悪意の住処(前編)
1922年3月。マサチューセッツ州ボストン市。
中心部からやや離れた場所。活気溢れる目抜き通りからひとつ外れた道沿いにその家はある。赤レンガで建てられ、壁には蔦が生い茂るその地下で今、闇が小さく蠢いた。
「……じゃあ、その家で何が起きたのかを調べてくれば良いんスね?」
「そうだ、何も無ければそれでいい。あらぬ噂を立てられている今よりずっとマシだ」
新聞社に勤めて3年目のアドルフは、依頼主から渡された資料から顔を上げると軽薄そうな笑みを浮かべた。
「任しといてくださいよゴードンさん。サクッと調べてきますから。……で、報酬の件なんですが……」
へらへらと笑うアドルフに、ゴードンは血色の悪い顔で胡乱な目を向ける。
「新聞に出した広告にもあった通り、前金で50ドル。調査中は1日ごとに20ドル。原因を突き止められた場合は更に100ドル上乗せする」
「へへ、わかりました。途中でかかった経費なんかは」
「それくらいは自分でなんとかしろ。伊達や酔狂でこんな破格を出してるわけじゃないんだ」
「あ、ですよね。じゃ、とりあえずこの前金はいただいてきますんで」
テーブルに置かれた前金と家のカギを懐にしまうと、アドルフは手にしていたハンチング帽を軽く持ち上げて挨拶し、依頼主の家を後にした。
「さて、と……どうすっかな」
大通りに出たアドルフは、無意識に取り出したペンをクルリと回してつぶやいた。
(資料には長いこと人が住んでないってあったな。まともに補修もされてないみたいだから、廃屋みたいなもんだろうな)
商店の立ち並ぶ大通りをぶらぶらと歩きながら、必要な道具を考える。
(厚めのブーツが要るな。錆びた釘でも踏みぬいて破傷風にでもかかったら笑いごとじゃすまねぇ。ロープもなにかと役に立つだろ。明かりになるものも必要か。火は……これで良いか)
行き付けの酒場でもらったマッチ箱を取り出すと宙に放り投げる。落ちてきた箱を受けとめて軽く振ると、カシャカシャと小気味よい音がした。
「……よし!」
考え付く限りをメモ帳に書き出すと、アドルフは靴屋に向けて歩き出した。
夕方、アドルフが買い物を終えて自宅のアパートに戻ると、廊下で痩せた老婆とすれ違った。
「あらギビンズさん。こんばんは」
「あ、どうも大家さん」
大家はアドルフが抱えた荷物を見ると、目を光らせた。
「随分と色々買い込んできたのね。お給料が入ったのかしら?」
「あー、いや……ちょっとした臨時収入があったんですが、足りないものを色々買ったら使い切っちまいまして」
「ということは今月のお家賃は」
「……もうちょっとだけ待っていただけると、非常にありがたいのですが……」
大家は溜息を吐くと、両手を腰に当てて仁王立ちになる。
「わかりました。その代わりお給料日には、先月の分と一緒にまとめて払ってもらいますからね」
「えへへ、わかってますって」
アドルフは再度大きな溜息を吹きかけてきた大家を愛想笑いで躱すと、足早に自宅へ逃げ込んだ。
「おぉ、あぶねぇあぶねぇ。最近の追いはぎはいつ遭遇するかわからんから怖いねぇ」
テーブルの足元に荷物を置くと、靴紐を緩めてドカリと椅子に座り込む。
「まさかあんな状況から逆転ホームランで負けるとは思わねぇだろ。誰だって全部賭ける。俺だってそうした」
去る某日に参加した野球賭博で賭けたチームは圧勝ムードだった。ダメ押しにとばかりに最後のベットタイムで全額賭けたところ、頼みのチームはまさかの逆転負け。手に入れたばかりの給料をすべて溶かしたアドルフは、友人からの借金でなんとか日々を繋いでいる有様だった。
「……あいつにもそろそろ一回連絡しとかないとな。そろそろいつものとこに居る頃だろ」
窓の外に広がり始めた夕闇を見たアドルフは、靴紐をさっきよりも緩めに縛り直すと行き付けの酒場に向かった。
大衆酒場「リーガストリーミア」は、寒さのせいか日が暮れたばかりとは思えないほど既に客でごった返していた。アドルフはしばらく店内を見渡し、カウンター席にいつもの顔を見つけると近くへ寄っていく。
男の隣は既に他の客が座っていたが、アドルフが申し訳なさそうな顔で硬貨を握らせると席を移動してくれた。店主にいつものメニューを注文すると、おもむろに男に声をかけた。
「よぉ。景気はどうだ?」
声をかけられた男は、さして美味くもなさそうにテーブルの上の料理をフォークでつつきながら答えた。
「まずまずって感じだね。そっちは?」
「ぶっちゃけ芳しくねぇ。そこでだ」
アドルフが男の目の前に件の資料を突きだすと、男は鬱陶しそうに斜め後方へ首を傾げた。
「なにこれ?」
「良いから読んでみろ」
「……?」
そのままの姿勢で書類に目を通していた男は、とつぜん目を輝かせると毟り取るように資料を奪い取って読み始めた。
「……つまり、家人が謎の怪死を遂げた家の調査をするってことだね?」
「その通り。ボストンきってのオカルトマニア、カイル・アップルヤードなら黙っていられねぇと思ってよ」
「当然だよ!! いつ出発するの? 今から? ナニかと遭遇するにはこれからが良い時間だものねえ!」
資料をアドルフの胸に押し返し、猛然と料理を食べ始めたカイルに、アドルフは苦笑いを浮かべながら応える。
「いや、今日は行かねぇ。出発は明日だ」
「ふぁんへ!?」
「夜は危ないからに決まってんだろ。明日の昼頃に俺の家に来い、準備は既に済ませてある」
続けて何かを言おうとして、口の中に食べ物が詰まったままなことを思い出したカイルは、エールで残りを流し込むと大きく息をついた。
「遅いよ! 9時に行くから」
「俺がそんな時間に起きてるとでも思ってんのか? うっかりトイレと間違えて、窓からお前の頭に小便かけちまうよ」
「……わかったよ。10時ね」
「11時だ」
「む~……」
「返事は?」
「……了解」
空になったジョッキをぶつけ合うとアドルフは席を立ち、次第に遠ざかる喧騒を心地よく聴きながら帰路についた。
「……これが悪霊の住む家かー!」
両手を胸の前で組み、少年のように顔を輝かせてカイルが屋敷を見上げていると、追いついたアドルフが周囲を窺いながら文句を言った。
「おい、縁起でもないこと言うなよ。人通りが少ないとはいえ、誰かに聞かれでもしたらどうすんだ」
「だって、前の住人は謎の変死体で見つかったんでしょ? 悪霊の仕業に決まってるって!」
「はぁ……ったく……」
バリバリと頭を掻きむしると、アドルフは大家から渡されたカギを玄関ドアの鍵穴に挿し込む。鍵は人の居なかった時間を考えると、意外なほど抵抗なく解錠した。
「ほら、さっさと入……」
ドアを開けてカイルを振り返ったアドルフは、不意に悪寒にも似た寒気をおぼえる空気に背中から貫かれた。触れた水に温かさを感じるのは、自分の体が冷たいからだと気付いた時のような感覚。
(なんだ、今のは……?)
