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臨死体験とニルヴァーナ、そして占い

臨死体験(Near Death Experience)という言葉が一般に知られるようになったのは、ジャーナリストの立花隆さんの同名の本が出てからだったように思います。
最近では、いろいろな方がその体験を本に書いていたりして、読まれた方も多いのではないでしょうか。

木内鶴彦さんの著書も興味深く拝読しましたが、この方は彗星探索でも顕著な業績をあげられた方で、科学者の目、とりわけ天文の専門家の視点から体験を検証しておられる記述が興味深いものでした。

他にも、いろいろな方の体験を読んだり聞いたりしてみると、内容が人によって様々で定型化できず検証が難しくて、それゆえ人によって評価が分かれるようです。

スピリチュアル好きな人の中には、マトリックスという映画になぞらえて、この世界がヴァーチャル・リアリティだと説明される方もあります。
これは面白い例え方だと思うのです。
別稿の連載「スピ話」で書いたように、同じ事象や状況を体験しても、意識状態によって体験の質が異なります。この事に慣れないと、まるで別世界のような違った体験に感じるので、どの体験もがヴァーチャルに思えて、どれが真実(リアル)なのか判別が難しいのです。

臨死状態での体験も、当人の意識状態によって体験の質が異なり、後になって語る記憶内容も、どの意識状態で語るかによって、まるで別世界のように違ってきてしまうようです。

ところで、瞑想をしていると「死」の体験としか言いようのない経験をします。
それは、本に書かれる臨死体験のようなドラマチックなストーリーはないので、臨死体験とは違うと初めのうちは捉えていたのですが、回を重ねるうちにそうでもない気がしてきました。

瞑想によって到達する深い意識状態をニルヴァーナと言います。
涅槃(ねはん)或いは、彼岸(ひがん)とも訳されます。つまり、三途の川の向こう側です。(死んでるって事ですよね。)
ニルヴァーナは、自我が停止した状態、つまり理性だの分別だのが停止して現れる般若(無分別の智慧)による体験ですから、言葉にするのは到底無理なのですが、敢えて言葉にして表現するために自我の機能を少しだけ起動して分別を加えて語るとき、静かで広い水面を見渡すような景色、静謐(せいひつ)と言うのが正にピッタリな様相として表現されるのは、東西文化の差異を越えて普遍的表現になるようです。

この静謐な状態では、時間が存在せず、空間の広がりもまた物理空間としての次元を失っています。つまり0次元(ゼロじげん)の体験と言えます。
0(ゼロ)とは「無」ではなく「空(くう)」を意味します。
無いのではなく、永遠であり無限です。尺度が存在しません。
「空」を観望する、というか体験するというか、(客体を経験する主体という意味で)主体も客体も分別しない「ただ存在する」経験とでも言えば良いのでしょうか。
まさに言語を絶しています。

それでも更に言うならば、次元を絶している以上は全てを内包しているのでもあり、俗に言うアカシックレコードをも内在しています。
その膨大な情報のどの部分を浮上させるかは、意図の持ち方(セット)次第で決まるようです。

そして、その意図が起こると、瞬く間に「空」は「色」となって動き始め、目眩く世界が展開することになります。
あの有名な「色即是空 空即是色」を目撃する瞬間です。
ここに見るドラマはまさに「私」が作り出した世界、私の人生であり私の世界です。

と、このようにシステムの連鎖を見取ったとき、三途の川の向こう側の体験をどのように語るのかは、どの意識状態を選択したのか、また如何なる意図を起こしたのかによって、変わってくるのがこの世界の節理であるのだな、と思います。

占い師としてお客様とお話しするとき(あるいは別の立場で誰かと接するときも同じですが)、通じるように話すには相手の意識に合わせなくてはなりません。
そして、この意識状態は一般に極めて浅いと認めざるを得ません。
一方で、質問に答えるには、本質を見極めるために深い意識にシフトする必要が出てきます。
そして、状況を見極めて、お話しするために意識状態を元に戻そうとすると、状態が違い過ぎて説明困難に陥いる事があります。

瞑想を始めて自我を止める体験に遭遇し始めた頃は、しばしば言葉を失う状態になりました。
徐々に慣れて、新しい表現系を開拓してきた感じがするのですが、それでもやはり初対面の方とお話しすると、受け取り方は人によってさまざまですから、相手の世界に不慣れで説明に困ってしまう自分に気付かされます。

占いには、いろいろな占術がありますけれど、占いは意識状態を浅いままで変えずに、しかも深い意識状態で得られる情報を抜き出す技術であるようです。
それだけに、精神修養はソコソコでも手っ取り早く実用できてしまうお手軽さが重宝がられる訳ですが、抜き出すだけなので得られる情報は部分的、ないしは抽象的で誤差を伴い、解釈の段階で間違う危険性をはらんでいます。
微妙に本質からズレてしまうので、その誤差をいかに埋めるかが技術の巧拙とされているように見えます。

間違わないように、なるべく深い意識で読み、正確に言葉にしてと思いますが、本当は皆んなで深い意識を共有するのを目指したらもっと良いのではないかと思います。

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