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過剰適応の患者はヨルシカ「思想犯」のPVに注意したほうがいい

過剰適応と仮面

この記事の背景として、筆者が過剰適応から鬱になったという事実がある。

花は置かれた場所で咲きます。同じように、人は置かれた環境に適応しようとします。環境に上手く適応できているのが健全な状態です。ただ、環境に適応しきれないことも当然あり、これが不適応です。一方、環境に自らを適応させすぎることもあり、これが過剰適応です。

過剰適応の人間は、自分を環境に無理やり合わせるべく、無意識に自分の仮面というのを作ってしまっている。仮面を被った自分を演じることでその場を乗り切り、他人にはその仮面を自分として認識してもらう。仮面を演じている間は、自分ではない誰かとして振舞えるから楽であるが、やがて仮面の下にある自分がいったい何者なのか分からなくなってくる。

以上を踏まえて、ヨルシカ「思想犯」のPVを見ていただきたい。ただし、自らが過剰適応の気があると自覚している方は見ないことをお勧めする。

問題のPV

ヨルシカは音楽だけにとどまらず物語や小説などを使って多面的・メタ的な表現を行うグループであるため、ここでこの作品の全てを語りつくすことはできない。この曲についても既に多くのファンが考察を残しているであろう。発表されて一年以上経ったそんな曲を一から説明することは野暮でしかないので、音楽や歌詞・背景については既存の記事に譲ることにする。ここでは専らPVの映像について、過剰適応の人間がこれを見たらどうなるか、という視点に限定した言及をしようと思う。


ただならぬ窮屈さ

まず特徴として、このPVはアスペクト比が異常である。YouTubeのバグかと疑うほどに横にクソ長い。実際に測ったわけではないが、ヨコがタテの6倍はあるんじゃなかろうか。ともかく、動画を開いた時点で私はただならぬ窮屈さを覚えた。

思うに、これは仮面を被った時の視界の狭さの表現である。動画に登場する男は仮面を被っており、その仮面の奥を確認することはできない。このPVが映し出しているのは、仮面を被ったこの男の視界なのである。

次に衝撃的なシーンがある。曲の中盤、男は自分の仮面を外そうとする。しかし少しの力ではびくともしない。そこで立ち上がり、全身に力を込めて、両手で仮面を剥がしにいく。血のようなものを滴らせながら、やっとのことで仮面が外れる――

――しかし男は自分が別の仮面を被っていることに気づく! 再びそれを剥がす。別の仮面が下にある。それをまた剥がす。その下にも仮面がある。剥がす、剥がす、剥がす。部屋には剥がされた仮面が散らばっていく。剥がしてもだめなら叩き割ってしまおうと、男は灰皿を手に取り、自分の仮面の額を叩き始める。目一杯の力で繰り返し叩き続ける。しかし遂に仮面を割ることは叶わず、六度目の強打の後、男はばたりとソファに倒れこむ。

正直に言おう。

このシーンは本当に死ぬほど気持ち悪い!!

私は異常なアスペクト比の時点で感じていた気分の悪さの正体を確信した。これは自分が過剰適応で作り出した仮面が剥がせない窮屈さそのものである。自分はこういう人間なんだ。他人だけでなく自分に対してすら自己暗示をかけ、被った仮面を自分自身だと思い込もうとする。過剰適応になるのはそういうストイックな人間である。しかし仮面を被る日々を続ければ自分と仮面の間の乖離はどんどん大きくなっていき、いつしかそれは自分ではない何かになってしまう。人々は仮面を被った自分を本物と認識し、世の中に仮面を外した自分の居場所はなくなる。そうなった頃にはもう手遅れだ。どんなに頑張ってもその仮面は剝がれない! どんな行動をしたって、どんな演技をしたって、それは仮面を被った自分にしかならない。

PVの流れからして、この男もまた作家として仮面を演じる自分とその下の自分との齟齬に苦悩して仮面を剥がそうとしており、そして失敗している。一連の男の行動を通して、このPVは、過剰適応の患者が普段うっすらと感じている違和感を目に見える形でまざまざと見せつけくる。無意識下で感じていた窮屈さを的確に掘り起こしてくる。拭えない掻痒感を否応なく搔き立ててくる。これは過剰適応の患者に対し致命傷を与える凶器なのだ。

私はこの曲が好きだ。何度も繰り返し聴いている。だがPVを直視することだけはできない。一度PV見てしまった私は三日三晩自分が何か見えない膜のようなもので覆われている気がして、自分の視界が何か狭いもので制限されている気がして、それを剥がそうとして何度も肌を搔き毟って肉をむき出しにしてやろうかと思った。いまでも思い出すと瞼に指をかけて引きちぎりたくなる。これほどの衝動を一本の動画から与えられたことはかつて一度もなかった。

もし貴方に過剰適応の自覚があり、このPVを見ようとするのなら、本当に注意した方がいい。一生払えぬ呪いをかけられる可能性がある。


おわりに

私事だが、通っていた神経科の主治医に勧められ、先日初めてカウンセリングなるものを受けた。相談内容は主に自殺願望についてであった。私の生き辛さはどこから来ているのかという話になった。去年うつ病の診断を受けて以降分かり切っていたことだが、やはりそれは私が被っている仮面だった。

カウンセリングの先生は言った。

その仮面のおかげで君が得たものはたくさんあったのではないのか? 優等生という仮面を被る。私は友達を作るのが上手だという仮面を被る。自分は数学が得意だという仮面を被る。自分はこの大学に合格する能力があるという仮面を被る。そうして今の君があるのではないか? 私は解決策を提示することはできない。だがこれは、仮面が自分を苦しめるなら仮面を取ってしまえばいいという簡単な話ではないと思う。

結局、その日に結論は出なかった。話の続きは来年またすることになった。

カウンセリング室を後にしながら、私は「思想犯」のPVのラストを思い出していた。仮面を剥がす試みにくたびれた男は、ソファに居直っていた。そして床に転がっていた、もともと自分がつけていた仮面を拾い上げ――

――それを再び被るのだった。


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