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大滝詠一『A LONG VACATION』40周年に寄せて

大滝詠一の歌とサウンド、そして松本隆の歌詞によって成り立つ『A LONG VACATION』の時空間を“隔たり”という視点から書いてみたいと思います。なおここでいう“隔たり”は物理的なものであったり、心であったり、時間であったり、それらが混在している状態であったりします。

1. 縮められない“隔たり”を埋めるサウンド~「君は天然色」/「恋するカレン」

『A LONG VACATION』で典型的なナイアガラ・サウンドを響かせる曲である「君は天然色」と「恋するカレン」において、語り手は相手との心の隔たりをなんとかして縮めようとやっきになっています。
「君は天然色」では、隔たりがなかった過去はモノクロームとなってしまい、なんとかして「色を点けて」「はなやい」だものにしたいと切望しています。しかし現在は「写真に話しかける」ことしかできません。
「恋するカレン」で語り手と相手は共通の空間にいますが心の隔たりは大きく、眼があっても「まぶたを伏せ」られてしまい縮めようという試みは徒労に終わってしまいます。
語り手がいくら“隔たり”を縮めようとしても相手からの反応が見込めず、「淋しい片思いだけが 今も淋しいこの胸を責める」状態であるとき、その淋しさを埋める機能をはたしているのが、ロックとしては破格の大編成で鳴り響くナイアガラ・サウンドなのです。

2.“隔たり”の極大値と極小値~「カナリア諸島にて」/「雨のウェンズデイ」

これもまた多くの人がイメージするナイアガラ・サウンドが施されている「カナリア諸島にて」は『A LONG VACATION』の中でも最大の“隔たり”が示されている曲です。
地理的な隔たりでいえば「さらばシベリア鉄道」もかなりのものですが、「カナリア~」はそれに加えて時間の隔たり(「若いかがやきがなつかしい」)が加わり、語り手は「もうあなたの表情の輪郭もうすれて ぼくはぼくの岸辺で生きて行くだけ」と虚無的ともいえる心境をつぶやきます。もう“隔たり”を縮めようという意志もないのです。
その対極にあるのが、シンプルなバンド編成のサウンドが施された「雨のウェンズデイ」。なにしろこの曲では語り手と相手の物理的な隔たりが最後に至ってゼロになり、時間もその流れが止まってしまいます(「降る雨は菫色  時を止めて抱き合ったまま」)。ここでは隔たりを埋める大編成のサウンドは必要がないのです。ひたすらハッピーな「FUN×4」もまたしかり。

3. 離れていく心、離れていく距離~「Velvet Motel」/「スピーチ・バルーン」

「一度は愛しあえたふたりが石のように黙」ってしまっている「Velvet Motel」は途中でラジのヴォーカルが大滝=語り手と言葉を分け合って歌っています。それはなぜでしょうか。それは物理的には近い空間にいながらも互いの心は遠く隔たっており、それを語り手も相手も認めているからに他なりません。2人の心はただ空っぽで悲しい状態であることだけでつながっており、互いがヴォーカルを分け合っているのはその悲しいつながりを確認するためなのです。
一方「スピーチ・バルーン」での語り手と相手の心は互いを思っているという点で隔たりがないように私には思えます。しかし、この曲では語り手と相手の物理的な距離がどんどん離れていってしまう。この点でまさに「Velvet Motel」と対照を成す曲なのです。

4.“隔たり”が生まれる瞬間~「Pap-Pi-Doo-Bi-Doo-Ba物語」/「我が心のピンボール」

大瀧が唯一作詞を手がけている「「Pap-Pi-Doo-Bi-Doo-Ba物語」はアルバム中もっとも“隔たり”をストレートに歌っているといってもよいでしょう。「イツ イツ ドコドコドコ腕くみ Walkin’Around」と空間の隔たりも心の隔たりもなかった相手が、月日が流れた現在は「グッと言い寄れば 待ってましたとばかりヒラリと身をかわし」てしまうのですから。そして「Pap-Pi・・・」に続く「我が心のピンボール」でも「淡い髪に手を伸ばした時 今夜髪を洗い忘れたから・・・ 柔らかな背中の冷たい拒絶」と“隔たり”が生まれる瞬間が描かれているのが興味深いのです。大瀧から松本隆へと“隔たり”の運動のバトンが渡される奇跡が実現しています。

4. 隔たりを縮めることの成功と未遂~「FUN×4」/「さらばシベリア鉄道」

これまで“隔たり”を縮めたくてもできなかった語り手(たち)の悲哀がうそのように、「FUN×4」ではすべてが「とんとんとん拍子」に進んでいきます。曲の最後にやっと抱きあえた「雨のウェンズデイ」に対し、ここでは2コーラス目であっさりとキスを成し遂げてしまいます。なにしろ相手の女性から「散歩しない?」と隔たりを縮めることに協力してくるのです。「Velvet Motel」となんと異なる世界でしょうか。
しかし、アンコールとしてアルバムの最後に置かれた「さらばシベリア鉄道」では再び大きな隔たりが2人の間に横たわります。「木綿のハンカチーフ」以来の松本隆のお家芸、男女交互の視点で書かれた歌詞では、女性はもし男性からのアプローチがあれば隔たりを縮める用意があったことがうかがえます。だけどこの曲で登場人物がもっとも空間的に接近したとき何が起こったのか、アルバムを聴いた人は誰でも知っています。

ぼくは照れて愛という言葉が言えず
君は近視まなざしを読み取れない

ここで大滝のヴォーカルが「近視」の後一瞬の間をとっています。この一瞬の間が空いた時、登場人物の隔たりは決して埋められないものになりました。後は「いついついつまでも待っている」という思いが残るだけですが、それもいつか「もうあなたの表情の輪郭もうすれて」しまうことになってしまうのだろうとの予感を禁じ得ないのです。

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