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短編小説:パラレルボックス

開け放した窓から、ひぐらしの鳴き声が聞こえる。

昼間の不快な熱は夕立にすっかりかき消され、西にある小高い山から下りてくる風は、ひそやかに秋の気配を包んでいた。この時期めったにない、気持ちの良い夕暮れに思わず頬がゆるむ。
ほとんど物のない薄暗い室内に、かろん、と氷がくずれる音が響いた。

「あかりさんはどうして結婚しないの?」

あかりさんが作ってくれた夏みかん酒のソーダ割りを飲みながら、わたしは小さな声で尋ねてみた。聞こえなければそれでもいいか、というような声で。
だけど、あかりさんはわたしの声を決して聞き逃さない。
どんなに小さな声でも、まわりの雑音がうるさくても、あかりさんはわたしの声にかならず気づく。

しわしわの手で夏みかん酒に炭酸を足していたあかりさんが「なによ、突然」と困ったように笑った。
さっきから炭酸を足しているけれど夏みかん酒は足していない。きっとコップの中は炭酸水だけになっていることだろう。
わたしの知らないあかりさんは、お酒に弱いらしかった。

「タイミングが合わなかった、のかしらねぇ」
「タイミング?」
「そう、多分ね」

風に吹かれて、レースのカーテンがふわりとふくらむ。

ここは七階建てマンションの最上階。
窓にはレースのカーテンが一枚ついているきりで、遮光カーテンはない。そのことを尋ねると「引っ越してすぐに買いに行ったんだけど、どうも気に入るものがなくてね」と笑っていた。
引っ越してきたのが二十年以上前とのことだから、人生の約三分の一を遮光カーテン無しで過ごしていることになる。

「気にならない? 日差しとか防犯とか」
「全然。この家で過ごす時間は少ないから」

この世界のあかりさんはけっこう名の知れた民俗学者で、話によると一年のうち二百日以上は日本国内を飛び回り、五十日以上は海外にまで足を伸ばしているらしい。

ペットもいない、植物のひとつもない、遮光カーテンもTVもない、この殺風景な家で年間百日をひとりで過ごすのだという。

「不安なこととかないの?」
「不安?」
「うん、その、ひとりだし。将来のこととか、お金のこととか」

あかりさんは炭酸水をぐいっと呷ると、短い髪の毛を耳にかけた。口元に笑みを浮かべると、

「ない」
即答しつつ、スマートフォンを操作する。

その瞬間、まるで魔法のように部屋中にオレンジの明かりが広がった。ただの飾りだと思っていた天井の小さな電飾が、蛍火のようにかすかな点滅を繰り返している。

「便利よね、今は」
「すてき! 外国のパブみたい。行ったことないけど」
「電気の消し忘れとか、鍵の閉め忘れとか、すっかり心配しなくなっちゃった」
「ふぅん」

「本当はね、不安なこともある。でも、それはひとりだからっていうわけじゃない。多分、二人家族でも三人家族でも、それぞれの生活の中でやっぱり不安はあったと思う」
「そう、だね」
「あとね、これも」

あかりさんの手元で光るスマートフォンの画面に目を寄せる。メッセージアプリの画面に『良い朝会』というグループ名が表示されていた。

「民俗学教室のメンバーで毎朝スタンプをひとつずつ、このグループに送ることにしているの。フィールドワークで事故にあうこともあうし、みんな結構いい年になってきたからね。朝にスタンプが送られてこない人のところには、その日の朝のスタンプ押しが最後だった人が、必ず連絡を入れるようにしてる」
「仕事関係の人とも仲いいんだ」
「あなたの今朝はいい朝かい? つってね。孤独死対策もばっちりでしょ」
「なんだか」

知らない人みたい、と言いそうになって、直前で言いつぐむ。
不思議そうな顔でこちらを見るあかりさんに、なんでもないと首を振った。

「それよりさ、さっきの続き。結婚を考えた人はいた?」

夏みかん酒と一緒に出してくれたアボカドクリームをクラッカーに塗って口に放り込む。ばつぐんに美味しいけれど塩味の効いた味付けで、わたしが知らない味だった。

「やぁね。もう、いいじゃない、そんな話」
「学者の道を選んだこと、後悔しなかった?」

あかりさんが困ったように首をかしげながら、テーブルにグラスを置いた。

「あのね、みなみちゃん。結婚は誰に決めてもらうものでもない。するかどうかは自分で決めるものよ」
「それはわかってるけどぉ」
「へんな子ねぇ。そもそも結婚の相談なら、結婚している人に尋ねないと。わたしに相談されたって良いも悪いもわからないわよ。一度も結婚したことないんだから」

自分でも不躾な相談だと思う。気分を害したっておかしくない。
それなのに、あかりさんは怒りもしない。それどころか、口元に笑みを浮かべたまま、優しいまなざしでわたしを見ている。

「そうねぇ。じゃあ、もし世界にみなみちゃんと櫂くんのふたりだけでも結婚したい?」
「え?」

わたしが顔をあげると、そっとあかりさんが目を伏せた。
両手でそら豆をむきつつ、わたしの回答を待ってくれている。
結婚しなくても、子どもがいなくても、あかりさんはずっと聞き上手なんだな、と胸がじんわり温かくなった。

むき終わったそら豆が、手元の豆皿にぽつりぽつりと積み重ねられていく。そら豆が小さななだれを起こしても、あかりさんは静かにわたしの言葉を待ってくれていた。

「ふたりだけ……」
握ったグラスの中で、かろん、と氷がくずれた。

「そう。親も兄弟もいなくて、友だちも、同僚も、上司も部下も、役所の人も誰もいないの。結婚して安心する親もいないし、喜んでくれる友だちも、妬む友だちもいない。自慢できる同僚もいないし、国や県から補助も出ない」
「悲しい……」
「あはは、悲しいね。でも、それでも結婚したいと思うのなら、したらいいんじゃないかな。もしも『誰かのために』という気持ちが少しでもあるなら、わたしなら、きっと結婚しない。――なんてね、わたしにできるアドバイスはこれが限界」

