ながた


ながたは大学時代の友人で、3つ年上の同期でした。仲良しでたくさん遊んでいたけれど、3つ年上な分なのか、人としての違いの話なのか、3年生になった頃かその途中かくらいにだんだんと生き方にずれが生じてあまり会わなくなって、卒業まで縁が切れてしまった人です。わたしは縁を切るのが得意で、というか、そういうことをしてしまうタチで、そのことも初めは共有できていたけれど、わたしがすぐに人と縁を切ってしまうこととかに向こうが腹を立て始めた頃から少しずつ瓦解していった気がします。その話をしていた時、通学に使っていた道のどこを歩いていたとかもわたしは覚えている。LINEをすぐに返せないこととか、そういうわたしの人間としての怠惰に愛想を尽かされたといえばそれだけなのかもしれないけれど、わたしはそういう生き方を今もしていて、前からずっとしていて、一度はながたもその人生と交わったのだから同じことだと思っています。過去の自分が嫌になったのかもしれません。

ながたと会わなくなって何年も経つけれど、部屋を片付けていて、わたしの暮らしの中にながたがまだまだ生きていることに気がついて心がすぅっとなることがあります。っていうかたとえば、わたしが今の仕事をできているのも、結構元を正すとながたのおかげです。人間性みたいな部分で影響を受けたことは少ない気がしているけれど、過ごす街とか文化との向き合い方とかそういうものの土台をわたしはながたに作られたので、いまもそこの上に人生が成り立っている気がする。今思えば、わたしもながたに愛想を尽かしていたし、もう箱の中の人だけれど、でもあの人にもらったものはまだ息づいているというのは恐ろしくもありうれしくもあることです。

君に教えてもらったことだって
僕の知識として育ってく

結局はこういうことを言っていることって、詩でも作品のセリフでもたくさんあると思うんだけど、わたしはこの曲のこの詞の表し方が一番好きです。一番しっくりくる。人は変わっていくし、関係も変わっていくけど、影響を受けた時のその人は、わたしの中で、受けた影響とともに生き続けていて、よかったなぁと思う。それが、箱に入れるということかもしれない。

これまでわたしが関係してきた人たち、そしてわたしが勝手にどんどんと縁を切ってしまった人たちの中にも、わたしが生きていたりするんだろうか。どうだろうか。すっぱり忘れてほしくはあるのだけれど、それでも、どこかで過去のわたしが、誰かの知識の中で生き続けていたら、それはなんか、ありがとうねってちょっと思うかもなぁ。


Base Ball Bear 『Summer Melt』
江國香織 『神様のボート』

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