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鈴木大拙に「体用論」はあるのか? ~小川隆氏の体用論~

更新 2024.9.4

 はじめに、鈴木大拙だいせつは、二分性の分別ふんべつを凌駕する「無分別むふんべつ」「不二ふに」「即非そくひ」の解説者です。世界を固定的に「体」と「用」とに二分して語るようなことはあまりしない気がします。体用たいゆうを語るときには、むしろ、「体は用で、用は体だ」と、回互えご的に語るのが、普段の大拙の語り口です。
 ところが、「禅思想史講義」(春秋社、2015年発行)で、著者の小川隆氏は、「大拙の体用たいゆう論」という節を設けて、以下の図式を提示しています。

≪体≫一人いちにん」-「超個」「法身ほっしん」「宇宙霊」「無分別」「唯一」-「応無所住おうむしょじゅう」-「真空」

≪用≫「某甲」-「個」「現身」「己霊」「分別」「個多」-「而生其心にしょうごしん」-「妙用みょうゆう

「禅思想史講義」第4講 「無」と「近代」、4. 禅と近代文明、大拙の体用論

 しかし、このように図式に整理してしまうと話がすべて知性的になって、霊性的要素が失われてしまいます。大拙の霊性思想を解説するときには、このような知的で二分的なモデル化は避けた方がよいです。大拙がよく言う「無分別むふんべつ分別ふんべつ」が失われて、ただの分別になってしまうからです。

 小川先生は広く大拙の著作を研究して、これを大拙の思想として紹介しているのだと思います。ただ、筆者の読書範囲は限られていますが、大拙自身がこのような体用論を展開している文章は、見たことがありません。そもそも、「体用」と2字を繋いだ表記自体、殆ど見かけません。

 上の図式では、小川先生は、「個は用で、超個は体だ」だと書いています。一般的には、体は本体で、用はハタラキですね。あるいは、体は静で、用は動だと説明されることもあります。また、大拙自身には、体を平等に当て、用を差別に当てる説明はあります。いずれにしても、大拙が体用を言うときには、そのような定義が固定化されないように、注意深く説明されています。

 小川氏は、大拙の体用論と称して独自の体用論を提示したあと、大拙全集第13巻収載の『禅の思想』第二篇「禅行為」の冒頭の約2ページを引用し、これを以下の四か条に要約しています。

(1) 「禅」は単に「無知の知、無分別の分別」にとどまるものではない。
(2) したがって、「禅」を修める者には「知識・思想・反省」が必要である。
(3) 「禅」の「無分別の分別」は現代の実社会に対して有効である。
(4) 「無分別の分別」は現代社会の運営に必要な諸「分別」をよく機能させる「原理」だからである。

「禅思想史講義」第4講 「無」と「近代」、4. 禅と近代文明、大拙の体用論

 このように要約した後、小川氏は、「無分別の分別」「原理」が体に相応し、「分別」「知識・思想・反省」が用に相応すると解説します。確かに上記の (3) の段に「用」の文字は出てきますが、それは行為の意味であって、別に体用論ではありません。小川氏のこの要約は、原文を4段に分けて、それぞれに小見出しを冠して並べただけのもので、大拙の意図からは少し外れているような気がします。(4)項は、特に分かりにくいです。

 同じ部分を私なりに四か条に整理すると以下のようになります。

(1) 「無分別むふんべつ分別ふんべつ」が禅の論理だと言うと、禅には倫理も宗教もないと批判されやすい。
(2) 禅宗にも知識・思想・反省は必要で、禅宗の徒も思想を軽視はしない。
(3) 「無分別の分別」は単なる思想でなく、を意味し、禅は、社会生活の上にも政治の上にもある。
(4) 禅が提供するのは一定の理論・思想・指導方針ではなく、「分別の思想を働かす原理」だけだ。この原理を、の上では「無分別の分別」と呼び、の上では「無功徳むくどくの功徳」または「無用むゆうの用」と呼ぶ。

筆者の修正案

 上記で、大拙の意図は正しく伝わると思います。ここに、大拙の体用論たいゆうろんはまったく出てきません。大拙は「思想を働かす原理」と言っていますが、これは、人々の考えを利己的・独我的でない無功用行むくゆうぎょうへ導く「無功徳むくどく」を意味します。そして、「無分別の分別」が禅の論理で、「無功徳」が禅の原理・行為であり、また「無分別の分別」の行為だと、そういうことになります。

 何をするときにも見返りを求めずに、さらさらと行う。そして、社会の必要に応じて、茶を入れ、掃除をし、会社勤めをし、また国政を動かしていく。ここに、無功徳の原理を活かし、社会で何をするときにも、何を考えるときにも、「無功徳で行え」と。これを大拙は、「思想を働かす原理」と表現したのではないでしょうか。

 最後に、日本的霊性初版の第五篇に収載された「金剛経こんごうきょうの禅」の中に大拙自身による体と用の説明があるので、以下に引用しておきます。

 仏教では体と用とを分けることがある。体は理に当たり、平等に当たる。用は事に当たり、差別に当たる。そういうことに見てもよい。禅では、体と用とを言葉で分けるが、事実は一つであるとして「体用一如たいゆういちにょ」という。これが臨済りんざいの場合になると「全体作用」(本体まるだしの発動)という語を使う。用がすべて体であり、体がすべて用である。

【金剛経の禅】、六 禅概観、3. 体用・四料揀

 現前の世界に区切りはありません。どれが体でどれが用だというのは、概念上だけの仮の切り分けです。それで大拙は、いつでも、用語を哲学的に緻密に定義せずに、矛盾を恐れず、文脈ごとに、その場その場で融通をつけていきます。

 小川氏は、上記著作の他にも、鈴木大拙の名著「禅の思想」文庫本(2021年3月、岩波文庫)の解題にも、「大拙の体用論」を示しています。ですから、大拙に本当に体用論があるのかどうかについては、私も更に気をつけて見ていきたいと思います。なお、小川先生の「禅思想史講義」は、中国から日本までの、禅思想史のアウトラインを学ぶのには良い書だと思います。

2022.10.24
Aki.Z



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