500年前の光と距離


映画が好きです。ずっと前から好きです。進路を「映画」で決めていたくらいには好きです。
きょうは久しぶりに映画を見ました。スクリーンの中の東京は本当にいいなと思いました。輝いて見える。本物は汚いけど、スクリーンの中の東京は汚くても心がぎゅっとなる良さがある。いつだってそこへ行きたくなってしまう。スクリーンの中へ収められると、大したことのない毎日がなんだか愛おしく見えてしまう。いまある生活が遠くへ行ってしまう。わたしの手のひらの中の毎日。映画は、それがどんな作品であれど映画だというだけで美しいので、映画を見ると必ずいまあるこの毎日は汚いものになってしまう。そのことをどう乗り越えていくかということと戦い続ける人生です。

映画の中で、オリオン座は五百光年離れた星だと言っていた。だからわたしたちがいま見ているオリオン座の光は500年前のものだって。それを聞いて、時間は距離なのだと思った。時間に差を感じる時、それは遠くにあるということだと。

いま読んでいる小説に、わたしは逍ちゃんがいない時の方が逍ちゃんが好きみたいだ、というところがあって、主人公が夫について思うことなのだけれど、最近そう思うことがあって、一緒にいるときに 隣にいるのに話が通じなくて心が通わなくて苦しいと思っても、離れてその人のことを思うときは優しい気持ちになれるというのは、(この小説の中では、その人本人ではない自分の生み出した理想のその人の方が好きということだと気がつき主人公は絶望するが)過去の光が届いているということなのだなと思った。会っている時には届かない優しさ、その人の光。目の前からとっくにいなくなった後で、優しい気持ちや光がようやく届いているのだから、そうだね、目の前にいるけど、そこにいるけど、でも本当はずっと遠くにいるということだねと思う。いない間の方が優しい気持ちになれるのは、その人との距離の証なのだと思った。

わかり合えなくて遠い。でも、わかり合えないから頼もしい。とても遠いから頼もしい。

その人のことはベテルギウスだと思うことにした。いまあるこの気持ちは、ようやく届いたいつかの赤い光。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?