Nobody knows why I can't "live".

秋田大学文芸部にいたころの、部誌に出した話です。
海王星にひとりで向かう宇宙飛行士のお話です。盆暗です。
もう文芸部に関わることもないと思うので、公開しておきます。

当時書いた蛇足はこちらです
https://note.com/soichi_yoshikawa/n/n38ada03dfec2
読んでいただき、ありがとうございます。

 要するに重力というものは無いほうがよい。
 例えばコーヒーを運搬する時であるとか。
「すみません。即刻洗浄します」
 一秒前にコーヒーまみれだった僕は洗浄機の水圧で水浸しになった。
「ありがとう、EOU……できれば、タオルを貰えるかな」
「どうぞ」
「一枚でいいよ」
「怒っていますか? その場合、航行に影響を及ぼす場合があります」
「…………」
「……俺たち友達だろ?」
「それを今きみが言うのは確実に違うよ」
 僕とこの直方体クソアホコンピューターEOUを乗せた宇宙船「セイラー」は、宇宙飛行士の身体的負担を鑑みて、わざわざ重力を発生させている。無重力中で長期間過ごすと筋肉が衰えて地球に帰ると自力で立てなくなってしまうか、そういう衰えを防ぐためだ。おかげで、僕はテーブルの上で暖かい朝食を食べることが出来る。十数年前までは、宇宙食の味はともかく、無重力のせいで机で食べることさえ出来なかった。だから、吹っ飛んできたマグカップは、地球上と同じような軌道を描いて僕全体に満遍なくコーヒーの香りを纏わせ、洗浄機の素晴らしい水圧もまた、減速することなく僕を溺れかけさせた。
「今日で地球を経ってから何日になる」
「5381日目です」
「709番目の素数だ。709は127番目の素数で、127は31番目の素数、31は11番目の素数。記念日ってことにしようか」
 ボリス計画──僕の祖国が計画し、僕が選定された超長期有人探査航行計画。僕は前々からこんな無骨な鉄筒が宇宙「船」などと宣うのはおかしいと主張していたが、この計画ばかりは違う。十六年という時間と莫大な費用をかけてこの船が目指す地は、太陽系の果て、海王星──太陽系第八惑星、質量・直径ともに巨大なガス惑星。希薄な輪を持ち、大気中の微量なメタンによって美しい青色を呈する。月・火星ならまだしも、軍事的利用などされようもないこの星への有人探査は当然ながら初の試みだ。まさしく新天地への航海。公海を遠く離れ、後悔は口外せず、祖国の天才たちの描く海図を羅針盤にして征くは未開の地──これほど名誉なことはない。一昨年天王星の横を通過したので、来年には海王星にたどり着く。
「記念日ですか。ケーキを作りましょうか?」
「いいね。ショートケーキでお願いしようかな」
 EOUの重心付近が徐に開閉して、どこに仕舞っていたのか可愛らしいショートケーキを排出する。気色悪い。
「トッピングをどうぞ」
「トッピングでか~」
 EOUから白薔薇が茎ごと射出されて、ケーキに突き刺さる。怪盗の予告状ってこんな感じなんだろうな。勢いでケーキは半壊してテーブルに吹き付けられたが、白いテーブルに撒き散らされた生クリームはつまんない現代アートみたいで満足した。掃除するの僕だけど。
「白い薔薇ね」
「ロマンチックでしたか?」
「そうだね。父を思い出す」
 今でも父の命日に花を供えている。
 父は病弱で早世した。入院していることも多かった父との思い出は少ない。
 けれどあの日、父と行った天体観測だけは鮮明に覚えている。