わたしとあかりさんのあいだの、オレンジ灯に染まったそら豆をぼうっと見る。本当は何色だったか、なぜだか思い出せない。

「母を」
「ん?」
「母を……お母さんを安心させたいって気持ちが強かったかもしれない。今、考えてみれば、だけど」
「みなみちゃんのお母さんが心配してるの?」

みなみちゃんのお母さん、か。
あかりさんの口から聞くと、いよいよ変な気分になる。思わず口元が緩みそうになるのを咳払いでごまかした。

「心配、はしていると思う。べつに何も言わないけどね。でも、なんていうか、わたしももう三十歳だし、親戚でも結婚していないの、わたしだけだし。来年お婆ちゃんの七回忌があるんだけど、また肩身の狭い思いをさせちゃうかなぁ、って」

「うーん、わからなくはない」
困ったように、あかりさんが笑った。
祖母の(いや、この世界では祖母ではないのだけれど)顔でも思い出しているのだろうか。

いつの間にか、窓の外は濃紺一色になっていた。移り行く色彩を見逃がしたのは残念だけど、室内のオレンジ灯と一番あうのは、きっとこの濃紺の空だ。
網戸越しに見上げた空に、半月よりも少しだけ膨らんだ黄色い月が、まるで作り物のように浮かんでいた。

「このまま結婚してもいいのかな、わたし」
ふと手に温もりを感じた。
あかりさんが、わたしの手に手を重ねていた。

「自分の人生を生きなさい。プロポーズしてくれたから、お母さんを安心させたいから、友だちにバカにされたくないから。そんな理由で人生を選ばないで」
「あかりさん」
「そうしたらきっと、後悔しない。――夏みかん酒のおかわり、いる?」

わたしが返事をしやすいように、質問を重ねるところも、わたしが知っているあかりさんとおんなじだ。
微笑んで、はい、と答える。
あかりさんは満足そうによしよしとうなずくと、立ち上がり台所に向かった。

 柱時計がポンポンと音を立てた。
いや、この部屋に柱時計などなかった、と思ったところで目が覚めた。

「おはようございます。良い景色が見られたようですね」
男性の声が反響して聞こえる。

目元に装着されたゴーグル状の装置が外されたとき、わたしは自分が泣いていることに気がついた。そんなことにはお構いなく、スーツの男性は、広い椅子に横たわるわたしの体についた残りの装置を黙々と外していく。

「あの」
「はいはい、なんでしょう?」
「今の世界にもう一度行くことはできますか?」

足元で【パラレルボックス】と社名ロゴの入った半透明の箱に機具を収納していたスーツの男性が、立ち上がってわたしを見た。笑っているのか困っているのか、何ともいえない表情だった。

日本とフランスの研究チームがパラレルワールドの存在を物理的に証明したのは、いまから十五年前のこと。科学者からオタクまで大騒ぎしていたから、当時のことはよく覚えている。でも、物理に興味がなかったわたしには、それがどれほどすごいことか、ちっともわからなかった。

わたしが代わり映えのしない毎日を送る間にも技術は進化し続けていた。
いまでは、お金さえ用意すれば自由に並行世界に行ける装置が開発され、お金持ちの新しい道楽になっている。

興味はあってもお金がないという庶民向けのサービスが登場したのが、半年前。
身体ごと並行世界に行くことはできないものの、意識だけを飛ばすことができる、というもので、これが大当たり。瞬く間に会員数は日本人口の三%を超え、世界各国にも毎月支店が五店舗以上出来ているのだという。

いまや【パラレルボックス】という社名を聞かない日はない。

「それは難しいですねぇ、ええ。世界は無限ですから」
男性の声に、はっと意識を戻す。
「無限、ですか」
「今、あなたがご覧になった『ご両親が結婚しなかった場合の並行世界』というのも何百、何千と枝分かれしている世界のひとつなわけでして、ええ」

手に持ったタブレットをすいと指先で操作し、
「たとえば、先ほどの世界のあかりさんは九年前の八月十日の夕飯に焼魚定食と煮魚定食で迷った末に焼魚定食を召し上がっておられます。しかし、煮魚定食を召し上がった世界線のあかりさんも、また違った並行世界におられるわけです」

「はぁ」

「次に見る並行世界では、その煮魚定食を召し上がった方のあかりさんに繋がるかもしれない、ということでございますので、おなじあかりさんにお会いできるかというのは……ちょっと難しいかと、ええ、ええ」

「そう、なんですね」

スーツの男性にお礼を伝えると、揺れるような足取りで【パラレルボックス】を後にした。
初回割引きをしてくれるとのことだったので、会員証だけは作っておいた。また来るかは、わからない。

とっくに日は落ちたというのに、地面には熱を帯びた空気の層が分厚く残っていた。先ほどいた世界で感じた秋は、この世界ではまだまだ先のようだった。
スマートフォンを取り出し、見慣れた番号に電話をする。

「もしもし、あかりさん? 今、大丈夫? 明日さ、実家に遊びに行っても良いかな。いや、櫂は来ない、わたしひとりで。……うん、ちょっとね。今のうちに、いろいろ相談しておこうかなって、あか――お母さんに」

熱気を帯びた水蒸気が皮膚を包む。
あかりさんの重なった手のひらを思い出す。
母になったあかりさんと。
自由に生きたあかりさん。

「え、もらったワイン? 飲む飲む。ふふ」
結婚してもしなくても。
きっとわたしは幸せになれる、と思えた。

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