乙女峠

津和野は島根県の南西に位置する。
山間の小さな盆地に広がる町並みは小京都の代表格として知られている。
とは、ウィキペディアからの丸写しであるが、私は、京都にも住んでいたことがあるが、京都とは違う、いい意味でひなびた町である。
屋根に明るい赤瓦が使われた集落は、周囲の緑とも相まって、趣がある。

街からまた少し山の中に入った場所に、乙女峠はある。

乙女峠の一画に、小さなマリア聖堂が立てられていて、そこはかつてキリシタン弾圧の時代に、浦上四番崩れにより、この地に流罪されてきたキリシタンたちが、転向を求められ過酷な拷問を受け、あるものは殉教した場所でもある。
浦上とは、長崎県の浦上村、崩れ、とはキリシタンの検挙事件の事である。

乙女峠 マリア聖堂 (1)

                 津和野町観光協会ホームページより


日本キリシタン史を分類するとすれば、大きく三つの時代に分けられる。
①キリシタン発展の時代、②殉教と潜伏の時代、③復活の時代。
わかりやすく言いなおせば、信長の時代に発展し、秀吉の時代に暗雲が立ち込め、徳川の時代には完全に潜伏してしまった。
およそ、二百五十年の弾圧後に、つまり、江戸幕府から、明治政府に変わった③の時に、
浦上四番崩れが発生している。

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「高木仙右衛門以下二十八名の浦上キリシタンたちは、明治政府のキリシタン弾圧により捕縛され、この地に流罪されてきた・・・。」

私は聖堂内にしつらえられたパンフレットを読む。
聖堂には他に誰もいない。
夕暮れの静寂の中、私はパンフレットの一文を声を出して読んでみる。

「彼らはここで過酷な拷問を受けた。或るものは氷の張る池に裸のまま投げ入れられて悶絶した。或るものは何日間も三尺牢に入れられ、飢えと寒さに苦しんだ。残酷極まりない拷問に殉教するものさえ現れた。だが、彼らはいかなる時にも天主を信じ、オラショを唱えてその拷問によく耐え・・・」

津和野を訪れたのは、そこへ行くのが目的ではなかった。
旅の途中になんとなく途中下車したのだった。
だが、乙女峠を訪れたその日の経験は、孤独だった私の心を少しだけ変えた。
どうして手に入れたのが今はもう思い出せないが、その後、分厚い片岡弥吉著「日本キリシタン殉教史」も買った。

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いちずに信じられるものが自分にもあれば・・・

死さえもいとわずに、信じ切れるもの、それが自分にとっては神ではないにしても、そういうものが欲しいと切実に思った。
数年後、私はささやかな短編小説を書いた。
故郷喪失者の望郷の思いと流罪のキリシタンとの心象を重ねて・・・
それが、これもまた、小さな地方の文学賞で評価を得て、尊敬する詩人に望外なお褒めの言葉を頂いた。
これがこれまで私が書いた唯一の作品である。
山間のひなびた場所にひっそりと佇む津和野の街並みのように、その思い出は私の心の底に珠玉のものとして残っている。

近年、ジョニー・デップが「MINAMATA」という映画を作り、それが話題になり、私もまたかつての「水俣体験」を思い出した。
写真家ユージンスミスが撮った写真から胎児性水俣病患者、上村智子さんに思いを馳せ、お会いした事のあるお母様との有名な写真が今封印されているミュージアムを訪れ、そこで偶然同じく水俣を撮り続けた写真家、桑原史成氏の小冊子を手に入れた。
それは別の投稿でも紹介したように、ユージンスミスが撮った母と娘の入浴写真と似ているが、抱きかかえるのは父親で、智子さんは成人式の晴れ着姿で、二人とも満面の笑みを浮かべている。私は感動した。
二人の写真家のアプローチは違うが、それぞれに親子の情愛をシンプルに描いた素晴らしい作品だ。
その写真を、水俣での長い活動のけじめとした、桑原氏の矜持にも、感動する。

ここに掲載していいものか、どうか、わからないが、その小冊子の表紙の写真を載せておく。

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この写真が撮られた年の暮れに、智子さんは21歳の若さで、他界してしまう。だが、決して切れることのない親子の絆とそれを撮った桑原氏の思いは形になって、いつまでも美しく残っている。

そして、私は、写真家、桑原史成氏が、津和野の出身であることを知るのである。

若い人にはピンとこないかも知れないが、人の一生はいつかやがては収斂されて、ある定まった場所へと運ばれていくものらしい。

人生の途上でただ単一の出来事としては、不明だった部分も、やがて後に起きる出来事と絡まりあった時、新たな一面を見せてくれる。

たとえ小さな人生でも、出会うべきひとつひとつの出来事には意味がある。だから日々の時間を誠実に、大切に、ということか・・・。

そうして、それらが絡まりあいながら、いつか私の人生も完結へと繋がっていくらしい。

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