【随筆】続けるという法


体が限界を迎えるというのは、どんなものでもある。


例えば、好きな食べ物であっても無限に食べることは出来ないし、好きな映画を何回も連続で見続けることも苦痛になるだろう。
逆に、嫌いな食べ物を食べていれば段々と食べれるようになるかもしれない。苦手なホラーも、何回も見れば怖くなくなるだろう。

「繰り返し、続ける」というのは何かに対する嗜好や思考を反転させる…ことがある。


僕は満員電車に乗れない。厳密には「乗りたくない」だけど、それを覆すことができる時にしか乗れない。例えば、デートに遅れそうな時には一番早い手段で行こうとするから、満員電車だろうが何だろうがその電車に乗るだろう。一方で、大学の講義に行くときは、遅刻しそうであっても卒業に影響しないのであれば満員電車には「乗らない」だろう。そういうものだけれども、そういうものでも無いのかもしれない。例えば、大学1年の前期だったら、なるべく遅刻しないようにとかなるべく単位を落とさないようにとか思うのかもしれない。そのうち、”生活”に慣れてくるとその閾値のようなものが下がって来て、めんどくさくなってくるのだ。デートだって、付き合った当初は遅刻しなくても…。


中学生くらいから「学校」という教育機関が異常な環境だと認識していた。そうして僕は「通学」という文脈で、満員電車に乗るという「無理」を出来なくなっていた。シンプルに行きたくないのだ。「行きたくない」という前提に対して「行かなくてはならない」という法を自身に暗示する。その上で「行く」という行動を選択するのだけれど、その法による自己暗示という動機では無理は出来なかった。というよりも、そもそも自己暗示できていなかったのかもしれない。


満員電車は異常だ。あの環境が異常かどうか判断に悩むのであれば、あなたの思考も既に異常な状態だと思う。じゃあ何が正常かというと、それは答えられない。

正常というのは、思い込みだ。だから、「正常とは」というのは考えなくていい。「正常かどうか」よりも「異常かどうか」を気にすることで、正常化は果たされる。だって「正常だと判断する」というのは「普通」ということであり、それは思い込みだということだ。


普通とか、日常というのは、「繰り返し、続ける」ことによって形成されたもので、それは嗜好や思考の影響を超越出来てしまう現象を伴い形成されている。そんなものを「正常」だと捉えることは、結構危ういのだと思う。


なんでこんなことを書いているのか良く分からない…



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