 風のない夜だった。夕飯のシチューは、弟が駄々をこねるから人参が小さかった。
「父さん、どこに行くの」
「星を見に行くんだ。山の中だよ。寒いからこれも着ていきなさい」
「こんなにいらない、暑いよ」
「寒くなる」
 こんなに父が長期間家にいるのは初めてだった。僕は雪だるまのように着込みながら、父と病院の売店以外に遊びに行くのも数える程しかなかったから、相当浮ついていた。
「パパ、僕も連れて行って」
 弟が父の袖を引いたが、父は「また今度な」と弟に笑いかけ、その申立を優しく拒んだ。
「母さんは」
「おまえとふたりで話がしたいんだ。星図は? 天体観測の必需品だ」
「全部覚えてる」
「そうか」
 父は大きな手で僕の頭を撫ぜた。その手はいつも冷たくて、あまり脂肪が付いていないせいでごつごつしていることを僕は知っていた。父の車に乗ることも久しぶりだった。黒い右ハンドルの中古車でナンバーは137。穏やかな父らしい、赤子をあやすような運転だと思った。車が止まる頃には、随分と遠い山まで走っていた。
「母さんとよくここに来たよ」
 神が手を払って作ったような開けた丘だった。
 車を降りると、空が落ちていた。星々はあまりにも近く、そのあまりの宇宙の深度と閉塞感に、息を呑む、というより息が出来なかった。夜空そのものの暗黒は重く閉じていた。宇宙は深すぎて暗いばかりで、底を測りかねる。ひときわ明るい月は、暗闇に開けた異界への門のようで恐ろしかった。
「月も星もきれいだ……明日は晴れかな」
「父さんは……星が好き? 僕は少し怖い」
「愛しているよ。きっと美しいから怖いんだ……心まで奪われてしまいそうで」
「……そうなのかな」
「恋に落ちる相手は選べない」
「父さんも?」
 見上げると、父は目を細めて星を見ていた。
「そうさ」
「僕も?」
「どうかな……おまえは賢い。賢さを隠す賢ささえある」
 僕たちを攫いそうなほど強い風が吹いた。寒そうにした僕を父は笑って抱き寄せる。父の肌は雪のように白くて、僕は父の手を握った。
「おいで、土星の輪が見える」
「本当だ。すごい」
「一説に、土星の輪は土星にぶつかって砕けた星の残骸なんだって」
「月みたい」
「自分が壊れてしまうほど心を砕いた相手に捕まったんだ。素敵だね」
「ただの依存と束縛だよ、二人とも幸せになれない」
「そんなことないさ。少なくとも父さんはそう思うよ。ねえ、こっち向いて」
 父は笑っていた。左頬のほくろの近くに、少し剃り残した髭があった。
「シューリク、ひとつだけ聞いて欲しいんだ」
 父に見つめられると、世界が僕達だけになったように思えた。
「父さんは──次の春までに死ぬ」
 だから言い訳できないほどはっきりと聞こえてしまった。父の瞳が嘘みたいに綺麗だったから、冗談でないことが分かった。
「どうして」
 それでも言わずにはいれなかった。無垢な子供みたいに馬鹿な問いだ。
「ごめんな」
 冬が必ず来るように、死は誰にでも平等に訪れる。そして死者は二度と帰らない。視界を奪う吹雪が父を攫ってしまうのを、誰一人として止めることが出来ない。
「まだ母さんにも言っていないんだ。どうか、賢いおまえに、母さんやヴァーニャを守ってほしい。約束してくれるか?」
「……嫌だよ……いなくならないで」
 母が弟を産んだ時も、僕が四〇度の高熱を出した時も、弟が車に轢かれた時だって、僕たち家族の中で一番死に近い人は父だった。予告はずっと前からされていて、それを受け入れているはずだった。
「いなくならないで」
 どうしようもないと分かっているのに、拒まずにいられなかった。素直に受け入れて限りある時間をより良くすごした方が良いと分かっている。分かっていたってどうしても出来ない。僕と父は親子だから。特に、僕が子供だから。愛がゆえに悲しみと痛みは増大して、心は閉じようとする。寒空の下で僕の頬には暖かく涙が流れた。
「泣かないで……いなくなったりしない」
「嘘吐き」
「夢で会えるよ。嘘じゃない」
 父は僕を抱きしめた。鼻水が父のコートに付いたが、僕は父の胸に縋り付いて泣いた。父はそのまま、僕の背中を嗚咽が吃逆に変わるまで軽く叩いていた。
「おまえたちは知らないだろうけど、母さんは本当は弱い人なんだ。ヴァーニャだってまだまだ子供だ……誰かが守らなきゃいけない。おまえならできるよ」
 泣きすぎて目が熱かったし、瞼が腫れて視界が狭かった。
「そんなに泣いたら目が溶けてしまうよ」
「……そんなの嫌だ」
「そうだろう。良い子だ」
 僕はティッシュで思い切り鼻をかんだ。泣き止んだだけで悲しみが無くなったわけではないけれど、母と弟のために愚図ばかりしていてはいけないという脆い使命感が、少年と青年の狭間にいた僕に生まれていたことも確かだった。それからは穏やかな時間が流れた。月の海を観察していたら父が急に歌い出したりした。下手だった。父は家の戸棚からこっそり持ってきたクッキーを取り出して得意げに笑っていた。その日、家に帰ると、僕は何年ぶりか、もしくは初めて父の布団に潜り込んで眠った。子守唄まで下手でおかしかった。
 年が明けて二週間後に父は死んだ。弟と母はひどく泣き、僕だけ平静な葬式を過ごした。
 それから数年後、僕は父の背を越した。声が変わって、父の腕時計を付けて卒業式を迎えた。母は父が死んでから数年は不安定だったけれど、僕がそうなる頃にはだんだんと元の母に戻っていっている気がした。