長い時を経るうちにどこかの窓ガラスが割れていたのだろうか。それにしては、あれから風は吹いてこない。呆然と入口の奥を見つめて立ち尽くすアドルフを、カイルは不思議そうな顔で見つめる。
呆然と入口の奥を見つめて立ち尽くすアドルフを、カイルは不思議そうな顔で見つめる。
「……どうしたの? 先に入っても良い?」
アドルフは2度3度かぶりを振ると、カイルに続いて屋敷へと入っていった。
屋敷の中は想像していたよりもずっと小綺麗な状態だった。目の前に伸びる廊下には細長い絨毯が敷かれ、別の部屋に続くドアは見えているだけで左右に2つの計4つ。右手前のドア横には四方30cm程度のテーブルと、かつては花を活けていたのであろう花瓶が置かれている。
悪霊の存在を信じて疑わない故か、カイルは恐る恐るといった様子で首を伸ばし奥の様子を窺っている。
「なんか、思ったよりキレイだね」
「あぁ。じゃあ端から調べていくぞ」
「う、うん」
アドルフが一歩踏み出すと大仰な音を立てて床が軋んだ。一瞬、身を強張らせたアドルフだったが、二歩目以降は構わず進んでいく。
最初に入った左手前のドアの先は小さな物置小屋だった。家具と思しき緑色の布が被せられた大きな塊が峰を作っている。壁に設置された本棚からは、入り切らなくなった書物が床に平積みされていた。埃臭い部屋の空気を入れ換えようにも、窓はシーツで出来た山脈の向こう側にある。
埃の積もり方から見ても、今回の件とは関係無いだろうという結論に至り、部屋を後にした。
続けて向かいのドアに入ると、そこは縦に長い応接用の居間だった。食堂も兼ねているようで、細長いテーブルには黄ばんだテーブルクロスが今や遅しと清掃を待っている。
アドルフが窓を開けると、冷たい空気が一気に入り込んでくる。そのまま顔で受け深呼吸をすると、鼻の奥に残る先ほどの埃臭さが洗われていくようだった。
「ふぅ……」
一息ついて振り返ると、カイルは食器棚に飾られた皿やナイフ、フォークといった食器を何とは無しに眺めていた。
「下手に触るなよ。万がいち割っちまったら後々めんどうだからな」
「わかってるよ」
アドルフが窓に向き直り煙草の一本でも吸おうかとマッチに手を伸ばしかけたその時だった。
「ぎゃっ!」
カエルが潰されたような悲鳴が上がり慌てて後ろを振り向く。見るとカイルが床に尻もちをついていた。
「どうした!?」
「あ……あれ……」
カイルが指さした先、細長く伸びる部屋の一番奥の壁に異様な光景があった。壁には、稲妻のように折れ曲がりくねった刃の短剣が刺さっており、一際の異彩を放っている。
「なんだ、こりゃ……」
アドルフが近くに寄ってみると、何もかもが色あせ埃を被ったこの部屋の中で、この短剣だけがさっきまで使われていたかのように新しい。
「絶対悪魔崇拝用の儀式剣だよ!!」
カイルが興奮した様子で壁に駆け寄る。
「ナイショで持ち帰れないかな?」
「おい、危ないからあんまり近くに……」
アドルフがカイルを嗜めようとしたその瞬間。
壁に刺さった短剣がひとりでに音もなく抜けた。そのまま重力に引かれて落下を始めた直後にふわりと空中で停止し、くるりと刃先をこちらに向け……突撃してきた。
まったく予想していなかった事態に、カイルはほとんど奇跡といえる挙動で両手を挙げ身を躱す。目標を見失った短剣は、反対側の壁に掛けられていた盾に当たると、小気味の良い音を立てて地面に落ちた。
「……だ、大丈夫か?」
アドルフがそっと声をかけると、カイルの双眸はゆっくりと彼を捉え、それから天を仰ぎ、そして瞼の裏に消えた。
「お、おい! しっかりしろ!」
両手を挙げたまま仰向けに倒れる彼の意識が戻ったのは、それから十数分後のことだった。
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