ただ、何者かになりたくて。その1

 アザ、ただアザが在る。今思えばただそれだけのことなのに、僕はそのアザに振り回され、心の奥深くまでアザに蝕まれていた。アザを中心に僕の世界は回っていた。周囲からのアザを嘲笑うかのような視線に、僕はいつもビクビクしていた。まるで得体の知れないものを見るような周りの反応に、僕は人とは違うんだと、物心つくころにはそう思い至り、悩み、葛藤した。
 今ではユニークフェイスとか、見た目問題とか、容貌障害とか、僕自身を指し示す言葉はたくさんあって、それこそニュースに取り上げられたり、本が出版されたりしている。でも幼いころから僕が大学生になる2013年まで、そんな言葉があるなんて全く思いもしなかった。言葉を知らず、他者からの攻撃に晒され、僕は疲弊しきっていた。
 僕は一体なんなんだろう?そんな自分の存在を問うていた。そして、自分という存在を社会から常に問われていた。直径2.5cmの口元の黒アザ。そのアザが在るというだけで、僕は社会の周縁へ追いやられた。家を一歩踏み出せば、周囲には敵がいる。そう思い込んでいた。それほどまでにアザは僕の心を蝕んでいた。差し伸ばされた手、言葉すら、僕にはもう届かなかった。わかっていないと切り捨てた。
 大学に入学して、あるきっかけで単純性血管腫をもつ石井政之さんの『顔面漂流記』という本を手に取った。読み進めるうちに、いつの間にか釘づけになった。心を深くえぐられたかと思えば、僕以外にもアザをもった人がいたのかという妙な安堵感に包まれた。陳腐な表現になるけど、それは衝撃的な読書体験だった。それからというもの片っ端から石井さんの本を読み漁った。石井さんの本から海綿状血管腫をもつ藤井輝明さんという人の存在も知り、藤井さんの本も読み漁った。このお二人、特に石井さんは今でも僕の中でレジェンドのような存在だ。
 そう、レジェンド。それは眩しくて遠い存在に近い感覚。本の記述に、ある程度共感できても、お二人は僕の代弁者でもなんでもないのだ。僕自身の言葉を紡ごう。この社会に僕の思いの丈を、爪痕を残そう。生きた証を記そう。言葉を紡ぐ、それは僕がやっと「何者かになる」ことのだと。そう信じて、ただ紡ごう。

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