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エッセイ・内省

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記事一覧

刺されてもいいと思えるほど

人に刺されたことないけど、そんなことを思ったことがある。 この人なら嘘をつかれても、傷つけられても、刺されても、殺されてもいいと。 嘘をつかれたり、暴言やら暴力やらで傷つけられたことはあっても、刺されたり、ましてや生きてるのだから殺されたことはない。 逆も然り、私は嘘をついたり、いつのまにかもしくは故意的に誰かを傷つけたりする。 よくないのかもしれないけど、私なりに理由はあるし、必要な嘘や傷つけ合いもあったりする。良いか悪いかは時と場合によるし、言い方や関係性にもよる。良し

祈り

私は人間なので、たまに気分が大きく落ち込むことがある。 要因は些細なことで、うまく立ち回れなかったなとか、これをこうやればよかったなとか、暴食しちゃったな、お金使いすぎちゃったなとか、そんなことだ。 でも、いつまで経ってもうだうだしてるのは精神衛生上よくない。 そんなときに私が定期的に思い出すようにしてる思想がある。誰かの受け売りでもない、私が30年ほど生きてきて辿り着いたものだけど。 私は私の幸せは祈らない。 なぜならどこかの時間軸の誰かが私の幸せを祈ってくれると信じて

古傷

数年前に前世占いなるものを受けたことがある。 今もそこは占いをやっているんだろうか。ふと昔の自分のツイートを振り返って思った。 私自身、タロットやら軽い星読みやらやるが、あまりスピリチュアル系は信用していない。発言自体はスピスピしてるだろうが、実はそういうのが苦手だったりする。 なんだろうな、その人の実態が伴っていないというか、そのくせに人の言葉を借りてるような…そんな感じがして苦手だ。 さてどんなもんかな…と思って、見てもらった。その結果を簡単に書いてみたいなって思う。

今日が最期のように生きろ

私が好きな言葉に上記のようなものがある。 意味としては、 誰も見ていないかのように踊れ、誰も聞いてないかのように歌え、そしてあなたの最期の日のように生きろ、 というものだ。 有名なアイルランドのことばである。 生き急いでるかのような言葉だが、当時高校生の私はこの言葉に憧れを覚えた。それからはずっと私の軸となっている。 訳もわからず何かに不安になることがある。 あの人の嫌がることをやってしまったかもしれない。あの機微が誰かに嫌な思いをさせてしまったかもしれない。この先、自

死に際に傍にいられる権利

最近、いろいろと考えることがある。 生理前で微妙に落ち込んでいたのもあるが、現時点でももやもや考えているので、ずっと引っかかっていたことなのだと思う。 今年で私は30歳になる。私の母は確か28歳で私を生んだ。それよりは前に結婚していることとなる。 私はすでに28歳の私のことなど覚えていない。なにしてたっけ? 元々恋愛・結婚願望はなかった。何よりも自分の時間を奪われるような感じがして、自由を奪われる感じがして気が向かなかった。 当時の同僚には「いつの間にか彼氏つくって結婚し

ゆるい鎖で繋がれた首輪

しばらく書く勇気がなくて自分の中に留めていたのだが、そろそろ時効だろうというのもあって書いてみることにする。 定期的に言う、私が言葉に縛られていたの件についてだ。私が本音で話さなくなったきっかけについてだ。 性的なことを直球で書いていくことになるので、苦手な方は回れ右。あらゆる伏せ字も今回はしていない。 あと、赤裸々に私の過去について書いています。 まあ、ネットですし、私が嘘を交えたり、誇張表現している可能性も過大にございますからね。 それでもよろしければ、どうぞよしなに

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境目

以前、こんな記事を書いた。 書いていて話がそれていくのはよくあることだ。 定期的に同じようなことを書いている自覚があって、中でも『自他の境界線』『境目がなくなる』『ぐちゃぐちゃになる』といった表現はよく書いているように思う。 白黒を分けるように自他をくっきり分けられるわけがないのは知っている。いくら自己を確立したところで、人は独りでは生きてはいけない。自分をゴリ推しても幸せにはなれない。なれる人種はいるかもしれないが、少なくとも私が求めている未来は得られないように思う。

