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Kさん【短編】

Kさんに声をかけられたような気がしました。
私は答えました。
「私は」
そこで目が覚めました。
あの時もこんなふうに目が覚めたのでした。
あの時というのは、お医者さんに大量の睡眠薬を貰った日です。その時の夢でも、やっぱり私はベッドの上にいました。そして、同じ質問を受けたのです。
もちろん、私が答えようとしたところで目が覚めましたが。
あれから一年あまり経ちます。
その間に何度も死のうと思いました。Kさんに急かされているような気がして。でも、死ねませんでした。

昨夜もいつものように大量のお薬を服毒し、昏睡状態に陥りました。
また、不思議なことにKさんが尋ねてきます。
質問を受けて、私が答える前に目が覚めるというのがお決まりのパターンです。
今日はいつもより、いっそう急かされている気がして、必死になって目を閉じました。
すると、閉眼幻覚の中に、ぼんやりと私の顔を覗き込んでいるKさんの姿が見えたのです。
「よかったです、あと、」

気づけば私はいつものように、大量のお薬を服毒していました。Kさんはもうそこには居ませんでした。私は、再び眠りに落ちていきました。

次に目が覚めた時、Kさんは私の目の前に立っていました。でも、Kさんは私に一言話しかけると、煙のように消えてしまうのです。私には、それがどういう意味なのか分かりません。
ただ自分の体が腐っていくのは、少しいやだなと思いました。なにか未練があるわけではないけれど。
ああ、でも一つだけ心残りがあるとすれば、またKさんと映画館に行きたかったです。

ふと、急に、あんなに嫌いだった職場に行きたくなりました。
私は会社に行くために身支度を始めました。
見渡す限りの白い空間が広がっているだけで、他には何もない、地面すらあるか怪しい世界を歩きました。Kさんと会うときは、いつもそんな気分だったな、と思いました。

Kさんに、私は言いました。
「ごめんなさい、待たせちゃったみたいですね」
「いいよ、そんな。」
想像していたよりも、生きていた世界はせわしく、常に焦り続けています。急かしていたのは、現実の方なのかもしれません。
私の左目がぼとっと抜け落ちました。
でも、痛みなんてありません。
私は左目を篩骨洞にはめ込んで、Kさんの方を向きました。
Kさんはもういませんでした。
私は途端にさびしくなりました。

職場に着きました。いつもの作業場で、家主さんが電話とっていました。どうやら、私のことを話しているみたいです。
怒っているのか、悔しがっているのか分からないぐらいの声量でした。
あの野郎、と言ったあと、三万円を封筒に詰めていました。
工場のベルがなり始め、みんなが部屋に戻っていきます。私はいつものように映画館に行きたくなりました。
Kさんはもう待ってはいないのに。

今度は、いつもよりも道が明瞭に見えました。
いつもの場所には、Kさんではなく、ウイスキーを片手に持ったおじさんが座っていました。
映画館には、文字通り私と同じようなお客さんがたくさんいます。
みんな揃って、いつもと比べて早送りされた映画を見ていました。
私は、席についてスクリーンを眺めながら、Kさんのことばかり考えていました。

「珍しいじゃないか」
そんな声が聞こえた気がしました。
私は、Kさんに向かって微笑みかけたことを思い出しました。
いつの間にか、涙が流れていました。

さっきのウイスキーを持ったおじさんでした。
みんなさびしい訳じゃなさそうなのに。

「私だってそうだ。みな、自分を保とうと必死になって昔を真似る。酔おうと思っているから、酔えるのであって、それによってありのままの形を維持できているのだよ。でも、君は違うじゃないか。保とうとしていないから、もう新しい皮膚は出来ないし、水も飲めない。」
「あなたは違うのですか。」
「ああ、だからこうやって君と同じ時間を共有出来ることが嬉しいんだよ。」

私の1日が、Kさんにとっての10日であったように、未来は私をずっといじめます。それも、こうなってからは更にひどくなりました。

おじさんの話を聞いて、いつか終わる時間なのかな、と思いました。
Kさんに会いたくてたまらなくなります。
でも、きっとそれは叶いません。
なぜならば、私がKさんのいる場所へ辿り着く頃には、Kさんはいなくなっているからです。
そしてまた、私は一人になるのです。

Kさんは、少なくとも私にとっては死んでしまいまったようです。
もういないのです。私は、その事実を受け入れることをずっと拒んでいました。
Kさんと映画を見なくなって1年間、人生は途端に変わってしまったのかなと思います。
Kさんの幻想も、私を急かしたり、焦らしたり、なんだか、意地悪でした。
虚構も現実も、同じくして変わってしまったように思えました。
ただ、Kさんを思う気持ちだけは、いつまでも変わらないままなのです。

缶コーヒーを1本盗みました。スチールの冷たさは、Kさんの手のようでした。
あの人について考える時間も限られたものなのなら、生きたいな、と少し思いました。だから、苦い味が感じられたのです。

私の右目はもうすぐ取れてしまいます。もう遅いのかな、と悲しくなりました。
私がKさんに恋をした日と同じように、幻想につつまれます。

いつもの場所に戻ってみました。
私はKさんを待ち続けました。意味の無いことであると知りながら。
しばらくしないうちに、私の右目は完全に落ちてしまいました。
私はもう何も見ることが不可能になりました。それでも私は、Kさんを待つことにしました。
Kさんを待つことは、立つので精一杯な私にもできました。
そうして私は、Kさんを待ち続けました。

私はKさんのことを愛しています。
私はKさんを思って、Kさんのために祈ります。
Kさんが私を思ってくれたように。

この世界が終わってしまうとしても、私はKさんを想い続けるでしょう。

私の体は徐々に腐っていきました。

そうして、意識は闇に溶け込んでいきました。
もうKさんを思い出すことさえできません。

幻想のあなたを見ていたさびしさだけが、この空間に共鳴するのです。

誰かが私に尋ねてきました。
こうやって、何かに誘われるのも、本当に久しぶりなことで、ちょっぴり驚きました。
ただ、こんな世界で私を見つけても、体さえなくなってしまった状況ではどうしようもないです。
名前も知らない人と一緒になるのは、なんだか怖い気もします。

ただ、映画館ぐらいなら行ってもいいな、と思いました。

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