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完全な受容〜自閉息子2歳、定型娘0歳〜

そらが2歳過ぎた頃、保育園が始まった。
その頃の私は、妊娠6ヶ月。
初めての母子分離で、当たり前に毎日そらは泣いて保育園に行っていたが、保育園の先生が言うには、バイバイしたら1分もしないうちに泣き止んでいたらしい。

保育園でのそらは、特定の先生以外には寄っていかず、ほとんどの時間を一人でおもちゃで遊んで過ごしているようだった。
だが、遊ぶ時間に遊び、給食は完食し、お昼寝は布団を敷けばすぐに寝るルーティンはすぐに完成したらしく、私としてはそれだけでもかなり頼もしく感じた。

だが、イレギュラーにはとことん弱かった。

保育園が始まって3ヶ月が経ったころ、保育園で夏祭りのイベントがあったのだが、浴衣の先生達、装飾された園内、いつもはいない保護者がわんさかというイレギュラーな状況に、そらは一人ずっと泣いていた。
先生達が、心配そうにきてくれたのだが、私も主人も、ヒートアップしていくそらの号泣にそれどころではなく、開始1時間もしないうちに早々と退散することにした。
園を出た瞬間、そらは泣き止み落ち着きを取り戻したので、私も主人も、より一層ぐったりしてしまった。

こんな出来事が多々ありながら、初登園からの4ヶ月はあっという間に過ぎ、ホシ出産の日がやってきた。

そらの時もそうだが、ホシ出産も里帰りしなかった。
予定帝王切開での出産だったので、入院の10日間は義母が来てくれ、退院後の1週間は母が来てくれた。

そらと離れるのが寂しくて寂しくて、入院1ヶ月前から夜になるとシクシク泣いていた私だが、出産日前日からの入院で物理的に離れると、これから生まれてくるホシと会えるのが楽しみで楽しみで仕方なかった。

そらの事ばかりで、お腹の中のホシには随分無理をさせた事もあったが、ホシは物凄く立派な泣き声で産まれてきてくれた。

2人目の余裕なのか、ホシとの入院生活は穏やかそのものだった。
ただただ可愛くて仕方なかった。

そらの事は心配ではあったが、義母と主人がいるので安心して任せる事ができた。

退院後、家での生活が始まったのだが、入院中にそらがパパ大好きになり、そらの育児がかなり楽になったな〜とか、ホシは赤ちゃんなのにずっと私を探してくれるな〜等、ほのぼのした事を感じていた。

そんなお気楽な2人育児から5ヶ月経った頃、ホシが私に対して喃語を言う姿が見られるようになった。
月齢通りはじまった喃語に衝撃をうけた。

ホシは喃語をコミュニケーションとして使い始め、その後、顔を隠して「バァー」と言ったり、名前を呼べば「ハイ!」と言ったり、「パパ」「ママ」「ちょうだい」「バイバイ」等、何を最初に話し始めたのか分からないぐらい、どんどん言葉を習得していった。
それだけではなく、「あ!」と言って指差しを始めたり、私のマネをしたり、1歳前なのに当たり前にコミュニケーションがとれる事で、私は、そらが完全に自閉症である事を完膚なきまでに思い知らされた。

そして、これまでそらの発育に悩み、こっちを見なくてもたくさん話しかけたり、色んな本を聞いてなくても読んでみたり、私を見るタイミングを逃したくなくて見つめ続けたり、コミュニケーションをとるために工夫してチャレンジしてきた日々は、人並み以上に頑張ってきたんだと、過去の自分を大いに褒めてあげれるようになった。

だって、私はホシに対して特別な何かをしていたわけではないんだから。

(そうか・・・これが所謂、普通なんだ)と実感した。

それを知ることができた事で、そらに対して、(私の育児能力が足りないんじゃないか)(もっと話しかけなきゃいけないんじゃないか)(1人遊びをやめさせて一緒に遊ぶべきだったんじゃないか)(でも・・・)(だって・・・)と、常に付き纏っていた私の中の後悔や言い訳は、ホシを育てる中で完全に消えた。

そして、私はそらを1人の自閉症の人間として完全に受容できた事で、障害児の親になる覚悟も同時に決めることができた。
そらの全てを認めて受け入れ、更に愛する事ができたのだ。

ホシのおかげでそらの障害を完全に受容できた私は、自閉症の療育についてこれまで以上にかなり深く追求していくことになるのだが、それについては、次回の“そら2歳後半から始まった他害と定型育児の凄まじさ”の記事と合わせて書かせていただきたいと思う。


※もしかすると、定型育児は楽だと捉えられてしまうかもしれないが、全く違います。
次回書かせていただきます。

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