プロフィールを作る⑧:教育課題の根本的な解決がしたい。地域・家庭・学校の教育のバランスを整える

こんばんは、ソルティーです。

現在は、プロフィールを作っています。

前回は、 なぜ私が教員支援をやろうと思ったか?についてのエピソードをお伝えしました。

今回はその上で、自分がどんな課題を見つけ、 何をどうしたら教育は良くなるのか?を考えたか、これについてお話をしていきます。


教員の負担は多岐に渡っていた

まず、私が教員支援を行っていく中で見えてきたのは、 本当に教員の負担は多岐に渡っていると感じました。

毎日、子供たちに6時間つきっきりで、空き時間がない。

そして、休み時間や給食、掃除なんていうのも、 子供たちを見ている。
あれは、教員にとって休みではなく、指導なのだと。


なので、 教員は、膀胱炎になる率が圧倒的に高いと言われています。

トイレが基本的に放課後まではいけないって職業だと。

そして、そんな状態で、新しいことが次から次へと増えていくような…そんな錯覚を起こしている。

「なんでも自分たちがやらないといけない」って思ってしまって、自分がおかしな状態だって気づいていない。いや、考えたら作業が止まってしまうのかもしれません。

だから、つい「助けてください」って言えない。

そんな言葉を出すのがとてつもなくハードルが高い。それが先生たちの現実なんだということがわかってきました。


地域・家庭の忙しさが増し、子育てを誰かに任せなくてはいけなくなっている

なぜ、そんなふうになってしまうのかっていうと、地域・保護者の核家族化と共働きが増え、子育てを誰かに任せるしかなくなってきた。

なので、子どもたちに対して教育を考えたり、子供たちを一緒に育てていく、そんなことを考えている人はほとんどいないっていうことが分かってきました。


地域・家庭で行ってきた教育が他にすべて丸投げされている。

「先生、しっかり子どもたちの面倒を見てくださいね」と、学校が学力や、その子の可能性を伸ばす場所ではなくなってきている現状も見えてきました。


教員支援は負担を取り去るよりも、根本的に解決しないと先生自身も腐ってしまう

僕は一生懸命先生たちの支援をして、 先生の負担を取り去ろうと思って、支援をした時期は確かにありました。

ですが、地域に縁もゆかりもない人がやってしまうと、『ただの便利屋のようなスーパーマン』になってしまう。


そうすると、先生たちは「まぁ、"全部"あの人にまかせておきましょう」というふうにして、授業ですらも出なくなっていく。

だんだん自分で考えなくなって、それはどうして必要なんだろうっていうことを考えなくなってしまう。

子どもと触れ合うことよりも、目の前に積み重なった課題をこなすほうに目を向けてしまう。

本当は目の前に積み重なった課題なんか、無くすか、それこそ外部に任せれば良いのに…です。


本当に大切な先生としての職務を他人に"すべて"任せてしまうという現象に陥り始め、教員支援とは何なのかっていうことを本気で考えました。

校務負担、授業負担軽減をするってことは確かに大切なことです。

ですけど、本当はその仕事をやりたいと思ったから先生になったんじゃないの?ってところまで、他人に任せて、それを任せても平気な状態になってしまう。


その人たちがいなくなった時、またその負担がその先生たちの元に戻っていっていく。

そして、また先生は悲鳴をあげて、疲れて、今やっている仕事が何のためにやるのかも全く分からないまま、新しい仕事が降りてきたと思ってしまう。

その「すべてを自分たちがやらないといけない」っていうふうに悩んでいる。そもそも、なんでそういう状態になったのかっていうことを考えるっていうことが課題なのにも関わらずです。


根本的な課題解決をしたい

そのように、直接的な原因ではなくて、間接的かもしれないけど、 もっと根本的な原因に目を向けなければ教育っていうのは、本当によくならないんじゃないか?って考えました。

視点をもっと広げてみたのです。

そうすると、教育っていうのは、学校だけでやるものではない。

本来はいろんな人たちがいて、いろんな大人たちがいて、いろんな人たちと触れ合う・見せ合うことで、生きるための知恵を学ぶ瞬間ができる。


また、 家庭を通して子どもたちがどう生きるのか?どうありたいのか?を考え、何度失敗しても、どんな自分でも戻ってこれるような場所。それが家庭。


そして、学校は、 この子たちがどうしたら自分の力で「もっと学びたい。」と思ってもらえるか?今まで先人たちが築いてきた生きるための知恵・知識を、いろんな価値観を持っている子どもと一緒に学び合っていく場。


この3つが揃った時に初めて教育っていうのは、最大限の力を発揮する。

そういう教育の根幹に気づかなければいけない。


学校の教育の質が落ちたのではなく、地域・家庭の教育の質が落ちた

学校の先生が全然わかってない、何もできてない、学びの質が落ちた なんていう人がいますけども、

学校の先生はほんとにいろんなことにチャレンジをして頑張っていて、 もがき、苦しみながら子供たちのことを考えて、一生懸命にやっていると現場にいると感じます。


自己研鑽の部分も、 最近ではオンラインが後押しをして、夜の時間を使っていろんな人と対話をしたり、 勉強し合ったりっていうことをやっている人が本当に増えたなって思います。


では、保護者や地域はどうでしょうか。

自分の子供が今日、一日何を学んできたか、どういう学びがあったか、それをテストの点数だけで判断したり、学校も見に行かないなんて状態で、「あの先生はダメ」だとか、「もっとちゃんと教えて欲しい」、「うちの子が○○になったらどうするんですか?」なんて言っていないだろうか。

地域の周りの人たちが学校に対して要望っていうのを述べれば述べるほど

先生たちが疲弊をし、苦しいと思い、何もできないようになっていきます。

それはいろんな人の要望を叶えようとするばっかりにどうしていいかわからなくなって、自分を病んで、本当にこれでいいのかで悩むだけならまだしも、自分自身はもうダメだって自己存在否定にまで堕ちてしまう。


そうして、 終わりのない業務に身を捧げ、時間が取れなくなって、子供を見る時間がまた減って、

子供が不幸になって、その姿を見た親がまた要望を言いはじめて、学校を縛りつけて、そしてまた先生の元気を奪ってしまう。

この負のループがずっと続いているんじゃないかっていう見えてきたのです。


教育は本来、みんなでやるもの

これは、先生たちも改善しなければいけない点っていうのは、確かにたくさんあります。

ですけど、自分のことを棚に上げて、自分には何も教育には関われないって思って、全部学校に丸投げする。

その歪な関係性が巡り巡って子どもたちを捻じ曲げている。


もっと地域や、家庭が子供の教育ってことにもっと積極的に参加し、自分の子供だけではなくて、周りの子も一緒に幸せになっていこうって思ってくれるか?

そのほうが結局、その子自身が幸せになって、学校がとても安心な場所になって、最高の学びができるっていう状態になるんじゃないんだろうかと考えました。

もちろん、地域や、家庭からしたら「こんなクソ忙しいのに無理だわ、何言ってんの」って思うこともあるのは重々承知しています。


でも、実際にやってみたら、確かにみんなそこを求めてた。ただ、どうしていいかわからないから攻撃したり、自分のことを責めたりっていうことをやっているっていうことに気付いてきました。

だからできることからで良い。相手に任せっきりではなくて、自分がどうするか?って視点で考える。教育の当事者意識を持つ。


で、そうは言うけど、じゃあ一体どうやってやればいいんじゃ?と思った時に 見つけたのがコミュニティ・スクールというものだったのです。

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