讃岐篇10 八十八ヶ所結願!
幕屋での体験はそれまでのいろんなことが「一つにつながった」以上に、まったく別世界の経験だった。
その当時は、その感覚を自分の中でもうまく受け止めたり咀嚼することが出来ずにいた。
72日目。
Oさんから電話番号をいただき、順当にいくと翌日に88か所を打ち終えることを伝え、迎えに来てもらうことに。
84番屋島寺、85番八栗寺、86番志度寺は、ものの14キロ。
源平の合戦の「屋島の戦い」というのがあったが、その舞台の屋島だ。
屋島寺では、社会見学中の小学生のグループに声をかけられて、ガイドを受ける。
とてもかわいいものだ。
ハガキを渡されて、せっかくなので、四国遍路中考えたいろんな仏のゆるキャラを描いておくる。
「ねこだいし」
「小日如来のこにちゃん」
「十手観音」
「薬師如来見習のやっちい」
「子阿弥陀如来のアミ」
「不動明王子のフドウ」
「釈迦如来のしっだるた」
「観音見習のかのん」
教室で「すげー!」とみんな集まってきている姿を想像しながらニヤニヤ。
おもわず、自分の脳内で彼らが生き生きと動き出してくる。
何か物語を書きたくなってきた。
仏教ワールドってめっちゃアニメや漫画と相性いいんじゃない?
いや、日本人は昔から想像力を豊かに働かせて、こうした目に見えない超越的な存在がいつもそばにいると思ってたんじゃないかなあ。
余談だが、「アニメ」の語源はラテン語の「アニマ」。これはギリシャ語で「プネウマ」、ヘブライ語の「ルアッハ」。つまり、「霊」であり「息」なのだ。
漫画やアニメに救われた人っていると思うけれど、やっぱりあれ、作者さんが魂を込めて描いた「ひとつの生き物」でもあると思う。
そう考えると、人格を架空の世界に創作して人の心をつかむ漫画やアニメってひとつの神事であり、またそれはひとつの「現実」を創造しているとも思う。
ちなみに、『シャーマンキング』の作者がすでに『仏ゾーン』という作品で、仏教界の仏たちを主人公にした漫画を描いている。
仏教は「かっこいい!」
そんなことをキリストの生命に触れた日に考えてにやにやする私であった。
後日、小学生たちからお礼のハガキが届いた。
「先日は、私たちのガイドにお返事をいただきありがとうございました。
返事がたいへんおそくなりすみません。」
「お返事を返してくださった上、可愛い絵がかいてあって、とてもうれしかったです。
「元気が出ました♪」とかいてあって、私も元気が出ました。」
「先日はありがとうございました。はがきにかいた絵の横に「私の仲間です」とかいてあって本当に仲間のようでした。」
この前のガイドの時、「えらいね」や「がんばってるね」といってくださってありがとうございます。
四国遍路は88番までいけましたか。ぼくも、大人になったら四国遍路をしてみたいと思います。」
とても嬉しくなった。
子どもにまっすぐ声をかけたり優しさを配ればストレートに伝わって返ってくる。じいんときた。
あの子たちは、今頃高校生か大学生だろうか。
是非、四国遍路に挑戦していてほしい。
そして、何かのきっかけでこの記事を見てくれて、
「私があの時の子どもです!」なんて言ってくれたら嬉しいな(笑)
さて、この長かった旅も最後の一泊。
2014年10月20日。
73日目。
平均に比べてものすごく遅いゴールだったかもしれないが、
「半年か一年」と夜回り先生に言われ、まあ三か月経った。
これでも十分長かった。
87番長尾寺。
遍路センターを見かけ、今まで歩んできた道のりを振り返っては感慨にふける。
すべての一期一会の出会い、記録しきれないほどの無数の思考、いろんな思い出、風景、暖かさと孤独、様々な出来事がよみがえってくる。
徳島や高知や愛媛で一緒に歩いていた人たちの名前がノートに記してある。
「そうか、よかったね」とじいんとくる。
2014年は、高野山開創1200年記念ということで、キャンペーンもやっていた。
こんなタイミングで歩きで遍路が出来、しかも88ヶ所歩きとおせるなんて、見えない力が私を導いていたとしか思われない。
改めて深い感謝をささげる。
さあ、最終難関は女体山。
その名前とは裏腹に、四国のラストを飾るにふさわしい険しい山道が続く。
岩肌の見える崖もある。
幕屋で覚えた、
「天のお父様!」という祈りを山の中で絶叫しながら、思い残すことのないように、最後の力を振り絞って、88ヶ所大窪寺まで駆け上がる。
どうか、神様、私と出会ってください!