 その晩、昔の恋人の夢を見た。今思えば彼女は母に似ていた。
 誘われたので応じたら、それ以降付きまとわれるようになった。距離の近い人だなと思っていたけれど、直ぐにあれは告白のつもりだったのかと気付いた。母に散々恋人はいないかと言われていたし、断る理由がなかったので付きまとわれるままにしていた。傍からは「恋人」と呼ばれていた。同棲を始めたときの彼女はとても不安定で、数秒笑ったかと思えば僕を殴りつけ、落ち着いたと思ったら静かに手首を切っているなどが日常であった。ある日家に帰ると彼女は白い浴槽に深く切った手首を浸けてぐったりとしていた。僕は彼女の手首を強く握って止血を試みたが、指の隙間からは鮮血が染み出るばかりだった。困っていたら彼女の瞳が開いて、僕を見つめていた。はじまりの日と同じの熱っぽい瞳だった。だから僕は止血を諦めて、あの日と同じように指を絡めた。彼女は嬉しそうに、とても柔らかく笑った。僕が見た中で一等美しい彼女の姿は風呂場に消えた。
 彼女の葬式で「ご愁傷さま」と言われたが、恋人が死んだ男に対しての憐憫なのか、彼女に付き合わされた僕への労いなのかは分からなかった。

 部屋の太陽が点いた。
「──おはよう」
「おはようございます」
「なんで今さらあんな夢見たんだろう」
「何か特異な夢見でしたか? 報告をいただければ精神分析に役立ちます」
 テーブルの上の花瓶には白い薔薇が刺さっていた。じきに枯れるだろう。
「昔の恋人の葬式の夢」
「了解しました。精神分析の記録を行います」
 いちいち夢の申告をするのはいまいち日記を読まれているような心地があるが、これも仕事のうちであるから仕方ない。数十年前よりは改善されたとはいえ、宇宙船内の環境は乗船者に多大なストレスを与える。だから宇宙飛行士には、いかなる状況にも対応できる高いIQと深い見識、力と体力を兼ね備えた肉体、そして何よりも強靭な精神力が求められる。この計画においては特に、僕の健康観察が最重点課題となるからこういうメンタルケアの作業が増えてくる。夢というのはその人の心理や願望、健康状態が如実に現れるから、気恥しさはあれ夢を解析することは合理的だ。
僕とEOUはなんだかんだもう十四年来の相棒だ。僕達の旅は最初から終わりが決まっていて、十何年もその死臭を言葉で花咲く虚構で誤魔化している。

「君は二十年以内に死ぬ」
 余命宣告だ。だが二十年以内という幅を持たせられたら、まあそのどこかで死んでもおかしくないなと思う。父のようにあと数ヶ月ならともかく。
「君に海王星の探査をしてもらいたい」
「海王星? 月や火星でなく?」
「正真正銘史上初の海王星単独有人探査だ」
「他のクルーはいないと?」
「いらないんだ。海王星まで何年かかると思う」
「火星でさえ二年ですからね。十数年ですか」
「現段階での計算では十六年だ。……君はあと二十年で死ぬと言っただろう。つまり、」
 その逡巡で彼が何を言いたいか分かったし、なぜ言いづらそうにしているかも分かった。こんな役目をわざわざ僕の元教官にさせる上層部の神経を疑わざるを得ない。
「帰路は無いと」
 インチキどころではない。まさに奇想。こんな計画を会議にかけた挙句真剣に話し合った偉いさんがたの真面目な顔を想像すると笑えた。しかし不思議と絶望はなかった。こんな馬鹿げた話がなによりも僕の死を証明している。僕を使い潰すと本気で言っている祖国の覚悟と軽率に震えた。家族との別離よりも、祖国の狂気的な僕への期待よりも、地球から遠く離れた宇宙空間で死ねることに僕は強力に安堵していた。祖国の手でひとり、静かに、静かに、僕はひっそりと息絶える。
「本望です」
「……感謝しよう。君はこの国の誇りに、建国の礎となる」
「建国? 僕は祖国の従僕であって売国奴ではありませんが」
「この国の再建だよ。閉鎖空間のなか一人で長期間過ごすデータを取って、今度こそ崩壊しない勤勉な国家を作るんだ」
「驚いたな。上層部はそんな甲斐性のあることを考えていたんですか」
「国家ごと再建するんだ。君一人海王星に送るまでの費用くらい平気で出す」
「納得です。僕みたいな死にかけが計画に選定されるのもね。この体は祖国のものです。ご自由にお使いください」
 それから僕はやり残したことの消化のために半年の休暇をもらい、また出立準備のために半年費やした。その時に僕は初めてEOUに会い、その角張りに驚きつつ、というか当初は気持ち悪いと思っていたのだが、過ごすうちに慣れた。

