フローラ
バスから降りると、新緑の季節の爽やかな風が、フローラの頬を撫ぜた。
停留所には、使用人のエリスが先に来て待っていた。手には大きな鞄を持っている。
バスを降り、母は、ありがとうエリス、と声をかけた。エリスは軽く会釈をする。
父は母の上衣を脇に抱えて立っている。ふとフローラを見て、にこりと笑いかけた。フローラもほほえみ返す。
バスの扉が背後で閉まる。
そのとき、雲雀の鳴き声を、フローラは聞いた。
森の中に入って行くと、突然開けた場所に出た。真っ白な建物があり、バルコニーには、タオルが数枚、風に揺れていた。
フローラたちは建物の中に入った。使用人のエリスが先に来て掃除をしていたため、屋内は清潔に片付いていた。
寝室にはベッドがあり、白いシーツが敷かれている。
フローラはベッドに腰掛けた。
母は室内を見回す。
「しばらくぶりに来たけど、ここは静かね」
父は静かに頷く。母は、フローラを見つめた。
「別荘があってよかったわ。自然もたくさんあるし、ここはいいところね。ここに来ることは、フローラにとって、きっととてもいいことだわ」
フローラは母を見つめ返す。
荷物を置くと、母は、建物内の様子をひととおり見回した。父は母のあとについていく。
くるりと振り返り、母は言う。
「フローラ」
母はフローラを振り返る。
「ここでゆっくり休んで、けっして無理をしないでね。このあいだみたいに、急に駆けたりしてはだめよ。大人しくしてなさいね」
フローラは、自分の足を見つめた。
「あなたのためを思って言っているのよ」
フローラは頷いた。
「いい子ね」
母と父は玄関扉を開けると、また顔を出すから、と言って去った。
フローラは病弱だった。
学校では、授業中に具合が悪くなることがよくあり、そのうち学校に行くこともできなくなった。そのため、両親が持っていた別荘で転地療養することとなった。
使用人のエリスが、フローラの世話を全面的にしてくれるのだった。
「おはようございます」
エリスがカーテンを開ける。
フローラは起き上がり、目をこする。
あたりを見回し、昨日別荘に来たことを思い出す。
ベッドから降りようとすると、エリスがスリッパを出してくれる。
「ありがとう」
フローラが言うと、エリスは
「いえ」
と言って微笑む。
フローラは、スリッパをパタパタと鳴らしてダイニングへ向かう。
「朝食と散歩、どちらにいたしますか?」
とエリス。
「じゃあ、散歩」
フローラが椅子に腰掛けると、エリスはフローラの手を取って、カップを持たせた。
「では、まずお水を飲んでください」
森の中を、フローラはエリスと手を繋いで歩く。木々の葉が風に揺れ、擦れる音を立てていた。数種類の鳥の鳴き声が聞こえた。足元の草には朝露がついていて、きらきらと光った。さくさんの花が咲いていた。フローラは花を指差し、これはなに? とエリスに尋ねた。これはネモフィラです。これは? これはアイリスです。エリスは一つ一つ丁寧に答えた。
別荘に戻ると、フローラはダイニングの椅子に座る。
エリスは朝食の支度をし、テーブルの上に料理を置いた。
これはなに? とフローラ。ほうれん草のキッシュです。エリスは微笑む。
翌日も翌々日も、散歩をし、エリスの朝食を食べた。日中は本を読んで過ごした。
ある日、フローラは建物内を探索した。調度類が揃っている。この先も長く暮らしていけるよう、両親が揃えたのだろう。鏡がある。自分の顔を見る。思いの外、血色が良くなっていることに気づく。
棚に引き出しがあり、開けてみる。金属製の何かがあった。手に持つと、ずしりと重く、ゴツゴツしている。これは、とフローラは思う。昔、見たことがある。たしか、〈拳銃〉と言って、とても危ないものだ。なぜそれが、ここに? フローラはエリスに尋ねようとして見回したが、エリスはいなかった。洗濯物を干しているのかもしれない。フローラは重いそれを元に戻し、ベッドに潜り、読みかけの本を開いた。
木々の葉の色が、新緑から濃い緑色に変わりつつあった。
近頃、両親は忙しくしていて、別荘に来ることが減った。そのかわり、手紙がたまに送られてくるようになった。手紙は母によって書かれており、フローラを気遣う言葉と、近況が綴られていた。体の調子はどうですか。忙しくて顔を出せなくてごめんね。このあいだ、パパがクッキーを焼いてくれたんだけど、ちょっと焦げちゃって落ち込んでいたわ。パパったら、いつも威厳のあるふうを装っているのにね、そのときは慌てていて。笑っちゃったわ。気にしないでって私、励ましたのよ。
フローラが靴を履いていると、エリスが上衣を持ってそばに立った。今日はひとりでいい、と言ってフローラは、ひとりで散歩に出かけた。エリスは最初、心配そうにしたが、気をつけてくださいと言ってフローラを見送った。
いつもの散歩道には三叉路があり、左右に分かれている。右側がいつもの散歩コースだった。フローラは、いつもとは違う左側へ行くことにした。
鳥の鳴き声が聞こえた。あれは雲雀だ、とフローラは思った。たくさんの花が咲いていた。これはなに? 尋ねようとして、エリスがいないことに気づいた。
少し歩くと汗ばんで、風が吹くと涼しかった。
ふと足元を見ると、細長い生き物がいた。たしか、これは。エリスが言ったことを思い出す。これは蛇です。毒がある種類もいるから、気をつけてください。
思い出した瞬間、フローラは飛び跳ねた。蛇を避け、道を大回りに歩き、先へ進んだ。
森の中、さらに進むと草原があった。歩き疲れて、フローラは座って休んだ。空を見上げると、青い空に、綿のような雲が浮かんでいて、ゆっくりと動いているのがわかった。
フローラは立ち上がり、服についた草を払い、白い建物に戻った。
白い建物の扉を開ける。
まっすぐに棚に向かった。棚の引き出しを開け、〈拳銃〉を手に取った。
あたりを見回す。
エリスはいなかった。食材の買い物に出かけたのかもしれない。
ふと、母と父の顔が浮かんだ。母は、あなたのためよ、とよく言った。父は、いつも微笑んでいて静かで、フローラのことを一度も叱ったことがなかった。
玄関の扉を見る。
エリスはまだ帰ってこない。
フローラがまだ小さかった頃、机の引き出しにしまわれたそれを、フローラはたまたま見たことがあった。そして母に尋ねた。これはなに? 母は慌てた様子で、だめよ、と言った。これは〈拳銃〉。危険だから、絶対に触っちゃだめ。そんなにいろいろいじくらないで。お願いだから、お母さんの言うことをきいて。
ねえフローラ、私はあなたのために言っているのよ……。
そのとき、雲雀の鳴き声が聞こえた。
フローラは、小さな口を大きくあけて銃口をくわえると、引き金に指をかけた。
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