ポッケに手をつっこみ続ける理由

私はよくポケットに手をつっこんでいる。何をしているのかと言うと、大体ポケットの中に入れている無線イヤホンのケースやら、スマホやらキーケースやらをいじり続けている。要するに大変手が落ち着きがないのだ。 小さい頃から「転んだら危ないよ!」と注意をされたが、それでも負けじとポケットに手を入れ続けた。 だからポケットがないと落ち着かない。ポケットがない場合、リュックの肩紐をひたすら掴むか、ケツポッケに頑張って手をつっこんでいる。 これは、私の過去の愛着と人への恐怖、(性)愛に関す

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表現者のジレンマ

表現の自由で救われる人って多々いると思う。例えそれが一般的には受け入れられないものだとしても。 このあたりの話は、前職の同僚と会話をしたことがある。お互い酔っ払ってたのもあるが「俺達、神絵師に救われてるんだよ!!」と私が力説していた。居酒屋で。 例えば、LGBTQの細かなところ・ディープな話であったり、特殊な性的指向だったり、それらがあるからこそ理解が進むことも多々ある。 恐らく必要なのは、◯◯のテーマに関する表現は全てNG!!とするのではなく、一般的な広告で出ないように

へんてこで矛盾した「寂しさ」に関する命題

寂しさについて考えていた。そのきっかけはこの本だ。 私は、エラ・フランシス・サンダースさんの本が好きで、新刊が出るたびに買っていたのだが、今回は想像上にとてもシンプルな本だった。彼女のイラストと言葉と言葉でできている。 彼女は言葉を紡いでいて痛かったと言う。けれども絵を描いていて癒やされたと言う。 読んでいて特に好きなページがなんぼかあるのだが、中でも心の痛みについてもんやりと考えていた。 どんなときに痛みを感じるだろうか。 物理的に言うなら、転んだときや何かに体をぶつけ

"特別"という幻想

世の中、特別なことは存在しない。 特別な関係も、特別なできごとも、それらは幻想だ。ただ本人が特別だと思い込もうとしているに過ぎない。 過去の繋がりだとか、前世がだとか、そんな言葉も流行っているがそんなものは後付けだ。誰も証明をすることはできない。 ただ人間が「特別なんだ」と思い込みたいだけで、もっと大きな…そう、例えば宇宙規模で言えば何でもない日常に過ぎない。 けれども、人間は「特別」を多用してしまう。 私もそうで、「今週はがんばったから特別にいいお酒を買おう!」だとか、

"愛"について考える

愛について、何かと1年ないくらい考え続けている。他にも考えていることはあるが、全てこの"愛"と繋がっているような気がしている。 そもそもの考え始めたきっかけは2020年12月頃、エーリッヒ・フロムの『愛するということ』という書籍だ。 興味はあったが、直視するのがつらい時期が続いていたため、読んでみるかと重い腰をあげた。思った通り、自分の病んでいた時期に読んでいたら打ちのめされていたことだろうという内容だった。 実はきっかけになっていたのは数冊あって。 続いて、ヘンリー・

宇宙の一部だから"孤独"でもいい

ここ半年ほど、『孤独』について考えている。 若い頃の私は人と関わるのがめんどくさくて、一人でいるのが楽だからと孤独であろうとし続けた。人と関わらなければ自分が傷つく可能性も下がるし、もし傷ついたとしても最小限で済む。 とにかく誰かと交わるということをしたくなかった。自分がすぐ影響を受けてしまうのはわかっているし、自分が自分でなくなる感覚があって、ひたすらに避け続けた。 避けると言っても人との接触頻度は変えず、自分が人と関わるときに一線………というより壁を設け、更に自分が分厚

日々に欠かせない飲み物の話

一部界隈では私といえば酒らしいが、実を言うとコーヒーのほうがやめられない。ある種のカフェイン依存だと思う。 飲まない日が続くと数日後に頭痛、だんだんと気分が下がってくる。コーヒーを飲み始めるとまた復活する。その繰り返しだ。 そんな「いいのか?」みたいなコーヒーとの付き合い方をしているが、私にとって朝コーヒーを淹れられるか?は自分の心が正常かどうかの判断基準になっている。 確かにカフェインが切れると気分は下がるが、朝コーヒーを淹れられない日は私自身も闇堕ちしていることが多い。