「ゴールデンレコードより多い愛を囁きたいと思う」
「了解しました。記録を開始します」
 だから僕とEOUはまあまあのつうかあで、僕がこれから心中する海王星にラブレターだって書けてしまう。地球出身者で海王星に対して言葉をかけたものにゴールデンレコードがあるが、正直あんな金属板に負ける気がしない。海王星に選ばれるのは絶対に僕と宇宙船セイラーだ。祖国の偉大な宇宙飛行士はかつて『地球は青いヴェールを纏った花嫁のようだった』と喩えた。さすがこれは超えられないが、そういう素敵なことが言えたらいいと思う。
「海王星へ。きみの心までは要らない。ただきみと死にたい」
「却下です。嘘でもいいから一旦一生誓いましょう」
「嘘つくよりは誠実かと思うんだけどな」
「誠実なんてものはこの世にありません」
 恋は脳でなく心で人に触れる行為だから、繊細で複雑だ。そのうえ恋に落ちる相手は選べない。そういうわけで、恋について語るのはハードルが高い。
「ねえEOU」
「なんでしょう」
「友好度を75から90へ。秘密の話をしよう」
「アップデートしました。『秘密のおはなしモード』に変更、以降ログは送信されません」
「二時間後にデフォルトへ戻して。聞いてくれる?」
「もちろん」

