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【くもりガラスの銀曜日】わたしはあなたを見ない

P就任55日目(2020年6月9日現在)、シャニマス赤ちゃんのシャニマス『くもりガラスの銀曜日』についての感想です。(Twitterで初見荒ぶりをまとめて、ちょっと文章修正しただけです。だばー)

以心伝心の仲良しといっても「そこまでは踏み込まれたくない」「鍵をこじ開けて入ってきてほしくない」と思う領域はある。
人は「わからない、知らない」からこそ、相互理解を求めて努力する(努力してしまう)生き物だと思うので、「鍵が開かない窓の向こうにある庭」を見ようとはしないことに「誠意」を感じましたね……。そもそも「鍵が開かない窓の向こうにある庭」って「他者の心」の暗喩じゃん。文学じゃん。

何もしないでわかりあえるなら、相手の気持ちがわかるなら「思いやり(想像力)」なんて概念は必要ないんですよ。我彼の境界がないなら、何もしなくてもわかってるんだから。でも、人は鏡がなければ自分の顔もわからない。他者がいて初めて自分が成立する。人間は「人の間」にしかいない。

全部は見えない(見せたくない)。
全部は伝わらない(知られたくない)。
わからないから、見えないからこそ想像する=思いやることが人間らしさなのだということを、銀曜日は描いていたのかなって思います。
「アイドル(偶像)の話」じゃなくて「人間の話」だったなって。

「生きていることは物語じゃない」
『ストーリー・ストーリー』でのこのセリフは、シャニマスがアイドル(偶像)と生身の人間を描くうえでのテーマというか、根底にあるものなのかなって思います。
わたしたちは生きている。
わたしたちは物語ではない。
フィクションとして、コンテンツとして、可愛い絵と可愛い声といい感じの音楽を消費されるだけのものとして生まれてきたわけじゃない。
覚悟っていうか根性っていうか、ある意味、二次元アイドルコンテンツに真正面から喧嘩売ってない?みたいなところも含めて信頼しちゃう。

自分は「人は理解し合えない、だってあなたは私じゃないし、私はあなたじゃない」と思ってる人間なんですけど、だからといって「思いやる」ことは無意味ではない(そういう「物語」があったほうが、人って安心するでしょ?という面もある)のも確かで、だから勝手口という非正規ルートを使えるよと提示されても、それでも「庭を見ない」(他者の心をこじ開けて踏み込まない)ことを選んだのはまさに、灯織の「思いやり」だなって。

わりと時系列があっち行ったりこっち行ったりしてる(と思った)ので、「ソシャゲのイベント」としては不親切だと思うけど、「シャニやってる人間ならこれくらいの文脈と描写はわかるだろ!!!!」みたいな信頼も感じて、シャニ運営に対する気持ちは「この野郎愛してる」です。

小説なら、たとえば

* * *

とかで時系列の違いや物理的な場面転換を示せるけど(とはいえ、これだって、そういう「小説書きのお作法みたいなもの」に慣れてなきゃ突然出てくる謎の記号だけど)そこをソシャゲのなかでやっちゃう蛮勇、愛しちゃいますわ!!!!(突然のお嬢様)

互いの気持ちが「揃う」ってどんなに事前に擦り合わせて確認とっていったとしても、結局のところたまたまうまくいった「偶然の産物」なんですよ……私はあなたじゃないし、あなたは私じゃない。
感情のジャムセッション……人間の即興劇(エチュード)……(ガンギマリ

あと、シャニの「……」って、場繋ぎとかなんとなく雰囲気の「……」じゃなくて、言いたいことがあるし伝えたいことがあるのに言葉が出てこなかったり、呼吸そのものだったり、とにかく単なる「……」じゃなくて人間の戸惑いとか迷いとか息遣いみたいなものを感じる(個人の感想です)

ところで、『薄桃色』の「アプリコット」発言でも思ったんだけど、シャニPちゃん、『銀曜日』でも「以心伝心」「もう知らないことなんで無いんじゃないでしょうか」とか、そういう、アイドルに対する信頼とか無邪気さがたまに時々大変しばしば暴力的なんですけど!!!!お気をつけあそばせ!!!!(お嬢様)

ヘッダー・記事見出し画像:ペイレスイメージズ

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