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美しい花の蕾よ/krishnakoli ami tarei (1910)



朝、この動画を見てとても悲しい気持ちになった。そうとしか言えない出来事が連日続いている。物心つく前から自分の持って生まれたものを無意識に否定させられたのちに起こるあらゆる悲劇を思う。感情が強く動くと、眠っていた記憶が引っ張りだされる。ずっと気になっていたけれど翻訳できていなかったタゴールのとある歌を思い出した。


美しい花の蕾よ
村人はあなたをただの黒い女と言い放つ
しかし私は荒野で見たのだ 
黒い肌に光る鹿のような瞳を
豊かな黒の髪をヴェールで覆うことなく
毅然としてこちらを見るあなたを 

黒?誰が何を言おうと
私は黒い肌に光る鹿の瞳を見たのだ
"krishnakoli ami tarei "(1910)

アメリカで起きている#blacklivesmatterとつながりのある歌だと思い、途中まで翻訳をしてみた。この詩のことについて、お母さんがベンガル人でお父さんがアメリカ人のmayaさんという友人に意見をもらうことにした。彼女もタゴールのことが好きだから、この歌が#blacklivesmatterの文脈からどう感じるか尋ねてみたくなった。すると彼女は、「確かに#blacklivesmatterと関係があるし、タゴールはrasismを否定した。この歌はblack is beautifulと言っているけれど、でもそれはもうみんなが知っている。もっと強いメッセージが必要だと思う」とスパッと意見を伝えてくれた。そのあと、彼女はたくさんのinstagramやfacebookのリアルな生の声をシェアしてくれた。そこで気が付いたのだが、この問題について日本で生きる私にとってはやはりアメリカの人種差別の歴史について無知であり、彼女と基本的な文脈を共有できていなかったということがだんだん分かるようになってきた。アメリカ社会を生きる彼女にとっては、かけがえのない友人たちが肌が黒いというだけで命の危険に晒されてしまっていることをリアルに経験しているからこそ、もっと強いメッセージ、つまり#blacklivesmatterを叫んで黒い肌の友人たちと連帯し支援する必要があるのだということがようやく分かるようになってきた。

このタゴールの歌の文脈についても少しだけ議論した。黒い肌を持ち鹿のような瞳を持つ女性は、インドのtribe(指定カースト)と呼ばれる人たち何だろうと私たちは推測した。これはインドに住んでいる友人にも質問したら同じことを言っていたから確かだろう。この話について今は深掘りできないので申し訳ないが、タゴールの歌の背景と、#blacklivesmatterには根底には通じるものがあれど、言葉が生まれた背景は全く別だという当たり前のことがわかった。差別の歴史は世界各地にあれど、その歴史は個別具体的なので議論をするときは学びを深なければ議論の土壌に立つことは難しいということが身にしみた。でもmayaさんはヒヨコみたいな私にすごく丁寧に今アメリカで起きていることを色々教えてくれた。その中で心に響いたのは、アメリカやカナダに住みながら各言語にゆかりのある方々が「手紙」と称して#blacklivesmatterについておじいちゃんやおばあちゃんに語りかける口調でラジオメッセージのように状況を説明してくれるLetters for Black Livesという企画だった。日本語のメッセージを聞いてようやくmayaさんが強いメッセージが必要だと言っている意味がわかった。2016年の企画が2020年も古びていないといことが、この問題が根深いということを物語っている。

mayaさんには日本がどういう状況なのかを少し伝えた上で、それでも私はこのタゴールの歌を日本語で紹介することは意味があると思うということを伝えた。というのも、私は日本で生きるということは、「違い」への不寛容さを日々感じることであって、「同じ」に囚われてしまう結果、Doll testの子供のように無意識に自分の外見や内面や誰かと異なる意見を押し込めているのではないかということを感じているからだ。直接命の危険には晒されていないにせよ、自己の根幹を否定して生き続けることは、精神的な不安定さを常に抱えることだと思っている。自殺率が高いこともなんらかはリンクしているであろう。でも確かに日本に定住したことはないMayaさんにその背景や理由を伝えるのは、私に#Blacklivesmatterを伝えることと同様、大変難しいことだと思った。

なんだか堂々巡りで結論らしいことを出すのが苦手なのだが、とにかくMayaさんがサポートしている#blacklivesmatterに賛同する意を示そうと思った。タゴールがきっかけで出会うことのできたMayaさん。私たち二人はタゴールの地を生きていないし、タゴールのことをじっくり勉強はしていないけれど、どうにかこうにかタゴールのかけらをたぐり寄せ、耳にした歌・ネットで聞いた言葉をヒントに歌で持ってお互いの意見や議論を交換していくことができる。これが私なりのタゴール・ソングとのこれからの付き合い方だなとも思った。タゴール・ソングはインターネットを通じて、タゴールが予期せぬ形で言葉が広がっている。ある歌は思いがけず遠くに、ある歌は全く歌われていないかもしれない。しかし手元に集まったたった少しの歌でも、こうして新たに解釈しながらつながりを増やして言葉を重ねていくこと、これがベンガル語でいう「ロビンドロ・チョルチャ(直訳するとタゴール議論)」の新しい形なのかもしれないと、ふと思ったのだった。

筆者は現在インドの映画学校で留学中のため、記事の購読者が増えれば増えるほど、インドで美味しいコーヒーが飲める仕組みになっております。ドタバタな私の日常が皆様の生活のスパイスになりますように!