 振り下ろした刹那の感触は硬い。しかしすぐ柔らかくなることに気付く。
 余命宣告後の半年間で僕は実家に帰っていた。
 そこで僕は母と弟を殺した。
 母の瞳を覗き込んで死んだことを確認すると、手に血が付いて、小さい頃母さんが編んでくれた赤い手袋はどこにやったんだっけ、と思った。小さくなって捨てた気がした。二階に上がって僕の隣の部屋の弟の部屋をノックする。
「ヴァーニャ、起きている? 入っていい?」
「いいよ」
 弟は手元の本から開いた扉に視線を移し、僕の手元に気付いて驚いていた。僕はその大きな瞳の横、こめかみを狙って、母の血が付いた弟のバットを振った。弟の口が「にいちゃん」と呼びかけているのが分かった。
 獲物を逃がさず、また苦しませず殺すには結局、一撃必殺しかない。余命宣告された身には似合わず強い腕力は健在だから、二人殺しても十分と掛からなかった。
 弟を抱えて、ショベルと大量の石灰を積んだ父の車に乗せる。最初はトランクに入れようかと思ったけど、動かない弟が暗くて狭い場所に窮屈に収まっているのがどうも違和感で、後部座席に座らせた。ショベルと石灰を助手席とトランクに置いて、母も弟の隣に座らせた。まだ昼過ぎなのだけれど、父と天体観測をした山を過ぎるまで走ってもすれ違う車はひとつもない。人の気配もろくになくて、田舎でよかったなと思った。
「着いたよ」
 呼びかけても返答はない。当然だけどなんだかしっくり来なかった。
 母と弟を埋める穴は事前に目星をつけておいて、ある程度掘ってある。そのせいで雑草は根を引きちぎられてへたばっている。山の中で穴を見つけるのは骨が折れそうだけれど、そこだけ雑草が生えていないから、たぶん分かる。土の中の母と弟の体に苔が生す。その体を虫が、鳥が食む。やがて母が母であると分かる特徴もなくなり、土塊と変わらなくなる。僕が毟った雑草が、母のいた所からまた茂るさまを想った。僕はそうして満足した。母と弟のために穴は二つ掘った。弟の分の穴が少し小さかったのが誤算だったけれど、胎児のように丸まった弟の姿はとても愛おしかった。弟を包んだ石灰はさながら羊水のようだった。その横の穴に石灰を投入して母を横たわらせるとオフィーリアの絵画のように美しく見えた。
「母さん」
 母の手を取った。母の手は乾燥していた。
「全部おぼえているよ」
 父が死んでから数年はとても不安定だったが、いまその死に顔は穏やかだった。
「母さんが僕を殴り付けている時の金切り声、そのじりじりした痛みと、口の中が切れた時の血の味、怒りと血の巡りに逆行して冷えていく心……僕がヴァーニャを庇うから、そのぶん殴られたし、母さんはもっと怒って花瓶を投げたりした」
 誰が悪かったんだろう。誰もが悪い気がするし、誰もどうしようもなかった気がする。
「母さんがどう思ってたかは知らないけど……僕は愛していたんだ、母さんのこと」
 一般的には真っ直ぐではなかったかもしれないけど、僕は愚かな子供のまま、壊れたって母をきちんと愛して、哀れんでいた。
「愛しているよ」
 さよならの代わりに母の手にキスをした。石灰と土でその形を埋めた。
「おまえも」
 その横で眠る弟の髪を撫でた。僕が大学に通うために家を離れていた間、弟は母と二人きりだった。その間に何があったかを僕は何も知らない。聞こうともしなかった。
「ごめんな」
 でも二人きりでいるうち母は随分穏やかになったように思う。母があんなに不安定になったのは僕がだんだん父に似ていったからだったのかとふと思った。弟の頬を撫でる。弟はどちらかと言えば母に似ている。
 これで母も父も弟も死んだ。僕に未練が、不安があるとすれば家族の存在だった。僕達家族は昔から貧乏だったけれど、父が死んでからの困窮は酷いものだった。でもこれで母にも弟にも安息が訪れた。僕はもう思い残すことなく祖国の手にかかることが出来る。
「愛している」
 唸り声のようなものが聞こえるから野犬か何かかと思ったら、それは自分の喉から漏れているのだった。嗚咽だった。 父の葬式も、恋人の葬式でも涙を流すことはなかった。今だって涙は出ないのに、嗚咽だけが意に反して止まらなかった。悲しいことなんてない。僕はもう未練もない。それなのに自分が殺した母と弟を前にして泣き真似だけが代謝のように行われていた。悲しくても誰のために泣けばいいのか分からない。僕達家族は誰も悪くないふりをして、ただ空虚な遠慮だけを積み上げていた。
 夕景が眩しくて、思い出したように弟の上に更に石灰を撒いて土で覆った。そのときに弟のバットも埋めた。父がクリスマスにプレゼントしていたものだった。
 日が暮れて一番星が見えた。僕は天体観測をした丘を避けて帰った。家には誰もいないし、暗くて静かだった。
 僕がそうした。
 もう家に用はなかった。夜空を見上げながら、僕はこれからこの向こうの、遠く遠くに行くんだ、とぼんやり考えていた。海王星まで十六年。着く頃には父と揃いの歳になる。

「なぜですか」
 一言で答えるのは難しいから、僕は少し空中を眺めた。
「父さんに家族を守れと言われていたから」
 僕の一生はこれに尽きるかもしれない。父の最期の祝福は呪いのように、遺伝子のように僕を縛り付けていた。その鎖を断つにはこんな手しかなかった。
「友好度を90から75に下げて」
 無力な僕が掴み損ねた父の手。僕が自ら離した母と弟の手。どちらも同じ体温だ。
「なぜ、私に話を?」
「きみには言っときたかったんだよ」
「『俺たち友達だろ?』」
「それに乗るのはちょっと癪だな。『秘密のおはなしモード』解除、仕事に戻ろう」
「ノーマルモードにスイッチ。記録を再開します」

