手を抜けと言われましても

私は手を抜くのが苦手です。
やること、すべて全力を尽くそうとしてしまいます。これって、学生のときは褒められたはずのものなんだけども。

運動にせよ、勉強にせよ、一生懸命やることは褒められ、褒められたら嬉しいし、頑張っただけ何か得られるものもある。得たものが自分の想像通りかどうかは別として。
少なくとも、良い事として受け入れられてきたはずなのだ。逆に、真面目に頑張る人を馬鹿にするような行為は、「やってはいけないこと」ということだったはずだ。そして、それは正しいと思ってるし、学生でなくてもそうあってほしい。

それが仕事をしていて、常々言われるのが「上手に手を抜きなさい」ということ。要は、「効率よくやりなさい」ということです。
効率よくやるというのは、言葉にするのは簡単だけど、その実態は決して簡単ではないし、手を抜くという行為とイコールではないと私は思う。

手を抜いた結果、どこかに必ずしわ寄せは行くのです。結局、誰がそのしわ寄せを解消し、帳尻を合わせるかでしかない。そのしわ寄せがいくことを、貧乏くじとか言うのかもしれない。

その貧乏くじをまた誰かに、さらにまた誰かに渡していく。キリのない無限ループ。こんな不毛な連鎖のどこに、効率が良いという言葉を当てはめられるんだろうか。

そして、私は手を抜くのが苦手。上手くできるかは別として、時間を使って、力を込められるだけ込めたい。それは、イラストを描いたりしてきて、知らないうちに培われた心情なのかもしれない。
だが、実際に社会でそれを待ってくれる時間はない。そして、気づいたときには手遅れで、たくさんの貧乏くじが回ってきて、手がいっぱいになるのだ。

「効率的にやりなさい」と言われる度、それができたら苦労しない、手を抜いて上手く行った試しがない、というネガティブな気持ちになる。私はそんなに器用じゃないのだ。

もっと器用だったら、いや、人の気持ちが分からない、分かろうとしないロクデナシだったら、楽だったのかもしれないなとか思ってみる。

こないだ、母親とお酒を飲んだとき、「そういう人になれたら人生もっと楽しいかな?」って聞いたら、「そういう人は幸せかもしれないけど、たくさん周りに不幸を増やすから、みんなは楽しくないよ。みんなのことを考えようとしちゃう私達は、そうはなれないから諦めな」って言われた。ごもっとも。
大体、そんな話題を出す時点で、人の気持ちを分かろうとしない人間にはなれないのだ。

なんだかんだ親子だな、だって母親も手を抜くの下手だし、なんなら自分より下手なんだから。

私は、効率という言葉が苦手。仕方ないね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?