福音の働く場を体験する。

多摩教会では、私の目の前で、

「本当に神様が生きて導いて働いていらっしゃる」としか思えない出来事が次々と展開されていった。


「その場」にただいるだけで、聖霊の流れる暖かい雰囲気が不思議なタイミングで不思議な出会いを生み、そして、喜びが生まれる。


洗礼者の語る証、証、証、

そこら辺を歩いてそうなふつうのおっさん、おばさんが、

喜びと平安に満ちた顔で、

「はじめて教会に来た時は苦しみ、絶望し、ひどかったけれども、今は救われて喜びに満ちています。」

と、壮絶な体験と救いの喜びを口々に語られる。

それらは、どれも、「これ本当に言ってる?盛ってない?」というほど、喜びの体験に満ちていた。

彼ら彼女らは、「本当に」喜んでいた。

言葉が思わず、あふれ出し、証をせずにはいられない。


「今まで全く知らなかった世界だった」というよりも、

人間だれしも、本当は心の奥底で本当に望んでいて、本当は「知っていた」在り方なのだと思う。

見失った人間の本当の在り方に「戻ってきた」だけ。

私は私のままでどこまでも深く愛されている。

そして、私たちはみんな一人残らず深く愛されている大切な仲間であり、兄弟姉妹、ひとつの家族。


「なんだ、こんなことか。こんなシンプルで単純なことだったんだ。」

とその場に来て気が付く。

そして、なぜかわからないけれども、安心して目に熱いものがこみ上げる。

それが、恐れやら、疑いやら、心の傷やら、自分と他人を分けて分断することで、戻れなくなっている状況が生じていただけ。

私たちは、物事を、頭でつい複雑に考えすぎることをやめられない。

自我が生み出した雑草のような恐れや欲望は、心に生い茂り、

もはやあのシンプルで素朴なただ、愛だけが交わっている平和の場所に戻ってくることはとてもでないが自分一人ではできない。

こうした愛の場を心の奥底では深く熱望しながらも、

一方では、冷え切った心があり、「人間なんてどうせ裏切るんだ」「私のような人間はいてはいけないんだ。」と、

水と油のように反発をする。

そして、結局は、愛や信頼を「きれいごとだ」と断じ、背を背け「ついていけない。」「無理だ。」と。

神の丁寧に愛情を込めたあの命をもたらす言葉も、単なる抽象的で理解しがたい遠く離れた概念になり果てる。


こういうことを、キリスト教では、「罪」と呼んでいる。


これを書いているただいま現在も、私はそうした罪の誘惑のうちにあって、戦っていた。


しかし、イエスは、望まぬ悪を行い、人を裁き、傷つけ、憎しみを抱き、恐れ、自己嫌悪に陥り、心を閉ざし、自分では何一つ善いことを行おうとしてもできない私のところに来て、そのままの自分を愛してくださっている。

