努力は人にやさしいのか

私は、努力することが得意だ。小学生の頃からずっと努力している。主に勉強面で。中学受験、大学受験、そして大学に入ってからも、優秀生徒として奨学金をもらうくらいだ。ただ、それらを別に特段楽しみながら、もしくはのめりこんでやってきたわけではない。大人からやれと言われたこと、特に周りのみんながやりたがらないことに対して、みんなより少し早く取り掛かってのんびり準備してきただけだった。しかし、周りからはとても褒められる。し、自分もそれを強みだと思って生きてきた。しかし、これは本当に賞賛に値することなのか。

そもそも努力の定義はなんだろう。私は今まで、「努力=やりたくないことを我慢してやり続ける力」だと思ってきた。こういった努力は良いものなのか? Voicyというラジオアプリ内で(勝手に私の師匠だと思っている)山口周さんが「努力とは怠惰である」という旨を語っていた。とてつもなく面白いと思った。確かにやりたくないという気持ちに負けず、何かをやり続けたという忍耐力は称えられるべきかもしれない。しかし、それは所詮敷かれたレールの上で踏ん張っていただけであって、努力はしていても思考はしていないのだ。私のお母さんは「努力が怠惰は言い過ぎだ」と言っていたけれど、山口さんが「努力は怠惰だ」と言い切れるのは、山口さんレベルになると、努力できることは前提だから、その忍耐力さえ賞賛に値しないのかもしれないと思った。

ここで関係ない話を挟む。山口さんの以上の回では「就活」が例に挙げられている。この回が投稿されたのは、山口さんがパーソナリティを務めるラジオにて、私が送った就活相談メールが採用された数日前のことである。とても運命を感じうれしかった。

本題に戻る。努力と思考は違う。お母さんが言っていて面白いなと思ったのは「大谷翔平選手はすごすぎるけど、ヤングケアラーとかの境遇に負けてない子とかの方がよっぽどすごくない?っていつも思う」という言葉。比べる対象がおかしいのは承知の上で進めると、大谷選手のしていることには「努力」という言葉がふさわしいのに対して、ヤングケアラーの子のしていることを「努力」というのはしっくりこない。むしろ「思考」ではないか。ここまで考えてふと、全ての努力って、一定の恵まれた環境があって初めて生まれるものなのかもしれないと感じた。足元にレールが敷かれていたから、お金があったから、親の遺伝子が強かったからできたこと。やっぱり努力ができることは、大いなる賞賛には値しないと確信した。アルバイト先で学歴のないパートさんに対して、「一緒にするな、こっちは学生時代めちゃくちゃ勉強してきたんだ」と一瞬思ってしまうことも、とても浅はかでみっともない考えだと反省した。だから、「自分の努力だけで」なんて口が裂けても絶対言えないと思った。

最後に、努力は人を戦わせる武器なのかもしれない。(武器はその人の強みにもなるし、戦争の種ともなる、という意味で。)なぜなら、誰かの努力は他の誰かに劣等感を抱かせることになるから。努力は一定の豊かさの上のみに存在できるものであって、その行為が努力と呼ばれるためには一定の要件を満たすことが必要だ。なぜなら、人生には勝ち組と負け組なるものが存在していて、一定の正解があるとされているから。努力は一人勝ちしたいと思っている人がこぞって挑戦するものなのかもしれない。

努力は人に優しさをもたらさない一方で、思考によって人は優しくなれる。私は、努力に頼るのではなくて、立ち止まって思考できる人間でありたいと強く思う。 




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