この旅が無駄でなく、たしかにあなたが私を導いて不思議なわざをなしてくださることを確信させてくださいと、祈るように一歩一歩汗だくになりながら。
もう、これで歩くことはなくなるんだ。
杖はどれくらいすり減っただろう。
御大師様、姿は見えなかったけれども、私と一緒に同行二人してくれてありがとう。
アメノミナカヌシ様、大日如来様、いろんな神様仏様、ご先祖様、守護霊様、指導霊様、
ずっと祈ってきましたが、受け止めてくれましたか?
色々な出会いとご縁を作ってくれてありがとうございます。
そして、イエス・キリストの神様、私が出会う前からあなたは私に出会ってずっとそばにいてくださったのですね。
大窪寺の山門が見えてきた。
門をくぐり、汗だくになりながら、「ついにここまでやってきたぞ!ありがとう、ありがとう!」という気持ちで、仏前に向かう。
大きな声でこれまで何百回も唱えてきた、開経偈と般若心経と光明真言と南無大師遍照金剛を悔いのないように唱える。
仏前で立ってお経を読むのも恐れ多かったので、私はコンクリートの地べたに座って正座をして、深く額を地面につけるまで一礼してから、大きな声で心を込めて心経を祈る。
多くの他の集団参拝客がこちらを見ていたが、もう、そんなことは気にしていられなかった。
「これが俺の祈りだ!これが俺の信仰だ!」となりふり構っていられない。
祈るとは、ただ形式に従って自分でも意味の分からないお経を読み上げることでご利益を得ようとすることではなく、魂そのものを真言によってその生命の根源に向かって注ぎだすことだ。
そして、すでに自分自身が生命のうちに捕らえられて生かされていることを全身で受け止め、感謝し、さらにこの生命に全身全霊で飛び込んでいくことなのだ。
手島先生の講義の中で、
「生命」についての三つの言葉があることを知った。
「ゾーエー」が永遠の命、
「プシュケー」が生物的命、理性の活動、精神、小我
「ビオス」が富、生活、くらし、生計
プシュケーを捨てる時に、ゾーエーを得ること、これが信仰なのだということを、手島先生は机をどんどん叩きながら説いていらっしゃった。
信仰とは学ぶことではなく、生ける神、全能なる愛なる神と「ともに」生きることなのだ、と。
「なりふり構わず本気で叫びだすように祈ってもいいんだ」
そうしたことを、幕屋は教えてくれた。
先達さんが、
「みなさん、この青年みたいに、大声でお経は唱えなきゃいけませんよ!」
とニコニコ顔で言ってくれた。
祈り終わり、深い一礼をして、御朱印と1200年記念の賞状もいただく。
「結願ですか。おめでとうございます。」
と声をかけられる。
とても、すがすがしい気分だ。
十月下旬の青空のように自分の目も心も澄み切っていることがわかる。
三位一体開運法は、ちょうど900回。
「私は愛と光と忍耐です」「アメノミナカヌシ様お助けいただきましてありがとうございます」合わせて51400回唱えた。
ちなみに、
口の中に金星が飛び込んでくる体験もなかったし、
崖から飛び降りて天女が私を救ってくれたということもなかった。
仏や神の姿が見えたとか、声が聞こえたとか、天上界の様子を垣間見たとか、そんなことはなかった。
自分自身の悩みや考え事がなくなることもなかった。
けれども、
一言では言い表せないほどの、数えきれない優しさと体験と出会いがあった。
最高だった。
偶然にしてはできすぎだろうというタイミングでの出会いもあった。
大死一番、「死国」遍路でのゴールは結局のところ、キリストだったのだろうか。
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