信じる力が強い人はかなり尊い。
父が雑誌のプレゼント企画に応募するためのハガキをせっせと書いているのを見ると、泣きそうになる。
「プレゼントが当たるかもしれない」と父が期待に胸を膨らませたという事実に、超現実的でつまらない思考を持った私は痺れるのだ。
そして、宝くじを買う人にも、私の心の同じ部分が反応する。
幼い頃、大好きな叔母が私に宝くじを分けてくれたことがある。彼女は私に「当選発表の日まで当たったら何をしようかなと考え続けられることが楽しみなんだよ」と教えてくれた。
つまらない大人に成長した今の私に、それはできない。
そういえば、宝くじ売り場に置いてある金色の亀をなでたらラッキーに出会えるということを教えてくれたのも彼女だった。
叔母と亀を撫でた直後に自販機の下に落ちていた500円玉をたまたま見つけたあの光景を、今もまだなぜか妙に鮮明に覚えている。
ただ、あれ以来、金色の亀は触っていない。がたまにラッキーにも出くわす。
叔母は子供にすごく好かれるという特徴がある。信じる力が強い大人は、子供に好かれがちではないだろうか?
例に漏れず、私は小さい頃から彼女が大好きで、その気持ちは今も変わらない。彼女が私に見せてくれたたくさんの信じる力は、私の中で小さくても、大きな希望になっている。
日々絶望する私と違って、大好きな叔母は今もキラキラした目で世界を見ている。でもその分、世界に裏切られることも多そうだ。そんな彼女をみて、私はいつも彼女の世界の見方を尊いなと思う。どうにかして、絶対にしあわせでいてくれないか、と常日頃思っている。
叔母に負けず劣らず信じる力が強いのが父だ。
お腹はタプタプなままなのに、熱心にもう7,8年はシックスパッドを毎日続けていて、「効いている」と私たち家族に言い張っている。
また、効果をよく説明できないただバカ高いだけの栄養ドリンクを(母曰く)結婚当初から買い、毎朝飲み続けている。
お盆になると、父は祖父をお墓まで迎えに行く。そして、父は私に「じいじが帰ってきてるから、仏壇に線香あげて、近況報告をしにいきなさい」と強制する。お盆の期間中に行かないと、父にこっぴどく叱られるのがわかっているので、私は毎年抵抗せずに祖父に近況報告をし続けている。
お仏壇の前でぶつぶつと近況報告をしている私の姿をみると、おばあちゃんが毎年ひどく喜ぶ。だからよし、ということにしている。
いろんなものの力を真剣に信じ続けている父を見ていると、無性に泣きたくなる。父の信じる心が誰にもバカにされてほしくないという気持ち。守りたいという気持ちに私の心は支配される。
なぜ心が反応するのか?
矛盾しているが、心のどこかで父の信仰心をバカにしている救いようもなくつめたい自分がいるから、私は泣きたくなるんだと思う。
父の信仰心を、私が、そしてこの世界が、守りきれないことを私はもう知ってしまっている。
それでも私の中には、いかにして守れるか?という問題がある。
私にできることは、信じる力が強い人の信仰心を目の当たりにした時に、心をギュッと苦しめながらただそばで傍観するだけだ。
その心を、自分も周りの人にもバカにさせてはならない。
ただその尊さを噛み締め、雑誌のプレゼント企画に当選したときには、彼らと一緒に手を叩いて喜び合うのだ。