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ア・イ・デ・ン・ティ・ティ

直立不動のメンバーたちの中で一人、振り子のように左右に揺れ続けて止まらない体。

脳で一定のスイッチが入った時、決まって唇を触る指。

他の人たちがひと通り喋り終わったのを見計らって、おもむろに意見を述べ出すタイミング。

平凡な列に並ぶのをよしとせず、必ず何かひとひねり加えて他を唸らせる美学。

振付で腕を振り上げる時には、必ず手の先を仰ぐ瞳と顔。

体の中に流れ続ける音楽を可視化するように、突き動かされるアンコールの身体。

言葉で説明してここに保管しようとすればするほど、ボロボロと偽物になっていっては生の姿を取りこぼす。


しばらくの間、体から排出し、もう一回少しずつ入れることを許してみて、わかったのは、バーノンがいれば私が私を説明することがうんと容易くなるということだ。

私という人間を言葉では説明できない。誰も私が生まれてからこの方どう生きてきたかをつぶさに見ることはできない。どれだけ好きな映画や、音楽や、本を言おうが、それらは体系的な感性のうちのほんの断片にすぎない。しばらくそういったもので私を私に説明しようとしてみて、私はまさしく分解されて散らばったパズルのようになった(しかも明らかにピースが足りない)。

「私はバーノンが好きだ」と言えば、全人類には無理でも、少なくともSEVENTEENをよく知る膨大な数のCARAT相手なら、私がどういう人間かを細かく説明しなくても済む。と期待している。

たとえば私が、場が盛り上がっている時に一人で黙っていても、にわかに立ち上がって何か他の行動を始めてみても、会社なら不審に思われるかもしれないが、CARATの中ならごく自然なこととして受け入れてもらえる。

聞いてもいない突然のうんちく。香水も化粧も好まないスタイル。致命的な汚部屋。いや、もちろんバーノンとは似ても似つかない部分も多い。しかし他のメンバーと比べたらものの数ではない。

(スングァンを除く)メンバーの愛嬌に苦い顔をしたり大笑いしたり、狙いすました胸キュン台詞よりも音楽に全身でノる姿に撃ち抜かれたり、女子特有の「キャ〜!」がやれなかったりしても、バーノンを好きな人という前提があれば、不自然ではない。

バーノンは私の盾だ。私一人では周囲に合わせようとしてねじ曲げてしまうさまざまな私を、素のままではないにせよ、とても楽な状態でいさせてくれる。

「推しはプラスアルファ、日常の彩り、テーブルに飾った花のようなもの」といったファンも素敵だとは思うが、自分の身に置き換えるととんでもない。今バーノンペンでなければ私は常闇の中、自分の輪郭もわからずにあちこちぶつけながら歩いていたはずだ。バーノンは私のアイデンティティにかかわる。(もちろんそれは決して健全なことではない)

だからこそ、本人とどうしても食い合わない性質や(他人なのだから当然)、同じようにバーノンを好きなはずなのにどうもよくわからない相手なんかと出くわした時に、それらへの対処に本当に苦労する。

そういった対処は、今は追い追い考えればいい。一旦大枠として重要なのは、バーノンなしでは私は文字通りバラバラになり、私という形を失ってしまうという事実だ。

(バーノンから離れた、私自身の、本当の“アイデンティティ”を、築こうとは思わないのか?)

(それは目に見えて途方もなく、真っ暗で、どこから始めていいかわからず、恐ろしい作業だ・・・)


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