触れられたくない押し入れのうちの傷や暗闇のただなかに来て、

扉を開き、安心の世界へと連れ出してくれるのだ。


愛の交わりが支配する「福音家族」において、

「あれ、私は何を怒っていたのだろう、何を憎しみを持っていたのだろう、何を恐れていたのだろう。」

と、

罪のうちにとどまることが難しくなる。

それらの感情にしがみつき、とらわれる必要がなくなったからだ。


それこそ、「思わぬところ」から、有無を言わさず押し流されるようにして、

涙と共に、心のわだかまりが、流れていく。


私は、その場においては、何か不思議と「別の者」になったようだ。

いや、浜辺の泥だらけの濁った水たまりに打ち上げられていて、そこでしか生きることのできなくなり窒息しかかっていた魚が、もともといたところの大海の水に戻されて、

「水を得た魚」ではないが、

何の重荷もなくなり、「本来の自分」として自らを生き生きと表現することができた。


キリスト「教」というのは、きっと間違いだ。

イエスは、あまり方法論や説明を説かなかった。

「私のところに来なさい。」

と、「共に交わること」を大切にした。

ストレートに、「あなたはすでに救われている」「大丈夫だ、私だ」と「宣言」した。


教会という特定の宗教を信じている人々の集まりだけでなく、

職場でも学校でも、まごころの愛がその場にいる人を本来の姿に戻らせるような働きをしていたら、それはもはやそこに神様がいるといってもいい。




多摩教会での晴佐久神父は、主に、奄美の無人島でのキャンプのことをよく話してくれた。

以下は、話のメモから起こした内容である。



心の病を抱えた人たちのためのキャンプを一週間開催している。
人間関係は得たものではなく、与えられたもの。
キャンプには、精神科のお医者さんも全日程参加した。心を病んだ人たちを集めて神の国をつくる。
スタッフ同士でけんかもあったが、「神が結び合わせたものを人は離してはならない。」
ジグソーパズルのように、どれが上でというわけでなく、すべて必要でどれが欠けても成立しない必要な存在。排除や無視は簡単。つながらないともったいない。神の国が現れない。組み合わせで思いもよらないような絵が現れる。神の言葉を信頼して、全体がつながるように工夫することが大切ということ・・・。


キャンプにプログラムはない。決まったプログラムに合わせて全員を合わせると、一人一人が見えなくなる。毎日ミサをやって、あとは自由。神様のシナリオに任せる。


絶望に見えることも、赤ちゃんが泣いているようなもの。この世の終わりに見えるだけ。私たちの一生はほんの一ページでしかないということ。


私の18切符も「神が与えている」。そして、たどり着くところは知っておられる。神様に必要な恵みは与えられている。


心を病んだ人にこそ、イエスの目に慈しみのまなざしが向けられている。
神さまの姿は実は見えている。このキャンプをやっているということ自体がキリストの身体であるということ。神は空中からは語られない。人を通して語る。


ジグソーパズルでも、「なんでこんな形なのか」と思っても、ちゃんと訳があってそうなっているのであって、頑張って変えるとかえってダメになる。ご縁というものの、理由は分からない。人にはわからないけれども、神にしかわからない理由がある。性格だって一致していたら気持ち悪い。信じるならばものすごい力が出てくる。



「最近の若者の宗教離れ」ということが言われているが、実はどの時代も若者は本物を求めている。どの時代にも、80年スパンで、腐敗や硬直は生じる。始めは純粋であったものも、システムを作り、ルールを作り始める。「本来の宗教」でないものに見切りをつけて、「王様は裸」を言い始める。私は、若者に本物を見てもらいたい。


人間の闇なんて、前頭葉の作り出したものにしかすぎず、神の結んだ世界とは真逆のもの。
変えられないことを変えたいというが、「変える必要のない」という信仰は大自然で与えられる。



・・・今まで、こんな話をしてくれた人があっただろうか。

蛇口をひねったらワインでも出てくるように、

晴佐久神父の口からは蛇口を開くようにとどまることなく福音が溢れ続けた。

神父自身の魂が、すっかり、無尽蔵で尽きることのない神の智慧の海にコネクトされているので、口を開くだけで、聖霊が語りだす。

その祈りの極致が、

「天の父よ、あとはよろしく。」である。

そして、「丸投げ」「寝る」「無責任」という姿勢であり、

その完全に委ね切って自然体の状態において、

聖霊は最も大きな働きをすることが出来る。

その信仰が、いかに天の父を信頼しきっているかがわかる。


もし、彼が、誠実に、まじめに、立派に、やろうとして、

神の前に立派に立とうとして頑張っていたら・・・

そこまでだったかもしれない。

蛇口からは、自分で貯めた水くらいしか出なかっただろう。

彼は委ね切ることによって、そこからごくごく自然に神の愛と力が何の差しさわりもなく流れ出すような働きが出来たのだろう。









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