コーヒーが冷めないうちに
仕事柄、予定されていた仕事がリスケになることがたまさかある。
そういった突如生まれる休日を私は好きな喫茶店で過ごすことがある。
毎回ではない。それもたまに。
というよりその時間を必要としたときに行く。
独りになりたい、距離を保って社会を見たいとき、新たな発想を巡らせたい、美味しい珈琲が飲みたい、など。
今日はまだ途中で気が進まない一冊の本を携えてお馴染みの喫茶店に行った。
煙草の吸える喫茶店は無くならないでくれ。
喫煙者だからなのもあるが、あの匂いや煙の色がかつて当たり前だった日常と自分が"そこ"にいる実感を与えてくれる。
そういう無機質で受動と能動のシーソーがない存在や感覚は消えないで欲しい。
家族経営の喫茶、老夫婦と若い夫婦二世代4人で営むお店。黙々とオーダーのコーヒーを丁寧に淹れるお父さんとキッチンで食事を用意するお母さん。フロアで対応をする娘さんとその旦那さん。バランスも雰囲気も味も賑わいも素晴らしい。そして一番は形容しがたい居心地の良さ。良い店は客が誘われるのだろう。納得である。
店に入り座るとすぐアイスコーヒーを注文。
提供も早い。丁寧にミルクと砂糖まで付けて。
いつも使わず、静かに片付けてくれるのが申し訳ないから加えて「いらないです」と言う。
旦那さんはニコリとすると会釈をするだけ。
本を開く。
栞の挿してあるページはいつぞやの記憶で止まっており、普段から読書をしない人間の位置で姿を見せる。
しかしキリが良いところで終えてたみたいで、次の章の始まりからの再読。
アイスコーヒーが減っていくのを横目に読む。面白くてすいすい進む。物語が進展する手前でやめていたらそりゃ気が進まないに決まってる。
※「華氏451度」はディストピアSF小説で、本が禁じられた世界(近未来)で、本を燃やす”昇火士“として働く主人公がとある少女と本に触れたことで変化が現れ物語が進んでいく。
氷だけを啜る音がしたとき、ホットコーヒーを頼む。
これも提供が早い。今度は把握してくれてミルクと砂糖は無い。
コーヒーはホットの方が好き。夏でも飲む。
熱いのが好きなのではなくどこかホッとする穏やかさが好き。流石に今年はアイスが多かったが。
ホットコーヒーを飲めばまた読書が捗る。
そして、次章のタイトルまで来たら読むのをやめた。
読書のために居座る罪悪感からコーヒー1杯では粘らない(お店への感謝もある)が、回転率など考えると居るにはせいぜいな時間は経った。
お会計を済ませて店を出る。
外はすっかり日が落ちるのが早くなって、街が顔を変えるのを教えてくれる。
繁華街のど真ん中に店があるのもお気に入りの理由。
人々と街と季節と匂いと表と裏と自分と。
臭くても見るべきでなくても五感を大切にしたい。それを退けたら人間として終わりだよ。
今日もカメラを持つのを忘れた。失格である。
ただ、瞼をシャッターにして写真を撮るように世の中を見るのが好き。
だからカメラを持ってないとき悔しい。
でもその方が脳というSSDにデータを記録するようでフォーカスを覗くときよりビジュアルで記憶に残るような気がする。気がするだけ。
インドアだから定期的に外へ無闇に繰り出さないと腐る。マインドセット、自分と世界の座標を計り直す。そうすると新しい発見や変化をその都度察知して清々しくなる。鼻から息を吸って全身に空気が行き渡るの感じるときみたいに。
だからシチュエーションとしても拠点となるこの喫茶店は無くてはならない。
珈琲はいつも美味しい。次回は敢えて腹を空かせてナポリタンを食べてみようかな。
たぶん食べないけど。
また行くときには読んでる本がが変わってないとな...
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?