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「 恥の多い生涯を送って来ました 」 に射抜かれる。

中学生の頃、確か夏休みだったと思う。はじめて太宰治の『人間失格』を手に取った。

蝉が耳を刺す音量で鳴いている祖母の家で、黄色い日差しを避けるように、ソファに寝転んでページを開いた。

そこにあった一行は、私の体のど真ん中を貫き、それは今もずっと腰のあたりで鈍く重く留まっている。

その時の私は「これは途方もなく、繊細で、自覚がある人が書いた小説なんだ」と感じて、それだけで胸がいっぱいになってしまって、読む気が失せ、そのまま目を閉じて昼寝をしてしまった。

その後も、あの日の衝撃を求めていくつか文豪の作品を手に取って読んでみたが、当時の私には面白みがわからず、すぐに退屈になってしまった。 

数週間前からおもっていることがある。

わさびが食べられないことをきちんと恥じることは人生において、とても大切だということ。

免許を持っているのに運転ができないことも、薬味系をおいしいと思えないことも、泣き虫なことも、友達が少ないことも、恥じることでなんとか私という人間の形を保っていられると思う。

でもたまに、こんな恥ずかしいことを自慢話のように誰かに話したくなる自分がいる。自分はみんなと違うとか、変わっている、という自意識に酔いしれてみたくなるのだ。

そんな自分に気づくと、心底みっともないなと思う。そして、もしこれが自慢話のように話してしまった後だった場合には、恥を撒き散らしてしまったことに猛烈に後悔し、自分の醜い心を火で炙ってしまいたくなる。


生き抜く力がないことを、この世界で格好がつかないことを、自慢げに話すことこそが一番の恥であると思う。それも一種の個性だと希望的判断を下すことが、その人の成長を止め、貴重な厚みを削ると思う。

太宰治のあの一行は、私のようなみっともない人間に釘を刺す、最も重たい一行だったのだと、今になって気がついたのだ。



以下は余談であるが、私がどんなときも恥だと思っている、自慢して話す余地がないことについて考えてみた。

それは、以下の「モノ」や「自分の姿」を他者に見られることである。

・自分の思ったことや「これはよく言った」と思った言葉を書き溜めているノート

・寝る前に明日やるべきことを何度も声に出して確認しているところ(確認癖....)

・玉ねぎを美味しいと思えず、避けて食べているところ

・生活必需品ではない、ずっと欲しかったものを買っているところ

・小学校の卒業アルバムの自分のページ

・鏡の前で全力で流行りの歌を口パクしているところ

・ガチャガチャを回しているところ

・メルカリで物を売ったり、買ったりしているところ

他にも沢山あるが、キリがない。
挙げてみて思ったことがひとつ。

周りが気にしていなかったとしても、本人が切実になっていることは恥ずかしい。ということだ。


恥の多い生涯を送って来た。と言える者はきっと、切実な人生を送って来たのだと思う。それだけでずいぶんと立派で、かっこいいことだと思う。

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