股間芝居を気に入っているらしい。次の駅に停まるまで余はこの股間芝居を滝沢くんのおいなりさんを使いながら続けていた。(ё)新垣はそれをじっと見つめ、目をきらきらさせながら滝沢くんの股間を見ている。つぎの駅に着くと(ё)新垣は空中をふらふらと浮遊しながら綿帽子のようにどこかに行ってしまった。余はこの滝沢くんの姿をしながら(●´ー`●)安倍豚が蛭子市長に囲われている別荘に行く。駅から降りると杉木立に囲まれた大きな道が一本、山の方に向かって走っている。この道をまっすぐ行き、中学校の横の道を曲がって別荘地帯に続く、畑道を歩いて行くと(●´ー`●)安倍の別荘があるらしい。空には青空が広がっている。余は駅を出てとぼとぼとその道を歩いた。横に生えているキャベツみたいな葉はしおれていてたくさん積まれている。畑の横の用水路には藻がさらさらと漂っている。道祖神のさきを少し進んで中学校の角に着いた。ここを左に曲がるらしい。都会の方の中学校では学校の塀が高く囲んでいるのが常だがこの中学校の塀は大人の腰のあたりしかない。乗り越えようと思えば乗り越えることが出来る。余が体育館の横を歩いているとバスケットのゴムボールが床をタンタンと叩く音がする。道路に面した方の体育館の扉は広く開け放されている。余は塀を乗りの越えてその体育館の中をのぞき見る。中ではバスケットボールのネットの前でゴールをうっている女がいる。名前がわからない頭からすっぽりと被る上着を着て、ジーパンを履いている。最初にうったシュートはゴールの丸い金具に当たってはじいて落ちた。そのバウンドしたボールをとって猫みたいな顔をした女がこつちを向いた。そして滝沢くんである余のほうを向いてにっこりとほほえむ。それから体育館のはしの方に走り寄って来て叫んだ。
「滝沢くん」
(●´ー`●)安倍豚は余のことをすっかり滝沢くんと間違えているらしい。
「なんで、ここにいるの」
(●´ー`●)安倍はバスケットボールを両手でかかえている。どちらが(●´ー`●)安倍の頭なのか、ボールなのか、よくわからない。
「安倍くん、きみと話したいと言ったじゃないか。きみの家に行こうと思っていたんだよ」
「急に来る気になったのね」
「きみこそ、なんでこんなところにいるんだ」
「ちょっと用事があってここを通ったらこの体育館がまだ昔のままあったから、懐かしくて、人もいないようだったから上がってみたのよ。ちょうどいい具合にバスケットボールも出し放しになっていたので、ちょっと遊んでみたの」
体育館の方でのボールの音に気づいたのか、校舎の側から入る入り口から頭が半分はげた用務員が入って来た。
「勝手にここに入ってもらったら困るじゃありませんか。それにボールも勝手に使っちゃって」
安倍は悪びれる表情もなかった。
「ごめんなさい、体育館の扉が開いていたので、つい懐かしくなって入ってしまったんです。ここの卒業生なんです」
用務員は安倍の顔を上から下までじっと見ていたが、急に気づいた。この女が市長に関係している人物だということを。
「ああ、市長の親戚のお嬢さんでしたか。前もって用務員室に顔をとおしてくださいね」
「ありがとう」
用務員はそのまま行ってしまった。安倍は自分の手に持っていたボールを籠の中に返した。体育館の風を通すための出入り口の外に自分の靴を置いていた。安倍は腰をかがめるとその靴を履いて外に出てきた。松の木のそばに安倍はやって来た。
「きみの家に行くつもりだったけど、ここで会えればちょうどいいや」
「わたしに会いに来たのね」
安倍は滝沢くんである余の方を向いてほほえんだ。
「うれしいわ」
安倍も滝沢くんである余もあみ子ちゃんのことは口に出さなかった。
「うれしい」
安倍はまたそういうと滝沢くんである余の腕を持ってまわりをくるくるとまわる。
効果絶大なり、滝沢くんの外観。余はうまくしなくても安倍を取り戻すことが出来そうだ。思わず、余の顔にいやらしく笑みが浮かぶ。靴を履き終わった安倍は余の腕に腕をからめながら
「ねえ、梅巌寺に行かない。行きましょうよ」
とねだって来た。
「梅巌寺。それはなんだい」
「もう、忘れたの。滝沢くんの中学校のときのことよ。ほんの三ヶ月だけだったけど、黒い網タイツを履いていた蛭子なつみって言う転校生のことを覚えていないの」
「蛭子なつみ」
余はそれは市長に関係した女なのだろうかと思った。
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