僕はボブ・ディランを少しは理解できるようになるだろうか?
Bob Dylanに”Death is not the End”という歌がある。
初めて耳にしたのは、今から30年くらい前。NHKBSの世界の自然をナレーションなど一切なしに見せる番組のBGMで流れていた。
一聴して好きになって、再放送の時に曲のタイトルを見つけ、CDを買った。
”Down in the Groove”。
ディランのファンから今でもほとんど顧みられることのない88年のアルバム。
「エンド・オブ・ライフ」の224ページで、早川医師が「亡くなる人って遺される人に贈り物をしていくんですね」と言うところを読んだ時からずっとこの歌が頭の中で鳴り続けた。
「死は終わりではない」
そこから90ページ足らずを一気に読み終える。
こう書くとディランの歌がきっかけで本書の理解が進んだという流れになるようみえるかもしれないが、全然そういうこともなく、逆に千々に乱れるばかりだった。
一人の死とはなんだろう?
いろいろ考えこんでいた読み終えたその日に、今年の5月ご主人を亡くされた女性のインスタグラムを目にする。
「緩和ケアとは」との文字があった。他の投稿を見ると在宅看護を選択されていたのがわかる。
過去の写真にはご主人の笑顔が沢山あった。ご夫婦で楽しむ姿も。ハンバーガーにかぶりつくご主人の写真もある。好きなものを食べていいじゃないか、と。
訪問する医療従事者にどれだけ救われたか。ご主人亡きいま笑顔で暮らしている。
そういったことが綴られていた。
まるで、この本に出てくる森山夫妻、篠崎夫妻、渡辺西賀茂診療所のみなさんが目の前に現れたようなそんな気持ちになった。
と同時にいくらか目の前が晴れたようにも思えた。
ディランのこの歌の詞を何度読んでも、実のところ彼の他の曲同様なんだか意味はわからない。
けれど、切々とあるいは朴訥と口ずさむディランの声に僕は心奪われる。
同じように「エンド・オブ・ライフ」を読み終えたいまも、僕は死あるいは死に様というものをよくはわからないでいる。
ただ、二つの言葉が心に強く刻まれたことははっきりわかる。
「亡くなる人って遺される人に贈り物をしていくんですね」
「生きたようにしか、最期は迎えられないからね」
遺される人に贈り物が出来るような死を迎えたい。
そういう死を迎えるには、周囲に贈り物を常にできるような生き方をしなければならない。
漫然と生きるのではなく、漠然とではあるけど生き方の目標が少し見えた気がする。
それは思い過ごしかもしれないが、この本を読まなければ感じることのなかった思い過ごしであることも確かだ。
沢山の人に顧みられることがなくともいいじゃないか。
受け取ってくれる人が少しでもいるのなら贈り物を贈り続けよう。
”Down in the Groove”。
ディランのファンから今でもほとんど顧みられることのない88年のアルバム。
その在り方が今ではひとつの素敵な生き方にも思えてきた。
人とは不思議に変化するものなのだな。
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