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自主制作は青春の異名である

BE THE SUN SEOULを見て思いついたことをちょろっとだけ、1000字強程度。

1日目のメントで、ハオがこのライブを「青春」だと言ったとき、私はめちゃめちゃ安心した。
I'm NOT SEVENTEEN anymoreなんて言われて不安がないわけないじゃん。
SEVENTEENはやっぱり永遠の青春! そう確信できたありがたいお言葉だった。

そもそもSEVENTEENはなぜ「青春」なのか? そこにはグループ名やデビュー時のコンセプトだけでない、構造的な理由があるように思う。

「青春」を分析するには、「青春」でないものと比べる必要がある。仮にそれを「子供」と「大人」と置こう。「子供」→「青春」→「大人」と人間は成長する。

まず「子供」は、親や先生や社会のルールの言いなりである。自分の子供時代を思い返してもらいたいが、何でもイヤイヤ反抗する子供って実はませている。たいていの子は親によくしつけられ、学校へ行けば先生の言うことをよく聞く。まだ自我がないので反抗する理由もないのだ。ちょっと自我が芽生えると反抗期がやってくるが、まあまだ思春期ほどじゃない。

対する「大人」はというと、こちらも社会の言いなりというか、もう悟りきっていて社会通念に従って自分のなすべき役割を果たす。駒だなぁ歯車だなぁと、自分が社会人になって周りを見ていて比喩でなくそう思う。仕事の役割、親という役割、社会的な役割をきっちり果たしていかないと社会が回らなくなるのを大人はよく知っている。

じゃあその間にある「青春」は? 彼らは自由だ。友達と遊んだり、部活や趣味に打ち込んだり、校則を破ってやんちゃしてみたり。もっともルールというものから遠ざかっている時代だ。

しかしその一方で、ルールがなければルールを破ることはできないように、彼らはある一定の檻の中にいる。それは学校であり、もっと抽象的にとらえるなら子供の頃から従ってきている社会通念だ。彼らは不自由の中で自由を謳歌している。もし全くルールのない自由なら、彼らはあまりの秩序のなさに不安になり、自らルールを設けようとするだろう。

つまり彼らは安全圏で遊んでいるにすぎないのだ。

SEVENTEENに置き換えれば、自由は「自主制作」、ルールは「アイドル」。アイドルという枠組みの中で、自主制作というおもちゃを使って好きに遊んでいるからこそ、彼らは「青春」なのだ。
もし「アイドル」という枠組みがなくなれば、彼らはたちまちよくできた「大人」のミュージシャンあるいはパフォーマーになってしまうはずだ。

私が長年見てきたジャニーズに目を転じると、故・ジャニー喜多川は“やんちゃ”な男の子を積極的に受からせてアイドルにした。「子供」のように聞き分けのいい優等生タイプではなく、「アイドル」というルールの中で無邪気に遊べる“やんちゃ”さが、「青春」の体現には必要なのだ。

「アイドル」として「自主制作」をする限り、SEVENTEENは「青春」であり続ける。そうである限り、彼らのライブではきっといつまでも文化祭や体育祭のような熱気を味わえるはずだ。

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