 地球を発ってから5807日目になった。僕達は既に海王星の重力軌道上にいて、この一ヶ月間は海王星と衛星のデータを取っていた。折角だからもっと滞在していたかったが、地球の十七倍の質量を持つ海王星の強大な重力によって僕達は直に海王星に飲み込まれることになる。海王星の環は氷や岩石の類で出来ており、いつセイラーにも風穴が開いて死ぬか分からなかったが、今日まで僕達は生き延びた。この十六年間一墜落しなかったセイラーは稀代の幸運艦だ。僕やEOU、作戦本部もだが、セイラーこそが讃えられるべき英雄である。
 あと数時間で、僕達が待ち望んだ終わりが訪れる。
 僕達はこの船が海王星に飲み込まれた後も、生きている限りレポートを続ける。より長く延命するために宇宙服を着るのだが、手間がかかりすぎるなと毎回思う。ここ一ヶ月は衛星の探査のために何回も着たけれど毎回きちんと面倒くさかった。
船が大きく揺れた。いよいよ捕まってしまったようだ。
「まずい。EOU、セイラーの重力負荷設定の解除」
 刹那、船内は無重力になった。でも途端にゆっくりと重力が強くなっていく。まだ月より軽いくらいだけれど、これからどんどん強くなるんだろう。
「EOU、僕たち潰れて死ぬか嵐に吹き飛ばされて死ぬか、それとも凍死か賭けよう」
 僕が笑って言うと、EOUは少し間を置いて呟いた。
「本当は死なずに帰れたら良いのですけれどね」
 EOUからそんな言葉が出るとは思わなくて、情が移っていたのはお互い様だったのか、と吃驚した。十六年も僕達は手を取り合って孤独を分け合ってきたから、コンピュータ側も人間らしくなってしまって仕様がない。
「永遠なんてないんだよ」
 生きている間、僕たちは自分が死ぬことの証明も生き続けることの証明もできない。だから永遠はないし、未来も言ってしまえばないものと同じだ。あるものは過去と今だけ。
「いつか死ぬさ、EOU。それが今か、数年後かの違い。だから僕たちは生きなければならない。いつ死んでもいいように。美しく死ぬためには、美しく生きなければならない」
「私は、コンピュータとして相応しくない事を言いましたね。謝ります」
「いいよ。僕たちは友達だから」
 重力がだんだん強くなってきて、セイラーの重力負荷と同じくらいになった。
「青いですね。まるで地球に帰ってきたみたい」
 窓の外、というか厳密には僕たちはもう海王星の中に入っているのだが、とにかくそこは青かった。地球の海のように青く、地獄のように厳しい環境がそこにあった。
「正直きみへのラブレターは書けなかったよ。だから、引用させてもらおうかな。あなたは──青いヴェールを纏った恋人のように美しい」
 あの日僕が看取った恋人はいまどこにいるのだろう。おとぎ話のように星になったなら、意外と傍にいるのかもしれない。
 轟音が鼓膜を切り裂いた。セイラーから弾き出されていた。EOUもどこかに吹き飛んだかと思ったら、EOUに抱えられていた。なんとか首をもたげると、セイラーが飛行船のように上空を飛び、そして破断するのが見えた。
「セイラー、ありがとう。EOU」
EOUは棺桶のように変形して僕を包んだ。内部の液晶画面が外の様子を写していた。分かっていたがとても生きていられる土地ではない。
「EOU、応答せよ」
 EOUはそれきり何も返答してこなかった。僕は棺桶の中で氷と岩の嵐を眺めた。本部との通信をアナログに変更すると、短い発信音が聞こえた。セイラーにいた頃に比べてかなり通信状況は悪いけれど、僕が出来ることは少なかった。所見をひとしきり伝えながら、EOUの外装が剥がれてきているのが分かった。棺桶の沈黙が破られようとしている。
「父さん」
 画面が乱れ始め、そのうちブラックアウトした。
「昔々、母さんは、父さんのことを星になったと言ったんだ。初めて海王星の写真を見た時、父さんを、父さんの瞳を思い出したよ。父さん、見えている? 僕が分かる? 言うのが遅くなってごめん、待たせてごめん──愛しているよ」
 致命的な音がして、棺桶は完全に砕け散った。僕を守るものはこの宇宙服だけになった。
「父さん、僕は──皆がなんで一度見たものを覚えられないのかが分からなかった。そして、皆より多くのことを覚えているのに、皆が持っているものは僕も持っているはずなのに、どうしてか僕の中身は空っぽなんだ」
 ヘルメットにヒビが入った。視界が白んだ瞬間に家族の姿が見えた気がしたけれど、ただのホワイトアウトだったかもしれない。重力の時間の遅れのせいか、僕は身動きひとつ取れないまま、かなり長い間その状態でいて、やっと意識を手放した。

 地上では、その偉大な宇宙飛行士のレポートを作戦本部が待ち続けていた。しかし彼が宇宙船から投げ出された後の一連の報告が届くことはなかった。海王星の磁場による影響と見られている。

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