少し長いあとがき

*5月に刊行する『橋本治「再読」ノート』(破船房)から、「あとがき」を転載します。

 橋本治さんについて、いつか一冊の本を書かなければならないと思っていた。
 この本は(私が定義した)橋本治の「中期」に書かれた評論的エッセイを中心とする著作についての、試論までも行かない読書ノートである。ちゃんとした橋本治論にするためには「前期」と「後期」についてそれぞれ相応の分量の文章を書かなければならないし、小説作品にも触れなければならない。でもそれを書き上げるにはまだしばらく時間がかかる。そこで、すでにウェブ連載というかたちで発表機会のあった分だけを切り出して刊行するのが本書である。
 この本をつくっている過程で、橋本治をめぐって三つの大きな出来事があった。一つは千木良悠子による、『はじめての橋本治論』(河出書房新社)という優れた評論が出たこと。二つめは柳澤健による本格的な橋本治の評伝「ぼくらのふしぎな橋本治」が『小説宝石』誌上で連載開始になったこと。そしてもう一つが、神奈川近代文学館に収められた橋本治の遺稿や未発表作品が「帰ってきた橋本治展」(会期:2024年3月30日〜6月2日)で公開されたことである。
 千木良さんの本は、これまで精密に読解・批評されることのなかった橋本治の小説作品についての、文字通り「はじめて」の本格的評論である。柳澤さんは初期からの橋本さんの活動を間近で見てきた、いわば歴史的証人の一人である。そして神奈川近代文学館での展示では、本書のなかでも少しだけ触れた橋本治の未発表作品『少年軍記』の冒頭部分の原稿と、この作品が中断・未発表におわった経緯を知ることのできる、当時の担当編集者への書簡の一部が公開されていた。橋本治という小説家についての研究や批評は、これらの土台の上で、いまからようやく始まることになる。
 私にとって橋本治という魅力的な書き手との出会いは、高校時代に読んでいたマンガ評論の雑誌『ぱふ』の誌面上だった。その後、『シティロード』という雑誌の編集に関わるようになったとき、初めてインタビューでお会いした。インタビューが終わったあとに三時間くらい雑談の時間をつくってくださり、「他人の言葉に頼って雑誌を作ってちゃダメだ。雑誌をつくっている者自身の「声」が聞こえないなら、雑誌をつくる意味なんてない」と言ってくれた。
 この言葉に背中を押され、『シティロード』のなかに小さなコラム欄をつくり自分でも書き始めた。橋本さんのこの言葉がなければ、私が文章を書き始めるのはもっと遅くなっただろう。
 以後、『ワイアード日本版』では音楽家の大友良英との対談をしていただき(『シティロード』の同僚だった原雅明くんの企画)、『季刊・本とコンピュータ』では「産業となった出版に未来を発見しても仕方がない」という文章を寄稿してもらった。前者は単行本などには未収録だが、後者は平凡社ライブラリー版の『[増補]浮上せよと活字は言う』に収録されている。
 生前の橋本さんに最後にお会いしたのは、二〇一七年にインターネット上の企画で「最後になって突然、天皇の話が出て来たぞ!」という長い講義動画を収録させていただいたときだった。この動画はいまでもネット上で視聴できるほか、一部が『そして、みんなバカになった』(河出新書)に《超講義録 橋本流「教育論・仕事論」》として収録されている。四〇年近い編集者人生のなかで橋本さんに実際にお会いしたのは五、六回しかない。それでも私にとっては最大の恩人であり、師であった。
 これからの読者に向けて橋本治についての本を書くことは、橋本さんへの恩返しであるだけでなく、バトンを未来に渡すことでもある。なぜなら橋本治はつねに未来を──そこでならば自分も生きていけると感じられるような未来を──つくり出すために、あれほどたくさんの本を書いたのだから。
 このささやかなノートが、これから橋本治の文章を読み始める人にとってなにかの助けになればと思う。

 二〇二四年春
 著者記す


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