今だから読んで欲しい小説
小説の中の「純愛」
年甲斐もなく、「純愛」などという言葉を聞くと、胸に微妙なときめきを感じる。
年を経て、この歳になったからそうなのか定かではないが、もう手の届かないものを懐かしむ気持ちで、そのときめきを楽しんでいる。
だが、結局のところ、男女関係の機微にも疎い私は「純愛」などどいうものを理解できない不調法ものでもある。
それだけは、はっきりしている。
それなら純愛小説はどうだろう?
そもそも「純愛」自体がはっきりしないのに、語れる筈もないが、かつて読んだ小説には、世間からそう呼ばれている作品もある筈だ。
御多分にもれず、私も第三の新人と呼ばれる小説家の作品群を読み漁った時期があって、その中にもそういう作品があった。
たとえば、安岡章太郎の「ガラスの靴」には、きらめくような透明感のある初々しさがあった。吉行淳之介の「手品師」には、若さゆえの熱量と未熟さがもたらす壊れそうな愛を実感した。吉行本人も純愛小説集の編者にもなっており、特に興味のあるモチーフだったに違いない。遠藤周作の「私が棄てた女」も解釈によっては、純愛小説と言えるのかもしれない。
それらの作品群は、文学史の中でも、既に確固たる位置を獲得しているが、今、純愛小説として読み返したいかというと、少し違う。
前向きに生きようと、毎日を過ごしていても、ふと虚しさが心をよぎる時、窓際に椅子を寄せて、暖かな光を受けて読み返したい本は他にある。
それが小山清の「落穂拾い」である。
小山清の描く世界
好きな人のことを褒めることで生涯を送りたい。
作家、小山清は小説家になろうと決めた時に、そう思ったのだという。
無論、人を褒めることはかなり難しいことではあるが、そんなささやかな野心を持った作家がいたことを、どれほどの人が知っているだろうか?
小山清を知らない人のために、とりあえずウィキペディアから抜粋すれば、以下のようになる。
東京府東京市浅草区新吉原(現在の東京都台東区千束)の廓内に生まれる。生家は兼東楼という貸座敷業を営んでいたが、盲目の父は家業に関係せず義太夫を謡っていた。
府立三中を経て、明治学院中等部卒業。18歳のとき人生への煩悶から洗礼を受けるも、数年で脱会。母の死後、一家離散の憂き目を見る。島崎藤村の世話で日本ペンクラブ初代書記になるも、公金を使い込み、水戸刑務所に8ヶ月間服役する。出所後、下谷竜泉寺町界隈で新聞配達をしていたが、1940年(昭和15年)に太宰治の門人となる。太宰が戦時中に疎開している時期、太宰宅の留守を預かる。
第二次世界大戦後まもなくは炭坑夫として、夕張の炭坑で働き2年足らずを過ごす。この時期に太宰が死去。
同じ頃から太宰に預けていた原稿が売れるようになり、作家となる。1952年(昭和27年)に『文學界』に発表した「小さな町」や『新潮』発表の「落穂拾ひ」など、一連の清純な私小説で作家としての地位を確立。 1951年(昭和26年)に「安い頭」が第26回芥川賞候補に、1952年に「小さな町」が第27回芥川賞候補に、1953年(昭和28年)「をぢさんの話」が第30回芥川賞候補にあげられた。
1952年、亀井勝一郎夫妻を仲人にして、18歳下の関房子と結婚。1953年に長女美穂、1955年に長男穂太郎が誕生。
1956年、同人誌「木靴」を創刊。題はシャルル=ルイ・フィリップの言葉に因んだもので、後に芥川賞を受賞する宮原昭夫などが同人として参加した。
1958年(昭和33年)、心臓障害による脳血栓から失語症となる。以後は妻の稼ぎに依存しつつ生活保護を受けて暮らしたが、1962年4月13日、生活の困窮からノイローゼ気味であった妻が、練馬区の雑木林で睡眠薬ブロバリンを服用して自殺。
1965年(昭和40年)3月6日、急性心不全で死去。53歳没。
どう見ても、決して平坦な人生ではない。
だが、それが本心であったなら、彼自身はそんな境遇の中でも、冒頭で述べたような気持ちで、生涯、創作活動を進めたのである。
その結実が、寡作ではあるが、その作品群に表れている。
小山清の作品は一読しただけでは、特に印象には残らないだろう。
