逆張りしたいワケじゃない

学生のころ、男性の最先端ファッションといえば

キャメルのロングコートにくるぶし丈の黒かグレーのスラックス、ざっくり編み込みで柄に立体感を持たせたクリーム寄りの白いニットだった。

街を歩けば見分けがつかない学生だらけだった。スクラル人かよ。

みんなこぞって同じような格好をしていたのだけれど、ただ流行ってるからという理由でみんながみんな同じ服を着て、何が楽しいのかわからなかった。


そんな中で、絶対に安易に流行りものに手を出さずに自分の好きな服を着ていたら、それがどうやら世間に流されてない自分カッコいいやろ?的な「逆張り」をしているように見えていたらしい。


いやいや、そんなつもりないから。せっかく好きな格好をしてるのに、水を差されてすごく不愉快。

なぜ自分の感性とは違うものを排除したがるのか。日本人の悪い癖だと思う。同調圧力的なアレ。こういうのがいじめがいつまでも無くならない原因だと思う。


多様性とはいいつつも、「価値観の範囲」でしか話せていない気がする。自分の価値観からはみ出たものを認める=多様性を認めると、勘違いしている。

価値観で判断するのならそれは多様性でも何でもなく、ただの偏見だ。「認める」という表現もすごく上から目線で嫌だなと、これを書きながら思った。生活様式の違いも考え方の違いも事実として存在するのだから、認めるもクソもないはずだ。

「認める」という発想は、その違いを一括りにして「平等」を謳いたいがために、生まれているんじゃないだろうか。


多様性を認め合える社会が普通になる未来


なんかすごく宗教的な思想を感じる。



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