セザンヌ礼賛

私は思わず深い安どのため息をついた。毎日のルーティンではあるが、今日も又無事やり遂げられた喜びに満たされていた。                                          だが私はまだ席を立たなかった。目の前にセザンヌの絵がある。有名な「首吊りの家」である。                                                                                          目を細めてこの絵の中に何かが隠されていないかと探す。ダビンチコードさながら、この絵も見れば見るほどイマジネーションを刺激して、私の心をかき乱す。あった。道の斜面の草むらに人の顔?右側の朽ち果てた家は見ようによってはマンモスの横顔にも見える。いやまだある。左側の家の煙突も、これはトーテンポールの横顔だ。じっとみてると二つの家自体が意思を持ち、何かを喋りだしそうだ。窓は口になっている。           私はもうこの絵を一か月見続けている。だが少しも飽きることはなかった。そのたびに印象が違う。それでもこうしてばかりもいられない。私は美術館にいるのではない。出かける時間が来たようだ。私は立ち上がり、最後に水を流すのも忘れない。                        今日もきっといい日になる。

前回の投稿で、私は自分の審美眼に自信を持っている、とのコメントをしたが、それを撤回したい。私は自宅のトイレの扉の内側に名画カレンダーを吊り下げている。当然、事をなすときは、その名画と対峙する形になる。カレンダーだから、一つの絵を一か月間見続ける。それで上記のような状態になるのだ。これでは真のセザンヌ通からもそっぽを向かれそうだが、これだけは言っておきたい。私は本当にセザンヌが、好きだ。セザンヌの作品はどれも鑑賞者のイマジネーションを刺激する。その仕掛けがあるに違いない。セザンヌが表現する形や構成、色遣いは隠し絵のように私を刺激する。一言で言って、楽しい。

数十年前の事である。ボストン美術館を訪れた。英語もあまり得意ではなかったが、人に聞き、たどたどしくも路面電車を使ってどうにか、現地にたどり着いた記憶がある。 そこにゴーギャンの大作が展示されている。             我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか 140センチ×375センチという大きな作品である。             人間の一生を過去、現在、未来に分け、幻想的な青緑色を基調にして自然が描かれ、そこで彷徨う人間たち。決して理想郷ではなかったタヒチでの生活がゴーギャンにそれを描かせたのか、壮大なテーマも加勢して陰鬱な気分が見ている私を次第に押しつぶしていった。               一言でいえば楽しくない。興奮していたものが急速にしぼんでいった。  ど素人である私は絵を鑑賞するとき、自分の中で変化するムードを大切にする。基本的にキャンバスに乗せられた色の美しさに単純に惹かれる。それはたとえ、陰鬱なテーマであっても同じである。ゴーギャンファンには申し訳ないが、生で見たその作品の色を美しいとは思えなかったのである。   そのあと程なくしてパリのオルセー美術館を訪れることができた。言わずもがな、印象派の画家の作品が数多く展示されている。          私はある作品の前でしばし立ち止まった。セザンヌの静物である。    セザンヌといえば配置や形の構成力が注目されるが、その時、私が感動したのは、その色の美しさである。                    たとえ、テーブルから滑り落ちそうなリンゴ一個でもその色が美しい。キャンバスから与える印象が、どれも私の心をかき乱し、楽しくさせる。   私は何度もそこに展示されているゴーギャンの作品群と比較した。私はやはりセザンヌの色の美しさに惹かれた。セザンヌ、と思わずK1のレフリーばりに大きく凱歌をあげたほどに。

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