特別なモチーフがあるわけでもない。興味をそそるキャラクターが登場するわけでもない。
おそらくは作者自身が体験した日常を根底に、限られた人間の中で起きた出来事を淡々と書き写している。
だが、読み続けているうちに、心は自然と和んで、読後は爽やかな香りのする、温かいものを飲んだそんな気になっている。
だから、私も時に応じて、読み続けるのだ。
「落穂拾い」に描かれるものは純愛か? それとも・・・
小山の代表作「落穂拾い」について述べよう。
言い忘れたが、私は小山清という作家は私小説作家でありながら、極めて意図的な作家だと思っている。
どの作品も淡々とは書かれているが、その登場人物の配置や筋の流れを細かく吟味している。
「落穂拾い」については、それが際立っている。
主人公は、もう若いとは言えない売れない小説家である。
吉祥寺に住む主人公の「僕」は他人とほとんど話もしない、孤独な生活を送っている。
特に華々しいストーリー展開もあるわけではないが、小説の中で強いてあげればクライマックスになる場面で、「僕」は一人の少女と親しくなる。
高校を卒業したが上の学校には進まず、「自分はわがままだから、勤めには向かない」と、商店街で小さな古書店を経営している。働き者だが特に大きな利益など望まず、少しだけもうけが出ると、澄んだまなざしで、それを「僕」に報告する。
小説家である主人公を「おじさん」と呼び、「一読者として」応援してくれる。二人のさりげない交流はこの上なく、暖かく、美しい。そこに決して恋愛感情の言葉はちりばめてはないが、これを「純愛」と呼べないこともない。
小山清はまるで推理小説のように、この私小説で巧みに伏線を配している。
彼は冒頭でこう述べている。
仄聞するところによると、ある老詩人が長い歳月をかけて執筆している日記は嘘の日記だそうである。僕はその話を聞いて、その人の孤独にふれる思いがした。きっと寂しい人に違いない・・・。
また次に、自分の書く作品について、「誰かに贈物をするような心で書けたらなあ」とも言う。
その後、昔会った似顔絵かきや、別れた友人とのエピソードを記し、今、散歩中に出会う人々、(例えばいつも机の上の書物を前にうつ向いている青年の事、駅前で焼き芋を売っている老夫婦の事)も登場させるが、それらは何か少しの憂愁に充ちていて、読んでいて切なくなる。
だからこそ、クライマックスでの主人公と少女の明るいふれあいが、余計に生き生きと、暖かく、節度のある華やかさに感じられるのだ。
ラストに、彼女は主人公である「僕」の誕生日に贈物をあげると言う。
それは薬屋から買ってきた耳かきと爪切りだった。
そして「僕」の前に新聞紙大の紙をひろげた。雑誌の付録らしいその紙にはその月生まれの画家や詩人や科学者などの名が列記してあり、「僕」と同じ日には「落穂拾い」や「晩鐘」を描いたミレーの名があった。
小山は最後にこう記す。
以上が僕の最近の日録であり、また交遊録でもある。実録かどうか、それは云うまでもない。
そこで、読者ははたと冒頭で書かれた、嘘の日記を書き続ける老詩人のことを思い起こすのだ。その孤独と共に。
それでは「落穂拾い」の世界が、実際に小山の人生の中でなかったかというと、それも違う。
後に夫人となる女性とはどうやら「小説家」と「一読者として」の似たような暖かな交流があったらしい。
しかし、夫人は小山と結婚したのちに生活苦によるノイローゼで自死している。
この事実を一体どう考えたらいいのだろう?
人生は残酷だなどとは言いたくない。
「落穂拾い」で描かれる、売れない小説家と気持ちの温かい少女とのふれあいのようなものが、本来、人生が持っている姿だと思いたい。
逆を言えば、小山清という作家は、過酷な自分の運命をひるむことなく素直に受け入れ、それを忌み嫌ったり、恨んだりすることもなく、優しくそれに殉じて、それを美しい作品とまでしたまさに「殉愛」に生きた作家と言えるのかもしれない。
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