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「ケイコ」に習い、僕ら目を澄ませよ。


それは11月末のことだった。やや収集癖のある我が父が、家に持ち帰り、レコード収納(あるいは収集)箱の上にふわりと、1枚のチラシ置いたのが始まりだった。そのチラシを手にとり眺めると、女の子がいる、そして左端に「逃げ出したい、でも諦めたくない」とあるではないか。うん、わかる、わかる、アイ・アンダスタンド、ザッツライト、というか全部そう。

女の子は顔を歪めているのか、ふてくされているのか、いや少しケガをしている。大きな明朝体活字で「ケイコ・目を澄ませて」と書かれた映画タイトル。これがケイコとの初対面であった。

12月16日、公開初日、父とテアトル新宿へ向かう、18時45分の回を観た。エンドロールが流れたあと、あまりの傑作に出会ってしまった時の特徴というのだろう、軽く3分は硬直した体が自由に動けなかった。そうあることではない。

そのあと、12月28日と1月11日にも、テアトル新宿で「ケイコ」を観た。この2回は、上映後の「舞台挨拶」がついていたのだ。

生まれつきの聴覚障害で耳が聞こえない、プロボクサー・ケイコの葛藤を、16mmフィルムで捉えたこの映画は、監督が「三宅唱」、ケイコを演じたのは「岸井ゆきの」だ(僕が心から尊敬する役者の1人)。

舞台挨拶に登場したのも、この2人だった。しかし、映画に出演していた役者は、岸井ゆきのと思えない、というか女優・岸井の印象がわずかどころか、その影さえも、隙間にもどこにも感じられない、岸井に瓜二つのケイコそのものだった。

そして、舞台挨拶でケイコの話をする岸井ゆきのは、ケイコの一部分が生体内の細胞膜に住みついてしまっているかのようで、ところどころ表情に、ふわっふわっと顔の奥から「ケイコそのもの」が押し出されて来て、それを隠すことなく、僕らに輝く恍惚として見せる。あれはわざとなのか。

ほんの一瞬、1秒にも満たない一瞬だけなのだが、それを目撃してしまい、僕は身震いが止まらなかった。本物の美術を真剣に目玉ぜんぶで鑑賞したときの、喉元をつかまれて潰されそうな、狂気に破壊されてしまうかもしれないあの怖さに似ていた。

もろびとこぞりて、という言葉があるが、まさにそれで、ひとり残らず誰も彼も、「ケイコ・目を澄ませて」を観てほしい。まわりに僕はそう言いたい。心からのお願いにやって参りました、どうかどうか、と言ってまわりたい。

映画を観ること、生きること、立ち向かうこと、流されそうになってしまうこと、これらは断じて損得で計算されない最良の精神、そのことを16mmフィルムの映像で僕は観た。下町に流れる荒川はそしてときどき臭くなる。

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